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土日にかけて、メトライブビューイングのニーベルングの指輪。
ロベール・ルパージュの演出は、装置は抽象、演技は具象というもの。正直な感想としては、ライブビューイングというメディアではともかく、気持ち悪かった。
装置は素晴らしい。24本の鉄板が並びそれぞれが油圧ポンプで独立して動き、しかも個々の鉄板が複数箇所で分離されたり曲がったりする。総重量42tだそうだ。その板に対して場面に合わせた映像を各板毎に投影することで、木材の柱、森、河、洞窟、ただの背景、粗筋の影絵舞台、材木を積み上げたお焚台、何にでもなる。ワルキューレ第三幕では馬となって騎行する。マシンと呼ばれている。池となると、覗き込む歌手の映像を投影し、それを波紋の映像と重ね合わせ、リアルタイムに波紋に合わせてモーフする。
写実的な投影に対し個々の鉄板を自在に動かすことで無機的な味わいをつける。素晴らしい仕組みだ。
それに対して歌手の演技はホームドラマ並みに説明的だ。これが面白いと言えなくもないのだが、音楽に集中することを妨害する。
ファーゾルトが、働く理由の歌を歌えば、それませフリッカに守られるかのように抱きしめられていたフライアが、フリッカともども、魅せられたかのように近づいて行く。身代金を払われた後は、名残惜しそうに身振りで演技するファーゾルトを二度と見もしない。
ジークムントは蜜酒をジークリンデに味見させたあと、受け取った盃をわざわざ大げさな身振りで半回転させて唇を重ねる。グンターはジークフリートの血で汚れた手を洗うために鉄板を登り高いところでライン河を移している板の上で手を洗う。映像の河が真っ赤に染まるがグンターの手は白くなる。
翻訳も英訳からの翻訳なのか、異様に説明的かつ聞き慣れない。嫉妬が呪文のように繰り返される。
第三夜は金管の粗が目立った。特にワルキューレの2幕から気になったのだが、東劇のスピーカーは音楽的ではない。会話を聞きやすくするための映画館ならではのスピーカーなのだろうが、中音域の強調が一度気になるとしばらく尾を引く。
幕間インタビューでルイジが語っていたが、ルイジが振った2夜と3夜は、ライトモティーフの強調が激しい。これまで全く気づかなかったハーゲンの歌の細かなライトモティーフの散りばめがわかったりした。
これらのばらばらなメトっぽさが合わさって同時進行するために、非常に気持ちが悪いのだ。ただし、猛烈にわかりやすい。そのわかりやすさが、安っぽさとなるのだが、それがマシンのせいで安っぽさが打ち消されて、ますますアンバランスな印象を受ける。
歌手はテキサス出身のジークフリートが結構良い。ただ、歌い方があっさりしているため、物足りなさも感じる。ファフナー、フンディング、ハーゲンが同じケーニッヒという歌手でこれは見事。ローゲはなぜかブーされていたが若くて皮肉な良いローゲ、ヴォータンは前夜祭ではパッとしないバカっぽいウォータンだなと思ったらそういう演出らしく、夜が進むに連れてどんどん良くなる。
フリッカの人が巨漢だからというのもあるけれど、存在感が半端ではない。特に第1夜の2幕目での登場シーンは思わず笑いそうになるくらいに、存在感がある(はりぼての羊のせいも多少はある)。
それによって、フリッカのライトモティーフが家庭生活の音楽に常に影響しているように思うようになった。特にミーメの輔弼のライトモティーフに顕著に感じた。
グラーネが骨のようなはりぼてで、まさか17年間起きてて骨になっているのに、みんな気付いていないという設定ではなかろうかとか。
ヴァルトラウテが、指輪の魔力に魅入られてしまっているという解釈を幕間のインタビューでヴァルトラウテ役の人が語り、それなりに納得した。
ずーっとジークフリートが一番つまらないと思っていたのだが、あらためて聴いてみると、ジークフリートは相当おもしろい。そうではなく、ライン紀行をはじめとした第3夜のノルンの綱が切れてから、ギビッヒの館がでるまでの間がつまらないせいで、同じライトモティーフが続くジークフリートがつまらないのだと勘違いしていたようだ。
ルイジが、一番苦労するのは神々の黄昏の最初の1時間で、それを乗り切ってもまだ1時間あると語っていて、いやまったくその通りと同意する。というか、ライン紀行を最後まで集中して聴くことはこれまで一度も出来ていないのだった(考えてみると、東京リングの最初と2回目、マリンスキーと、生でも都合3回は観ているのだな。でもブーレーズのは最後まで聴きとおせたような)。
ボイトのブリュンヒルデは良いのか悪いのかさっぱりわからない。音楽としては全然魅力的ではないのだが、演技は良い。というか、とにかく歌手に演技させまくり過ぎるのは、どうにかならないものか。映像もやたらとアップを多用するので、ホームドラマみたいだし、事実内容はホームドラマなのだからしょうがないのだけど。
どうもグンターに見覚えがあるんだよな(ロシュフォールの恋人たちの、ジョージチャキリスの相棒かなぁ)。
子供が100円ショップで2本入りの安物を買ってきたのだが、あっという間にぼろぼろになったとはいうものの、じゃらじゃらの部分は棒にちゃんとついているので、ずいぶんと楽しめる。
ビデオを撮りながらだと素早く細かく動かせないので食いつきが悪いが、興奮すると無茶苦茶な動きで追っかけてきてえらくおもしろい。
B00BJ22I9O
(送料がかかることを別とすれば、おそらくこれの同等品)
まだ試用期間中なので(猫を試用しているのではなく、おれが試用されている)先のことはわからないが、先週末から猫を飼い始めている。
元々、中学生の頃から家には猫がいた(さらにはるか以前、物心がつく前には父親が捨て猫を拾うのが趣味だったらしく山ほどいたらしいが、微かに記憶はあるけれど良くわからない)ので、猫がいる暮らしは好きだ。その時の猫は黒猫だが、ある日、庭にやって来て、そのまま居ついてしまった。そいつは、同じように数年してから、庭の岩の上で日向ぼっこをしたまま行ってしまった。
それからはるか後になって、子供を連れた母親が庭へ遊びに来て、うちの子の面倒をみてくれと言ったらしいが、妻が生き物を飼うことに恐怖を感じる人なので、断ってしまったらしい。
さらに年月が流れて子供も大きくなり、妻も生き物を飼うことには相変わらず恐怖はあるものの、克服可能そうな気になったらしく(子猫とか小さいうちからだったら慣れるかも)、飼っても良いとなった。
理想の猫の飼い方は、縁側で日向ぼっこしながら茶をすすっていると、塀の隙間から「ちょっとお邪魔しますよ」と言いながら入って来て、どっこらさと縁側へ腰をかけて、こちらの顔を覗き込みながら「ところで旦那、ものは相談ですが、こちらへ草鞋を脱いでも良ろしいですかい?」「合点承知のすけだ」というものだが、今は庭が無いのでそうは問屋が卸さない。
というわけで、どうしようかなぁとか子供と相談して、保健所引き取りとかにしようかと漠然と決めていた。
ところが、子供が、知り合いが猫を拾う→帰国するため猫の引き取りてを探す→里親探しの会を紹介される、という一連の眺めをFBだかTwitterだかで眺めていて、そこの里親探しの会が良いのではないかと言い出したことで話が一気に具体化した。
