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RealForce R3購入(購入したのはJustsystemモデルなので色は藍になっているけど下の書影は普通のモデル)した。
今のところ
R1: これがやはり一番しっくりくる。キートップのサイズ(平坦さというか)が一番使い心地が良い。ただ、さすがに16年使っている(と考えると実に良い買い物だった。購入当初はMac用のつもりだったので使えないじゃんとなっているが、その後Windowsマシンの世代交代でキーボードがPS2接続ではなくUSB接続となったことで普通以上に使えてお気に入りとなり、2014年にCODE Keyboardを買うまでは大活躍だった)のでいくつかのキーが押す角度によってきしむし、Windowsキーとか無いので今となっては不便ではあったので買い替えはいずれにしても必要なのだ。とはいえ多少きしむ程度なので捨てるのが惜しい(しかし重くてでかいので邪魔ではある)。
R2: 2020年12月にCode Keyboardが不調になってきたので満を持して購入。だがこれは失敗(R1と比べて。悪くはないので職場キーボードとなって使われまくってはいる)。KVM切り替え機での動作不可問題がでか過ぎた。あまりのショックのために日記に記録が無いくらいだ。で、Code Keyboardを引っ込めてR1が再登板となった。
R3: R2よりは打ちやすい気がするがキートップのサイズはR2と似ている(要はR1より打ちにくい)。
家の環境での一番の問題は、KVM切り替え機のUSB給電だとR2とR3は使えないということなのだった。どうせモニターは今では使えなくてKM切り替え機になっているのだから、BTで接続できるR3なら良いだろうと、R3を買ったわけなのだった。(R2は有線なので問題外)
気づいた点: BTは4台まで認識できるので、メイン、サブ、Macの3台と取り敢えずつないだが、2台目の接続時にちょっと混乱。というのは1台目はREALFORCE_1というのと接続したわけだが、REALFORCE_2というのしかBTが認識しない。とはいえ他にREALFORCEは存在しないのでそれと接続して使えることを確認。で、MACに接続しようとBTをONにしたらREALFORCE_1とREALFORCE_3の2つがリストされる。ここで、RealForce側の接続先スロットが名前となっていることがわかったわけだが(_2のときに気づけよ、とは思った)、なぜ_1が出てくるのだろうか? 別に実験する気はないので_3と接続して万事順調(でも、仮名漢字変換キーは空白の両側にあってもMacでは使えないのでCtrl-Shift-Z~Cを使わざるを得ないし、RealForce側でキーマッピングを変えたら、きっとWindowsでは使えなくなるだろうからどうにもならんというか、BTスロット単位にキーマッピングを切り替えられるのかな?(そんなことは取説のどこにも書いてないので期待はしないのでやらないが、あと1万円の価格アップならBTスロットとキーマッピング設定がペアになっていたら素晴らしいだろう)
誤算)というわけでKVMからキーボードを解放して、後はMを残すのみとなったのだが、このKVMも年期が入りすぎていて切り替えスイッチが動作しないことに気づいた。バネがばかになっているのか、接点が腐っているのかどちらかだろう。今までキーボードのCtrl-ShiftShift + 数字キーで切り替えていたので気づかなかった。ということは切り替えができないということなのだ! とりあえずMacにつないでいたArkキーボード(軽い、小さい、薄いので邪魔ではない)を接続して切り替えスイッチにしたがなんだかなぁ、新しいM切り替え機を購入するのが良いのだろうか?
