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東京国際フォーラムのCでアリージャンス。
太平洋戦争下での合衆国の日系人強制収容を描いたミュージカル。
2000年あたり、過去の記憶を振り払おうとしている東洋人の爺さん(軍服を着ているが、戦友たちを思い出すために真珠湾攻撃の日にはこれを着るのだと言う)の元に中年の女性が訪れる。お姉さんが亡くなったからこれを渡すように頼まれたと封筒を差し出す。爺さんは拒否する。もう30年以上も会っていないし思い出したくもない。
そこから過去の回想となり物語が始まる。
弁護士にさせたい父親(一代で農園を築き父親を日本から呼び寄せた成功者)に反発する弟と、弟の出産時に死んだ母親の代わりに一家の主婦役を務めている姉の4人暮らしで、近所の白人から野菜の注文を受けたり(単なるエピソードかと思うと後で再登場する)なかなかの羽振りの良さだ。
いきなり(実際奇襲攻撃だったわけだし)太平洋戦争が開戦する。
一体どうなるんだろうと家族で話す。
息を潜めて嵐が過ぎ去るのを待つのだと主張する父親。
合衆国への忠誠を示して日本と戦うべきだと主張する弟が対立する。
近所の人が、第一次世界大戦のときはドイツ人商店が焼き討ちされたからお前らも気を付けたほうが良いぞと教えてくれる。
そこにルーズベルトによる日系人の強制収容命令が下されて、全員ネバダの砂嵐が吹きすさぶ強制収容所に家畜運搬列車で移動させられる。
少なくとも20万ドルの価値があると言っている農園は、2000ドルで売却させられる。
強制収容所ではいきなり全裸検査をさせられそうになり、抗議した結果、軍の看護婦が気を回して女性だけは小屋へ案内されることになる。
共同便所には、個室の区切りがない。
空手の稽古をしていると兵隊に銃を突きつけられて、ここでは東洋のことはすべて禁止だ、と告げられる。
医薬品は軍関係者のみに行き渡り、日系人には包帯と絆創膏のみを与えても良いことになっている。水にも不足している。
爺さんの咳が止まらないため、弟が病院を訪れる。ルールによって薬を与えることはできない、と看護婦に断られる。
弟が抗議し、看護婦が抵抗する。日本人は従順と聞かされていたけどこの男はちょっと違うようだわ、ルールを彼女が破ることができないのは理解できる、とお互いに歌っているうちに心が通い合う。
その後も弟が始めた改善要求の中の遺体袋の提供などにも看護婦は協力する。なぜ遺体袋が必要なのか? マットレスが不潔過ぎるが、遺体袋に藁を詰めれば清潔でクッション性があるから代わりになる。あなたって頭良いのね。この二人の間では人種の差を超えた交流が生まれて美しい歌がいくつも入る。
ほとんどの白人が日系人を獣扱いして不服従に対しては平然と殴り殺す(直前に見かねた別の軍人が看護婦に助けを求めたため、物語に重要なインパクトを与える)。
日系人代表(彼は収容されていない)の必死のロビー活動で、合衆国への忠誠を誓ったものによる数百人単位の部隊の結成が認められる。数百人の部隊が合衆国のために戦死すれば、さすがにインパクトがあるため、日系人に対する差別意識が軽減されるだろうとの判断だ。
かくして、合衆国への忠誠と、天皇の否定の2項目を持つ意識調査が行われる。
父親は両方に対してNoを書く。さすがに愚弄するにもほどがある。
かくして逮捕されて刑務所へ送られる。
弟は両方に対してYesを書く。弟は、忠誠を尽くすことで人種の差を超えて同じ国民として認識されるだろうと考えている。それはそれで正しい判断だ。
