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妻が図書館で借りて読み終わったあとに、おまえのすきな大正時代のアナーキストの本だから読めと貸してくれたので読んだ。3時間かからなかった。
まあ、全部知っていることだが、うまくまとめてはあるので、それなりには楽しめた。著者のひいきの引き倒しが過ぎるので、青鞜での論争の部分はさすがにうんざりもした。だが、悪くはない。リバータリアンが確実にリベルテールと異なるのは英語とフランス語の違いではなく、相互扶助という概念の有無にあるわけだが、この本では明らかに正しくアナーキーだ。後藤新平に送ったという4mの巻物は知らなかったのでおもしろかったし、葉山で1度戻らざるを得なくなる間抜けたところは何で読んでもおもしろい。らいてうがくそみそにこきおろすぶっかけ飯がアナキストたちにはご馳走だというのは、単に腕前が上がったからだと思うが、ここもひいきの引き倒しな書きっぷりでやはり辟易するわけだが。それでも青踏社で一の糞尿を始末するところとか、おしめをしぼって乾かすだけなので、これはひどいと村木源次郎や大杉栄がちゃんと後から洗うというようなところは、普通に人柄がしのばれておもしろい。
この本の欠点は、おれが徹頭徹尾この著者の文体が嫌いだという点だ。妻によれば講談調なんだからしょうがないんじゃないとのことだが、こんなに滑舌が悪くリズムに乗っていない講談調はない。読み終わって奥付見てなんとなく納得した。頭がでかくて重いのが、むりやり講談調をやろうとしたが、頭の重さが災いしてしまったのだろう(ちょっとそのあたりは、頭脳警察の詞みたいなところがある)。なんと無様な踊りだ。
それにしても、ここにも完全に引用されているが、辻潤が染井の思い出について書いた文章は大正時代(いや、おそらくその印象的な書きっぷりは明治以降全部ひっくるめて)書かれた恋愛生活について最も美しいものだ。
染井の森で僕は野枝さんと生まれて初めての恋愛生活をやったのだ。遺憾なきまでに徹底させた。昼夜の別なく情炎の中に浸った。初めて自分は生きた。あの時僕が情死していたら、いかに幸福であり得たことか! それを考えると僕はただ野枝さんに感謝するのみだ。そんなことを永久に続けようなどという考えがそもそものまちがいなのだ。
あまりに美しいので、青空文庫のために打ち込んだ人がいるくらいだ。
それにしても、村木源次郎の追悼文について思いをはせざるを得ない。どうして毛深いとか気持ち悪いとか追悼文に書こうと考えたのだろうか。あるいは辻潤をして襟垢娘(すごい言葉だ)と書かざるを得なかったのだろうかとか、いきなりおむつを絞って干すようなところとシンクロするようなエピソードだったのだな、と思う。
ユーロスペースでアキカウリスマキの希望のかなた。
今やユーロスペースも事前に席を予約できるようになったので、午前に整理券を取ってとかして午後出直しとかしなくて済んで楽になったな。
予告編が長い。天皇特集は目の付け所がおもしろい。松本俊夫といえばドグラマグラしか観ていないなぁブーンとか、香港のミュージカル興味ねぇーとか観ていてもそこは生来のミュージカル好きなので群衆シーンでは思わず満面の笑みとなったり、2人のカトリーヌは映像が凡庸だなぁとか、リスとウサギの2人組は出てこねぇなとかだらだらしているうちにやっとスプートニク。
例によって唐突に始まる。ホテルの一室っぽい飾り気がない空間でじいさんがネクタイしめてスーツケースに荷物をつけて食堂に入る。ばあさんが飲んでいる。テーブルにおっさんがカギを置く。指輪を外して置く。出ていく。
ホテル代が払えないので指輪で払ったのか? と思って見ていると、ばあさんが指輪を取り上げてしげしげと眺めて灰皿へ捨てる(登場人物はほぼ全員が喫煙者だ。じいさんだけは違うような)。
ってことはホテルじゃなくて結婚指輪だったのか、と気づく。
じいさん、倉庫から適当に服を車に乗せて出ていく。黒いでっかなセダン。
港に船が着く。唐突に石炭の山の中から黒い顔が浮かび目が開く。なんじゃい?
