著作一覧 |
いつの間にかshutdownがWindows 2008 R2やWindows7、8(Vistaもかな?)に組み込まれていた。
というわけでWindows8なら、Ctrl-esc cmd Shift-Ctrl-Enter、それ以外ならCtrl-esc R cmd Shift-Ctrl-Enterして、shutdown /s /f /t 0
とするのが楽(少なくともWindows 2008 R2だと理由がどうしたとか余分なことを聞かれなかった)。単にshutdownと入れると山ほどオプションが出てくる。
妻が図書館で借りて来た本を先に読めと渡したので読んだ。試した。おかしいぞ。
美味しさの常識を疑え! 強火をやめると、誰でも料理がうまくなる! (講談社の実用BOOK)(水島 弘史)
3つの極意と書いてあって、野菜も肉も弱火で炒めろ、塩は全体の0.8%の分量を量れ、包丁は30度で入れろ、ということだと思う(他にもごちゃごちゃ書いてあるが、適当に読んだので実は違うかも知れないけど)。
で、取りあえずは読んだことを頭から信じてやってみることにする。
でもモヤシを炒めるには10分かかると書いてあるので、なるほど、料理人に金を払うというのは自分の時間を大切にするということでもあるのだな、と感心した。10分もかけるのは時間の無駄だろ。
でもそれは大した問題ではないことが後でわかった。
とりあえず、強火というのは鍋の底のほうに火が行き渡る強さ、中火というのは鍋の底に火が届く強さ、弱火は着火口と鍋の底の中点に火の先端が届く強さという図解があり強火は加熱され過ぎるので弱火から中火を使いなさいと書いてある、ほーなるほど、そういうものですかと覚える。
で、肉を焼くには、フライパンが冷たいまま乗せて弱火で焼けと書いてある。えー、冷たいままですか? と驚きながら乗せてから焼くことにするが(ステーキ肉を使った)、面積の半分が空いていたので、そこにモヤシも入れた。
で、かき混ぜもせずに弱火で焼く。肉から油が流れ出すが、茹でる場合と同じで加熱した最初に出てくる水分はアクだから取り除けと書いてあるので、キッチンペーパー(という量でもないのでロール紙を使うのだが)で吸い込ませて捨てる。
というようなことやって5分くらいたつと肉が焼けて来た(というかゆだって来たという感じだ)ので引っくり返して、この調子だとあと5分はかかるなぁと、別のことして戻って来て、大体10分でお終い。なるほどモヤシを炒めるのも10分だなぁと食べてみてわかる。水なんか全然出ない。
確かに、今までの調理方法より正しいような気がするのだが、どうも違うのではないかという気がしてくる。
というか、違うだろ。
まず事実として、冷たいフライパンに材料を載せてから弱火で焼くというのは良い。弱火だから火が通るまで時間がかかるというのも正しい。確かに、書いてある通り、この方法で炒めると野菜から水が出ない。だからシャキっとした野菜炒めができたし、肉も割ときれいに焼ける。著者の主張の通りだ。
結果良ければすべて良し? いや違うだろうということだ。
この本を最初から読んでいて、肉を焼く前に常温に戻すというところで、とても感心した。
著者は常温に戻すというのは、室温に戻すということではなく、本来であればその肉のあるべき温度に戻すということだ、と主張する。人間であれば37度弱(いや、人間は食べないけど)、牛はもっと体温が高いので40何度か。
そりゃ無理だが、書いていることはなんとなくもっともらしい。
次に塩は少々とか曖昧なことを書いている料理書はゴミだ、正しくは浸透圧から0.8%と声高に主張する。
いや、それは変だろ? と気づいた。さっきの常温が元の生物の云々であるならば、どんな材料でも一律0.8%となるのはおかしいじゃないか。
そこで、あらためて考えてみると、強火、中火もおかしい。
アルコールランプでビーカーの水を沸かす実験で、炎の外縁部が最も高温になるから、底に炎の外縁が接するところにアルコールランプの台の高さを調節することを小学生の理科の時間に学習/実験した。炎に割り箸を渡して、外縁部に渡した箇所が最初に黒焦げになるのも実験した。
であれば、著者の説明の中火が最も鍋が高温になるはずだ。強火というのは炎の外縁部が周囲に逃げるので、鍋を持ち上げて振ったりするには良いかも知れないが、単にガスの無駄遣いとなるはずだ。
したがって、強火では加熱し過ぎになるというのは正しいとは考えにくい。
しかし、野菜炒めで水が出るのは火が強すぎるからだ、したがって弱火で時間をかけろというのは、調理結果からは正しそうだ。
そこで考えてみると、おそらくこういうことだろう。
ミソはフライパンが冷たい状態(つまりまだ点火する前)の時に、材料を載せるという点だ。
この場合、材料が持つ水分のせいで、鍋は100度を越えない。100度を越えないので焦げない。焦げないので外皮が破れず、水が出ない。素材の内部がじっくり加熱される道理だ。
通常、フライパンを加熱してから素材を入れる。
この場合、鍋は100度をゆうに上回る温度となる。おそらく180度にはなるだろう。
すると、素材を入れた時点で焦げてしまう(100度に下がるまでに時間がかかる)。その結果として外皮が破れて水が出る。
であれば、弱火かどうかは関係ない(が、水を張っているのと異なり、水を含んだ素材と素材の間には空間があるので、素材が載っていない箇所は100度を超える温度となり、さらに素材をかき混ぜれば100度を越えた箇所に素材があたり、結果的に焦げて破れやすくなる。また素材を動かすために、逆に100度を下回る温度となり、水が蒸発せずに水のまま残る)。
野菜は焦げてもおいしくないので、冷たいパンに乗せてから火を点けるのが正しいだろう。この時、時間がもったいなければ強火(中火)にすれば良い。重要なのはかき混ぜないことだ。あるいは弱火でも良い。その場合はかき混ぜても良いし、かき混ぜなくても良い。本書では油を上からかけてどうしたとか書いてあるが、それも不要だ。弱火で炒める(結果的には蒸していることになるのだが、外側はそれほどしんなりしなかったので、むしろ電子レンジ調理に近いかも)だけなら油は不要だった。かき混ぜたければ、油が必要だということなのだろう(油の沸点は100度を遥かに上回るのでかき混ぜても100度を下回りにくくなる)。その点でも著者は誤っていると思われる。
というわけで、結果としては正しそうなのだが、説明は間違っていると考えられる。弱火が重要ではなく、冷たい鍋に素材を入れてから熱することが重要なのだ。
というか、おれは肉に塩を付けて食べても少しもおいしいと思わないのだよ。0%で良い。ただし、わさびと醤油をかけて食べる。
0.8という数字は、ケネディ流のもっともらしく人を誤魔化すための数値ではないかと思うのだった。(が、自分の味つけを持っていなければ、少々とか一つまみとかわけわかんないしー、この本ってすごく科学的だし―、0.8%はかるしーとかやるのだろう。しかし、元の重量と、水分が抜けた後の食べる時の重量は、間違いなく異なるはずだが、0.8%の塩って当然最初の時点での計量結果だろうけど、食べる時の濃度じゃなくて良いのかね?)