(続く)
アナタはなぜチェックリストを使わないのか?【ミスを最大限に減らしベストの決断力を持つ!】(アトゥール ガワンデ)
児玉サヌールさんが感心して(その評価が第三者からもオーソライズできるかどうか)羽生さんと西原さんに読んでもらって感想ききたいとか書いていたら、お二人ともとっくに既読で、かつ良い本評価していた。
多分、おれも読む。
というわけで、先週の日曜日に子供とねこの里親会へ行った。Webページはなんとなく楽天とかを思わせる、あまり読む気になれないタイプなので、場所だけしか確認しなかった。そのため、どんな雰囲気なのかまったくわからない状態。
で、場所はわかったが入口がわからないという不思議な構造の建物なので戸惑ったが、受付で簡単なQ&Aみたいな紙に記入して中へ入ると猫が入った檻が結構置いてある。
ボランティアの人が近づいてきて、どんな猫が好きかとか飼うのは初めてかとかいろいろ聞いてくるが、特に考えていないので、返答に困る。僕は黒いのが好きだけど、子供がどんな猫が好きかは知らないなぁとか。
ざっと眺めると、福島で保護された猫とかもいて、そりゃ難儀な人生だから東京の猫にしてもいいかなぁとか考えるが、ちょっと育ち過ぎていて、子猫なら我慢できそうだとか言っている妻のことを考えると無理っぽい。子猫も2か月くらいから結構いる。
そのうち、こちらが何も考えていなそうだと思ったのか、ボランティアの人が、3か月くらいの子猫が良いのではないかとか姉妹の黒白猫を勧めてきた。2か月だとちょっと幼すぎるし、大きいとなつかない可能性もある(そもそも妻のことを考えると、大きいのは無理だ)。なるほどと納得していると、実際に檻から出して子供に抱っこさせたりしている。まんざらでも無さそうだ。猫はかわいいなぁ。
でも、もうちょっと見てみるといって、他の檻も見て回る。黒い猫もいるし、ちゃとらの猫もいる。キジ猫もいる。どんな猫でも猫は猫なので子猫はどれもかわいいし、育った猫はどれも困った感じでいる。誰でもいいや。考えてみると特に好みはなかったのだった。子供はどんな猫が好きなのかわからないから、子供に選ばせればいいか。
良く檻をみると保護した場所とか現在保護している人の居住地とかいろいろ書いてある。里親条件として現在保護している人の居住地に近い人というような限定も結構ある。そりゃそうだと思う。そこでさっきの姉妹猫の檻を見ると保護者は渋谷区とあり他の猫より圧倒的に近い。さらに2匹同時に飼える人とか書いてあるが、考えてみたら、昼は留守のことが多いのだから、2匹に留守番させとくほうが1匹に留守番させるより良さそうだ。なんのことはなく、最初に紹介された猫は最初に紹介されただけのことはあったのだった。
というわけで、するすると決まり、虐待しないこと、ちゃんと不妊手術させること、完全室内飼いすること、転売しないこと、といったいろいろな決まり事を書いた誓約書に同意することとか、保護者に対してワクチン代などの実費を払うこと、しばらくの間は保護者に対して写真付きで報告すること(保護者の判断次第で返還すること)といった決まり事の説明を受ける。
ふと、完全室内飼いするうえに、姉妹なんだから、なんで不妊手術が必要なんだ? と疑問に感じて聞いてみた。すると、発情して苦しまないから云々という返答がかえってきて、なるほどと納得すると同時に、実に筋が悪いなと感じた。
不妊手術、避妊手術という呼び方をしている限り、おれのような疑問を当然、持つのではないか。以前、飼っていた黒猫は昼は外飼いの雌だったので、当然不妊手術をしていた(その後、今度は雄猫を飼ったが、これも外飼いなので今度は避妊手術をやはりした)。そのため、おれは、さかりがついて大騒ぎというのを飼い主として経験していないので実感としてわからなかったが(野良猫がおわーいおわーいと大騒ぎしているのは経験しているが)、同じように、まだ飼ったことがなければ完全室内飼いで相手がいないのに不妊手術が必要というのはまったく理解できないだろう。理解できないものに、高い金を払う人間がいるとは考えにくい。結果的に、さかりがついて大騒ぎでいやになって捨ててしまう(発情できるくらいに成長しているのだから、そのまま恋に落ちて子猫を生み野良猫倍増)というような悪循環となるのではなかろうか。
こういうものについては手術の結果ではなく目的(もちろん、外飼いであれば目的は確かに不妊や避妊となるわけだが、ここでは室内飼いについてだ)を主とした言い方をすべきだろう。日本語だと去勢手術ということになるが、雌にはあまり使わない言い方なので、発情抑制手術とか、中性化手術とかが良いのだろうな。それにしても、人間に対することだと、知的障害・貧困を理由にした強制的不妊手術というのは実におぞましく感じるが、猫はペットだからなぁ。
それはそれとして、実際の引き渡しの日取りを決めて、その間に、トイレ、食事皿、水皿、エサ、爪とぎ、爪切り、エサなどを用意することといった説明を受ける。受付の脇で売っているからここで買えますよ、と言われる。なんとなく割高なんじゃないかなぁとか思ったが、その分が運営費用に回るわけだろうから、まあ良いかというわけで、高そうなカリカリと、爪切り、爪とぎなどを購入して、その日は帰った。
(おすすめされて購入したロイヤルカナン。アマゾンだと随分と安いな。保護者に缶詰と混ぜないとカリカリだけでは食べないと言われたので、基本、混ぜて出しているのだが、夜とか皿が空になっているのに食べたがるときは、混ぜるのが面倒なのでそのまま出している。でも平気で食べているのでうまく作られているのだろう)
ボンビアルコン (Bonbi) キャットスクラッチハウス(-)
(おすすめされて購入した爪とぎの家。爪を勝手に研ぐのは良いが(すぐに爪とぎだと理解して研いでいたので、おそらく保護宅でもこれで爪を研ぐように躾けてあったのではないかなぁ)問題点もあって、プラスティックの留め具をよほどギュッと押さえつけないと外れやすいうえに、はずしておもちゃにして遊ぶので危なっかしい。それを除くと、相当頑丈で、屋根の上に上って良く遊んでいるがびくともしないので購入して良かったようだ)
(続く)
子猫が家の中をちょろちょろするようになったせいか、子供が小さかった頃のことを思い出して、妻が言う。
そういえば、幼稚園に入ったばかりの頃だと思うけど、突然、「あのねお母さん、わたし自分が嫌いなの」と言い出してびっくりした。自我の目覚めキター! っと一瞬考えたけど、それにしては早すぎるというか、あまりに唐突なので何か幼稚園でいやなことでもあったのかなと考えながら、どうして嫌いなの? と訊き返したのよ。すると、真剣な顔で、「お母さんはすぐに、自分で~しなさいって言うでしょ。わたしね、自分って大嫌い」って言うわけよ。あきれるばかりの怠け者っぷりに口あんぐり。
さて、先週の木曜日、猫の保護者が姉妹猫を連れて来訪。ペットショップから買うのとの一番の違いとなるのだろうが、こちらを里親として問題なさそうかどうかチェックが入る。基本的には(風呂場だとか火を使う場所などの例外があるからだが)どの部屋にも自由に入れてやること、つまりどの部屋もそれほど危険が無いようにしていることであるとか、外へ脱走しないようにどうプランしているかなどであるとか、受け入れ準備ができているかとか、猫嫌いの家族がいないかどうかとか。
