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山田風太郎の『妖説忠臣蔵』読了。
遥か昔に買ったまま放置していたわけだが、八犬伝を見て思い出したので本棚の深淵から引きずり出して読んだ。
一読、なぜ放置していたかも思い出した。
昭和30年代の山田風太郎の小説は下手くそなのだ。アイディア走って筆走らず、説明へたでリズムも悪い。というわけで捨て置いたのであった。
が、そこを無視して読み進めれば一読三嘆、既にこの頃から虚実のボーダーを突き進む孤高の人の姿あり。
結局、プログラミングでもなんでもそうだが、量は力なのだ。昭和30年代後半から忍法帖が時流に乗って書き飛ばし書きまくった量のおかげで、明治伝奇から室町婆娑羅の見事な文章へと転化したのだろう。
それはさておき、文章は下手でも小説としては実におもしろい。
吉良家一の剣術使いの清水一学に三平とお軽の姉を配して東海道の追いかけっこを描く『赤穂飛脚』(いささか長過ぎるというか、文章が下手で冗長なので長く感じる)。が、清水一学の漢っぷりが実に気持ち良いし、配するお軽の姉、海燕のお銀の伝法っぷりも実に良い作品。
続く『殺人蔵』ではうって変わって陰惨きわまりない大石内蔵助のサイコパスっぷりを、若き遠山金四郎の目を通して描き出す。これは傑作だが、ただ、上を見ろ上を、と声をかけたくなる。
そして恐るべき『蟲臣蔵』。不義士田中貞四郎(実に山田風太郎好みのキャラクターである)が、大石内蔵助のサイコパスっぷりに当てられて梅毒地獄に落ちていく。
あまりの義士たちの困窮っぷりに怒った田中貞四郎は、京の都で遊興の限りを尽くす大石内蔵助に直談判に乗り込む。そこでへらへらと義士討ち入りのプロモーション戦略を延々と聞かされた挙句に、「お前、金が足りないのか? ほらこれでどうだ」と小判をじゃらじゃら渡されて張り詰めた糸が切れてしまった上に、江戸へ戻ると許嫁は吉原へ身売りした結果が太夫に上り詰めてそれなりの高い位置にいるのを見てしまう。かくして不義士田中貞四郎が誕生する。
が、最後まで山田風太郎は容赦がない。田中貞四郎にとどめのように義士の快挙を目撃させる。
続く『俺も四十七士』では47士の名簿にはいるが、誰も語ることがない貝賀弥左衛門を取り上げて、女傑女房のひとあばれをからめて(ここも見せ場は女房のほうだ)、最後まで無視された存在として腹を切らせてしまう(というか、切るのは当然なのだが)。
最後に『生きている上野介』で、討ち入りに加わらなかった元赤穂藩士の後日談。実に嫌味きわまりなく、これまた山田風太郎節でおもしろい。
7作品収録の出版社版と、本人選択の5作品版があって、読んだのは5作品版のほう。
山田風太郎はすごいのだ。
本邦最初の総天然色長編マンガ映画と銘打っている『白蛇伝』を観た。確か父親が母親と見に行ったというようなことを聞かされた覚えがあるから生まれる前の作品でこれが初見。
予告編と東映社長(当時、株主向けとしか思えない国際的競争力の話をする)の挨拶の後に本編が始まるが最初は影絵調ののんびりした昔話だが我慢しているとアニメ(当時は「マンガ映画」と社長が呼んでいて、でもスタジオにはAnimationとあって妙な外来語よりもカタカナ使っても日本語(マンガは漫画の異表記)を使う筋が気持ち良い)になる。
物語は牡丹燈籠と人魚姫の合成みたいだが落着させ方の捻りがおもしろい。妖精にとっての罰とは。
スタッフのクレジットでは大塚康生が目立って(知っている名前だからかも)、なるほどパンダコパンダっぽいパンダとレッサーパンダが大活躍してかわいい。何しろ、飼い主というか親分というかを探してはるばる蘇州(なぜ蘇州? というとおそらく日本人に馴染み深いからではなかろうか)まで旅する。
パンダの名前がパンダなのはともかくレッサーパンダがやたらと痩せていてほとんどカワウソみたいで(名前もメーメーみたいな妙な名前だ)存在は知っていても見たことないだったのだろう。当時はかんかんらんらん前なので日本人でパンダを観たことがあるのは、よほど深中国へ潜り込んだスパイ(というよりも間諜)くらいしかいないのではないか? と思った。パンダも妙に小さくて可愛い(が、街のちんぴら大将の豚をやっつける凄まじい打たれ強さがあったり)。