真っ黒な男が出て来て、こっそりと外に出ていく。
二人がすれ違うというか、男をじいさんが轢きそうになる。何事もなく別れる。
と、いきなり映画以外のなにものでもない映画が始まる。
圧倒的におもしろいじゃないか(わかってはいることではあった)。
じいさん、服屋をやめてレストランのオウナーになろうとしているのだと、途中の服売り行脚でわかる。メキシコで余生を過ごそうとしている女性に売るところでわかる。というか、ほとんど売れない。
結局倉庫を空にすることができる。
カジノ。入口の用心棒に話かける。しばらく話して裏へ回る。
現金を見せる。手前の席のじいさんがOKを出す。スタッドポーカー。
朝になる。6万まで増えた。そろそろやめよう。やめない。3カード。ストレートフラッシュか? 全部の賭けとなる。勝つ。2度と来るな。
とても良いシーンだった。
フィンランドもユーロだから12万で100円として1200万円か。
不動産屋。3万の物件。というか、300万円って安いな(フィンランドの相場がわからんので良くわからん)。
やる気のないレストランを手に入れる。やる気のなさの象徴がランチのサーディンなんちゃら。蓋を開けただけのオイルサーディンとジャガイモ2つと、あと1つは何だったかな。
2万5千で決まる。良い買い物をしたと語る元オウナーが、レジから全現金を抜き、給料の遅配をどうすんだ? と聴く従業員たちを振り払って入り口(トイレ?)の小銭もすべて掴んで去って行く。。
と、だらだらとじいさんの話が進行している間にも、黒かった男は街角音楽家にコインを渡し、駅の地下のシャワールームを教えてもらう。良い男だが背は高くない(あとで171cmとわかる。体重71kgだが、そんなに太ってはないように見える)。
警察署に行く。難民申請をする。
ルアーブルに引き続き難民の物語だった。アレッポの自宅はミサイルで粉々となり妹を除いて家族全員死んだ。埋葬費を殺された婚約者の父親=上司からもらって埋葬してトルコ国境から出国した。ハンガリー国境で妹と離れ離れとなり(というのはすべて審査官の前で語る)。
襲い掛かる3人の自由フィンランド戦線。革ジャンパーがわかりやすい。
難民申請は許可がおりない。アレッポは指定戦乱区域ではないからだ。帰れ。
テレビのニュースでアレッポの小児病院が政府軍の爆弾で破壊されて子供たちが殺される様子が映る。
最後、妹はリトアニアの難民施設にいることがわかる(携帯電話のおかげで映画のスピードも高速化したものだ)。というか、なぜハンガリーで分かれた妹がリトアニアにいるんだ? という不思議さは、トラックで妹をフィンランドに密入国させる都合上ということで帳消しとなる。というか、本人もいきなりドイツの港町でスキンヘッヅに襲われて逃げ込んだ船が気づくとフィンランドへ向かっているという設定なので、そういう映画らしさはいつも通りだ。
・アキカウリスマキの映画のおもしろさはカットから次のカットへの意表の突き方のうまさなのだなと考える。AからBへ進むのは凡庸で退屈だ。しかしAから☆へ飛ぶとあまりの飛躍についていけなくなりそれはそれで退屈だ(思い付きで繋げたなという感じだ)。それが考えられる最善から最悪までのシナリオの中で、最悪ではないがそれほど善いわけでもない微妙なところに連続的に飛んでいくおもしろさなのだろう。スリリングですらある(そういえば初期の作品はすべてサイコサスペンスに近いものがあった)。3人で話し合っている。売上は落ちている。なぜか。ビールしか売れていないからだ(コックが最低なのでそこまでは当然の流れ)。そこから、音楽を入れるという提案が出る。弟が寿司屋で繁盛しているという話が出る。本屋のディスプレー(飛躍だ)。寿司の本(音楽に進むと思わせるので少し飛躍)。手が伸びてそれを掴む(まあそうなるか)。そこからの怒涛の展開はシナリオとしても現実としても映画としてでさえ、少し(この少しっぷりが絶妙な映画のうまさなのだろう)おかしい。
映画を堪能しまくりの至福の時間が過ぎて、先日松濤美術館へ行くときに見かけた行列のできているカレー屋を目指す。カレーの香りが道に漂い、次にタバコの香りとなる一角で、はてどこに目当ての店? と探すと閉まっていた。
妻と行列ができるくらいだからきっとソースが切れたのだろうと話す。
行ったことがないスリランカカレーの店をめざす。
ローリングストーンズがかかりまくり、入り口にはボウイのブロマイドがぺたぺた貼ってある店で、じいさん(ムルギーのタイプではなく、頭にバンダナのタイプ)が切り盛りしていた。
