著作一覧 |
どこにも正しい情報が見当たらないのでメモ。
やりたいことは、COMのDLLを参照しているC#のビルドをCIマシンで行うこと。
問題はCIマシンは独自に管理されているから、COMのDLLをレジストリへ登録するのが手続き的にばかげてあり得ないことだ。
というわけで、DLLをRegsvr32せずにビルド環境で取り込みたい。
Visual Studioがローカル環境のレジストリを参照して作成した要素はCOMReferenceだ。これを書き直す。
StackOverflowにはRegistering COM referenced DLLs on a build serverがあり、ほとんど正しいのだが決定的に間違っている。もしかするとVS2015で扱いがかわったのかも知れない(2012年の投稿)。
利用するのは、COMFileReference要素だ。
StackOverflowにはHintPathが使えるとコメントされているが、VS2015(V14.0)のMSBuildでは使えない。
COMFileReferenceのInclude属性に相対パスを記述すると正しく処理できる。
<ItemGroup> <COMFileReference Include="..\COMDLLs\MyComLibrary.dll"> <EmbedInteropTypes>True</EmbedInteropTypes> </COMFileReference> </ItemGroup>
Includeで指定するDLLはネイティブCOM DLLであって、TlbImpしたDLLではない。
IActiveScript::GetScriptDispatchには以下の記述がある。
E_UNEXPECTED - The call was not expected (for example, the scripting engine has not yet been loaded or initialized).
というわけで、SCRIPTSTATE_UNINITIALIZEDなのに呼び出されたのでE_UNEXPECTEDを返したら、Windows Script Host:スクリプト エンジンを作成できません。
とか言い出して処理を終わらせられる。なんなんだ? (IPersistから呼び出しを受けたのかな?)
Googleで検索しているといろいろな情報が見つかるが、Raymond ChenのHow to detect programmatically whether you are running on 64-bit Windowsがおもしろかった。
まず、x64でコンパイルしたプログラムなら、次の関数を定義すれば良い。BOOL Is64BitProcessRunningOn64BitWindows() { return TRUE; }だって、お前のプログラムはx64でコンパイルしているんだろう?
そりゃそうだ。
が、もちろん知りたいことはそんなことではない。
自分のプログラムそのものがx86だろうがx64だろうがどうでも良くて、32ビットCOMサーバーを利用するスクリプトを起動するときに、system32\cscriptを使うかsyswow64\cscriptを使うかという問題なのだった。
もしx86 WindowsであればGetSystemWow64Directory APIの結果が0になるから、system32をGetSystemDirectoryで引っ張り出して、そこにcscriptを付ければ良い(というか、PATHが通っているのは自明だから単にcscriptを実行すれば良い)。
x64 Windowsの場合は結果が得られるから、その結果にcscriptを付けて実行すれば良い。意外と単純な話だった。
ActiveScriptRuby(RScript22)をいろいろ修正してCScript/WScriptでもまともに動作するようにしたのでパッケージも作り直した。
それにしても、ASR関係についてはRJBと違ってまったくgithubのissuesが使われずにメールが来るのがおもしろい。Windows文化なのかなぁ。
世の趨勢に合わせてLet's Encrypt - How It Worksを見ながら作業開始。Debian+Apacheならほとんど何も考えずにできるようなことが書いてあるのでメジャー指向で良かったと思う。
が、
Failed to connect to host for DVSNI challenge, www.artonx.org (tls-sni-01): urn:acme:error:connection :: The server could not connect to the client to verify the domain
と、エラーになる。
で、そりゃそうだと、ルーターが443をリダイレクトするように設定変更して再挑戦。
すると今度は
[Sun Feb 07 10:58:28.908719 2016] [core:warn] [pid 8902:tid 140713573185344] AH00111: Config variable ${APACHE_RUN_DIR} is not defined
AH00526: Syntax error on line 12 of /etc/apache2/sites-enabled/svn-le-ssl.conf:
Unknown DAV provider: svn
になった。
APACHE_RUN_DIRは純粋に知らなかったので/etc/apache2/envvarsに設定。DAVプロバイダーsvnはまあしょうがない。svn.artonx.orgを除外(というかdav-svnは復活しないんだろうから削除すりゃいいのだが)するようにしてやり直し。
で、
- Congratulations! Your certificate and chain have been saved at
/etc/letsencrypt/live/www.artonx.org-0001/fullchain.pem. Your cert
will expire on 2016-05-07. To obtain a new version of the
certificate in the future, simply run Let's Encrypt again.
