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有楽町の丸の内ピカデリー(iMAXではないがドルビーAMO)でメガロポリス。
20:20からの回とあって客は1回のエレベータで全員帰れる量。
前評判どおり(アメリカでだめなのはおもしろいの法則)実におもしろかった。
物語は3つの柱から構成されている。
1つはカエサル(主人公、造営局の局長(このあたり、ローマの政治的出世コースと合わせているのがおもしろい))とクラッスス(銀行家。ローマ史でもカエサルのパトロンで三頭政治の1人なので合わせている)の都市計画進歩派対キケロ(市長、ローマ史ではカエサルについたり敵対したりと忙しいが、確かに守旧派の代表とは言える)の対立で、キケロの娘のユリアとカエサルの恋愛、出産、カエサルとキケロの和解(カエサルの作った動く歩道に先に乗ることで夫とカエサルの仲をとりもつのがキケロの妻。ユリアと合わせて常に女性主導なのがおもしろい)によるハッピーエンド。
このハッピーエンドではカエサルとユリアがこの幸福な瞬間を停止させると、二人の子供が動き出して次世代として未来を作り始めるのだが、先へ進む子供といえばカラックス(アダムドライバー繋がりがある)のIt's not meのラストを彷彿させる。
2つめはカエサルが都市計画の発表会で引用するようにハムレットによる夫殺しと息子への迫害。当然のようにカエサルがハムレットなのだが、叔父クラウディウスはなぜか従兄(クラッススの息子)ということになっていて、兄殺しは父殺しに転化する。ガートルードに当たるのがカエサルの元恋人であり圧倒的な人気を誇る(ただし最近陰りがある)ニュースキャスターのワオで、ワオはカエサルに結婚を断られることでクラッススに乗り換えるのだが、銀行を乗っ取ることですべてを支配しようとする。三頭政治といえば残るポンペイウス(最後は反カエサルに鞍替えして、子供と妻がエジプトで態勢を立て直そうとするもののクレオパトラ(は蚊帳の外)の弟と側近に殺されることになる)だが、ポンペイウスとクレオパトラとポンペイウスの妻の役回りかも知れない。
(ワオがユリアにカエサルは渡さないと迫るシーンがあるのだが、おそらくこの件については公開版作成時に尺を縮めるためにカットしたエピソードがあるに違いない。同様にいくつか物語の構成要素でカットされているものがあるはず)
ワオについては、映画の中で造営局長のカエサル、銀行家のクラッスス、メディア女王のワオの3頭政治のような説明が流れる。市長のキケロは基本的に大衆の前ではブーの対象となる(ローマでも民会は貴族派閥の代表者になっているキケロは相当ブーを浴びせられている)。ここでも立ち位置が異常なのがクラウディアスで一時的には(デマとフェイク、空約束で)大衆を味方につけてカエサル追い落としに半ば成功している。
ハムレットパートでは物語がローマではなくイングランド(さすがにスェーデンまで出してくると散漫過ぎると思ったのかなぁ)となるためか、最後、死にかけたクラッススはロビンフッドに扮し、ボウガンを使うことになる。ここは衝撃的。
ここまでで、カエサルの父親不在が大きな疑問となる。母親も実に影が薄い。最後間際にはカエサルファミリー(キケロとはまだ和解していない状態)が雛壇にいるのに客に紛れている。カエサルは呼ばずにただ最後に母さんと呟く。物語の仕組みとしてはクラッススが実際の父親と見れば良いのかも知れない。
3つ目が芸術家としてのカエサル(=ハムレット)の苦悩ということになる。彼は瞬間を切り取る能力を持っている。超高層ビルからの落下の瞬間、巨大建造物崩落の瞬間などを切り取る。それが当然のように「美」なのだが、他の人たちはまったくその「美」の存在に気付かない。ただ、ユリアだけはその瞬間を目撃する。このことがユリアとカエサルを結び付けることとなる。
映像はなぜか3面となる箇所は小うるさいしそれほど気が利いているとも思わなかったが、実に美しい。コッポラは美しい絵が好きなのだ。