(キーボードにUSBマウス用入力があればベストではあるが、BTスロットごとのキーマッピングが無いくらいなので、当然そんな良いものは付いていない)
追記:KVM切り替え機が使えない問題は パソ活ラボにUSB複合デバイス扱いとなるから、とあって、おそらくこれが正解なのだろう。おれより1年使用歴は浅いみたいだがさすが70台のキーボードを試した人だけにちゃんと調べている。
とするとおれの選択方法は
・シンプルモードにしてKVMを使う。PROS:従来通り、CONS:ない(ゲーマーではないのでキーは1からせいぜい3まで同時に押せれば十分)が、折角BTペアリングしたので面倒
・M切り替え機を買う。PROS:ない、CONS:切り替えスイッチを手元に置く必要があって邪魔
・ARKキーボードで切り替える。PROS:ないが今の状態なので面倒はない、CONS:ARKキーボードを捨てられない(捨てるつもり満々だったのだ)
・マウス複数使い。PROS:シンプル。CONS:邪魔
・リモートデスクトップ。PROS:ない。CONS:たくさん(候補に挙げただけ)
ふと気づいたが、この3個のキーはこの20年間一切使ったことがない。一体どういう役回りなのか調べたが、なんの役にも立たないことを知って驚いた。
無変換→変換中にひらがなとカタカナに切り替え(そんなのCtrl-UとCtrl-Oだし)
変換→変換候補の切り替え(空白使うだろ)
カタカナひらがな→わからん。もしかしてIMEカナ入力のときに使うのかな
ということは、MAC用に無変換/変換のキーコードを変えても、まったく困らないじゃん。
そういうことだったのか。
チャイナ・ミエヴィルのクラーケン読了。
言語都市が抜群におもしろかったので(そのわりにはそのときは同じ作者の別作品を読もうとは考えなかった)、存在を認識すると同時に購入。
が、読み始めたら、博物館のクラーケンの標本の話で、なんだこりゃ? と思ってしばらく放置していたのだった。
が、アルセウスが少し行き詰ったのでちょっと続きを読み始めたらぐいぐい引っ張られてポケモンとかしている状況ではなくなった。
舞台は現代のロンドン。主人公は博物館の学芸員。生物の標本を作り、観光客へのガイドをしている。眼鏡のあんちゃんだ。
この状況が一転して魔術と魔物、怪人、神、宗教者、得体の知れない抽象的存在(概念的存在)が跳梁跋扈するロンドンを巡る死と消滅と復活を賭けた闘争の物語となってびっくり仰天だ。目前に迫ったロンドン(世界)を再創造するための業火の到来を阻止するために、数百年続くロンドンマンサーや、宿命を打破した古代エジプトの労働人形、博物館の天使(ここらあたりは作者はげらげら笑いながら伏線を仕込み、満を満たして登場させたのだろうなぁとか考えると楽しい)などとともに絶望的なバトルを繰り広げる。
(ロンドンが業火に包まれて終末を巡る戦争が始まるという点ではヘルシングを想起するし、現実がどんどんずれていく感覚はニールゲイマンを想起するし、優れた映画のように記憶が刺激されまくる)
しかし魔術や魔物が出てくるがファンタジーではない。やはりこれはSF(ただしスペキュラティブのほう)だな。ファンタジーであれば、主人公も登場人物も、環境をそういうものとして自然に受け入れて、環境が求めるように振る舞う。が、主人公は常に第三者的視点を持ち、その異様な状況を異様な状況として味わい尽くしている(したがって、世界を解釈する)。しかしサイエンスのほうのSFではないから、なぜそうなのか? という疑問は持たない。
そういえば、洪水教の信者群が出てくるときに聖典の一つとしてバラード(当然、沈んだ世界のあたりだろうか、それとも溺れたのあたりかな)の名前が出てきたりする。
抜群におもしろかった。
ばらの騎士は長過ぎるのでパスしようかと思っていたのだが、アンネッテダッシュを観たかったので結局行くことにした。
もちろん想像通りにダッシュの元帥夫人は見事(特に3幕で事態を収めるために登場する場面のきりりっぷりは素晴らしい。演出の黒い服がまた似合う)なのだが、1幕ではそれ以上に宮里直樹という(初見)のテノール歌手が素晴らしい。実に朗々たる声だが陰影もあり、黙れオックスまじめに聴け! という印象を初めて持った。あまりにもころころしているからなかなか役を掴むのは難しいのかも知れないが、もっとばんばん出てきて欲しい。
でオクタヴィアンの小林もゾフィーの安井も良くて全然ダッシュに負けていない(ゾフィーは2幕の登場時はなんだこりゃと正直思ったのだが、オクタヴィアンと二人になると俄然声が出るようになり――そういう演出なのかな)、3幕の三重唱(とその後の二重唱)は実に美しい。これが聴きたいからばらの騎士を観るようなものなのだが、大満足だ。あと、これだけ金管を鳴らせまくるのに、東京フィルがまったく破綻ないのも感心した。20世紀の日本のオーケストラは金管がここぞというところで音を外したりひっくり返るのがつきものだったのだが、まったくそういう予兆すらない。本当に良いものを観られたなぁ。
