著作一覧 |
東劇でMetライブビューイングのドン・ジョヴァンニ。
予告編でみたペーター・マッテイの歌がとても良かったので楽しみに観に行く。なぜか演出家の考え(放蕩者ではなく犯罪者の物語)は知っていたので、演出も楽しみである。だいたいの演出は、ドン・ジョヴァンニは本気で女性たちを愛している信念の人となっているが、この演出のドン・ジョヴァンニは本気で女性を犯すことを至上の快楽としていてそのためには殺人も厭わない変質者らしい。というか、行動はどちらも同じなのに、後者と決めればそりゃそうだ。
というわけで、最初のドンナ・アンナのあたりからして、本気で抵抗するドンナ・アンナ(演出によっては好きよ好きよも好きのうちだったり、父親にばれたので取り繕うドンナ・アンナに見えたりもする)だ。
おかげで単なる当て馬のように見えるドン・オッターヴィオが(すぐに権力に頼るのはともかく)親身になってドンナ・アンナを支える良い役となる。結果として二人の二重唱がかってないほど、真摯で美しく聴こえてくる。おもしろい。
さらにドン・ジョヴァンニの品性の卑しさは、無理やりツェルリーナと踊りながら尻を揉むセクハラ行為などでも示される。というか、マッテイは最初演出家と相当の話し合いが必要そうだったらしいが、まあそうだろうな。が、実に良い。
ツェルリーナとマレットに有色人種をもってきたのはちょっとおもしろい。というか、妙にそれっぽく見えて、なるほどこれはありだなと思った。
最後、地獄落ちはかってないほどのおそろしい業火に包まれる演出でおっかない。
指揮のナタリー・シュトゥッツマンは序曲で指揮っぷりが映されているが、メリハリが実に明解でおもしろい。農民コンビとあわせてちょっと狙いすぎのダイバシティ公演っぽい(したがってドン・ジョヴァンニも悪漢と規定される)印象がなくもないが、テンポ、演出、歌手、どれもとても良かったので、すべて良しだった。
ラ・ボエームは一番好きなオペラだし、粟津演出も好きなので楽しみに観に行く。始まると席のせいか、序曲が音塊のようで??となる。
声は好みではないがルドルフォは良い感じだし、マルツェッロがとても良い。
が、ミミがやって来てからどうも良くない。
冷たい手だからの聞かせどころが異様にテンポが遅い。あまりに遅くてルドルフォが困惑しているように聴こえる。初日じゃないよな。
さらに私はミミではあまりに遅いのでミミが先に終わらせて待っているように聴こえる。
というか、遅い。
先日のトゥランドットがとても良かったのだが、以前のトリスタンのときに感じた、自己陶酔でどんどんテンポを落としてオーケストラに歌わせてしまう悪い大野が爆発しているように聴こえる。ムゼッタのワルツでもムゼッタが一歩速い。
女声は通るからオーケストラを振り切れるが男声はそうはいかないので苦しいのではないか。
というわけで、すっかり興ざめしてしまった。3幕以降はわりと普通になったが、先日のリゴレットのベニーニのきびきびした指揮っぷりが耳に残っているだけに、いやでも比較してしまって許しがたい気分となる。
おそらく大野という指揮者はとてもクレバーで分析もしっかりできる反面、歌わせるのが実は苦手なのではないか? そのため、性愛的な甘美さが必要となるとどうしても極端に振れさせてしまうのではなかろうか。だが、歌手があってのオペラなのだった。
それにしても、ミミもムゼッタもマルツェッロもコリーネも実に良い歌だった。
ブリリアホールでミュージカルのダ・ポンテ。
なぜかブリリアではモーツァルトの二次創作を観るのだな。
ダ・ポンテもマドモアゼル・モーツァルトと同じく国産ミュージカルらしい。
ダ・ポンテがニューヨークで自伝を書き上げてイタリア語書店で売りつけようとして失敗するところから物語は始まる。
ベネツィアでカタログの歌のような裁判の結果国外追放されるところから出発する。
流れ流れてウィーンでサリエリに取り入るが最初のオペラは大失敗。サリエリや歌手の求めるままに言葉を変えていったために詩が死んでしまったのだ。