一方、姉と良い仲になったフランキー(日本語学校を経営していた両親は開戦と同時に(根拠なく)逮捕されて刑務所に送られている)は、不服従運動を開始する。答える必要はないから答えない。当然の権利すら与えられていない国民に忠誠を要求する国家というのはあり得ないだろうという、正しい判断だ。
レジストの歌は、合唱で「レジスト!」と叫ぶのだが、最初、何を言っているかわからなくてレイシスト!と言っているのかと思った。まあ、その通りなのだが、さすがにそれでは歌にならないし不思議だなと思ったら、服従とか抵抗とかのセリフがあって、ああレジストと言っているのかとわかった。
かくして、正しい判断同士のぶつかり合いとなる。
姉は弟が出征することに反対だ。それ以外は特に考えはなく、わたしは親が揺するブランコの縄の高さに縛られているが、弟は遥か高みへ行こうとしているわ、という美しい歌が歌われる。
(ミュージカルの文脈を実にうまく押さえた名曲だ)
姉は志願しようとする弟を止めようとする。
それまで頭がとぼけているように見えた爺さんが良いことを言う。
「父の言うように、志願せずに待つべきですよね、お祖父さん?」と姉に聞かれて
「男の子は父親に従うべきだ。」
沈黙。弟も動揺する。
が、続けて
「しかし男は自分で選択して前へ進むべきだ。お前の年齢におれは戦争へ行った。お前の父親はお前の年齢で海を渡った。お前はどうする?」
かくして弟はすっかり仲良くなった看護婦に家族のことを頼み、日系人部隊へ志願しイタリア戦線へ送られる(どうでも良いが、舞台美術がイタリアではなくボルネオみたいで違和感があった)。
ドイツ軍に包囲された100人を救出するために400人の日系人部隊がほぼ全滅する。弟は負傷するが命は助かり、戦場の英雄としてタイムの表紙を飾る。
刑務所で担当者が父親にタイムを見せる。お前の息子は凄いやつだ。息子のおかげでお前は釈放されるのだから感謝するんだな。父親はタイムを貰う。
一方収容所では、姉は決断を迫られ、フランキーを選択する。
フランキーの不服従運動は徹底的に弾圧されて、フランキーは半殺しにされる。見かねた兵士がフランキーを病院へ運び込む。後を追ってきた(収容所長にあたるのかな?)軍人がさらに殴る蹴るを繰り返す。最後の力を振り絞って反撃しようとするフランキーに対して、これを待ってたと拳銃を取り出す軍人、止めようとする看護婦で悲劇が起きる。
広島があって(合衆国の物語だけあって長崎は出てこないのか、時間的に意味がないから省略しているのかはわからない)戦争は終結する。
収容されていた日系人は米国政府の好意により(と皮肉たっぷり)、バスのチケットと1人につき25ドルを支給されて収容所から解放される。
日系人ロビイストから事務局へ誘われた弟は、とりあえず家族の元へ行くことを告げてサンフランシスコへ向かう。
しかしフランキーと姉と父親が住む家で、自分の居場所がなくなったことに気付きワシントンに戻る。
そして現在へ戻る。
最後まで父親とは和解しなかったし、する気もなかった弟は、渡された封筒を開ける。
あなたのお父さんの宝物だそうですよ。
マイ・ヒーローと父親が書いた文字がある、タイムだった。
音楽はすばらしい。ただし、日本風のメロディを作ろうとしているのだろうが、5音音階の使い方が日本ではなく中国になってしまうのはしょうがないのかなぁ(プッチーニのほうが調査に時間をかけたからか遥かにうまい)。