最後、ムハンマドがハンカチを取りに戻るのではなくつまみ食いに戻るのがおもしろいが、それ以上にコロナ演出なのだろうが元は食器棚(かな?)に亡霊たちが隠れているはずが広い部屋の奥の扉に隠れているように変えたのがおもしろい。この部屋の広さによって(子供も指摘していたが)子供たちが妙に等間隔に並んでいっせいにマックスを指さして父さん父さんと呼ぶところが妙な可笑しみをを呼んで、これまた結構なものだった。
終わった後子供と話したが、どうもコロナ以降のほうが(要は日本人歌手がばんばん主役級を歌うようになってからということなのだが、とはいえメーリはメーリで来日できてよかった)良いものを観られるようになったように感じる(特にロドリーゴが印象的。ただジークムントたちは別だが)。
レオスキャラクスの作品ということ以外ほとんど前知識なしに観に行く。
予告編でパルコのスパークス(ラストナイトインソーホーの作家の作品なのか。もちろんスパークスは大好きだし、エドガーライトも良かったので観に行くかも知れない。
始まると、映画が始まるから黙って見てろ。息もするな! とアナウンス。ミキシング室で、あれ? メイル兄弟がいるぞ、とそこまで来てアネットもスパークスの映画だと知った。そうだったのか。で、ミュージカル風に人が少しずつ集まりながらの行進が始まる(そういえばスピルバーグのウエストサイドストーリーでもきちんと押さえていたし、愛と誠もそうだった)。ミュージカルなのか? と思いながら観ていると、アダムドライバーが緑のジャケットを着るところでどうやら本編が始まった。
というか、クレジットでプロデューサーに3人名前が挙がっていて、最後がアダムドライバーだった。
スターウォーズで稼いだ金を投資したのか? それにしてもジャームッシュ(これもだ)の常連でキャラクッスにも出資してまで出る、しかも天下のエンターテインメントのスターウォーズの主役も張るって、アダムドライバーは只者ではなさすぎる。おもしろい人だなぁ。
途中、六本木のディスコ(という設定)で、「どうもおれはモテるみたいだ。イケメン? じゃないよな。でもなんかチャーミングらしい」とか歌うが、そういうことなのだろう。
アドムドライバーはミュージカル大行進の軍勢から分かれてオートバイに乗り疾走する。
その一方、車の後部座席のアン(マリオン・コティヤール。多分初見。so muchの発音がソーモーみたいな妙な音なので英語圏の人ではないのか? と思ったらフランス人だった)は窓にもたれる。ここから長いシーンで夜の光が車の動きに合わせて流れて顔をさまざまに彩る。おお、おれは映画を観ているぞ。
アダムドライバー演じるヘンリーマクヘンリー(この妙な語呂合わせはおもしろい)はスタンダップコメディアンでパンツの上にガウンを羽織った姿でジョークを投げまくる。大しておもしろくない。
全体、この映画の中のジョークで一番おもしろかったのは、「なんてこった。全裸だぞ!」で、ここは爆笑。もう1か所は忘れた。
ジョークの中で、アンと婚約したことを言う。
一方アンは舞台で歌う。
この作品の中の舞台にかかるオペラはおそらくスパークスが作ったものだろうと思うのだが(後幕が開いて荒涼とした森の中をうろつき、また舞台へ戻るシーンはおもしろい)特に前方に突き出した台の上で血まみれで死ぬ舞台はなかなか興味深い。このシーンの直前で、アダムドライバーは劇場の裏口から入り、舞台の袖のモニターの場所まで延々と歩くのだが、この流れも映画だ。
舞台の上のオペラはスパークスかも知れないが、アダムドライバーがバイクで疾走しているときに次々のアンが浮かび上がるシーンは、本物を使っている。特に道路中央に長くうずくまっているときのオテロのアベマリアが印象的だった。
同じ夜にかたほうは舞台で人を笑わせて喝采を受け、かたほうは舞台で死によみがえって喝采を受ける。
何度か芸能ニュースが挟まり、二人の状況を説明する。
妊娠する。アダムドライバーは生まれた子供がピエロの顔で生まれる夢を見る。
子供が生まれる。アネットだ。
アンが不在の夜、ベビーシッティングをしているアダムがアネットの上にシット(メルドのほうではなく座るのほう。そういえばアンの出産シーンではメルドと言っているな)しているというジョークが入る。ここでアネットの足が操り人形の足そのものと良く見えるのでちょっと混乱した。混乱したが、これはジョークシーンなので、アネットが操り人形(というかロボット)なのは、本物の赤ん坊では演技ができないことと、出演者に対する虐待という文句がつく(本物を使ったら大騒ぎだろう)のを回避するためだろう。それにしては、脚はもう少し本物っぽく作れるはずだから、わざと操り人形の可動部を見せることで異化効果を狙ってはいるのだと考える。
アダムはラスベガス公演でブーイングを受けキャンセルされる。
この間、アンの伴奏ピアニストがおれは指揮者になりたいけど、伴奏者なんだという歌をピアノを弾きながら歌う。メイルの兄貴か?
