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先頭が0で始まっているのに8が入るのは妙な感じだな。それはそれとして、C++のやつを読んでてはたと気づいた。これにCommon Lispが出てこないのがいろいろな軋轢の種なんじゃなかろうか。というか、きっと最終号の他言語探訪に予約してあるんだろう。
いつのまにか更新されてる。値段も1500円ってついてるし本当に黒田氏の名前が入ってるし。
Night With Lou Reed [DVD](Reed,Lou)
こっちのa night withも好きだけど。walk on the wild siteのベースの唸りっぷりとか。
算法騎士団をさがすためにグーグルしたらラムダ算法騎士団っていう言葉がでてきたんでリンクしたわけだが、そもそもレインってなんなんだ?
メディアミックスとか、雑誌+アニメ+ゲームとか、
パイオニアLDCとか。プレミア付いてるけど売れているみたいだ。
serial experiments lain TV-BOX [DVD](清水香里)
TVボックスまであるのか。
相当、画期的なことをやったみたいに資料からは読み取れるけど、10年たてばうたかたの夢の跡みたいなようなそうでもないような。
思うに、公開の場で卑屈な発言するやつって、すさまじく倣岸なやつがバランスを取るために息抜きしてるだけではないかと思わないでもない。
#おれは倣岸な人間はわりと好きだが、傲慢な人間は嫌いだ。この違いはすごく重要で、謙虚な人間>倣岸な野郎>ニュートラル人>>>>>>(越えられないとんでもなく高い壁の男)>>>>>>>(卑屈|傲慢)なくず、って思う。
高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)(フィリップ・K・ディック)
#ニュートラルで思い出したけど、ニュートラってどんなんだっけ? ハマトラがソックスにボンボンってのは覚えてるけど。なんのこったい?
#傲岸不遜と入れると正しいゴウになり、単に倣岸と入れると間違ったゴウになるとあったけど、確かにその通りだ。模倣ののホウになっている。人偏に土、方、攵が正しい。(本文はおもしろいので修正しない)
greenteaさんのエントリーに影響されたわけでもなくもない(ようるすにようするにの下記間違いだけど、どうして書き間違いが書きに……IME2007じゃないのにおかしいな? という自動筆記はどうでも良くて、結局影響されてるわけらしいな)が、調べ物というかとある仕様をずーっと読んでたら手でも動かさなきゃ退屈きわまりなくなってきたので、調べながら調べたことをWikiに書いたりしてみたり。
おれ、この言葉は知らなかった。ポインタポインタとは呼ぶけど。したがって面接では知らんとしか言えない。
#pointer of a pointer(間違い。木村さんの指摘が正しいです。根拠はStroustrupのThe C++ Programming Language second edition(これだけ手元ですぐ出て来た) P.53のコメント「pointer to pointer to char」)pointer to pointerの訳語は多重ポインタなのか? 多重って複数回の重ね合わせを意味する言葉を当てては意味がおかしくないか? 多段ポインタなら理解できるが。
#というか、Stroustrupでもそれに相当するような言葉を使ってないわけで、どっから多重ポインタなんて言葉が出てきたんだろう? K&Rなのか? そんなジャーゴン(と決め付けるに至ったけど)を得意気に振り回す面接官って相当恥ずかしいやつだな。
道教では、人生の究極の目標ってなんだろうか?
仏教では極楽往生で蓮の葉っぱの上で瞑想する暮らしだ。
キリスト教だと天国だけど、これってどういう暮らしをするんだろう?
道教だと、神仙になって山の奥で不老不死になって仙丹を練って暮らすってのがそれっぽいな。多分。
ヒンズー教だとただただ下に落ちていく一方の輪廻転生を繰り返すんだろうか? (上に上ることは可能なんだろうか? 仏教の極楽浄土に相当する「上がり」ってのはあるんだろうか? というか、仏教で極楽浄土が究極の目標ってことはそこでは不死なのでもう輪廻しないってことなんだろうか?)
なんかビジョンとして、どれもそれほどおもしろくなさそうな目標だな。
これが強制力を大きく発揮したころは、それほど現世がいやな世界だったってことなんだろうか?
そうかも知れない。
だって江戸時代の町人文化とかすごく楽しそうだ。そのころの町人はお稲荷には行くけど一生懸命なんまんだぶとか唱えたとは思えない。でも明治になってひどい政治が続くようになったとたんに国家神道っていう宗教がブームになったわけだし。
では国家はともかく神道の目的地点はなんだろうか? っていうと、とにもかくにも一柱の神になることだな。別に輪廻転生するわけでもなく、死ねば一柱の神になる。ああ、それで靖国の問題がやっかいなことになるのだろう。とりあえずはあそこに合祀されてるってことは目標は達したということになるわけだから。その宗教を信じていたのであれば目的は達成されてるわけだ。
これが寺の墓だとそうとは言えない。輪廻して虫になっているかも知れないし(もちろん蓮の葉っぱの上で座禅を組んでるかも知れない)、言ってみればしょせん中途である。そこで寺の墓はよく引越したりするわけだろう。別に墓がどうなろうと逝ってしまった人にとってはどうでも良いことだ。結局寺の墓ってのは残された人用のモニュメントだということで、これは神社のありようとはずいぶん異なる。
ふむ。そこで道教に戻ると、どうしてああも中国の歴史をひもとくと、人々は青史に名を刻むために平然と死んでいくかが多少は見える。予譲とか専諸とか要離とかケイカ(漢字忘れた)(追記:荊軻。そう言えば僕も東周英雄伝は読んだけど、たしか穆公の回が好きだったな。でも良く覚えてない。あと介子スイっていう腿を食わせた人。ショ麑ってどんな人だったっけ?)とか、刺客とされた人でさえ記録が残り、名が残り、というかそのために命を捨てる。神仙になるには仙骨が必要だ、ということは誰でも最終目標地点に到達はできない。かといって、極楽もなければ輪廻転生もない。であれば、今を生きた、そして人々を刮目させたという事実、それだけが重要なのだろう。
もうとにかく最後がマンで終わる言葉であらわされる様子ってのはいやだね。で、必ず似て非なる言葉が対になって出てくる(前者はマンでは終わらないことに注意)。(なんだかんだと弁証法)
で、違います。
このやたらと卑屈な書き方と、それに対する反応を眺めてつい反応してしまったのでした。
で、同時に複数の想念があったわけで、卑屈と謙遜って、自分を下にするってことじゃ同じではあるけれど、誰の目にも違いはわかる。ってのは、卑屈がネガティブな言葉で、それに対して謙遜はポジティブな言葉だとコンセンサスがあるからだよな、だからポジティブな例を目にすることでネガティブなほうとの差に気づけるんだろうなということと、それとは別に、同じようでも傲岸と傲慢ってどっちも他人を下にするってことじゃ同じではあるうえに、卑屈と謙遜と異なってどうもどちらもネガティブな意味になっているようで不思議だな、ということ。傲慢にふるまうのは恥ずかしいことだからそういうことをしないように自らを律するのは結構なことだけど、傲岸なことは少しも悪くはないはずなのに、なぜそうではないのだろうか、という疑問とか。いや、傲岸な態度も悪いことだというコンセンサスがあるのだろうが、それはどうしてなんだろうか? という疑問と言ったほうが良い。
そこで、他者との関係によって決まるのか、自己評価によって決まるのか、という基準を作って判断してみると、卑屈は他者との関係で決まり、謙遜は自己評価で決まる。あることを良く知っていれば知っているほど上には上があることも当然知っている。おのずと謙遜せざるを得ない。というのが自己評価によって取られる態度の謙遜で、相手に対して自分を貶めることで相手の優越感をくすぐって取り入るという卑しい戦略によって取られる態度が卑屈。
同じように基準を置けば、自らが高みにあることを自覚してあたりを超然と睥睨する姿勢を傲岸、相手に対して自分を上に見せるはったりで相手をおびやかして言いなりにさせようという卑しい戦略によって取られる態度が傲慢。
とすれば、見るからに卑屈な書き方ではあるけれど、これっぽっちも卑屈ではなく(もちろん謙遜してるわけでもない)、これを傲岸と言わずしてなんと言おうか。ってことは、これは卑屈ごっこな諧謔なわけだ(もちろんogijunはそれをわかってるから受けてるわけだし、っていうか、読めばわかることをくどくどと解説するのはくだらないけど、おもしろいね、おれが)。で、つくづくと傲岸な野郎だなぁと。
で、それと同時に、でも待てよ、傲岸な野郎だなぁ、とうかつに書いて、最初にあげた傲岸≒傲慢、どっちもネガティブという一面的な見方をされると、それはおれの真意ではないな、と気付いて、傲岸ってのは態度としておれは好きだな、と断りが入り、なぜそう断ったかというと似て全く以て非な(にてまったくもってひな)傲慢とは違うんだよと続いて、全然別のトピックになってしまったのでした。
っていうか、誰かに何かを頼むとき、傲岸なやつなら傲岸なやつほど、自らの矜持にかけても引き受けた責は全うしようとするだろうけど、傲慢なやつには頼んでも無駄じゃん。ってことは、傲岸な野郎というのは、自らをまさに崖っぷち(=岸)に常に置いているわけで、尊敬に値こそすれ嫌悪できるはずもない。謙遜する人も同じで、むしろ限界をわかっているだけに一度引き受けた責はぎりぎりまで全うしようとするだろうけど、卑屈なくずは最初から信用できない。
どちらも信用できて、尊敬にも値する、であれば(謙遜|傲岸)としても良かったんだけど、ではどちらがより望ましいかと言えば、そこは社会通念もあるし、さすがにむかっとすることがありえるほうよりはないほうが良いから、謙遜が傲岸の上(というか、これだけ動詞でちょっと違って、本当の対語が何かは今になってもまだ出てこない)と。
そんな感じ。
手元のK&R第2版の石田訳(ただし1989年の初版)では、P.131の5.6のタイトルは「ポインタ配列:ポインタへのポインタ」となっている。索引を見ると「多重レベルのポインタ」という言葉がP.139として出ていて、用例が「これらの文字列の操作には、多重レベルのポインタがよく使われる」で、確かにポインタへのポインタのことらしい。
でもね、省略するにもセンスってのはある。
おれは、節タイトルにもなっている「ポインタへのポインタ」を省略して「ポインタポインタ」とこれのことを呼ぶ。しかし、どっかの人たちは索引にちょろっと出てくるだけの「多重レベルのポインタ」を「多重ポインタ」と呼ぶ。