出てくる人物のほとんどが独自のそれなりに正しい倫理観に従ってバトルを繰り広げるので見ていて居心地が非常に悪い(が、それこそが作者の狙いなのだろう。もちろん諸悪の根源はルーズベルトの差別主義と、大日本帝国の無軌道な拡張主義にある)中にあって、看護婦さんだけは本質的な人道主義で動くのでえらく役得な印象を受けた。
途中、愚公山を移すが引用されるが、なぜか列子ではなく孔子の言葉とされていてちょっとそれはひどい(儒教的には聖人でもない愚公が山を動かすわけがない)。
Allegiance / O.B.C.R.(Allegiance)
このCDのジャケットは看護婦さんと爺さんなのか? 奇妙だ。と思ったら子供に、レアサロンガはブロードウェイのアジア人トップだから当然ケイト(姉)だと諭される。爺さんは実際に収容所で過ごした人だそうだ。
ほとんどのキャストが来日できないためほぼ日本人のみの公演で、指揮者も入院の予後の飯守に替わって大野とえらく大変な組み換え作業となったワルキューレだが全体としてはとても良かった。
大野はトリスタンとイゾルデの時はとんでもなく緩慢なテンポで本人が陶酔しちゃっているのだろうみたいな感じだったが(おれは好きだがそれでもいささか遅すぎると思うところもあった)、トゥランドットでは実に(良い意味で)グロテスクなアラベスクを繰り広げて、まあ只者ではないことはわかっている。
というわけでどれだけ陶酔的な君こそは春やヴォータンの別れを振ってくれるのかと楽しみな反面、本人が陶酔しきってラリホーになってしまうのではないかという不安もないわけではなかった。
実際、1幕が予定より5分遅くなり、2幕も5分遅くなり、と19時10分終演予定が19時20分くらい(ということは3幕は予定通りだったようだ)に伸びたが、オーケストラともども素晴らしい。これこそワルキューレだ。歌があり恐怖があり沈黙があり希望がある。
そして何よりもジークリンデの小林厚子という人が抜群。声量、歌唱方法、何をとっても超一流じゃん。1幕はジークリンデが歌い出すのがとにかく楽しみだった。
フンディングも良かった。ドスが効いた英雄になり損ねた犬としては抜群の風格がある。こんな良いバスがいたかな? と思ったら、長谷川という人で、最初の東京リングでハーゲンを歌っていた人だった。あの時は声量が随分と不足しているような気がしたが、今回はすごいフンディングだった。それにしても最初の東京リングということは超ベテランだな。
逆に言うと、1幕のジークムントは許しがたい。歌い出すとオーケストラだけに集中してとにかく早く終われとずっと考えていた。鼻声唱法のジークムントなんてあり得ないだろう(それでも最後まで歌い切ったのは見事というかプロだから当然というべきか)。
一方2幕になるとジークムントの第一声がバーンと来て、おおこれは良いのかな? と思ったら全編一本調子でこれまた勘弁してほしい。2幕のジークムントの声で1幕のジークムントの表現だったら良いのになぁと、なかなか日本人オペラにおけるテノールというのは難しいものだな。
ブリュンヒルデは登場時のハイトホーホーの最後が絶叫調でううううと思ったら、実はとても良いブリュンヒルデで気持ちよく聴いていられた。
フリッカは安定のフリッカ。
そしてびっくりしたのがヴォータンのラデツキーという人で、犬め、フリッカの元へ逝けがこんなにおっかないまさに戦の長、雷光の神っぽいのは初めての経験だ。ここ一発でとんでもなく気に入った。(ふと気づいたがドンナーも雷の神だが、あっちは雷鳴の神なのかな?)