アダムに対する6人の女性の告発が起きる。なぜこのタイミング? アンが心配。
二人とアネットはヨットの旅に出る。嵐が来る。
アネットにアンが乗り移り夜な夜な歌を歌わされる。アダムは歌う赤ん坊ショーを思いついて、我が友指揮者だか我が友伴奏者だかを呼び寄せる(どちらかでえらく違うが、思い出せない)。
アネットは歌うだけではなく外連で空を飛ぶ。(確かに本物の人間を使うのはだめだな)
アダムが遊びに出かけた留守に伴奏者は自分が作ったso muchをアネットに教える。その曲はアンと自分の二人のものだと信じ込んでいたアダムは逆上する。
最後獄中のアダムをアネットが面会に来る。ここでアネットは人間となり、母と父から解放される。いや、母さんは関係ないだろう? とアダムが言う。アネットは答えないが、最後までアダムはなぜアネットが歌うのか理解していなかったのだろう。
元のシーンに戻り映画は終わったから解散。
とてもおもしろかったが、最後の面会のシーケンスはいささか長過ぎると感じた。おそらく、あまりの天才子役っぷりにキャラックスがカットできなかったのだろう。それでも長い。
追記: どこかでブラームスの4番が流れるのだがどこだったかな。
随分以前だが、泉昌之のマンガを読んでいたら2つの言葉の頭を交換してしまう言い間違いというネタがあって、そのときはそんなものあるんかいなと思った。
が、しばらくして友人と話しているときに、バルビローリが良いとかDGのクーベリックとCBSのバーンスタインとどちらが良いかとか話しているときに、「そういえばマラヤンのカーラーは」と口から出てきて、「マラヤン?」と爆笑になって、なるほど! 確かに2つの言葉の頭交換の言い間違いってあると思い知った。
マーラー:交響曲第9番(限定盤)(UHQCD)(ヘルベルト・フォン・カラヤン)
(突如としてカラヤンが録音プロデューサーから指揮者に立ち戻った)
というのをすっかり忘れていた先日、神保町をうろついていたら有斐閣の前で不思議なポップを見た。
ポケット六法のポップなのだが、有斐閣のおれが持つイメージからはかけ離れたまるまると肥えた妙にかわいい鳥のゆるキャラがいる。
なんだこれ?
でFBにポストしたら、友人が調べてくれた。
なるほど、確かにあるあるだ。
妻と車の中で椎名林檎の木綿のハカチーフを聞きながら「いかにも松本隆が田舎ものを都会人のステロタイプで表現したくそみたいな詩だな」とか「この時代だと、男は都会で就職、女は田舎で家事手伝い(大学進学など女にはあり得ないし、そもそも都会一人暮らしもさせられません! と家族猛反対)とかあるあるっぽい、だからステロタイプも当然」とか「この歌、歌謡曲としてそれなりに支持されたってことは当時の心情に合うところもあったんだよなぁ?」とか言い合っていた。
ら、ふと妻が、「でも、現実問題として男都会就職、女田舎残存パターンでのハッピーエンドってどうあるんだろう?」と言い出した。
で、考えた。
1. これはこれでハッピーエンド: 男は都会人に脱皮して生きるし、女は田舎者として生涯を貫く
2. 現実的には、男は就職3年目で多摩ニュータウンの抽選に当たって女を呼び寄せて結婚
の2択かなぁ。「まあ、2かな」と妻も言う。
「少なくとも、男が都会に疲れて田舎に戻って一緒に農協で働くとかないよな(その場合、女はハッピーでも男はあまりハッピーではなさそうだ)」「というか、高卒男女の就業って田舎だと実家の農家じゃないか(これまた男はハッピーではなさそう)」「でも男が都会へ出るってことは跡取りは別にいて追い出されパターンでは?(とすれば、2を実現するしかないから、男は田舎の女に都会の風物を教えて来るべき東京(といっても多摩)生活に順応させようとしているのに、女は執拗にそれを拒否しているのだから、2だと女はアンハッピー)」とかさらにディテールが続く。
とすると、まさに曲調の通り、これはハッピーな歌なのだろう。
男は都会に出て浮かれまくって染まりまくってハッピー、女は帰らぬ人の帰りを待って木綿のハンカチーフで涙を拭う健気な女を演じてハッピー。
ハッピーな歌だから、それなりにヒットしたのだろう。
・もしかすると、田舎男女の恋愛ステロタイプではなく、脱亜入欧男対大東亜共栄圏反動女の思想的闘争の比喩かも知れない(あり得ない)。
シャンテでスパークス・ブラザーズ。