(やり直したせいで-0001になってしまった)
後で寄付しておこう。(追記:PayPalはjpからの寄付をサポートしていなくて弾かれた。税法上いろいろ厄介なのはわかるけど、さっさとどうにかして欲しいね。100円のガジェットを$20~30で売るとかいう方法もあるだろうけど、寄付そのものがOKになるのが望ましい)
で、早速メモとしてtDiaryに書いて追記ボタンを押したらcross site request forgeryでエラーだよ。tDiaryの設定を手修正(Webベースだと同じと書いてからhttp:でアクセスすれば良かったと気付く)して完了。
秋頃からアップデートが常に失敗するようになったので(Nexus9は開発用ではなく、単にKindleマンガ用なので妙なことをした覚えはまったくないのだが)そのまま放置していたが、いちいちアップデートがあります→(後で)をするのが面倒になったので(で、ついインストールとか押すと、ドロイド君が昇天してしまう絵が出てくるわけだ)、最新版のファクトリイメージをインストールしてしまった。
で、USBにさして、adb reboot bootloaderやるとエラーになる。
見つからないのだ。いくらやっても見つからない。
そこで、ははあと気付き、電源入れ直して設定-タブレット情報でビルド番号をがんがんタップして開発者モードに入り、USBデバッグをオンにする。
で、USBにさして、adb reboot bootloaderやるとエラーになる。
面倒なので電源ボタンとボリュームダウンの同時押しでブートローダに入ってFastBootに切り替える。
で、flash-allすると書けないと言い出す。
ロックされている。
しょうがないので、fastboot oem unlock すると、エラーになる。
そういえば、開発者メニューにアンロック項目があったようなと思い出して、電源入れ直して設定の開発者メニューをみるとあった。で、アンロックを有効にして、adb reboot bootloaderをやるとエラーになる。
面倒なので電源ボタンとボリュームダウンの同時押しでブートローダに入ってFastBootに切り替える。
fastboot oem unlcokは効いて、ドロイド君のお腹に掃除機が入ってクリーンになった。
で、flash-all。
無事、完了。
きれいになったところで、グーグルアカウントを入れて認証が走ると、お前のバックアップを見つけたぞと言われて、ふんふんOKすると、勝手にリストアが始まった。が、ダウンロードマークなしに少しずつアイコンが増えて行くのでどこまでリストアされるのか良くわからない。どうもグレーアウトしたアイコン(しばらくすると色がつくので再インストールされたということだろう)とか見ていると、インストールしたアプリケーションについては復元されそうに見える。とはいえKindleのアカウントは初期化されたみたいに見えるし、どこまで復元されるのかは良くわからない。
とりあえず開発者モードにしてアンロックは無効にしておく。
ちょっといじった限りでは少なくともNexus7と違って、最新のOSにしたらWindows MEをインストールしたWindows 3.1マシンのように動作することは無いようだ。
HTC Nexus 9 ( Android/ 8.9inch IPS LCD / NVIDIA Tegra K1 / 16G / インディゴ ブラック ) 99HZF035-00(-)
(まあ、良いマシンだと思うので、この調子で当分Kindleマンガがわりとすらすら読めると良いな)
バーデンバーデンで一番好きなのはネトレプコやガランチャの歌ではなくて、バルガスとテジエの真珠採りで、とにかくメロディーの美しさとあるのだかないのだかわからないオーケストレーション(笛とハープだけ)にバリトンとテノールがからむこの美しさは他では見られない(テノールとバリトンといえば、ドンカルロスの友情行進曲のような名曲は他にもあるけど、とにかく真珠採りのターラタララララー(この部分)ラランの繊細な美しさは本当に素晴らしい。
で、とにかく真珠採り(日本と違って男の職業)の友情の物語ということは知っているのだが(だからテノールとバリトンが美しい歌を歌いあげるのだが、途中で一波乱あるのでそこもなんだかわからないのだが、そこをバリトンが抑えると掛け合いになってまたまとまって力強くまとまって、ウイ、セーラなんちゃらと続いて聴けば聴くほど見事なものだ)それ以外はまったくわからないまま放置していたのだが、ポレンザーニとクヴィエツェンでやるというので万難を排して観に行った。
メトでは100年ぶりで(その時はカルーソーが歌ったらしい)、おまけ映像でどうもダムラウが新しいレパートリーの開拓していてゲルブに持ち掛けたらしいということがわかった。
が、なんとなくビゼーだしマルセイユかさもなければどこか地中海かエーゲ海が舞台だろうと思っていたら、バラモン教がどうしたの、服やジャヴァ風だし、インドネシアかインドが舞台っぽい。ラ・バヤディールみたいなもので、当時ちょっとだけ流行ったのかな。
音楽は素晴らしいが、100年お蔵入りしたのもなんとなくわからないでもない作品だった。演出のペニーウールコックがこの作品の異常さをうまく視覚化していて感心した。
1幕。ノセダ。青い舞台に泡ぶくを吐きながら二人の真珠採りが海を潜っている。なんだろう? ビデオかな?(と思ったら、プロジェクションマッピングと吊りを使ったリアルタイムのバレエだと幕間のおまけ映像で知ってびっくりした)
村の総選挙。バリトンのズルガ(クヴィエツェン)が首長選挙だと言うと、村民ほぼ一致でズルガが選ばれる。おれにすべての権力をゆだねるのか? そうだそうだ。
そこにナディール(ポレンザーニ。ヒゲと入れ墨で精悍なイメージにしていて感心した)が帰って来る。放浪者ナディールが帰って来た! そうだ、おれは山の中で虎と戦い、豹を狩って暮らした、そして今、故郷へ戻って来た。明日からはきみたちと真珠を採る。でもきみたちの明日は昨日までのおれと同じかも知れない。(虎? と、ここで完全にエーゲ海も地中海も関係ないとわかった)
ズルガが近づく。良く帰って来た。おれは忘れた。君も忘れてくれたか。おれたちの友情だけが残ったのだ。ナディールが答える。おれは忘れない。君も忘れはしないだろう。遠い未来、太陽が沈むのを眺めていて思い出すだろう。あの門の前、神殿の前でおれたちは眺めていた。そこに美しい巫女があらわれた。あれこそ奇跡だ。あれこそ美だ。お前はおれの手を払いのけ、いや、それはお前だ。そうだ、おれたちはその瞬間に恋敵となったのだ。しかしそれは過去の物語に過ぎない。我らの友情は不滅だ。神よ照覧あれ。
こういう文脈の歌だったのか。
いや、それにしてもとにかく素晴らしい。まさに調和だ。身の毛が音の快感でよだつ。声だけでここまで感動させるのは難しい(しかもこれは映像のサウンドトラックに焼かれただけの音だ)が、この二人の歌手は実に素晴らしい。というか、バルガスとテジエよりバリトンが勝る分だけこちらのほうが遥かに素晴らしい。
が、いきなりここで二重唱が出ると、はてどういう物語となるのだ?