ポインタポインタから**を想像するのは簡単だと思う。原語を損なってないぞ。と書いてから、a pointer to pointer を pointer of a pointer とひっくり返した事実を思い出したけど、でも**が導出されることに変わりない。
でも多重レベルのポインタ(これはやっぱり略すのなら多段ポインタだよね。レベルってつまるところ段なんだから)を多重ポインタと略すのはばかだ。
というのは、最初、多重ポインタという変な言葉でおれが想像したのは
// リトルエンディアン int a = 0x41; int* pi = &a; char* pc = (char*)pi; puts(pc);みたいなものだ。aへのポインタを型で多重化してるでしょ。もっと単純な例だとつまりはユニオンのメンバポインタのことだと思った。多重ってのは同じ場所に重ね合わせることだからそういう意味に取るのが素直だ。
どうしてシープラプラといい、多重ポインタといい、Cに関連する言葉はおかしな略語がまかりとおるんだろうか。不思議だ。
#原書は持ってないから想像だが、multiple level pointerを石田さんが「多重レベルのポインタ」と訳したのが間違いの元で、これを「多レベルポインタ」とでも訳していればきっとOKだったんだろう。世の中には言葉の意味を考えずに省略するウィキ(なぜか百科事典の意味らしい)野郎がいるということだ。
っていうかつい読みふけってしまったこと自体がちょっとまずいので、まして書くのは後。のつもり。
読んでて、この著者がやたらと反省の弁がないとか、責任を取らないといったことを(特にバトログについて)気にしているのが不思議だとか、いろいろ疑問に感じる点もあるのだが、調査といい、まとめ方といい、非常な力作だし、おもしろさも抜群だった。このテーマでこれをやれるのは、国営企業という存在で、かつ視聴料という形式で金を集めているからできる、という意味において(民放でこれはありえないだろう。スイスとアメリカとドイツを行ったり来たり、ネイチャーの取材ではイギリスにも行ってるわけだし、日本の中でも結構、動き回ってる)、研究者の研究予算はどこから来るのか問題と同じ構造も(まったく触れてないけど)あるんじゃないか、とかいろいろ。1億人のためではなく1万人のため、来年のためではなく100年後のため、といったことに使える金と時間を確保しておかないとよろしくないよなぁ、とか。
それにつけてもテストは重要だけど、テストプログラムも重要だな。あと、テスト用コード片とかも。
むむむ、と読みたくなって本棚の奥の奥から3冊取り出して一気読み。(手元のはデラックスの初版なので雑誌と同じサイズで色鮮やかなのだ)
三百野人って、こんな話だったのか、とか思い出した。麑は傘の人だったかとか。
あらためて読み返すと、脚色がうるさくもあり良くもありだけど、画が半端じゃないな。
で、夷吾のオチを見てて、こんなことを考えた。
かって森進一は、飼ってた馬を盗まれて食われたことがある。しかしそれに対して怒りもせず、逆に酒を贈ったのであった。
で、もちろん、最後に野人は耳毛をもらって帰るのであった。
そういう話ですな。
The Electricity In Your House Wants To Sing(I Am Robot And Proud)
角谷さんのセッションで強調されてたやつ。自動化ですがそれが何か?
カートに入れたまま放っておいたのだが、iTunes Storeでアルバム1500円か、CDで1600円か。アートワークを考えればCDなのだが、なんとなくiTunes Storeで買うほうが合ってそうでもある。で、結局ダウンロード購入。
ツッコミspamだと思って放置していたら、実はテロルの情報交換というパターンだったら、たとえば仮にそれが符牒化してあったとして、設置責任は発生するのか? 同様にTB(多少は情報は埋められるわけだし)についても。さらには、Refere spamのQuery文字列に埋め込まれていたとしたらどうだろうか?
#と、はじめてのにき(だ)のコメント欄のやりとりを見ていて考えた(このやり取りは、「とらとらとら」とか、「にいたかやまのぼれ」みたいなタイプの暗号というか符丁だと思う、ということにする)。だって、どこにも誘導するわけじゃないから、spam(営利目的の広告)とは違うわけだし。
しかも、まだあった。
3 Works for Live Electronics(David Tudor)
音楽の前衛が、政治の前衛と結びついていた時代を1960年代(いや、1940年代まで戻ってブレヒト−ワイラーのコンビを考えてみたり、あるいはもっと遡ってドレスデン革命にかかわったワーグナーまで遡ると、前衛は常に前衛だっと言っても良いのだが)から1970年代半ばまでとしてみよう。
すぐに思いつくのは、やはり僕にとっては高橋悠治なのだが、政治の前衛が目立たなくなっていくのに合わせて音楽の前衛も後ろへ下がっていく。一歩前進二歩後退。
一歩前進、二歩後退 新訳 国民文庫 119(ヴェ・イ・レーニン)
アカデミックな前衛とは別に、現場での前衛もあった。現場前衛というのは商業音楽における前衛と考える。するとその消費者として片方にヒッピー、片方に労働者(という意識を持った労働者)と活動家が見える。サイケであったりアシッドであったりあるいはプロテストなんちゃらとか、そのあたりだ。
だから、銃を取れ。
それらが退潮した後に、くだらない世界がやってくる。にこやかでちょっと長髪。
青春の輝き~ヴェリー・ベスト・オブ・カーペンターズ(カーペンターズ)
グレープラストコンサート・伝説の神田共立ライブ(通常盤)(グレープ)
暗黒時代の幕開けである。
でも、暗黒時代は長くは続かなかった。顔をしかめた短い髪。
そして、反動の反動がやってくる。しかし、覆水は元の盆には戻らない。
イエロー・マジック・オーケストラ(US版)(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)
技術は技術。
一方、前衛は暗黒時代に何を生んだのだろうか?
A Rainbow in Curved Air(Terry Riley)
たったひとりで電子楽器を操り、永遠に終わることがない微細な変化の記録だ。
そんなある日のこと、たまたま入ったアールヴィヴァンで、めがねをかけた店員(芦川聡さんである)に、なにかおもしろい音楽は無いかと高校生のおれは訊いたのだった。
彼はロックマガジンのある号を買えと言ったと思う。ロックマガジン? とまったく興味がないおれは訊き返す。でも、知らないのだから拒否する必要はないことに気づき、それを手に入れる。
で、音は?
彼はアンビエントな音を示す。
ミュージック・フォー・エアポーツ(紙ジャケット仕様)(ブライアン・イーノ)
えー、それって退屈じゃん。
ふむ、と言っても、新しいというのはこれなんだが、と考えてから、相手が小僧で要するにあまり知られてないのを聴きたがっているのだろう判断したのか、シンプルできれいなLPを渡す。
淡いピンクにハートの形をした交通標識だったかな?
ミニマルミュージックよりはメロディーがポップで、ゆったりとしたテンポで電子音が重なる。えらくつまらんと思ったが、せっかく勧めてくれたのだからと買って帰った。それからしばらくいくつか似たようなジャケットのLPが増えていき、そしてある時点で打ち止めた。おれはダイナミック(動的)なものが好きだとはっきりわかったからだ。
ミニマルミュージックは、すごく遅いCPUとGPUを使って、フラクタルを描くといった趣の音楽である。長い時間をかけて、それが同じことを単に繰り返しているだけだと気づく。そこからは何も生まれない。型が決まっているからだ。
でも、と今になって考えてみると、音楽が何かを生むという考えを捨てたところに前衛思想があったのかな、と思わないでもない。何かを生むために、自分自身では何も生まずに、その生産の場を満たす音を提供するということ。
という、70年代の終わりから80年代の初頭にかけての前衛音楽を思い出したのであった。
The Electricity In Your House Wants To Sing(I Am Robot And Proud)
というと、BCPLあたりなのかと思ってた。
ってのは、Amigaのシステム記述言語がBCPL(Amiga OSを開発したイギリスの会社がイギリス固有の事情らしきもので、CではなくBCPLをメインに使ってたかららしい)なので、OSに与える文字列はすべてBCPLの文字列にしなければならなかった(逆も真)だった(という記憶があるんだけど、Intuitionに対してはNULLターミネーションで良かったような気もしてきて、良くわかんなくなってきた)。
#最初にPASCAL stringと言い出した人は、BCPL stringのBCPLをPASCALと空目したか、タイポと思ったんじゃないかというオチにしようと思ったけど、いまいち似てないかな。
BCPL + stringで検索して引っかかったので、ちゃんと言及があることを確認してリンクしただけだったわけだが、ちゃんと読んでみるとえらくおもしろい。リッチーのペーパーなのか。
W51SA購入。いろいろあってFeliCaっていうかおさいふケータイ(これNTT DoCoMoの登録商標だけどauでも使うよモードという興味深い言葉)を自分で使わなきゃいろいろわからんだろうということで。
とりあえずEdyはダウンロードして多分、明日あたりチャージして試せるのだが、QuikPayがいまいち契約カード会社が足りないな、とか。(Pasmoの申し込みしちゃったので、モバイルSuicaはパスというのがちょっと手痛い)
そのあと、Developer Loungeへ。ひさびさ。はっしーとか星さんとか。NetBeans6のRuby(C Ruby)用IDEプラグインのデモをはっしーがやるのを見たり。……おれ、ruby-mode.elでいいや、というか、のほうがいいよ、という感じなのは、結局、IDEそのものが好きじゃないからだな。だって、タイプの速度と同期して合ってたり間違ってたりするIDEって存在しないから。(Visual Studioは稀有な例外)
# .NET Frameworkみたいにプロパティ名.メソッド名.メソッド名で60文字とかなると、打つのがかったるいのでインテリセンスはありがたいが、おれは、eachとかsortとか、to_sとか4文字程度だとタイプするほうが、選択するよりぜんぜん早いし。
梅村さんからCurlの本を頂いたので、週末あたりに試す予定。Curlって立ち位置が難しいのは、フリーではあるけどオープンではない(結局フリーではない)ってことなのかな、とちょっと思った。とはいえ、VBとかも使うおれなので、それは実は大した問題でも無いのかも知れず。
液晶だとちょっと暗めな感じに見えるけど(表示設定の問題かも)、実際の写真は落ち着いた色味でそんなに悪くないかな?