カエサル暗殺は実の息子のブルータスに刃を向けられて観念するのに少し近い。カエサルが愛する未来の象徴に撃たれる。半分吹っ飛んだ顔面をカエサルが発明した新物質(透明でありものごとを映し出し繊維ともなり建造物にも利用できる)を使って修理する。それによって生まれる神々しさによって敵をひれ伏させる。
最後ほぼコッポラの遺言のような文章が映し出され、教育と美を未来の世代に与え続けることに対する希望を述べる。次世代への教育というのも1つのモチーフとなっていて、ユリアにカエサルが体験させる新都市のモデルは教育の場でもある。
遺言に続いて、コッポラの妻への謝辞が映し出される(ここも最後に撮影監督への謝辞が映し出されるIt’ not meを彷彿させる)。やはり愛の物語だったのだな、と納得する。
このほか、ほぼ語られない死別した妻とカエサルのエピソードが紛れる。彼女との生活は思い出としてスラム(らしい)の一室に残されていて、そこをカエサルは秘密裡に訪れる(のをユリアは尾行して垣間見る)。妻はカエサルの美の追求についていけずに薬に溺れて胎児もろとも河に車で突っ込んだらしい。カエサルは同じ美を共有するユリアに出会ってからは徐々にその呪縛から逃れる(ここも長いカットされたエピソードがありそうでもある)。
実におもしろかったし、映画館で観ることができて幸いだった。
ユーロスペースでペドロコスタの血。初見(ヴァンダの部屋から観たわけだ)。
いきなりおっさんが若者をひっぱたくシーンから始まり度肝を抜かれる。ニノにはなんといえば? 死んだと言えば良い。
オート三輪。
子供がベッドで寝ている。裸になる。
ニノとフランチェスカがいない、とクララとヴィンツェントが探しに行く。川べり。
なんだかわっぱりわからん。
どうもヴィンツェントとニノが兄弟(ニノは後に10歳と語る)で、クララとフランチェスカが姉妹らしい(が、違うかも)。ヴィンツェントとクララは幼馴染かな。ヴィンツェントの父親は病気なので頻繁にリスボンへ行く。金が出ていく。
父親は死にかける。ヴィンツェントは薬局を襲撃する。
父親を埋葬するために、クララへ助けを求める。君しか頼る人はいないんだ。
墓地で花立を倒して割ってしまう。暗くて埋められない。場所を変える。途中でヴィンツェントはいなくなる。
ヴィンツェントとクララはクララのほうが迫るがヴィンツェントは乗らない。
ニノはヴィンツェントと自分が兄弟なのに似ていないと言う。セーターを貸してくれ。
クリスマスツリーを刈りにきたヴィンツェントの前に男が二人あらわれる。親父はどこに行った? 金を返せ。二人はヴィンツェントから斧を取り上げてもみの木を切って渡す。
窓から帰りを待つニノの顔。家の前には夫婦もの。奇妙なディープフォーカス。
樅の木を手にヴィンツェントが帰る。
叔父が父親の場所を聞くがヴィンツェントは答えない。叔父はニノを引き取るといって強引に連れ出そうとする。ヴィンツェントは鈍器で叔父を殴り倒す。捨て台詞を吐いて叔父は帰る。
夜、ニノが寝たあとクララとヴィンツェントの距離が近まる。
突然画面が明るくなりクララ。川のほうのパーティー会場のような場所に二人は降りていく。足元。
川に浮かぶ死体をそれを引き寄せる船の上の男。
家に叔父が忍び込み寝入っているニノを誘拐する。
叔父の家には子供がいる。目が見えない? 最初に一緒にいた女性は家政婦なのかな。
水族館。ウミガメを子供に見せようとニノが塀に乗せる。叔父が引き戻す。ニノは叔父になつかない。3人だけの食事風景。
ヴィンツェントが迎えに来るから待つとニノはいう。あいつは関係ないと叔父はいう。どうも叔父は本当の父親なのだろう。叔父の役者はオリヴィエラで良く見かける顔だ。
ヴィンツェントを借金取りが誘拐し監禁する。かって父親に惚れていたらしい昔のミスポルトガルがヴィンツェントを助け出す。
花火大会。マンションのベランダに人々が出ている。ヴィンツェントとミスポルトガル。
突然画面が明るくなり、楫を取るニノ。
おもしろい!
