著作一覧 |
日曜に観て、あまりの良さに今日も観た。
まず舞台美術が素晴らしい。正面からみて4枚のパネル(実際にはさらに奥にもあるし、天井にもあるから、6枚以上はあるのだと思うが)を1mくらい離して十字架を作ったり、斜めに並べて奥行を出したり(2幕の宗教裁判のシーンとか)、独房のようなものを作ったり、折り紙で4個の四角の内側に指を入れて開いたり閉じたりするのがあるが、そういう感じだ。
舞台がパネルの位置関係でいろいろなシーンを作れるからか、幕間と場面転換は異様なまでにスムーズでこれもとても良く、どの点を取っても素晴らしい。
色はグレーの粗い岩壁のようなのだが、火刑上の手前になるときだけはピンクの色。4幕は照明を使って前面と袖側だけが青い(青い枠状)。
ドンカルロ役のエスコバルという人がこれぞテノールという感じの朗々たる歌いっぷりなのもしびれる。おそらくパネルを組み合わせた箱や壁を自由に作れるので、特に歌手の声が良く響くように考えられているのかも知れない。最初の修道僧の歌も良い(4幕版)。
4幕版なので、手短かなのは良いが(それでも100分と80分とかある)、フォンテヌブローの森のシーンが無いと、いきなりなぜドンカルロが横恋慕しているのか意味不明なようでもある。
ロドリーゴのマルクスヴェルパという人が良い顔良い服良い動きで実にロドリーゴらしくてかっこいい(その分、歌はちょっと弱めな気もするが(友情行進曲のあたりでは、ドンカルロの声量が豊かなこともあって食われてしまっている)、3幕の王様の部屋の最後の4重唱とかでは存在感があるし、良い声だ)。
エボリ公女のソニアガナッシという人はベールの歌のあたりでは散漫な印象なのだが、3幕の宝石箱でごめんなさいのところ(私の美貌が悪いのよ)では演技含めて驚くほど良い。エリザベータも4幕の最初の歌が見事に美しい。実に良い。エボリ公女は反省のあまり、自分で目玉をくり抜いて牢獄へ民衆を率いて乗り込んでくるときは眼帯になるというのは演出としては結構どぎつい。
演出はエボリ公女の眼帯もそうだが、妙に細部に凝っていていろいろおもしろい。
最初、修道院でエリザベータが落としたベールをドンカルロが拾って、それを中庭でエボリ公女が取り上げて追いかけっこになって(ケルビーノ的な勘違いの原因をいろいろ作る役回りなだけに)、最後は王様がベッドの上で匂いを嗅ぐ(オテロのハンカチだ)。
そういう古典の読み替えという意味では、エボリが目をえぐるのは、オイディプス王が自らがタブーを犯しているという真理を知る(そして罪悪感を得る)のと同時に自ら目をえぐり追放されることと軌を一にしている。
王様のベッドがまるで独房なのだが、ドンカルロの独房にシーンが変わると、下手と上手の左右対称の同じ独房であることがわかる。その独房に中央奥からどうどうと(とはいえ杖をついているから足取りは重い)宗教裁判長(妻屋、うまいなぁ)が入って来るのと、下手から巨大な影で悩める小人との影絵を作るロドリーゴが入って来るのが対称となる。ロドリーゴの影はキリストで、いかしたコートの軍服が、影絵の世界ではキリストの貫頭衣となる。確かに犠牲となって死ぬわけだ。
日曜に観たときは、王様がロドリーゴ暗殺の指令をくだしていたような記憶があるのだが、今日は省略していたかあるいは気付かなかった(日曜はわりと字幕を見ていたが、水曜は舞台そのものを見ていたというのが原因かも)。
指揮者のテンポが実に良い。4幕のアリアの木管の合奏になるパートの美しさと、そのあとの声との掛け合いになるところのバランス(ちょっとオーケストラが強めになる)も良い感じで、いろいろ音の特徴に気付かされる。
水曜のカーテンコールでは宗教裁判長とロドリーゴがやたらと仲が良くて面白かった。
フィリポ2世のラファウシヴェクという人は剃髪のせいで、コルチャク汗かイヴァン雷帝(剃髪していないけど)みたいで、少しもフィリポではないが、これまた良かった。高い音がきれいに響く。