酒場で飲んだくれて音楽家はくそだと叫んでいると、横で詩人がくそなのでおれの音楽が死んだと叫んでいる男と出会う。後宮からの逃走はそんなに悪いものではないが、物語の都合だろう。
かくして二人はタッグを組んでフィガロの結婚を作る。
1幕最後近く、二人が踊ってから歌い始めるところはとても良い。
さらにドン・ジョヴァンニを作る。一般論としてモーツァルトとレオポルドの関係の反映として知られていると思うのだが、この作品ではダ・ポンテ自身の過去のヴェネツィア追放や継母と父親との関係にスポットが当てられていて、おもしろい。
最後、モーツァルトに言われて断固として反省せずに地獄へ落ちるドン・ジョヴァンニを書くが、宮廷官僚に指弾されて最後に無理やりのハッピーエンドを追加される。
結局、プラハでは成功したがウィーンでは失敗する。だが、この作品はこれまで書かれた最高のオペラだ。誰よりもオペラの研究をしているおれが言うのだから間違いないとモーツァルトはダ・ポンテに言う。セリフはいろいろな本から引用しているので、その点もおもしろい。
が、ヨーゼフ二世(とサリエリ)のおかげでコジ・ファン・トゥッテの仕事をもらう。
が、皇帝ヨーゼフ二世が死んでしまったために、ダ・ポンテは追放の憂き目にあう。
一方モーツァルトはシカネーダと組んで魔笛を作り始めている。最初シカネーダの歌詞でパパパが歌われる。モーツァルトは、言葉はいらないんじゃないか? パでいいじゃんと言い出す。シカネーダと相手が試すと、これはばっちり。
そこにダ・ポンテがやってくる。モーツァルトは魔笛にノリノリなのでこれが二人の別れとなる。
かくしてロンドンに流れ着いて野垂れ死にかけたダ・ポンテに鶏とセロリのスープが振る舞われて生き返る。
ちょっと待った、と元のニューヨークに戻る。コジ・ファン・トゥッテはどうだったの?
あれは失敗作だ。思い出したくもない。
そう? あの最後のこんなもんさの詩はあなたらしくて最高よ。
最後、婚約者がころっと転がってしまうところまでは台本はできたのだが、それをどう締めれば良いかわからない。
困ったダ・ポンテはあらすじをモーツァルトに相談する。
それはだな、と長調で締める。
なるほど、喜劇か。
もちろんそうだ。ダ・ポンテは脱稿する。
一方、ダ・ポンテ追放の動きも強まる。実はイタリア人ではなくユダヤ人だということが知れ渡り、ゲットーへ帰れ! と罵声が飛び交う。
そんな折にサリエリと出くわす。お前もおれがユダヤ人だから糾弾するのだな?(この物語の最初で、ダ・ポンテはサリエリと同郷のふりをして同じイタリア人同士として引っ張ってもらっている)と、サリエリは否定する。おれにはイタリアオペラのすばらしさを広めるという理想があるのだ。そのためにはおれの作品が消えてしまっても構わない。でもお前には自分の野心以外の何があるんだ? ダ・ポンテは答えることができない。
海宝直人のダ・ポンテは実にさまになっているし、この人は本当にうまい。
とはいえ、この作品をミュージカルとして舞台で視ているときはまったく退屈はしないのだが、その一方でそれほどおもしろいとは思えなかった。
が、後になって、コジ・ファン・トゥッテ(それほど好きではない。キャンプ場の印象が強過ぎる)だのフィガロだのを観直したくなる。そのくらい、モーツァルト+ダ・ポンテの作品世界とうまく溶け合っている。
というよりも、恋とはどんなものかしらの説明シーンなどは抜群にうまくできている。あの転調の凄みのようなものが実に明解に示される。普通の日本語の翻訳なのか(聞いたことないから知らない)、それとも台本作家の翻訳なのかはわからないが、なるほどこういう歌だったのかと音楽と言葉の融合っぷりに感心した。
言葉はないが、ドン・ジョヴァンニの和音の凄み(先日聞いたばかりでもあったが)。
好き嫌いは別としてやはりモーツァルトはすごい作家だし、それを引き出したダ・ポンテも只者ではない道理だ。