影響を受けたり関係したり(元バンドメンバーとか)人とメイル兄弟に対するインタビューと、当時のフィルム(スパークスが映画好きということで本人たちとは関係ないフィルムも混ぜている)、それぞれのアルバムから主要曲のさわりで構成されている。
エドガーライト本人が大ファンのインタビューイとして出てくる。
最後のスパークスに対するインタビューは、おそらく「これから20個のでたらめを休まずに言ってください」という感じかな? 最後、ラッセルが実は作詞作曲はおれがやっていると言い、ロンがスパークスとはおれのことで、やつは単なる歌手(ちょっとチャーリーワッツのエピソードを思い出す)と言う。
どこから出たのかわからないが、おれは完全にイギリス人の兄弟が印税逃れのためにアメリカへ渡ったのだと信じ込んでいたのだが見てびっくり、完全に間違っていてLA生まれ(ロンに良く似た風貌の父親は雑誌のイラストレーター)だった。まずは監獄ロックで音楽と映画に目覚める。でもロン11歳、ラッセル8歳のときに父親は死去。残った母親が頑張り、ビートルズのLA公演にはおんぼろ車で兄弟を送る。
高校時代は(少なくともラッセルは)フットボール選手だったが大学で兄貴とバンドを組む。
トッドラングレンがハーフネルソンに目をつけるがまったく売れない。
次に契約したレコード会社が、ロンがチャップリンみたいだということで、コメディアンのイメージだから、マルクス・ブラザーズのもじりでスパークス・ブラザーズとしようとバンド名の変更を提案。さすがにそれはちょっとということでスパークスとなった。
が、売れなくて契約を切られる。
マネージャだかが(アイランドかな?)と交渉してくると、君らはUK向きということで、バンドメンバーを英国人としてイギリスに舞台を移すことを提案される。キンクスもフーも好きだ。というわけでバンドメンバーをあっさり馘にして二人はイギリスへ飛ぶ(このあとも、ばさばさバンドメンバーを切り捨てることになる)。
キモノマイハウスの1曲目のThis Townがテレビで流れるとUKミュージックシーンにセンセーションを巻き起こす。
確かに、何度聞いてもなんだこれ? と発見がある名曲だし、しかもテレビにはヒトラーと(どう形容されたか忘れたが)セクシー兄ちゃんが出ていて奇天烈このうえない。
どうでも良いが年を取ったロンは背を高くした裕仁みたいで、さすがにムッソリーニ役はいないが一人枢軸国だ(というか、三木徳平みたいでここでもコメディアン)。
だが同じことばかりでは嫌になる。というわけで新機軸を打ち出すがまったく売れなくなる。LAに帰るが終わった人扱いになる。
というときに、インタビューを受けて次のアルバムはジョルジオモロダーと組むと適当を言ったら、そのインタビュアーがジョルジオモロダーの知り合いだった縁で実現する。ジョルジオモロダーはスパークスの機材を見て目を丸くする(おれはてっきりミュンヘンで作ったのだとばかり思っていたが、LAの(おそらく)スパークスの自宅スタジオで作られたのだな)。
というわけでNo.1 ソングインヘヴンが出る。
おれは、ほぼリアルタイムで聞いた(日本盤は出なかったんじゃないかな。で、今は亡き青山のパイドパイパーハウスで買ったはず)ので、実に思い入れがあるわけだが、今でも好きだ。
かくして、1979年にUKミュージックシーン(アメリカのエピゴーネンっているのだろうか? SuicideとかChromeとかはそれにあたるのだろうか?)に衝撃を与えまくる。
インタビューイとしてヤズー(デペッシュモードにもいたのかな)のやつが出てきてどれだけ興奮したかを語る。そうか。全然気づかなかったが、デュオ(ヤズーもそうだが、ユーリズミクス、ネイキッドアイズ、オーケストラルマヌーバーズID、ソフトセルとかいっぱい)の大先生なのか。ニューオーダーの誰か(見覚えない名前のような)が、ジョイディビジョンも影響を受けたとか言っていてまじすかと思う。全然関係なさそうなのに。
このころ、ジャックタチの映画に参加する話があるがタチが病気になって立ち消えるが、映画が好きなのでからみたいスパークスはジェットコースターのパニック映画に楽曲と出演をしている(らしい)。
映画内で暴走ジェットコースターが最後脱線して売店の屋根に突っ込むどう見てもジョークとしか思えないシーンが入るけど、本気で作られた商業映画なんだろうか?