・物語のスペインとフランドルという組み合わせが、あー、戦国時代なんだなという日本との関係が見えておもしろい。その後、フランドルがオランダとして独立するわけだが、スペインと国交断交した豊臣政権の後をついだ徳川政権がオランダと国交を結ぶとか、宗教の違いが物語で見えるところが、地球は丸いという感じでおもしろい。
演出、美術、指揮、歌手、作品そのものと、脚本の無茶苦茶さ(特に4幕はひどく、立派なお墓を建てるよ、まあ天国の花も大喜び、今こそ愛を義務によって克服しましたぞ、抱きしめても問題なし、とか、詩がいちいちツッコミどころ満載で、最後は死んだ爺さんと手をつないで彼岸へ去るとか、何がなんだか)はともかく、実に良い舞台だった。後2回あるのか……
おばあさんが死んだがなかなか読みごたえがあったので、返却期間を延長してもらって、1つを除いて結局すべて読んだ。除いたのはオキナワの返還前の様相をルポした作品で、まあ理由はいろいろある。
全体に記憶の中にある1970年代の世情を映しているのだが(ルポルタージュなのだから当然だ)、50年近くたってもそれほど変化がない(道具立ては変わっても行動がそれに伴わない)人間の営みというものに興味を惹かれる。
おもしろさが抜群だったのは、『鼠たちの祭』という先物取引師たちを描いたルポルタージュでとにかくおもしろい。
何がそんなにおもしろいのかと言えば、まず第一には語られた一癖二癖それ以上ある先物取引師たちの人物像だ。阿佐田哲也の最上の麻雀もののような潰し合いがまずおもしろい。
ルポライターという立場の強みで、食った側と食われる側の両方を取材して勝負の両面を描いた部分は特におもしろい。
たとえば、伊藤忠雄とそのある時点までの子分格で2億円(当時だから卵を除けば今の20億円くらいの重みがあるんじゃないか)を貸したこともある板崎喜内人の毛糸勝負や、正田と増山の小豆勝負(どちらも食われた側だがある時点まではこの2人の勝負)がそれだ。
まず冒頭が、まるでフラッシュボーイズ(もちろんまったく違うのだが、それでも根底には相場という価格変動の場で勝負する連中という点で近しく思い出したのだ。もっとも50年という歳月が週単位の勝負をナノ秒に変えてしまったところだけは時代性を感じさせる)みたいな若手5人組(小豆アパッチ)が2年で50億稼いで今や大負債を抱えて沈み込んだところ(アパッチ族の滅亡)のインタビューで始まり、興味を大いに引き立てられる。
そして、この若手たちが板崎(興味を惹かれてその後を検索して調べると、相場といっても博打は博打、最後は沈んで消えていったらしい)の名前を出したところで、さらなる大物達に入り込んでいく構成が良い。
というよりも始まって2ページ目の
現代においてまだ20代、30代の男が天下を狙える世界があるということは感動的なことだった。しかも、高校を出ただけの親の威光も財産もない者たちが、である。
というのが、1970年代(高度経済成長が終わり勝ち組と負け組が固定化されたものの慣性で右肩に上がっている時代――負け組には単に物価が上がるだけの少しも嬉しくない状況――が、この時代のそれが一種のルサンチマンとなってデフレ脱却を遅らせる心理的要因になったのだろうなぁという意味では二重の呪いだ)に語られる点がおもしろい。「現代において」と「狙える世界」って実は恒常的なことだというのが良くわかる。、
と、阿佐田哲也の世界のような勝負の話でありながら、これが相場という経済戦争である点と、先を読む経験と勘と想像力によって全財産と体を張っていくところが、昨今の起業家やベンチャーのエピソードと被るところが実におもしろい。
次が、末尾の鏡の調書で、冒頭のおばあさんが死んだの対極のような83歳の詐欺師のおばあさんのルポ。対極だが円環は閉じるように詐欺師のおばあさんは正月の餅をのどに詰まらせて死ぬ。
その他、屑屋で働いて書いたルポルタージュの屑の世界は、純粋に興味深い。
北方領土について(日ソ共同声明の時は、北方領土がほぼ返還されるかのような扱いだったらしく)宗谷や歯舞をルポしたロシアを望む岬は、返ってきたら商売あがったりだという地元の声をはじめまったくそういう状況を知ることがなくきただけに驚異の世界だった。