昨日のDeveloper's Loungeでの梅村さんのプレゼンの様子をW51SAで撮った写真。プロジェクタを使っていることからわかるように薄暗い室内で、かつ逆光だったわけだけど、想像(W51SAの液晶で見えている状態)以上にきれいに撮れている。実際より明るめに撮れている。
晴天下の屋外写真(車までの距離は10数mというところだと思う)。これも、こんなものかな、という感じだけど最初の写真とは逆に実際よりは暗め(落ち着いた感じとも言う)な絵だと思う。
#考えたら、比較して云々できるほど、他のカメラを知らないのでした。でも以前使ってたW21SAより密な感じがして、確実に向上しているという印象は受けます。
#と思ったら、ちょっと違うな。コンピュータをデュアルディスプレイで利用しているんだけど、片方はDELLのデフォルト(Windows最適化)、片方はEIZOをMac用(赤みが強い)に設定していて、DELLのほうで見た印象が上に書いたもの。EIZOで見た印象は、W51SAの液晶で見たのに近くて暗め(したの写真の車の白はきれいだ)。
数字の1〜3が押しにくい(上のモジュールとの間隔が狭いからだ)。慣れが必要かも。同様に、OKボタンがちょっと押しにくく、わりと↓を間違って押しやすい(これは以前の携帯より下が短いので持つ手の位置が合ってないからだと思う)。クリアはむしろ押しやすい。
EdyのチャージはFeliCaロックの解除方法を瞬間的に忘れてえらく手間取った。使うときは、あらかじめロックを解除していたのだが、メニューからの選択時、わりとあせってしまって、OKではなく下カーソルを押してしまいEdyではなくQuikPayアプリを誤起動させたりしてえらくめんどうなことになったり。最初からアプリケーションを起動しておいてからレジに並ぶべきなのかも(というか、いかにも不慣れな状態だということだな)。
#充電用コネクタがW21SAと異なるのだが(薄くなった)、うれしくないね。会社用に余分に買ったやつは完全にゴミになってしまったわけだし。
struct S { unsigned char data[64]; }; ... void copy_S(S *d, S *s) { register long* dd = (long*)d; register long* ss = (long*)s; int i; for (i = 0; i < 16; i++) *dd++ = *s++; }でも、ある頃から、
for (i = 0; i < 64; i++) d->data[i] = s->data[i];
のほうが速くなった(というか、どうでも良くなった)。今でもそうかな?
先週解決したのだが、書き忘れてた。HPのサポートの人と電話でやり取りしても、まったく解決のかの字も見えてこないのだが、クリーンインストールすれば動くらしいということはわかったので(というか、さすがに動かないドライバーを置いておくことはないだろうし)、もういいやにしようと思ったのだが。
ふと考えたのは、両面モジュールを認識しない(最初のうちはデバイス設定タブで手設定が必要だった。ただし、サポートからの指示でレジストリの関連項目を全削除して再インストールしたときは最初から設定=認識されていた)のはともかく、プリンタのプロパティで両面モジュール有りにしているのに印刷開始時に無い扱いされるのは、やはりおかしいということだ。なんらかの状態を記録したファイルがどこかに残っていて、それがパーミッションが原因で消えていないのではないかということ。
それで、今まで試していないことをいろいろ考えてみる。すると、プリントを依頼するアプリケーション自体が管理者権限で実行されているという状況がないことを思い出す。で、Firefoxを管理者権限で実行して印刷してみたら、おい、ちゃんと両面印字ができるじゃん。
そこで、次にユーザー権限でFirefoxを実行して印刷してみると、これまでのエラーが嘘のように解消された。というわけで解決したということになる。
ひとつわかったのは、HPのサポートは誠実に対応してくれるということと、再確認できたのは、やはりいろいろな状況がからみあうWindowsのサポートは大変だということ。
なんか、そこら中で、誤解と誤読が蔓延している予感。
これは、C Rubyでもいいんだよ。はっしーのプレゼンなんか、ASRを使ってたし。
#C Rubyっていうのは、微妙な呼び方だな。MatzRubyというか、(Matz ((patch nokad) (win32 (u)) (eban) (knu) (release mput) ...) (yarv ko1) ruby)というか。
「だよ」じゃなくて、「でもいいんだよ」に訂正。
追記の追記:お互いの尻尾を咥えた2匹の蛇の絵を書いてしまった(トラックバックに気づかずにトラックバックを送ってしまった)。
ふーん、コメントをデフォルトで含めるべきじゃないという考えの人がいるのか、とちょっと驚く。
どういう場合だろう、と考えて、たとえば斬り込み隊長(字間違ってるかも。調べるの指摘があるまで面倒なんでこのまま)とかのとこだと、確かにあのコメントがFeedされたらやだろうな、とか。でも僕が読むとこだと、コメントはFeedしといて欲しい(はてなが違うんで、知らないうちに話題が広がってたりすることがある。essaさんのとことか。その点、tDiaryだと安心だ)。
ということはだ。コメントがそのエントリーあるいは元のオウナーと不可分かどうか、あたりが論点になるんだろうか。後者のほうって、エントリーとコメントが協調してコンテンツ化してるわけで、Wiki的に読んでいるということなのかも。前者はなんだろうか? 単に数の問題かも。
構造としてはトランクにエントリーがあって、どちらも絵としてはブランチがツッコミなんだが、前者は赤ちゃんの上でくるくる回るおもちゃみたいで、個々のブランチに統一がほとんどなくただぶらぶら中心でくっついてるだけ、後者は、蛇の目傘で、個々の骨は独立してるけど薄い皮1枚でつながってる。蛇の目の上で玉をまわせば、どっちにしても、おもちゃじゃんと言えなくもないけど、似て非なるものではある。ヒエラルキーとホロンでどう見ても絵は同じなのにケストラーは違うと言い張るみたいなもんかもとか。
コンテンツというものに対する感じ方の問題なのかも。おれは、わりと、なんちゃらという史書官が書いたものになんちゃらが補注を入れ、それに対してなんちゃらが校正したものを元に、なんちゃらが演義化したものを、なんちゃらが編纂したものをなんちゃらがどこそこで人気を博したなんちゃらを取り入れてさらになんちゃらが編纂したものが散逸したものをなんちゃらが編纂したものを何チャラ間チャラちゃんちゃんちゃんみたいまのものをちゃんちゃかちゃんちゃか読みなれてるから、ぜんぜん気になんないだけなのかもちゃんちゃん。
三国志 (1) (吉川英治歴史時代文庫 33)(吉川 英治)
(子供が読むなら良いという意味でスタンダード)
横山光輝 三国志 DVD-BOX 12枚組 (第1話~第47話)(中村大樹)
(読み取り効率が良いスタンダード)
(細野晴臣が好きだと再確認できたという価値はある)
(本来のスタンダード。大傑作)
(素直に読める。現代的で合理的な解釈)
(他にいっぱいあるのに、これ読む必要って無いだろうな。子供なら吉川版か横山版、演義を訳せば講談じゃんでいけば柴田、内容を読むなら安能、毎週読むならモーニング、ってとこ)
(や、これはくだらない)
(新たなスタンダードかも)
(他にもあるけど、読んだのはここに挙げたのと本当の史書と見つからなかったやつが幾つか)
1. structがCと互換性を失う(P.76)
1.5. a struct is a class (P.76)
2. 1.は、"Leave no room for a low-level language below C++(except assembler). ルールから必然(ルールはP.120)
3. What you don't use, you don't any pay for (zero-overhead rule)(P.121)
あたりではないかと。(1.は誤読の可能性がある。もし誤読していなければ、structとclassを一致させることで、C++はCであると言明できる、したがってその「一致」がC++をCとして利用するための歯止めの役割を持つというか、どうもC++を最高の低レベル言語の位置におきたいという強い希望があったのではないかな?)
使いもしないものに金を払わなくても良い、だと社会の運営はいささかまずそうだが(赤字の公共交通機関とか、黒字の山の手線の上がりで運行されている列車とかを想定している)、言語はこれで良いのだから、抽象の世界ってのはいいもんだな。
というか無防備都市だった期間が怖い
モーガンズクリークの奇跡 [DVD] FRT-086(ブライアン・ドンレヴィ)
アフィリエイト経由で買った人がいたので、スタージェスのまだ見たことがない作品のDVD化を知る。値段が安すぎるのでとりあえずカートへ入れておく。
で、アマゾンを見てみると、大好きなパームビーチの話はないようだが、サリバンの旅はあるんだな。
サリヴァンの旅 [DVD] FRT-136(エリック・ブロア)
これはおそるべきコメディであると同時に、たぶん、映画として表現されたコメディ映画作家の最も力強いクレドのひとつだろう。
サリバン(サリヴァンか)は、疲れ切った映画作家だ。プロデューサからは俗受けを迫られる。
「コメディを作れ」
「いやだ。映画は芸術だ」
映画とはなんだろう? と自問する日々。
ある日、パーティの帰り、泥酔して列車に転がりこんで寝込んだところを、泥棒に身ぐるみはがされてしまう(20年近く前に観た記憶なので間違いだらけだとは思うが)。
そのまま列車は南部に向かって走って行く。
「はい、お客さん、切符を拝見」
「ん?」
そのまま、捕まってしまう。「おれは、サリヴァンだ。ハリウッドに電話してくれ」
「それが何か?」
というわけで、そのままミシシッピの刑務所に入れられてしまう。強制労働と拷問の日々。
その間、サリヴァンを探してパニックになるハリウッド。
炎天下の荒野を鞭で打たれながらヘヴィーな農作業を続けるサリヴァン。回りの囚人たちも実は良いやつから鬼よりおっかないやつまでバラエティ豊かだけど、まあ、文化の香りがまったくしない世界ではある。南部はすでにアメリカじゃないのかも。映画の世界では。
取り調べに対して、ハリウッドを連呼するたびにしこたま殴られる。(南部には映画文化がないうえに、とにかく、身ぐるみはがされているせいで、浮浪者以外には見えないのが致命的)
サリヴァンの特徴的な靴を履いてたため、捕まる泥棒。色めき立つハリウッド。サリヴァンの行方の手がかり発見。
今日も、拷問用の縦にした棺桶みたいな箱にがんじがらめに縛られて入れられて、炎天下で放置されて苦しむサリヴァン。この地獄は現実のものなのか?