すると沖から小舟が近づいて来る。
巫女(ダムラウ)が神官に連れられてきたのだ。彼女はこれから毎日毎晩岩の上に立ち、海を潜る我らの安全のために祈り歌うのだ。たった一人で誰も近寄せることなく。われらはそのかわりに世界で最も美しい真珠を贈る。
(なんと残酷な)とナディールが独白する。
(は、彼だ)と巫女が独白する。
巫女は岩山にのぼり歌を歌う。そこに向かいの崖の上からナディールが歌いかける。僕は君を守るために帰って来たのだ。安心しなさい。
(幕間)
2幕。もう朝も近い。漁は終わった。お前は眠れと神官が言う。ここで一人で? それはちょっとおっかない。大丈夫。岩山は波を防ぎ、全面には武装軍団がお前を守る。
お前は誓いを守れるか?(なんか神官は歌いっぱなしなので、実は重要人物なんだな)
わたしは子供の頃、命をかけて誓いを守ったことがある。傷ついたジークムントが匿ってくれとやってきた。私は彼を匿し、フンディングの一族が刀をわたしに突きつけてもいっさい話さなかった。明け方、彼はわたしに首飾りを与えてくれた。そして誓いを守ったことを讃えて去って行った。
神官、納得して去る。
そこにナディール登場。おれはお前が好きだ。この気持ちわかってくれ。殺されるから帰りなさい。とか言いながら、次々とベールや上着や服を脱がし始める(すさまじく重ね着しているので問題なし)、やたらと直截的な演出だな。
ここの二重唱も悪くないが、と思う間もなく、ちょっと一線を越えるのはまずいからまた明日、と言ってベールを着けて別れた瞬間に神官がやってきて、不届き者、皆の衆であえであえ。ナディールも縛られて連れて来られる。
弦がアルベジオ。そうか、ノセダが言っていた波が荒れて来たところだな(ツナミはツナミだとノセダのインタビューで確認した)。
皆の衆がやって来てリンチが始まりそうなところにズルガ登場。ナディールを見て驚く。
おまえらおれに権力をくれたよな。殺せば良いというわけでもあるまい。追放だ。と物分かりが良い。
すると神官。追放ならベールを採れ。と言って脱がす。
あー彼女だ。このくそ野郎、ものども、やっぱり追放はなしだ。叩き殺そう! と怒りまくる。
ツナミがやってきた。すべてが波に飲み込まれる。
???
と思ったが、ここでおしまいではなく、長い場面転換となる。2幕2場か3幕かが始まる。
プロジェクションマッピングがスラム的な高層アパートの裏側を映す。はて? 波が一掃して世の中が変わったのか? と思う間もなく、事務所の中となり、扉にズルガの選挙ポスターがあり、壁には書類棚と書類がたくさん、ブラックジーンズにブラックTシャツのいかしたクヴィエツェンがうろうろしながら冷蔵庫からビールを出して飲んだり、煙草をふかしたりしながら、怒りにまかせて失敗した。良く良く考えてみれば、あそこまで怒ることはなかったし、やはり死刑はないよな。ごめんよ、ナディール、ごめんよ、レイラ(巫女の名前)。と歌い出す。はて、どういう演出なんだ?
そこにレイラが護送されてくる。このばかが閣下に申し上げることがあるそうです。
わかった、お役目ごくろう。二人だけにしてくれ。
レイラは元の巫女さんっぽい服装のままだ。
実はナディールはたまたま通りかかっただけで無実です。
おおそうか、だったら奴は無罪放免だな、良かった良かった(と独白)。
ところがレイラはズルガの心はわからない。神よ照覧あれ、われらの愛を守りください。わたしたちは愛し合っているのです。
愛とな? くそー、怒りがぶり返して来たぞ。何が無実だ嘘つき小僧。やはり許せん。
神よ、神よ、わらの愛をお守りください。
いやだよ。おれは今、嫉妬で狂っているんだからな。
と、チャンバラ調の二重唱。音楽は悪くないが、演出意図も台本も明らかに、ここではズルガはインドのバラモン信徒ではない(一切、神とも言わず、祈りもせず、単に自分の良心、自分の感情、自分の思考だけで動いている)。ズルガは自分の心だけを拠り所にすべての責任をもって生きている。近代人だ。いっぽう、レイラは異なる。
かくして決裂して、レイラは処刑場に連行される。そのとき、レイラは首飾りを取り出し、お付きの女性か親切にしてくれた牢番だかに与える。ズルガ、それを見て愕然とする(わかりやすい台本だ)。レイラが去った後、牢番から首飾りを受け取る。
場面転換。
神官が嬉しそうに、夜明けとともに裏切り者を処刑することを神に告げる。村人も大喜び。娯楽だ、処刑だ、死刑だ、娯楽だ。
ナディールがレイラをかばおうとする。二人いっしょに神に召されるのだ、こんなにうれしいことはない(アンドレアシェニエみたいだな)。
太陽の光だ、さあ殺せ。
そこにズルガ登場。待たれよ諸君、あれは日光ではない。悪魔の炎が落ちて来たのだ。村が燃えている。皆の衆、子供を助けに走れ、村へ。
村人消え去る。
ズルガ、二人の縛めをナイフで切る。
お前は忘れたかも知れないが、おれは忘れない。この首飾りを贈ったのはおれだ。今度はおれが命を救う番だ。
だからおれは君らを助けるために、村に火を点けた(きっぱり)。きみたちは逃げろ。
お、お前はどうなる?