正直なところ、里親会で言われるまで、家の中に細かくチェックが入るとは想像していなかった。商取引でないだけに、実にシビアだと感じた。保護者にとってみれば、虐待用(その飼育方法では結果的に虐待となる場合を含む)や(ペット目的以外がほとんどだろう)転売用に引き取ろうとしているかどうかのチェックだし、里親から見れば一番のリスクは家の隅々までアカの他人に見せなければならないことだろう。どちらもお互い悪しき魂胆があった場合にダメージが大きい。
トイレやエサを置いてある部屋から別の部屋へ移動して話をしていると、一匹のほうがやたらとハンドル式シュレッダーの透明の紙屑受けをのぞき込んだり(他にもいろいろ見物ものはあるのに)、そわそわし始める。シュレッダーの中に特に興味を持つといえば、中身のショワショワだし……ということはトイレかな? と、トイレを元の部屋から持ち込むと、早速使い始める。お、素晴らしい(猫が飼育特化型動物なのは排泄に法則性があるからで、とにかく隠せるところを利用するからだが、それにしてもちゃんと見つかるまでそれなりに我慢しているのは立派なものだ――というような本能を持つまでの間にさんざん排泄中の無防備状態や排泄物から住居を特定されることが原因で食べられてしまう歴史があったのだろうけど、人間にとって都合が良い方向へ進化したものだなぁ)。
で、ワクチンや診断にかかった費用などを保護者へ払い、誓約書にサインをして取引完了。
見ているとずいぶん保護者になついているようだったが、置いていかれるとあっさり鞍替えする子猫たちであった。
それにしても、保護された猫を引き取り、里子へ出せるようにちゃんと躾けて、人嫌いにならないように大切に可愛がって育てて、可愛いまっさかりのところで最終的(理想的)には里親に引き渡すのだから、保護者ボランティアというのは大変だ。ここまで育ててくださってありがとうございました。
さて生き物怖がりの妻だが、2~3日は猫が近づいてこないようにおそるおそる生活していたようだが、少しずつ近づいて行けるようになり、抱っこはできないが、床に寝そべっている状態なら撫ぜられるところまでは慣れたようだ。しかし傍で見ていると、扉を恐る恐る開けてきょろきょろしたり、何かシャカシャカ物音がするとビクンとしたりするので、猫親分みたいでもある。
上野でスカラ座のファルスタッフ。
びっくりすることに、2階、3階の中央が埋まっていない。スター歌手が出演していないとか、演目がファルスタッフだとか、価格が安くはないとか、原因はいろいろありそうだな、と、子供と話す。
ファルスタッフは初見だが、20世紀に舞台を移したシンプルな演出で実に気持ちが良い。最初はホテルの一室、レストランの一室、50年代アメリカホームドラマっぽいキッチン、抽象的な街路、公園、大広間と動く。街路では白馬が首だけ出演。
この演出で観られたというだけで、とりあえずスカラ座公演を観に来て良かったと満足する。
オテロでイタリアオペラとヴァグナーの融合を図ったところまでは音楽でわかっていたが、ファルスタッフは作劇含めて、集大成なのかな? と考える。
2幕冒頭でのファルスタッフの本音な弱音は、まるでリゴレット2幕冒頭のマントヴァ公の彼女が心配のようだし、陰謀をたくらむ妖精たちの集団もリゴレットの廷臣たちの誘拐行のようだ。しかし、重唱は精緻のきわみで、特に第一幕の第二場だと思うが、奥さんと女中、娘+フォード氏と医者、悪漢2人+給仕がそれぞれ歌うところなど面白すぎる(さらに台所はもっとすごい)。歌の伴奏には木管を合奏させ弦を細かく分けていたり、ヴェルディっぽい音楽というよりは、むしろモーツァルトのようなクラシックな響きだが、ここぞというときは金管が鳴り響く。特に、そういう響きは終幕で感じる。
ファルスタッフの人は冒頭は声が小さいなぁと不満だったが、それはベッドに寝ていたからで、その後は見事に浪々たるものだ。付け合わせのテノールも美声、フリットリは歌うとフリットリの声でやはり好きな歌手だ。
プロンプターが無い不思議な空間でもあった(子供が舞台写真をtwitterで見たところでは、舞台袖から指示しているらしい)。
カーテンコールでは東京オリンピックの旗だかポスターだかを掲げて(誰が掲げたんだろうか? 総監督?)祝福してくれた。客商売だなぁ(感心している)。
観客の質は低い。少ないにも関わらず。音楽が鳴っていようがなんだろうが拍手し、偽終止で拍手し(というか、主音でないことはわかると思うのだが)、身を乗り出し、カーテンコールで写真を撮りまくる。価格と質はあまり関係ないのだな。
それにしても、ファルスタッフがこんなに良い曲だとは考えもしなかった。喜劇だというだけで避けるのはまったく愚かなことだと反省。
原作も読むか。
外に出て裏から帰ろうと森に入るとゴーンと鐘が鳴る。6時か。が、次が鳴らない。と思ったが、まだ微妙に余韻がある。完全に消えたと思うとまたゴーン。
ちょうどファルスタッフが12点鐘を数える舞台を見終わっただけに、上野の間隔で12点鐘したらそれだけで6分は使ってしまうだろうなと思った。
猫がいると生活が変わる。
最初は朝4:30頃、なんかかさかさして目が覚めた。
猫がこちらを見ている。
とりあえず起き上がると、猫トイレにうず高く小山ができているので、掘り返して隠された大便を捨てる。固まった小便も捨てる(前は、本物の砂で洗ったり干したり面倒だったが、固まらせて捨てられるのでえらく楽になったなぁって、赤ん坊のおむつと同じか)。
食事皿もきれいに空になっているので、缶詰とカリカリを混ぜ合わせて作る。
もう1匹が、トイレがきれいになったので、早速大便して山を作っているのでこちらも捨てる。
と、食い終わったら暇になったらしく、じっとこちらを見ている。しょうがないなぁと猫じゃらしで遊んでやる。やっているうちに二度寝した。
次の日は朝5:00頃で、トイレと飯。遊ばずに二度寝。
その次の日は4:30で、トイレと飯。遊ばずに二度寝。ところが、またかさかさされて目が覚める。と、右手のところに何か固いものがある。猫じゃらしの柄の部分ではないか。猫じゃらしをかじって柄で怪我されると困るので、使い終わると隠し場所に置いておくのだが、見つけ出したらしい。しかも、それを人の手元に用意してから起こすとは。
見ると時刻は5:30くらい。しょうがないので、起きて遊んでやる。
それにしても、なんと猫は賢いことかと思ったが、猫じゃらしを握らされたのはその一度きりだったので、何かの偶然なのだな、と結論した。
ところが、昨日、猫を見ていると、隠し場所から猫じゃらしを取り出してちょっとじゃらじゃら部分をかじっていたが、こちらが見ていることに気付くと、猫じゃらしを銜えたまま近づいてきておれの目の前に落とした。で、また遊んでやるのであった。どうも、猫じゃらしで楽しく遊ぶには、人間を媒介する必要があるというのは理解しているようだ。ただ、わざわざ人間のために運んできてやるのは面倒なので、ついでがあれば持ってきてやる、という程度のことなのかな。
エリオットによれば猫は名前を4つ持っているらしい。
そうでなくとも、おれさまには名前がいっぱいあってなと嘯く程度にはこだわりもないかもしれない。