味はこれまで食べたタイプだとデリーとかのさらっとしたカレーに近い。結構おいしかったので、近くに来た時に他に候補がなければ再訪する可能性はある。
ウルフシルマーが出だしからなんかいつもと違う。
妙に区切って金管が始まり、異様にテンポが遅い。この曲の序曲(前奏曲かも)は、ローエングリン3幕やアラベッラ3幕の序曲と同じタイプの音楽で、オクタビアンが激しく元帥夫人とからみあう音楽のはずなのだが、まったくそういうふうには聴こえない。
逆にとにかく耽美的で、たとえばオックスのワルツが実に優雅で、あれこんなに良い曲だったか、と思ったり。
特に抜群だったのは、3幕、3重唱が終わり2重唱があり、親父がやってきて、若い者はこんなものですなぁと言って、次の2重唱が始まる、この隙間のバイオリンがとてつもなく美しくて、歌にばかり気を取られることが多かったのが、オーケストラもこんなにまで美しかったのかと思わず陶酔する。3重唱の始まる場面はいよいよ3重唱だという期待もあるし、とても緊張するところなのだが、ここも美しかった。シルマーの指揮が素晴らしい。
3幕になって元帥夫人が登場するところでは、この演出の最も美しい光景なのだが、それは元帥夫人の立ち居振る舞いとともに、黒いアシメトリクな服のせいでもあり、実に良い意味でフェミナンな服で、森英恵っぽい(本当に森英恵かもしれない、新国立劇場だし)。メルベートは最初声が小さいなぁとか思っていたが、ここでは立派だった。
2幕も良いのだが、ふと気づくとオクタビアンの声が高く、ゾフィーの声が低い(というかしっかりとした声)ので、相当に倒錯的であった。
これも実に良いプロダクションで、とにかく当たりが多い。
職場のマシンにはLTEモデルのSurface Proが良いと言ったものの、時期が微妙に合わずに、LTEモデルということでLet's noteになった。
軽いのは軽いのでその点には文句はないが、電源が昔ながらのプロプラエタリなジャックだったり(2017年の末になってUSB Type-cでもUSB3でもないってどうなんだろう)やたらと厚みがあったりするのが気にならないかといえば気になる。タッチパネルではないところも何で今どきという感じもする。
が、厚みが必ずしも悪いことではないということを知った。
どうも、普通にノートパソコンを使うと、カーソルがあっちこっちへ飛びまくって入力しにくいことこの上ないのだが、Let's noteではそれが全く起こらない。薄い奴と違って、タッチパネルが1段沈み込んでいるので、掌がまったくあたらないか、当たっても引きずらないからだ。
これはすごく良い。というか、こうでなくては。初めて、ノートパソコンで外付けマウス+タッチパネル無効化をせずにまともにキーボードが打てるマシンと出会った。これは実に良いものだ。
ただ、全角キーがEscの右隣というのは、おそろしく愚かな仕様だとは思う(CtrlとFnも腐った位置にあるが、BIOS設定で切り替えられるからOK)。
今、オーバーロードされたジェネリックメソッドDeleteがあるとする。
public void Delete<T>(string key);
public void Delete<T>(T entity);
で、下のを使うときは、ジェネリックパラメータを指定する必要はない。つまり、Delete(myEntity);
で想定通りの動作をする(未確認なので、正しくはするはずだ)。
と、いうのに慣れきってしまって、ついジェネリックパラメータを指定せずに、上のほうのをDelete("key-001");
のように呼び出して例外を食らって20分くらい(1ポモドーロ)悩んだ。
考えてみたら、上の場合、ジェネリックパラメータ抜きにDeleteメソッド側ではどうがんばってもDelete対象となるTを知ることはできない。当然であった。
・アマゾンのDynamoDBを操作してはまったのでメモ。
いろいろな情報が錯綜していてさっぱりわからなくてえらく困った(2日くらい)。
C#かJavaの場合は、実は何も考える必要はなかったのだった。
・メソッドにはANYを指定する(ここで個々のメソッドを指定すると100%はまる)
・Lambdaプロキシ統合を選択する
これだけで良い。
あとは、リクエストをStreamで受けて、自分でJSONデシリアライズするか、またはプロパティ狙い撃ちで正規表現で引っ掛ければ良い。
カスタム統合をしようとすると、$input.body.jsonを作ろうとして、必ずリクエストボディをJSONとしてパースしようとする(というか、これは愚かな仕様だと思う)。しかも出て来る例外メッセージがtrue、false、nullを期待する、というものになる。