知らん。神のみぞ知るだ。祈るポーズ。(1人で近代化を遂げたのだから、ここでの神も祈りのポーズも意味はないのだろう)
二人は逃げる。
おしまい。
こんな、話だったのか。
音楽は2幕までの美しさがとにかく素晴らしい。ズルガとレイラのちゃんばらは2流のヴェルディみたいでいただけないが、それも含めて3幕以降は急転直下だからまあいいかな。ズルガが一人で近代化するのも不自然(とは言え、オペラだし)だし、最後の落とし前のつけかたも無道過ぎるような。そういう意味では、お蔵入りされたのはわからなくもない。
が、すばらしい舞台作品になっている。ニューヨーカーはうらやましいと、はじめて思った。そのくらい、1幕の二重唱のできが素晴らしかった。
結論としてはモダンなデザインパターン本で、今となってはGoFより遥かに良いのだが、難点もある。
翔泳社の野村さんからSwiftデザインパターンをいただいたので、よしこれでSwiftを覚えようかと思った(のがクリスマス休暇だからもう2か月前になってしまった)が、読みはじめるとどうも勝手が微妙に違う。
翻訳本なのだが、筆者がデザインパターンマスター(普通にデザインパターンを適用して機能を実装にプログラミングできる人の意味。自称で十分なので、実はおれもそうなのだ)らしく、そういう人は実装用のプログラミング言語はそれほど問題とはしないので、Swiftが発表されてすぐに執筆出版したものらしくXcodeは6だしSwiftも1.xだ(コード標準も自分の律にしたがっているように思う)。
筆者は引退した元銀行のCTOだとか書いてあるが、考慮している現実的な問題を読む限り、パフォーマンス(時間だけではなく空間についても)、並列性、修正可能性などについての目配りがきちんとしているので、その点について納得感がある。
というわけで、Swiftの勉強ついでに読むというのには向かなくなっているのだが、デザインパターン本としては整理されていて良い。コードもSwiftという十二分にモダンな言語で書かれているので、デザインパターンの実装例としての疑似コードという読み方をしても問題がない。
それでいて筆者はちゃんとSwiftを動かしながら執筆したらしく、たとえばシングルトンパターンでは、Swfit固有(今もそうかはおれは知らない)の問題としてクラスオブジェクトが利用できないことによって(ちょっと、ここはおれには疑問があって、この筆者はJavaやC#でシングルトンパターンを適用するときはstaticを利用するのをイディオムとしているが、それだとシングルトンの仮想化ができない(リフレクションで名前ベースでやればできるが少しも嬉しくない)ので賛成できない。というかファクトリメソッドパターンが返すオブジェクトがシングルトンというパターンを想定しないのか?)ネストした構造体を返すファクトリーメソッドという方法論を示している(このときに、この構造体が仮想化されていればおれが()で書いたことが実現できるので結果としては良いことを書いていると思う)。さらに並列処理でシングルトンを利用する場合の考慮点など、実用化するときに必要な考慮点についていろいろ考察したり実装を示したり、わかっている感が強い。GCDというのはここを読んでいて初めてどういうものかわかった。
何しろ、一番ページが割かれているのがObject Poolパターン(シングルトンのバリエーションとして書いているからシングルトンの一部と考えると、実に1/10以上がシングルトン回りということになる)という耳慣れないパターン(Flyweightは別にあるから、Flyweightとは異なるパターンと筆者が考えているのは間違いない)で、直接は書いていないが、口座処理が念頭にありそうだ。
というわけで、Swiftの勉強の役にはあまり立たないだろうが、デザインパターンの本としては、並列(トランザクション処理を想定すれば並列になるだろうが、オブジェクトの保護という観点からは並行であっても同じことだ)処理に対する強い考慮と、パフォーマンスへの考慮(本人がどこまで意識しているかは知らないが、iOSのことを考えればとても重要だ)など、良い点が多い。
SwiftとXcodeが1世代前という難点はあるが、モダンなデザインパターンの本としては良い本だ。
というわけで、2010年代に書かれたデザインパターンの本として推薦できる。
(追記:2016/2/19現在Kindle版は半額になっている)
アマゾン評ではSwiftが1.xだということだけを理由に★1個にしている(こういう極端な評を書く人の例にもれず「2.x対応版が出るまで待った方が」どうたらとか書いているが、もちろん、こういう評を読めば買わない人も出てくるし、売れない本を改定して元が取れることはあり得ないので当然2.x対応版など出るはずがあり得ないのだが、どうしてそういうことを書くのか不思議なことである)ものだけが出ているのが内容が良いだけにもったいない感じだ。
自分の好きな映画5本というのを考えると、実に難しいことがわかった。
1位は簡単で、観た回数も、好きかげんもまったく無問題でロシュフォールの恋人たちだ。