何気なく書いたのだろうけど、12カイリのせいで、結果的に海洋資源が保護できていて助かっているという地元のコックの言葉は今でも有効なんじゃないかとか、ほとんど馴れ合いのように拿捕されるの承知で(ソ連から見て)密漁をしまくる漁師たちとか、おもしろすぎる。役所は政府の立場もあるから、北方領土を返せと口では言うが、町では本当に返って来たら困るという声のほうが多く、役人も本音としては町のためにはうんむにゃむにゃみたいな話で、このへんの多重化された構造が、鈴木宗男のような怪物誕生の土壌なのだなと納得する。返って来たら、北方領土を返せという何千枚だか何万枚だかを毎年役所に収めている業者が倒産するというのは、なるほど、それはそうだろうと思ったが、実にくだらないからどうでも良いが、漁業のあり方についての北方領土がソ連の手中にあることによる経済効果の部分は実におもしろかった。
天皇を襲った人たちについての不敬列伝は、興味深くはあるけれど、そして昭和というのはそういう時代だとは覚えているが、まあそんなものだろうか。ただ、皇太子(当時、つまり今上のことだ)に駅のホームでキャラメルを渡そうと思って近づいたら警官にぼこぼこにされてすべてを失った男のエピソードで、警官が殴り倒す前の時点で皇太子も何気なく手を出してキャラメルを受け取ろうとした、というところに救いというか、いい感じを覚えた。
売春防止法後の女性の救済施設(というと違う気がするが)のかにた村をルポした棄てられた女たちのユートピアは渾身のルポ。
この作品と屑屋の2本が作品としては白眉だが、特に沢木耕太郎らしい対象との距離の取り方についてはこの作品が転機となったのではなかろうか。取材する側とされる側の越えられない壁の大きさが最も大きく(屑屋であれば自分が働くこともできるが、性病をうつされて脳みそ含む身体がぼろぼろになっていたり、もともと精薄(IQ40とか)だったりする引退した娼婦にはどうあってもなることも追体験することもできないわけだ)、きれいごとだけでは世の中はなく(こういう素材は想像するに感動させるように書くことはおそらく簡単なのだが、そういうものを書きたいわけではないのだろう)、読者の側に立たなければ売れる作品とはならず、かといって作りたいのは創作ではなくルポルタージュであり、という自身の営為を見直しながら書いているのが手に取るようにわかるだけに(ということは、ルポルタージュとしては失敗作なのかも知れない)、すばらしくおもしろい。
特に印象的なのは、「さんざん楽しんだからこうなった」みたいな物言いを入院中に掃除のおばさんにされたという城田ばあさんの話は(そこは本題ではなく、そういう時に支えてくれたのは……というのが本題なのでスルーされているが)社会構造におけるステレオタイプの効用に対して気づかされるものがあって衝撃的だった。代弁者がいないというのはそういうことなのだな。
力作だったし、傑作だったし、1970年代のルポルタージュで1970年代の人に対して書かれたものにもかかわらず、50年たっても読む価値がある普遍性を獲得した良書だった。
風邪で寝込みつつ、以前、オーム社から送っていただいた(ありがとうございます)Rubyのしくみをようやく読んだ(読み込んだ、とは言えないけど)。
本書は言語処理系としてのRuby(特にMRI)にフォーカスして、字句解析、構文解析から始めてオブジェクトのメソッド呼び出しとオブジェクトの実装上の仕組みについて解説したものだ(だけではないので、それは後述)。
そのあたりはRHGを読んだから知っているよという人でも、2~4章にわたって説明されている、コンパイル、コード実行、制御構造とメソッドディスパッチの箇所は、YARVに基づいているので新味があると思う。
というわけで、Rubyの処理系を解説した本としては既にRHGというものがあるわけだが(Rubyソースコード完全解説という名前で売られていたが、当時の世相からハックという言葉が受け入れられなかったのが書名の理由なので、心ある人たちは本来の名前のRubyハッキングガイド(RHG)という名前で呼ぶ)、アプローチの仕方がまったく違う。