そういえば、立高に入って驚いた。と、父親が話し始める。
何しろ、立川高校なのに、立川の中学から入って来たのは3人くらいしかいなかった。と言って数え始める。うん、確かに3人くらいだ。立川高校なのに、立川の連中が全然いなくてとにかく驚いた。
そのころはまだ学校群もグループ選抜も無かったからかな? と聞く。今もそういえばなくなったんだっけ。
立高には三多摩全体から来るんだよ。多かったのは何しろ五日市と拝島あたりだ。あのあたりは昔から進取独立の気概が高かったら優秀な連中がたくさんいたんだな。
特に五日市は五日市憲法とか作るような連中の子弟が住んでいたんだから、そりゃ優秀だ。
そういえば、と話を合わせるために歴史の知識を引っ張り出して、秩父(秩父困民党)のあたりから三多摩(三多摩自由党)は自由民権運動の牙城だったんだっけ? と聞く。なぜなんだろう。
それは天領だったからだよ、とすぐに答えが返って来た。天領は代官はいるが、逆に言えば代官しかいない。そこに土地を持って暮らしている連中の自治みたいなもんだ。しかも、ここは天領だという意識がある。おまけに天領は天領でも将軍家のお膝元だ。
天領だっていうのは、そんなに自負心を持つものなのかな?
今となってはわからないだろうが、そうなんだな。だから、新撰組の連中とかが、幕府の一大事となると自分たちで率先して京都へ行ったりしたわけだ。土方とかこのあたりに住んでたんじゃなかったっけ? 新撰組はあまり賢いとは言えないが、あれが天領の意識だ。
ああ、それで昔、と思い出して、土方歳三の家にあったとかいう怪しげな石灯籠を爺さんが買ったりしていたのか。このあたりに住んでいたから、そういう能書きを付けてもそれなりに本当くさいってことなんだな。
そういうおれたちは天領の百姓だという気概の持ち主から見れば、薩摩や長州の田舎者が好き勝手をしているとなればおもしろいわけがない。かと言って、進取の気概もあるので今更幕府でもない。そこで自由民権運動に向かったってことなんだろう。
というような理由だと思うが、とにかく五日市と拝島には優秀なやつがごろごろしていたわけだ。で、場所は立川だから立高だが、中身は全然立川じゃなかった。
でも、と思い出しながら言う。五日市はあきる野市だし、拝島は昭島で、どちらも今じゃぱっとしないけどな。立川は明治政府が人工的に作った町(長岡ではなく新潟、会津ではなく福島とかの小型版か)みたいだけど、鉄道と駅の整備、それに伴う宅地の造営と地方流入による新興住民の増加政策で気概のような文化を破壊できるということなのかもね。
# 五日市鉄道が五日市-拝島間で大正年間に開通して、昭和になってから立川に繋がったというのは何となく知っていたが、五日市と拝島は鉄道の両端点になる存在だったのだな。
時々行くカレー屋のカウンターに腰かけたら、目の前にブックスタンドがあり、文庫が6冊ほど並んでいる。全部同じ文庫だ。
背表紙に本所と長屋という字が見えたので興味を惹かれた。
すると店の主が、おいらの友人の本だってぇから並べてるんだ、という。
別にそれはどうでも良いが、ちょうど暇だったので売り物か? と尋ねるとそうだという。というわけで買った。サインが入ってるじゃん(別にいらんけど)。
で、読んだ。本所は隅田川の向う側の長屋に住む大家、腕が滅法たつ浪人、商家の奉公人、職人、謎の未亡人(と書くと現代ものになってしまうのが不思議だ。謎の後家さんと書けば良いのか)が、繰り広げる人情話の短編集。しまった。人情話は嫌いだ。
でも、考えてみれば、深夜食堂とか読んで、すごくはおもしろくはないけれど、それなりに楽しめる程度には、人情話も嫌いではないと気付き、落ち着いて読めば、なかなかおもしろい。ところどころ言葉遣いに引っかかるが、別段気になるほどでもなく、むしろ読みやすい。趣向もそれなりにこらしてあり、長屋の住人それぞれの人生がさらっと流れて悪かない。
あと、心の底からの極悪人というのは話の中には出てきても、直接は登場しないので、後味が悪くない。まあ、こういうのも良いものだ。
というわけで、適当に気がまぎれて、あっさりと読めて、後味も良いので、まあ、読んで損はまったくしなかった。
千葉は南総に行ってみた。
確か記憶に間違いがなければ、本来、小学生低学年の頃に鋸山へ遠足に行くはずだったが、体調を崩したのだと思うけど、行けなかったことがあって、まず鋸山というのは憧れの地となった。名前が妙だ。
ポオ小説全集 3 (創元推理文庫 522-3)(エドガー・アラン・ポオ)
ポオにも鋸山奇譚という作品があるくらいだ。もちろん関係ないとは思うが(あるはずがない)。
