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『小さな町の小さな百貨店、お母さんと贈り物の思い出』を読んでいて、子供からの最初の(お金を使う)プレゼントのことを思い出した。
その頃、小遣いをあげていたかどうかは全然覚えていないのだが(小学校の4年か5年で、おそらくあげていないような気がするが、お年玉貯金みたいなものは持っていた)、とにかくそれが最初の買い物によるプレゼントだった。
秋頃だと思うのだが(夏休みの可能性もある)、家族で科学未来館へ行きいろいろ観たあと、1階のお土産物売場に寄った。で買うでもなくうろうろ見ていたら、どうも子供の動きがおかしい。何かこそこそしていて、そのうち母親の方へ行き何か喋りあっている。そのうち、何かを買っているのが見えて、おれではなく、母親のほうにねだりたい何かがあったのかな? とか思うと同時に、なんとなくおれに何かを買ってくれているのかなというのは感じた。が、その後何もくれなかったのでそのまま忘れてしまった。
というようなことをさらに忘れたその年のクリスマスだ。
子供がおれにプレゼントをくれた。何だろうと開けてみると(でも確か、包みは科学未来館のものだったようで、その瞬間に科学未来館のお土産物売場での怪しい動きは思い出した)、宇宙飛行士の携帯ストラップだった。
おれが欲しそうにしていたから、とか理由を言われたような言われなかったような、そのあたりの記憶は全然ないが、宇宙を飛行できるくらいに嬉しかったのは覚えている。物を買ってプレゼントにして、しかも時期が来るまでずっと待っていたとは。大きくなったなぁという嬉しさだ。子供からのプレゼントの本質って、おそらくその成長したなぁという感覚なのだと思う。それは同時に、ここまで育てたという自負心をくすぐるものでもあるのだろう。まったく得難い感覚だ。
その後、数年もたたずに携帯ストラップとしてズボンの尻ポケットと手の間の往復旅行に酷使された宇宙飛行士は、腕が無くなり脚が無くなり、ついに紐以外はどこかへ飛んで行ってしまってデブリと化したが、最初にもらった(買い物された――幼稚園で作ってくれた父の日の画とかはまた別の話だ)プレゼントだという名誉はおれの記憶にしっかりと残っている(が、書いてみたら、覚えていることは少ないものだ)。
次にもらったプレゼントは、修学旅行のお土産のウサギの小さな置物で、これは引き出しの中に無事な姿でしまわれてある(数年はPCの上に載せていたのだが、当時の環境もあって雪ウサギが茶色い野兎に変わってしまって、これはいかんとしまったのだった)。
ライブラリの内側を実装する場合と外側を実装する場合の一番の相違は、糖衣構文の下の生な実現方法についての知識の必要性の有無だ。
IDispatchとIDLを知らずにCOMのコンポーネントを開発するのは相当に無理がある(例:MFCを使ったActiveXコントロール)。同様に、LINQで操作できるオブジェクトの開発を行うには、IQueryableを知らずに何かするのは無理がある。そこまで行かずともforeachできるようにするにはIEnumerableを知らずに作るわけにはいかない。
でも、外側だって、それを結局は知らなければデバッグも何もできないのではなかろうか。
それに、DSL的なデータ構造を使ったプログラミングをするには、オブジェクトのみならず型も抽象化して扱う必要があるので、リフレクションや糖衣構文の下にある本来の呼び出し方法を知らないと無理がある(たとえばIDEのインテリセンスに頼って500個のオブジェクトに対する5000行列挙された手続きを読むより、500要素の配列を列挙してループで操作する10行のコードのほうが読みやすい)。
というわけで、結局は生なAPIを知らなければ相当辛い。
入門書に歯がゆい思いをするのは、そこの説明がおざなりであったり、無かったりすることだ。
妻がレンタルマンガで漂流教室を借りて読んでたので、おれも読んだ。
子供(といっても小学高学年の頃だと思うが)の頃、少年サンデーの連載を途中まで読んだが、怪虫のエピソードのところのあまりの恐怖に読むのやめてしまったまま読まずじまいだったのだった。どれくらい恐怖だったかというと、今でも舟虫とか見ると飛び上がって逃げ出すくらいで磯には近寄れないくらいの恐怖だ。
それにしても、読んでつくづくと、楳図かずおの溢れるばかりの才能に舌を巻く。
次々と襲い掛かる難関はちょっとぶっ飛び過ぎのきらいもあるけれど(たとえばペストとか)子供の知識で恐ろしさが十二分に理解できるように巧妙に練り込まれているし、伏線の回収っぷり、泣かせどころ、リアリティ(ペストとかが出てきてどこにリアリティとは言えるが、にも関わらず恐怖の質感が現実的なのだ)、まったく見事なものだ。
ただ、70年代ならではの恐怖(ちょうど今の中国みたいな強烈な公害―汚染による奇形生物の発生であるとか成分分析ができていないためあまりにも怪しく謎に満ちた汚染大気(スモッグというのだが今は見かけない言葉だ)やらゴミの処理ができない状態(今でこそ燃焼力の強さとそれを許容できる炉の建設などによって石油製品も燃やせるようになったが、当時はプラスチックの廃棄がうまくできないため大問題となっていた)などが、その当時にはリアルな恐怖の未来として表現できたし、それが現実的な恐怖の触感として生々しさがあったのだが、現在の目から見ると、ちょっと怖がり過ぎのきらいも無いわけでもない(でも、このあたりの恐怖がトラウマになっていると、いわゆる「放射脳」的な感覚としていろいろと今でも目にする大仰な反応となるのかも知れない。その意味では現代にあっては、70年代的な恐怖というものを理解できる実に興味深いマンガだ)。
しかもラストには完全に感動、感服してしまった。異様な恐怖や残忍な殺し合いの果てに、こうまとめるかというくらいにきれいにまとめて感動させるのだから、楳図かずおは本当にすごい作家だ。
物語はいきなり小学校がまるごと現在の現実から切り離されるところから始まる。学校のあった場所にはただの穴がある。主人公の同級生で忘れた給食費を取りに家に戻った遅刻生徒を用意することで、外側からの観察をうまく処理している。
一方、小学校から見ると校門の外は砂漠だ。砂漠の外の危険性というものを表現するために、すぐに何人か生徒が死ぬ。
