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土曜日は友人の家で12月のスカラ座の2017年開幕の蝶々夫人の録画を観る。
はじまるとシャイーがイタリア国歌を演奏するのでちょっとひいた。
もし菅とか安部とかが、ここだけチラ見したら(小泉はわざわざ劇場に来ていたが、おそらくそんな趣味はないだろう)、新国立劇場も国の予算を使っているんだからスカラ座みたく国歌を演奏しろと開幕というコンテキストを無視してわめきたてるのではなかろうか。冗談ではない。とはいうものの、演目が蝶々夫人だからいやでも君が代は聞かされることになるわけだが。
初演版ということで、明らかに違和感がありまくる。
まず、シャープレスが、悲しませてはならないと言いながら、ピンカートンと一緒になって結構皮肉を言いまくる。3人の下男下女の名前について延々と難癖をつけて顔1、顔2、顔3と呼ぶとか言い出すピンカートン。長いよ。
最も素晴らしい瞬間である、花嫁行列からわたしは愛に呼ばれてきましたにかけての音楽がなんか違う。薄い(あとで、新国立劇場のプログラムを読んでいたら、改変版では音を少し変えていると書いてあって、その少しの違いによる印象のあまりの違いに驚いた。マジックだ)。
で、婚礼のシーンが長い長い。酔っ払いの叔父(ヤマドリに似た妙な名前だったが忘れた、どこの国にも変わり者の親戚がいるとスズキから聞かされたピンカートンかシャープレスが評する)がくだらない歌を2回も歌い、ピンカートンとシャープレスが嘲笑する。
蝶々夫人が15歳(数えなんだから、ここでもやはり14歳なわけだ)というと、まだ遊びたいざかりだろう、で済まずに、それはお菓子が欲しい年頃だ、蜘蛛の砂糖漬けとバッタの飴を作れとか言い出す(なんかの皮肉なのかな? と思ったが、おそらく東洋の妙な国だから昆虫に砂糖をまぶしたものを食う風習があるということにしているのかも知れない)。
舞台は3階建てだが、どうも坂の下が3階という奇妙な構造。
ボンズのちょちょさーんは意外と小さい。
で、2人になると、シーリ(この人は、新国立でトスカやマッダレーナが素晴らしかったが、いまひとつフォトジェニックでは無さすぎる)が真っ白に塗りたくって唇だけぼってり赤く塗って、実に妙な肩を持ち上げて手をくっつける奇妙な振りをさせられていて気持ち悪いのはおいておけば、素晴らしい。とにかく伸ばしたときの声の響きが抜群で、それ以外はどうでも良くなる。
ピンカートン(誰か忘れた)は最初、くぐもったいやなテノールだなと思ったが、位置のせいか、節回しのせいか、ときどき素晴らしく良くなり、1幕後半の美しさはすばらしい。
毒々しい振袖だが動きによっては蝶々のようだ。狙ったな。
2幕。いきなり洋装でミシンがあるテーブルに向っている蝶々夫人。そりゃそうなのか。彼女は自分をアメリカ人としているのだから、それが普通か。
スズキの人が絶品。2重唱がこんなに美しい音楽だとは今までわからなかった。
金が尽きそうの箇所で、あれ、こんなに椿姫だったのか? と驚く。ちょっと違うぞ。
シーリはそのまま素晴らしい。が、ビデオでアップが多いのでちょっと気持ち悪い。が、歌のすばらしさはとてつもない。
ある晴れた日の途中の大砲のところで、あ、まさに大砲だったのかとはっきりわかるドンの音。シャイーの棒は素晴らしいのではないか。
子供が金髪なのでびっくりした。
青い目(台本としては、誰の子供だ? と訝るシャープレスに目を見せて、ピンカートンの子供だということを示すのに青い目を利用している)どころの騒ぎではない。
シャープレスのピンカートンに対する怒りがはっきりくっきり歌われる。
ただ、洋装になっているだけに、自分はアメリカの法律によってうんぬんの箇所が逆に滑稽さを際立たせているようにも感じないでもない。滑稽と悲惨のバランスが難しい歌だ。
3幕。ピンカートンの卑怯っぷりがすさまじい。あとでわかったが、さらば愛の隠れ家の歌の有無でここまで印象が違うとは思わなかった。たかが言い訳とは言え、歌が良ければ印象が良くなるのだなぁ。
シャープレスが渡した金を蝶々夫人は受け取らないので、あとでスズキの袖の下にこっそり入れる。演出が細かい。
ケイトが最後に蝶々夫人に「握手してくださるわね?」と言う。「それだけはお断りします」と蝶々夫人は毅然として言う。
これ、カットする必要あったのだろうか? お互いの気持ちがはっきりと示される見事な台本と思うのだが。