というわけで、以前飼っていた黒猫は、黒兵衛というのが本名だが、黒坊、黒ちゃん、黒子さんなど、その時の気分で好き勝手に呼んでいたが、同じように、今回の猫も好きに呼ぼうと決めていた。
子供は、姉妹ということから、顔の上半分が完全に黒いほうをブリュンヒルデ、黒の真ん中に白い線が入っているほうをヴァルトラウテとつけて、それをヒルデとトラウテと略して呼んでいる。おれは、ブリュンヒルデを黒坊、黒ちゃん、黒介と呼び、ヴァルトラウテを白坊、白ちゃん、白介と呼び、妻は、ジュンとネネと呼ぶとか言っていたがどちらがどちらかわからなくなって黒ちゃん、白ちゃんと呼んでいる(そういえば黒子さんと白子さんなので、苗字はロゼッタで決まりだとか言っていたな)。
(袋の中にヴァルトラウテ、外にブリュンヒルデ)
マリアストゥアルダは、観るのも聴くのも初めて。マリアはディドナートで、エリザベートはエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(仰々しい名前だがヴァンというのはオランダ系なのだな、南アフリカの人)。
全体を通して聴けば、歴史に埋もれたのも当然な退屈な曲だが、部分部分におおおおおという瞬間と、なるほどシラー(シルレルなのかなぁ)は大物だという物語のうまさがある。
ロンドンではエリザベートがマリアをどう始末するかで頭を悩ませている。セシルの歌は1つ、殺せ。それに対してタルボが宥め、レスター伯(ロベルトダドリー)は救えと歌う。しかしエリザベートはロベルトを愛しているので、ロベルトがマリアを救うことを訴えれば訴えるほど、嫉妬で目が見えなくなる。
ついに、狩場で二人の女王は会見する。ロベルトがマリアへ愛を訴えるので、ついにエリザベートがきれて、夫殺しとマリアを罵る。
ここまで、とにかくぐだぐだぐだぐだ流れるので相当うんざりしている。
ベルカントは美しいイタリア語の歌なのだから、考えてみれば、イタリア語を知らなければつまらないのではないか? そのメロディー、そのフレーズにこの語彙が乗り、歌の翼に言葉が駆ける、そういうもののはずだ。ならば、言葉を知らなければ美しさは半減未満に違いない(にもかかわらず、聴かせるすごい曲やすごい歌手がいるというだけのことだ)。
が、そこでマリアが切れて、たかがアンナボレーナの私生児が何をぬかすか、お前には女王の血は流れていないではないか! と開き直る。もちろん、これでマリアの死は決定付けられるのだが、マリアは言うべきことを言ったので気分すっきりのアリアが続く(その一方で、絶対殺すのセシルや許せるはずがありえないのエリザベートが混じり、すさまじい重唱となる)。
ここは、音楽、演出、ディドナート、反応するヒーヴァー、すべてが完璧で、この数10秒だけで十分に鑑賞の価値がある。
最後、白い衣裳を脱ぐと斧で首を落とした後を暗示する真紅の衣裳となり、マリアはスキャフォールド(幕間インタビューで聞き取れてかつ理解できた単語の一つ)を昇っていく。首を切る前に暗転。
この作品でも、マクヴィカーの演出は素晴らしい。この人はヨーロッパ(イギリス含む)で、前衛演出家に張り合うよりも、メトで中庸路線の演出をしている限りは、見事な才能(か、年齢を重ねてまさに円熟したのか)の持ち主だ。
で、幕間のインタビューで、この作品がシラーのものと初めて知った。
シラーのロマン派音楽家へ与えた影響のものすごさにあらためて感動する。ゲーテより上なのではないか?
というわけで、ぜひとも原作の翻訳を読んでみようと、帰りにジュンク堂へ行ったが、何もない。まったくない。シラーの評伝があるだけだ。(そもそもドイツ文学の棚が少ない)
アマゾンをスマホで検索してもわからなかったが、軒並み絶版なのだ。
マリア・ストゥアルト―悲劇 (岩波文庫 赤 410-6)(シラー)
せめて、群盗やウィルヘルムテルのような有名作でも読んでみるかと思っても、それらすら存在しない。さすがに唖然とした。
で、仮面舞踏会。マリアストゥアルダと違って、こちらは音楽と物語の融合の素晴らしさに唖然とする(カラスのCDを持っているがまじめに筋を追いながら聴いたことはなかった)。ヴェルディって本当にすごい作曲家だ。
中期の作品らしいが物語はそれほどひどくもない。
グスタフという良く耳にする名前の王様と、親友にして協力者の家臣とその妻、反逆の将軍と伯爵の4人のドラマだが、異様に目立つオスカルという道化なのか小姓なのか良くわからないタイコ叩き(配役について、役名からグラスの作品を想起したのはありそうなことだ)がソプラノのズボン役が異様な存在感を出す(最後、仮面舞踏会で王を暗殺するために家臣へ特徴を伝える役割も果たす)。
アルデンの演出は舞台を20世紀初頭へ読み替えているのだが、大体、20世紀初頭へ読み替えた作品にありがちなことだが、これも実に良い演出だった。
指揮者も歌手も知らない人ばかりで、スカラ座のヴェルディということが売り物なのだろうと考えていたが、いやいや素晴らしかった。知名度というのは、クラシックのように一部のメディア(劇場を含む)の影響力のみが突出している世界では本当に大した意味がないと思い知った。
まず指揮者(ドゥダメル)が良い(とは言え、曲が曲だけにスカラ座を振れば誰でもできることなのかも知れないけど)。2幕終幕のアッチェレランドのスムーズな盛り上がりが印象的だった。
そしてジルダの歌手(モシュク)がスピーカーでは再生できないタイプの美しい声で(全体的な反響などによって空気がきれいに振動することで出るのだと思うが、NHKホールでああいう音を聴けるとは想像していなかっただけに驚いた)、痺れまくる。
マントヴァ公(デムーロ)は最初のあれもこれもではぱっとしない奴だなと失礼にも感じたが、ジルダとの二重唱の美しさ、女心の唄でのイタリアの頭の悪いテノール(ちょっと声が繊細だが)っぽい呑気で朗々とした歌い方、良い歌手だ。
スパラフチーレは最初の出現シーンのマント姿がかっこいい。
スパラフチーレといえば、店に入って来たマントヴァ公を見て、「優雅な野郎だな」と独り言を歌うのが実に良い感じで、そういえば、最初にリゴレットが陽気な良いご主人と評価し、ジルダが大絶賛し、廷臣たちによるジルダ誘拐の報告に対するマントヴァ公の反応を見ての様子(さっきまでの陰気っぷりが嘘のような興奮っぷりで、良かった良かった)、スパラフチーレの評価、海千山千のはずのマッダレーナの惚れっぷりと、脚本でマントヴァ公はジルダがそれでも一命を賭して助けたくなるような魅力あふれる人物だということを強調しまくっていることにこれまで気付いていなかった。(デムーロのマントヴァ公がコスチューム含めて、良い感じだというのも大きいと思う。特に、2幕でジルダを監禁している部屋へ駆け足で向かう演出が、女性機械論者のマントヴァ公ではなく、2幕冒頭の真情溢れるマントヴァ公っぽく見せるところなど)
リゴレット(ガグニーゼ)は変な癖がない良さがあり、オペラ全体としては実に楽しめた。
演出は服などはクラシックではあるけれど、1幕のシルエットを多用した2階建ての舞台、3幕の3階建ての舞台、高低差をうまく生かしたおもしろい演出。特に3幕の3階での唄(マントヴァ公が寝る前に歌う女心の唄)はほぼ耳の高さに来るからか、特に良く響いた。動きでは、1幕の自称貧乏学生が塀の戸口から女中を使って忍び込んで隠れるまでの一連の流れや、2幕でのマルジルダが玉座をいじりまくるのが印象的だ)