主人公は、おそらくうしおととらに影響を与えたに違いない(性格と髪型)うしおのような小学校6年生。地味に支えてブレーンとして知識をそれなりに(しょせんそれなりでしかないところもリアリティがある)伝えることができるオバQのハカセのような目つきのおかしい5年生(6年生かも)、同級生のちょうどドラエモンの出木杉そっくりな優等生の学級委員長、主人公と時空を超えて母親とつなげることができる脚が悪い5年生の女の子、主人公のことが気になる6年生の女の子、3歳児、取り残された給食納入業者、先生たち、それから1970年代現在に居る母親と父親(当時の良き父親像らしく、あまり介入しないが、ここぞというときは理解者としてサポートするのがおもしろい)といった登場人物が(子供が読んでも理解できる程度に)複雑にそれぞれの思考によって活動しながら、生き残るためにあがきまくる。
当然のように、大人(力があってでかくて車を運転できて嘘を平然とつく)と子供の関係、子供同士の関係、暗黒、食糧不足、水不足、次々と屋上から飛び降りる子供たち、宗教によるごまかし、異様なキノコによる侵略、病気、暴力、これでもかこれでもかとすごい勢いで子供が感じる恐怖が襲い掛かって来る。
主人公は決して完璧超人ではないので、大事な話を聞かずに味方を殴って駆けだしたりするし、副主人公も平気で大事な約束を忘れたりもする。出木杉君の役回りの子供も出木杉君ならではの苦悩もあり、反逆もあるし、裏切りもある。
少年サンデーのマンガだな、と思う点があって、母親と子供の関係がすごく強く表現されている。
少年マガジンはおそらく永井豪のススム君のせいもあって(いや、ない。想定読者層が少し上だからだろう)親はほとんど物語に介入しない。唯一の例外が星飛雄馬と親父の関係(母親ではない)くらいだが、それにしても方向が違う。
少年ジャンプは友情!なのでそもそも家族はあまり描かれないし、描かれても母親は主人公に食事を提供し、父親は主人公に金銭的な保護を提供する役回りがせいぜいだ。
が、少年サンデーはなぜか印象的な作品は主人公と母親が相当強い関係を持っているし、主人公の家庭とそこでの生活が描かれることが多く感じる。なんでだろう? ママさんおかわりのオバQにしてもそうだし、そこが小学館というものかも。
妻が江戸川区聞き書き研究会というとこが発行しているブレチンを2枚ほどもらってきて、おもしろいから読めというので読んだ。
1枚は「80歳まで眼科医を続けて」という引退した眼科医の聞き書き。もう1枚は「95歳の現役女将」という現役の飲み屋のおかみさんの聞き書き。で、どちらもえらくおもしろい。
調べたらWebでも公開されていた。えどがわの女性
どうも、江戸川区の女性参画事業の一環らしい。
こういうのがおもしろいのは、稗史にほかならないからだ。歴史はおもしろいが、特にそれがおもしろいのは、非公式かつある特定の視点の偏りがあり、しかもそこに客観性を持った記述となる場合だ。
その意味で、現在80以上の人間というのは、日中戦争前あたりに生まれて、太平洋戦争、アメリカ占領時代、共産党旋風時代、自社共闘時代、高度成長時代、反米時代=石油ショック時代(国際化時代)、多様化時代、バブル時代、景気後退時代と、実にさまざまな時代を経験しているので、聞き手側を含めてある程度の客観視ができる教養を持つ人間の一代記であれば、つまらないわけがない。
しかも、これまでいろいろ読んだり聞いた範囲では、女性の話のほうが男性の話よりもはるかにおもしろい。この時代を生きた女性は、全方位外交が必要なので、経験が多岐にわたるからだ(その反面、専門的な分野に特化した話題は男性のほうが語れることが多いように思う。単に依頼方法の問題かも知れないが)
良くいわれることだが、専業主婦という職業の樹立は、高度経済成長期に入って、会社員という職業の補完物として誕生したことにあるということが、ここでも確認できる。どちらの女性も働くことを求められて、実際に働いていた(いる)からだ。
女将のほうは、大学に進学したかったが、親に蹴られて勤め始めたので、後になって余裕が出てから早稲田の講義録を取寄せて勉強したとか書いているが、今ならCourseraとかで勉強することに相当するのだろうか(というか、今でも講義録の取寄せとかできるのか?(多分できないと思うのだけど))。
一代記として読むと、特に女将の聞き書きは、具体的なもらった金額の話や、1960年代に近所の人たちのおかげで焼け残れた茅葺屋根の家屋から3階建てのビルに建て替えるまでの(省略が多いが)紆余曲折などまで語っているので、実に興味深い。
るびま50号が出ました。50というのは10進数ではすごくキリが良い数なのでまずは祝着。
50号のプレゼントコーナーでは、僕が監訳したEffective Rubyが対象です。
読みたいけど買うまでもないという方や、買って読んでほかの人(同僚、友人、同級生とか)にも読ませたいけど自分の買ったのを貸す気にはなれないという方は、振ってご応募ください(5/31締切です)。
で、書籍紹介ページでも取り上げていただいているのですが、1点、筆者が何考えているかは別として、良く気持ち悪いと指摘される点(このページのtakkanmさんもそうですが)について説明します。
それは、筆者のサンプルコードはrequireにカッコをつけてrequire("foo")
のように書いている点です。
理由は読めば明らかですが、筆者はメソッド呼び出しにカッコを付けることを推奨しています。カッコを付けることで結合優先順の違いによる予想もしない結果を防ぐというのが理由です。
これは相当妥当な判断で、演算子の結合ですら、(4 + 3)/8(2 + 1)(忘れちゃったけど、ちょっと前に話題になった)とか書かれると間違える人が続出するくらいなので、ましてRuby以外ではそれほど例がないメソッド呼び出しのカッコ省略時の引数の結合優先順を調べて覚えるくらいであれば、最初からカッコを付けることで省エネすべしというわけです。
結果として筆者は原則に実に忠実というか、自分が書いたことに誠実で、本書に出てくるあらゆるメソッド呼び出しにカッコを付けているわけです。すると当然、requireもKernelのメソッドなのでカッコを付けることになります。
なお、誰もそう書かないとは思いますが、puts 'duplicate require for foo' unless require('foo')
と書けるくらいに、requireは値を返すメソッド呼び出しです。