そもそも南総というのは実に奇妙で、南総里見八犬伝の舞台になるくらいに、伝奇的な場所だ。海があってすぐに山があり、山には岩がごつごつしている。そりゃ、伏姫と白犬が住んだりもしそうだ。
(白井喬二の訳本があるとは知らなかった。もし知っていたら、岩波の無体なやつを読まなくても済んだのになぁ)
どうして妙なのかは大体想像がつく。南総に至るとそこかしこに妙な山やら丘陵やらが海岸近くに立っていて、岩肌は層化しているのが見える。海の中にあったからだろう。
(本当にそうのようだ)
京葉道路を南下すると、次に館山自動車道というのに入る。一車線になるが途中一時的に二車線になり、また一車線になると、富津竹岡ICがあり、そこで下りた。127号をしばらく進むと金谷という漁港があり、そのちょっと先が鋸山だ。随分ひなびた場所だなと思うが、実はさらに南下すると館山に着き、ここは立派な市となる。(富津市が48000人、鋸南町が9000人、南房総市(比較的新しい寄合所帯)が42000人に対して49000人だから、鋸南-南房総と人口密度が薄いところを通過すると急に都会が出てきてびっくりするが、半島の先端だから不思議な感じがする)
で、お目当ての鋸山に着くと、良くわからないので、ロープウェイの駐車場に車を停めて往復券を買い、乗り込む(15分間隔で運航)。
実は、日本寺という鋸山の山頂一帯を境内とする巨大な寺の入り口まで車で行けて、しかも駐車場があるのに気付かなかったのだった。が、ロープウェイは標高3?0メートルの山のてっぺんまで4分くらいで着く(秒速4mとアナウンスがあったような気がするが、であれば距離にして1kmくらいということだろう)。やたらと高い所を進むのでロープウェイのほうがおもしろいように思う(しかし基本は寺の境内をうろうろするので、寺の駐車場に停めるほうが歩く距離は少なくて済む)。
で、日本寺に拝観料600円(だと思うけど忘れた)を払って中に入ると、良くわかっていなかったが、山の中腹からてっぺんまで使ってそこら中に仏像だの羅漢だのを配置した、一種の極楽のパノラマになっていた。哲学堂の仏教版という感じかなぁ。が、建築用の石材の切り出し跡やら、昭和40年代に(おそらく観光資源として)作った妙な巨大仏があったりして、奇怪極まりない光景が山を登ったり下りたり、整備された階段だったり、いい加減な自然石の段だったりして、疲れたがおもしろい。来歴を読むと、廃仏毀釈の時にさんざん破壊されて放置されたらしい。こんな山の上までキリスト者だか神道主義者だかが押しかけて仏像を打ち壊したと想像すると、やはり伝奇の世界そのものだなぁ。
その他、季節がらか、ただ底のほうに白い塊があるだけに見えるが、唐突に国道127号を走っていると出てくるヒカリモ発生地を見てみたり、同じく127号を走っていると唐突に出てくる、鉈切洞穴と丸木舟を見てみたり(この神社の付近にはまったく駐車場がなく、どうすれば良いのだろうかとUターンしてはうろうろしたが、なんのことはなく、境内を少し入った右手に集会場と駐車用スペースがあるのであった。罰があたりそうではあるが、鳥居を車でくぐって(罰というか石柱で擦りそうだ)進めば良いのであった。
洞穴そのものは奥行30mの海食洞穴だそうだが、入口付近を祠でふさぎ、さらに全体を柵で囲み、さらにその前を社でふさぐという、いかにも穴の奥の大蛇が出て来られないように厳重に封鎖してある。とはいえ大蛇を鉈で退治したので鉈切洞窟というらしい。このての伝説は大抵の場合、地元の部族を征夷大将軍が民族浄化したことの言い換えなので、土蜘蛛のように、このあたりには大蛇族が住んでいたのだろう。と、いかにも伝奇的な場所だった(129号に沿っているはずなのに、社から回りを見渡すと、見渡せないほど林が奥まった様相で、いったいどうなっているのか幻惑されるのだった)。
そのほか、崖観音とかいろいろ観たかったが(129号を走るとヒカリモ発生地や鉈切洞穴のように、いろいろな観光スポットの看板が出てくる)、そのくらいで終わり。
宿は海岸沿いのあたりの宿は埋まっていて、少し陸に入ったところのやどかりという民宿(価格から民宿だと思ったら、実際には和風のペンションという趣の凝った作りの宿だった)をとった。メバルの煮つけ、平目、イサキ、鰆の刺身、モロヘイヤを叩いたやつ、雑穀の春巻き、煮物(妙に細い筍がおいしかった)などの夕食、平飼い鶏の卵とヒジキなどの朝食で、実に良い感じだった。
アスキーの鈴木さんから頂いたOpenFlow入門を読み終わった。正直なところ混乱している。なんだこれ?
