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昨年買っておいた(あおい書店の最後のほうかな?)劉慈欣の円を読んだ。
どうにもさっぱりしない読後感がへばりつくのは、技術への信頼と人間への不信という二つの相反するベクトルのせいだろう(が、この感覚は余情とか余韻とかと呼ぶこともできるので悪いものでもない)。
鯨歌: デビュー作らしい。バビル二世の使徒よりも使徒っぽいポセイドンという鯨を操縦する科学者と麻薬組織の親分の海洋旅行の話だが、殺伐としている。が、このポセイドンが姿を現し食事をし海に潜る描写が実にシズル感に溢れていてわくわくする。
地火: 炭鉱をガス化しようとして破滅する科学者の話だが人類史のエピソードとして賑やかに締められていて読後感は悪くない。これまた地火(地中で炭鉱がくすぶり続けるものをそう呼ぶらしい)の描写が圧倒的で、さらには最後の未来における炭鉱の説明の迫力が凄まじい。これは傑作だった。主人公の名前が劉慈欣の名前の下1字の劉欣なのは何か意図があるのだろうか?
郷村教師: なんとなくチェンカイコーの子供たちの王様みたいな題だなと思ったら、同じように(ただし理由は異なる)寒村の教師の物語だった。出てくる村人が日本の田舎の村人(のイメージというかステレオタイプというか)そっくりで読んでいて不愉快千万だが、そのネガティブさが逆に教師のささやかなのだが志の高さに結び付いて読ませて、えーそうなるの!(瞬間的にわかるとはいえ) という終わり方をする。おもしろい。
繊維: 選択により世界が二分していく世界の1つに紛れ込んだアメリカ軍のパイロットが同じく紛れ込んだ女性に惚れられるが無視して帰還することでさらに複数の世界が生じて満足して死ぬ。悪くない。
メッセンジャー: 良い話。誰だかもちろんすぐわかるのだが、それはそれとしても良い話。これも地火と同じく未来は良い未来。
カオスの蝶: ユーゴスラヴィアに対する国連軍の介入を阻止するために地球全体を駆けずり回る科学者の敗北の物語。これまた郷村教師と同じく最後でがらっと変えるのだがあまり成功しているようには見えない。悲劇がでかすぎる。
詩雲: 宇宙戦争敗北後の人類が、勝利者(芸術わからん)のさらに上位者(芸術わかる)と芸術について語り合う話。好き。カオスの蝶と同じく、不幸を予見するときに感じる恐れは実際に不幸になることで安らぎに転化するというモチーフが出てくる。なかなかスリリングな国家で暮らしていることに起因しているのかなぁ。
栄光と夢: オリンピックが戦争の代替にならなかった世界。国が3個に分かれて国連軍が攻撃に来るというと ユーゴスラヴィアを想定している(体操に強いという東欧のイメージもあることだし)のかも知れない(訳者後書きに直後の湾岸戦争が出てくるがまったくイラクは関係なさそうだ)。これも最後に別のエピソードが来るが、繋がりが良い。
円円のシャボン玉: 悲劇的な始まりではあるが、美しいし、楽しいし、好き。ポジティブ劉慈欣だ。
2018年4月1日: 軽い作品だが、主人公が最後に妙な独白に入る。悪くない。
月の光: 気候変動との戦いを3回行う作品。3回目はほとんどギャグとしか思えず、当然書いている人間もわかっていてセリフの先取りをしたりして楽しい。好き。
人生: 母親の記憶を持つ胎児と母親と医者の対話。それほどおもしろくはないが、悪くもない。
円: 燕王はしょせん燕王に過ぎず、始皇帝の遠見も明察も持ち合わせていないという話。
ほとんどの作品が、主題の後にコーダが付くのがおもしろい。ということは三体も、三体戦争までは主題でその後は長いコーダなのだな。
おもしろかったので良い正月だった。
105歳でも映画を撮ったオリヴィエラには及ばないまでも着々と記録を近づけつつあるクリントイーストウッド91歳でのクライマッチョを観に豊洲。