驚くのは宮城まり子と森繁久彌が声色変えまくって、たった2人で全部こなしているところだ。なぜか2人とも東宝なので、東映はよほど人材不足なのか、それともマンガ映画とかやってられるかと俳優部門に蹴られたのか謎だ。ちょっと3人で13人分こなすソーイングビーを思った。日本昔ばなしもそうか。
まあまあおもしろかった。
アマゾンプライムの無料期間が終わるからアキカウリスマキの観たことないやつ見まくろうと妻が言うので、一緒に観まくった。
まずカラマリユニオン(1985)。
まだ桜ケ丘にユーロスペースがあった頃に大特集があったので、なんとなくそのときに観たような記憶(題名がユニークだし)があったのだが、見始めたら完全に初見だった。
酒場だかレストランだかに男たちが集まって、差別され虐げられている現状を打破するために街の反対側への長く危険な旅に出ようと決める。
街の反対側? というところで、既におかしい。
荒れ果てた道路を男たちが進むが大通りを挟むと唐突にきれいな道になる。
地下鉄の駅に行くと天井が自然洞窟のようになっていておかしい。
どうもアルファビルを観たアキカウリスマキが同じような映画を撮りたくなったのではないか? と思いながら観ていくと、地下鉄を乗っ取ってまともな地下鉄の駅に着く。そのときジャックして縛り付けておいた運転手が縄を解いて出るやいなや運転手をやった男を撃ち殺す。
確かに危険な旅のようだ。
その後の最初の集会でどうやら全員名前がフランクだということがわかる。それにしてもいつものカウリスマキ映画の人々だがペロンパー(ひげが特徴)とペロンパーの親父(ではないが年を取ったペロンパーというかひげが同じ)、無表情ながっちり男(ホテルの前の鞄を盗んでホテルに泊まる)とかがてんでばらばらに街を荒らしながら反対側への決死の脱出行が始まる。一人、二人と殺されたり脱落したりする。大脱走みたいだな。
中米のゲリラ戦を戦ってきた男(フランクとは名乗らなかった、ペッペみたいな名前)の妙な英語ギャグがおもしろい。
驚くべきことに全編映画そのものでおもしろいことこのうえない。ただ、一か所リーダー役(最初に演説をかます)フランクが、本がいっぱいある部屋で回顧録を口述筆記させている(のだか、なんだかわからん)シーンは退屈だった。もしかすると抜群の話術と脚本(台詞)の妙技が披露されているのかも知れないが、それはわからない。
最後、小舟で二人が河を渡ろうとするが発砲音が聞こえる。
続けてハムレット・ゴーズ・ビジネス(1987)
ハムレット・ゴーズ・ビジネス (字幕版)(アキ・カウリスマキ)
完全に初見だが、なんとなく罪と罰のようにまじめな文芸映画を撮ったのかな? とクローディアス(クラウンと称する)による父王の毒殺シーンから始まる。
が、どうも違う。ハムレットが実にナンパ野郎なのだ。でオフィーリアがいつものカティ・オウティネン。二人のシーンで悲愴。
が、部分部分はまごうことなきハムレットなのだった。父王の亡霊とは塀の上(砦の回廊でなければ確かに塀になる道理だ)で会う。
レアチーズがおれのオフィスはトイレの前だから変えてくれ、OKの後のオフィーリアと別れてくれ、お前のオフィスはクローゼットにすると、妙にハムレットが強い。
ホレーショはどうも運転手らしい(シレだかホシだかという名前)。が、その恋人にハムレットはちょっかいを出しまくる。
しかも重役会議を盗聴して、ここぞとばかりにクラウスに打撃を食らわす。
母親との会話中に曲者が衣装箪笥に隠れていることに気付きハムレットが扉越しに撃つとポローニアス。寝室に男を入れるな、それが親父への供養だ、とハムレットは吐き捨てて去る。
と、基本線はシェークスピア通りに順調にレアチーズとオフィーリアの親父を殺す。
オフィーリアは睡眠薬をがばがば飲んでバスタブで溺れ死ぬ。まあ、水に浮かぶ必要はあると思ったのだな。
英国へ逃げようとするハムレットにクラウスの部下が襲い掛かる。が、あっけなく返り討ちにあう。このハムレットは強いのだ。
いったい、レアチーズとハムレット、クローディアス、ガートルドの皆死んでしまうのはどうするのかと思ったら、まずクラウスが仕込んだ毒入り鶏腿をガートルドがつまみ食いして死ぬ。まあ、本家通りと言えなくはないか。