そんな苦痛の日々、囚人がみんなにこにこしてるし、看守までハッピーそうだ。
「今日はいったいなんの日なんだ?」
「映画だよ。映画の日だよ」
「映画?」思い出すハリウッドの日々。
薄暗く狭い室内に詰め込まれる囚人たち。かかるのは、確かミッキーマウスかルーニーチューンズか、どっちかのやたら古いやつ。
囚人も、看守も、それまでは子供向けのくず映画とまったく相手にもしていなかったサリヴァンまでもが涙まで浮かべながら笑い転げる。
そうか、これが映画なのか! とサリヴァンは、泣きながら、笑い転げている鬼より怖い看守や、刑務所長、普段はおっかない囚人やら卑屈な囚人たちを見渡す。コメディとは、こういうものだったのか。
ハリウッドの捜査網が、ミシシッピまでたどりつく。サリヴァンは無事、解放される。
笑顔で迎えるプロデューサ。
「まさか失踪するほど悩んでるとは思わなかった。で、次の映画だが……」
「コメディを作るぞ!」
おしまい。
#さすがに照れているのか気負ったのか、僕が観たことがある他のスタージェスの作品よりノリが悪い気がするが、それにしても、映画史的な作品で、やはりすぐれたコメディ(ヘヴィーな内容ではあるけど、コメディなのだ)だったと記憶している。
同じくアフィリエイト経由で買った人がいた本。
コンテナ物語―世界を変えたのは「箱」の発明だった(マルク・レビンソン)
ちょっと高いね。カートには入れずに、とりあえずメモしとこう。
ビックカメラのポイントカードの代わりにおサイフケータイが利用できるというのを見て、店頭で申し込んだ。
今使ってるポイントカードが本人のものか確認して(店員が見ないように、エビデンスが残らないようにと、いろいろやるのが現代的だけど、確認になっているのかちょっと疑問でもある)、次に2次元バーコードが発行される。で、それを携帯電話で読み取ってURLをアクセスするとFeliCaアプリケーションのダウンロードになる。
これでカードを1枚、財布からどかすことができた(カードそのものが本体なので携帯電話を交換するときはまた必要になるということなので廃棄はできない)。で、ポイントを付けてみたり。照会してみたり。まあ、こんなものなのかな。
あ、そうだ。Edyのチャリーンが印象的なせいで、音がしない(あるいはしたかも知れないけど聞こえなかった。店内、にぎやかじゃん)んで不安感があったのであった(店員さんが、はい、外してくださいだか、終わりましただか、声をかけてくれる)。
#って言うか、このときはじめて、FeliCaアプリケーションを起動しておく必要はないということがわかったのであった。おれは、今までEdyを使うとき、実に無駄なことをしてたのだな。
クローラにはリファラは見せてないはずなんだが、日経のといい、こいつといい、どうしてこう嬉しくない検索語で飛んでくるんだ? (っていうか、書いた覚えないんだがな。リファラにもフィルタを付けるかどうかだなぁ、というか見当もつかないし)
さて、駝鳥の肉勝負に挑むジャンは、考えた。駝鳥の肉は赤身だ。赤身の欠点は(長所でもあるけど)脂肪の少なさ、つまりこってり/とろーり感がない。
そこで、秘密兵器を使って、見事、霜降り肉の生成に成功するのであった。
(でも、食ってみたいね。食ったことがないものはやはり食ってみたい。衛生的なら。ジャンのは衛生的だったわけだし)
ふと気づいたが、実装継承するから必要なわけだな。Javaみたく流儀としてそれほど実装継承しないことが多い(実際はそうじゃないけど)プログラミング言語だと特に気にする必要はないのかも。
だいたい、致命的なエラーは、サブクラスによる破壊で起こるわけだ。
そもそも論でいけば、クラス外からデータそのものをさわるということはありえない(ある変数iを0に初期化するときに、int i = 0 * 5000; と書くことはありえないという意味の「ありえない」)のだから、気にするとしたらサブクラスによる破壊しか無いわけだな。
まっとうなオブジェクト指向プログラミング言語Rubyの場合、インスタンス変数にクラス外部からさわる手段は存在しない(アクセサを作るしかない)。
C++はCでなければならないから、publicアクセスが必要だった(structの互換性)。
Javaはそういう意味ではC++と違ってまっとうなオブジェクト指向プログラミング言語みたいにできたはずだ。つまりフィールドについてはパッケージprivate(これが無いと無駄なアクセサが必要になるので、デフォルト。もちろん巨大クラスを作るなら良いけど、Rubyと違ってコンパイル後のオブジェクトに後からメソッドを追加できないのだから、友達というか兄弟がさわるための仕掛けは必須なわけだ)とprotected、private以外では修飾できないようにするというか、publicフィールドは作れないようにしておけば良かったんだろう。IDE使ってすべてのフィールドに不恰好なアクセス修飾子を付けるなんて書き方をすることは想定外だったのかも知れない。
Quasi - Logを見て、まったく予想がついてるにもかかわらず、昼休みなんでやってみた。
「Yahoo!みんなの政治 - 統一地方選挙特集 - 政治ポジションテスト」
あなたは「リベラルかつ大きな政府を目指すタイプ」です!
「社会・経済の激しい変化にさらされても、国民が人間らしい生活を維持できるように、政府は積極的にセーフティネットを充実させるべき」という考えを持っているのではないでしょうか。
リベラル+4、大きな政府-3、そりゃまあそうくるだろうなぁ。というか、もう少し政府は小さいかと思ったが。(個人に絶大な信頼をおくくせに、市場より国家を信用してるわけで、矛盾っていえば矛盾だが、そこが民主主義ってもんだ)
(っていうか、支持政党別結果が素敵だ)
なんか嬉しい。
なぜか平仮名が見える。
固有名詞は、その国の文字を使うっていう慣習があるんだろうか? だったら、良い慣習だな。
かんたんRuby on RailsでWebアプリケーション開発(arton)
の翻訳です。
全然、意識してるとは思えないけど、
腐れソースを腐れ環境でメンテするのは死ぬほどつらい
(略)
企んだとおりアプリが騙されて順調に動作するのを見るのは快感以外の何者でもない
というフレーズを見て、これで少佐の演説ができそうだと思った。
(もちろん、私もコードを書くのが好きだ。Javaでフィールドの前にpublicと書く時など絶頂すら覚える。テンプレートを提供する元のクラスが重要なフィールドをprivateにしていて、メソッドをゼロから再実装しなければならない様はとてもとても悲しいものだ)
週末かな。
こんなの。
#include <stdio.h> #include <memory.h> struct A { int a; int b; A(int ia, int ib) : a(ia), b(ib) { } int sum() { return a + b; } }; struct B { int a; int b; B(int ia, int ib) : a(ia), b(ib) { } virtual int sum() { return a + b; } }; int main(int argc, char* argv[]) { A a(1, 2); printf("%d\n", a.sum()); B b(1, 2); printf("%d\n", b.sum()); memset(&a, 0, sizeof(A)); printf("%d\n", a.sum()); memset(&b, 0, sizeof(B)); printf("%d\n", b.sum()); A* xa = &a; printf("%d\n", xa->sum()); fflush(stdout); B* xb = &b; printf("%d\n", xb->sum()); return 0; }
もちろん、fflushの位置でわかるように、fflushより前は問題なく、後に問題がある。少なくてもVC++6では。
でも、VC++2かVC++4かどっちかのころは、全部問題なかったのだった。どっかのタイミングで、vtblを明示的に(暗黙のうちではなく)メンバとして扱うようになった(のがクラッシュする理由なわけだ)のだが、ドットを使った呼び出しでは問題ないわけで(これはVC++6の最適化によるのか、それとも仕様か、さてどっちでしょう?)、そのあたりで混乱したのであった。
アメーリカのogijunが書いた文章をヒロ山形が翻訳したみたいだな。
全然関係ないが、ps -efとやるとエラーになるのはいやだな。
ちなみに、もっともJavaの実装が遅れていて、しかも変てこで(JNIを利用してネイティブワールドからAWTを使う場合、わざわざワーカスレッドを作ってそこからAWTを呼び出す必要がある)、しかもSunの通常のサイトからダウンロードできなくて……というような人によっては致命的とも言える欠点があることは内緒だ。
が、生まれてきたからには、一度は、SafariでWWWの世界を見てみるべきだ。本当に、それまで自分が見ていた世界がなんかの間違いだったとびっくりするから。
おれが買った本じゃなくて、ここからたどって誰かが買った本。
誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)(ノーマン,ドナルド・A.)
を、おれが買う(というか、注文した)。
なんというか、アマゾンアフィリエイトで一番の収穫って、誰かが自腹で買ったという事実でおもしろそうな本を知ることができることだなぁ、と思う。
Seasar2で学ぶ DIとAOP アスペクト指向によるJava開発(arton)
の編集の方から分厚い荷物が届き、開けたらVistaのバイブルが出てきた。どうもありがとうございます。
ほぼすべてのページにダイアログのキャプチャが出てるこういう本って、なんとなく馬鹿にして買わなかったりするわけだが(偏見なわけだが、こういう本って、正規なマニュアルを入手できない違法コピーユーザっていう先入見があるからなんだけど、実際には、オフラインマニュアルが百科事典みたく付いてくる時代じゃなくなっちゃったから、今となっては言えないね)、手元にあると便利なもんだな、と特定のメニューを隠す方法だとか、デスクトップアイコンの表示方法とか眺めながら思った。
というわけで、Vistaってわかりやすくなったようで、実際にはよくわかんなくなったところが多いので、持ってると重宝するかも。
#というか、Vistaのエクスプローラはわけがわからないので(直観的ではないうえに、今までどおり論理的でもなく、なんていうか、Vistaですな)、30ページ近くエクスプローラの説明があるので、特に謎の固まりの「並べ替え」のところを読んでみたり。
きむらさん、okujiさん、sodaさん、向井さん、(okujiさん、sodaさんは特徴的だからわかるんだけど、きむらさんや向井さんが僕が認識しているきむらさんや向井さんかどうかはわからないけど)が参戦してGPLとかについて熱く雑談中。
#というか、RSSでぱらぱら配信されるとコンテキストが見えないというのは確かに正しいが、エントリーが追加されたという情報は知ることができるわけで、さてどのあたりが良い塩梅なんだろうか? (あるエントリーに対するコメント丸ごとで1つのエントリーとして、エントリーの修正と同じように全文配信するというのは? 問題があるとすると、量と頻度だけど)
#以前は「あろは君」だったような気がしたが、今は「あろは」となっているので、「あろは君」と書いてたのを「あろはさん」に修正。
さらに追記:soutaroさんが「コメントrssと本文rssを混ぜる」で、FC2の本文とコメントの2種類のフィードを混ぜ合わせるそれぷらを開発/公開してくれてます。俊敏だなあ、どうもありがとう。(tDiary方式が正しいってことだよな、これについては)
だいたい終わったが(サンプルの動かなくなってたものを修正したり)、Exerbのruby18って1.8.6にして良いものなんだろうか?