グラントリノのあたりから自身が主役を演じるときは明らかに次世代へのバトンタッチというテーマが続いているが(運び屋もそうだったからだけど)ついに年齢は孫の世代になってしまったな。
観終わってまずとにかく良い映画だったという感想が一番だった。気分が実に良い。
最初に白黒写真が動き出して過去の幻影が出てくるので、実は荒野のストレンジャーやペイルライダーみたいな亡霊なのかと思ったら全然そんなことはなく、かといって過去の落とし前をつけるために再び挑戦という許されざる者でもなく、普通に恩義と約束の問題として、テキサスからメキシコに子供を誘拐に行く元カウボーイの爺さんだった。
時代を1970年代としたのは、そういったカウボーイの最後の世代がそのあたりだったのかな?(あと、メキシコと合衆国の国境が緩いというのもありそうだ)
その子供は(セリフからはもっとひどい虐待もあったようにも読めるが)母親の愛人からひどい痣が残るほどの暴力を受けて家出して闘鶏(警察の手入れが入るところをみると非合法っぽい)で暮らしている。というわけで相棒がマッチョという名前の雄鶏なのだった。
で、イーストウッドと子供(6歳の写真で数年たっているとかだから13歳くらいなのかな?)のロードムービーが始まる。ロードムービーだったのか。
自動車を盗まれたため、二人と鶏が道路を歩くシーンが印象的。鶏ってなかなかの役者なのだな。
盗んだ自動車でたどり着いた町のカフェの女主人と共感が芽生える。自動車が故障したせいで礼拝堂で寝泊まりが始まる。
野生の馬を調教して金を稼ぎながら子供に乗馬を教える。(別に過去の事故のトラウマが襲うペイルライダーとはならない)
(見るからにスタントマンだったり、乗っている馬のあぶみを黒子が曳いていたりするが映画としては全然気にもならない)
馬を馴らしつける姿を見て子供がマッチョだ、と呟く。これも良いシーンだ。
イーストウッドは馬の調教の腕を買われて馬主のところに居つく。動物のお医者さん(ではないわけだが)という評判を聞きつけて犬に噛まれた羊やら、豚やらを連れて近所の人がやってくる。おれはドリトル先生か? と軽口を叩きながら気楽な生活を楽しむ。不穏な空気を保安官補がたてるが、奥さんの飼い犬の面倒を見られるか値踏みしているだけだったようだ。
(なんか前半の緊迫感からうってかわったリラックスした映画になってまるで捜索者みたいだなぁと思いながら観ている)
女主人の娘夫婦は病気で亡くなり孫が4人いる。1人は特に年齢が高そうで子供と良い仲になりつつある。一番小さい子供は耳が聞こえないか喋れないかだが、イーストウッドになつく。なぜかイーストウッドは手話ができる。
が、子供の母親の追手が迫る。母親が手配したらしき連邦警察が保安官補にグリンゴを見たら教えろと話しているのを観て町を去ることにする。(でも多分、保安官補は密告はしないだろうなぁと観ていて思った。奥さんの犬の恩義もあるし)
どれだけ待ったか見当もつかないが国境につくと(その前に子供が怒るシーンがあるが、イーストウッドが山をさして「あれを越えると自由がある」と言うのも良いシーン)父親はちゃんと待っている。金のためとは言いながらもおそらく本気で子供を取り戻したかったのだろうとは思う。子供をハグする。
イーストウッドは町に戻る。
その他印象的なシーン:
テキサスからニューメキシコまですごくテンポが良い(前提条件の提示部なのだが少ないセリフと少ない尺でまったく無駄なく全部説明している)。ヒッピー娘と国境警備員のエピソードはどうしても入れたかったのだろうがなぜだろう?(時代を示せるとか何か理由があるはずだが)
子供が警察に賄賂を渡すところがスマート
追跡者の再登場が恐怖映画