ではなぜ、カッコを省略したくなるか考えると、Cのプリプロセッサディレクティブの#includeや、C#のusingやJavaのimportステートメントと、同じように扱いたくなる(書きたくなる)から(あるいは、そう考える人が作ったソースを読んでお手本にしてきてしまったから)でしょう。僕はそうです(いや、僕はカッコは省略する派なのでまた違うか)。
というわけで、requireのカッコについては筆者の誠実さの表れであると読むべきでしょう。
Kindle版も出ているので、そっちを貼っておこう。
10日は新国立劇場で椿姫。
指揮は、以前から気に入っているイブアダムなので、どちらかというとそれほどおもしろいとは思えない椿姫でもまあいいかなぁという程度の気持ちで観に行った。
でも、これは観に行って本当に良かった。素晴らしかった。初日なので歌手は随分セーブしていたのかも知れないが、いやいや実に良いものが聴けた。
最初、舞台の一角がチェロのほうにはみ出しているのがカーテンの下から見えておもしろい。
それよりも、序曲からテンポが素晴らしく良い。やっぱりイブアダム好きだな。2幕のアルフレードの2曲目では、おや、こんなにズンタカッタッタ調だったっけ? とはっとなるほど威勢が良い。まるで闘牛へ行くみたいだな。
で、幕が開くと、中央に置かれたピアノの上にヴィオレッタが寝そべっていて、手前にはシャンパングラスのタワー(危険ではない程度)が積まれている。
ヴィオレッタの声が高音が入った美しい声でまず気に入った。アルフレードは普通にアルフレードで良いも悪いもない。女性に比べて男がみな画一的な衣裳で誰が誰だか良くわからない(これは2幕2場でもそうだった。親父はわかるけど)が、まあそんなものだろう。
センプレリベラが始まる直前(ベルディが例によってチャチャーンと一旦終結させるのが悪いのかも知れないけど)長い拍手が入ってちょっと気がそがれる(歌手もちょっと困っていたみたいにみえた)。が、そこまでもすでに随分良いのだ。で、センプレリベラの部分はちょっと声が小さいような気がするのだが、そのあとでオーケストラを踏み越えて行くので、そういう強弱の付け方の歌い方なのだろう。最後、くるっと回した後は割と早めに切り上げる。意外なほどアルフレードの声が力強く聴こえる。朗々とした良い歌いっぷりかも。
ヴィオレッタの衣裳が2幕1場の紫の衣裳、2幕2場の黒の衣装が美しい。1幕は白だったかな?
親父も悪くないが、何か(元々そういう歌だが)妙に説明的な感じを受けた。が、ここでもヴィオレッタが美しい。ベルナルダボブロという多分東欧の人。
休憩が2幕の1場と2場の間で、妙といえば妙だが、時間的なバランスが劇中的にも(1-(3か月)-2a(同日)2b-(3か月)-3 で対称だ)現実的にも良いので納得感はある。
2幕2場で右側の壁がなくなり、ヴィオレッタのアルフレードを失った虚無が突然広がる。
3幕は、まるで日々の泡の最後のように妙に狭くなった空間にヴィオレッタがいる。ここのベッドもピアノだ。他の登場人物はすべて紗の向うで、どうもこの解釈ではジェロモン父子はヴィオレッタがうなされている末期の夢でしかないようだ。それにしても、ボブロの歌唱は美しい。
演出家(ヴァンサン・ブサール)や衣裳の人とかが舞台に上がると珍しくブーが浴びせられていた。最後をヴィオレッタの夢にしたことが気に食わなかったのか、1幕や2幕2場の合唱の動かし方が何かごちゃごちゃしているのが気に食わなかったのか(子供は2幕1場の親父が突っ立ったままで、ヴィオレッタが手紙を書くところもおざなりでちょっと……と言っていたので、そういう点かも知れないが)、おれは相当好きなすっきりした演出なだけにいろいろな好みがあるのだなとつくづく感じた。
帰り、車の中でクライバーとコトルバスの椿姫をかけてみたら、良く似た声質で、しかもセンプレリベラの最後のところのくるっと回して早めに打ち切るところがそっくりだったので、ちょっと驚いた。
なんか1か月以上もかかったが読了。
おもしろかったし、感動的ですらあるのだが、いまひとつ読みにくいのが時間がかかった(つまり、読まずに放置しておく期間がある)理由だ。
だが、本書は21世紀の人類と社会の常識として知るべきことが書かれた本だと読んでいて確信したので、読みにくかろうがなんだろうがとにかく読了した。
著者はアメリカの遺伝子研究のリーダー格の人で、当然、推進する立場だ。というわけで、途中、遺伝子科学の進展によるバラ色の未来像を描いていたりするのだが、説得力はある。
読みにくいのは、日本であれば新書(専門家が素人向けに薄く広く好奇心を刺激する程度に書いて終わる本)の内容をまともなハードカバーとして上梓することになるアメリカの出版事情によるのだと思う(翻訳はこなれている)。
まず事例があり、深掘りする。のパターンの繰り返しだ。ある家族のほとんどが乳癌で死んでいる。さすがにこれはおかしいと現代人の生き残った親族はびびって医者に相談へ行く。その医者とは何を隠そう筆者(あるいは筆者の同僚)である。ふむでは遺伝子チェックしましょう。その結果、2/3は癌になる可能性が80%あるので事前に乳房切除したり、毎年マンモグラフィによる検査を受けて早めに見つけるようになった。しかし一人だけそれを断固拒否した人もいる。それはそれで尊い選択である。残り1/3はびびって事前切除をしようとしていた人も含まれていたが、リスクが普通(ということはそれほどなるわけでもない)だとわかって切除するのを思いとどまった。おそらくその選択は良いことである。
さて乳がんについては特定の遺伝子の変異によってリスクが高まることがわかっている数少ないものだ。この場合、男性にも遺伝するので家族構成がこうである場合、遺伝する可能性はこれこれで、といった調子の説明となる。
おもしろい。
どちらかというと、各トピックの導入部の事例よりも、後ろの説明のほうが圧倒的におもしろい。
劣性遺伝と優性遺伝の違いを復習できただけではなく、ある種の薬の作用の仕方(タンパク質の生成に問題がある患者がそれを服用することで、生成過程に介入して正常なタンパク質を生成できるようにし、そして時間とともに消失する)などそういうことだったのか、と納得すること甚だしい。
驚いたのは、僕が服用している薬は人によって横紋筋融解症という重篤な副反応を誘発するのだが、医者はそういう副反応があり得るので~という症状が出たらどうしたこうしたと説明するにとどまるのに、この本にはその副反応を誘発する遺伝子はすでに特定されていて、その検査をして変異がないことを確認してから投薬するべきと書いてあることだ。
もしかして、日本って圧倒的な後進国なんじゃないか?