というわけで、OpenFlowな人が読むとでたらめを書いている可能性もあるので、ツッコミは歓迎します。
OpenFlowというのはネットワークスイッチを制御するためのプロトコルで、『スイッチ』に対して『コントローラ』からMACアドレス(レイヤ2)、IP(レイヤ3)、TCP/UDPポート(レイヤ4)をパラメータとしてフォワードやドロップを指示することができる。このOpenFlowを喋れるスイッチとコントローラで構成されたネットワークがOpenFlowネットワーク、1つのコントローラ配下のスイッチとホストで構築されたセグメントをOpenFlow Islandと呼ぶ。
で?
なんか、OSPFとARPをゼロから再構築するのに使えるとしてもそれが何か? という感じだ。
その一方で、読み終わった印象からは、何かそこに良いものがありそうな感触も受ける。例えるならば、1940年代に軍でミサイルの弾道計算サイエンティスト(データサイエンティストという言い方でサイエンティストが使えるのなら、こんな使い方もあるのではないだろうか)していた人が、配線を変えるとコンピュータで弾道計算以外のこともできるよ、配線の変え方を規格化しつつあるよ、と書いた本を読んだ状態だ。そこには何かすごく未来が見えるような、その一方で、はてそれが一体なんの役に立つのか、卑近な使い道(例:弾道計算の途中経過を取り出すとか)はわからないでもないが、多分そこに何か新しいものがありそうな、しかし弾道計算以外の役に立つと言われてもさっぱりピンと来ないような、そういうもやりもやりしているところ。
次世代ネットワーク制御技術 OpenFlow入門(石井秀治)
いや、全然わからないわけではない。たとえば数10台のマシンを使って自力でBYNETを構築するのに使えそうかなぁとは思う。ただし、ペイロードには介入できないように見える(というか、ペイロードに介入するネットワーク機器というのは非常にまずいと感じるのでそれで良いのだが)ので、アプリケーション層より下での動作となる。
本書は具体的なOpenFlowフレームワークとしてTremaを使って説明している。著者の一人がTremaのコミッタだからだ。Tremaは添付のソフトウェアスイッチを使ってGNU/Linuxで動かせるので、実際の動作を知りたければ試してみれば良いのだろう(そこで、実際に試さないところが、じじいになるってのはいやなことだということになるわけか……)。Rubyバインディングが1.8.7で1.9は未サポートと書いてあるのにはげんなりした。理由はバイナリデータを扱いまくるのでStringがらみで大変なことになるからだろう。一気に2.0.1に対応させるのが良いのだろうな。
イノベーションのジレンマの実例というのをいろいろ考えてみる。
イノベーションのジレンマ 増補改訂版 Harvard business school press(Clayton M. Christensen)
たとえばブラックベリー:業績悪化で身売り検討とか、ノキアがぼろぼろ(例:ノキア子会社、8500人削減 NSN従業員の17%、工場を売却・閉鎖)とかは、イノベーションのジレンマに当てはまるのだろうか?
細かなボタンがいっぱい並び、独自のRTOSの世界だった携帯電話が、Linux+Javaモドキとタッチパネルで置き換えられるというのはイノベーションのジレンマに相当するのだろうか? 中身はARMで別に変わってないじゃんとも言えるけど、携帯電話というパッケージについてはそれっぽく見える。でもノキアはWindows Phoneによってそこそこ巻き返しつつあるようにも見えるのが微妙だ。
微妙なのは、Windows Phoneという点で、この携帯電話のOSに関連するWindows RTが苦戦しているからだ(しかも遥かに絶対的な単価が高価なiPadに対してだ)。どうにも取り外し可能とはいえキーボードを残して、Officeをくっつけている点が、まさにジレンマっぽい。かといって、この2つを取っ払って、デスクトップに一切行けないようにしたら、ますます売れなさそうだ(と感じさせるところが、ますますイノベーションによって駆逐される側っぽい)。
豊洲のユニバーサルシネマでパシフィックリム。
なるほど、こりゃ怪獣映画、それも凄まじく良くできた怪獣映画だと満足する。何しろ怪獣がでかい。重量感がある。そしておっかなくて強い。
タイトルが出るまでの間に、海底にできた裂け目から怪獣が地球に侵入するようになったこと、それに対抗して国際組織がイェーガーというモビールスーツを開発したことが語られる。最初は1人で運転していたのが、操縦者への負荷が高いので2人1組で行う(この時にジョイントと呼ばれるお互いに相手の脳内へ入るという、モビールスーツよりもそっちの技術のほうが難しいだろうということが行われるが、このジョイントが物語上は決定的な役割と果たす)ようになる。が、怪獣はどんどん高度化していき、イェーガーでは太刀打できなくなり、各国は海岸沿いに万里の長城を築く計画へ移行、イェーガーは予算的に封印されることとなった。しかし、壁は簡単に突破され、今では壁の建築作業員しかしかっては兄弟でイェーガーの操縦をしていた弟(兄は死亡)の元にかっての司令官がヘリコプターで迎えに来る。
ロボットの操縦は、ライディーンやジャンボーグAのような身体トレースによるのだが、最初に兄弟で出動するときの脚の重そうな動きとイェーガーの動作の同期っぷりでこの映画はすげぇやと感じる(その前に、操縦席へ向かうわけだが、サンダーバードへの乗降方法をさらにかっこよくしたような儀式的ギミックがすでにわくわくもの)。
この重量感が素晴らしい。操縦に身体トレースを利用することにしたことが映画として実にうまく作用している。