と考えていてもしょうがないので、手元ではそうすることにしよう。
FSFはこう書いてる。
Apache License, Version 2.0
This is a free software license but it is incompatible with the GPL. The Apache License is incompatible with the GPL because it has a specific requirement that is not in the GPL: it has certain patent termination cases that the GPL does not require. (We don't think those patent termination cases are inherently a bad idea, but nonetheless they are incompatible with the GNU GPL.)
で、このpatent termination casesというのがよくわからないんだけど、「本質的には悪いアイディアだとは思わないけど」と書いてるくらいなので、多分、
3. Grant of Patent License. Subject to the terms and conditions of this License, each Contributor hereby grants to You a perpetual, worldwide, non-exclusive, no-charge, royalty-free, irrevocable (except as stated in this section) patent license to make, have made, use, offer to sell, sell, import, and otherwise transfer the Work, where such license applies only to those patent claims licensable by such Contributor that are necessarily infringed by their Contribution(s) alone or by combination of their Contribution(s) with the Work to which such Contribution(s) was submitted. If You institute patent litigation against any entity (including a cross-claim or counterclaim in a lawsuit) alleging that the Work or a Contribution incorporated within the Work constitutes direct or contributory patent infringement, then any patent licenses granted to You under this License for that Work shall terminate as of the date such litigation is filed.
のことなんだろう。
で、確かに、この条文がないと企業ユースとかで危険だと考えることもできるのかなぁ、とか。
相違というのがある。相違点とか。うむ、IME2007は正しく辞書どおりに変換する。
で、大学4年かな、のころに、村上春樹を読んでいて(ってことは、3部作になったか、まだ2部作かどっちか)、相異という言葉が出てくるのが妙に印象に残ったのだった(全体がやわらかい文体なので、突然漢字熟語が出てくると、印象的なのだ、と思う)。その時点では、相違が辞書的に正しいかどうかという知識は持ってないか忘れたかのどっちかなので、印象的な相異が生生しく頭に入った状態。
で、就職試験の漢字問題で、「相違」と「相異」、正しいのはどっち? に見事に引っかかったのであった。むかついたぜ。それから村上春樹は嫌いになったのだが(ということは別にないけど)
ああいうのが、相異がもし定着すると、辞書の出典として引用されるんだろうな。
ところで、相違を訓読みすると、あいちがうではなく、あいたがうと読むのだが、同じくとうとぶではなくたっとぶとか、ア段にずれる言葉がある。
でも、あおーげばーとーとしー、というようなトが印象的なのか、テレビとかで人が話すの聴いていると、たっとぶのことをとうとぶみたく発音する人っているけど、似たようなもんなのだろうか。本来の音より印象的なやつが勝っちゃうとか。
Yahooメーラ側からspamが減ったな、と思ったら、裏でとんでもないことになっていた。
MLに送ったメールが見えないので、Webインターフェイスで見たらspamに分類されてた(差出人が自分だから、spamっぽいとは言える)のは良いとして、10000件近くのメールが溜まりに溜まってた。
とりあえず200件くらい見ながら削除したが、これ全部に目を通すのは不可能だ。というわけで、消します。もしyahooのほうに送って、なしのつぶてという方がおいででしたら、最新の日付のここにツッコミを入れてください。spamと一緒に消してしまったかも知れません。
ruby-1.8.6。
Exerb 4.1 のruby-1.8.6コア (以下の暫定パッチ付き)
diff -u exerb.cpp ..\exerb\src\exerb\exerb.cpp --- exerb.cpp Mon Feb 26 19:32:13 2007 +++ ..\exerb\src\exerb\exerb.cpp Sun Mar 18 22:45:42 2007 @@ -51,6 +51,7 @@ extern "C" VALUE rb_load_path; extern "C" VALUE rb_argv0; extern "C" VALUE rb_progname; +extern "C" int rb_feature_p _((const char *, const char *, int)); //////////////////////////////////////////////////////////////////////////////// @@ -274,6 +275,8 @@ return Qtrue; #endif case FILE_ENTRY_HEADER_TYPE_EXTENSION_LIBRARY: + const char* ext = ::strrchr(RSTRING_PTR(feature), '.'); + if (::rb_feature_p(RSTRING_PTR(feature), ext, Qfalse)) return Qfalse; ::rb_provide(RSTRING_PTR(feature)); ::exerb_load_extension_library(file_entry); return Qtrue; @@ -288,6 +291,7 @@ ::exerb_load_ruby_script(RSTRING_PTR(realname)); return Qtrue; } else if ( ::stricmp(ext, ".so") == 0 ) { + if (::rb_feature_p(RSTRING_PTR(feature), ext, Qfalse)) return Qfalse; ::rb_provide(RSTRING_PTR(feature)); ::exerb_load_extension_library(RSTRING_PTR(realname)); return Qtrue;
あわせてlibruby18/exerb_eval.cのrb_feature_pのstaticを外してます。
it has certain patent termination cases that the GPL does not require. (We don't think those patent termination cases are inherently a bad idea, but nonetheless they are incompatible with the GNU GPL.)
全体も良くわからないんだけど、細部の積み重ねがわからない。たとえば「We don't think ... bad idea」も、これは「悪いアイディアとは思わない」=「考え方としてはグッドだと思う」ということなのか、「悪しき魂胆はないように見える」=「自由を侵害する意図はないようだ」ということなんだろうか。
全体としては、「APL2.0には、GPLにとっては余計な特許解除要項が確かにある(それ自体は許容できる考えではあるけれど、そうは言ってもGNU GPLとは非互換ですな)」 という意味なんだろうなぁ、とか思うんだけど、もちろんこの訳は正しい訳じゃなくて、こんな雰囲気の内容なんだろうな、訳なわけだし。
この書き方のWe don't think...みたいなところが、Apache側の、まあいいじゃん、コンパチだよ、みたいな文章になるのかな。
以前のエントリーの蒸し返し
優秀な開発者がよくやるように、彼はさっさと私のコードを捨て、堅牢な形で書き直した。
――StoryOfXmlhttp - これが本当の理由。XMLHTTP の名前はここに由来している ...
via(というよりも翻訳も。こういうのを訳せるってのはすごいな)omoさんのところから
もちろん、規模が小さいということはある。1人でやれる仕事なわけだし。でも、逆に大勢いるんだからさっさと捨てても大丈夫ともいえる。
#正直なところ、基本的には更地が良いと思っているわけだが、だって、だめなものに何か加えたってだめがますますでかくなるだけだからな。でも、だめじゃないものなら、別に更地にする必要は全然ない。
#気のせいだと良いのだが、元の記事(StoryOfXmlhttpではなく、蒸し返したエントリーの参照元の記事)はアメリカの話だ。やつらはチームで動き、ヘッドの意見に従う。ヘッドが変わるとすぐ更地だ。それに対しての警鐘ということで、極端流をやっているのだと考えて、つまりは主張を眉に唾しながら、色眼鏡越しに読むのであれば、まったくOKなんだが、そうではなく、むしろほとんどアンチ更地な気候風土の連中が、その風土病を押し付けるための補強材料にあの記事を利用するのだとしたら、それは大きく間違いだろう、ということが元々の考えであったのであった。
COMPUTERWORLD (コンピュータワールド) 2007年 05月号 [雑誌](-)
編集の方からいただいたので読む(いつもありがとうございます)。
なんていうか、とにかくエディトリアルデザインが好きなのだが、たとえば、WEB+DBがMoreで、SoftwareDesignがananなら、COMPUTERWORLDって流行通信(じゃなくてミラノのなんとかっていうのがあって好きだったんだが完全に記憶から飛んでるなぁ)なんだよな、おれにとっては。