冒頭、ロシュフォール(という軍港)に向けて旅の一座が向かってきて妙ちきりんな橋に乗る。海のほうから町の広場を映し、そこでは群舞が繰り広げられているのを後目にカメラがどんどん通りに面したアパルトメントの1つに向かって行くと2階のバレエのレッスン場に入り込み、レッスン風景になる。さあ、おしまい。みんな帰って、とカトリーヌドヌーブが手を叩き少女たちが帰っていくと、ピアノを弾いていたフランソワーズ・ドルレアックがこちらを振り向き、いきなり双子座の女の歌が始まる。脚でハートを作る。ここまで一気呵成で涙が出るほど美しく、楽しく、心が躍る。これが映画だ。
そのあとも、ブブ(異母弟)を学校に迎えにカトリーヌドヌーブ(だと思う)が街を進むと、驚くほどの長回しに次々と水兵や街の人たちが出たり引っ込んだり踊ったり、楽しい楽しい、そしてジーン・ケリーが出てくる。ジーン・ケリーが子どもたちにチャップリンのモノマネをしてみせる。すべての人たちが関係を持つのだが、なかなか直接には会えない。ピアノ屋の主人のダムは、双子の母親の恋人で、お互いに会いたいのに近くに住んでいることに気付かず夢のような存在と考えているのに、双子はしょっちゅう両方と顔を合わす。フランソワーズドルレアックはジーン・ケリーに会いたいのにジーン・ケリーに会うのはいつだってカトリーヌドヌーブだ。水兵のマキシミリアンの運命の女性はカトリーヌ・ドヌーブなのだが、いつも画廊ですれ違う。そしてカトリーヌ・ドヌーブはマキシミリアンに会いたいのだが、会うのはいつも画廊の主人だ。
そこにジョージチャキリスをはじめとした旅芸人が双子の母親のカフェで見事な踊りを披露する。
音楽(歌)とダンスと脚本と抜群のカメラワークがすみからすみまで映画で、観ていてこれほどうれしくなるものは他にはない(トップハットですら弛緩するところがあるのに)。
ロシュフォールの恋人たち [Blu-ray](カトリーヌ・ドヌーヴ)
(なんかえらく豪華な特典つきまくり版が出ていて買うかどうか迷いまくっている)
観た回数からいけば間違いなく次点はディーバで、この映画の色調、カメラワーク(カメラが切り替わるとそこに意外な人が必ずいる。特に2人の殺し屋の登場シーンは圧倒的に秀逸だ)、音楽、すべてが素晴らしい。カラスのワリーの引用も良いし、ジュール(主人公の郵便配達夫)のステュディオの廃工場を利用したらしいエレベータやオーディオセットも抜群、もう一人の主人公の謎の探偵ゴルディック(みたいな名前、忘れた)とベトナム少女の暮らす(広すぎてベトナム少女はローラースケートで移動する)倉庫とベトナム少女の記憶に出てくる灯台、あらゆる点で視覚的な刺激に溢れかえっている。
雨の中のディーバとジュールの奇妙なデートシーンも美しい。音楽はサティをモダナイズしたようなピアノ曲が流れる(似たような曲を次作のベティブルー(これは大嫌いなので、ディーバの評価も相対的に下がったわけだが、思い返せばやはりディーバは偉大だ)の主人公がピアノで弾くので監督とコンビの作曲家の作品だと思う)。
ディーバ 製作30周年記念HDリマスター・エディション [DVD](ウイルヘルメニア・フェルナンデス)
そしてどれがどれだかわからなくなるほど見続けた田宮二郎の犬シリーズだが(学生の頃、東京テレビの昼の映画で全シリーズを流したのをビデオで録って何度も観た)、一番好きなのは森一生(後に確かに大した監督だと知ることになる)の暴れ犬で、波止場で田宮二郎が「ハジキ持つ手に心も踊る、黒いしゃっぽも、革ジャンパーも、いかすオイラのトレードマーク、夢を持とうぜ、暴れ犬」という歌は今でも歌える(というか歌詞も書けた)。
(暴れ犬を観まくっていたときは、大魔神シリーズで唯一エンターテインメント性がすばらしい3作目の監督と同じ人なのか。うまいなぁと(2作目の三隅研二が何か勘違いしているようなこともあって)思っていたが、評伝を書かれる対象になるくらいの作家だとは知らなかった。でも考えてみると悪名も大菩薩峠の完結編(突然三隅研二の硬派調から娯楽調になって驚いたら監督が違ったので印象的)もえらく娯楽作品化していて、とにかく楽しませる映画作りでは圧倒的)。
次はパーマネントバケーションで、レーザーディスクで買って、これまたすさまじく観た。
主人公のクリスパーカー(妙にぼしょぼしょした声で延々と独り言を語り続ける)が日光が差し込む部屋(片隅の椅子に彼女が腰かけている)で、だらだら踊るシーンの美しさや、意味なくそのへんをうろうろうろうろしているだけの映画なのだが、これほど無軌道な美しさを感じる映画はない。唐突に話しかけられて、虹のかなたにのドップラー効果ジョークを延々と聞かされるシーンの楽しさとか、映画の語法とは何か? をひっかきまわす感もとても好きだ。
というように観た回数順に並べていくと、ロシュフォールの恋人以外にもベストに入れるべきものはたくさん出てくるのだが、するとゴダール(割と全部)やデプレシャン(全部)やビクトルエリセ(全部。エル・スールも何度も観たな、そういえば。ラベルの弦楽四重奏曲)やチェンカイコー(一部)やホウシャオシェン(比較的全部)やエドワードヤン(全部。でも処女作は持っているだけで観てない)や三隅研二(特に大菩薩峠)やオリヴェイラやキアロスタミやイーストウッドやカウリスマキやポンヌフの恋人たち(ジャームッシュとごっちゃになってしまって名前がポンと出てこないが、汚れた血やメルヴィルのやつも1人多役のやつも好きだな)やときめきに死す(森田の先が思い出せない)が入りきらない。というか、MGMのミュージカルが出番なしになる。ジブリもあるでよ。RKOのミュージカルも入らないじゃん(でもトップハットは何度も観ている)。ほら、アルトマンやカサヴェテスやニコラスレイやサミュエルフラーも観まくっているのに忘れている。ピータージャクソンだっているし。