結局、残るものが多かった。ということはおもしろかったのだ。
まったく知らない人だったが世紀末(というと20世紀末ではなく19世紀末を意味することになっている)の戯曲家ということでグランギニョル関係かなと食指が動き購入、読了。
訳者の懇切丁寧な作家と作品の解説を読むと、グランギニョルとの直接の関係は無さそうだったが、とはいえ世紀末風味の戯曲のおもしろさは堪能した。
グランギニョル(という名前の劇場で上演されるリアリズムの残酷劇とそれに良く似た雰囲気の作品群)は、プッチーニの外套がその名前の下に断罪(というか酷評)されたことでしか知らないが、ちょっとの差で道化師やカヴァレリア・ルスティカーナがヴェリズモ(リアリズムオペラ)として高く評価されたのに、同工異曲の殺人劇がグランギニョル風として酷評されるという時代の流れの速さが実に興味深い)
最初届いた小冊子(と呼ぶのがふさわしい判型)を開くと、すきまなくびっちり文字が詰まっていて仰天した。
中には戯曲が4編と訳者によるブウテと諸作品の解題(目次上は「あとがき」だが、あとがきのレベルではない)が収められている。
とりあえず、訳者あとがきは置いておいて、順に読み始めると、想像以上に抽象的(いや当時だから象徴的のほうが正しそうだ)な舞台作品だった。
上のほうでも触れたが、残酷という言葉は、ほぼリアリズム(貧困と飢餓があり人間は動物の一種なので切れば血が流れるし、時間がたてば腹が減る)と同義で、実際この作品群に登場するのはそういう人間たちで、全員が全員、現実の生活にうんざりしている。うんざりした挙句にさっさとかたをつける人間もいる。一篇、「我が言葉を聞け」という作品には妙に達観した人間が世界とは何かを解説しまくるが冤罪(だろうな)によって警官に引き立てられる(おそらく、そうして冒頭の「絞首台の下で」につながる円環が閉じるというか、訳者の構成はおもしろい)。なんとなく、公孫竜の「白馬は馬に非ず」論にうんざりした韓非子が「白馬が馬かどうかを調べるのは簡単だ。白馬を連れて関所をくぐれば良い。税金を取られたらそれは馬だ」を思い出す。
最初の作品の絞首台の下では、3人の絞死人、3人の魔女(とそれぞれのペットというか使い魔の獣)、3人の尼僧が勝手なことを言い合う劇。3人の死刑された死体というと、ゴルゴダの丘の暗喩か? と思わないでもないがとりあえず3で揃えただけのような。まあおもしろい。
2作目の詩人と娼婦と二人の墓堀人はぐっと現実的な情景劇となるが、詩人が出てこないなと思いながら読んでいると死人がいきなり甦って詩的なセリフを吐きまくる。が、墓堀人の仕事の邪魔なので死人に戻す。と筋を書くと訳が分からんなぁ。というか、これを劇場で見ている人たちはどういう気持ちだったのか興味深い。
3作目の雨の夜のタバーンは本書の白眉と僕は考える(訳者あとがきでもリアリズム路線の最高傑作としているが、さもありなん。会心の訳業だろうなぁ)。登場人物が多いが、それぞれ不幸のパターンを背負っている。楽し気な水兵たちを含めて全員が不愉快な明日を不安に待っていて、しかしそれもしょうがないとあきらめきっている様子が抜群におもしろい。特におもしろいのは酒場の主人で、おそらくルーチンワークにうんざりしている(この程度の不幸な連中は不幸ではないという態度だ)。「そこです、旦那!」が抜群(これが一人ではなくもう一人が唱和するように作劇しているところがうまい)。
最後の我が言葉を聞けは、真実の人が空回りする劇。これも好きだが、実にひどい話だ。
読んでいて、作者は不幸な人々の一瞬を切り取りながら、これっぽっちも悲憤慷慨はおろか同情のかけらも示していないことに驚く。少なくとも歴史に刻まれる名作を書くというような意識はまったくなかったのではなかろうか。むしろほとんどの登場人物と同様に状況を楽しんでいる(それで、裏表紙の「筒井康隆への系譜に連なる」となるのだろう)。
要は奇書だ。おもしろかった。