当然、怪獣も、どれだけ素早く動いても、重くて、でっかくて、おっかない。最後はレベル5という、極端にでっかな怪獣が出てくる。
ハリウッドの怪獣と言えば、鳴り物入りのゴジラがやたらとつまらなかったのだが、パシフィックリムを観ていてはっきりと原因がわかった。ゴジラに重量感とでかさが感じられなかったからだ。もっとも冒頭はえらく面白そうで、それはゴジラの足跡にまさに重量感とでかさが感じられたからなのだが、実際にゴジラが出てくると数とスピードの勝負となってしまうからだ。
が、パシフィックリムの怪獣は本当の怪獣だった。でかくてビルを壊し、逃げ惑う人々を追っかける。さらには、ちょっとだけ出てくるすさまじく文明が進んでいるはずの宇宙人が全裸(例:バルタン星人やメフィスト星人も全裸だ)というわけのわからなさも怪獣映画みたいだった。
あと、印象的なのは黒いコウモリ傘を目深にさして風の又三郎のようにやって来るマコモリ(なんかイシマツとかタコカクタ、ホンダイノシロといったやたらと短いペリー・ローダン系日本人名の伝統を引いているのかな)の初登場シーンで、この後もやたらと猫背というか猪首っぽいというか、妙な姿勢でなぜだろう(顔のメークが東洋人メークなのは了解するとして)と不思議だった。
あと、やたらと寸止めが多いけど、そういうのが好きな作家なのかな? (博士を探す舌の寸止め、胎児の寸止め、イェーガーが止まるためにビル内に手をひっかけて、それが机の直前で寸止めされて玉突きオーナメントがカチカチしたり、パートナー選びの棒術合戦、埠頭での踵の踏ん張りとか)というか、映画表現として寸止めは実に効果的だな、と思い知った。
映画の記憶として、酸がおっかないとか、国際色豊かなメンバーとか、海底からの地球侵略とか、、緯度0大作戦(多分、おれが一番好きな怪獣映画で、海底軍艦がかっこ良かったのだ)を思い出した。
アルミリアート+マクヴィカーで、イル・トロヴァトーレとアンナ・ボレーナ。
イルトロヴァトーレはマクヴィカーの演出が素晴らしい。特有の猥雑さは3幕初めの伯爵の軍隊のシーンくらいで、インタビューでも歌手が全員口を揃えて言うように、回り舞台を使うことでスピーディに場面変換するため、話の流れが実にスムーズになる。
というより何より、最後の馬鹿げたセリフ——つまり、マンリーコの育ての母親とルーナ伯爵の「お前の息子は死んだ!」「あれはお前の弟だよ!」「なんてこったい!」が、信じられないほど説得力があってびっくりした。こんなイルトロヴァトーレがあり得ることに驚いた。ひとつに、ジプシー女を歌ったドローラ・ザジックが陰々滅々(幕間のインタビューですら、皮肉交じりでおかしなお婆さん状態に没入していたし)、義理の息子よりも母親の復讐のほうを重視して生きていることがありありとわかる演出+演技だったからだと思う。
アンナボレーナもマクヴィカーの演出が素晴らしい。どうも、この演出家は、アメリカで舞台を作るときは制約が間違いなく多いために、表現を抑制してしまい、むしろそれがうまく働いているのではなかろうか。
まあ、誰がどう見ても、アンブーリンが弟と近親相姦しただのなんだのというようなことは有り得ないわけで、ドニゼッティの作品でも、徹頭徹尾、アンナボレーナは悲劇の人、ロシュフォールは従容と死刑を受け入れる立派な武人、ペルセは最初おっちょこちょいの阿呆と思わせて最後は立派な態度(いや、とは言え、ペルセの「おれのせいでお前を殺すことになったのは申し訳ない」、ロシュフォールの「もう覚悟はついている」、ペルセの「立派に死のう」のくだりは長すぎてうんざりした)、小姓はケルビーノをさらに低能にしたような阿呆、しかしなんといってもエンリコ8世がわがままで冷酷なクズという描き方がされている。で、おそらく演出のしどころは、シーモアを王冠を狙う毒蛇として描くか、恋と友情の板挟みで苦悩する近代的人間と描くか、なのだろうなと思った。マクヴィカーは後者で、それはエカテリーナ・グバノヴァという歌手の雰囲気も多分にありそうだ(DVDで持っているウィンスターツオパーのやつは、ガランチャなのでどちらかというと毒蛇寄りに見える)。
というより何よりもアンナネトレプコが素晴らしいのだった。この作品は非常に大変なので幕間インタビューではなく、開幕前インタビューにして欲しいと申し入れがあったらしく、メトの総裁直々に開幕前インタビューをしているのだが、まあ、熊のヌイグルミのように顔が丸い。
ところが、舞台で歌い始めるやさっきの熊のヌイグルミはどこへ行ったのか? と不思議に思うくらいにディーバになってしまう。あまりの変わりように驚いた。
他にアンナボレーナでおもしろかったのは、幕間インタビューに衣装デザイナのティラマーニという人が出てきたことで、ちょっと魔女っぽいのだが、話を聞いているとグローブ座で衣装を担当していることもあって当時の衣装マニアらしい。というわけで、ヘンリ8世時代の肖像画家の作品すべて検討し、ヨーロッパに残されている衣服を調べ、下着はリネン、その上にシルクといった素材で、おそらく当時はそうであっただろう衣装を再現したらしい。
一方、歌手は、下着がごわごわして締め付けられるとこぼしていた(確かペルセの人)。ぱっと見、えらくごわごわの当時の紡績技術をまねたようなリネンに見えるからまあそうなんだろう。おまけに着るのも脱ぐのも大変なので着替えができないとか。
アルミリアートの指揮は切り替えが早いのが良い。
皇帝ティートの慈悲とドンカルロ。
皇帝ティートの慈悲は以前聞いた時は、せいぜい後宮からの逃走の前あたりの作品だと思っていたのもあって、えらく退屈な、いかにもモーツァルトの音楽だなぁという印象だったのだが、今回映画館の椅子に釘付けされて聞いていると、歌に対してうまい具合に木管が入るので、おや、これは実は良い曲だなとちょっぴり姿勢を正した。