最後、見事な所作で首を搔き切って倒れる。そこにピンカートンが駆け込む。いきなり子供の目隠しを取る。子供、しっかりと蝶々夫人の亡骸を見るのだかどうだか、こちらをにらみつける。オーメンの最後だぞ、これ。
というわけで、シーリの素晴らしさ、台本の不思議さ(3年たってシャープレスが相当日本に馴染んできたのかな)、1幕のだらだらっぷり(異国情緒をたんまり盛り込もうと狙って失敗したような)となかなかおもしろかった。というか、すさまじくおもしろかった。
日曜は新国立劇場で同じく蝶々夫人。
やはり、花嫁行列の音楽は、こちらのほうが圧倒的に美しい。夢みたいだ。
安藤赴美子は良かった。
甲斐栄次郎のシャープレスは理由はわからないが、好きだ(これが2回目だが前回観た時も実に良い印象)。
ボンゾの登場はまるで雷で、音はこちらの演出のほうが良い(3階のふすまをガラッと開けて登場するスカラ座の演出も好き)。
2幕を見ていると、あまり椿姫みたいには見えない。スズキの存在感がほとんどないからだ。単なるイエスマンになっていて、初演版のほうが蝶々夫人を支えようという意思を感じさせる台本になっているように感じる(演出が異なるからか、そもそも初演版から台詞をカットしまくっているのかも知れないが)。2重唱もあまり2重唱っぽくないが、これは主役と助役の歌手の力量さの問題かも知れないからよくわからない。
ある晴れた日の大砲は聞こえるか聞こえないかで、これはシャイーの音のほうが良いのではなかろうか。
オーギャンという指揮者はなんか普通の蝶々夫人という感じで、特に強い印象を受ける音はなかった。
3幕、マッシのピンカートンは良い。
それにしてもマントヴァ公の2幕始まってすぐの彼女を愛しているんだといい、さらば愛の隠れ家よ、にしろ、実に手前勝手な歌なのだが、良い歌によってちょっと印象を持ち直すというのはおもしろい。
おれは本当にプッチーニが好きだな。
野崎さんに教わってXTCのNonsuchを買って、何度かめのしかも本格的なXTCブームがやってきてしまった。
XTCはあまり好きではなかった。ずばりおもしろくもなんともないからで、頑張れナイジェルとライフはホップで始まるよとかは、MTV用のビデオが楽しいから嫌いじゃなかったわけだが、あまりのジャケットのポップさに惹かれてドラムス&ワイヤーを買えばその2曲以外はつまらないし、それでもブラックシーを買ってみれば、最初の30秒以外はまったくおもしろくないし、ママーを買ってみればひとつもおもしろくないし、アンディーパートリッジのソロを評判に釣られて買ってみると0.1秒たりともおもしろくない。
どうやら、おれはXTCは好きではないとやっと気づいて以後無視して数10年がたった。
ところが、やたらと評判が良いのでビートルズみたいなジャケットのオレンジとレモンとスカイラーク(かな?)をつい10年前くらいに買ってみて、くそ、やはりこれっぽっちもおもしろくない。
というわけで、やはり少しも好きではないというか、単純に退屈なのだ。
が、ブックスアーバーニングは素晴らしい。
まず歌詞がすばらしい。そこでまじめに繰り返して聞いているうちに聴き方を理解したらしい。ギターの音の作り方がおもしろいし、それによって曲の構成がおもしろい。おや、どうやら聴き方を間違っていたようだと気づいた。
なるほど、考えてみれば、ギターバンドってほとんど聞かないから聴き方がわかっていなかったようだ(エコー&ザバニーメンとかビルネルソンとかギターバンドの曲を聞いていないわけではないが、むしろボーカルとかむしろコンセプトとかで聞いていてギターそのものを聞いていたわけではなかったようだ)。
というわけで、ブックスアーバニングは素晴らしい。
(BBC)
で、聞いているうちに脳裏に浮かぶ映像があるわけだが、その映像は映像由来ではなく、文章に由来していて、それはなんだったかずーっと考えていて、思い出した。
本泥棒だ。
もし世界中から本が消えてすべてが電子化されたら、圧政者や独裁者はさぞかしつまらない思いをするだろう。彼らはもう本を燃やせないのだ。
ただ、本泥棒は2007年だから、アンディーパートリッジがBooks are burningを作ったころには存在していない。
フレーフレーピーターパンプキンヘッド、誰が彼のために祈るんだいのところの韻もすごく好き。
野崎さんのWhere Are We Now?の解釈がすごくおもしろくて、ふと考えた。