バイロイトに行っている間に打ち切りということはないだろうが、それでも状況の変化はわからないので、豊洲で君たちはどう生きるか。
大して宮崎駿の映画は見ていないので、13個のブロックの意味などわかるわけもないが、それでも、正ー反ー合の弁証法で映画を作っていることは薄々気づいてはいた。
千と千尋の神隠しの神隠しは明確に現実世界ー異世界ー現実世界だし、ナウシカは危うい平和ー戦争ー平和、ポニョも何かが欠落している平和ー嵐ー充足した平和、トトロやハウルやラピュタも同じような感じだ。その中で主人公が老婆と一緒に反世界を合一させるためにいろいろ頑張る。その過程でなんらかの恋愛関係が生じるようで結局生じない(少なくとも合パートでは行動を共にしない、ラピュタについてはわからないが)。
君たちはどう生きるかも、そういう観点では同じ構造で、現実世界(軍靴の足音は聞こえているし、主人公は母親の喪失と母親の侵入に落ち着けないし、疎開先のいじめ問題もある)-思弁世界での大冒険-現実世界(インコが群舞した後から数年たってなんとなく落ち着いてはいるし、二人の母親との関係性の悩みのようなものは解消したようだ)と動く。ただし思弁世界では老婆が若返っているし、恋愛になりようがない自覚ある母親と行動を共にしていて、代わりに思弁世界を危ういバランスで支えている老人がいる。というか、今書いて気づいたが、女性は老「婆」で男性が老「人」なのはバランスに欠いている(老爺という言葉は存在するが、それほど利用しないし一般的にもそれほど利用されていないのでは)。
反の世界で主人公は否をつきつけて合に持ち込むのはいつもと同じなのだが、本作の場合は支配しているのが敵ではなく身内なうえに思弁世界の後継者を求めているところが違う。違うが、気持ちよく否を突きつけるので観ていて少し驚きもあり、心地良くもある。
子供は説教臭そうだから行かないと言って行かなかったが、そういう意味では説教は垂れられるが否を突きつけるので臭くはなかった。
おもしろかった。
映像で2人の胎児が血を流すほどの喧嘩をしている。
なんとなくジークフリートとハーゲンを双子として(3世代目と2世代目という違いはあるが、僕には彼らは双子に見える)扱っているのかなあとみている。
ぼわーっとした音が沸き上がってくるので、なるほどこれがオーケストラを舞台に埋め込んだことによる音響効果なのかと思う。後で、リピーターの人から、インキネンの音作りがへたでぼわーとしていたというので、それは指揮っぷりによるものだったらしい。
ただ、とにかく、どれだけオーケストラが鳴っていても常に歌が聴こえるので、それこそ部隊の下に押し込めて一度舞台裏で反響させるという効果によるものなのは間違いなさそうだ。
あと、客席の下ががらんどうということで、ライブ映像の拍手とともに沸き上がるドンドコドンドコの足踏み音が、なるほど、この客席ならではの音響効果なのかということも得心した。
あとでプログラムを読んでいたら、ヴァレンティンシュヴァルツのリングのナラティブという章で、アルベリッヒとヴォータンを双子として解釈していることがわかった。
ただ、世界を征服できる指輪を持ってはいるものの奸計にはまり指輪(少なくともその権威)を失い無力化されるという筋立てにおいては、ラインの黄金のアルベリッヒと神々の黄昏のジークフリートはまったく相似構造だ。唯一の違いは自ら愛を捨てたアルベリッヒに対して、ジークフリートは奸計により愛を失くしたとはいえ、ブリュンヒルデが存在するという点で、結果として神々の滅亡とリングの昇華は行われる。
神々はゴッドファーザーのヴォータンを中心としたファミリーとして描かれている。
歌手では圧倒的にドンナーのライムントノルテ(と読むのかは知らん)が素晴らしく、まさに鬱々とした空気を一変させるだけの気持ちの良い歌いっぷりで実に爽快。あまりに爽快なのでそのあとの虹の橋の印象がまったくない。(雷の音がピンッみたいな妙な音なのは一体何を象徴させたのだろう?)