・見ていて思い出したがヘヴンで山崎晴美か高杉弾かどちらかだと思うが、スパークスのロンが暴走するジェットコースターをバックに無表情でピアノを弾くプロモビデオがどうしたとか書いていたのを読んだ記憶がある。
・ポップ音楽シーンではUKはUSの常に先を進んでいると思うのだが、実際はストージーズとかニューヨークドールズとかラモーンズがUKに影響を与えたパンク(というのは知っている)と同じ構造でエレクトリックポップもスパークスが与えた影響が多大だったらしい。USのはみ出し者たちがUKに影響を与えて、それがUSに戻ってくる(理由は人口4億対人口4000万なので実験場になりやすい)ということみたいだ。
が、快進撃とはいかない。
(このあたりまでは調子が良かったらしい。どうでもよいが40年たったジェインウィードリンがインタビューイで出てくるが年をとってますますチャーミングな人だ)
苦難の年が始まるが、麻薬もやらず極端な遊びもしないので、貯金で食いつなぎながら楽曲を作りまくる。この間、サイキック舞の映画のための音楽を作るのだが監督予定のティムバートンが降りてしまって立ち消えになる。
が、余分なサックス無意味なヴァイオリン(日本版はあるのかな?)というみょうちきりんなタイトルのアルバムで復活(おれはその前のインテリアデザインは好きで買って持っているのだが売れなかったのだな)。
Gratuitous Sax & Senseless Violins [Analog](Sparks)
久々に売れたらしいおれがマイウェイを(シナトラやシドヴィシャスですら歌っていたのに)歌えるのはいつ? は映画内では割と大きくフィーチャしている。
が、それも長くは続かない。
(キモノマイハウスも次のプロパガンダもジャケットワークを映画内では褒めちぎっている人たちが出てくるが、実際のところ、おれはジャケットワークがどれもこれも好きになれないのでスパークスのアルバムはあまり買う気にはならない。No1のハイセンスは好きだしインテリアデザインの50年代風がばかげていておもしろいので買ったけど。あとベスト盤はジャケットワークが気に食わなくても買って持っていた)
が、リルベートーヴェンで復活。続くハローヤングラヴァーズも売れる。この時期の来日公演をおれは観ている。確か、六本木のブックマート青山でインタビューがあって(スパークスブラザーズの監訳もしている岸野雄一が呼び屋兼インタビュアーだったような記憶がある)、ロンがラッセルを「スポンジみたいな(なんでも吸収する)野郎」と評していたのだけ妙に印象に残っている。
で、カンヌでレオスキャラクスと知り合って意気投合、やっと念願の映画製作が実現する。
というか、この映画で初めてレオスキャラクスを見て、アネット冒頭のタバコをすばすばしながら(フランス人だから普通にタバコを吸いまくるし映画に入れる)ミキシングルームにいるのが作家本人と知った。さらに、原案自体がスパークスということも知る。
すると、作中の常に異常な結果となるヘンリー⇒アンの関係、ヘンリー⇒伴奏者の関係は、
コメディアン⇒歌い手
遊び人⇒作曲者
という鏡像関係にある見た目のスパークスイメージと重なるみたいだ。だが、映画と違って現実では異常な結果は対消滅するので、二人並んで仲良く仕事(作曲とかアレンジとかだろうけど)している映像に収斂できてめでたしめでたし。
おもしろかった。
最後、別アレンジのNo.1ソングが流れるのだが、初めて認識したが、これはおらは死んじまっただの一歩手前の歌なのかな? なぜなら天国の歌が聞こえてきているわけだし、と歌っている。
No. 1 In Heaven [40th Anniversary Edition](スパークス)
(おれは立ち止まってしまう聴き手なのでやっぱりこれが好きだな)
Mael Intuition: Best Of Sparks 1974-76(スパークス)
(この初期ベスト盤がすばらしいのは、1曲目をキモノマイハウスと同じくthis townを置いたことだと思う)
新国立劇場で魔笛。新演出(前回はパスした)の犀を楽しみに観に行く(前回はパスということからわかるように、魔笛は部分的に素晴らしく好きな箇所はあるのだが、全体としては僕には退屈極まりなくてわざわざ劇場へ行くほどのことはないのだ)。
幕に妙な絵が描いてあって期待は高まる。
が、始まるとなんかテンポも良くなくてあまり楽しくない(というか魔笛だ)。