すると、幕間で最晩年(どころか最後)のオペラだという説明を指揮者がするもので、思わず納得してしまった。さらにクラリネットだと思って聴いていた(理由はわからないが、モーツァルトのクラリネットに外れはないからだ)木管が、実はバセットホルンという楽器だとわかり、元皇女の歌の掛け合いとかなるほどうまいものだ(でもモーツァルトだが)。
字幕のおかげでまともに筋を追えたが、最後にティートが、反逆者で罪は明らか、正しい刑の執行は治世の要諦、しかしティートが皇帝である限り、ティートはティートとして振る舞う。帝国が厳格な治世を求めるのであれば、ティートを退けよ! と歌うところはなかなかに感動的ですらあった。それをしてはならないというのが韓非子で、そちらが正しいとおれは考えているにしても、ティートがティートとしてすべてを許すのはそれはそれで良いことだ。
というわけで、想像している以上におもしろかった。むしろ、ダポンテ3部作より好きかも知れない。
で、ドンカルロになるのだが、演出が異様に抽象化された舞台美術を使うせいで、実にグロテスクな代物に見える。
エリザベートがポプラフスカヤだが、顔の輪郭が目立たないので美しく見えるのは良いとしても、ドンカルロがアラーニャで鼻息フムフムゴリラみたいなのが、キーンリーサイドの貧相なロドリーゴと顔を近づけあって友情賛歌を歌いだすと、どうにも大顔病が猛威を振るう世界に見えてくるのだ。背景がすべて簡素なところに、顔がどでかくてスタイルが悪い歌手が右往左往するので、違和感が半端ない。一人一人は声も歌も良いのだが。すべての場面転換で、ドンカルロが幕の手前に取り残される(最後は死んだロドリーゴと取り残される)。
最後はカルロ5世に連れていかれるのではなく、殺されてフィリポ2世の脇で死んだままとなる。
この演出では、すべての登場人物が絶望的に孤立している状態を見事に表現しているといえるのだが、それは普通に物語を観ていればわかることで、演出で強調する必要はまったくない。そのために、とにかくグロテスクで気分が悪い。むしろ、一人目が見えない大審問官がもっとも開明的にすら観えてくる。ドンカルロとロドリーゴの友情ですら、絶望的にお互いを理解していないことを示す(すぐにロドリーゴがドンカルロを突き放す仕草が入る)。
それにしてもキーンリーサイドの凄惨な顔つきはドンジョヴァンニやテンペストでは気高くみえたし、貧相さはパパゲーノでは唯一のまともな人間っぷりを示したのに、ロドリーゴを演じると違和感しか残らない。不思議なものだ。
指揮のネゼ=セガンは、フランス系カナダ人ということだが、実にテンポが良く好きな音楽だった。
問題は、アンナ・スミルノヴァが美しくもなんともない太目のおばさんなことで(同じく客観的には太目なおばさんのフリットリやネトレプコは舞台に立つとディーバとして君臨してしまうのが、オペラ歌手としての力量の差ということなのかなぁ)、わたしの美貌が諸悪の根源は歌なのでまあ許せるとしても、ロドリーゴがエリザベートにカルロの伝言を伝えるところで、自分のことだと勘違いするところが爆笑ものになってしまうのがひどすぎる。
が、ヴェルディの音楽は本当に素晴らしい(ネゼセガンが良いのだろう)。
ただし、2作品全体を通して、何が一番印象的かと言えば、予告編で流れるザンドナーイのフランチェスカダリミニのチャンチャーチャララチャンチャンチャというメロディだ(ところが、実際のフランチェスカダリミニを観ると、このおそろしく陶酔的で通俗的で、つまり至高のメロディの饗宴が味わえるのは、3幕の最後の50秒間だけで、残りはすべて印象派の影響下にある透明な、音色は際立つがメロディらしいメロディに乏しいオペラだという衝撃が待っていてびっくりすることになったわけだが。この予告編を作った人間はフランチェスカダリミニを知り抜いている)。
なんか、三項演算子を卒業しましょう!を読んで腹が立ってきた。
おそらく書いた人は、型変換をメソッドに分離するということを説明したかったのだろう(「その処理が隠ぺいされているため、ストレスなくコーディングすることができます」と書いている)。それは良い。
が、例がひどすぎる。
以下の前提は受け入れる。
・既存の各行にTRUEかFALSEと記述されたテキストファイルがある(雰囲気からDOSの頃からずっと使っているのだろう。プログラムは変わっても設定ファイル(データファイル)を変えないというのは、良いことかも知れない)。
サンプルの問題は、ループを使っていない点だ。
enum Data { Data1, Data2, ... Data8, // CountOfData } readonly bool[] data = new bool[(int)Data.CountOfData]; ... var settings[] = // filesって変数名も気になる My.Computer.Filesystem.ReadAllText(@".\setting.txt").Split("\r\n"); if (settings.Length != data.Length) { throw new ArgumentException(string.Format("bad file: expected {0} but {1}", data.Length, settings.Length)); } for (var i = 0; i < data.Length; i++) { data[i] = settings[i] == "TRUE"; // 条件演算子使う必要ないじゃん } ... if (isData(Data.Data2)) { ... } ... bool isData(Data nameOfData) { return data[(int)nameOfData]; } void setData(Data nameOfData, bool f) { data[(int)nameOfData] = f; }
