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妻がオゾンのDVDを借りてきて一緒に観るか? と誘ってくれたので一緒に観た。
作文の宿題(私の週末)に「日曜は親に携帯を取り上げられるからつまらない(終)」のようなろくでもない解答しか提出しないような生徒たちにうんざりしている高校の国語教師が出てくる。ところが、1作、とてつもなく語り口が巧妙な作文を読み始めて思わずのめりこむ。友人の勉強をみてやるという目的で、その友人の凡庸な家庭をのぞきこむ物語だ続く。
本来は数学しかやる気がなかったというその生徒を見込んで語り方、テーマの決め方、読者との関係などについて放課後のマンツーマンレッスンをしながら、徐々にある種の共犯関係となっていく。
この生徒が、御法度の松田龍作のような悪魔小僧な目つきで教師(妻から満月の夜で目立っていた妙な役者と言われてさっぱりわからなかったが、若いころの写真を見させられて、ああ、あいつかと納得の人。でも名前はもう忘れた)に支配されながら(物語の展開は。それはオゾンならではの巧妙なものだ)、しかし語り口とテーマ(これがオゾンっぽい凡庸と通俗極まりないものだ)は自分のもので語る。あまりにも魅力的な語り口に教師もまた生徒に支配されてしまう。
テクニックはわかっているし理想も語れるが、自ら語ろうとすると凡庸でしかない教師と、圧倒的な語り口を持ちながら下劣で低俗なテーマしか持てない生徒が、最後にコンビを組むことで外から眺める家の中でさまざまな物語が動き出して終わる。
それどこのオゾン? という突然オゾンが自分について語ったかのようなおもしろさがあった(というわけで、教師は学校を馘首になり妻にも去られ、一方の生徒も流しの数学家庭教師になるという、ろくでもない終末を迎えるにもかかわらず、オゾンの映画としては圧倒的なハッピーエンド感があった。その意味ではオゾンとは思えぬ爽やかな終わり方。でもオゾンはヒッチコックにはなれないだろうな。下劣さを昇華できないし、昇華する気もないことを自分で語っているようなものだ。もちろん、セリーヌになれるはずもないし、なる気がかけらもないのは観てればわかる)。
危険なプロット(初回限定版)筒スリーブケース仕様 [DVD](ファブリス・ルキーニ)
それにしても変な作家だなぁ。
日曜日は新国立劇場でマスネーのウェルテル。
原作は結局読まなかったゲーテの若きヴェルターの悩み。
出版当時は一大ブームを巻き起こして、ドイツ中の若者が青いチョッキに黄色いシャツを着て自殺しまくったというのだから、明治の日本の北村透谷や、三原山の松本貴代子みたいなものだな。時代的には西鶴に近いか。
というのはわりとどうでもよくて、実際、4幕は白いシャツで死んでいく(が、胸を撃ったはずなのに延々と30分近く歌いまくるのがオペラの良いところ)。
ウェルテルを歌ったのは代役でやってきたコルチャックというなんかイーゴリ公に出てきそうな名前の人だが、びっくり。実に素晴らしい。1幕は、曲そのものが退屈だし、あまりピンとはこなかったのだが、どんどん声が出るようになって、3幕のなぜ私を目覚めさせるのかのところは、オーケストラの大音量をねじ伏せるような絶唱で、この音の美しさには感じ入った。(というか、マスネーって曲の作り方がへたなんじゃないか? と思ったが音色が異なるから声も聴こえるように計算しているのだとしたら、これまた大したものだ)
序曲は最初さわさわ始まるのだが、次々とソロが入って実に複雑な音色の不思議な音楽。……フランス風ってことなのかな(マスネーはマノンはよく聴くが、きれいなメロディではあっても、それほどオーケストレーションが美しいという記憶はなかったので、これも驚いた)。
指揮者はこれまた代役のブラッソンという人なのだが、短い期間によくここまでまとめたものだ。オーケストラは東京フィルでうまい。代役された側もブラッソンなので、もしかしたら兄弟だったり父子だったりするのかな。それほどありふれた名前とも思えないのだが。
シャルロットのマクシモワという人も良く、妹の砂川も実に良い。
演出が抜群なのだ。