この訳のわからない例外メッセージはなんだろうと考えて、しげしげとx-www-form-urlencodedなリクエストボディ(たとえば、a=1&b=2)を眺めて、ふと気づいた。{で始まらないということはスカラーだと判断し、しかも文字列を示すダブルクォーテーションでもなく英数字が出てきた時、JSONデシリアライザーとしては、英数字が出現しても良いのは、true、false、nullだけだ。そこで上記の例外メッセージとなるのだろう。
が、PythonやNodeでLambdaを組むときはどうするんだろう? 現在のところ、どうやっても、bodyの中をJSONとしてパースしようとするのを止めることができないのだが。(これは間違っていたらツッコミが入ることを期待しているエントリー)
先日観た薔薇の騎士がずいぶん良かったので、再度観に行った。当日券で2階最前列なので実にラッキーとは言える。
やはりウルフ・シルマーがすばらしい。3幕の3重唱が始まる直前の何かが産まれてくるときの静けさの中のざわめきのような瞬間とか。歌ももちろん良いのだ。マリー=テレーズが歌い始めると思わず涙が流れて鳥肌が立つ。リヒャルトシュトラウスの才能もすごいが、舞台芸術としての完成度の高さは圧倒的だ。
前回も感じたが、1幕後半のイタリア人テノールの歌だが、実に良い曲(今までは、それがポレンザーニだろうがパヴァロッティ(そういう無茶苦茶なCDがあるのだ)だろうが、あまりピンと来なかったのだが、この演出では、あるいは実際に舞台で観ると、かもしれないが、実に効果的)で感じ入る。
ふと同時代の作家の別の作品としてコルンゴルトの死の都が意外なほど近いものだと思う。テノールの歌は、曲調といい、歌詞の厭世的なほどの狂おしい恋心といい、ピエロの歌にそっくりだし、3幕3重唱前の不思議な間合いは、リュートの歌直前の不思議な静けさのような沸き立つような騒がしさの前触れのような感覚とそっくりだ。
薔薇の騎士は1910年。死の都は1920年だから、作劇上の影響を(薔薇の騎士という1つの作品ではなく、大作家たるシュトラウスの)受けていないことはないだろうが、それにしても近いものがある。
一番の違いは、1914年を挟んで、片や世界夫人が世界と別れを告げる作品で、片や世界夫人亡き後の市民の作品だという点だ。
というよりも、まさに元帥夫人は世界夫人そのものだ。
ヘッセが世界夫人に別れを告げたのは1944年で、ドイツ零年の直前だが、元帥夫人がオクタヴィアンとの享楽の生活に別れを告げて貴族の誇りを持ち威厳を保ったまま身を引くことを宣言したのは1914年の4年前、1908年のボスニア・ヘルツェゴビナ合併の後で、バルカン半島が十分にきな臭くなっているころだ。同じ頃に元帥はクロアチアで狩りをしている。イタリアの統一運動はまだくすぶっていて、実際、イタリア人がうろちょろしているし、オックス男爵はドイツ人のような名前だが、この演出ではチロル風(南チロルはオーストリーに取り残されたイタリアの一部)で、どうにも不安定な人たちばかりが登場してくる。
だからというわけでもないことはないと思うのだが、3重唱の圧倒的な美しさは滅びる直前の美しさに他ならず、その後に2回続く2重唱の美しさも、必ずしも未来ある2人の歌というよりは、戦争に突入していくことになる滅亡への予感があるからこその美しさとも言える(17歳のオクタヴィアンの4年後は21歳で、まさに戦場に突き進む必要がある年齢だ)。銀のバラの旋律の音程が異様なのは、まさにそれの予兆に感じられるからあまり好きではなく、最初の2重唱が純粋に美しかったものが、元帥夫人とファーニナル(この伯爵の将来岳父になる男はまさに戦争によって成り上がった武器商人だという設定が強烈だ)の登場によって認められて、そして息がとまるほど甘美なバイオリンのソロが入った後に、銀のバラのモティーフが散りばめられることで、手放しの幸福ではない未来が透けて見えるのだ。
最後は、ウィーン包囲の落とし子となったムハンマドによって幕が落ちる。未来はこちらの手に落ちるのかも? という意識がなかったとは言えない。
それにしても、第1次世界大戦によって、世界ががらくたの中に横たわることを予兆している作品として、薔薇の騎士の美しさは特筆すべきものがある。