NHKホールは舞台から座席まで30mとか50mとかある、つまり舞台上の光景と音が余裕で100m秒は遅延し、それが2階のLやRではひどい音になる(時間がある分、ばらばらに届く音が反響し過ぎる)理由と思うのだが、3階や2階のセンターではきれいに響くことがあるようだ(2階センターの上のほうの席だった)。
両親の家で作っている巨峰を貰って来た。作っているといっても農家ではないので、軒先の葡萄棚だ。
見ると、どの房も葡萄らしい逆三角形にならず、房の中ほどに実がついていないゾーンがある。なんとなく毛を刈られた猫みたいな雰囲気だ。
どうも、重曹をうまく使わないとそうなるらしい。ということは農家ではそういった手入れをしているのか、それは厄介なことだなと考える。
さらに、種無しにする方法がおもしろいと聞かされる。
開花のちょうど10日前にある薬剤を塗布するらしい。その薬剤は人間でいえば経口避妊薬に相当するものなので、種ができなくなるとのことだ。しかも10日というのがミソで、早すぎても遅すぎてもだめらしい。というわけで、開花10日前というのは素人には判断できないので種ありだと言われる。
葡萄の何がいやかと言えば、種の面倒くささで、間違って齧ると歯ざわりが実に良くないうえに、まずい。
そこで、提案してみた。10日前より早くても遅くてもだめだとは言え、10日前にも塗布できてればよいのではなかろうか? であれば、とにかく毎日塗れば、10日をカバーできると思う。
一瞬、良いアイディアと思ったようだが、すぐに否定された。まず、その作業が面倒なのに、それを毎日やるというのはやってられない(たかが、葡萄棚とは言え、それなりの量はある)。次に、食べても害はない薬剤とは思うが、それを連日塗布することは想定外の使用量となりどんな悪影響があるかわからない。まあ、それはそうかも知れない。
例によってアスキーの鈴木さんから、メタプログラミング.NETを頂いたので適当に読んだ(適当なのは半分は知っている内容で、後の半分はとりあえず使うつもり無いからだ)。
本書は、.NET Frameworkで、DSLを作ったり、動的な仕組みを導入するフレームワークを開発したりするための、各種インフラと利用方法について説明した本だ。
全体は3部構成で、付録にはWindows8アプリケーションの制限(リフレクションですらTypeが強く制限されていて代わりにTypeInfoを使う必要がある)と、1ページしか無いがどのテクニックをいつ使うかの表(.NETではメタプログラミング用に7つの方法が提供されている上に代替言語を利用するなどの2種類のオルタネイティブがある)が付いている。
7つの方法を以下に示す。
翻訳はロングテール長尾さんで、安定した読みやすいものになっている。ただ、言葉じりをとらえられてぐだぐだ書かれたりするのは面白くないからだろうけど、コミュニティによってブレ(日本語の訳語が複数あったりカタカナにしたり決定されていない)がある各種用語については初出の脚注で、辞書的な意味やカタカナを使う場合と日本語を使う場合についての使い分けについて説明している(基本的にはカタカナを使っているが、翻訳書を読んでいる多くの読者は、そもそもそのカタカナが通じない可能性があるわけだから、元の綴りと辞書的な意味を示すのは良いことなのだろう)。
メタプログラミング.NET(Kevin Hazzard)この本の最初のほうの囲みに、僕は不勉強にして知らなかったがSOLIDという言葉が出てくる。それがOODの5原則だというのだ。単一責任、オープンクローズド、リスコフの置換、インターフェイス分離、依存関係逆転の5つの原則の頭文字だそうだ。で、本書では相当SOLIDを意識しているのだが、その囲みでI(Interface Segregation Principle)とオブジェクトの凝縮度について矛盾していると考える人もいるだろうが、中庸が大事というようなことを書いている。
でも、それはちょっとひっかかる。凝縮度は実装の問題で、インターフェイス分離は利用の問題で、界面が異なる問題ではないか? 中庸がどうしたということとは違う話だ。初期実装では凝縮度を高めることで実装の速度を上げることができる。一方、変える場合は高凝縮のプログラムは問題を生む。そのために、利用側に対しては適度に分離したインターフェイスを提供し、実装の変化が利用側へ影響しないようにする(ことができる)。あらかじめ未来に必要となるモジュールの分割はせず、しかし仮に分割が必要となっても利用側に影響を与えないようにするためにはISPが必要となる(あるいは、ISPではなく部分的にコンポジションへ変えることでも同様な効果を持てるが、特に追加が必要となる場合にインターフェイスを分離しておくほうが、後からの追加には強いと思う)。
しかし、同じアスキーの黒い本だが、メタプログラミングRubyとはずいぶんと雰囲気が異なって、おもしろい(原書はお互いに全然関係ないので異なって当然ではあるけど)。
メタプログラミングRuby(Paolo Perrotta) (こちらは随分と軽快な語り口)Rubyのほうは、仮想職場でのケーススタディを通してメタプログラミングがどのような状況で必要となり、それによってどのような効果が得られるかを示してから、実際のコードへ進む。
それに対して.NETはメタプログラミングの効用は自明のものとして、どのような技術があり、どのように使うかを説明する。
この違いはコミュニティカラーに関係するように見える。
イメージフォーラムでポルトガル、ここに誕生す。
台風が来ているので10時を回ってもフォーラム員が来ない。結局映画が始まっても客は10人を割っている程度だった。
で、映画もとんでもなく微妙きわまりない。
監督たちは申し分ない。というか、現在考え得る最強の布陣とも言える。カウリスマキ(なぜかポルトガル在住らしい)、ペドロ・コスタ(最強リアリスム映画作家)、エリセ(隣のスペインからの友情参加なのかな)、オリヴェイラ(映画界最高齢というか、100を超えているんじゃないかな)、ようは短編集で、EUが各国に作らせている映画のポルトガルの巻らしい。
カウリスマキで始まる。バーテンがスープを作り始める。ランチ用だ。ランチ間際にさえない男たちが数人来る。誰もスープを頼まない。バーテンはテーブルを用意し、看板へランチメニューとしてスープと書き、通りにもしゃれたテーブルセットを用意する。
しかし誰も来ない。
外に出ると、大通りに近い店は客で行列ができている。
バーテンダーの店は小路にある。
しばらく悩んだ末、鍋に無造作に干し魚を突っ込む。
看板をスープから漁師風シチューに書き換える。
が、誰も来ない。ついに、メニューにしばらく外しますと書いて外へ出て、ライバル店へ入り、そこのシチューを食べる。
あまりの美味しさに舞踏会の幻影が浮かぶ。
そのまま夜に入り、花束を手にバスから降りる女性を待つが、来ない。花束を捨てて家に帰り、寝る。
映画としてはどの瞬間も映画なのでおもしろいことこのうえないが、しかし、これのどこがポルトガル誕生す、なんだ?