WEB+DBが島田順子で、SoftwareDesignが山本耀司で、COMPUTERWORLDはアズディーンアライアとかシャマスクとか(って、こういう人たちって今も仕事をしているんだろうか?)。
で、内容もちょうどそんな感じでもあって、Y'sのコートは持ってたりするわけだが、アライアはおれには縁がない。でも、それが何かはわかる。し、ハイファッションからトレンドが形成されてヴォリュームに落ちるわけで、そのハイファッションにはストリート系とクチュリエ系があって、これはクチュリエ系なわけだぜ、IBM。かたっぽうにジャンポールmalaがいてかたっぽうにアズディーンSaaSがあるってことだ。
で、おれはといえばヴォリュームとはちょっと違うところで独自のプレタをやってるわけだから、どっちもおもしろい。
キーワード:所有から利用、パーティション、仮想化、メタデータベースカスタマイズ、スピードスケールストリーム。
るいもさんと連載を持っている開発の現場の、特集号が出ました。
開発の現場 特別版 vol.001 The 実装技術!(SE編集部)
以前の号から、実装技術に関連した記事の寄り抜き版です。るいもさんと私の記事では、PofEAAやコーディング規約の回が収録されています。
ほかにも、橋本さん(はっしー)達のDIの記事や、アークランプ雄介さんやafukuiさんたちの座談会など、いろいろ出てます。
この本のターゲットは、企業情報システムの開発リーダー(アーキテクチャ――この場合はどのような実装基盤を利用するかとか、どのようなプロセスやルールを利用/適用するかを戦略的に立案して構築したものという意味――の決定や、プログラミングのヘルプやインスペクションなどをする立場の人)とその予備軍なので、本来は実装技術を全体的に把握しているべき人というわけですが、まあ最近の開発のあり方を巡る諸般の状況から、そのあたりって実際には弱いんじゃないか、という危機感が駆動力になった一冊と言っていいんじゃないでしょうか。
つまりは、読んだほうがいいんじゃないかと、そういうことです。
defaults write com.apple.Safari IncludeDebugMenu 1
をターミナルで叩いてから起動する。
そういう便利なものがあったのか。
追記:ユーザー識別にアドレスを元にした色アイコンというのはおもしろいアイディアだなと思った。
ザップ・ガン (創元SF文庫)(フィリップ・K. ディック)
おれが本当に、一番好きなディックはザップガンだ。もっとも読んでないものもいくつかあるけど。でも、これ以上に好きになれるのはないんじゃないかな。
右往左往するだけのぼんくらな主人公。なんの役にも立たないかっこいい究極兵器開発。容赦なく襲ってくるエイリアン。でも、すべては過去に流れて、また市井という深山へ消えていく最後と、ディックの魅力が炸裂だ。
おお、品切れかと思ったけど、平井書店と違ってプレミアとか付けてないじゃん。なんてお得なんだ。
それにしても、単なるCGIって異様に楽だな。ソース参照用リンクも追加。
そんなになるのか(というか、2004年が20周年だったわけですでに23年、もうすぐにでも「GNUの4半世紀」というNHKスペシャルが組まれるだろう)。というわけで、Tシャツをオーダーしてみたり(ついでに寄付もいくばくか)。
多分、これまで観たあらゆる映画の中で2番手くらいに大好きな作品(1番は良く忘れるがロシュフォールの恋人なのだ)を、今日、初めて知った。おれが2番目に好きな映画はこれだったのか。初めて観たぜ。
ロシュフォールの恋人たち [DVD](カトリーヌ・ドヌーブ)
想い出のマルセイユか、思い出のマルセイユかどっちか。シネスコ(極端に上下をトリムしたヴィスタかも知れないけどシネスコサイズ)。
40年代を想いだす60年代のマルセイユを舞台にした80年代の作品。まったく80年代とは思えないのだが、スケボーが出てきたりロボットダンスが出てくるから紛れも無く80年代の映画なのだが、演出は60年代のドゥミというかドゥミー以外の何者でもないすばらしい映画。
プロデューサはクロードベリだから、チャオパンタンというか愛の泉の後くらいなんだろう。クロードベリのおかげで、こんな素晴らしい映画を観ることができると思うと、またベリ自身の映画も観たくなるというものだ。
最初からリズムを取ってカメラマンや記者が動き、インタビューの言葉がリズムを取り始め、そして音楽が大きくなり、唄い出し、踊りだす。映画そのもの。観ている間中、多幸感でいっぱいになれる。こんなすばらしい映画を公開当時に見逃していたってことはかえすがえすも残念だ。
それにしてもイヴ・モンタンの独特のコブシはやはり独特だな。
とにかく、あまりにも幸福な時間を過ごすことができたので、このあとパーキングも観に行くのがある意味残念でさえある(余韻の問題)。
筋はドゥミー特有の血と因縁がどろんどろんで、演出家におれと付き合わないと訊かれたマリオンが、「だってあなたは兄みたいなもんだもん。わたしは近親相姦はごめん」と言った次の日の夜にはモンタンと一夜を共にして、そこでモンタンの話を聞いて一瞬愕然とするんだけど、すぐに家に帰って、結局、母親をモンタンに引き合わせることになる。って、やっぱり娘なんだね。で、結局、モンタンはミレイユ(母親)と無事邂逅できて(その前にパラディで再開し、そこで美しい踊りを二人で踊る)、そこで娘は娘と知って一瞬複雑な顔をして、後はきれいさっぱり忘れてみんなで旅に出る。どうも、フランス人の感覚はさっぱりしていていいね。それともドゥミが物語を繋げ合うのが好きだというだけで、やはり奇妙な感覚はあるのか、そのへんは良くわからん。が、仮に同じ因縁を日本映画でやったらなんかおそろしく不快な映画になりそうだし、アメリカ映画では陰鬱なものになりそうな気もする。でも、そういうことはどうでも良いのであった。とにかく、歌があって、踊りがある。
残念だったのは、造船所のシーンでフィルムが切れたこと。近代フィルムセンター所蔵フィルムがこれでまた1コマ(以上)欠落したわけだろう。
繋がった最初のところが、名セリフなのだが残念なことに忘れた。toujoursとvieが入ったような気がするが。
マリオンを演じた女優が、どこかで観たことがある、鼻の穴が良く見える顔だなと思ったら、スペースバンパイアだった。
スペースバンパイア [MGMライオン・キャンペーン] [DVD](スティーブ・レイルズバック)
(アマゾンの解説に「たぐいまれなる美乳」とか書いてあるから出さざるを得なかったのか、朝のベッドのシーンが妙に違和感があったのだが、そのあたりの事情かも。いずれにしろ、踊れば足は上がるわけだが)
全裸でそこらをうろうろする宇宙人を演じたり、舞台を夢見るモンタンの娘役をやったり、歌ったり踊ったり、実に器用な役者だな。
で、ランコムの店での売り子3人のダンスとか、最初のアパルトマンでの有名になりたいわの踊りとか、実に映画そのもので楽しい。
台詞:人に頭を下げて暮らすより、足を上げて暮らすほうが良いわ。
ピアフ。忘れてたけどピアフが一瞬流れる。独特だよなぁ。マリオンはカツラをつけてピアフのセリフをしゃべる。するとモンタンが怒る。ピアフはそういうふうにはしゃべらない。後になって、みんなは陰気な女だと思ってたようだが、実際のピアフは陽気で楽しい人だった。山崎ハコみたいだな(妙に小さいし)。
カスクドールのシモーヌシニョレの話が一瞬出て、鳩のシーン。ここのシーンはわからなかった。というかカスクドールはまだ観たことが無いからだ。
マルセイユ時代ではドゥミー自身の独白のような、ハリウッドの映画のシーン。スクリーンの中からどんどん人が出てきてタップを踏む。モンタンがタキシードにステッキ、洒脱でアステアみたいなんだけど、曲は雨に唄えばでスタンリードーネンとジーンケリー、そのあと水夫と女でシェルブールの雨傘で、ルブランとドゥミ自身。
60年代っぽさは、特にマリオンとミレイユの家と服。壁はクラインの青。マリオンは(忘れた。黄色かな?)、ミレイユは緑。真ん中のソファは白。クレージュ流のフレアスカートがひらひら。
後は、ベルサイユのバラをとにかく観るだけだ。(そのうちどこかでやるだろう)
イーヴォ、montes、という夢の中の母親の呼び声から、イヴ・モンタナになり、イヴ・モンタンになるというシーン。
空港でのマリア(ミレイユ)との別れ、マキに入るためにパリへ行く。ダンディなエージェント。
なるほど、と同意する面がある意見。
技術要求はどんどん高まる(わかりやすいのが、Webアプリケーション開発ですな)。なにぬねの。
伝統的なOJTによる叩いて教える教育の破綻というか欠落化ですに。なにぬねの。
えっと、教育ってのは、仕様(え、言語/プロトコル/APIに仕様ってあるの? 仕様って誰も読まない書類のことですよね? と真顔で聞かれることがあると怖いわけだが)ではなく通り一遍の文法を教えるってやつ以外になにかあるぬ? なにぬねの
そういう御時世にあっては、よーいどんで一定時間にとおりいっぺんだろうがなんだろうが、あるものの知識を持っていて、それを表現することができるテストに受かっているっていう事実って重要かもね。なにぬねの
まったくですよの。なにぬねの
(なとねとの以外はどう使うんだにぬ?)
コクトーへの賛辞から始まる。 il tait une foisという言葉を愛したコクトーとかなんとか。
アイリスアウト。ギターで唄う男。日本人顔の女。唄いながら上半身を脱がせる。抱擁。
石造りの大きな農家。ギターを背負ってバイクで出発。
遠くにエッフェル塔。左下きわめて低位置に固定したカメラで中心地へ向かう高速道路の疾走シーンにタイトル。ケイコイトーさんでウにアクセンシルコンフレックス、イにアクセングラーブ(だと記憶しているがトレマかも)に。特別出演にマレ。
ここまで、なんだかさっぱりわからんが、千駄ヶ谷に似た雰囲気の広場。でっかな看板にOrpheでオルフェウスとわかる。それでコクトーとギターなのか。バイク通り過ぎる、大量の女たちが追っかけ開始。鉄の柵でできた門の中へ入る。警備員あわてて閉める。柵の向こうに大量の追っかけ。
リハーサル。渡し守に出会ってpourquoi moiと唄う歌、うまくいかず一人残る。突然ギターが火を噴き感電する。舞台に倒れる。壁際のボマージャケットが近づく。おれはカロンだ。ついてこい。パーキングの黒いポルシェ。どんどん下に下りる。出口。チケットを入れる。遮断機が上がる。壁に吸い込まれる。
手違い(保険番号も違う)。ありきたりの契約書にサインして復活。息の根を止めろと姪/妻に指示する四角い顔。芸術家は嫌いだ。
ミキンシング担当(サウンドエンジニアということかな)者の車の中で地獄の話をしかけるがやめる。
ユリディスは仕事場で、Yシャツ+ネクタイ+ゆかたみたいな服で彫刻中。
料理人+家政婦+マネージャ+エンジニア+彫刻家(ユリディス)とオルフェの共同生活らしい。ユリディスから5時ころに死んだと思ったと告げられる。マレの姪から何度も電話がある。留守電を聞く。と、追っかけ、脅迫、などでうんざり。そこに姪からの電話。カフェテアートルで。
カフェテアートル。地下から姪登場。死ぬことを契約しようとして断られる。
ファンクラブの女と会談するユリディス。席が確保されていないことに対して脅迫を受ける。ヘロインを渡される。
オルフェの帰還、けんか、ヘロインをめぐる押収。飛び出すユリディス。
歌を歌う。最高か? 最高とは言えない、とエンジニア。けんかになる。
コンサートは大成功。ユリディスは?