新国立の演出が1910年代のウィーンにしているように(本来は女帝の時代だから18世紀のはずだが)、最近観たガランチャがオクタヴィアンを歌ったメトの薔薇の騎士もやはり舞台を1910年代あたりにおいていたが、作品が成立してから100年たった現在では、ホフマンスタールとシュトラウスが巧妙に設定した18世紀を舞台にするのはむしろ不自然と考えるほうが確かに自然だし、作品にふさわしいと思う。
もう1つ僕が心から愛する第1次世界大戦文学は、トラストDEで、最後の最後、主人公がガラクタと化したヨーロッパを心からの愛を込めて抱きしめるところは本当に美しい。
川崎ミューザに演奏会形式のドンジョヴァンニを観に行く。
が、風邪をひいてしまってぼーっとしてしまうのであまりまともに聴くことができなかった。しかもどこにも憩いの場がないために、離脱症状が出てしまって意図せずに意識を失うことが多くて閉口した。
聞いたことのない歌手がいっぱい出てきたが、皆、うまいもので感心した。というか、ホールの音響が無茶苦茶良い。
アップリンクで妻とサーミの血。
最初SAME BLODと出てくるのでお前の血もおれの血も同じじゃないかという意味じゃんと思ってよく見たらBLOODではなくBLODで、スウェーデン語なのか。
ばあさんが呼ばれているのに出てこないところから始まる。
髭のおっさんと、子供、ばあさんの3人で車に乗る。ヨイクをおっさんがかけると、ばあさん(は母親とわかる。親子3代だが妻はいないのな)は、それ嫌いといって不快そうだ。ばあさんの妹が死んだので葬式のために故郷へ戻る旅だ。
故郷の教会。ばあさんは徹底的に不快そうだ。終わった後、外国語(スウェーデン語ではないという意味)で話しかけられる。妹さんは毎年あんたの分のトナカイに印をつけていた。なぜ戻ってこなかったんだ? あんたが何言ってるのかわからんよ。
ばあさん、ついに、1人でホテルへ泊まるといって出て行ってしまう。
というところから始まる。
ばあさんは、ホテルのベランダから景色を眺めている。ばあさんは、サーミを見物しに来たスウェーデン人のばあさんグループと談笑する。職業は教師なの。過去へ戻る。
トナカイの耳に切れ目を入れて妹へ与える。妹は学校へ行くのはいやだとぐずる。ボートに乗って二人で旅に出る。延々と歩く。すごい光景だ。頭の弱そうな青年団が何かしている。脇を通ると、臭いとか醜いとか土人とか罵声を浴びせられる。民族衣装は青い。
すぐに暴力を振るう美人教師。サーミ語は厳禁。くだらない詩を暗唱させられる。自分はくずだが、神の恩寵で生かしてもらえているというようなやつ。ふつうにキリスト教徒のその国の主流民族が母言語でやっているのであれば、ふつうに宗教詩だろうが、まあ、悪しき魂胆の元に劣等感を刷り込む教育をしているのだな、と読める。
いやなことばかりがたくさん起きる。
教師の服を盗んで着ると、サーミ人といっても背が低くて少し太り気味(主人公は。妹は違う)なことを除けば、ふつうに白人だな。村の祭りに入り込んでナンパされたような自分からしたような。そこに妹がやって来る。教師にばれたのだった(多分、密告されたのではなかろうか)。
教師になりたいので上の学校へ推薦状を書いてくれと教師に頼む。
それはできません。
なぜ。私の成績は悪くないはずだ。
言っておくけど、サーミの学校の教科は、ふつうの人間の教科より少ないの。あなたたちは、科学的に、知能が低くて都会の文化的な生活が不可能ということが証明されているから、ふつうのスウェーデン人の学校へ進学できるわけがないでしょ。その程度のことはわかるでしょ。卒業したら、トナカイを飼ってスウェーデン人に見物してもらいなさい(というような意味。そういえば、近所の青年団からも動物園の珍獣とか呼ばれていたから、そういうことなのだな)。
まあ、ドイツよりもナチと親和性が高かった国だから、1930年代なら優生学も猖獗を極めていただろうし、そんなものだろうな。
主人公は学校を脱走して都会へ出る。途中、列車の中で服などが入った鞄を盗んで変装する。民族衣装を着ていなければ、ふつうに背の低い白人だし。
身を寄せた青年(村祭りで知り合った)の父親は北方で暮らしていたので、一目でサーミと見抜く。追い出される。
学校へ忍び込み、まんまと転入することに成功する。すげぇいい加減だな。
他の生徒が不思議そうに見る。
体育の時間。動きがおかしいが、すぐに慣れたようだ。が、教師から別枠で教えてもらえと指示される。
着替えに戻ると不良少女に捕まる。ひと悶着あるが、相手は偽名のクリスティーナとスウェーデン人とはちょっと違うという点から、ドイツ人だと誤解して仲良くなった(ように見える)。無知も良いものだな。
しかし、200クローネの学費を請求される。いくらくらいなんだろう?
