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とても良いドン・ジョヴァンニだった。観に行って良かった。
まずなんといっても歌手が全員素晴らしい。正確には、始まってすぐは誰も全然ピンと来なかった(特にエルヴィーラ(セレーナ・マルフィ)は響かない金属的な声で嫌いと感じた)。のだが、進むにつれて俄然良くなる。最初はこれまた上に伸ばす音だけはきれいだなと感じたドンナアンナ(ミルト・パパタナシュ)も美しいし、ドンオッターヴィオはこれまた良く、別に普通(新国のドンジョバンニはクヴィツェンだとかエレールだとか一癖も二癖もある歌手が好演していることもあって)のドンジョバンニ(シモーネ・アルベルギーニ)だなと思っていたらこれまた良いし、ツェルリーナ(石橋栄実)は声量もあって実にツェルリーナ、カタログの歌では凡庸なレポレッロ(レナート・ドルチーニ)と感じたのに立ち居振る舞いというか芝居が上手いこともあって、これまた見事なレポレッロで、観終わったときの満足度は極めて高い。声量あってのオペラでもあるな(もちろん声がでかいだけではない)。
期待していた鉄平の騎士長も地獄(ではなく天上からだったな)から朗々と響かせて満足。
特に今回のドン・ジョヴァンニは普段は退屈極まりないドンオッターヴィオ(レオナルド・コルテッラッツィ)の2幕の森の中の歌が抜群におもしろくて、そこで気づいたが、まるでバロックオペラのように、繰り返し後は自在に装飾を付けて変型させている。良く良く聴いていると全員が全員そのスタイルで歌っているのだった。つまらんわけがない。この演奏のおかげで本当におもしろいモーツァルトを聴けたのだった。
これは指揮者(パオロ・オルミ)の要求なのだろうか? それとも(特に目立ったから)ドンオッターヴィオの歌手の要求なのだろうか? いずれにしても聴いて実におもしろかった。
そういえばカーテンコールで合唱が出てこなかったが、なぜだろう。
妻のおすすめということでBSの録画を観た。最初、グロリアみたいなやつと聞いたのだが、全然違う(臓器売買組織らしきところから子供を連れて逃げるエピソードが近いのかなぁ)。
むしろ、言葉は悪いがブ女でとうがたちまくった女優(を演じられるのだから名優なのではなかろうか)を使って物悲しい人々を淡々と描画するという点ではアキカウリスマキみたいだし、そもそも誰かと比較するまでもなく(が無名の上ブラジルとか映画鑑賞者には馴染みがない国の作品だから、何かとたとえて説明したくなる気持ちは理解できる)実に立派なロードムービーの大傑作だった。
ブラジルのおそらくセントラル(原題はcentral de brazilみたいな感じなので、ブラジル中央駅かも知れないが、ブラジルの真ん中でみたいな意味かも知れない)駅で代書屋をやっている意地悪で小悪党な初老よりも少し年取った女性のもとに、息子と母親が、遠くにいる夫への代書を頼みにやってくる。それも2回も。息子は代書屋を嫌う。が、いきなり母親はバスに轢き殺されてしまう(すごい衝撃)。
息子はどうしようもなくて駅で寝泊まりする。そこで一計を案じた代書屋は子供を人身売買屋へ売り飛ばす(ヨーロッパの金持ちに養子として売り飛ばすということで)。が、唯一の女友達から、そりゃ臓器売買だと言われる。そんなことはないわ。そうかしら。きっと後悔するわよ。
かくして後悔しないために子供を取り返して、遠くの父親のもとへ送り届けるためのバス旅行が始まる。が、子供が一筋縄ではいかない。ついには無一文となり万事休す。が、人が良いトラック運転手兼移動神父のトラックに便乗させてもらうことになる。
が、旅をしている間に段々と人心地がついてきた代書屋が男に愛を告白してしまったために、悩んだ男は二人を置き去りにする。
ますます万事休す。腕時計を換金して父親の住む町へどうにかたどり着くのだが、そこでも問題発生。父親は引っ越した後なのだ。が、子供が機転を利かせて(さすがにこの時点では代書屋を信用しきっている)金策に成功。余った金で記念写真を撮った後で無事旅は続く。
着いた先にも父親はいない。が、最初の妻の息子が登場(最初の出現シーンから大工という点で引っ掛かるようにはなっている(子供は父親がたった一人で家を建てることができる大工だというのが自慢なのだ))。こいつが実に良いやつ(映画作家の腕が冴えまくっている)でそれまでの苦労が帳消しっぽい。その弟はしかしひねこびてしまっている(妻曰く、兄貴は父親を良く知っているが、弟は幼い頃に別れたのでそのあたりが大人に対する人間不信となっているのではないか)。