セットも美しい。1幕は左手に馬の水飲み場がのぞく門、庭、テーブル、ちょっと高くなった場所、そうだ思い出したが、ちょっとユベールロベール(に代表される作風の人たち)みたいなのだ。静かで壮麗だが何か虚ろさがある風景。
2幕の教会の手前の柱がある回廊(なのか広場なのか、アルベールとシャルロットが連れ立って来るのを、柱の陰の闇に隠れて見ているウェルテルの構図とか)、3幕のシャルロットの部屋(なのかな)、4幕の書庫の正面に置かれた本棚(この幕ではじめて、舞台が斜めではなく水平になる。屈折は晴れた)と右手のらせん階段の降り口、いずれもすばらしい。
セットと人の動きと位置関係で心理が見事に描かれる。これは演出のうまさで、2幕までは気持ちが良いアルベール、どうみてもウェルテルが好きでたまらない妹(演技が良いので、この人も海外から連れてきたのか思い込んだのだった。リューや夜叉が池の好演を観ていることを思い出せばうまいのも当然だった)、3幕でピストルをくれという伝言を読んだあとのアルベールの豹変っぷり(エレールは本当にうまい)、どこをとっても完璧だ。
あまりに素晴らしかったので、土曜日のチケットを購入した。もう1回観る。
妻が、図書館におまえがすきそうな本があったから借りてやった、読みやがれと渡してきたので読んだ。
靴下の煮しめを飲みながらページを繰る。30年前に読めたら良かったのにとまず思う。これこそ高校生のときに読むべき作品だ。おもしろいが気力が湧かないからだ。およそ書籍として考えられるぎりぎりまで文字が詰め込まれているのだ。
最初、固有名詞の氾濫に呆然とし3ページ目で気力を失いかけるが、バルダミュが話しかける。この世は旅だ昼の旅、夜の旅。優雅な金持ちっぷりは世界の果てに連れてってくれそうだがそうではない。
虫けらがひねりつぶしに来て、はて、これはいったいなんだ? と考える。逆からみたヴィシー政権なのだろうか。
セリーヌの作品〈第10巻〉評論―虫けらどもをひねりつぶせ(L.F. セリーヌ)
パルトルがサルトルとしてあちらを通り過ぎる。マドレーヌの香りが記憶を呼び起こす。
訳注がすさまじい。1ページあたり優に10を越える注がつく(それでも不足に気づくところもある。世界はまだらにしか認識できないものだ)。それに輪をかけて固有名詞が飛び交う。1/10程度しか知識が追い付いていない。訳業は大業だ。中学生や高校生であれば、この訳注から飛躍的に教養が広がるだろう。まだまだ世の中には知らない作品があり、読むべき刻印がある。
ゴダールみたいだ。
そこで1968年の作品と知る。フランス文学ですなぁと納得する。怒っているのだ。ニザンのようにセリーヌのようにゴダールのように。とにかく怒っているのだ、無知に世界に人々に歴史に自分自身に。しかも愛しているのだ、無知を世界を人々を歴史を自分自身を。文学的衝動が奔流となり抱え込んだ教養が一気に噴出して作品が生まれたのだ。であれば話は早い。心の底から作品世界を楽しめばよいのであった。
主人公のユダヤ人はあるときはSSになり、あるときは殺人者となり、学生となり、誘惑者にして誘拐者となり、建国直後のイスラエルに渡りキブツで拷問を受け殺されそうになり、そこで一目で女性中尉に救出されてパリにとってかえし、ブーローニュの森でイスラエル警察に射殺される。
凝縮された夜の果ての旅への返歌となっている。常にセリーヌの亡霊がついてまわる。しかしモンマルトルの丘で出会っては失くしてしまった人たちの姿が浮かび上がるような感傷はとっくに終わったあとのことだ。
(アマゾン評かくあるべしな評で五つ星がついていて気分が良い)
何十年ぶりかで堪能しまくった。
それにしても一番の謎は、なぜ妻がおれがセリーヌの作品を愛していると知っていたのかだ。(思い出した。セリーヌの引用に衝撃を受けていたからだ(いや、たぶんそれより数日前のはずだ)。)
新国立劇場でマスネーのウェルテル。
今度はギャラリー席(2~4階の横向き1列の妙な席)。初めてのギャラリー席だが、一番舞台から遠いところだったので、左側はまったく見えないが(教会の入り口が見えないくらい)、逆にオーケストラや指揮者が見えてそれはそれでおもしろかった。