金を借りられないかどうか青年の家を訪れる。折あしく誕生パーティーの最中で大学の友人たちがいっぱい来ている。サーミだ、ヨークを歌え、と珍獣扱いされる。悪意のかけらもなく。葛藤するのだが結局ヨークを歌ってしまう。珍獣扱いやむなしという無念さは映画になっている。
(青年は、その珍獣扱いがやばいとわかっているように映画を作っている。まあたくさん話し合っているし普通に人間だと了解しているから、それはそうなのだが)
結局、地元へ戻る。母親から怒られる。
家を追い出される。
朝になると、母親と妹が来る。母親の手には唯一の換金性がある財産――亡父のベルトがある。(脱走する前に妹のベルトを強奪していくシーンがあるが、あれは都会での滞在費の足しにするためだったのか)
現在に戻る。教会へ行き、棺の蓋を取り、妹の亡骸にキスをして、ごめんなさいと謝る。
外には大自然。
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映画としての難点は、いっぱいある。ラスト、妹に許しを乞うタイミングが、自分の学費は母と妹が出してくれたと思い出したからだとしか見えない繋ぎになっているところだ。そりゃないだろう。
あるいは、そこまで捨てきらないとだめだったということか。(それは進学はできない制度なのだからそうなのだろうが)
なんか、後から読んだ映画のチラシには感動がどうしたが差別と闘うのがどうしたとか書いてあるが、そういう作品とは考えにくい。
むしろ、自らデラシネとなった人間がデラシネとならざるを得ない状況を緻密に描いて行って、それでも忘れがたい事実(家族の愛情ってやつだ)に突き当たって最後に根を思い出す(理屈の上ではそれまで本気で封印していたと読める。のだが、回想のように見える過去のパートが生々しいために、忘れていたことを思い出して過去を許容できるようになったというようには見えないために、最後が金のことで妹に謝ったようになってしまったのだと思う)話で、だからといって過去と折り合いがつくわけでもなく、選択が誤っていたとも思えず、どうにもならない無力感でお仕舞いとなる。
後味が悪い映画で、しかもその後味の悪さがおもしろさに昇華できないので、映画としてはいまいちだ(これがたとえばファスビンダーであれば、とんでもなく悪すぎる後味と不愉快極まりない終わり方がおもしろすぎて実に爽快なのだが、そういうようには作れていない)。もっともおもしろがらせる映画ではなく、だから差別はいけませんという啓蒙映画なのだとすれば、これで良いのだろう。が、なんか違和感はありまくる。
いずれにしても、たかが出自でどうすべきを決めるというのがだめだということは現在では明らかなのだから、どうにもならない話ではあった。
2~3か月前になるけど、@yuumi3さんから『作りながら学ぶReact入門』をいただいた(サポートページ)。どうもありがとうございます。で先日読んだが、ちゃんと紹介しておくことにする。
ちょうど、Reactも見ておこうと考えていたので良いタイミングだった。
で、読み始めたら、単にReactの入門というだけではなく、現時点のJS(フロントエンドと言ったほうが正しいかな)開発についての目配せがされていて、僕にとっては、それ以上に良いタイミングの本だった。
読者はMacを使っていることを前提としている(一応Windowsとも書いてあるし動作確認はしているみたいだけど、Macのほうが良さそうだ)。
エディターを用意して、Node.jsを入れて、npmを用意したところで、3章に続く。
3章になると、モダンJS開発環境の解説となって、(2章で用意したNodeJSとnpmは当然として)webpack、Babel、ESLintと説明があり、4章でES6の説明となる。
説明は(いろいろな面からおれにはできない)平易な解説というやつだ。読みやすい。
4章の最後はセミコロン無しの勧めで、これは正しいと思う。というのは、1年くらい前から、おれはstandard JSを使うことにしたのだが、結局、セミコロンが必要なのは、妙な書き方をするから必要なのであって(JavaScriptのおもしろさだか続きだかでおもしろがった記憶がある)1行1文であれば別にいらないわけで、書かないと決めれば、そのほうが遥かにきれいに書けるからだ。
ここまでで2/5くらい。
5章がJSXで、ここから本格的にReactの世界(といってよいのだと思う)となるわけだが、ここまでのモダンJSの解説だけでも読む価値(というか、実際に試したわけだが)があった。で、6章7章でコンポーネントを使ってReactのReactなところを過ぎると8章がテスティング。E2Eという言葉はフロントエンド開発エンジニア用語なのかな?(この書き方はおれには初見だった) テストに使うのはMochaというやつで、これもおれには初見。E2EではSeleniumが出てくるので、これは変わっていないのだなと思うと、Seleniumは環境構築が厄介だとして、Nightmare(名前からはこっちのほうが厄介そうだが)というのが使われることになる。
で、最後にこの先へ進むには、としてRedux、Flowtype、React Nativeとかが紹介される。