順位をつけるのは難しいものだ。
妻が図書館で借りてきておもしろいからお前も読めと寄越したので、井上 理津子の『葬送の仕事師たち』を読んだ。確かにおもしろい。
葬儀に関する仕事をしている人たちに対する聞き書きをまとめたルポルタージュだ。
最初は平塚にある日本ヒューマンセレモニー専門学校の授業風景から始まる。いきなりフューネラルディレクターコースだのエンバーマーコースだの怪しさ満載のカタカナ職業になるので、なんじゃこりゃと読みはじめると、いかさま専門学校ではなく、学生たちがすさまじく糞まじめに勉強しまくっている風景となる(まあ、こちらもシステムアーキテクトだシステムアナリストだスクラムマスターだフルスタックエンジニアだと、知らない業界の人から見れば怪しさ満載のばかげたカタカナ商売の趣があるから、知らない職業というのはそういうことなのだろう)。
そこでの学生(結構世代にも前歴にも幅がある)たちへのインタビューから始まり、その学校を開設することになったヒューマンセレモニーの会社社長へのインタビュー(これはおもしろい)、そしてパシフィコ横浜で開かれたヒューネラル見本市の風景、葬儀屋(桑名正博の葬儀を演出したという一匹狼の葬儀屋さんのインタビューがむちゃくちゃにおもしろい)、湯灌屋(死人を風呂に入れて洗う人)、納棺屋、復元屋(事故とかでぐちゃぐちゃになった人を遺族が満足できる程度に復元してお別れ可能にする人)、エンバーマー(血液を保存液に入れ替えて保存がきくようにする人。日本人がこの職業に出会ったのは朝鮮戦争で死んだ米兵を一度日本の基地に運んで、そこでエンバーミングして、それからアメリカ本国に送って、故郷で葬式するための処置を見た時点かららしい。アメリカ大陸も広いから、何日もかけて遺体を故郷へ送ったりしなければならないだろうから、当然の結果として開発、発達した手法のようだ)
そして火葬場となり、さらっと感動商売として成功しつつある人や、あっさり済ませた人(遺族側)などを交えて終わる。後書きにさらっと霊柩車の運転手がコップに水を満たせたものをこぼさないように運転するという自負を聞かされたというのが出てくるが、どの人とっても、職業への強いプロ意識がすごい人たちで、しかしこちらの知らない職業なので、おもしろくないわけがない。とんでもなくおもしろかった。
常に眉に唾をつけながら読む習性からいくと、聞き書きについては、きれいごとと本音の両側から読む必要があるわけだが、筆者自身が十分にこの業界に無知で、かつ直截的な質問をするので、それほど虚飾があるわけでもなく、むしろ本音に近いのだろうというものがほとんどで、それがいちいち興味深いのだった。
前半まではこの業界を指向する人たちが、たいてい何らかの死と向き合うことをきっかけとして、飛び込んできたように読める(後半になると団塊世代がばんばん死ぬ時代をビジネスチャンスとして飛び込んできた人たちが多くなるが、その構成自体が筆者のうまいところだ)。ビジネスチャンスと見て飛び込んできた人たちも、ビジネスを意識している以上、顧客満足を最上位にすえて考えているので、そこがおもしろい。
つまり、本書のおもしろさは、自分がだれかの死を前にして感じた忸怩たる思いを解消するために、他人の死をその故人の尊厳を最後に取り戻すための役割という崇高な使命に置くことにした人たちであるとか、死んだ人の人生の最後のステージとして遺族や参列者が心置きなく追想する場を作るであるとか、新しいビジネスとして顧客満足を最大化するであるとか、プロフェッショナルな職業人としての誇りが書かれているからだろう。その一方、本書の特に中半の復元師のあたりには3.11の影が終始つきまとう。あらためて被害の大きさに愕然とさせられるのだった(ニュースで眺めるのはマスとしての死だが、こちらは特定の個人の死になるからだ)。
特におもしろいのは、わざわざ探して取材した葬儀バブル時代(1970~1980年代あたりらしくて、1葬儀300万円が普通で、500万くらいまではいくらでもあり)にぶいぶい言わせた本人曰くぼったくりまくった人のところだ(桑名正博の葬儀ディレクターのことだ)。
とにかく本書に出てくる人たちは、ほぼ全員が、自分の職業についての疑問からか、良く勉強している。この人も御多分に漏れず勉強しまくって、当時の葬儀に大きな否を突きつける。なぜバラの花で飾れない? (=トゲがあって葬儀屋が痛いから避けられた)、なぜ菊の花?(天皇家にあやかっただけで敗戦後の流行が、なんとなく定着しただけで根拠なし)とか、理由を知って憤然と独自路線を突っ走る。そのうちぼったくりのための営業競争に嫌気がさしてぼったくり路線はやめて、独自のデザイン路線だけで仕事をするようになったという人で、この人のデザインした葬儀の話もおもしろかった。ド派手な衣装に真っ赤な天蓋、まわりに7人の小人を配して……とやったら、故人が最後に語った夢が7人の小人だったのに本当にそうなったと遺族に大感謝された話とかできすぎている(孫が7人いるというのがオチらしい)。
それ以外にも独自の話芸に指名客がついた復元師や、1日20人をこなすエンバーマー、日本で8番目のエンバーマーなど、専門職が強い人たちの話はその職業を知らないだけにおもしろい。