続けてレアチーズが襲い掛かるのをあっという間にテレビ男に変えて始末して(ここは抜群)、射撃が下手なクラウスをあっけなく撃ち殺す。
このあたりのスピード感と間の取り方構図と人物の入れ替え(鶏肉のところとか)はカウリスマキの本領が大発揮で最高だ。
と、シェークスピア通りに脚本は進み、最後、ホレーショが生き残る。
最高だった。
この後は、妻が観ていないというので、まず白い花びら(1999)を再見。
しかしなんで唐突にこれ作ったのだろう? ドライヤーの回顧展か何かで観まくったカウリスマキが自分もドライヤーみたいに撮ってみようと思ったのかな? とか話し合う。
後で妻が調べて、フィンランドでは金色夜叉のように何度も映画化された国民的メロドラマだと教えてくれた。
斧を取ってから撃たれても(少し心臓を外していることはしっかり描写している)迫って来るおっかなさは記憶の通りだったが、いちいち花を踏み、蝶を踏みにじって殺すようなシュメイッカの性格描写はまったく記憶から消えていた。
ユハが赤ん坊を窓から投げて殺そうとするのを、父親はあんただよとか言われて思いとどまるのは、初めて気づいた。とにかく演出が実に細かい。
で、街のあかり(2006)。
これもおれは観ているが妻は観ていなかった。
トスカだ。この作品はチャイコフスキーではなくプッチーニなのだな。ラ・ボエームでプッチーニを排したとか言っていたような記憶があるが、そうは言っても聴きまくってしまったのかも知れない。
それにしても、あまりにも頭が悪い主人公過ぎて、負け犬にもほどがあるだろうと思うのだが、それ以上にホットドッグ屋の主人がガールフレンドとのデートだったと嬉しそうな主人公に閉店を告げ、警備会社の裏口で待ち(まさにそのときに泥棒が入る)、手紙を書きまくり、妙にけなげなのが映画っぽい。
一週間水をもらえなかった犬と、なぜかその犬の面倒を見ている少年のことは忘れていた。
最後、手を握り返したように見えたので(初見時は気付かなかったのだろうか)、必ずしも不幸で終わったわけではないのかも知れない。
今回の指揮のトマーシュ・ネトピルは序曲から良い感じ。特にフーガに入るところが絶妙で期待が高まる。とはいえ、やはり1幕は退屈だ。
一方、前回と同じく、ザラストログループ(今回は前の新自由主義者の巣窟というよりも、アカデミアっぽく感じたので悪い印象が薄れた)のパートが抜群。
また前回同様に、パパゲーノがいまいち違う感じがして、特にパパパがどうにも盛り上がらない(ここがこの劇で一番好きなシーンなのだが、この演出では、炎と水の試練の入り口のパミーナとタミーノの和解が一番の盛り上がりとなり、しかも抜群に良い)。
結局、演出の構造からパパゲーノグループはザラストログループの手の上で踊らされている感が強過ぎるのが、音楽にも反映されているとしか思えない。あと、このパパゲーノは笛(タミーノと違って自分で吹いている)と歌の間合いの取り方のせいか、最後の音が最後まで持ち上がらないのが、歯切れの悪さを助長している。
夜の女王は最初のほうは微妙だが、最後のザラストロトロトロの歌は堪能した。
あと3人の童子がとても良かった。この3人は一体なんなのだろう? あくまでも中立な立場で人に優しくする役回りなのだが、生まれてこなかった子供たちなのかなぁ。
島田さんが訳された『ソフトウェアアーキテクトのための意思決定術 リーダーシップ/技術/プロダクトマネジメントの活用』が上梓されて、いきなりアマゾンのベストセラー1位(ジャンルでだが)になっていて目出度い。
レビューを手伝って物理本を貰えたので、以下に紹介する。
原著者はスリナス・ペレラ(と読むのか?)という感じなので、インドの人なのだと思う。
だからというわけでもないだろうが、(米国の教科書的なやつで)ドグマとなっていることでもゼロベースで異を唱えられるのだと思うが、そうそうそうだよ! というようなこともたくさん出て来る。
とても良い。
本書の主張は、ソフトウェアアーキテクトは問題について正しく判断して方向を決めろ、ということだ。特定の技術、ベストプラクティスを偏愛するのではなく、その時その時の問題に合わせて自問自答することで、最適な方策を考えろということ。
したがって、適用可能な技術やベストプラクティスに対する知識は大前提となる。また、それらを並べたり、特定のものを推す本は多い。