ドイツに来てから何度も雨に降られたが、それが雷がゴロゴロ鳴ってしばらくするとまさに驟雨という降りっぷりが10分くらいで上がり、すると湿度が低いからか実に爽やかになる。
ああ、ヴォータンが気分を一新したいからお前が雷を鳴らして一雨降らせろというのは、この気候だからか、とえらく納得した。
ドイツに旅行するにあたって、ソニー銀行の外貨預金をするとやたらと海外ATM(Visa利用)の利用手数料や為替レートがえらくお得なことに気付いてユーロを日本で入れて行った。
のは良いけれど、
・ニュルンベルク駅のATM (Visa Plus両方あり以下全部同じ) ×
・VR銀行のATM(Virtual Realityではないと思う) ×
・商業銀行(Kommerceなんちゃら)のATM ×(2種類試した)
・ドイツ銀行(これは本物のドイツ銀行)のATM ×
アクワイアラーとしてソニー銀行はドイツで猫の手どころか芋虫の手並みに利用できないことが判明した。
というか、羽田の免税ショップ、イスタンブール空港のカフェ、ニュルンベルク市内のモバイルショップ、とりあえず出してみるがタップだろうが接触式ICだろうが使えた試しがない。
予備に別のカードも持って行ったので助かったが、ソニー銀行のデビットに全振りしていたらとんでもないことになるところだった。
追記)ソニー銀行のサイトからの設定項目に存在しないので気づかなかったが、ウォレットapp(指摘されたので入れた)で確認したら海外の利用が不可に設定されていた(Webの設定項目にないということは申込時の設定としか考えられないので、おそらく当時(10年以上前だ)は海外でデビットカードを利用するという局面が考えられなかったので番号合わせによる不正利用を考慮して使用不可で申し込んだのだと考えられる。
したがって、ドイツで利用できないということは間違いの可能性が高い。
ワルキューレはずっと雨降り。そのため2回あるそれぞれ1時間の休憩も雨が降り続いていた。
おかげで数年前には熱中症で救急車が出たという地獄の祝祭歌劇場も、中は落ち着いた良い加減だった。
ファンファーレの音を聞こうと1階中央の玄関ホールにいたら、階段を上っていったファンファーレ部隊がぞろぞろと降りて来る。バルコニーに出て吹くのが難しい状態だったようだ。というわけで玄関でファンファーレを鳴らしたのを聞いて中へ入るために脇へ進んだ。
初日に自分の座席に女性が陣取っていて少しもめたのだが、結局二人で外にでてチケットチェックの人に見せたら、女性のほうが、お前は左だからあっち、と言われて消えていった。
左右(はドイツ語で書いてある)で同列同番号の席になっているのでドイツ語が読めないとまったく同じ数字に見えて混乱するのだな。
という左右対称の扇形の客席となっている。
あまりにも扇形がきれいなので、舞台が妙に小さく見える。小さく見えるのだが、歌手が動き出すと普通の劇場の舞台のサイズと変わらないことに気付く。遠近感がすごく違って見えておもしろい。
ワグナーは祝祭歌劇場を設計するにあたって3つの革新を作ったという話だ。
まずローマの劇場と同じく扇状にすること。
次に燭台を排してガス灯として中央管理可能としたこと。このため、これまでは個々の蝋燭の火を消せないために客席が明るかったのが、ガスを絞ることで始まると薄闇に変えられるように初めてできたらしい。
最後がオーケストラを舞台の下に押し込んだこと。
オーケストラが客席から見えないということは、指揮者がピットに入場することも見えない。したがって、入場の拍手がない。
ラインの黄金を見て、はじめてそれを体験した。客席の照明が落ちると同時に音が立ち込める。これは新鮮な体験だった(A音合わせはかすかに聴こえてはいた)。
インキネンの指揮はこれは官能的なメロディーでございのようにばかみたいにテンポを落とすことなく、しかし実に美しく響かせて好感が持てる。
ジークリンデのエリザベステイゲ(と読むとは思わない)はここぞとなると二重に聞こえる不思議な歌い方の人(ふるわせることで上下二つの音を出すというのとは違う。二つの音が同時に鳴っているように聞こえる)。好きか嫌いかではもっとパーンという音が好きだが、これはこれで美しい。