RHGはRubyのソースコードを読み解き、Rubyが何をしているかを解説した本だ。つまり、Rubyの解説という柱とは別にCで記述されたある程度の規模のソースコードを読み解くための技術解説という側面がある。これはとても志が高くなければできないし、書くのは実に大変な作業だ。類書が余りない理由でもある。もう一つ、RHGのハッキングという言葉が暗示しているように、RubyのCソースファイルの読者が生まれれば、それはRuby処理系の開発者(つまり、Rubyをハックする人)の養成につながるという意図もあると思う。
Rubyのしくみは、必要に応じてRuby1.8とRuby1.9(あるいはJRubyなども交えて)ベンチを取りながら、Ruby処理系の解説と、そこで採られている高速化のための手法などを解説する。どちらかというとRuby処理系で実行するアプリケーションの開発者が(想像力と技術力が必要なのは当然として)高速かつ安定(安全)にアプリケーションを動作させるために知っておくべき、処理系自体の考え方や実装詳細についての情報を与えるという意図があるように思う。
つまりRHGはCプログラマを向いている本(目的はRuby開発への参加要請=>Rubyコアコミュニティへの貢献)だが、RubyのしくみはRubyプログラマを向いている本(目的はRubyを基盤とするアプリケーションの安定かつ高速稼働=>Railsコミュニティへの貢献とまでは断言しないけど、まあそういう感じはある)だ(もちろん、そうは言っても処理系の解説書なので、本書を読んで、おれもすげぇプログラミング言語を作ってやろうという意欲を掻き立てられる人も出てくるだろうし、それも筆者の望むところだと思う)。
という目的の差もあって、Rubyのしくみはとても読みやすい。図が多く、能書きが多くなったなと思うとベンチしてみたりして、結構、このての純粋技術解説書でありながら、構成にめりはりが効いている。
そのての工夫としては、JRubyとRubiniusの章で、それぞれ既に説明したMRIと比べたりすることで理解を促進させているのだが、比較としているオブジェクトがJRubyではString、RubiniusではArrayと変化をつけているのもおもしろい(これらのオブジェクトがJRubyやRubiniusにおいて特に特徴を持っているのか? と思いながら読んだが、別にそういうことはなかった。少なくとも僕の読み込みでは。間違っていたら、風邪で頭がぼーっとしていたから、というのが原因だろう)
あと、新しいだけに当然のようにRefinementsについての説明もある(RailsコミュニティのRuby処理系に対する貢献の一つに実際にオープンクラスを試しまくった結果としてのRefinementsの要請(必要性の確信)だったのではないか?)。
最後に短いのだが、笹田さんがYARVについて解説している。その解説が、どうやってYARVを開発して1.9で組み込まれるようになったか、という(うかつに読むと一見)自慢話みたいに見えるのだが、すごく重要なことを書いている。
つまり、それはRubyが持つモジュラー構造についてで、そもそもYARVは拡張ライブラリとして実装されていたという点だ。ぱっと思いつくところだとyajitも拡張ライブラリとして実装されていたはずだが、処理系の内側(微妙な表現だなぁ。内側ではないという声が聞こえてきた)に手を入れる部分を拡張ライブラリとしてはめ込めるという点は、Rubyという処理系の最も重要な特徴なのかも知れない。
とか、いろいろおもしろかった。
簡単に読めるかどうかは微妙だし、買ってすぐ役に立つレシピブックのようなものとは正反対の性格の本だが、仕事でまじめに(つまりRubyで開発したアプリケーションを継続的に、最終的にはお金を目的として使い、つまりは安定していて高速な実行が必要な)Rubyのプログラミングをしているのであれば、読んだほうが良い。また、その価値はある。
風邪引いて寝込んでいても腹は減る。
面倒くさいから大根の味噌汁を作るか、と大根を適当なところで輪切りにして皮剥いて、さらに薄く輪切りにして、半分は銀杏、半分はサイコロに切る。だし汁に入れて透明になるまで茹でてから味噌を入れてかき混ぜて出来上がり。簡単なものだ。