一方、ちょっと雰囲気が変わって来るのが火葬場のほうで、書いている内容を読むともともと被差別部落の人の職業だったらしいが(いつの時代からか?)、現在は普通にハローワーク経由の仕事に見えるのだが、いちいち差別するばかな客がいるらしい。
そこがどうも専門職としての誇りが高そうだし、直接遺族の感謝を受ける復元師や葬儀屋やエンバーマーとは雰囲気が違う(遺族にとっては霊柩車に乗る前と乗った後で職業に対する差別感が変わるのかなぁ。頭のわるいひとたちの思考回路は理解できないな)。ところが、火加減や骨の並べ方や、実にいろいろな技術が必要な仕事らしく、読んでいてえらく難しそうだ。だからか、裏で火加減調整する役回りのほうが(純技術)、表で能書き垂れて骨を拾わせる役回り(なのに突っかかってきたり露骨に蔑むばかがいる)よりも気分が楽とかいうような話も出てきて、なんともご苦労様と感じた。
で、ニュービジネスとして感動を売る人が出てくる。もともとの葬儀屋のところもいかに遺族に死者との思い出を喚起させて別れを満足させるかが肝だったわけだが、勘と経験、デザインセンスの人よりも、もっとビジネスライクにいかに感動させるかに頭を使いまくるところとかこれもおもしろい。SNSでRTされてくるくだらない感動アフィサイトを眺めると、どうも感動を売るというのが現在の一番のビジネスらしいから、それを選択した時点でなかなか賢明なのだろう。いずれにしても悪いことではない。
死体置き場の運用の話とかもニュービジネスの流れで出てきて、ここも興味深い。
B015VXQB12
葬儀といえば、祝福王の中で主人公の神様が入院していたときに知り合った男の葬式を頼まれて、初めて独自の式を行うところが実に見事なのだが(海の中からその男が家族を見ながらにこやかに昇天していき、それを妻と子供がはっきりと感じる)、なるほどそういうことを現実に行っているのが、読経する僧侶ではなく葬儀屋とそのスタッフ(復元師ととか湯灌師とか)なのだな。
[まとめ買い] 祝福王(コミックフラッパー)(たかもちげん)
最後のほうに出てくる母親の葬儀を4万円で済ませた人の話は身に覚えがある。
祖父が死んだときは、病院から退院して家で寝るようになってからしばらく後だが、さてどうするかと死体を前に考えた。親がどうにかするだろうと思っていたら、おれが取り仕切れと言われて、困った。とりあえず、家族医から死亡証明書はもらったから、市役所に行って(その前に電話したかな)死亡届の係の人にいろいろ教えてもらうことにした。結構並んだ覚えがあるが、おれもいろいろ教えてもらったから、単純な事務処理ではないわけで、それなりに時間がかかるのも当然のことだった。
宗教が神道だというのは知っていたし(明治の頃に東京に単身出て来たから、故郷の本来の仏教系とは縁が切れたという自覚があったのだろう)、父親から神道では死んだらどう転んでも1柱の神になるんだから、石の下にでも置いておけば良いのだと子供の頃に聞かされたのを覚えているから、まあ儀式的なものは不要だというのはわかる。そんなことしなくても、子供の頃遊んでもらったことは覚えているからそれで十分だし、本人の歴史も南京やらハルピンやらトラック島やら東京裁判やらについて聞いた話も覚えている。
で、市役所の人に聞くと、とにかくまずドライアイスを買え。指定業者はこれこれで頼めばすぐに持ってくるから幾ら(5000円くらいだったか8000円くらいだったか覚えてないな)払って、それで遺体の腹のあたりに置けばしばらくは腐らないから、次に火葬場を予約しろ。予約の日時に火葬場の霊柩車を回してくれる(棺桶に入れた覚えがあるから、多分、火葬場の人が持ってきてくれたのだと思う)ので、あとは火葬して骨壺を買って中に骨入れて埋葬するようにとか、手順と手続きを教えてくれた。
で、さっそく家に帰ってドライアイスを頼むと人が良さそうなおっさんがすぐにでっかなドライアイスを持ってきてくれたので、さて死体に直接置いたほうが良さそうだが、生身だとくっついて皮がむけたりして厄介だから、相手が死体でもおそらく同じようなこともありそうだからタオルを敷いてその上かなとかいろいろやった覚えがある(というか、ドライアイスを持ってきたおっさんがタオルを敷いてから置けと教えてくれたような気もする)。
B015YZ53SY
火葬場の予約はすぐ取れて、棺桶を霊柩車(ワゴン車)で持ってきてくれた(のだろうな)のでそれに入れて(火葬場の人が手伝ってくれたような気がする。釘を石で打ったりは無し。葬送の仕事師たちにも出てくるが綿を詰めるのをそのときやってくれたような記憶があるような模造記憶のような)、あとは火葬場に直行。途中、祖父に世話になったという親戚の人が合流してちょっとお別れして燃やして骨を拾って骨壺(多分、火葬場で買ったのだと思う)に入れて、全部で5万円かからなかったような気がする。(とにかく金がかかると聞いていただけに、あまりの安さに信じられなかったのを覚えている)
骨壺がやたらとでかくて、なんでこんなにでかいのかと思ったら、骨も結構な量があって、結局ほぼほぼいっぱいになって、なるほどこのサイズが必要なのだなと思ったが、葬送の仕事師たちを読んだ今となっては、そうではなく、その骨壺に合う量を残す火加減だったということだとわかる。見事な技術ではあるが、あれは重くて厄介だから、おれはあんなに骨はいらないからもっと念入りに焼いて欲しいところだ(関西は関東より遥かに少ない量にするらしい)。