で、すぐさまペドロコスタのカーネーション革命に入る。ちらしによると、コロサスユースを撮った時に主演男優が、カーネーション革命でおれたち移民は殺されるんじゃないかととても怖かったと語るのを聴いて衝撃を受けたと書いている。民主化の無血革命にもかかわらず、つまり、自分たちポルトガル国民にとっては完全無欠な理想的な革命であったにもかかわらず、移民の彼らには恐怖を与えた。
かくしてカーネーション革命における恐怖を映画化したらしい。エレベータの中で黒人男性。顔をテカテカに塗った兵士がいる。あとはまったく記憶にない。
そのままエリセへ続く。かって欧州2位の繊維工場だったが現在は倒産し封鎖された工場で、かってここへ勤めていた労働者たちをかっての大食堂で映画出演への面接をするというテストの映画のテスト。
ドライヤーの映画みたいだ。しかも語られる言葉は興味深く、かっての労働状況が必ずしも理想的ではなかったことなどが述べられる。複数の視点、複数の語り口。が、途中で意識を失う。
気付くと観光旅行の一群が観光名所を案内人に連れられて移動していた。オリヴェイラの映画が始まっている。
銅像。旅行者が銅像にいたずらをしないか見張る騎兵隊(4人の冴えないおっさんが馬に乗る)。いたずらをしないとわかると撤退する。銅像はかって支配したが、今は観光客に支配されている。おしまい。
どこまでが正しい内容でどこからが魔術的なナレーションなのか映像なのかさっぱり見当がつかない。
この映画ではほとんど記憶にないペドロ・コスタだが、映画作家としての才能が普通ではないのはこれまで観た映画からは明らかだ。どこまでテンポに乗れるかは、そのときの調子に依存するので、ある意味、体力が必要な作家だ。
ふと気付いたが、カウリスマキのはポルトガルの現代史なのかも。
こじんまりと裏通りで営業しているが、気付くと時代から取り残されてジリ貧となっている。
隣のスペインはフランコ独裁とかあったかも知れないがなんとなく西側諸国としてそれなりにうまいことやっているようだ。
真似してみるが、どうも的外れでうまく行かない。
カーネーション革命(バス停で待つとき手にしていた花束はカーネーションではなかったか?)を起こしたが、待ち人は来ない。
孤独だ。
MSDNからWindows8.1 Proをダウンロードしてアップグレードインストールしたら、ライセンスを取得しろと出た。
まあ、確かにWindows8.1 Proのダウンロード時にプロダクトキーを発行しているから、それは良い。
が、ライセンス認証の画面の「プロダクトキーの入力」をいくらクリックしても入力するためのボックスが出てこない。
ただ、ひたすらライセンス認証が失敗したと出るだけだ。
エラーの詳細を見ると「ファイル名、ディレクトリ名、またはボリューム ラベルの構文が間違っています。(エラー コード 0x8007007B)」と出る。それでMSのサイトを検索しても出てこないのだが、ページは存在した。
で、0x8007007Bに対する対処方法にしたがって、SLUI 03
を検索して、実行し、プロダクトキーを入力したらライセンス認証が完了した。
わかりにくいなぁ(インストール時に入力させてくれれば良いのに)。
酒匂さんのVDM導入。プロジェクト規模は関連メンバーは約80人。全員、VDMで記述した仕様は読めるように教育はした(でも、1週間程度で十分だった)。書く人は数人(もちろん、1週間程度の短期/簡易教育ではだめ)。
akrさんの現在の興味はシステムシンキング。
(これ、因果というかノードを2つにすると弁証法(というか俗流弁証法としての矛盾論)だな)
Excel/Wordで作ったドキュメントがある→Officeを使って読む→Officeがあるからドキュメントを作る→(先頭に戻る) という状況に自由ソフトが対抗するには、Excel/Wordで作ったドキュメントがある→Officeを使いたいが金を使いたくない→自由ソフトの代替物を使う→というようにループに介入することができる。
・持続的イノベーションにより戦力が弱いものが同じ持続的イノベーションで立ち向かうのは徒労という話もある。
イノベーションへの解 Harvard business school press(Clayton M. Christensen)
(今更だけどKindle版を購入して読んでいる途中)
もともと、高校の頃、毛沢東の文章が好きで良く読んでいた。独特のリズムがあるからだ。
後年(奥付をみると1996年となっている)、講談社学術文庫の中国的レトリックの伝統を読み、僕が好んだ毛沢東の書き方をうまく整理し、修辞法と思考法の一致について書いてあるのに感心した。なるほど、僕が好んだ毛沢東は、10億人民の太陽の陰謀家、政治家の毛沢東ではなく、独特の修辞法を身に着け10億人民を言葉で心服させた詩人の毛沢東だったようだ。
本書は実におもしろい。陳琳を枕に文を通した曹操の人物評に始まり、曹植、阮籍、劉勰、毛沢東と、その人の著述に見られる修辞法からその人の考え方を推し量り、ひいてはその人の生き方について論述しているからだ(日本では高橋和巳、武田泰淳、花田清輝が取り上げられている)。
文はまさに人なのだった。
著者は毛沢東を評して
毛沢東は、いかなる言語表現にもつきまとう詐術性を、むしろ積極的に利用しているのではないか、と。
たとえば、毛沢東(実は毛沢東に限らず、革命のブレチンはすべからくそうなのだが)は、まず分析し、そして方針を示す。その分析は論理的あるいは客観的に正しいかどうかは大して問題ではなく、言葉としてわかりやすく、おもしろい。当然、そこから導かれる方針が正しいかどうかはさっぱりわからない(おそらく、大いに間違っていただろうことは、大躍進の結果を見れば明らかだ)。だが、毛沢東は10億を動かして蒋介石を台湾へ追いやり、ソ連と対立してニクソンを中国へ呼び込み、10億を飢えさせて文革した。その言葉に10億もの人を動かすものがあったのは歴史的な事実だ。
例)
大衆のいるところでは、どこでも、だいたいにおいて、比較的積極的なものと、中間状態にあるものと、比較的おくれたものとの三種類の人びとがいる。したがって、指導者は、少数の活動家を結集して指導の骨幹とし、この骨幹に依拠して中間的な人びとをひきあげ、おくれた人びとをかちとることに長じていなければならない。(指導的方法の若干の問題について)
これは論理的な分析でもなければ方針でもない。ただの放言だ。だが、オッカムの剃刀でも切ることはできない確からしさがあるために、なるほどそのように(しかし、どのように中間的な人びとをひきあげるのか、具体性は何もない)指導しようと、党員を納得させる。
ベチェーンを称える文は好きだ。
人の能力には大小があるが、しかしこの精神さえ持っていれば、それは高尚な人であり、純粋な人であり、道徳的な人であり、低級な趣味からぬけ出した人であり、人民にとって有益な人である。
このリズムは最高だ。だが、実のところ、なぜ、その精神を持っていれば高尚で、純粋で、道徳的なのか、それは誰にもわからない。言った本人にもわからない。そうであるから、そうなのだ。空疎さは、リズムによって消散する。
まさに、文章は経国の大業なのだ。
ヴェルディのファルスタッフが予想をはるかに超えておもしろかったので、原作のウィンザーの陽気な女房たちを読むことにした。
おもしろい。
どうも、喜劇というと一段落ちたような印象を受けるのと、紹介記事とか読むと、ごちゃごちゃしていてつまらなそうな印象を受けるので、これまで敬遠していたのであった。
でも、登場人物がごちゃごちゃしているからこそおもしろい夏の夜の夢や、十二夜を思い起こせば、シェイクスピアの喜劇はごちゃごちゃした人間関係がおもしろさの原動力なのであった(というか、リア王だのハムレットだののように、史劇風なものをつい持ち上げてしまう感覚があるのだろう。十二夜や夏の夜の夢もまともに読んだのはここ数年のことだ)。
で、小田島訳を購入(最近気に入っている 大場訳は無いので定番の小田島訳)。
これまで相当多数のシェイクスピアを読んできたが、この作品は次の点ですごく特異だ。
まず、真の主役のウィンザーの陽気な女房たちが市民だということだ。サー・ジョン(フォルスタッフ)は騎士で、その子分のゴロツキはゴロツキとして、それ以外の登場人物は、神父、外国人の医師、紳士たる地方判事とその甥、宿屋(呑み屋)の主人、女中、子供、破産した貴族で、そのうち神父は訛りがひどく暴力的で粗野な人(ただし、最悪な人ではない)、外国人の医師は夜郎自大で凶暴なクズ(ただし、言葉が不得手なのでそれを利用して、さんざんからかわれる役でもある)、地方判事は無教養で粗野で視野の狭いこれまた夜郎自大なクズ、甥は素直な良い奴だが知恵が遅れている(バレエのラフィーユマルガルデやドンキホーテに出てくるタイプ)、女中は知ったかぶりの頓珍漢と、ウィンザー市民の女房と夫(2組)以外(宿屋主人はニュートラルな政治家)は、全員、笑われる立場の人たちとなっている。ついでに夫のうちの一人は嫉妬深さを笑いのネタにされるので微妙な立位置だ。同じく微妙な立ち位置なのがサー・ジョンで徹底的にひどい目にあうが(最後は蝋燭で炙られながらつね繰り回される)、他の喜劇的人物と異なり妙に自覚的だ。
残る破産した貴族は、女性への愛による救済によって市民道徳の高みへ導かれる人で、ここに至って、シェイクスピアがこの劇をどの層の観客へ向けて、どのような立場で書いたのか明らかとなる。エリザベス女王は関係ないんじゃないか?