中学生の頃、その年に芥川賞をとった森敦の月山がはやった(周囲の3人くらい)。薄いのですぐ読めた。
私小説の類だったので、文章のうまさというのは読んでいてわかるのだが、まったくおもしろくもなんともない。
が、その中にえらく印象的なシーンがある。後で読んだ連中と語らうと、皆が皆、そこの印象だけだった。
その後、何かのおりに同じく月山を読んだことがある連中を知ることがある。すべて、同じ個所の記憶であった。
僧房で筆者(私小説なので実際の筆者かどうかはともかく、一応は筆者)は味噌汁を振る舞われる。何もないところですし、肉食はできません。大根だけは良くとれるんですよ、とか言い訳しながら坊さんが椀を差し出す。
中には、短冊、賽子、銀杏に切った大根が入っている。
贅沢だな、と筆者は感じる。それぞれの切り方にそれぞれの味わいがある。
実際にやってみると、特に短冊の贅沢っぷりがわかる。銀杏はどうってことない。賽子はどちらからも作れる。しかし短冊に切るのは面倒だ。それでおれの大根の味噌汁には短冊は滅多にない。
それでもなんとなく月山の僧房を思い出しながら贅沢ですなぁと考えながら食べるのであった。
B009DECP2U
(つい、アマゾン評を読んでびっくり。全然、つまらない私小説ではないらしい。子供の頃の記憶というか読解力ってのはあてにならないなぁ)
新国立劇場のドンカルロスのプログラムを読んでいて、シラーに興味を掻き立てられた。自由を愛する人は好きだ。
言われてみれば、ロドリーゴとの歌ではリベルターと叫びまくっているが、それがシラーらしさということなのか。
というわけで古本屋でシラーのドンカルロスを探すが置いていない。
しかし、群盗があったので買って読んだ。シラーの作品そのものは(ベートーヴェンのニ短調交響曲の一部をのぞけばこれが初めてだ)感動した。すごいスピード感とエモっぷりにくらくらした。
なにしろシラーが学生時代の1778年頃、18歳くらいで書き始めた作品で21歳の発表時にはとっくの以前に書き終えていたというのだから、若い、熱い。
2幕3場の最後、根城にしているボヘミヤの森を1000人の軍隊が取り囲む。わずか80人の群盗を前に盗賊団の隊長に祭り上げられたモオル伯爵が叫ぶ。
一同:救え、救え、救え、隊長を!
モオル:(身を解き放し、喜ばしげに)今こそ、おれたちは、自由だ――諸君! おれは、この拳のなかに、大軍の力を感じる――われに自由を与えよ、しからずんば死を! 一人たりとも、敵に生捕らせてなるものか!
《攻撃のラッパ、鳴りわたる。喧騒、混乱、一同、剣を抜いて進む。≫
かっこいい。
ふと、中浜哲の詩を思い出す。
黒光りする血精に招かれて、
若人の血は沸ぎる、沸ぎる。
ああ、そうか。まさに疾風怒濤だ。
だからギロチン社の映画がシュトルム・ウント・ドランクッなのか。
しかも、群盗の翻訳の言葉が持つ疾走感が見事なまでに近代文学の味わいだ。読後に訳者のあとがきを読むと、1936年には完成して上演されたようだが、さらに読むと一高の西寮で18歳の僕は群盗を読みふけっていたというような記述がある。シラーと同い年か。訳者は1900年生まれということは読みふけっていたのは1918年、大正7年のことだから、日本のシュトルム・ウント・ドランクッとして大正年間を当てはめ、ギロチン社に群盗を写してみても少しもおかしくはない。
物語は破綻しまくっている。主人公のモオル伯爵(の息子でまだ爵位は継いでいない)カアルは請われて隊長になったのに行動がむちゃくちゃすぎる。とはいえ、そこで離反しようとする仲間や、それでも認める仲間がいるので、どこまで計算ずくなのかは良くわからない。
いきなりモオル伯爵の居城で舞台は始まる。フランツ(伯爵の次男)が伯爵に兄貴(カアル)の不行跡をいろいろ言い、勘当の手紙の代筆をすることになる。どうも、フランツには悪しき魂胆があるようにしか思えないのだが……と読んでいると、あっさり自分がいかに兄貴を憎んでいてうまいこと追放するか苦心しているというような独白となる。ははぁ、シェークスピアのリチャード3世に学んだのだな。