しかし本書の主眼はベストプラクティスを並べたり、説明することではない。その点が、本書をして類書とは全く異なるアスペクトの提供を可能としてい。
本書の1章で説明しているが、5つの質問と7つの原則を元に、ゼロベースで(知識ではなく直面する問題領域に対して)適切な判断を行うにはどうすべきかの方法論(書名に合わせれば「術」)を説明する。
この、ベストプラクティスなり技術なりを適用するための思考過程を分解して整理した点が本書の極めて優れた点だ。
2章では1章で示した5つの質問と7つの原則を詳説する。これが「術」の内容となる。章末に2つのサンプルを使って簡単な適用を示している。
ここまで読むと、本書の価値がはっきりとする。筆者はよくよく経験を積み、自分の方法をうまく形式化して、それを書籍としてまとめたのだ。このため、カタログ的にベストプラクティスを並べて素っ気ない適用対象を付けたものとは異なり、どう考えて結果を導出するのかがわかりやすく示される。
3章では「パフォーマンス」を取り上げて、主たる問題のモデル化と、具体的なテクニックの適用を示している。この章はおもしろい。
4章になるとさらにおもしろい。具体性が増すからかも知れない。
UXの原則を6個掲げて、3つの課題(に対してどうデザインするか)を取り上げて考え方を示す。
結論がUXエキスパートをチームに入れてアドバイスを聞けになるのだが、納得せざるを得ない。
5~10章はマクロアーキテクチャ(分散システムレベルの大きなシステム全体に適用するアーキテクチャという程度の意味だと思う)として、オーケストレーション、トランザクション、セキュリティなどについての判断方法について詳述していく。
特に7章はうなずきまくり。流行完全無視して、単一トランザクションで処理できる範囲に可能な限り留めろとする。そうでなければシステムは複雑化するし、複雑化したシステムを設計、実装、構築、保守できるか? と、自分が使えるリソースと実現可能性を正しく判断しろと迫って来る。
この著者を信用できると判断するポイントの一つでもある。
8章は読むのが難しい。セキュリティへの対応なのだが、元々難しい問題なので、徐々に難しくするとか失敗の元、最初から難しいと覚悟を決めて難しさに挑め、という結論なのだが、章自体が難しいから難しく書かれている。
が、腰を落ち着けて読み解く価値がある(少なくとも僕は読んでえらく勉強になった)。
9章は高可用性とスケーラビリティ。良い。
「その過程で設計を複雑で脆弱なものにしてしまい、それがしばしば障害やレイテンシーへとつながる」
壁に貼るべき。
7章で切り捨てたようでいてマイクロサービスについても利用すべきと判断することは当然あるので、10章ではマイクロサービスを開発するにあたっての決断を要する点と考慮点を説明。
11章はサーバーアーキテクチャという題でマクロアーキテクチャとは分けている。
この章は読んでいておもしろいのだが、うまく分類できないことを詰め込んだ章なのか?(要は要約しにくい)。
キューイングによるアプリケーション(サービス)連携やアプリケーションの実装形態(CPUセントリック、メモリセントリック、IOセントリックなど)を、どのような課題に対して適用するかの判断方法などが書かれている。
12章はどう考えれば「安定したシステム」を構築できるかについて。
必読。
最後の13章がまとめなのだが、全体を振り返って個々の要素を結合して、どうシステムを進化させていくかまで。
最初の節の題が「実際にやってみる」、各項が「基本に忠実に」「設計プロセスを理解する」「決定を下し、リスクを負う」「卓越性を求める」
かっこいいし、鼓舞されるものがある。
不思議なのは、最近の島田さんが翻訳する上位技術者本シリーズはどれもとても良いのだが、島田さんが選んでいるのか、それとも出版社側が、本国で~だから翻訳したいが、このジャンルなら島田さん、という道筋で来ているのか、良い本が集中している。
ソフトウェアアーキテクトのための意思決定術 リーダーシップ/技術/プロダクトマネジメントの活用(Srinath Perera)
2025|01|
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