打ち上げ会場で、エンジニアと抱擁を交わす。しかし衝撃を受ける。ユリディスが死んだ。という予感。
静脈注射(左腕に赤い布)。注射器を隠すエンジニア。
葬式。彼女は一番大切な女だった。エンジニアが嫉妬の表情を浮かべる。きみは一番大切な男だ。と、オルフェは機嫌を取る。
カフェへ行くが、様子が異なる。外に出るとカロンの黒いポルシェ(カロンカノンだ)。追っかける。ノートルダムの前の地下駐車場に入る。消える。壁にバイクを走らせる。激突して放り出される。
姪からの電話。モンマルトルの墓地。ユリディスを取り戻す契約。カロンのポルシェで地獄へ。
マレ、契約内容にあきれるが、ユリディスを返す。
地上へ向かう二人。疲れるユリディス。ここで休んでいきましょう。そうは言っても観ることはできない。愛し合うのに目はいらないわ。と、地獄の中にちょうど建ってるラブホテルに入る。で、目隠しをしてセックス。
それを監視カメラで眺めて、マレ、姪に「お前の予想通りだ。あれなら好奇心に耐えかねて見ることになるだろう」
しかし、まったく観ないまま、地上に出る、と甲州街道の新宿−大木戸トンネルそっくりの場所。オルフェ、目隠しをはずす。なんてことを、とユリディス。見ないで歩くのは危険だ。そりゃそうだ。で出口までもう少し。そこに蛇行しながらスポーツカーが近づく。危ない、とユリディスをかばおうとするオルフェ。見てしまった。消失。
ユリディスを想う歌。最高、とエンジニアが評価する。
コンサートは大成功。群集に肩車され会場を出た瞬間に、拳銃で撃ち殺される。
地獄。ユリディスと再開して抱擁。アイリスイン。
まあ、日本で公開されなかったのは当然ではある。コンテキストがわからなければまずわからない。コクトーのオルフェは鏡(水面かも)を超えるところと、マレの顔つきくらいしか覚えてなかったので、そっち方面はあきらめるとして。笑いどころなのか、当然なことなのかも微妙。両刀のオルフェなのは良いとして、エンジニアを捨てることになるわけだがそれでよいのかどうかとか。地獄の中のラブホテル、それを平然と眺めて批評するマレとか、笑いどころのようでもあり、食事を取るくらいにあたりまえのことなのか。極端な追っかけのように見えるが、日本の追っかけの機動力を考えるとフランスでもそういうものなのか、それともバッコスの信女だからそうなのか、とか。極端な日本女メークの居心地の悪さというのもある。音楽はまぎれもないルグラン節だが、若作りの芸能ロックとしか形容しようがなく(オルフェの唄やアクションも)、これまた居心地が悪い。にもかかわらず、十二分には楽しめたのではあるが、思い出のマルセイユが120点だとしたら、せいぜい80点という感じで、特に見る必要もなかったかな、という程度ではあった。とは言え、面白かったのは事実だけど。
バッコスの信女が大暴れする映画を観ている頃にバッカスが亡くなったわけだが、BNFとして名前が残ったわけで、考えてみると、名前が作ったものそのもので残った稀有の人物のひとりであるな(K&Rも死んだら名前が残るか、っていうかAWKもそうだ)。
#多分、今となってはFORTRANを読み書きできる人よりBNFを読み書きできる人のほうが多い(影響力が大きい)んじゃなかろうか。というか読めなきゃ困るわけだし。
達人じゃないから覚えてないけど、必要になればいつでも、man asciiとかできるからなぁ。
あと、man -k iso- とか(これは使わないけど)。
ちなみに、man unicodeとやってもコード表は出てこない。でもman utf-8でビット構成はわかる。
(Linuxだとman ebcdicは少なくてもデフォルトじゃ入ってないみたいだ)
ドゥミの映画の特徴は、役者がみな、良い顔をしていることだ。美男/美女ってことだけじゃない(極端な御伽噺の世界だからそれはそれで重要なんだろうけど)。特にパーキングで顕著だった。
フルミュージカルの場合は、口パクと動きをすべてミュージカルのサントラに合わせるのが前提だからどうしたって固くなってしまうだろうから、それが不要なパーキングに特徴が良く出ているのかも知れない。怒っていようが、嘆いていようが、常に、さっぱりしている。そこも演出(おとぎの世界の物語)なのだろうか。だとしたらとてつもない話だし、多分、そうではなく、何かのムードの問題なんだろう。ただ、それが大演技じゃなくて、普通な所作でそうなっているところが、60年代の作家ということなのだろう。どんなに叫んでも決して喚かない。
全然Gaucheハッカーではないけれど、それどころか、素では何も書けないけれど、それでも観に行く。
LL RingとかRubyKaigiとか観てつくづく思ったのは、ボクシングができなくてもボクシングが観戦できるように、政治家じゃなくても国会中継を楽しめるように、そのジャンルをハックしている人が舞台に出てきて何かをすれば、それはすごくおもしろいということだ。ただ、好みのジャンルがあるというだけだ。で、おれは、このジャンルが好きだ。だから、観に行くのだ。
調子悪いな
さすがに、晩飯食いながら読むには難しい(書いてある内容を確認して先へ進まないとあっというまに置いてかれるというような意味)ので、全然、先へ進まない。かといって、きちんと解釈しながらいっきに読む時間を取るんだったら別に読む本がある。というわけで、結局、晩飯ながら本のまま、とりあえず最初の最初、予備的注意を読み終わった。っていうか、このペースだと読み終わるのに2年くらいかかりそうだ。
ある言明(主語+述語)を2つに分ける。1つは分析的判断、1つは綜合的判断。前者はアプリオリな矛盾律(Aかつ非Aということはない。あるAがB=Aは非Bではない)。綜合的判断は悟性に基づく(というか、こういう用語の文章を書くには、素の学習がしにくいIME2007はぶんなぐりたいほど役立たずだな!)ものつまり経験的判断と、数学的判断、そして形而上学的判断にわかれる。で、形而上学とは形而上学的判断を取り扱う学問である。と言明した瞬間から、この言明それ自体が分析的判断となる。したがって、形而上学について教えることはできない、ただ哲学することだけができるということなんだろうなぁというところまで読んだ。
現代の物理学のある領域みたいだ。かつ、コンピュータと知性という問題の領域も含まれている。現在のコンピュータはつまるところ分析的判断の塊であり、したがって、何かを付け加え、領域を広げることはできない。4+8=12の例だと、コンピュータが4+8に対して12を出してくるのは、これが分析的判断となっているからだ。それに対して、本来の状態では4+8から12を求めるのは綜合的判断のうちの数学的判断で、それぞれ独立した4という概念、8という概念、+という概念、12という概念が、4という概念と8という概念を+という概念を適用することで、初めて結合することができる=認識を広げることができる。と考えるらしい。12という名前ではなく(12という名前を知っているとあたかも分析的判断=矛盾律のように見える。だがそういう意味じゃないだろう)、○○○○という概念に、○○○○○○○○という概念を結合して○○○○○○○○○○○○という新たな概念が生まれたということ。(確認したら4+8じゃなくて5+7だったけど、どうでもいいや)
別に考えたこと。
分析的判断というのは、形式知のことだ。暗黙知を形式知にするということは、実は、暗黙知(これは綜合判断の集合だろう)で一番重要なのは、言明それ自身よりも、その知を獲得するにあたって、理性を使って広げた概念そのものと、概念の追加という格闘そのものではなかろうか。もし、そうならば、暗黙知を形式知に変えるうんぬんというのは、抜けがらを作るようなくだらない行為だな。でも、抜けがらを作れば、新たな体で気分良く空を飛べるし、抜けがらだとしても栄養は栄養で食えばうまい。したがって、くだる行為ではある。まさに形而下の学問にするこということだ。というようなことをとりとめもなく考えてみたりしてみたり。
#それにしても、読むのはおもしろく、しかも楽しくもあるが、なんかハイティーンくらいのころに読むほうがもっと良さそうな本だな。そういう意味じゃ、ふたつのスピカとか読んでるときと同じような感覚だ(後者は子供も読むから良いけれど、前者はおれしか読まないわけだが)。
ふたつのスピカ 12 (MFコミックス フラッパーシリーズ)(柳沼 行)
っていうか、12巻が出てるじゃん。
アーロンチェアのこと書くんだからと、せっかくだからアサマシでもしようと思って町まででかけて検索したら(売ってないのを知っていて検索したのがミソのようだな)、
オカムラ オフィスチェア コンテッサ 可動肘 ヘッドレストタイプ 座:メッシュ ブラック CM51AB-FBH1(-)
こんなの(「こんなの」ってのはネガティブな指示語だけど、この場合は、思いもよらぬもの、という意味)が引っかかって、ちょっと驚いた。おもしろいぜアマゾン。
第3位のシャレードは、アーロン・デイヴィスがtitle要素に含まれているからわかるのだが、コンテッサのページにはどこにもアーロンなんて言葉は含まれていない。おもしろい。検索用メタデータがページ内情報以外にあるのだな。
本来書きたかったことは忘れた。
追記:でも、これってコンテッサをアーロンのパチモノ扱いしてるようにも取れるな。
なんだ、この題は? と思って、というのは電車男という名前は知ってるからだが、見たら、ナポレオンダイナマイトだった。なるほど、そういう題できたか。ってキターとか書いてあるし。
#伝統的に、全然関係ない邦題を付ける習慣ってのは嫌いじゃない。プランドソレイユより太陽がいっぱいのほうが気分があるし、アブドスフル(間髪いれずにって感じかな)より勝手にしやがれ、タコ殴りより大人はわかってくれない。でも、この題はひでぇな、というか、ナポレオンダイナマイトってそれだけですげぇ題だと思うんだけど。
カセットテープ! 土産に貰ったら、漏れなくカセッテテープレコーダーじゃなくてプレイヤーを買わなきゃならない! (白い象を贈る行為だ)
やはり地に足がついてない夢の世界のお話なんだろうなぁ。
もし、こいつを山の手線みたく、3分おきに発着できたら、その技術たるやすさまじいものと言えるだろうな。
#3分おきに発着できるってことは、1時間あたり20本(あたりだと19本か?)というダイヤを組んでるってことになるし、組んでるってことはそれで十分にペイできるってことだし、ということはそれだけの乗客がいるってことだ。とすると、首都圏というか東京への通勤圏ってほぼ大阪から仙台までってことになるな。むしろ、途中下車できるんだろうか? とか考えると、エンドトゥエンドで満員電車化しなきゃだめだろうってことは、現在の京葉線とか埼京線とか京急みたいな感じだな。おそろしいけど、まあ、そうだとして、へたに上尾とか藤沢あたりより、はるかに仙台に家持つほうが効率的ということになりかねないなぁ、とか考えるととすごいドーナツ現象ができる。富山のほうが、さいたまよりも都心に時間的には近いとか。
そこまでなればおもしろいだろうけど、飛行機の地面走る版みたいな感じなんだろうな。新幹線通勤が普通じゃないのは、超特急料金だからだ。というのと同じことで。
#もし、車内に吊革をぶらさげるための棒がついてたら、やつらは本気なんだろうけど、つけてないに100億ガバス。