一方カアルは父親から見捨てられたと知り絶望する(弟の書いた無茶苦茶に冷酷な手紙を読んだからだ)。そこにルンプロの親分のような奴(仲間を焚き付けて盗賊団を組織しようとするが、仲間たちはカアルを隊長に推すため、いろいろ小細工をすることになる)と6人の自由人がからみ、結局ボヘミヤの森で盗賊団を結成することになる。仲間は破産した商人、自由業者などなどと紹介されているから、まさにマルクスが蛇蝎のように嫌い、バクーニンが恋い焦がれたルンプロ革命団だ。
一方、モオル伯爵領では、フランツの陰謀によって伯爵は死亡、カアルの婚約者のアマリアに魔の手が迫る。
ボヘミヤの森では、絞首刑目前の仲間を救出した盗賊団の宴会が開かれている。そこで赤ん坊を火に投げ込んでやったと自慢した仲間がカアルから追放される。険悪な雰囲気になったところに、1000人の軍隊が森を包囲していることが告げられる。そこに教父がやって来て、おとなしく自首すれば拷問抜きの車裂きの刑で勘弁してやると降伏を勧告する。それに対してカアルが真の神の王国についての問答を仕掛ける。おお、反カソリックだ。教父プライドを徹底的に傷つけられて捨て台詞を吐いて逃亡。
そして戦闘になる。
その後、ボヘミヤの追放貴族が仲間に加わることで、アマリアのことを思い出したカアルは仲間を連れてモオル伯爵領へ潜入する。
実は伯爵は地下牢に閉じ込められていたことがわかる。カアルは激怒してフランツを誘拐することを部下へ指示。
結局、攻め込まれた弟は自殺。生捕りにしそこなったことで一番の子分にして理解者のシュワイツアは責任を取って自殺。
みんな、引き上げてな、隊長に伝えてくれ、やつは斃ばった――おれは、もうお眼にかからんとな。(額を射ぬく。)なんと潔い。おれ、こいつのこと好きだったのになぁ。
一方、疲れ切った親父は愛する息子が盗賊になったことを知り絶命する。
アマリアは盗賊だと知ってもカアルに愛を誓う。カアルの心がぐらつくと、群盗が一斉に裏切り者と詰め寄って来る。カアル、運命を悟りアマリアを射殺。
しかし、自首するために群盗と別れて一人去る。(多分、5日かけて灼けたヤットコで肉を剥ぎ取られる刑で死ぬことになるらしい)
後半があまりにぐだぐだになるのは、検閲防御のためなのかなぁとか想像せざるを得ないが、それでもなるほど、群盗の自由に憧れる人間がいた250年を生き残った文学だけのことはある(が300年は生き残れなかったような気がする。実際問題、国内については絶版だ)。特にボヘミヤの森の群盗たちの情景は素晴らしい。
子供が、Kindle版で良いから猫絵十兵衛を買えと言う。なんだそれ?
アマゾンで見たら、巻数が多い。渋っていたら、クリスマスプレゼントだからドーンっといってみようとか言うし、まあいいかとKindle版で出ている限りを全部買ってみた。
で、子供が読み終わった後、おもしろいから読めというから読んでみた。
いまいちかわいくない(というか不貞不貞しい)猫の画だなとか思いながら読んだらこれが滅法おもしろかった(なぜか猫は江戸時代風、人間は現代のマンガ風な書き方をしているっぽい)。
舞台は江戸時代、場所はほとんど江戸(たまに長崎)、主人公は猫の画専門の流しの画師で髷は結わずに現代人っぽい(ので妖術師扱いされるというネタまであった)。いつも背中に箱を背負っていて、その中にタヌキのような猫を入れている。
売り物はネコの画といっても普通の画じゃない。貼ればてきめん、家の中のネズミは逃げ出し向こう一年間はネズミが寄り付かないというご利益たっぷりの猫の画だ。
当然、背中の箱のネコもただの猫ではない。元は長崎の猫仙人、峠を通る旅人を脅かしては楽しむという趣味が悪い猫又だ。
という二人を狂言回しに、80%が人情もの、残りが江戸うんちくもの(田舎には猫がいないので、猫そのものを売る商いがあったとか)とお笑いもの(というか、人情ものであってもベースとなるのはお笑いものである)で、言ってはなんだが同工異曲、しかし実に味がある。あっという間に滂沱の池にはまる。人情話というのはくだらないとは思うが、それでも仕掛けがそれなりにあるので楽しめた。今となっては長谷川伸よりははるかに読ませる。