序曲の途中、静寂が訪れる前のあたりで金管の連中がぞろぞろ退出したのは驚いた。いくらしばらく出番がないとはいえ、オーケストラでも途中退席とかあるのだな。
と、1幕が終わった後の休憩時に子供に話したら、それは気づかなかったがプラッソンがジャンプしたと教えてくれた。ところが、おれは彼女が他の男のものになるなんてといいながらウェルテルが駆けていくところを見ていたから気づかなった。で、2幕の終わりになると、こんだエレートがイルレームとか言っているのを観ていたのでこれまた気づかず、3幕と4幕の間も全然気づかず、最後の最後に確かにジャンプして一振り、そこでお終いとやっと観ることができた。えらく外連味がある指揮者だ(序曲のメリハリで、そういう音楽性の持ち主というのはわかっていたが、身振りがジャンプ交じりとは知らなかった)。
どうにも不思議な作劇だなと2回きちんと観て考える。
1幕の終わりではウェルテルは彼女が他の男のものになる(ご丁寧に2幕の頭でも繰り返す)という妄念で頭がいっぱい、2幕の終わりではアルベールが彼は彼女を愛している(では彼女はどうなんだ?)という妄念で頭がいっぱい、3幕では手紙をしつこく読みながらシャルロットはウェルテルで頭がいっぱい、誰一人として幸福ではなさそうだ(2幕の途中まではそれでもアルベールとシャルロットは不幸ではなさそうだが)。この作りだと3幕の最後でたぶんシャルロットが何か口走るような気がするが、覚えてない。とすると、そういう危ういバランスを崩すことになったのは、シャルロットがウェルテルを遠ざけたことが原因としかならない。(さらにさかのぼると、母親の遺言だからと(たぶん、あの親父はウェルテルを評価しているからどうとでもなったようにみえる)頑なにアルベールに執着したシャルロットに原因があるように読めるし、どうもマスネーのウェルテルはシャルロットの扱いがよろしくない。
新国立劇場でアンドレアシェニエ。どうにも俗っぽいが、このオペラがこれまで聴いたこと観たことがある100有余のオペラ作品の中で最も好きだ。
前回は5年前だが、そのとき感じた1970年代のフランス固有(とはいえ大半のイメージはゴダール由来なわけだが)の毛沢東主義っぽい感じはずいぶん薄まっているように見えた。
なにより、ウルグアイの2人、カルロヴェントレとマリアホセシーリが実に良い。カルロヴェントレは声の色が好きだし(ちょっと微妙に音程が低い感じがしたけど)、シーリの声は調和的に聴こえる(ママラモルタは絶唱ではなかろうか)。それに比べると音は常に良いのだがジェラールのヴィットリオヴィテッリ(上から読んでも下から読んでもみたいだな)はなんかいまひとつぴんと来なかった(なんかパンテオーンは作れなそうだ。思い切りが悪いのかなぁ)。
今回、隅から隅までじっくりと楽しめたが、いろいろ物語の中で気づかなかった構造がいくつか見えたように思う。
パストラーレの美しい田園へアディーオアディーオというのは、詩人とは別のところで音楽家もまた王政の崩壊を予兆しているようだ。
冒頭、ジェラールは長椅子の上で貴族が何を口にしているかを皮肉っぽく歌う。次にマッダレーナは友人とかけをして詩人にある言葉を口に出させる。それに対して詩人は別の切り口でその言葉を歌う。3幕、ジェラールはその言葉への対比に理想を置く。しかしマッダレーナはその言葉を別の意味でジェラールが理想として歌った内容を歌にする、つまり詩人と同じ使い方をする。そこでジェラールははっと気づき、なんと深い愛だという。なぜかは知らないがアモーレという言葉の持つエロスとアガペーの鬩ぎあいを作品の通奏低音としているのだ。
2幕、マッダレーナはシェニエに庇護を求めるし、そこではっきりと兄という言い方をしている。3幕ではマッダレーナは庇護を求める立場に変わりはないが、理想と愛の板挟みで苦悩しているジェラールに、その理想こそが愛だと告げて、ジェラールの苦悩を昇華させる。以後ジェラールは愛に向かって邁進する。