ブリュンヒルデのダイニエルケラー(こう読むとは思えない)はとっても好き。こういうブリュンヒルデが聴きたかったので実に満足。
ヴォータンのトマシュコニエなんとか(まったく読めない)はラインの黄金でも感じたが声量も演技も抜群なのだが、黄色いゴッドファーザーの存在自体が気に食わないのでまったく気に食わない。歌手は少しも悪くなく、そういう演出による設定も悪くなく、とにかく黄色い服が悪い。
フォークトはどうあっても好きなのでまったく問題ない。が、確かにフンディングと拳銃を抜きあって対峙している以上、ヴォータンが取れる手段は限られているのはわかるが、衝撃的な死を迎える。
大好きな子別れのシーンはよくわからない演出(まだナラティブを読んでいない)。ブリュンヒルデはグラーネを連れて憤然と去っていき、ヴォータンは崩れ折れる。ラインの黄金では橋の上(のはずはないからバルコニーにあたる場所かな)で勝利のタコ踊りを踊りまくって幕になるのとは上と下、動と静で好対照で、ヴォータンの没落が決定的になる演出に見える。
さすがにヴァルキューレは会話(フリッカとヴォータン、ジークムントとブリュンヒルデ、ジークリンデとブリュンヒルデ、ブリュンヒルデとヴォータン)が長過ぎるので内容はわかっているとは言え辛くなるところがある。ここぞというところで見逃した箇所はないと思うのだが、ヴァルキューレの中にヴォータンが押し込んできてブリュンヒルデを捕まえるところは演出による物語の差し替えもあって、何が何やらわからなかった(気を失っていた可能性もあるのだが、そこがすでに曖昧だ)。
最後、フリッカとヴォータンが和解するように見える(フリッカが見届けに来る)。がヴォータンはフリッカはもうどうでも良いようだ。
4部作の中では一番おもしろいと思っていなかったジークフリートだが、字幕や対訳本なしで音だけ聴いたら抜群におもしろいことを発見した。
ミーメが実にうまく本気で嫌悪感を抱かせるような歌いっぷり(悪い意味ではなく、本気で上手いのだ。アルノルトベズエンみたいな名前)で、ジークフリート、さっさと始末しろと言いたくなる。なぜか二人はフンディングの家に住んでいる。
さすらい人は全然さすらい人ではなく、あいかわらず不愉快な黄色のスーツを着て用心棒を連れてうろついている。それにしても2夜目に入っても相変わらず声量、演技ともすばらしい(読めないがトマシュコニツニーみたいな名前の人)。
ジークフリートのシャーガーは話では一本調子の大声野郎みたいに聞かされていたが、声量があるのは当然として実にうまいのではなかろうか。少なくとも動きと場面に合っている歌い方をその場その場で歌っている。というか、おれは好きだな。
でファフナーは向こう向きに介護施設で寝ている。黄色い服の兄ちゃんが面倒みているのだが配役表的にこの兄ちゃんが若かりし頃のハーゲンらしい。まあ、それはあり得る。アルベリッヒが送り込んだという読みかなぁ。
介護施設にアルベリヒやヴォータンがお見舞いに来る。
でファフナーがセクハラしたもので小柄で可愛い系の女性が泣いていると、ジークフリートが寄り添ってハンカチを貸したり、ミーメが寄越した不味いらしいカップヌードル(すくっては食べずに捨てまくっている)を与えたり(というか自分も食べない不味い食べ物を与えるのはどうよとは思った)して慰める。あまりに慰めるので、と思ったらはーいジークフリートと歌い始めた森の小鳥だった。森の小鳥にしては声がでかくて張りがあり、ちょっと力んでもいるような気がするが、これまたおれは好きだ(アレクサンドラシュタイナー)。
で、ファフナーにジークフリートが文句を付けに行くと、ファフナーが歩行器で迫ってくるのでジークフリートは歩行器を蹴り飛ばす。ファフナーは倒れてそのまま苦しみもがいて死ぬ。
はーいジークフリート指輪を持てば世界を支配できるのよ。
なるほどとジークフリートは指輪を取り、こんなものいらないよと若いハーゲンに与える。
本物の宝は子供だからリングはどうでも良いのだろうなぁ。
隠れ頭巾とかは出てこない(が、1幕の最後でミーメが文句垂れていところが2階でどうも隠れ頭巾としか思えないものをかぶった謎の人物が伸びたり縮んだりしている。なんだろう?)