追跡者の最初の登場シーンで、村人が子供を連れ去るグリンゴよりも、子供を虐待する親父のほうが悪人と瞬時に了解して袋叩きにし始めるシーン。これ日本だとこうはならないだろうな、と思った。
その直前の殴るシーン。
礼拝堂での子供の信心について。
食事をするときの祈祷と、一応目を瞑るイーストウッド。
隣に腰かけたイーストウッドに手を伸ばす幼児。
FBでイタリア文化センター(かな?)がイタリアで人気の絵本だか児童文学だかが映画になって日本にも来るよとアナウンスしていたので楽しみにしていたら武蔵野館にかかったので観に行った。
意外なことにイタリアの映画ではなく仏伊合作で言語もフランス語だった。
物語は親子(実子かどうかはわからんけど)の旅芸人が雨宿りに入った洞窟で大きなクマに聞かせるクマ王国がシチリアを征服するまでの物語と、熊が親子に語る征服したクマ王国が山に帰るまでの物語の2部構成となっている。そのときは、翌日に2部構成のおとぎ話を再度見ることになるとは考えもしなかった。
なんといっても見どころはシチリアを支配する伯爵の軍隊とクマ軍団の対峙シーン(まるで角川春樹の天と地をのようだ)、クマ軍団が雪玉で伯爵の軍隊を潰すところ、トロールが変身したネコとクマ軍団の戦闘、問答無用で話し合い(というよりもネコを退治した報告)に来たクマの王様を射撃したことで始まるクマ軍団と兵隊の戦闘と同時に行われているサーカスの舞台の映像ということなのだと思う。特に後者はダンボのピンクの象のような幻想的な(しかし妙に対称性がある原色の使い方のため万華鏡のようでもある(が実際にはそうではない))シーンかも知れない。
人間には恐怖の幽霊がクマには旧交を温めるためのとても良いことであったりするのは話としてうまくできている。
とにかく立体感がある描き方なので2部で王様の腹心が作らせる巨大な銅像や灯台が美しい。
それはそれとして王様になって息子の教育のためにからくり仕掛けで鮭を放流して摑み取りするところとか、魔法使いの窮余の策で深海から呼び寄せた海蛇の報を聞くや「クマの出番だ」と大喜びで戦闘に行くクマ王様が好きだ。
シチリアを征服したクマ王国の物語 (福音館文庫 物語)(ディーノ・ブッツァーティ)
(原作もきっとおもしろいのだろう)
子供がおもしろいしソーンハイムだから観ようというのでアマゾンプライムでイントゥ・ザ・ウッズを観る。
これもおもしろかった。
特に二人の王子が渓流で歌うアゴニーは最高だった。撮り方も実にうまくて二人の王子がどちらがより苦難に満ちた恋なのかを相手を押しのけながら交互に映し、しかしここぞとばかりにアゴニー!と歌うところでアップにしたり全身像にしたりするのが抜群で、特に2回目のアゴニー!では大爆笑だった。
お話としては赤ずきん(hungry little girlという言われようが語呂の良さもあってうける)とジャックと豆の木とシンデレラにパン屋の夫婦と隣の魔女とラプンツェルを混ぜ合わせたどうでも良いものなのだが、悪くない。なぜ黄色い髪の毛を掴んで塔によじ登るのでOKなのかと思ったらちゃんとそれではだめだというように回収したりして意外なほど物語も辻褄が合っているのも悪くない。
昨日観たクマ王国と同じく、物語は2部構成になっていて(元のミュージカルは2幕構成らしい)童話を回収するまでが1部、童話を離れて脇役たちをばんばん殺しまくる(大地に沈んだり崖から落ちたりとそこはディズニー映画っぽい)2部となっている。とはいえちゃんとハッピーエンディングなのだった。
ただ、アゴニーは抜群なのだが映画としては森のシーンを森のシーンとして暗く作り過ぎていてどうもいまいちに感じた。同じようにプロモーションビデオシーンが抜群なアナと雪の女王2と比べるとそこがいまいちかなぁと思った(物語はふざけている分だけ遥かにイントゥ・ザ・ウッズのほうがおもしろい)。