つまり、指揮が抜群だ。音楽の構成力が物語の意味をくっきりと明らかにする。ヤデルビニャミーニ。少し早めのテンポで意味づけを明確にしていく。パストラーレが素晴らしく美しく(もちろん合唱も良いのだ)、晴れた日は音のバランスがオーケストラに少し寄っていたが、母が死んでは素晴らしく合っていた。(この指揮者も合唱指揮者を子供4人とともにフォアグラウンドに引っ張り出した。合唱の良さが気に入ったのだろう)。
密偵の松浦って人の声は好きだな。
# カーテンコールで、実はいちばんフォトジェニックなのは指揮者だったのが印象的。
渋谷の公園通り入り口のビルの8F(名前忘れたけどドットみたいなやつ)でtDiary15周年パーティ。
最初はたださんの10年後のtDiaryで、えもい話というのでどんなのかと思ったらすごくおもしろかった。センスオブワンダーってこういうことだよな。
・火星の人の原作は日誌ではなく日記。というのはその日のできごとだけではなく感情が記録されている。
汎用の人工知能が10年後にはある程度のかたちができているとして、それは何から学習するのだろうか?
まず人工知能は人間を知る必要がある。(もちろん人間も人工知能を知る必要がある)
人間の何を知るのだろうか?
おそらく一番の相違点である感情ではないか。
とすれば、効率よく人工知能にとって望ましい形で学習するための材料というのは日記に違いない。それは特定個人の経年変化を持つ感情と行動の記録である。しかもリンクによって個人間の結合により相互の情報から特定時点の事象を知ることもできる。
今や、tDiaryは15年を迎え、少なくともあと10年は継続し、25年の個人の日記をパラレルに人工知能に与えることができるようになる存在となった。
・テキスト
・アクセス可能性
・変わらないURI
すげぇおもしろい。
次に柴田さんのtDiary効率化の話。stackprofを使って調べてみると、まずhsbt事情としてmemcachedが食っていたのでpstoreに戻した。
NokogiriをOgaに変えたら(元の処理より)5倍速くなった。
とにかくCalendarが食っている。年のディレクトリのループの中で月ファイルを引っ張っているのが無駄なのでそこを一気に直したら(元の処理より)2倍(だったかな? 4倍かも)速くなった。
Ruby2.4になるとnobuのHtmlEncodeのC化がきくのでこれも速くなる。
Pluginをまとめ読みしてevalするようにするとたぶんその処理も2倍速くなると考えられる。(これはテストコード)
Pluginのプロファイリングは難しい。モックとスタブを作り込んでやっとテストできるようになった。(これはアマゾンプラグインのOga化かな)
最後まちゅさんのtDiary3、4、5の話。3でRackを利用可能、4でgem化、5でHTML5とDocker対応。などの技術変化追随の話。
LTでははじめさんによるbootstrap対応プラグイン。あとから田中さんによるハンバーガーメニューが動作する別実装の話が出た。
グルーヴノーツの人(やまださん。ロボット犬のアイコンの人)によるMAGELLANでtDiaryを動かすためにはなどなどの話。福岡のRubyistは辛いものが好き。
みなさん、お疲れ様でした。
子供が最近宝塚も見始めて、1789というフランスのミュージカル(の宝塚版を観たというわけだ)がなんかモザールみたいだからお前も好きかも、観ろといってDVDを渡してきたので観た。たしかに節回しが実にそれっぽい。
月組宝塚大劇場公演 スペクタクル・ミュージカル『 1789 ―バスティーユの恋人たち―』 [DVD](宝塚歌劇団)
で、調べたらなんのことなくモザールの作者グループの作品だった。ちょっと宝塚版だと地のセリフの抑揚が好きになれないので元ネタを買って観るとなかなか楽しい。
3 grands spectacles?: 1789, les amants de la Bastille + Mozart, l’opera rock + Le Roi Soleil(-)
(PALだからそこだけはやっかい(家のREGZAは再生してくれない)だが、ふつうにコンピュータで見れば観れる。モザールは持っているのでamazon.frで1789と太陽王を買おうとしたら太陽王は日本への輸出不可となって買えない。ふと見たら3本セットが1789単体とほぼ同じ価格でしかも太陽王が入っているのでそれを買った。しかしamazon.co.jpでも売っていたのか)