こんな感じ。
ふと、コマンドラインの引数をログへ書き出したくなった。
public void Main(string[] args)
もし、Rubyなら、args.join(',') と書くところだ。
が、args.と打って出てくるLINQのJoinは列挙の結合で、役に立たない。
そこでインテリセンスのやつを眺めると、Aggregateが、Rubyのinjectに近いので、使ってみる。
args.Aggregate((a, s) => a + "," + s)
お、思い通りの結果となる上に1要素の場合は",1st-elem"みたいなことにならず、良い感じだ。
しかし、無引数だと例外となる。Aggregateを呼び出すには最低1要素は必要なのだ。
(args.Length == 0) ? "" : args.Aggregate((a, s) => a + "," + s)
なんかうれしくない。と、ここまで来て、やはりJoinがあったような気がしてきた。というか以前メモしたはず。
string.Join(",", args)
が答えだった。
というように、インテリセンスとオブジェクト指向プログラミング言語は相性が良いが、クラスオブジェクトのメソッドは2級市民化してしまうのだった。
泥つき野菜をろくに洗わないで食べたら、もしかしたら泥がこびりついていて、その中にクマムシが何十匹かいるかも知れない。
それを気にせずに、鍋に沸かした湯の中へ入れて熱する。クマムシはあわててカプセル状になる。100度くらいなら問題ない。
で、野菜を食べる。あまり大きくないので歯ですり潰されずにそのまま胃へ直行するやつらも多い。そこは胃酸地獄だが、まだカプセル状なのでへっちゃらである。
そうやって小腸を進み、大腸へ着く。あー良く寝たと起き出して活動を再開する。
ということはあるのかなぁ? ありそうな気がする。とすると、クマムシを体内で飼っている自然食派の人たちというのが居そうに思う。
クマムシ?!―小さな怪物 (岩波 科学ライブラリー)(鈴木 忠)
最初の色付き図版がきれいだ。
_ ムムリク [食中毒の仕組みがまさにそれですね。一晩寝かせたカレー。]
いすみ鉄道社長ブログが評判だったので、読んだ。団塊の世代の旅行需要、 団塊の世代の旅行需要 その2
確かにおもしろい。2のほうが読み物としては文体の良さもあって、読ませるし(だから評判となったのだろう)読者層的に点が稼げる内容なのもわかる。が、1のほうが、ビジネスクラスの新しい売り方を考えたという点でよりおもしろい。
そこでふと、そのタイプのビジネスは国鉄(時代のはずだから国鉄で良いのだ)がやっていたんじゃないかと気づいて、鉄道ネタについては信用できるja.Wikipediaで調べると、「 フルムーン夫婦グリーンパス」として挙げられていた。読むと、1981年開始だ。むしろバブル期めざして作られたことがわかって、さらにおもしろい。
・バブル前の引退者の旅行(1980年代)
→それほど稼げなかったので国鉄でフルムーン(大正生まれ)
・バブル後の引退者の旅行(1990年代)
→バブルで稼げたのでビジネスレジャー(昭和1桁生まれ)
・?(2000年代)
→(1930~1940年代はあまり生まれていないか死んだので特に話題にならない)
・今ここ(2010年代)
→団塊の世代の旅行需要(1950年代)
旅行業界のことは全然わからないが、上のリストを見ていて、ふと、不思議になる。
常に夫婦が単位だ。
フルムーンについてはわかる。逆に家族関係から解放されるべきか、または核家族化という風潮が完成した時代だからだ。
ビジネスレジャーについてもわかる。それまでの高度経済成長期の夫婦関係を取り戻そうという流れが見えるからだ。
しかし、2010年代はもう一つ別の切り口があるのではないだろうか。
つまり、老夫婦+孫(せいぜい小学高学年まで)の旅行+中年夫婦の旅行という2世代同時の別行動旅行だ。
2世代で行先も別々から、宿は同じ訪問地が別、仲良く全員一緒まで、3種類のパターンが作れる。
中年夫婦と孫の分も、懐は老夫婦が持つということで。
東劇でメトライブビューイングのトロイア人。
ベルリオーズというのは変な人なので、予想通りトロイア人もバランスが異様な変な作品だった。というか、休憩を入れて5時間30分という長さも異様なうえに、もともと上演不可能な規模の作品というのもベルリオーズらしくて(意味ないが)好感を覚える。
ベルリオーズの奇妙さというのは、体系的な学問ではなく趣味と独自研究で学問した人独特のアンバランスさにある。幻想交響曲がいきなり5楽章構成なのも、第2交響曲になるはずだったものがレリオになってしまった(という記憶があるけど本当かな)のも、パガニーニにヴィオラ協奏曲を頼まれたのに突如としてイタリアのハロルドになってしまったのも、ロメオとジュリエットが自分でもわけがわからなくなって劇的交響曲というおれさまジャンルの曲にしてしまったのも、古典教育の欠如とそれを補うための独自研究が原因と考えると腑に落ちる(もっともそれはベルリオーズの問題ではなく、それこそがロマン派だということもできるのは、シューマンがやはり異様なバランスだからだ)。そもそもピアノが弾けないのでギターで作曲するというところからして変則的だ。