が、弟も腕が良い木工大工で子供に手伝わせながら独楽を作ってやる。独楽は最初のセントラル駅の外で母親が死ぬことになる原因の一つでもあってくるっと話が回る。独楽みたいだ。
が、最後には当然別れが来る。収まりが良い別れではあるが、当然のように寂寞は残る。
記念写真は紙焼きではなく、プラスティックのカラフル(代書屋は赤、子供は青だったかな)な小さな筒に入ったスライド写真みたいなやつで、離れた場所で二人がそれぞれ覗き込む。これも良い演出。
実に見事な作品だった。
代書屋は、若い頃に家出をしてその後1回だけ父親と街角ですれ違う。そのときのエピソードから、親子関係というものを非常に冷めた目で見ているので子供の父親訪問についても相当斜に構えている。父親という存在そのものに対して不信感があるからだ。
で、ブラジルというお国柄ではそれを額面通りに受け取るべきなのかも知れないが、父親心があるおれには、どうにもその親父は照れてすっとぼけたことを言ってしまったために、一生、娘から嫌われるは性格を歪めるはしてしまったような気がする。
が、最後の最後で代書屋はもう一度父親の顔を見たいというような述懐をするのだが、自分が知らないいろいろな親子関係を知ったから、かも知れないし、そこも余情のうち。
実に良い作品だ。
セントラル・ステーション [DVD](フェルナンダ・モンテネグロ)
こんな傑作なのにアマプラにも入っていないんだなぁ。
久々にバレエ。
くるみ割り人形とマリー(このバージョンではクララとマリーは別)が絶妙に揃って動くのに感動する。バレエもおもしろい。というか、Kバレエカンパニーは着実に後進を育てていて立派だ。
赤坂サカスが使えないからかオーチャードホールだったが、逆に生オーケストラが心地よい(が、妙に音が小さく感じる)。以前はバレエのオーケストラは2軍(大抵金管がひっくり返る)と感じていたが、今回のちょっと怪しいところがないわけでもないが、実に良かった。
それにしてもこのバレエ、1幕は物語、2幕はバレエショーみたいな不思議な構成でおもしろい。後半の次々と溢れ出る楽想につくづくチャイコフスキーはすごいやつだと感じる。
一番好きなのは、何度見ても(確かKバレエは3回目だと思う)、1幕、ネズミを退治した後のふにゃふにゃした音楽にあわせてドロッセルマイヤーとくるみ割り人形がクララでキャッチボールするところなのだが、今回も夢みたいでとても良かった。
東劇でメトライブビューイングの椿姫。
これまで観た中で最も良い椿姫だった。
まず何より演出が素晴らしい。序曲の最初は最終幕に繋がるのだが、それを生かして最終幕の黙劇が幕の向こうで始まる。最初上手に女性がいるので、若いヴィオレッタかと思ったらそれは間違いだった。
1幕後の幕間インタビューで演出意図が話される。1幕を春、2幕1場を夏、2場を秋、3幕を冬と見立ててヴィオレッタを描く。
まるで司馬遼太郎が坂本竜馬だか吉田松陰だかに語らせた(誰が語ったか忘れたしどうでも良いがなぜか内容は覚えている)、「人間の一生は短かろうが、長かろうが、春に始まり冬に終わる」を想起せうる。
1幕が開くと完全なコスプレ演出なのだが、そういう意図がわかる(まだこの時点では意図は見えていない)。全員がそれぞれ色とりどりの衣装なのだ。これが秋に当たる2幕2場のパーティでは全員がくすみ始めている。
歌手も素晴らしい。特にすごいのがジェルモンのルカサルシで、声量と威風堂々たる体格で頑固だが涙もろいこれぞ田舎親父というとんでもない説得力がある。黙役で妹を連れてきている(実際に連れてきているかどうかはどうでも良い)。で、冒頭上手の女性は妹だったのかとわかった。
アルフレードのスティーヴン・コステロは細目(なんかドクタースランプのマシリトを彷彿させる)で表情が硬いのだが、声はきれいで動きが良い。
全体、演劇としてのオペラっぷりがすごい。(独唱、重唱、合唱曲としてのオペラとして良いのは当然として、演劇としてのオペラという点が見事だから、これまで観たどの椿姫よりも良いものを観た感が強いようだ)
3幕の最初、長い花嫁のベールを引きずり妹が下手から上手へ去る。無事結婚式を挙げたのでジェロモン一家がいよいよヴィオレッタのところに迎えに来るのだろう。が、もちろん時は既に遅い。
指揮のカッレガーリというカリガリ博士みたいな名前の指揮者はにこにこしながら、緩急自在でこれも良かった。