演出はゲッツフリードリヒの貧乏舞台なのだが、2幕のジークムントの前にブリュンヒルデが出現するところ(ここでのアルベリヒの呪いとジークフリートの2つの動機の中間のような運命の宣告の動機の歌わせ方もうまい)、3幕でヴォータンが岩山へ乗り込んでくるところ、最後のローゲの炎の輪とか、ここぞというところのメリハリは良いものだ(冬が過ぎ去り春が訪れるところの壁が落ちるところはなんだかなぁという印象を持つのだが、手に手を取って脱出するときに狭い扉からではなく、広い森の中へ直接進めるので悪いものではないとは思う)。
それにしてもジークムントはともかく、実に良いものだった。
夫婦喧嘩で考えたが、しょせん19世紀的価値観なので、フリッカの文句に対して、ヴォータンは、賊から購入した花嫁との結婚のような相互の合意が無い婚姻を契約と呼べるのか? と突っ込まないのだなぁと気になった(もっともそこでフリッカが引っ込むとウェルズング計画の大穴、あらかじめ仕込んだノートゥングをジークムントに与えることに対する指摘ができなくなるからしょうがないが、おそらく誰一人としてこの婚姻の問題点はわかっていなかったのだろうとは思う)。
あと、何度観ても、エルダの知性を持った二人の先読み合戦はおもしろい。
今回の舞台では、ブリュンヒルデはそこまでヴォータンの無言の計画を読み切っておらず、むしろヴォータンに促されてローゲによって特権的防御を得ることに気付いたように見えた。
逆に今回の舞台では、近親相姦全然OKなヴォータンだけに、神性を奪うための口づけまでが異様にエロチックで、おや? この男はジークリンデの腹の中の子を知らない(少なくとも知らないふりをしている。もっともブリュンヒルデは説明しているが途中でウェルズングの話はやめろと遮っているから聞いていないという解釈も可能)だけに、ここで別の英雄を作ろうと考えているのか? という不穏な雰囲気を漂わせておもしろい。
縁なき衆生について書いた本もおもしろかろうと、滑落死した登山家のノンフィクションを読んでみた。
死んだときの毀誉褒貶飛び交うさまはTwitterを眺めていると幾つかはRTされてくるので知らないわけでもないので、興味がなかったわけではない。
が、ノンフィクションとして読み始めたら、ずいぶん勝手が違って戸惑った。
まず文章の流れが、章X 時系列aとc、章X+1 時系列bのような書き方がやたらと多い。
なぜこんなあほうな書き方するのかと思ったが、筆者がおそらく15分1ターンのテレビ屋だからじゃないか? 本題に入る前に前後をとりあえず15分でやって、CMを挟んで本題を一気に盛り上げるとか、と気づく。
要は文章の流れがおかしいのだ。
というわけで、えらく読みにくい(し、日付が明記されるのがX+1のほうだったりするので、記述が前後するのでシンプルに読むと矛盾したりするので、なんじゃこりゃ感もある)。
結局のところ、こういう人が自己流の書き方をしたのだと納得して、テレビ番組と同じで雰囲気で読めば良いのだろうが、文章になっているとこちらは普通の文章を読むのに最適化されているから、そうも読めないんだよな。
で、出てくる人間が、主人公のテレビ屋はそれでも良いとして、最初はすぐに全裸になるお祭り男(ちょっと、もやしもんの兄貴を思い出した)経由で登山をするビジネスマンだったのが、自己啓発(に名を借りたマルチ商法)の広告塔になり(とはいえ2億円も引っ張るのは真似できない芸当なので、そこは素直にすごいと思う)、たかが広告塔にしては肉体を実際に賭けていたり、自撮り動画の可能性を追求したという点ではなんか凄いし(2010年あたりなわけだ。ユーチューバーではない)、単純なお調子者のようでそうとも言えず、興味深くはある。
あるが、読んでいて楽しくない。
要はノンフィクションノベルの域には達していない割に、ノンフィクションとしては最初に書いた時系列を混乱させた書き方のせいで論理的な積み上がりに欠けているからなのだろう。
デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場 (集英社学芸単行本)(河野啓)
と、筆者の書き方というか書き癖(あるいは構成の癖)に由来する点が気になるわけだが、21世紀初頭を全裸経由登山着姿でどどーんと駆け抜けた男の物語としては、実に時代的な興味は尽きない優れたルポルタージュ(ではない)だった。
一方、良く似た題名のデッドゾーンは、クローネンバーグ+キング+クリストファーウォーケンで、とてつもない傑作だが、どちらも主人公の死で終わるのだな。