で、トロイア人のバランスの悪さは特に第2部のカルタゴのトロイア人に顕著で、終わったかと思うとメロディーがつながって次のバレエになり、終わったかと思うとメロディーがつながって次のバレエとなり、はて、この大天才は無限旋律も発明したのかと思ったら、グルックがそういう構成だと幕間インタビューで知るのだが、いくらバレエを入れるのが常識のフランスのグランオペラとはいえ、極端だ。あまりにバレエがたくさん入るので、ついにカルタゴの女王がセリフで、もうやめて頂戴と言ってやめさせるくらいだ。
が、それを別とすれば、第2部の前半2時間は圧倒的に濃密で、しかもやめろとは思うが、退屈さが無い気持ちが良い緊張が継続して、おそろしい傑作だった。最初にトロイア人がカルタゴ女王に謁見していると、ヌヴィア人が攻めて来たという伝令が入り、それを受けて、共同戦線を張ることを提案し、仲良くヌヴィア人殲滅の大合唱をしていくところの盛り上げのうまさには圧倒される。また、アエネアスの歌手の歌いっぷりが見事で、この休みなく続く2時間を堪能できただけで観に行って良かった。
トロイア戦争は最後の女性たちの自決大会は実に良いが、途中、木馬を運んでからがたるみまくって(演奏ではなく曲そのものが)退屈した。また、トロイア人が去ってから、女王が腹を刺す(という演出だが、トロイア女性の自決方法に合わせたのだろうか、それとも対ヌヴィア戦争の報告にアエネアスが献上した剣を使うという脚本なのかはわからないけど、幕間インタビューではブリュンヒルデのように火を点けるというような言い方からは自刃するというのはちょっと違和感を持った)までの間はしつこ過ぎる(2幕の妹のアンヌ(ディドーに比べると妙に現代的な名前でこれもちょっと不思議)とナルバルの、恋すりゃばっちり、不吉な予感の掛け合い合戦もしつこいが、こちらは良い感じ)。ついには、ハンニバルを予言し、しかもカルタゴの滅亡まで予言するのは、ウェギリウスの原作がそうなのか、ベルリオーズの趣味なのか、ちょっとおもしろかった。
・スーザングレアムが、母親的女王として見事に君臨していて、あれ、こんなに良い歌手だったのか、と感心しまくり。(子供によると、顔がおばさんそのものだから、ズボン役だといまひとつだが、この役はまさにぴったりなのではないかということだが、納得がいく)。いきなりBフラットが2個ある曲から始まると語ると、インタビュアーのディドナートがそれはすごいと共感しまくるのは、メゾ同志のインタビューならではでおもしろい。
・ジュリオチェザーレで、宦官のバックでにこにこしながら踊る2人のうちの東洋人のほうがカルタゴの農民役で出ていて、お、なんか顔を覚えてしまったぞ、とか。
・1960年スカラ座による全曲盤
Berlioz: I Troiani(Berlioz / Rankin / La Scala Theatre Orchestra)
シミオナートはカヴァレリアルスチカーナのサンタ(ソプラノ)で有名だが、おそらく女王を歌っているのではないかなぁ。
鉄道以外は信用ならないja.wikipediaでは、上記の録音(全曲盤というのが額面通りとして)はスルーされていて、やはり内容が怪しい(が、修正できる材料はない)。
ベルリオーズ:歌劇《トロイアの人々》全曲 パリ・シャトレ座2003年 [DVD](ガーディナー(サー・ジョン・エリオット))
スーザングレアムでDVDも出ているのか……
新ドイツ零年を反芻しているうちに、どうすれば、この傑作の興行収入を5億円にできるかに思いが飛んだ。
5億円を面倒なので2000円で割れば、25万ということはこのおおざっぱな計算でも25万人がチケットを勝手(どうやっても買ってに変換できないが(しょうがないので、バイで変換してから「って」を入れた)、しやがれ)くれなければ話にならない。
25万人っていうことは、確か府中市の人口がそのくらいだから、なかなかの人数だ。
出演しているのはエディ・コンスタンティーヌなので、アルファヴィルを観ていれば、あああの人かと思えるかも知れないけど、そんな人知らないというほうが普通だろうなぁ。ということは、役者では売れない。
ドイツ零年を知っていれば、そしておそらく当時ロッセリーニを観た人は山ほどいたかも知れないが、今となっては全然意味ない気がする。イザベラロッセリーニの父親と言っても、イザベラロッセリーニ自体が過去の人っぽいし、かといってイングリッド・バーグマンを出してきても(というか、既に新ドイツ零年とはかけ離れ過ぎたので、こっち方面は意味なさすぎだ)。
とすれば、全然違う切り口しかない。
ドイツといえば、反原発先進国が、おそらく最近の良いほうの(人によっては悪い、あるいは愚か方向の)イメージかも知れない。
うむ、反原発で売るしかないな。
そういえば、新ドイツ零年は、1991年で、もちろんベルリンの壁がなくなった1989-1990を零年としているわけだが、チェルノブイリの事故が1986年ということは、アフターチェルノブイリのヨーロッパの姿でもある。どうせ、ベルリンの壁が崩壊したことなど、25万人には意味ないので、そっちで押し通そう。
と考えると、荒野をサンチョとドンがとぼとぼと歩く姿は、原発事故で荒廃したヨーロッパっぽい。
とかやっていくと、25万人をかき集めることが仮にできたとしても、その配給会社は、くそみそに言われるのだろうなぁ。
で、くそみそに言われないように、実直に配給すると、3000人くらいしか入らないので、同じく2000円として興行収入は600万円となり、600万円では、スタッフの手弁当代くらいにしかならないので、もう2度とメジャーから配給されることはなくなるのであった。
ジェズイットを見習え |
_ ishisaka [一応XP/2003からあります。それ以前はリソースキット付属ですね。ま、オプションのインフレーションはありますけど。]
_ arton [XP/2003からですか。そういう点もXPの長寿化に一役かってるのかも知れませんね。]