ノートゥングはヴァルキューレでは拳銃だったが、ここでは剣が出て来る。のだが、ジークフリートがカンカンとハンマーで叩くところでは拳銃を撃ちまくることになる。ミーメがびびりまくる。
カンカン響く音とジークフリートが嫌がらせのようにパンパン打ちまくる様子とミーメの震えあがりっぷりと怒りっぷりが、マイスタージンガーのザックスのベックメッサ―に対する嫌がらせ(およびヴァルターに対するベックメッサ―のダメ出し)に被る。おもしろい。
で、3幕。
ジークフリートと若きハーゲンは喧嘩別れをする。どうも森の小鳥を巡る三角関係のように見えなくもない。というか、ヴォータンは当然のようにあっさり撃ち殺される。
ハープの響きが美しい、世界挨拶。
ブリュンヒルデ(ダニエッラケラー)は声は抜群に美しく声量もある。のだが、なぜか退屈に聴こえる。歌手が悪いのではなくテンポ設定が好みではないのかなぁ。
インキネンのテンポそのものは悪くないと思うのだが。
グラーネはジークフリートを徹底的に邪魔する。下手の階段側からは登れないので上手側から回ってブリュンヒルデに近づく。
森の小鳥は飛び去ったのかな(気づいたらいなくなっていた)。
ガランチャがクンドリーで出演するときいて後から追加したパルジファル。
カレヤが歌うはずがシャーガーに交代となった。ジークフリート、パルジファル、神々の黄昏の3夜連続に挑戦とはすごいやつだ。
新演出らしいが、舞台を工事現場か遺跡発掘現場に変えているように見えるくらいで、オーソドックスな演出に見える。
15分前のファンファーレが鳴った瞬間にとてつもない土砂降りとなり、老若男女全員が劇場に殺到して大混乱の阿鼻叫喚となった。いやぁとてつもないことだ。あまりの殺到ぶりにチケットチェックができない状態となる。(とはいえ、客席に入る時の列チェックはあるわけだが)
びしょびしょになったが、1幕が終わるころには乾いていた(多分、全員)。とはいえ、濡れたり走ったりで体調を崩したのか1幕の途中で搬送される客が出た。
暗くなって始まり。遅い。なんだこのテンポはというくらい遅くてびっくりする。パウゼも長いよ(が、緩急自在な指揮っぽくて、劇と歌手を邪魔するような指揮ではなく、むしろおれは外連味が好きだ。が、カーテンコールではブー3割ブラボー7割くらいに分かれた)。パブロヘラスカサドみたいな名前の指揮者。
とがった柱が下手の池の前に立ち、上手は少し高くなっている。
クンドリーが普通に横たわっているが、スマホカメラマンが撮影すると背景に映る。
フンディングのゲオルグツェッペンフェルドがグルネマンツ。フンディングでも思ったが良い歌手だなぁ。
変な服なので一人だけ違和感があるパルジファルが出て来る。
アムフォルタスのデレクヴェルトン(うまい)が苦しみぬいて聖杯に液体を満たす。みんなで回し飲み。どうも現場監督が日払いの賃金を滞納しているような感じだ。
1幕が終わって、そういえば祝祭歌劇場では1幕終了後の拍手は無いのが慣習と聞いたけどと考えていると半分より少ない程度の拍手があり(ということは拍手していない人のほうが多い)カーテンコール無しで比較的すぐに客席の照明が点いた。まあ拍手しても良いししなくても良いという感じで、かつ出演者と劇場側は拍手無しを前提のムーブだった。
2幕、上手の妙な洞窟で魔法使い。下手側はお花畑になっていて死んだ男たち(人形)がごろごろしている。変な洞窟の奥にいるように見えるのだが魔法使いの歌も良く聞こえる。とにかく歌手の歌を聴かせるという点については徹底的にうまく仕組まれている劇場だ。
クンドリー(というかがランチャ)は中央で黒い服で踊ったあとパルジファルを誘惑する。二人のやり取りが音の嵐のようだ。
魔法使いは気づくと槍を奪われて倒れていた。
3幕。妙な土木工事用車両が上手。
妙な胸当てをつけたパルジファル(赤い服)が帰還する。
賃金を払えの大合唱が実におっかない。父王はひからびた死骸となって遺体袋で運ばれてくる。
ご苦労だったアムフォルタス、おれが代わりだとパルジファルが聖杯を受け取ると地面に叩きつけて破壊する。クンドリーと抱擁してめでたし。空の輪っかが少しずつ降りて来る。
音(特にガランチャと合唱)がすさまじい。もう一度観たい。
ブリュンヒルデが子供を眠らせて引っ込むとノルンが登場。仮面をかぶった人間が途中登場してくるが誰だろう?アルベリヒっぽいが。