で、ヴィオレッタのネイディーン・シエラはときどき絶叫調で嫌な感じもするが、演技がちゃんとしているし歌に表情があるのでこれも良くて(なのでセンプレリベラよりも3幕のトラヴィアータの歌のほうが良い)、とにかく大満足した。
・幕間でメト歴代椿姫というのを紹介していてこれもおもしろかった。カラスは2回だけ、で始まり、過去にさかのぼるとブロードウェイで歌っていたのを連れてきたかわいい顔と声の人、次のイタリアから連れてきた抜群の歌唱力の美しい人……ときて、テバルディの歌が一番長めで、もちろん本当に絶品なのだが、それまでと違って顔の美醜には一切触れない。
だが、テバルディは本当に良い歌手だ。
3度目の新海誠作品。
おもしろかったが前の2作よりは楽しめなかった。というよりも満足できなかった。
どうも、おれが新海誠の映画に求めているのは空から降り注ぐ光らしい。降り注ぐ光は地上から離れて空に昇っていくことでもある。
この映画では、地面にしっかり根をおろしたミミズが空に昇り始めてすぐに水平になり地面に降りてくる。
身動きの方法がわかった椅子はジェットコースターの線路を昇っていくが当然下りてくる。観覧車は上に昇るが降りてくる。どちらも地面に脚が着いている。
地にしっかり足が着いていることが、国民作家の役割なのだろうか。
とにかくそこが不満で、降り注ぐ光<=>上昇する光のカタルシスを得られなかったのだ。
# 教師と看護士。見事なまでに足が地についた職業を志望しているものだ。
偸という字は「ユ」と読むのだろうと、「癒」とか「愉」の連想から思い込んでいたのだが、いざ「偸盗」を入力しようとすると、どうあっても変換されない。しょうがないので単漢字変換とやっても「偸」は出てこない。
さすがに、それで自分の間違いを何十年もたって知ることとなった。
で、漢和辞典を引いて「チュウ」(「トウ」)と読むことを知り、さらに意味は「盗」だと知って驚いた。「偸盗」とは盗むを重ねた言葉だったのか(トウトウとも読むようだが、チュウトウが一般的)。
なぜ偸の読みを知りたくなったのかと言えば、芥川龍之介に「偸盗」という作品があることは知っていて、その言葉を使ってみたかったからだ。が、なにしろ「愉」の連想から「ユ」と読むと考えてしまっていたくらいなので、「快盗」の物語なのだろうと完全に誤解していた。
なので読んでみることにした(青空文庫)。
今昔物語の二次創作(か、あるいはその時代を舞台にしたいわゆる王朝もの)だった。
牛車に轢かれて切断された蛇、流行病で死にかけた女性などを執拗に描写して死というもののあり方を示しながら、しかし語られるのはとある盗賊団の破滅の物語であり、そこに見られる様々な愛情のあり様だった。驚くのはすべての愛が成就することで、ここまで幸福な破滅の諸様相を並べるのはそういったカタログ的な小説を書こうと考えたからなのだろう。
軸となるのは、猪熊老夫婦(盗賊団の中心)とその養女沙金(にして猪熊爺の愛人であり、ターゲットの家の主人を篭絡して内部情報を得ては盗賊団を導く司令塔)とその養女を巡って三角関係にある太郎次郎の兄弟、次郎を恋する猪熊の下女阿濃(妊娠中で相手が誰かは藪の中)、猪熊団を構成する豪傑たちの同士愛だ。
今晩、とある館を襲撃するために盗賊団の面々を猪熊婆が招集する。
養女は太郎に馬を盗むように頼み、次郎には主人と同じく篭絡した館の用心棒に襲撃のことを報せたことを告げる。襲撃を待ち構えている以上は盗賊団は壊滅し、太郎は馬を盗むために無理をしてやはり斬り殺されるだろう。私たち二人は安全である。
が、襲撃の直前の描写の次は、追手を殺しながら決死の逃亡を図る次郎の描写に移る。この時間の使い方は鮮烈で、最後には野犬の群れの襲撃(冒頭に出てくる流行病の女性を食べようと出てくるのを次郎に追い払われる因果がある)にまで畳み込まれていく。凄まじい緊迫がある。
そして襲撃の時点に戻って猪熊の婆の爺に対する夫婦愛、爺の自己愛(最後まで自分本位なので赤ん坊にすら自己を投影しきる)、平六の仲間愛(常に仲間の安全を気にかける)、太郎二郎の兄弟愛(殺すか死ぬか矛盾を止揚させるか)、阿濃の次郎への懸想から生まれた子供への愛、沙金の破滅への渇望(物語は彼女の世界に対する復讐のための陰謀でもある)、それぞれの愛の成就が叶う。
すべてが叶った以上は抜け殻を残して物語は終わる。
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