猫又は正体がばれたら人のところにはいられない、という条件をつけているので、飼い主が大切にしている飼い猫やら、主人思いの猫やらと、最後は別れることになるというパターンがやたらと目につくうえに、猫を飼う身で加齢による涙腺の緩さがあいまって、読んでいると自然と涙が止まらなくなるものが多いのは癪に障るが、まあ悪いものではない。さかまつげの時はひとつふたつ拾い読みするとちょうど具合が良かろう。
ともあれ大人買いの楽しさで、1巻の花魁と三毛猫の別れ話のいまいち感が、同工異曲の猫別れでも、2巻の和尚と片目縹色(またわざわざ古い色名を持ってきたものだと微笑ましく思う。薄い藍色のことだが、先頭で青い眼だと通りすがりの人間に説明させているのは作者の親切なところなのかも)になるとえらく絵とセリフ回しが上達している分より別れは辛く(しかし後味は悪くなく)、さらに5巻の隠居と野良猫では話もえらく洗練されて別れの辛さはまた格別、なるほど継続は力なりと感じられるのがおもしろいところだった。
猫絵十兵衛 ~御伽草紙~(5) (ねこぱんちコミックス)(永尾まる)
とは言え、長谷川伸も嫌いではない。
妻が図書館から借りてきたので最貧困女子を読んだ。
いろいろ考える。
なぜ、おれはこんな本を読んでいるのだろうか?
3つくらい考える。
1) 日本の姿のある面を知るため。つまりは、社会やこの国のあり方をどうすべきかの論議の種子を得てそれについての自分の考えを持つために読むのだ。
2)好奇心を満足させるため。おれは最貧困でも女子でもない。したがって、それについては知らない。知らないことは知りたい。だから読むのだ。
3)ミームの媒介。人類として生きているということは、当然、ミームを媒介するために存在しているということだ。2)はそのために仕組まれた機能なのだから、むしろこちらが本筋で、著者には強い思いがあり、それが著作として評判を得たのだから、反応して媒介することになるのは当然だ。
それはそれとして、途中から、3)の役割はこの本ではないなという感覚に襲われる。というのは、わざわざ1)を考えてしまうような人間に届いてもミームとしてはいまいち意味がない。
その一方で、2)のはずなのに、えらく既視感がある。読み続けていくとスカウトという言葉が出てきて、あーっと既視感の理由がわかった。
新宿スワンだ。
物語中でそれなりに幸福そうな女性は、札幌に行ってかっての主人公の部下と所帯を持った性格の良い女性だったり、ヤクザの親分の愛人になっているやたらと気風が良い女性だったりで、不幸のどん底まっしぐらなのはどうみてもどこか異常な女性(まあ男性もそうだが)だ(が、それなりに同情せざるを得ない事情があったりもする)。そこで語られる幸福感はまさに最貧困女子で語られる幸福感(弱者同士の傷のなめ合いというか、共依存関係)だったりする。
自分にとっての比較的近所(新宿区)を舞台にした異次元ドラマのように読めてしまうのだが、相当、真実味がある物語だったのだなぁ。この作家は何者なんだろう? 大したやつだ。
すると1つ不思議になるのは(実際にはどうでも良いし本筋とは別の大きなテーマとなるから外れているのは当然なのだろうけど)、最貧困女子には暴力団がちらつかないことだ。
新宿スワンのほうが、最貧困女子よりも優れているとしたら、それはそれぞれの事情に斟酌が必要なことが読者にストレートに伝えることができる点だ。
そして、もしも、このまま経済成長が進まないまま地方共同体での狭い世界の住人が国民の主流となるとすると、現状救われない人は永遠に救われないまま隔離されることになる。
必要なのは、自分たちと異なる人が存在し、同じく権利を持っていることをまず理解する/させることだ(そのあとで、10億人の幸福のためなら数100万人死んでもどうでも良いというような政治判断をしたければすれば良いのであって、理解できないから切り捨てるというのは民主主義ではない)。
とすれば次に必要となるミームの拡散に必要なメディアは物語を語れるものだ。
と考えたのかどうかは知らんが、これはそういうものなのかな?