試しながらでも短期間で読めるし(土日の2日で終わらせようと思えばできる)、上で書いたようにモダンなJS開発の一通りが出てくる(他にもあるかも知れないが、おれには十分だと思えた)ので、JSの入門、再入門には良い本だと思った。
今年のバイロイトのマイスタージンガーを観ていて、つくづく感じるのだが、今やフォークト以外のワルターやローエングリンは考えられない。
フォークト以外のワルターが冬の間は暖炉の前でとか、さあ初めよ! とか、朝の庭は薔薇の香りに包まれてとか歌い出しても、なんだこのおっさんは? としか感じられないおれがいる。完全にテノールのルールを変えてしまったという点で、これまで聞いたことがある古くはタウバーやローレンツあたりからからまさに英雄デルモナコ、自然体こそ美しいステファーノ、雄渾たるカレーラス、そうはいってもエルサレムやキング、美声だったなプラシドドミンゴときたすごいテノールとは全然違う。かといってレジェーロではなく、どう聞いてもワーグナー歌手だ。
昨年のバイロイトのマイスタージンガーは、フォークトがパルジファルへ回ってしまったせいでえらくがっかりした(FMで聴いて)。
今年のマイスタージンガーは、ポーグナーがリストで、エーファがコジマ、ザックスがワグナー、ワルターが多分若いワグナー、ベックメッサーは有名な(でもワグナーの友人)ユダヤ人の音楽家(名前忘れた)。徹底的に第三帝国のワグナーを戯画化して、ついでにワルターとザックスが作ったマイスターの歌を陳腐でくだらない人形劇で、それに対して誤読によって新たな創世にまで達したベックメッサーとしたカテリーナの演出に比べれば、それっぽいコスプレになっているが、ニュルンベルク裁判をからめることで真意が奈辺にあるのか判然としない不思議な演出となっている。200年をそれぞれスライドさせたと考えれば良いのかなぁ。でも、ベックメッサーに典型的なユダヤ人の仮面をかぶせてニュルンベルク裁判に出席させた後に、裁判所の中で平然と盗みをはたらき、手前勝手な論理でザックスを糾弾すると、あれ? もしかしてニュルンベルク裁判どころかホロコースト陰謀論に組しているのかな? とさえ読めてしまう(カテリーナとバランスさせたわけではなかろうに)。
が、とにかくフォークトが歌い始めればそれですべてはOKだ。妙なものだな。
一方に、カウフマンがいる。最初カルメンかチューリッヒあたりでやったトスカを観て、やたらと良い男(そういえば、子供がセビリアのDVDを観て、フローレスを無駄に良い男と言っていたのを思い出した)だが、声が汚くてなんじゃこりゃ? と思ったのが、最近の作品を聞いて(特にメトのパルジファルが良かったが、先日テレビでやっていたカヴァレリアルスチカーナも素晴らしかったし、大地の歌の1人で全部とかびっくり)えらく好きになってきた。考えてみれば、カウフマンも全然テノールではない(音域はテノールだが、声はテノールではない)という点で、ルールを変えたテノールだな。
と、21世紀になってもクラシックの世界はルール破壊ががんがん行われていて素晴らしい。(でもルール通りのポレンザーニやカレーヤも好きなわけだが)
アップリンクでジャームッシュのパターソン。
ここはおれの備忘録なのですべての筋を書く。
月曜日。ベッドの中の二人。1人はちょっとエキゾチックでたぶんインド系の人。起きると、相手(ちょっと間延びした顔の男だが、角度によってはときどき男前になる)に、双子を産む夢を見たと語る。あなたも双子好き? ああ、好きだよ。
男、制服のようなものを着て家を出る。バスの運転席に座り、メモ帳に詩のようなものを書いている。同僚か上司のようなインド系の人間と話す。バスが出る。双子が乗っている。パターソンは男の名前であり、この町の名前らしい。
腕時計がアップになりくるくる回る。
男(というかパターソン)、家の前で郵便受けを開ける。郵便受けは朝はまっすぐだったのに、妙に倒れかけている。パターソン、郵便受けをまっすぐに直す。
晩御飯の話をする。インド系の女性のほうが、カップケーキが人気だったことを話す。
奥さん、カーテンを作ったらしい。白地に黒いくるくるがたくさん。
パターソン、犬を連れて散歩へ出る。バーへ入る。ドクと呼ばれるバーテンダー。ビールを注文して飲む。
火曜日。ベッドの中の二人。
パターソン、制服のようなもの着てを家を出る。バスの運転席に座り、メモ帳に詩のようなものを書いている。同僚か上司のようなインド系の人間と話す。バスが出る。双子が乗っている。
腕時計がアップになりくるくる回る。
パターソン、家の前で郵便受けを開ける。郵便受けは朝はまっすぐだったのに、妙に倒れかけている。パターソン、郵便受けをまっすぐに直す。
奥さん、服を作ったのかな。白地に黒いのがたくさん。
パターソン、犬を連れて散歩へ出る。バーへ入る。ドクと呼ばれるバーテンダー。ビールを注文して飲む。
(ちょっと気を失いかけてくる)
水曜日。ベッドの中の二人。
パターソン、制服のようなものを着て家を出る。バスの運転席に座り、メモ帳に詩のようなものを書いている。同僚か上司のようなインド系の人間と話す。バスが出る。双子が乗っている。
(ほぼ気を失いかけてくる。いつがいつかまったくわからなくなってくる)
腕時計がアップになりくるくる回る。
パターソン、家の前で郵便受けを開ける。郵便受けは朝はまっすぐだったのに、妙に倒れかけている。パターソン、郵便受けをまっすぐに直す。