ただし、最後は後腐れほとんどなく、みんなで仲良く飯食べておしまい(この飯を市民が振る舞うというのも象徴的だろう)。
ウィンザーの陽気な女房たち (白水Uブックス (18))(ウィリアム・シェイクスピア)
なるほど、ヴェルディ最後の作品にふさわしい素材なのだなと納得した。
ネグロポンテの100ドルPCのことを最初に見た時、すぐに想起したのは、マフバルバフの学校教師の映画だ。
ブラックボード-背負う人- [DVD](サイード・モハマディ)
世界には、教育をしたくてもそのためのインフラがほとんど存在しない地域がある。おそらく地球の2/3はそういう地域だ。しかし人は住み、子供がいる。そういう地域でも、国家があり、法律があり、貨幣経済があり、伝染病がある。生活するには識字が肝要で、意思伝達の手段としての言葉も必要で、安全に容易に暮らすには科学の光も重要だ。
そこで、教師は教育を受けさせるために、危険地帯を子供がいるところを巡って黒板を背負って移動する。
そもそもそういう場所には、本が存在しない。本は重く、場所を取る。それ以前の問題として言語を表現する文字の活字がなければ版下を作れず、版下がなければ印刷できず、紙は安くはなく、製本するには工場が必要で、配本するにはそのためのルートが整備されていなければならず、本は重いので子供個人に配布するには、大量輸送のためのインフラも必要となる。
小さな集落が広大な範囲にわたって点在するアフリカやアジアで、教科書を子供へ届けるというのは、きわめて絶望的な試みだということは、すぐに理解できる。学校という場すら存在せず、黒板を背負って教師が通わざるを得ない場所で、どのように子供を教育できるのだろうか?
関連して自国の言語で高等教育が受けられることというのも、実は非常に重要なことかも知れないと、世界中の国を眺めて考える。20世紀中に仮にも先進国と言えるようなになった国で、母言語による書籍、高等教育が存在しない国家がどれだけ存在するだろうか?
とすれば、教育において母言語の本の存在の重要性は自明だ。
しかし母言語による書籍出版――配本のインフラがゼロの地域でそれを今から作り上げるのは絶望的なまでに非現実的だ。
そのように考えれば、21世紀の今日、衛星通信によるテキストの配布とそれを受信し表示し仮想的に記述ができるデバイスを利用することが、むしろ安上がりな教育の網を作ることだとなろう。
ということを、たださんの『本の未来 (Ascii books)(富田 倫生)』を読んで思い出した。
OLPCは今どうなったのだろうか? と、思い出したのだった。
上のようなこと書いたら、KARINO2さんからおれのWhiteboard Castは、そういう理由からアフリカで売れてるぜというツッコミをもらった。
HTCJが先週くらいから唐突にWiFiでエラーになるようになった。
ホームのウィジェットでONすると、しばらく考え込んだ末、自動的にOFFになる。設定画面でONを選択すると、エラーという文字列が表示される。なんじゃこれ?
リセットするとたまに、ONになるときもあるが、しばらくすると、OFFとなり、再度ONにしようとするとエラー表示となる。
もちろん、真っ先に疑うのは、auのWiFi接続ツールなのだが、最近更新した覚えがなく、でもアンインストールし、最初から仕込まれているやつを無効化して再起動すると、ONになってやれやれと思うと、またしばらくするとOFFとなり、設定画面でみるとエラーと表示される。
Felicaのアンテナではないから、蓋の接触ということはないだろうなぁと思いながら、蓋を開けて閉め直したり、バッテリーを抜き差ししたり、SIMの抜き差し(これは関係ないよなぁ)したりしても、やはり一時的にONになることはあっても、結局はエラーとなる。
どうしようもないので、auショップへ行った。最悪、HTC J ONEを買うつもりである(もちろん、iPhone 5sを買うつもりはまったくない)。
で、担当者がサポートに電話して、最初に、純正(そんなものはないと思うけど)以外のアンチウィルスソフトが入っていたら、アンインストールしてみてくれ、と言われた。
確かに、アバスト無料版を入れている。アンドロイドだから入れるだろ、それは。
でも、背に腹は代えられないのでアンインストールして再起動したらONになる。とはいえ、再起動後にONになることはこれまでもあったのだから、半信半疑でとりあえず家へ帰り、放置したり使ったりしながら様子見をして10時間くらい経過した。
結論としては、アバストが悪さをしていたとしか考えにくい。つまり、今は安定している。
さて、問題は、では何をアバストの代わりに入れるかだ。
気になるのは、auショップの人はアバストと指定せず、純正以外のアンチウィスルスソフトという言い方をしていたことだ。理屈はわからないが、HTCのWiFiはセンシティブ(つまりは、「相性がわるい」ということだな)だからだそうだ。ってことは、ノーガードで使うしか無いってことかな(比較的頻繁にWiMaxをWiFiでテザリングするからWiFiが使えないのは致命的なのだ)。
ちょっぴり困った。
例によってアスキーの鈴木さんから、本をもらった。花井さんのモダンC言語プログラミングだ。なお、似たような題の洋書があって、しかも花井さんは翻訳もするので、その本の翻訳書と勘違いされる可能性もありそうだが、完全にオリジナルだ。
Cは、Unixと共に(というか少し遅れて)生まれたということは、すでに40年以上の歴史があり、それだけの年月がたてば、COBOLなどと同じく老害言語と言われてもこれっぽっちもおかしくはない。
ところが、COBOLと異なり開発者市場がどんどん先細り(あるいは固定化)されるということはなく、むしろ増えている。それどころか最近の調査では最も利用されている(TIOBE 2013)。
一方、C++が先鞭をつけたビジネスプログラミングへのオブジェクト指向プログラミングの適用は、Java、Objective-C、C#と種類を増やし、開発に関する知見に留まらず、開発に利用するツールへの知見も増え続けている。そこに、Perl、Rubyといったスクリプト言語によるWeb開発の知見が、DevOpsとして運用までを含めたフローを回すこととして結実した。
本書で学べるのは、古い開発言語であるCでの開発に対して、後者のモダンなプログラミング言語/環境の成果を適用するための考え方やツールだ。花井さんの知見が存分に盛り込まれているので、21世紀にCで開発するならば、現代の実用Cプログラミングのノウハウとしても得るところは大きい。
全体は、Linux(xubuntu)を利用して環境を構築する(Windows読者のためにVirtual Boxを利用する方法が紹介されているが、これには問題があると思う。後述)。Cの規格としてはC99、コンパイラはgccを前提としているが、そこはあまり重要ではない。
全体は6章とサンプルの取扱い説明。
1章で、Cの現況とモダンな開発スタイルの概要を示す。