お助けーから三人の侍女が来て良い男だからわたしが留守番、いえ私、が続き、やっとパパゲーノが出てきたと思ったら、妙に鈍重(なぜか変換できないと思ったら、びっくりしたことに数十年の長きにわたってそう読んでいた「どんちょう」ではなかったのか。大辞林でも「どんじゅう」だからどんじゅうなのだろう。恥じ入るよりもさすがに驚いた)で好きになれない。
が、雷鳴一閃、夜の女王の登場でわくわくする。新演出に期待するのはまさにこういうことなのだ。が、これまた妙に(指揮だろう)鈍重で楽しめない。だめだこれ。
が、モノスタトス(なぜかトルコ風)とパミーナは良い。パミーナの砂川は良いな(夜の女王も見た目についてはゾフィーよりもはるかに似合っていて良いのだが(同じ安井)何しろテンポが好きになれない)。良いのだが、パパゲーノがだるくてついに意識がなくなってしまった。おれが好きなパパゲーノとモノスタトスの鉢合わせを見逃した。
ら、子供に突かれて意識を取り戻すとタミーノが魔笛を取り出した。おお、犀が踊る。ここだけは良い。
さらに驚くべきは、むしろ普段ならそこで退屈が頂点に達するザラストロが素晴らしい。あまりに素晴らしくてはじめてまともにザラストロを聴くことになった。オランダ人も素晴らしかったが河野鉄平。
コロナ演出なのか新演出だからか、信者集団が固まらずに、妙に離れて階段状に並ぶのも見た目が最高。
で、一幕終わり。
帰ろうかなぁとか思わなくもなかったが、ザラストロがとてもよかったので2幕も結局観ることにする。
そうしたらびっくりすることに実におもしろい。年を取ったからか、演出のせいか、これまでは夜の女王側しかおもしろくなかったのだが(2幕のザラストロトロの歌はとても良かった)、今回はザラストロ側が抜群におもしろい。
いつもであれば、夜の女王とパパゲーノが出てくると楽しめるのだが、今回はザラストロとパミーナが出てくると楽しめることになってしまった。
が、ザラストロが(大学教授という設定らしいが)、どう見ても新自由主義者の市長みたいに見える。植物園が老朽化したので建て替えるけどそのまま潰して自然食レストランに変えて、図書館が老朽化したので建て替えるけどそのまま図書館は廃止して、企業広告と排除アートの満艦飾で公園を塗り替えるようなやつだ。なるほど、ここは渋谷区だ。
そのために、高貴な血筋でエリート意識むき出しのタミーノと、自堕落で修行嫌いのパパゲーノという、階層間の断絶が強調されまくる。
そうなると鈍重なパパゲーノのささやかな抵抗(パミーナが説明を求めているときに、徹底的にパンを口に押し込んでまで黙ったうえに、タミーノに対して「やればおれにもできるんだ」と偉そうに垂れる)が抜群に生きてくる。
しかしザラストロのあまりの新自由主義っぷりに、部下たちもいろいろ思うところはある。タミーノに試練を与えたら死んでしまうのではないかという声に対して、平然と「神が迎えてくれるからむしろ良いことだ」みたいに答えるザラストロにはさすがについてはいけない。
本来なら貧困の闇の中に閉じ込められて餓死か自殺するように仕向けられたパパゲーノをパパゲーノの担当者は解放する。目の前の餌にされた(ザラストロが用意したというセリフがある)パパゲーナは、パパゲーノは心の目で人を見るような高度なことはできないと見抜き、本来の自分をアピールする。
夜の女王側にも通じてゲリラ的に活躍する三人の護法童子は、ザラストロが柘を削って作った魔法の笛を盗み出してタミーノに与えたように、(由来は不明だが)魔法の鈴をパパゲーノに与えているし、ここぞというときは良き助言をする。
さらに決定的なのは、試練の場の番人2人組だ。
どう考えてもザラストロが許可しているとは考えられないのに、タミーノがパミーナと会話することを許し、さらには二人で入場することを許可する。
そこでパミーナはタミーノに言う。「わたしがあなたを導き、愛がわたしを導く」
パミーナが導かなければタミーノは死んでしまうからだ。
・とするとザラストロは単なる新自由主義者であるだけではなく、御伽話にある娘の悪い父親(求婚者に無理難題を押し付けて殺しまくる。多分前回の犠牲者はハンガリーの皇子だろう。とすると番人はピンとかポンとかいう名前なのかも知れないが、それは父親ではない)でもあり、パミーナは惚れた男のために父親の言いつけに背いて助かる道を示す役回りでもある。
生きて戻ってきたタミーノに「ちっ、生き残ったか」とザラストロは顔をしかめるが、しかし高貴な血をひく義理の息子を宗教団体の次期指導者にするのも既定路線なのでまあ良かろうと納得する。
労働者階級のパパゲーナとパパゲーノはたくさん子供を作ってばんばん税金を搾り取れるから、これまた新自由主義のザラストロにとっては良いことだ。
と大団円。
この演出は抜群に明解で、しかも魔笛の物語上の不都合が全部きれいに解決されていた。