特にダントンが子供(たぶん浮浪児)と一緒にパレロワイヤルで歌うところが好きだ。
宝塚版のセリフをちゃんと聞いていなかったが、オリジナルは耳の悪い人用に(ミュージカルだけどそう書いてあるからそういうことなのだろう)字幕が出るのである程度までは話はわかった。
飢饉で税を納められなくなった農民を軍隊が襲い主だったものを見せしめに連行しようとする。主人公の青年、ロナンが皮膚の下がどうしたとか歌いながら抵抗するもので軍隊が発砲する。止めようとした父親が撃ち殺される。ロナン怒ってパリへ出奔と、ちょっとだけカムイ伝みたいな始まりである(1788年だからこちらも天明の大飢饉で同じような話はごろごろある)。
一方、ベルサイユではすべては賭博とマリーアントワネットが歌って踊っている。
そのころパレロワイヤル(オルレアン公による開放後)をダントンが子供を連れてうろうろしている。
そこにデムーランとなぜかロベスピエールが合流して自由だのなんだの言っているところにロナンが登場してきてひと悶着あったあとに仲間になって、マラーの印刷所で働くことになる。
一方マリーアントワネットは長男が病弱なのが唯一の気がかりだが、歩けるように指導した養育係のオランプを気に入って腹心として扱いはじめる。当然、そのオランプがパレロワイヤルでロナンと出会って愛し合うようになって物語は進むのだった。
オリジナルのDVDは短縮しておさめてあるのか、逆に宝塚版が尺を長くするためにエピソードを加えまくったのかオリジナルには出てこないアルトワ伯が日本版では圧倒的な悪役として出てくる(歴史的にも反動の権化で、ルイ16世とネッケルの融和政策に反対したり兵隊を送ってバスティーユ襲撃のトリガーを引いたわけで正しい。あと、オリジナルのルイ16世はほとんど姿を現さないが(3部会の閉会を宣言する場はある)、宝塚版では史実通りにギロチンの刃の改良案を出したりしている)。
で、ロベスピエールがテニスコートで踊ったり、ロナンの妹がパン屋を襲撃したり(天明の打ちこわしで江戸と大阪で米屋が打ち壊されたのとまったく同時期)したのちにデムーランがバスティーユへ民衆を導いていく。
(この本読んで夜中にパン屋を襲撃に行こうと妻と画策したことを思い出した)
バスティーユの武器庫を守っているのはオランプの親父というご都合主義のおかげでロナンは無事扉を開けることができる(オリジナルの親父は赤ら顔の酔っ払いみたいな感じだが、宝塚版はなかなかきりりとした良い親父で、このあたりの人物像の変え方は興味深い。そういう意味だとオリジナル版はロベスピエールが黒髪巻き毛なのが、帝劇版だとダントンがまるで大槻ケンヂみたいな黒髪巻き毛の大男でロベスピエールが金髪イケメンといろいろ雰囲気が異なっておもしろい。デムーランはデムーラン。ミラボーとネッケルは近いものがある)。
最後人権宣言を読み上げておしまい。
もしロナンが元気に生きていたら、エーベル派になってろくなことにならなかったんじゃないかとかいろいろ考える。
というわけで、帝劇で宝塚版をもとにしたミュージカルやるから観ようと子供に言われて行ってみた。
ダントンと一緒に出てくる子供が本当に子ども(プログラムをみたら小学4年生と書いてあった)で驚いたがえらくうまいのにはもっと驚いた。オリジナルだとイエイエイエイエと歌うだけなのに、ちゃんと言葉がある歌を歌っているし。ロナンの妹がうまい。
で、カーテンコールの直前に手を振ったかと思うと2度と出てこない。ふと時計をみると9時なので、子役の就業時間規制かと気づいた。以前は6時までで、おかげで3人の童子を子供にやらせる魔笛はマチネしかできなかったとかいろいろきいたことはあったが(さすがに6時は無理があるということで9時になった)、目の前でそれが起きるとは思わなかった。