その日本については、iPS細胞について言及している章があり(なぜ、それが今後の治療に重要なのかの説明で実にわかりやすい)、そこでは科学的な発見というものは感動的なものだが、特にiPS細胞の論文には全身全霊で感動したというようなことが書いてあって(もちろんその理由も)、なるほど、そういうことだったのか、とあらためて感動した(いや、それまでは別に感動なんかしなかったのだが、なぜそれが人類にとって最重要な発見なのかということをきちんと説明されたので、感動したのであった)。
あと、重要な論点として、オープンソースではだめで、フリーソフトウェアでなければならないということが語られている(もちろん、著者はそういうったものが存在することを知らない可能性があるが、論点をこちらにスライドさせてみればそういうことだ)。
つまり、遺伝子研究と研究成果について、著者はストールマンのように強力な自由主義者(金儲けの自由ではなく、人類共通知識の自由のほう)で、発見を秘匿しようとしたり、特許を取得しようとする製薬会社との戦いのエピソードが出てくる。製薬会社が薬を開発して市場に出すまでの金銭的、人道的な困難さを著者は完全に理解したうえで(審査に通って売薬できるまでの困難さの説明が付録についている)、それでもゲノム情報の独占については強い危機意識があることがわかる。そこでシンボリックスをハックしてはLMIに移植していたころのストールマンのように、遺伝子をがんがんハックしては研究成果を次々にオープンにしているらしい。ここでクリントンとオバマという民主党政権の大統領が重要な役割を果たしていることになるほど、と思わさせられた。
遺伝子医療革命 ―ゲノム科学がわたしたちを変える(フランシス・S・コリンズ)
人類は本当に遠くまで進めそうだという確信を得られるという点で、本書は現代に生きる人間にとって必読書だと思う。
ブラウザをマウスでくりくりやったりたまにぽつぽつ文字を入れるようなのはどうでも良くて、たとえばATMあたりを考えてみたくなるわけだ。
最初のページはボタンを押して入金か出金か振込か残高照会かを選ばせる。と同時にカードを入れるのもOK。
ここで、各ボタンクリックに対してFutureを割り当ててコンプリート時の処理を記述するとするじゃん。もちろん、カードの挿入による磁気ストライプの読み込みイベントについても同様とする。
で、一見するとおそらく非常にきれいに書けるのは間違いないのだが、そこに間違いのもとがある。
ボタンを押す前に磁気ストライプを読み込んだら、自動的に引き落としページへ遷移するとして、各ボタンも同様に各ページに遷移するとする。
ここで、ページ遷移にIO(あるいはHTTPのようにサーバとの通信)が発生して、そこも当然、非同期な書き方をするとする。つまり、遷移要求のFutureを作ってコンプリートしたらそのページの処理をするというような書き方だ。
で、もちろん、こんなナイーブな実装をしてはだめだ。
というのは、ページ遷移の間に、別のボタンを押されたらナイーブな実装であれば、そのページへの遷移を呼び出すことになり、いずれか先に返ったページの処理をしようとしてまた非同期要求をした時点で、もう一方のページが返って来て、とやっているうちに、あせって挿入されたカードの磁気ストライプ読み込みコンプリートの処理が起動されて、つまり、死ぬ。
ということは、いずれか最初にコンプリートされた時点で、他の非同期要求をすべてキャンセルして回らなければならず、ページ遷移のような非同期要求中は他の非同期要求のコンプリートを無視しなければならず(でも磁気ストライプ読み込みについては遷移先でいずれにしても必要なのであれば、バッファしておく必要があり、しかしマシンのメモリにバッファしていればしているほど危険が危ないので何らかの工夫が必要となり……とやっているうちに、非同期プログラミングって何の役に立つのだ? と当然の疑問が湧いて来ることになる。
なんと今から25年も前にWindows3のイベントドリブンプログラミングの時にぶち当たった問題の再現だ。そりゃ、C++のコールバックベースのイベントドリブンプログラミングよりははるかに記述はしやすくなっていはいるが、本質的な難しさは何も変わってはいない。
まず前提として、現行のシステム開発における上流/下流分断は維持されるものとする。
その場合、現行の問題点は上流側の実装技術の制約や得意不得意といった技術的知識の欠如による誤ったグランドデザイン(アーキテクチャ)に集約される(か、それが重篤な問題の一部となる)。
Actorシステムにおいて、ソフトウェアの構成単位は容易に人間(職能)とみなせる(というよりも、みなすべきである)。
しかもそれがソフトウェアだということから、マズロー未満の経営工学的観点で、全体の組織を設計することが可能となると考えられる。ある職能の構成単位は、確実にその職能のみを行うと考えられる。
また、それがソフトウェアであることから、テイラー時代のライン生産方式の設計で良いことになる。(セル生産方式を単純に導入すると、構成単位がフルスタックとなり、そもそもソフトウェアのモジュールとしては意味をなさなくなる)
障害予測は、まさにライン生産方式での障害予測に準ずるものとなり、実装前に予測可能となる。
もし、そのように前提できるのであれば、ソフトウェアの上流設計は経営的視点における組織論アプローチに最適化されたものとなる。
これは現行のシステム開発における上流/下流の区分を維持するには、良いものである。上流は、ソフトウェア開発の実プロジェクトの設計(人員配置、スケジューリングなどなど)と、ソフトウェア設計の両方について、同一の知識/経験を適用できるからである。
子供と上野に行ってグエルチーノを見る。誰だそれ? と聞いたら向うも知らないらしい。混んでるのかな? と聞いたら、有名じゃないから空いてるんじゃないかという。