ところで、23区内の火葬場は全部で9場、そのうち2場が公営で残り7場が民営のうち、6場が明治に木村荘平が作ったと出ていて、あーと思い出した。
明治政府は廃仏毀釈で火葬禁止令を出してすぐに撤回したわけだが、明治維新を奇貨として牛鍋チェーンと火葬場という両輪でモダンビジネスを始めた木村荘平の物語は山田風太郎で読んだことがある。『いろは大王の火葬場』だ。ビジネスの組み合わせが絶妙でなかなか火葬になる人がいないという話だったが読み返してみようかな。
昨日はブロックチェーン勉強会で、まずはbitcoinの仕組みの解説から。
教科書は山崎先生のBitcoinの技術
ノードは3つに分かれる。フルノード、その子分、マイナー。
フルノードはこれまでの全取引分のブロックを持つ。現在35GBくらい。起動時はそれを全部読みだして整合性をチェックする。子分はたかだか現在のブロックを持つ。マイナーは現在計算中のブロックを持てば良い(はず)。
取引の実行はあるノードが行う。このノードをAとすると、
取引は通常、AがBに金を払う。BがAに釣りを払う。Aがマイナーに0.001(1桁違うかも)払う。の3つ組。このとき、AはBに全持ち分を払い、実際の払い以外の釣りを受け取るものとする。すなわち、現在のAの有り高(なんで在で出てこない?)は、Aの最後の取引記録に残ることになる。Aはこれを自分が繋がっているすべてのピアへ送信する。
ピアはそれを他のピアへ送信する。(循環しないようにするのはGnutellaでもやっていることだから普通にプロトコルに入っているのだろう)
そのうちマイナーに到達する。
マイナーはそれを自身が持つブロックへ組み込む。ブロックには15個の取引用スロットと直前のブロックのハッシュが格納されている。今到達した取引が14番目であれば、そこに、15番目の取引として自分で自分に15(25かも)を払う取引を埋め込む(無から有が生じるところだ、おもしろい)。
そして、前のブロックのハッシュ込みでブロックのノンスを求める。ノンスは先頭何ビットかが0のもので、何ビットかはdifficultyで決まる。
他のマイナーにも到達している。14番目の取引であれば、同じように15番目を埋めてノンスを採掘しはじめる。
見つけたマイナーはこのブロックをブロードキャストする。
受け取ったノードはノンスが正しいかブロックをハッシュして求める。
求まれば、受け入れる。
後から来た、異なるノンスのブロックはリジェクトする。
リジェクトが返されたマイナーは自分の負けを知る(のか? リジェクトとは単に無視することかな?)。
受け入れられたマイナーは14個分の手数料と自身への取引を獲得する。
無意味な取引によるDoSを避けるために、取引の最小単位が決まっている。最小単位より小さい取引は受け付けない。ある保持者の持ち金は、フルノードが持つ全ブロックによって知ることができる。
嘘つきマイナーのブロックはハッシュすることで容易に弾ける。
P2Pである以上、あるマイナーに取引が1-16の順に到達し、1-14でマイニングが開始されているときに、2-16,1の順に到達して2-25でマイニングが開始されて両者がほぼ同時に確定することがある(1度か2度はあったらしい)。そのとき、それぞれが(到達順が異なるくらいにホップ数が離れていれば)近隣に受け入れられる可能性がある。この分岐はどこかの時点で差がつき、どちらかが数ブロック分破棄されることになる。(チェーンが長いほうが勝つ)
おもしろかった。
新国立劇場でヤナーチェクのイェヌーファ。
すばらしかった。初日に行って良かった。
というわけで、終演後すぐに水曜日の回(ラッキーC席が残っていた)を購入。
作品、演出、歌手、指揮、オーケストラ、どれをとっても本当に素晴らしかった。
物語は、なんというかベリズモも良いところで、しかも出てくる人たちがいずれも精神分析の対象になるような連中ばかりなのだ(カヴァレリア・ルスチカーナから血の気をすこしマイナスして、女性側に焦点を当てたというところか)。
極めて特徴的なのは、イェヌーファの義理の母親の存在で、明らかに司祭の代わりも務めれば、医者の替わりも務めるし、インテリなのだが、村に埋もれていることに耐え切れず、義理の娘に人生のやり直しを仮託している(2幕でまさにそういう歌を歌いまくる))。そのために娘を抑圧していて、ある意味、すべての悲劇の元凶はこの人にある。
1幕終わり近くの二重唱、2幕のイェヌーファの歌。
1幕の村の楽師(出現前)の音が奇妙な響き。
ヴァイオリンのソロが実に効果的。
面倒くさいから物語の予習とか一切せずに行ったので、最初、登場人物がたくさんいて混乱しまくったが、結局、主要な人物は、祖母、長男の息子(きれいな声)、長男の妻の連れ子(ラッツァ)、次男の妻、その義理の娘(イェヌーファ)、村長夫婦とその娘、長男の妻の連れ子の職場の友人だか先輩だか(これは特な役)を押さえておけば良いだけの話だった。
演出は舞台の上に仮想の室内空間を配置。最初、牢獄か病院に見えるのだが、すぐに祖母の屋敷となり、2幕と3幕では母の屋敷となる。
精神の解放と窓と扉と壁が連動する。
白と黒と机と椅子。
これは本当に良いものだった。
ジェズイットを見習え |
_ angora_onion [ディーバのゴロディッシュ、イイ味の役者さんですね。 サブウェイの役も好きでした。]
_ arton [あーそうです、ゴロディッシュでした!]