何気なくテレビがついているので見たら奇妙な骸骨が小銃を口に咥えているエッチングが映っていて日曜美術館だった。浜田知明という作家で茅ヶ崎市民美術館で展示中という。
というわけで興味を惹かれて妻と茅ケ崎市民美術館に行った。
特に平原に腹に槍を突き立てられた女性が死んでいる(というか、犯されて殺されたのは明白だが)作品が構図を含めて異様に印象的だった。概して50年代(30代かな)に凄まじい作品を残して(商流を確定させて)後は自由に作品を広げて行ったのだろう。という点では東郷青児とかピカソに近いのかも知れない(こちらは10代、20代だがその時期が戦時下なうえに徴兵されているのだからどうにもしょうがないのだろう)。
テレビでもやっていたが最晩年の杖をついた体が前から見てくの字になっている(が杖を含めた構図的なバランスのようだ)老人の像も悪くないというか好きかも。
ロッキード事件を風刺した作品と日曜美術館で説明されていた作品(同じことが作品の解説板にも書いてある)を見ると、空に飛行機が飛んでいることと制作年、賄賂の授受の3題話でそれを理解しなければならないわけで、これは難しい。基本、その時にその作品を観なければ題材は理解できない。
逆に考えれば、制作年と題材からこちらが主題を決めても良いのだ。
というわけで屋根の上の2人の猫の作品(エッチングと彫刻と2つある)が初出が1985年なので、おれの頭の中では1886年生まれの萩原朔太郎の生誕99年祝いとして作ったのだろうと決まってしまった。
まつくろけの猫が二疋、
なやましいよるの家根のうへで、
ぴんとたてた尻尾のさきから、
糸のやうなみかづきがかすんでゐる。
『おわあ、こんばんは』
『おわあ、こんばんは』
『おぎやあ、おぎやあ、おぎやあ』
『おわああ、ここの家の主人は病気です』
萩原朔太郎の詩作も浜田知明の作品もどちらも劣らず素晴らしい。欲しい。
というわけで、日曜美術館をたまたま見なければ、詩人の萩原朔太郎のように素晴らしい美術家を知ることもできなかった(寡聞にして今日の今日まで浜田知明という名前も作品も知らなかった)わけだし、茅ヶ崎がたかだか1時間30分もあれば到達可能でなければ作品群を見ることもできなかったわけで、実に世の中の巡りあわせはおもしろい。
・茅ヶ崎市民美術館は入れ物も庭園(無暗に広いが、どうも誰かの邸宅跡を利用したらしく外壁のアルコーブや噴水などが残されている)も抜群だった。
妻がニコラスレイの孤独な場所を途中まで観てやめたとか言っていたので、スチュワートグレンジャーだかロバートライアンだかが家の裏の岩山を上る映画だろう? と言ったらハンフリーボガードが主演だという。で、自分が危険な場所で孤独な場所でをごっちゃにしていたことに気づいた。要はおれが観たことあるのは危険な場所でで孤独な場所では観たことない。
というわけで、観た。すごい傑作じゃないか。今までおそらく何度か映画館で観る機会もあったように思うが、危険な場所でとごっちゃにしていたのでスルーしていたようだ。
物語は、ハンフリーボガード演じる主人公ディクソンがやたらと粗暴(始まって数秒で侮辱した男を殴ろうとして逃げられた腹いせに乱暴な運転をすることで示される)な男だと示して始まる。映画人が集まる店で子供にサインをねだられる。おれを知っているのか? いや知らない。もちろん知らなくて当然で、男は脚本家なのだった。
そのあとも店で、友人の役者を侮辱した映画会社の社長(なんと、役者のグラスを灰皿に使う)を殴り飛ばしたりやたらと粗暴だ。ただし、軽口を叩きまくるので、ハードボイルドの典型的な主人公と言えなくもない。
その店の受付の女性に脚本用の原作の小説を読んでくれと頼んで家に招くところからドラマが始まる(原作を自分で読まずに誰かに読ませる習性らしきことはクラブで再開した(かってつきあっていたらしい)女優からも言われる)。