終わったらたくさん人が出てきて驚いた。最近見た映画の中でここまで満員近い客入りのはなかった。しかも年齢層が若い。どこかでペドロコスタが再評価されまくったのかな。
新国立劇場で蝶々夫人。
今回、下手3階席で観たのだが、これまで気づかなかった家の仕掛けに初めて気づいて(あるいはスルーしていただけかも)演出の妙に唸らされた。
家の上手の角に柱がにょきっと立っていて、屋根をつけないことと後ろの襖の組み合わせで日本家屋らしさを抽象的に表現しているのだと考えていたのだがそうではなかった。
2幕でピンカートンをあきらめるように膝を折って座っているスズキに対して佇立して否定する蝶々夫人を、下手からライトを当てることで、上手に柱をはさんで影絵芝居となるように仕組まれていたのだった。それで位置がきちんと合うように、蝶々夫人が立つ位置に落ち花がこんもりと積まれていたのか。
結果として柱が壁となり、影絵の世界では現実世界に戻るように懇願するスズキと、壁のあちら側でそれを完全に拒否する蝶々夫人という構図が現れる。
この影絵芝居があることで、ピンカートンを待ちながらスズキと太郎が寝てしまったあとに、蝶々夫人が一人下手から上へと続く道を上るシーンの意味が浮かび上がってくる。いつまで待ってもやって来ないピンカートンを迎えに丘に登り、いつも見えている星条旗が、こちら側にないし、彼女の側には永遠に来ないことを見る。
したがって翌朝からの一連の物語は彼女にとっては自明のこととなる。
彼女が死ぬと奥まで続く直線の上に太郎が立つのは、したがって、彼女は太郎とともに、直線的に合衆国への道をようやく歩めるという意味となる。
ボンズが妻屋で言葉本来の意味での役不足なのはともかくとして、歌手は全員とても良い。特にシャープレスのタッディアという人が実に軽妙で心優しく日本の風習にも本国の風習にも苦々しく感じている複雑な役回りを見事に演じていて感心した。所作が実に良い。同じくちょい役とは言え山鳥の吉川の鷹揚さも実に気持ち良い。
指揮のマッツォーラはメリハリが抜群で、序曲のフーガ(考えてみたら、これは蝶々夫人とピンカートン、日本と合衆国の、追っかけと追っつかなさ、噛み合わなさと表現するために、それまであまり対位法的な曲を作っていないプッチーニの渾身の曲だな)の迫力、迫力といえば金管の盛大な鳴らさせ方、打楽器の強調、その一方で異様に甘美に歌わせる弦と、おそらくオーケストラは演奏していて実に楽しかったのではなかろうか。
ただ、メリハリがつきすぎて、さすがに1幕後半の蝶々夫人とピンカートンの愛の場面は美しさ以上に遅すぎてうんざりした。指揮者陶酔し過ぎだろう、で、芸術監督の趣味に合っているのか、とも思った。
逆に、新国立劇場の合唱団の美しさと指揮者の歌わせかたと小林の歌声がばっちり噛み合って、蝶々夫人登場の場は実に甘美で憧憬と陶酔の塊のようで聴いていて実に気持ち良かった。
2時間30分と相対的にやたらと短かったから青春第3部「帰」を観てきたが、おそろしくおもしろかった。
多分白髪三千丈的言い回しなのだろうが王兵の1500時間撮影してそれを取捨選択して編集する忍耐力が俺様の強みというのも伊達ではない。とにかくどのシーンをとっても完璧な役者による完璧な演出に見える。が、間違いなくただの縫製工場の季節(ということではなく年間っぽい)工だろう。
一番若い16歳はともかくほぼ全員20代なのだがどうにも子供っぽく見えるのは同じアジアの同胞だからかな。
冒頭、電動糸鋸のやたらでかいやつを動かしながら、目の前の分厚い机みたいなのを切っている。なんだろうと見ていると、どうやらジーンズを裁断しているらしい。分厚い机ではなく、積に積み重ねた布だったのだ。
工場のミシンの良し悪しで出来高が変わるので、少しでも良いミシンを導入している工場に雇われようとする。
熟練している女性がとんでもない速度で作っていく。
仕事は大変そうだが、ちゃんと働けばちゃんと稼げる。それなりに楽しそう。
男性は仕事が終わるとカード賭博で金をする。何やってんだ? というか、どうも他に娯楽が無さそうだ。職場というか同業者婚が多そうだ。女性のほうは堅実(な例しか出てこない)。
旧正月で里帰り。列車に乗ろうとするが車両が違う。ホームを駆ける二人。荷物。先に男が椅子に腰掛ける。お互いの肩に頭を寄せ合って眠る。手を握っている。
いつ転落するかどきどきの山奥の部落への里帰り。