ほとんどの場合、ロックの歌詞なんてしょせん歌詞で、せいぜい意味があるとしても、ジョンライドンの皮肉や、ジョーストラマーの社会抗議くらいで、音にうまくのれば良いや程度のものに過ぎないと、これまでほとんど見過ごしてきた(聞き取りが難しすぎるというのもある。日本語ロックでさえ完全に言葉を聞き取れないくらいなわけだし)。
でも、生涯にわたって自分のイメージを徹底的に制御してきて、しかも常に失敗してさえ生き残ってきた人間は、ときどき使われる言葉ではあるが、やはりアーティストなのであって、そうそう音にのれば良い程度で作っているというわけでもないのではないか。
とすれば、一番、まともに解釈されたことがない作品であっても、そこにはやはり一貫性があるのではなかろうか。
と、考えればすぐに考え付くのは、ばかみたいに売れた作品だ。売るための作品として作ったというのは有名で、本当にその通りに売れまくった、とは言え、それは音楽作品としての全体であって、詞には詩があるのではなかろうか?
というわけで、modern love lyricで検索してみて、あらためて読むと、なんだこれ。
I know when to go out
And when to stay in
Get things done
I catch a paper boy
But things don't really change
I'm standing in the wind
But I never wave bye-bye
But I try I try
出ていくべき時はわかっているし、いつ留まるべきかも知っている、さあ、刈り入れの時がきた。
としゃべって、
新聞売りの小僧を捕まえて、新聞読んだ。1972、5年たって1977、おや、1982(発売は1983だけど)、もう10年たってしまったが、何も変わってないじゃん。
そこにはただ風(とくると、the windはwildだ(倒置法だと思う)という言葉が当然想起される)が吹いているだけ。(もちろん、この訳は誤訳だ。当然、1982年に出版されたWhen the Wind Blowsの意味に違いない。ボウイがこの映画(1986年)の曲を歌ったのはどの縁なんだ?)
でも、あきらめないもんね。トライし続けるぞ。
(70年代岩谷超訳スタイルだ)
びっくりするくらいに、ボウイだった。しかも、さあ売るぞ! と宣言まで入っている。ベルリンからの蟄居時代の終焉を宣言してたのか。
まさか、modern loveをstone (age) loveにかけたわけではないだろうから、loveとはmusicなのかも知れないけど、スターマンの眼差しの可能性もあるわけだな。
で、Let's Danceのほうも見てみると(面倒になって詞は見ていないわけだが)、これはもしかしてmodern loveとsoul loveの戦いの話なのか? とか、これまたいろいろ意味深に作ってあって、いったい、おれは1983年当時、何を見て何を聴いていたんだ? と不思議になった。
すると、やはり風が吹くときが描かれていて、作品全体としては兆弾とかあったり、悲観と楽観、終焉の予感と復活の希望みたいなものが混じり合った世界で、あー、音だけ聴いても、そのヒットだけを取ってもだめで、全体で(しかもすべての作品の中のその時期という見方で)味合わなければだめなんだなぁと思い知るのであった。
有野さんから滿を満たして出版された「Androidを支える技術〈I〉」をいただいて読み始めた。現在1/2を少し超えたところまで読んだところだけど、今書けることは今書いておく。
結論としては、信じがたくおもしろいからすぐ読むべきだ。
副題は60fpsを達成するモダンなGUIシステムとなっていて、fps(秒あたりの画面書き換え回数)が押されているので、ゲームとかの話かと思ったら、まったく違って、Androidがどういう仕組みでデバイスに対する入力を遅延なくウィンドウの描画へつないでいるかの解説に近い。
そのために利用しているプライオリティ(というか、発火時間順)に基づくイベントのキュー(これがシステム全体としてデバイスからの吸い上げと、アクティブなプロセス内でのイベントの、大きく2つある)と、それをいかに抽象化して実装しているかの解説が、1/2読み終わった時点での中心だ。