で、行ってみたら、それなりに人は入ってはいるが、それでも美術館で美術を見られる程度に余裕の空き方だった。
で、チェントだのボローニャだの書いてはあるが、どういう文脈でこんな聞いたこともないやつの展覧会をしているのだろうと思って、冒頭のあいさつ文とか読んだら、自分の不明を知るばかりであった。
2012年にチェントで大地震があって、郷土の誇りのグエルチーノ(ここまで読んで、単なる田舎画家かと思ったが、それもあとで覆されることになる)の美術館が半壊して復旧の目処が立たないので、各地を巡業しているのだそうだ。西洋美術館にはゴリアテの首を持つダビデを所蔵している関係からも当然のようにグエルチーノ展を開催するということだった。同じ地震国で美術の保存が難しい国同士、交流しましょうみたいな言葉も書いてある。
3つおもしろい点があった。
まず、構図のうまさで、そこら中に三角形がある。特に見事な三角形(を作るためにちょっとキリストが傾いている)復活後のイエスとマグダラのマリアの画を、隣の部屋の壁に開けられた窓から最初見て全体の三角形の美しさにほおなかなかの画だなと思って近寄ると、イエスの傷が実に上品だったりするのだが、ベラスケスが見に来て影響を受けたらしいとか書いてあって、えーベラスケスの三角形に影響を与えた人なのかと驚く。確かに色彩の強弱と構図の巧みさは見事なのだが、それを確立した側の画家だったのだ。
次に作風の変化として、だんだん、巫女さんやクレオパトラとか女性が一人でいる画が増えていくのだが(ということは、そういう画の注文が多いということなのだろうけど)、すべてがすべて斜め上を見ている。それが余りに妙なので、過去の作品に戻って見直すと、斜め上に木枠のもの(文書なのか鏡なのか)や、幼子イエスや、天使がいるのが、そのまま単体作品にも利用されているのだ。この構図でしか書けないのか? と思うと別にそういうわけでもないので、写実的な絵画を壁にかける人が、目線を合わさなくても済むようにしているとしか考えられず、それがおもしろかった。レーニという当時のライバルの作品も展示されていたが、こちらの女性も斜め上を見ていた。
最後に、几帳面な弟が注文と売掛回収簿みたいなものをつけた(弟が死んだ後は本人がつけたらしい)が残っていて、それの分析結果が書いてあるのだが、サイズと中に書かれた人間の人数と頭、胸から上、全身といった構成要素によって価格が決められているということと、20から40歳までどんどん価格が上がっているのが、40後半から価格が下落している(若手の台頭に対応するためというような説明があるが、おそらくカストロ戦争などの影響で支払い側の懐事情もあるような気がする)ということ。システマティックな価格付けや、年齢による価格下落というのがおもしろい。最初のほうにも、価格を値切られたらしく脇役の2人は弟子が書いたという説明付きの画があったりして、今となっては芸術だが、当時は完全に産業なのだということがわかっておもしろい。弟子の書いた2人の脇役のうち1人は手に聖痕があるので聖フランチェスコだと思うのだが(というのはその直前の画の説明で、聖痕があるので聖フランチェスコとわかると書いてある)そちらは単に弟子がふざけて書いただけでフランチェスコとは認められていないのかな? とか不思議に思った。
聖フランチェスコの聖痕だけでなく、いろいろお約束があって、鍵を持っていればペテロ、車輪があれば聖女カタリナ、ラクダの毛皮(というか茶色い毛皮で十分なのだろう)をまとっていれば預言者ヨハネ、白い鳥は聖霊(左にイエス、中央に白い鳥、右に父なる神という三位一体の画があるのだが、右が単なる爺さんにしか見えず相当不思議な感じがしたのだが、このあとも神を描いた画はどうにも良くない)、なかなかおもしろい。ビジネスなので記号を利用することで生産効率を上げているのだなと考えると、カトリックのイタリア(でもこの頃はガリバルディより前だからイタリアという国家意識はかけらも無いと思う。南はスペイン領で教皇領がどーんとあって、ボローニャやらヴェネツィアやらマントヴァやらの公国に分断されているからだ)の17世紀(江戸幕府の成立ごろの時代を生きた人だ)の合理性というのが良くわかっておもしろい(ガリレオの裁判と同時代の人なのだ)。
ちょこちょこ画の脇に書いてあるエピソードもおもしろいものがあって、ある画は、注文と異なるサイズで書いてしまったため、受け渡し日の前日に気付いて1晩で仕上げた。そのため、自由な筆致であるとか書いてあってそんなに早く書けるものなのかとか。また、当時は良い画を描くと、そのコピーを欲しがる人がいるので、元の注文主の許可を得て、引渡し前に弟子にコピーを作らせるのだが、偉い人にコピーを所望された場合は自分で描いたとか。靴屋は靴を作り書記官は筆写し画家は描くだなぁ。
と、知らないことばかりで実に楽しめた。
・若い頃の2つの作品は顔料に何かを混ぜていないので透明化して木目が出たというのと、修正前の足が出たというのがあって、若い頃は技術的に未熟だったのかなぁとか。
・奇跡を授けている像の左側に暗く祈る像があるのはそういう効果だと説明しているけど、これも透明になって祈っている像が出てきてしまっただけじゃないのかとか。
・ルクレティアの画を描いてくれと頼まれて描くと、血が出ていて気持ち悪いから修正してくれと頼まれて修正した(当時は血なまぐさいのを好まない客が多い)というのがあったが一体なぜそもそもルクレティアを注文したのかとか。
・セバスチャンって矢に射られて殉教したと思っていたら、この時代では矢は急所を外れて助かったことになっていて、癒されている画が多数作成されたとか描いてあっておもしろいなぁとか。
・グレゴリウス15世は在位2年で死んだから、まるで皇帝ティートのように悪い噂が無いのかなぁとか(グエルチーノは一緒にローマへ行っている)