言われてみれば、フリーメーソンの教義は新自由主義と相性が良いというか同じものだった。
あと、妙に打楽器(ピアノまで登場)でオーケストラに色をつけまくっているのはおもしろかった。次はもう少しまじめに1幕も観てみたいものだと反省した。
同時に良く似たページを比較して眺めたいので、方法をいろいろ考えた。 それぞれをスクロール可能なDIVに組み込めば、同じWindow内の要素同士なので、ほぼ何も考えなくても、片側のDIVのスクロール量をもう一方に与えれば良いので簡単だ。 が、それぞれが独自にJavaScriptを読み込んだりするので、htmlタグ全体を読み込みたい。
となると、iFrameを2つ並べてそれを使うしか、ちょっと方法を考えつかなかった。 で、MDNを読むとwheelイベントというWeb標準があるので、それを利用して、片方のiFrameで受信したwheelイベントのdeltaYを親Windowに与えて、親Windowはもう片方のiFrameのwindowをスクロールすれば良い。簡単じゃん。
と、Firefoxで実装したわけだ。おお、ちゃんと同期する。し、(比較したいわけなので)片方を余分にスクロールしたければスクロールサムをドラッグすればそのiFrameだけ動くので具合も良い。
が、残念。
EdgeでもChromeでもwheelイベントのdeltaYは正しいスクロール量ではない。
なんじゃこれ? と、MDNを良く読むと、ブラウザーの実装ではwheelイベントのdelta*を反映する必要はないと書いてある。だから、scrollイベントを使え。
とはいえ、単純にscrollイベントを使うと、移動量を変えたい場合に処理ができない。ということは、スクロールバーを使ったスクロール時は無視する必要がある。
結局、ホイール操作からスクロールバー操作に人間の動作が移る最短時間を500ミリ秒と適当に判断して、以下のような実装となった(Coffeeで記述している)。
<iframe data-opposite-id="B" src=... ></iframe> <!-- こちらのHTMLは自身をAと認識 --> <iframe data-opposite-id="A" src=... ></iframe> <!-- こちらのHTMLは自身をBと認識 -->
# 親Window側 window.addEventListener('message', (e) -> try msg = JSON.parse(e.data) catch e then return if msg.command == 'scroll' document.querySelector('iframe[data-opposite-id="' + msg.sender + '"]').contentWindow.scrollBy(0, Math.ceil(msg.deltaY)) # Math.ceilは不要だとは思うし、おそらく余分にスクロールする )
# フレーム側 wheelTimer = null currentTop = null window.addEventListener('wheel', (e) -> if wheelTimer clearTimeout(wheelTimer) if currentTop == null currentTop = window.scrollY wheelTimer = setTimeout(() -> wheelTimer = null currentTop = null , 500) ) ) window.addEventListener('scroll', (e) -> if wheelTimer id = document.querySelector('body').dataset['myId'] # A or B data = {command: 'scroll', sender: id, deltaY: window.scrollY - currentTop} origin = /^[^:]+:\/\/[^/]+/.exec(document.location.href) window.parent.postMessage(JSON.stringify(data), origin[0]) currentTop = window.scrollY ) )
もちろん、もっとスマートな方法があればそれを知りたいところ。
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