どうもロナンが小僧過ぎるのとセリフ回しがやたらと荒いのでなにをいきがっているんだ(そういう役回りなので合っているとはいえるけど)という感じだったが、出てくる役者がみな歌も踊りもうまくて楽しめた。特に踊りは(テニスコートのロベスピエールのところに限らず、マラーの印刷所にしろ、パレロワイヤルにしろ)実際に舞台で動いているのを観るのは実に楽しい。ただ、スピーカーの音が良くない。平面的な音響なので歌が録音に聴こえるところすらある(が、実際に歌っているのは間違いなさそうだ。本当の録音らしき合唱が入ると、それよりは厚みがあるからだ)。
同じように飢饉があって打ちこわしがあったりしたが、彼我の違いは田沼意次という大政治家の存在にあるのかなぁとか(1789年にはテロリストに暗殺されてしまっていたが)。
アスキーの鈴木さんにUnix考古学を頂いたので読み始めて、シェヘラザードの代わりに寝台の脇に置いて何夜か過ぎて大体半分読んだ。
抜群におもしろい。単なる読み物としてもおもしろいのだが、おおそういう理由でそうだったのか/こうなっているのかという説明が(あとがきを読むと、筆者は類書をネタにしているのではなく(ゼロではないだろうけど)、当事者たちのログや論文を読むことで事実関係を掘り起こして推測して結論づけたりしている。なるほど、その作業は電子の地層から掘り起こして塵を払ってつなぎ合わせて当時を復元していく作業にそっくりだ。それで「考古学」なのだな)なかなかに快刀乱麻で読んでいて実に楽しいのだ。
まずまえがきにぶっとぶ。
読み進めて次の文章に腰を抜かした。
人づてに聞いた話だが、著者の藤田氏は1970年代生まれよりも若い年代に本書を読んでほしいとのことだった。
それは若くない。とつっこみたくなるが、落ち着いて考えてみると、もし仕事を初めてから本格的にマシンに触るようになったとすれば1975年生まれの人がマシンに触るのは大体1990年代後半、すでにWindows95でマイクロソフトがふつうで、触りたければLinuxが使えるようになっていて、BSDは1994年に4.4で打ち止めている。確かに1970年代で若いということになるのだった。
第1章のプロローグがまずおもしろい。ものの本なら1行で「Multicsへの反省からトンプソンとリッチーが職場に転がっていたPDP-7を利用してUnixを開発した」で済まされるところを、きちんと掘り起こしていく。
・MulticsがGEを中心としたプロジェクトだったこと
この時点で、あー、IBMに敗れてコンピュータから手を引いた(後にウェルチで有名になる)GEかと歴史から消え去ったかっての覇者が突然出てきて驚く。するとMulticsが今どこにも存在しないのは、それが失敗プロジェクトだったというよりもGEがコンピュータ市場から撤退したからじゃないのかという巷間の歴史に対する疑念が湧いてくるわけだ。
・一方IBMはシステム360の開発で困り抜いて人月の神話が生まれる
というわけでOSの開発というものが、神話化してしまってビジネス的にはありえないプロジェクト化しつつある(と、ここでブルックスが乱入してきてびっくり)
人月の神話【新装版】(Jr FrederickP.Brooks)
(読めと本書でも語られている)
・ベル研(ここではBTL)は途中でプロジェクトから撤退
・AT&Tとしては独禁法がらみの縛りでコンピュータビジネスに手を出せない→ビジネス上の意味がない
となり、でっかな会社で失敗プロジェクトに属している社員が存在感を発揮するためには何をすればよいかというMulticsプロジェクト出向社員たちの命運はいかにというこれまで考えたこともなかったストーリーが始まる。
それにしてもかってALTO(というかSTAR)が超高級ワープロとして客先のコンピュータルームに置かれていたのを思い出して、1980年代初頭あたりまでは、普通の人たちには用途がわけわかなマシンを文書整形機として予算を獲得したりするものだったのだなぁとか隔世の感に打たれるのだった。(つまり、Unixはベル研の中でroffシステムとしてプロジェクト化されたのだった。で、実際にUnix-1は特許対策局で実用に供された)
・最初のUnixはPDP-7にハンドアセンブリして記述された
・トンプソンが作ったアセンブラは手抜きなので出力ファイル名は常にa.outとなる(ってことはaはアルファベット最初の1文字以上の意味ないんじゃないか?)