・カストロ戦争の難を避けるためにボローニャからチェントへ戻ったというようなことが年譜にあったが、カストロ戦争ってなんだろう? (検索しても、キューバのカストロばっかり引っかかる)
・それまで単に普通の画を天井に設置していたのを天井画として描いた嚆矢らしいが(という説明がある)、天井画はないので良くわからない。ただ、妙に下から見上げた視点で描いた聖母昇天があって、構図無双だなとは思った。
随分前に子供がDVDで買ったレ・ミゼラブルを一緒に観た(子供は映画館にも行ったはずだが、おれは初見)。
ミュージカルとして音楽のできが良いのはCDで何度も聴いていたから知っているわけだが、映画としては以前たださんが炎上したのを眺めて、それほど期待はできないのだろうなという気はしていた(とは言うものの、映画鑑賞者としてのたださんのベクトルとおれのベクトルが全然違う可能性はあるので、観ないことにはわからない)。
Les Miserables 10th Anniversary Concert(Various)
(赤と黒の歌とか好きだが、全然、スタンダールとは関係ないのだった)
ミュージカル映画としては以下は良かった。
・ガブローシュが象(象のでかさは映画だ)から出てきて去るところまで。ただし、映像のテンポはいまひとつ。
映画としては以下は良かった。
・テナルディエが登場して次々と抜いていくところ。もう少しつなぎが良いともっと良い。それに対応してジャンバルジャンがコゼットを貰い受けに行って抜かれたのを次々と抜き返すところ。ここは映画だった。
・ジャンバルジャンが身分証を破り捨てた後、カメラがどんどん引いていくところ。おもしろい(が、エシャーの塔みたいに仕掛けておくともっとおもしろそうだ)
どうもおれが大して好きではない音楽の箇所は、映画作家にとっても好きではなく、同じく観ている人も好きではないと判断したらしく、まじめに映画を撮ることにして(音楽を聴かないと前提して)、誰もが好むきれいな音楽の箇所は、映画を撮ることを放棄した(誰もまじめに映画を観ないと前提して)としか思えない。生産性は高いが、そういう産業映画を作ったのだなという感じだ。
それにしても、ミュージカルなのに行進シーンが無いのはひどい。少なくともラマルクの葬列からバリ封するまでのところは歩けるのではなかろうか。
その点については、愛と誠のほうがよほどミュージカルとして優れている。
愛と誠 コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD](妻夫木聡)
途中マリウスとコゼットがお互いの名前を知り合うところは、濡蛙の語らいみたいでちょっとひどい。
せっかく、ジャベールの最初の歌では足を踏み外すことなく高いところを歩くことで信念の人だということを示しているのだから、実際の物語では自殺だとはいえ、せっかく橋の上をふらふら歩かせているのだから、対比として足を踏み外させてしまえば良かったのにと思った。
それはそれとしてヒュージャックマンは良い顔で、これなら適当に引いてヒュージャックマンだけを映していればそれで十分だったように思う。
_ ただただし [炎上なんてしてないよ!www]
東劇でメトライブビューイング。アルヴァレス(アルゼンチンの人らしい)をトゥリッドゥとカニオに配したカヴァレリアルスティカーナと道化師を観る。
最初はカヴァレリアルスティカーナ。ファビオルイージの指揮が、最初はえらくゆっくりと、しかしだんだんとうまく高揚させていき、最初から期待させる。
演出は両方ともデイヴィッドマクヴィカーで、メトだから全裸はないだろう程度のつもりで観始めたら、これは抜群だった。
カヴァレリアルスティカーナでは黒い長方形の一段高い場を設けて、そこが広場にも、教会にも、トゥリッドゥの酒場にもなる。回りに椅子を配したり、椅子を上に上げたりして、最低限の舞台装置を使ったヴィンラントワーグナー風の演出なのだが、細かな目配りが聴いていて、美しいメロディーにあふれているが単調でどちらかというと退屈な作品に非常な緊張感を与えている。衣裳は黒。男は黒い帽子に黒いスーツで、女性も黒い。
イタリアピアノ名曲選集―ヴェルディ、プッチーニ、マスカーニ、ドニゼッティ 全音ピアノライブラリー(ヴェルディ)
(間奏曲の元ネタが収録されているらしいので買ってみた)
特に1幕が始まる前のローラのことを歌ったそこだけシチリア風らしい歌の前後で、男女3人のダンスが行われるのだが、拒否と罠と絶望がモチーフだと読解したが、それが抜群にうまい。
カヴァレリアルスティカーナは裏切りと復讐の物語なのだが、先日子供と話していてサンタの裏切りの物語ととらえていて驚いた。言われてみればそういう要素はあるのだが、おれにはトゥリッドゥの裏切りの物語だからだ。当然、ローラの裏切りの物語と観る人もいるのだろう。それだけ裏切り合えば血を見ないはずがない。
というわけで、ファビオルイージの指揮、マクヴィカーの演出、エヴァ=マリア・ヴェストブルックのサンタ、アルヴァレスのトゥリッドゥ(それから黒人女性だと思うのだが、アメリカ人名だったローラと、トゥリッドゥのママも)すべてひっくるめて、これまで観た聞いた中で最上の出来栄えだった。あと、アルフィオを演じたジョージ・ギャグニッザ(以前、スカルピアで観て、とんでもないハンプティダンプティだが、逆にその体型のせいで堂々と傲慢な立居振舞となって印象深いが、良く見たら名前もジェームズキャグニーみたいな良い名前だ)の堂々たる馭者も良かった。結局、すみからすみまで良く、マスカーニを見直す。
(カヴァレリアルスティカーナでは単調極まりないオーケストレーション(弦、弦、ハープ、弦、弦、ハープ)が、ロドレッタになると文句なく新イタリア楽派の重鎮と呼べるすばらしい音楽となっていた)