家に二人で入ろうとすると、同じマンション(ホテルかもしれないが、いかにもアメリカらしいコンドミニアム)の女性とすれ違い、お互いに目線が飛び交う。
受け付けの女性から原作の実にくだらない要約を教わった後にタクシーでも拾って帰れと金を渡して送り出す。そのままぐっすり眠る(クラブで朝は10時ではなく11時に迎えに来いと言っているくらいなので疲れていたのだろう)。
翌日、知り合いの警官(なんで制服じゃないんだ? 刑事に昇進したのです。おおおめでとうとかのやり取り)のニコライが朝5時に訪問してくる。受付の女性が殺されたので容疑者とされたのだ。
結局、同じマンションの女性の証言でディクソンは解放され、二人はそのまま付き合い始める。彼女の献身のおかげ(というよりも、恋心のおかげだろう)で、脚本の執筆はのりにのり、エージェント(20年来の付き合い)は大喜びする。
しかし、あまりに男の粗暴なふるまいと、かって知り合いがディクソンと付き合っていて愚痴を聞かされていたらしい彼女の友人の話などから、徐々に彼女の心に実は殺人鬼なのではないかと疑惑が芽生えてくる。しかも、彼女の証言から解放したものの、警部はいくらニコライ刑事が犯人とは考えられないと言ってもディクソンの過去の粗暴っぷりから真犯人扱いして彼女を誘導しまくる。
最後、ディクソンの容疑は晴れるのだが、覆水が盆に返ることはありえない。彼女は脚本に入れるつもりだとディクソンから聞かされた別離の台詞を口にして涙を流す。
この作品、どうもまったく明確には書かれていないが、いかにもニコラスレイ(赤狩りのターゲットでもあった)の作品らしい反戦要素が見え隠れする。
ハンフリーボガード演じる主人公ディクソンは、刑事のニコライから表情に出さないが良き上官だったと評されている。殺人の推理を披露するところでは、どうも人殺しを教わりまくったというようなことを言う。
職業軍人でもないのに上官として軍隊にいたということは、それなりの期間軍隊にいたわけだ。映画は1950年公開ということは、朝鮮戦争ではなくイタリアかフランス=ドイツ、あるいは太平洋で日本との戦争だろう。硫黄島で日本兵を火炎放射器で焼き殺しまくったのかも知れない。
1950年ということはまだPTSDなんていう言葉はないわけだが、脚本家という表現者である以上、ディクソンは教養も知性も感受性も人並み以上の持ち主だ。そういう人間が何年も殺人をしていれば、日常に復帰するのが難しい可能性は高い。そのあたりは、戦後はろくな仕事をしていないというような他の映画人の言葉からも見え隠れする。
おそらく20年来の友人でもあるエージェントが、ひどい扱いを受けたり(暴力を止めようとして眼鏡を割られて顔に怪我もする)しても付き合いはやめないと断言するのは、いわゆる「戦争で人が変わった」のを知っているからだろう。同様に鼻の骨を折られたということになっているフランシスという女優が屈託なくディクソンと会話しているシーンもある。
実際に、ディクソンが暴力をふるった後のふるまい(無表情ではあっても反省しまくっているのは間違いなく、暴走族呼ばわりされて自動車の200ドルの塗装を台無しにされた男には300ドルの見舞金と花束を匿名で送るシーンがある)から、異常な暴力衝動に戦争のフラッシュバックを読み取ることは容易だ。
なんとなくアマゾン評を読んだら、シリアルキラーの主人公をニコラスレイが脚本を現場で直しまくって変えたらしい。
戦争の犠牲者の苦悩と孤独を描く(ハンフリーボガードの演技が良いのだ。普段の軽口を叩きまくる表情と殺人再現の嬉しそうな表情の差)ことで見事な反戦映画に仕立ててしまったわけだな。
大傑作だった。
ジェズイットを見習え |