インキネンの指揮はテンポが遅い。1幕が2時間に設定してある。
が、どうもそのテンポによって個々の歌手の動作がはっきりわかり、(すでにリングのオリジナルの物語とは全然異なる世界線を進んでいる)この世界の人間関係が浮き彫りになる。指揮者-演出家-歌手の間で相当緻密なやり取りをしたのではなかろうか。
ジークフリートは何かお楽しみが待ち構えているに違いない出張を前にうきうきと荷造りをしている。
置いて行かれるブリュンヒルデは嬉しくなく言い争いとなる。
が、ジークフリートは旅路の必然性を力説する。
ジークフリートのモチーフがここぞとばかりに鳴り響く箇所は抜群だ。
ブリュンヒルデは折れて、お目付け役としてグラーネを連れて行くことを求める。ジークフリートは最初拒否するが、結局受け入れざるを得ない。
ブリュンヒルデは別離の抱擁をするがジークフリートはすごく嫌そうに身を引く。
ブリュンヒルデは子供を抱きしめる。
グンターは売れっ子のデザイナーのようだ。ハーゲン、グートルーネと仲良くサファリの写真が飾ってある。昨年の中継でも妙に覚えている。が、今回舞台で見た方が演出は鮮明で、ブーの嵐をどう解消するかいろいろ変えたのだろう。
ハーゲンとグンターのやり取り(お前は良い男だが相手がいないのが問題だ。そこでブリュンヒルデだよ。恐れを知らない男だけが得られる。そりゃ無理っしょのやり取り)が実に軽妙。グンターがうまい(ミヒャエルクファーラデッキー)。
が、すさまじいのはハーゲンのミカカレスで、ハイホーにはぶっ飛ぶことになる。
ジークフリートは呼ばれてさっそくグートルーネにグッとくる(このグートルーネはギュンターではなくハーゲンとの関係が怪しい)。お目付け役のグラーネに緑の忘れ薬を頭からかける(つまり、ジークフリート本人は飲まない)。もうブリュンヒルデとの結婚生活は破綻しているのだった。
グラーネは闇に葬られる運命が決まる。
ブリュンヒルデ(キャテリーンフォスターって読むんじゃないよな)は素晴らしい。子供を捨てろと諭すヴァルトラウテ(クリスタメイヤー)を追い払う。
2幕のハーゲンのハイホーが凄まじい。指輪を高々と掲げると闇の軍勢が参集する。凄まじい合唱。なるほどギュビッヒは地方豪族ではないから領民や一族の代わりにジークフリートのジークフリートからもらった指輪がここで役に立つのか(そういえば同じく黄色いポロシャツを着ている)。
ここのシーンの音と演技だけでもバイロイトまで観に来た甲斐があった。
暢気にハイホーハーゲンとジークフリート登場。このハイホーハーゲンのばかみたいな明るい響きがとんでもなく素敵だ(直前の闇の軍勢との対比のおもしろさ)。シャーガーは実に良いジークフリートだ。この流れは最高だった。
誘拐してきた子供(誘拐したときはグンターに変装しているからともかく今は元の父親たるジークフリートになっているわけで、一体、どういう風にこの子供の目に世界は映っているのだろうか?)と仲良く魚釣りをしていると真っ赤な服のラインの乙女登場。
ここでの本来のやり取り、良い男なんだから指輪を頂戴、そうはいかないよ、とはいうもののあげても良いかな|ちゃんと言わなきゃだめよ、呪われるぞ、ざけんじゃないと演技(演出)が頭の中でうまく結びつかなかった。
いずれにしてもハーゲンが下りてきてジークフリートの背中を刺す。子供はハーゲンに抱かれる。ドンドン、葬送行進曲。
ブリュンヒルデの自己犠牲。この歌は凄まじい。が抜群ではなかろうか。グラーネの首が投げ込まれたらしいが気づかなかった。ブリュンヒルデはガソリンを頭から被る。子供たちはラインの乙女たちに抱きかかえられているが、乙女たちは倒れる(なぜ?)。子供はどこかへ逃げ出す。リングのサイクルがリングが抜け出したのだ。新しい世界が始まる。
天が落ちるとヴォータンが首を吊って死ぬ(ジークフリートではジークフリートに撃ち殺されたわけだし、まあどうでも良いがファミリーは解体である)。ラインの黄金冒頭のアルベリヒとヴォータンの双子の胎児の映像。
すさまじい拍手。ハーゲンが出てきたところで全客席がスタンディングオベーション。いや、そりゃそうだろう。
演出陣の登場では当然ブーの嵐だが、今回の指揮と歌手では演出意図が見やすいからだと思うが、ブー2に対してブラボー1くらいにまで賛成派が増えていた(去年のビデオではブー一色だった)。
それにしても実に良いものを観た。
ジェズイットを見習え |