で、道化師。同じくマクヴィカーだが、今度は打って変わってベリズモ。馬に乗ってラセットのネッダが登場(しかも横座り)、トラックが着く広場、舞台小屋、派手な衣装、ボードビリアンを3人使ってトニオやネッダをサポートさせる。シルヴィオはマーロンブランドが港湾労働者をやっていた映画みたいな感じで、1950年代あたりを舞台にしたのだなと感じる(というか、幕間にそういう説明があったような気がする)。
マクヴィカーの演出はカヴァレリアルスティカーナに比べると力量の70%で鼻歌混じりに作っているような感じだ。が、元々抜群に音楽そのものが優れているのでこれで良いのだろう。リラックスした楽しめる舞台でありながら、それだけにカニオがもう道化師じゃないぞと開き直るところは圧倒的だ。まさに迫真の演技、静かに、泣ける、だ。
トニオがアルフィオに引き続きギャグニッザで、少しもトニオではないと思ったが、あの奇妙な体型でネッダに言い寄るところはそれはそれで抜群の説得力だった。
それにしても、ついさっきまでマスカーニも悪くないなと感じていたのに、いざ道化師の最初の音が鳴ると、彼我の才能の差は明らかで残酷なものだ。
レオンカヴァッロの才能は、言葉と思想と音楽の一致で、音楽の瞬時の気分の切り替えにあるのだと思う。その切り替えに最初に目をみはるのが、トニオの前口上の途中なのだが、最初から完成され過ぎているのが不思議だ。
(この中にザザという後年のレオンカヴァッロの作品のかわいい天使さん、お名前は? という曲が収録されているのだが、実に素晴らしい曲(ルネフレミングの声はあまり好きではないので、このCD自体はほとんど聴かないのだが、この曲だけは何十回も聴いた)。一度だけ新国立劇場のミニオペラみたいな企画で上演されたことがあるらしいが是非とも観てみたいものだ)
これは素晴らしかった。感動した。
ケチをつけようと思えば、元帥夫人のアンネ・シュヴァーネヴィルムスがいまひとつぱっとしない(歌が。しかし元帥夫人の立居振舞として、3幕はそれは見事なものだった。また黒い衣裳が実に合う。これこそばらの騎士の元帥夫人だ)し、3重唱に入る前に何か声質が変わったような妙なところがあったりしたが、それにしてもびっくりするほど良い舞台だった。
まずオクタヴィアンのステファニー・アタナソフが良い。まさにオクタヴィアンだ。ゾフィーはまあゾフィー。特筆すべきはオックス男爵のユルゲン・リンで何は無くとも声量が豊かなので説得力がありまくる。
というわけで一幕はさすがに2重唱はきれいなのだが、いまひとつ元帥夫人がぱっとしない感じで退屈だったものの、2幕は男爵が出てからのうっとおしいところも含めて見応え十分、3幕は圧倒的で最後は見事なまでに感動的。
以前、なんか妙な前奏曲だなと思ったが、さすがにシュトラウスの話法は大体わかってきたので、これがオクタヴィアンだということはわかるようになって、するとなんのことはなく最初から下世話な楽劇だなぁと感じる。パパラッパーパパパーが若さに任せて猛進するオクタヴィアンで、バラを渡すところに顕著に出てくる(その後、3幕でゾフィーと元帥夫人の間でおろおろすることろでも流れまくる)ピンポンパンポンみたいなのが混乱しているオクタヴィアンなのだな。順序が逆だが、アラベッラの3幕の前奏曲と同工だということは、オクタヴィアンその実体はマッテオなのかぁとか。
実に良い舞台だった。
とんでもなくおもしろかった。なんとなく海賊の話なのかと思ったら全然違った(というか、ソマリアはソマリアと考えていた時点でおれは間違っていた)。
ソマリアは南はイタリアによる典型的な旧型の植民地支配、北部はイギリスによる現地人による新型の植民地支配だったのが、1960年に独立を認められて、南北対立だの隣国との戦争だのを経由して現在に至るという国だ。
で、筆者のルポルタージュで、イタリアとイギリスの植民地経営の違いが影響して、平和で安心な北のソマリランド(独立国家として機能しているが国連からは認められていない)と、戦国時代の南のソマリア共和国(火事場泥棒的な独立プントランドを含む)に分かれているというのが明らかになる。
(2012年が最新情報の本なのでそれから3年たった今がどうなのかは別問題)
要は、ソマリア共和国の北側はソマリランドという名前の独立国を名乗っていて、そこでは平和な民主主義国家が築かれているというわけのわからない情報があって、そこをルポライターの興味で訪問して、本当にその通りでびっくりし、当地のジャーナリストたちとの交流により、なぜそういう不思議な国家が成立しているのかを明らかにしていく、というのが本書の骨子だ。
それだけで十二分におもしろいのに、実際に現地で過ごすことにより知りえた(および知りえない)情報をルポルタージュとして再構成することで、ソマリ人の生活、各氏族の生活と信条、アフリカの歴史、政治というものの成立事情(民主主義と独裁のそれぞれの持ち味)が明らかになっていく。
特に、金勘定を主体に物事を決めて行った結果として、世界でも類を見ない(少なくとも比較対象となる日本よりも)民主主義を回す国家が成立して運用されているというのが、すさまじくおもしろい。
最初、妙にはなにつく昭和軽薄体な文章でちょっと辟易したが(本の雑誌社の本なのか、と読み始めてから出版社を知った)、すぐに慣れた(が、ビールを飲みたいだの、面倒なことが書いてある部分はやはり慣れないが、にもかかわらず、私的体験を通じて実情を活写するというそれはそれで優れたルポルタージュ手法と考えれば納得はできる)。また氏族をわかりやすくするために戦国時代(鎌倉時代を含む)武将に例えるのは、最初ばかじゃないかと思ったが、これは実にわかりやすかった。おかげで、氏族の名前よりも武将のほうで覚えてしまった(が、読者としては全体の傾向を把握すれば十分なのだからそれで良いのだろう)。
以下、興味深かった点。