その前に、本文とはまったく語調が異なる、自負にあふれきってえらくおもしろい前口上と、超速Android開発ガイドがある(これ読んで開発するためではなく、どういう技術要素を利用して開発するかの提示で、Androidを知らなくても読めるように、開発者視線での上っ面が説明されている)。したがって、本文で説明しているのが、実際のアプリケーションではどう作用するかの見取り図についてのマインドマップを最初に形成させる仕組みだ(すでにAndroidのアプリケーション開発者にとっては邪魔にならないように、読み飛ばせるようにガイドがついている)。
想定読者については、前書きに4タイプが示されている。
・Androidでの開発経験とLinuxのシステムプログラミング(libcレベルということだろうけど)の経験者にAndroidを完全ガイドする
・WindowsのGUI開発者にAndroidを教える
・組み込み開発者にAndroid流儀を教える
・開発者から足を洗ったマネージャにAndroidの特徴を示す
いずれにしても、Androidの世界を大きくするために開発者層を正しい知識で増やす方向だ。もっとも、著者にはそういう意図はなく、複数のモジュールをキューを使って疎に結合することで、マルチコアを生かしながらデッドロックに陥ることなく見事にバケツリレーする動作そのものがどえらくおもしろくて、それをうまく説明したかったのではないかと思うし、本としては単に読者対象を大きくとっただけだろうけど、結果としてはそういう方向の本だ。
おれは多分2と4(微妙)なのだろうけど、確かに、メッセージポンプを知っているから、その部分は妙にわかりやすいとかあったけど、おそらく、事前知識はあまり必要ないのではなかろうか。むしろ、GUIシステムの問題(マルチスレッドツールキット:見果てぬ夢?)を知っていれば、事前知識としてはそれで十分な気がする。
それにしてもこの本は次の理由から必読書だ。というか、まず何よりも圧倒的におもしろい。
・現在活躍しているコンピュータの基本動作のINとOUTについて解説した、非常に優れた技術解説書(の例としてのAndroid)。
Androidというシステム(これはなんだろう? OSという観点ではLinuxだし、Windowシステムというわけでもないし(でも、Windowシステムと言うべきなんだろうか)、仮想機械というのとは(ユーザーランドを完全支配しているという点で)違うし)のデバイスからウィンドウの表面までの動作の仕組みを解説しているという点でこういって良いだろう。
・しかも実にわかりやすい。
もしかすると編集の方がすごくコミットしているのかも知れないけど、わかっている人ならではのすっ飛ばしが全くない。これが驚きだし、ある点において口惜しい。
・しかも、くどくない
ここが何と言ってもすごい。同じことや、同じコードを何度も出して説明しているのだが、その都度、切り口が異なるので読んでいて、また繰り返しやがったと感じることが全然なく、実にわかりやすい。あまりのわかりやすさに考察してみると、各角度からの説明をある時点で焦点を絞った同じことを中心に行っているので、すさまじく理解しやすいのだ。これはおれには脅威だった。女子高生にもわかるAndroidとかツィットしていて、何ふざけたことを、と思っていたが、書きっぷりはその通りだった。選択と集中だな。
技術書というもののメタな意味で、こんなに参考になるものはいままで読んだことがない。
・バランスとテンポ
半分くらいまで読んだところで、Linuxのデバイスドライバから始まって、イベントが最上位のViewまで運ばれたところまで来ている(IN側だ)。この後ろに描画がくる(OUT側だ)。それに続いてバイトコードが来るが(おもしろそうなので最初にパラ読みした)、デバイスドライバの前に概観を示した章があるから、分量的にきれいに、前奏曲-IN-OUT-コーダに分かれていることになる。信じられない。しかもテンポが良い。すごく良い。
一体、この著者は何者なんだ(というと、ギター片手に世界を放浪しているムムリクさんなわけだが)。正直なところ、この内容をここまで読みやすくしかもおもしろく書くことができるとは読み始めるまでは想像もしていなかった。なんというか、頭脳が明晰な人は、うらやましい。
Androidを支える技術〈I〉──60fpsを達成するモダンなGUIシステム (WEB+DB PRESS plus)(有野 和真)
続編ももうすぐ出てくるようです。
Androidを支える技術〈II〉──真のマルチタスクに挑んだモバイルOSの心臓部 (WEB+DB PRESS plus)(有野 和真)
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