コードの設計にはデザインパターンを適用し、IDEを駆使してコードを記述し、コードの記述にはTDDを適用し、適用されているためにリファクタリングが可能となり当然リファクタリングし、CIサーバを使ってソースを管理し、問題を追跡し、自動ビルドし、リリースする。
2章は、環境の構築(クライアント開発マシン)。環境としては上で書いたようにXubuntu、IDEにはEclipse。知っている人は知っているが、僕は何が嫌いといって、Eclipseほど嫌いなものはない。ここで重要なのは、Eclipseのような使い辛いものを取り上げていることではなく(というか、使い辛いかどうかは個人のセンスと、利用者がそれまでの経験から組み立てた利用モデルの問題である)、ソースコードレベルデバッガの利用しやすさであるとか、TODO管理であるとか、コードナビゲーションであるとかの、現代のIDEが最初から特に考えなくてもサポートしている機能の紹介で、つまるところ、テキストエディタベースの開発は非効率だということの説明だ。もちろん僕はEmacs(テキストエディタではなく環境そのものだが)とGDBを使うことがあるが、どれだけEmacs+GDBが優れていてもVisual Studioのデバッガに比べれば手数が多すぎて使っていられないのと同様に、Eclipseを使うほうが効率的だ。したがって、まずはモダンなIDE(Eclipseって今となってはモダン(近代的)だな)を利用することの利点を得心して欲しい。
3章では、一転、Cプログラマであれば、当然使いこなすべき手法として関数ポインタと構造体を組み合わせることで、オブジェクトとしてモジュールを構成する手法とについて説明する。
4章では、3章の知識を元に特に重要なデザインパターンを適用する方法について詳説する。当然ステートパターン、効率云々とリファクタリングに関連してくるがテンプレートメソッドパターン、あとは確かに使うこともあるオブザーバパターン、チェインオフレスポンシビリティパターン(これは地味だが、使う)、ビジターパターンで、すさまじく実利的に割り切った選択で感心する。いやもう、ステートパターンを利用しないコードは考えられないし、一歩間違うと諸悪の根源となるがテンプレートメソッドパターンを使えば確実にコードは整理できるので、実に良い選択とも言える(諸悪の根源となることを防ぐために、5章があるとも言える)。
3章、4章は読んでいてシステマティックなのでおもしろいが、そのためにはCを普通に読み書きできることが必要だ。
したがって、C何も知りませんが明日から仕事です、という人には本書を副読本としてはお勧めしても、この本だけではあまり役には立たない。
むしろ、普通にCで構造的にモジュールを組んで仕事している開発者が、より柔軟に、より安全に、より合理的に、より高速に、Cを使って開発すること全般を知り、取捨選択のためのノウハウを覚えるための本だ(ポインタをたどる分の実行時オーバーヘッドとポインタを確保する分のメモリオーバーヘッドがトレードオフとなるが、そのあたりの切り分けの説明も含んでいたりする)。
5章が、モダンなプログラミングには当然必要となる、TDDとリファクタリングの説明。この2つがペアで説明されていることは本当に良いことだ。
6章で、継続的インテグレーションとデプロイとして、Jenkinsを使ったCIサーバの構築。Python(Jenkinsの記述に利用される)の簡単な説明も含む。SCMとしてはGitを使って説明している。BTSについては概要のみで省略(必要な人はチケット駆動開発あたりをキーワードにして調べればいくらでも見つかるし、直観的にも利用できるから、それで良いのだろう)。
BTSを省略している代わりというわけではないだろうが、この章では意外なほど、Valgrindを使ったメモリ破壊エラー検出のための仕組みの導入にページを割いている。花井さんはCの開発をわかっているからなぁ。というわけで、この選択は良いものだと思う。
モダンC言語プログラミング 統合開発環境、デザインパターン、エクストリーム・プログラミング、テスト駆動開発、リファクタリング、継続的インテグレーションの活用(花井志生)
というわけで、Cで仕事をする、しているのであるならば、本書を読み、勧められているツールや環境を導入し、設計を考えるのが間違いなく良い。とにかく、他の言語ではスルーできる多くの問題を削減するためのノウハウを確実に得ることができるからだ。
さて、Virtual Boxの問題だが、少なくともWindows8(ただしHyper-Vを有効にした場合)やWindows2008サーバ以降では、動きが遅い。遅すぎる。これらのHyper-V搭載OSは、あらかじめCPUが仮想化されて動いているため、Virtual Boxがエミュレーションでの動作となるからだ。したがって、これらのモダンなWindowsでは、Hyper-Vを素直に使うほうが良い。 (ちょうど、USBを使ったWindows XP限定アプリケーションのテストをするために、Windows2008R2に、Virtual Boxを導入して仕事をしているのだが(Virtual Boxの良い点は、USBの仮想マシンからの操作をサポートしていることだ)、Windwos XPSP3を導入してから、マイクロソフトアップデートを適用するまで正味2日以上かかって閉口した。144個のパッチを検出/適用するために、ずーっとCPU100%で張り付いている。最初は、KB898461の問題かと思ったが、メモリは2Gほど確保しているので、そうではなかった)
あと、気になった点。
本書の読者はCを知っていることを前提としているからだとは思うが、P.74~75のStackオブジェクト生成マクロの説明はちょっとまずいかも知れない。
Stack* createStack() { int buff[16]; return newStack(buff); }
追記。花井さんが上のようなコードを示しているわけではなく、いかにもやってしまう人がいそうだなという例。
いや、そんな読者は居ないと言えるなら良いが、データセグメントへの配置例か、ヒープの確保/解放をP.73の例に入れておくと良かったように思う。
あと、P.75の下から2行目は、Stack stack2 = newStack(buf2);
の間違いだと思います。
関連して、良く似た名称だけど本書とはまったく関係ないのが次の本。
C Programming: A Modern Approach(King, K. N.)どちらかというと、Cの入門書(教科書)らしい。がすごく高評価なのでこれはこれで良い本らしい。
ジェズイットを見習え |
_ matarillo [ボランティアさんによっては条件が厳しいところがありますよね。共働き不可とか、1頭飼い不可とか、乳幼児不可とか。うちの..]
_ arton [matarilloさんも里親だったのですか(なかーま)。共働き不可(=誰か家に居ろ)は月齢によってはしょうがないかな..]