・ソマリランドの国民は、即断即決、遅延なく物事が進み、これがアフリカか? と驚きの連続の入国からの数日。(その後、だんだんと何もしない午後というのが見えてきたり、いろいろ)
・ソマリアの語尾のアは、イタリアのアと同じ。なるほど。
・根っからの遊牧民(位置448)。なるほど。西欧もアジアも、国家は農民主導で作られていく(鉄・銃・病原菌)のだが、ソマリランドは積極的(主体的)に独立国家を作ろうと遊牧民が取り組んだという点で類例が無いのだな(たまたまチンギスハンという強い人間が次々と諸国を降参させていって元という国家となったというのとは違って(なので空中分解する)、国家として体制を維持しようという主体的な取り組みがあるという点で画期的)。それがさまざまな文化として立ち現われてくるのが実におもしろい。
・20%を支配者に支払うことで庇護されるという点で、税金の原初の姿があるのがおもしろい(位置4361)。
・一番偉いのは氏族の長老だが、長老には何の力も無い(交換可能)。力があるのは総体としての氏族。
・戦争が好きな氏族(北部)は、戦争とは賠償金による経済的決着だと知り抜いているので、戦争は起きずに金で解決する。戦争を好まない氏族が戦争を始めると交渉を念頭におかないので大虐殺などを起こして収拾がつかなくなる(南部)。
・イスラム原理主義者はマオイストに近い。目からウロコ。マオイストならわかるので、なるほど感がすごい。辺境の被差別民ほどマオイスムのよき支持者となる(カンプチアがそうだった)。原理主義の厳しい戒律は、辺境の被差別民にとっては単なる日常の延長に過ぎないとか(むしろ戒律に従わない都市部住民に対してルサンチマンを爆発させることの引き金となる)。
・海賊がビジネスとして成立できているのは、氏族間戦争での捕虜交換による金銭交渉と同一ルールなので、まったく違和感が無いからだ(ソマリランドでは国家が海賊を認めることはないが、プントランドでは大統領の氏族が海賊だとかいろいろ)。
・途中で海賊のビジネスをビデオ撮影したら海外の放送局に高く売れるだろうから、実際に海賊するには幾らくらいかかり、どのような手順となるのかを、プントランドで知り合ったジャーナリストたちと見積もるところがあるが、むちゃくちゃに面白い。見積もりだ! そこから得られた知見として、石油タンカーの運航状況を把握していて、ある程度の資本があれば、海賊によって莫大な利益を上げられるということ(というよりも事実)。これなら、噂のように日本人を含む海外の人間(組織暴力団である必要は一切なく、個人ベースで十分)が海賊のスポンサーとなっているのは間違いなさそうだと納得するところ。
・アラブ人の犬嫌いの理由を悟るところは想像もつかなかっただけに驚いた。
ソマリランド、おもしろいなぁ。
いつも面倒だし歩いて行けるような距離のディーラーでしか買ったことなかったから車検の代車とか使ったことなかった(それより前はお金が惜しくてディーラー車検してなかったし)。
で、今回、やたらと離れたディーラーなので代車を出してもらった。
というわけで、第3世代のFit Hybrid(Hybridとしては第2世代)に乗ったのだが、次の点がおもしろかった。
1)エンジンスィッチが回転式ではなく、Power Onと書かれた押しボタンになっていた。なんかすげぇ、ついに電化製品になった! この変化が一番未来が目の前に来た感じがする。(その他シフトレバーがやたらと小さくなったり、なんとなく、操作するものからどんどこ離れて来た感が漂っていて、自動運転の未来がえらく近づいた気がした)
2)外からロックしたら、勝手にドアミラーが畳まれた(電動なんだから最初からそうしとけとも思ったけど)。
3)カーナビがインターネット接続されている(いや、今の車のときもオプションがあったが、パスしたのだった)。で、CDを突っ込んだらトラック名を取得して表示したのには感心した(単にカーナビ用に渋滞情報とか取って来るだけなのかと思った)。とはいえ、CDを車に直接入れるのは通常ではあり得ないから(おれには)あまり意味はないとは思ったが。
4)オーディオ入力が、iPod(旧型コネクタなのかLightningかはわからん)の他、BTだのUSBだのSDだのとやたらと増えている。ただBTスピーカーという意味ならスマホと繋がるだろうと試したが、携帯として認識した後は、ハンズフリー用デバイスしか選択肢が出て来なくてあきらめた。明日には返すし面倒なのでマニュアル読まなかったが、BTスピーカーとして使えなくはないと思うが良くわからん。
5)バックしたらいきなりカーナビがガイドライン付きの背後モニターに切り替わった。これは良い機能だな(首が回らなくても後ろが見えるじゃん)。
最初に車を買ったのが80年代前半で、次に買い替えたのが80年代の終わり。その10年弱でデザインと燃費が多少変わったくらいで、車は車だった。で、0年代に買い替えたときは、パワステ当然とか変化がなかったわけではないが、CDプレイヤーが5連装オートチェンジャーになったくらいで(燃費は向上していたが)これまた車は車だった(カーナビが付いたのはそれなりのインパクトだな)。で、2010年代になってHybridを買ったら、オーディオがCDからiPod接続に変わって、Hybridになったりヘッドライトの自動点灯や電子ロックなどが大衆車にもやって来たりしていたけど、それでもそれほど大きな変化を感じたわけではない。
それから3年たって代車を借りたら、スィッチがPower On押しボタンに変わっていたり、後部モニタが付いていたりと、やたらと変化しているように感じる。変化の速度がアップテンポになっているようで、次買い替えるのがえらく楽しみだ。
ジェズイットを見習え |
_ shiro [一般的にconcurrencyって枝分かれさせる方はtrivialで、分かれたのをまとめる方が難しいんですよね。なん..]