Effective Rubyの見本刷が届いたのであらためて読み返しているのだが、監訳していて何を今更ではあるけれど、初心者用のプログラミング入門書と、そこを脱した人(まあ中級者とかになるのだろうけど)のプログラミング入門書の違いというのを考えたので、ちょっと書いててみたい。当然Effective Rubyの宣伝だ。
さて、もちろん、Effective Rubyは初心者用ではない。
表面的には、対象となるプログラミング言語を読者は知っている(少なくとも一般的と認められる構文やAPIは知っている)ことが前提となる。
が、そこは重要ではない。
なぜ重要ではないかと言えば、紙数と労力に問題がなければ(わかっている読者には煩雑になることは覚悟の上で)それらを出現時に説明しても良いからだ。
あるいは表面的には(少なくとも自分用の一発勝負のスクリプトでは)あまり使わない機能などが説明されている。そういった「マニアック」(愚かな言葉だと思うので「」に入れている)な機能が説明されていることか?
が、それも重要ではない。
たとえば、レシピブックを考えてみよう。当然、読者はそのプログラミング言語を知っていることが前提となる。また、なるほどそんな便利なメソッド/記法があったのかと初めて知る「マニアック」な説明があったりする。書籍としての機能は、その言語のある機能を利用したい場合、あるいはある機能をその言語で実装したい場合に、どう書くのが一般的か、あるいは楽か、あるいは簡潔か、あるいは純粋にどう記述するのかについての列挙だから、当然、そうなる。
これは中級者用か? そうではなかろう。分類するならばクラスレスな書籍だ。別に初心者が使いたい機能を実現する書き方を探して丸写しにして利用しても全然OKで、それも想定内となる。
レシピブックについては、利用している言語の文法や構文をいちいち説明しないのは、クラスレスなのでとっくにわかっている人間も読者として想定した場合に煩雑だし、実用性からレシピをたくさん詰め込むにあたってはいちいち詳細を説明するのは余計な労力であり紙数の無駄だからだ。これについても別に記述しても本質的には問題ない。「マニアック」な記述方法の説明があるのは、それが純粋に便利だったり実用的であったりするからだ。
では何が重要か、あるいは何を読者に要求しているのか、だ。
中級者以上を対象とした技術書が読者に要求するものは、単に対象となるプログラミング言語の知識ではない。また無意味に初心者のうちは利用しない機能を紹介して知識を詰め込もうとしているわけでもない。
読者に要求し、かつ説明しようとしているものは、嫌いな言葉だが「覚悟」というものだ。
そこが初心者用とそれ以上のクラス用の技術書の違いだ。
端的には、自分のためのプログラムを作る方法を示すのか、自分以外も利用するプログラムを作る方法を示すのか、だ。
自分しか利用しないプログラムは完全なホワイトボックスだ。それに対して自分以外も利用するのであれば、それはブラックボックスとなることも想定しなければならない。たとえば、gem installしたRubyGemのソースコードをきちんと追っかける利用者を想定しない。そうではなくinstallしたらreadme.mdにちょろっと書いてあるAPIの記述だけで利用されることを想定する。
そういった、プログラムの利用されかたのバリエーションについて想像できることが読者に求める前提だ。
すると、自分のためだけにプログラムを記述していればおそらくほとんど利用する意味がないdupやcloneの利用を考える必要が出てくる。freezeさせる意味も出てくる。例外についての設計も必要となる。安全性の考慮も必要だし、他のRubyGemsとの協調動作も考えなければならない。さらには、ソースコードに自分以外の読者がいる可能性も当然考える必要がある。コミュニティで喜ばれて使われている簡潔な記法があればそれを利用すべきだし、逆に小児病患者(あるいは現時点の宇宙飛行士)向きと思えば利用しない。
Effective Rubyはそういう本で、意外とこのためだけに記述されたRubyのプログラミング書籍はない(と僕はぱっと見たところ思うのだが、もちろん部分的にそういうところまで踏み込んで説明している本がある――たとえばRailsの列車本はそうだ――のは知っている)。
というわけで、githubで公開したりrubygems.orgで公開するようなコードを書く、書いている、書く予定がある、仕事でRubyを書いている、読んでいる、修正している、保守している、引き継ごうとしているならば、ぜひEffective Rubyを読んで(僕の立場としては当然「買って」)ください!
Effective Ruby(Peter J. Jones)
(と考えてみると、世の中のプログラマのほとんどは初心者だよな……)
ジェズイットを見習え |