奥さん、自分は音楽の才能があるからギターを習いたいという。教習用DVD込みで200ドル。買ってもいい? よくなさそうではあるが、買っても良いことになる。
パターソン、犬を連れて散歩へ出る。バーへ入る。ドクと呼ばれるバーテンダー。ビールを注文して飲む。
木曜日。ベッドの中の二人。奥さんは全裸。
パターソン、制服のようなものを着て家を出る。バスの運転席に座り、メモ帳に詩のようなものを書いている。同僚か上司のようなインド系の人間と話す。バスが出る。双子が乗っている。
腕時計がアップになりくるくる回る。
パターソン、家の前で郵便受けを開ける。郵便受けは朝はまっすぐだったのに、妙に倒れかけている。パターソン、郵便受けをまっすぐに直す。
パターソン、犬を連れて散歩へ出る。バーへ入る。ドクと呼ばれるバーテンダー。ビールを注文して飲む。
金曜日。ベッドの中の二人。
パターソン、制服のようなものを着て家を出る。バスの運転席に座り、メモ帳に詩のようなものを書いている。同僚か上司のようなインド系の人間と話す。バスが出る。双子が乗っている。
腕時計がアップになりくるくる回る。
パターソン、家の前で郵便受けを開ける。郵便受けは朝はまっすぐだったのに、妙に倒れかけている。パターソン、郵便受けをまっすぐに直す。
奥さん、ギターを取り出して、線路は続くよを歌う。うまいじゃないか。DVD見て練習したから。まだここから先は練習していないの。
パターソン、犬を連れて散歩へ出る。バーへ入る。ドクと呼ばれるバーテンダー。ビールを注文して飲む。
・以上の繰り返しの中に以下のエピソード
・バーで、別れ話と納得しない男のエピソード。最後、男は銃をこめかみに当てる。パターソンが素早く飛び掛かり銃を奪う。ドクが銃を取り、男に向けて撃つ。おもちゃだよ。
・オープンカーに乗ったチンピラ5人組。散歩中のパターソンに向かって話しかける。その犬はブルドッグか? パターソン、びびる。高価な犬だから、盗まれるようだぜ。パターソン、びびる。気をつけなよ。パターソン、びびる。車、走り去る。
・唐突にパターソンの家。扉がいきなり開いて犬が飛び出してくる。郵便受けの柱に抱き着き、倒す。家の中に走り込む。
・ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ。カーロス・ウィリアムズ・カーロス。
’・詩を書く子供との対話。韻をうまく踏めないの。僕も好きではない。読むとなんか韻を踏んでいて、それをパターソンが指摘する。
・女性から聞いた詩だ。奥さん目を剥く。いや、子供なんだ。
・奥さん、パターソンに向かって、あなたは素晴らしい詩人なんだから、ノートに書いておくだけではだめ。バックアップを取りなさい。コピーすること。わかった、休みになったらコピーする。
土曜日。ベッドの中の二人。
今日は休み。奥さんはカップケーキをたくさん作ってバザーへ売りに行く。
パターソン、箱に詰めるのを手伝う。車に詰め込むのを手伝う。
パターソン、地下室で詩を書いている。奥さんを賛美する詩。
これまでなかったことなのだが、うまく書けたのか、それとも他の理由からか、ノートを持って上へあがる。
奥さん、カップケーキが売れに売れて260ドルくらいになったと喜んでいる。成功を祝って、映画を観に行きましょう。
ドクターモローの島。
戻ってくると、床の上にゴミクズが散乱している。パターソンが置き忘れた詩のノートを犬が粉々に粉砕したのだ。奥さん、犬を叱る。ガレージへ閉じ込めましょう。
日曜日(だと思う)。
パターソンと犬。犬に向かって、パターソン、「お前なんか嫌いだ」とぽつりと言う。
奥さん戻って来て、ガレージから犬を連れだしているのに驚く。
パターソンが落ち込んでいるので、1人にしておこうとする。いや、僕が散歩してくる。パターソン、外に出る。
パターソン、公園のベンチに腰かけていると、永瀬正敏登場。スーツにネクタイ。ふけたな!
ウィリアムズとでっかくカタカナで書いた詩集を読み始める。パターソン、気になってちらちらとみる。
あなたはこの町の住人ですか? 私はウィリアムズが好きです。ウィリアムズはこの町の出身ですね。あなたもこの町の人ですか?
そうです。ギンズバーグもこの町の出身です。ウィリアムズは町医者でもあったのです。
あなたも詩人ですか?
いえ、私はバスの運転手です。
ウィリアムズも町医者でした。実は私も詩を書きます。
どんな詩ですか?
日本語の詩です。翻訳はしません。詩の翻訳は、コートを着てシャワーを浴びることです。
二人、笑う。
永瀬去る。
パターソン、ベンチに腰掛けたまま。
永瀬戻る。
あなたにあげましょう。まだ何も書いていないノート(表紙はカラフルな雲だったかな)をパターソンへ渡す。
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これはもしかしたら、これまで観たジャームッシュの中で最高の作品かも知れない。途中何度も意識を失ったが。車に乗った犬について警告する連中のシーンは好きだ。最後の唐突な天使の登場も素晴らしい。まさか天使が老け顔眼鏡の日本のスーツ姿のおっさんとは考えもしなかった(出てくるのはタイトルクレジットでわかったが、そこまで出てきていないことは気にもしていなかった)。
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