駅で同方向の人たちのビークルに乗せてもらう(のだと思う)。辛うじて車1台が通れる斜面に作られた道路をビークルが進む。
向こうから引き返してくるビークル。ぎりぎりですれ違う(ちょっと張り出した交差用の足場)。
工事中のショベルカーが道を塞いでいる。
夫の実家であまり歓迎されない嫁。東アジアだなぁ。
結婚式で、新郎が新婦をおんぶして延々と歩く。のを取り囲んで囃し立てる家族、親戚、友人たち。
軽い不況で工場がいくつか倒産して職場が減る(とはいえまだパンデミック前)。
驚くほどおもしろかった。
『カップルズ』は映画館で観たのだが、そのうち再見したくなるだろうと購入しておいたので、恐怖分子、ヤンヤン(この2本は映画館では観ていない)に続いて観た。
フランス人のいろいろ過去がありそうな女性が東アジアに来てというところが、御厨里美の裂けた旅券を思い出したりもするわけだ。あちらはマレット、こちらはマルトなのでもしかしたら関係なくもなくはないかも知れない。しかし映画でマルトといえば、何よりもブレッソンの白夜を想起する。が、台北にはセーヌ川は流れていない。
盗んだ(らしい)軽トラ使ってターゲットの自動車を破壊しては、歯磨きという名の坊主頭の小僧にイカサマ預言をさせてターゲットから金を毟り取る不良4人組が主人公。ただし本当の主人公はその中の新人のルンルンで、彼がパリ(ロンドン)から恋人を着の身着のまま追いかけて来たマルトに恋をするのが全体のストーリーとなっている。というわけで、他の作品よりは群像劇というよりも求心力がある。
マルトの初登場シーンには3人の人物がいて、目当てのマーカス(ロンドンを食い詰めて台北に流れて来たが、今はパトローネのおかげでデザイン(内装の、らしい)事務所を構えている)、テレクラ社長(中年の白人女性で、元は10年前に流れてきて体を張って生きてきて、今では自分を売る立場から他人を売る立場となっている)、マーカスのパトローネのジャスミン(というような名前の女性で、父親が巨大企業の社長なので金を持っている。この後、ホスト的役回りのホンコンに入れあげていろいろ厄介なことになる)だが、いきなりテレクラ社長を新しい女と勘違いして突っかかる。と言う具合にアジア人を対等な人間として見ていない(それが続くシーンで平然と男二人連れのトラックに乗り込んでホテル代を出させたりする態度に繋がるのかも知れない)。それがいろいろな目にあって、少なくともその目の曇りが晴れる成長譚としても見ることができる。
4人組のうちリトルブッダ役の歯磨きはやることしか頭にないダメ人間、リーダー格のレッドフィッシュは父親(非道な商売でのし上がった極悪人らしい)を尊敬していると同時に越えようとしている極悪人候補だが父親の最期の言葉に引っ張られて何を信じるかを見失ってしまう、ホンコン(牯嶺街少年殺人事件の主役らしい。背の高さはわかるが、10年たって違う人みたいに見える)は女性の提供係でジャスミンの出資先をマーカスからレッドフィッシュへ乗り換えさせるために暗躍中(ホストが貢がせる手口ってこういうのかなぁと思わせる)だが最終的に自分が逆の立場に追い詰められて人格が崩壊する。ルンルンは父親が経営するホステル(だと思う。欧米人がたくさん居ついている)のおかげで英語が喋れることを買われて仲間入りしたのは良いが、騙して稼ぐということに対していろいろ思うことがある。
現代は麻將なので明らかにこの4人組が主人公なのだった。
最期のルンルンのシーンが特に美しいのだが、寝そべる父親とレッドフィッシュの会話のシーン、その後の屋外の明るさの中で父親の新しい恋人の女教師とレッドフィッシュの会話のシーンも良い。
ルンルンが角の屋台で何か買って(いつも買う)家に入るシーンの直前に2台のバイクが停止する。
映画の大きな部分を占めるのはレッドフィッシュとルンルンの軽トラ内でのシーン。
求心的な物語があるだけに映画としてのまとまりは抜群だが、基本夜と薄暗い室内なので(それだけにレッドフィッシュと教師のシーンが美しい)どうにも陰惨な印象を受けなくもない。
たとえば同じ台北の夜の物語にナイルの娘があるが、カップルズ(4人組を2組×2としたわけではないだろうが、なぜこういう外国用の題としたのかはよくわからない)のほうがとってつけたようなモダンさを感じないのは不思議だ。
本も売っているときに買わないと一生お目にかからないとは言うが、映画も同じことになるとは。
ジェズイットを見習え |