・Cが出てくるのはずいぶん後の時代
・高級言語の必要性から、最初トンプソンはFORTRANの実装を宣言していた
・すぐにあきらめてBCPLの実装を開始
・コードの断片が出ているが、LETでローカル関数を定義して地の文で呼び出している(C++で王の帰還となった「//」はBCPL)
・トンプソンは{}が好きらしい
・B誕生
(BCPLは僕にとってはAmiga OSの記述言語として印象深いのだが、イギリス生まれだったと知って、それでメタコムコ(イギリスの会社。Amiga OSの実装を担当)はBCPLを使ったのかとちょっと納得した)
と、ずいぶん迂回している。迂回している原因はPDP-11用に型を入れたかったで、というのはPDP-11がワードマシンではなくバイト(オクテットの意味だと思う)マシンだったから(なぜワードマシンからバイトマシンになると型が欲しいかというと、charとintの使い分けが空間的にも時間的にも効率に影響するからだ)
ブレークスルーになっているのがTMGという別のプロジェクトで作られたパーサジェネレータだとか、初期の開発時の超くそめんどうそうなクロス開発とかの様子がまたむちゃくちゃおもしろい。おもしろすぎるくらいだ。
・fork/execはMulticsに並ぶARPAの別プロジェクトのProject GENIE由来(GEがついているくらいでこれもGE。MulticsがMITならGENIEはUCB)
・パイプの必要性を説いたのはダグマクロイ(本書では人名は原語表記なので、このカタカナがそれなりに正確かは知らない)で、最初トンプソンもリッチーも必要性も重要性もまったく理解できなかったが、あまりにダグマクロイがしつこいのでトンプソンが1晩くらいのハックで実装してみた。結果、全員が口あんぐりするくらい有効だった。
(というような、今では当たり前の機能が全然存在していなかった時代に、誰のどのような思い付きや必要性から実現されていったかが説かれているところは取り分けおもしろい)
Unix考古学 Truth of the Legend(藤田 昭人)
で、この書籍の価値は? と聞かれれば、もちろん一つは大きな読書の楽しみであり知的好奇心に対する栄養なのだが、それだけではない。
その時に存在しなかった未来が手作りされていく感覚で、それが消費者目線ではなく利用者=開発者目線のところだ。その点からパイプのエピソードは衝撃的(roffのところも実はそうだ。ビジネスの話でもあるわけなのだった)。
それにしても、これは労作だ。著者は良い仕事をしているし、英語化して海外の人たちにも読んでもらいたいものだな。
(2/3はUNIX USERの連載に手を入れたもので、1/3は書下ろしとのこと)
2.3.1p112のx64版MSIパッケージを作成しました。msiのバージョンは1.1.0となります。
DXRuby 1.4.1を復活させました。
2.3.1p112のx86版MSIパッケージを作成しました。msiのバージョンは1.1.0となります。
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