最近、見たことも行ったこともない商店街に行くのが妻との間でブームになっている。
先日は十条というところに行って、からし焼きという食い物を提供する店が何軒かあって、そういう食べ物(1965年からの十条のソウルフードらしい)の存在を知ったりとか、それなりに発見もある。
で、それより前に大田区のほうの商店街に行ったときに、近所からは完全に絶滅した、子供の参考書と大人のエロ本と、どうでも良いベストセラーと嫌韓本と鬼滅がおいてあるタイプの本屋に立ち寄った。
立ち寄ったが、特に欲しいものも見つからない。
とは言え何も買わずに立ち去るのもくだらないから、目立つところに置いてあるし、知らん作家ばかり集めた短編集だから、最近の作家の作品も読めるしそれなりに暇潰しに読むには悪くは無さそうだなと、新潮文庫の「鍵のかかった部屋」買ってみた。
で、読んだら、大しておもしろくなかった。あの本屋にはふさわしいのかも知れない。
前書きに使い古された鍵に紐を引っかけて密室を作ることをネタにした短編集で「ボーナストラックが最高」みたいなことが書いてあって(というか、買うときはそんな能書きがついていることも気づかなかった)、それは気にせず順番に読み始めて、とてもつまらん、つまらん、ちょっとはおもしろい(微妙にSFで少しばかりのセンスがワンダーしていなくもない)、最大限につまらん、ときて、ボーナストラックはそれなりに余韻がないわけでもなく、まあ、一番ましだったかな、と思いながら読了。
が、本当のボーナストラックは、先ほど、書影を貼るためにアマゾンで検索して、ついでに評を斜め読みしたときにあった。
ほぼ全員が、おれが一番ましだなと思ったボーナストラックをクソミソにこき下ろしている(特にトップバッターは一生懸命に皮肉を書いていて物悲しい)。
なるほど、これが現代の日本の推理小説界(の読者層)なのか。と、それが一番おもしろかった。
それはそれとして、ボーナストラックに余情があるといえば、「もうすぐ絶滅するという開かれたウェブについて: 続・情報共有の未来」だな。
週の半分はオフィスへ出勤するので(完全リモートは可能なのだが、オフィスへ行くとおれ専用の50インチモニタがあるので、通勤しない快適さと、モニタ作業の快適さが、ちょうど半々なのだ)、そろそろワイアレスのイヤフォンが欲しいなぁと考えているところに、たださんがNCイヤホンを買ったと日記に書いていたので、真似して同じものを買ってみた。
使用頻度はそれほど無いから高級なやつに金をかけたくはないが、音が悪いのを我慢するほど安物には興味ないし、ノイズキャンセリングとはいかほどのものか知りたいとかいろいろな理由から、渡りに船な選択だったのだ。
真似してオフィシャルサイトからPaMu Quiet Miniを購入したが、相変わらず値引きしているので大体8000円くらいで変わらんな。
使ってみると、タッチセンサ(ではなく物理スイッチっぽい)がやたらと鋭敏で、何気なく触れただけで停止したりするのは閉口したが、そもそも触らなければ良いので問題ない。とはいえ、ダブルクリックで次の曲(右)、最初から(左)ができるのは便利なのだが、ダブルクリックする前に停止動作になってしまったり、そこは微妙だ。
で、出勤時に使い始めたのだが、「なんだ、ノイズキャンセリングってこの程度のものなのか」と、脇を走り去るオートバイやプラットホームのざわざわや地下鉄の風切り音にがっかりしてしまった。
が、それはそれとしてスマホアプリがあるので、地下鉄を待ちながらインストールしたら、デフォルトは外音取り込みモードで、ごくごく緩くしかノイズキャンセリングしていないことが判明。
なるほど、そういうことでしたかと、「ANCオン」をタップした瞬間、サウンドスケープが一変して心底驚いた。
感動的ですらあった。
デフォルトでは左端の「外部取り込み」が選択されている。
これがノイズキャンセリングか。ちょっと今まで考えたこともなかった世界を知った気分だ。
それはそれとして、たださんの日記には「ガイド音声がちょっとテンション高くなってて笑ってしまった」とあるが、別にガイドなんか無いような……と思ったら、ケースから取り出すやすぐに電源オンしてスマホと接続されるからであって、もたもた装着しているので聞き逃していたことに気付いた。素早く装着するとPower On...Connectedとガイドしているのだった。
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