#サービスを受ける側が得られるサービスそのものに着目して、コストを度外視すれば、駅に入ったらすぐに乗れる山手線は、搭乗手続きを20分前にしろとか、持ってる荷物を疑ってかかられたりする最低のサービスの乗り物より、遙かに、良いサービスを受けていることになる。しかもどちらも、目的とした移動そのものについて言えば、ポータルまでの移動距離は近い間隔で多数用意されている在来線のほうが上だ。しかし、運賃はくらべものにならない(距離に比例と考えれば、ほぼ新幹線と互角なんだっけな?)。と考えると、実際はポータルまでの移動距離と時間まで含めれば、それほど変わらないのに(たぶん、大阪くらいまでは。北海道になると時間が全然違う。岡山でぎりぎりくらいだったかな)、ポータル間の移動に必要な時間だけで劣悪なサービスのほうを選んでいるということになるわけだな。まったく、時間が一番貴重だってことは同感ではあるけれど(なぜ、同館ってのがトップなんだ? しかも学習しない。――っていうか、プログラムを書き、雑文(テクニカルな文章もだけど)を書くのがおれなのだから、こんなSKKよりも効率も反応も悪い日本語入力方法を利用しなきゃならないビスタって使う意味ないな。というか、時間が無駄だ。まだLinuxのAn忘れたのほうがましだし、それよりSKKのほうが楽だし、XPのIMEのナチュラルじゃないスタンダードはもっと使いやすい。
アンインストールするか。
_ ただただし [吊革が付いてても、今のリニアだと立ってられないですね。「企業戦士」なら立っていられるかも知れないけど。]
ゲド戦記 1 影との戦い (ソフトカバー版)(アーシュラ・K. ル・グウィン)
子供が図書館から借りてきたので借りて読んだ。
子供はそれほどおもしろくなかったみたいだ。さもありなんと思った。
たとえばハリーポッターみたいな波乱万丈がないし、ナルニアみたいな不思議な生き物がうろうろしてるようなわかりやすいセンスオブワンダーでもないからだ。しかも、主人公自身が明白な正義ではなく(散々、というか冒頭から主人公は賢者で英雄だと書かれてはいるものの、この巻では)、戦いはすべて禅問答みたいな形で行われ、主人公がなぜそうだったのか、と理由を考える。
ありていに言えば理屈っぽいわけだ(あと文体が客観的なところ。主人公が考えているところでさえ、一人称ではなく第3者が観察しているような印象を受ける。ちょうど、ニコラスレイの特別な映画において、常に主人公たちが何か重大な決定をすべきときには、第三者がカットに入っているのに似ている)。
というわけで、おれには滅法おもしろかった。正直なところ、essaさんの名前の由来を調べるたら終わりにするつもりで、全部読む気はなかったのだが、結局、全部読んでしまった。
ちょっとひっかかったのが、オタクの描写で、サイズはネズミといっぱい書いてあるし、見た人はみなイヌとして(最初の描写においても)扱っている。でも、これって、ネコだ。病気で寝てるとハグるところとか、エサを分けてくれることとか。(おれが知らないそういう習性を持つイヌがいるかも知れないけど)
だから、筆者はネコを飼っていて、多分、そのネコと触れ合った感触をもとにオタクのことを書いているんじゃなかろうか。というのは、生き物と暮らすことについての未来からの視点で書かれた個所が、唐突なリアリティがあるからだ。でも、物語として主人に忠実なネコというのは、伝統を外しているし(長靴をはいたネコってのはあるけど、あいつは自分で飛び込み営業をする歩合制の家来だから忠実ではあるけれどイヌ的なありようとは違う)、ネコと暮らしたことがないとわかりにくいと考えて、(ネズミサイズの)イヌとして第3者には語らせているのではないか、と思った。
そのおれが思ったことが正しいかどうかは重要ではなく、そういう、文章表現(書かれている言葉)と書かれている内容(物語そのもの)が微妙に乖離しているという感覚が常に漂っているということが、明確に出ているのがオタクについての描写なのだ。
それに、この物語は現在進行形で書かれてはいない。冒頭に書かれているように、常に未来の視点から過去にあった事実を物語っているのだ。しかし、実際の物語においては、未来がどうなるかは明らかではなく(もちろん、龍王やら大賢者になることはわかっているので、当然、影に乗っ取られることはないというのはわかるわけだが)ゲドの動きに合わせた時制で語られる。これも微妙な差異を生み出している。
未来から過去を物語るということは、実際には発展性がかけらもない言明の連続である。AはBと語った場合、Aは非Bではない、という意味だ。というのは、未来は過去を知っているからだ。その一方で、現在進行形においては、Aは の次にどうなるのかはその時点ではわからない。この語られつつある言葉が常に既知と未知の間をゆれ動くことから生じる微妙なずれが物語りに陰影をつけているのだが、それは読みにくさにも通じる。そこにはすさまじいダイナミズムがあるのだが、それは物語の動きに対しては逆に強い抑制となる。そのため、本来の冒険譚になくてはならないわくわくする感じに乏しく思えるのだ。
#神話的なものを人は分析的に読む。なぜ分析的に読むのかというと、まさに現在(という語られた時点からの未来)と語られている時点でずれが生じているため、言葉が分析的に流れるからだ、と考える。
というわけで、子供は続きを借りる気はないようだ。まあ、そうだろう。筆者はこの構造を突き抜けるほどのストリーテラーではない。
しかし、この作品はいかにも60年代だか70年代だかの上質な英米文学に違いない。というのは、筆者はオタクの個所に見られるように(とおれは考える)その差異を意識して語っているからだ。この話法は記憶にある。たとえばアルトマンがそうだし、そこまでいかないまでもアメリカンニュ^−シネマの上質なものが同じ空気の中で生まれたといえるからだ。プログラムに沿って物語りを流すことで、逆に語ることと語られるものの差異をはっきりさせ、物語られていないものを浮き彫りにする手法だ。
手法は、何かを語るために使う。ここでは語られるものは、物語そのものではない。
もうちょっと大きくなったら、もう一度、読むように勧めよう。すぐれた作品だ。
#しかも、この物語そのものが、言葉にして語られる名前と、語られることがない名前の物語で、(そこは児童――ミドルティーンからハイティーンと考えられるが――文学なので、メタフレームワークを読者に提示しておく優しさを持つからだろう)、きれいな入れ子構造を作っている。見事だと思う。
なるほど。そういう発想はなかったな。確かにそれも納得度が高い。
制度というのは、基本的には経済活動を支えるためにある(というか、そうじゃないものを探すのは難しいから、そうじゃないことをする人に賞賛を贈るわけだが)。
たとえば話題のプライバシーマークの目的。結局、EU加盟諸国を相手に商売するために必要なツールとして制定されたことが、きちんと書かれている。もっとも、EUは本気だったから、そんなことじゃだめだったわけだろうけど。元々、商売のためのツールに過ぎないのだから、経済活動に混乱を招くようなことができるわけがない。
資格ってのも、したがって、多かれ少なかれそういう成り立ちがある。
ただ、保護的な側面は無視できない。この親父は運転免許を持っているから、少なくても道交法の基礎と基本的な運転技術は期待できるだろう、みたいなユーザー側からの判断基準としての側面だ。(誰が判断するかという点に関して開放した話をしてるわけだけど)
それに対して、サプライヤー側からは確かに、この親父は運転免許を持ってるから安心でっせ(アル中だけどな)、というエクスキューズに使えると言われてみればその通りであった。
もっとも、おれは昨日、ゲドを読んだから、影は影として受け入れることにしたのでOKだ(けむにまく文章の終わらせ方法)。
このあたりで学習を停止したらしい。
と、コマネチ大学のモンモール数の録画を見てて思った。
よくわからない理由から妻が録画してたので一緒に見たのだが、こういう番組だったのか、で、正解の解き方を見てて、以前、原先生が作ってくれた「食玩問題(別名Teao分布)」のPDFを思い出した(忘れてたね、正月挟んで完全に)。
MSDN読んでたら「Visual Studio (Microsoft Visual Studio 2005 インストール ディレクトリの VC#\Specifications\1033\ ディレクトリ)」にあるよ、と書いてある。
で、見たら1033じゃなくて1041じゃん。つまり日本語化されてた。
日本語化された仕様がちゃんとあるってのは良いことだなぁと思ってはみたものの、結局The C# Languageから原語のほうを取ってきたりして。
でも、VBのほうは、インストールもされてないし、MSDNにはMicrosoft Visual Basic ディベロッパーセンターで入手可能とか書いてあってしかもリンクもあるんだが、どこにも見つからない(書かれている文字をいくら読んでも。きっとどこかにはあるんだろうけど)。
そういえば、グレアムグリーンは昔からグレアムグリーンだったよな、と思い出したけど、確かにGrahamと書いてグレアムだ。(名字でも名前でも使える名前って、やっぱりネタ的に息子にGrahamと付けるミスターGrahamとかいたりするんだろうか? Graham Graham――もしこの場合はグレアムグラハムと読むのならありなのかも知れないけどな――、そうよムッシュ・ダム、あなたと結婚するとマダム・ダムみたいだ)
おれはオーソンウェルズ好きだけど、作家としてのオーソンウェルズが好きなのだ。多分(本当は、作家としてのオーソンウェルズが役者としてのオーソンウェルズをいじり放題にいじくりまわすのが好きなのだ。たとえば真夜中の鐘というかフォルスタッフ)。
だから、グレアムグリーンの映画と言えば、
フリッツ・ラング コレクション 恐怖省 [DVD](レイ・ミランド)
こわいよ。
でも、グレアムと言うとどうしても黒髪隻眼の生意気な臆病そうなのに傲然としている小僧の顔が浮かぶのであった。
そういえば、アブラハムリンカーンってあるときからエイブラハムリンカーンになったけど、実はエイブレアムリンカーンなんだろうかーん?
自分の体で実験したい―命がけの科学者列伝(デンディ,レスリー)
1770年代に、100度を超える部屋の中で、人間が熱で死ぬのはどのくらいだろうかと実験した男たちに始まる、なんというか好奇心と研究への情熱あふれる人たちのエピソード集。
最初のエピソードは、8人の医者、植物学者といった人たちの挑戦。人はどのくらいの高温に耐えられるかを自分たちで実験した。サウナでは50度台でかんべんしてくれだが、ストーブを燃やしに燃やした部屋だと99度とかでもOK。最初の予測では体温は上昇するはずだったのに、最終的に、127度の部屋に7分いたけど、それでも体温は36.7度程度。でも、卵や肉はばしばし焼けていく(33分でウェルダンになるという記録を取っていたり)。何が違うかといえば、卵や肉と違って、おれは汗をかいている。
というわけで汗のありがたみがわかり、体温が高くなるというのは異常事態だとわかり(体温計の必要性が理解されたり、機能的に洗練されていったりとか)、というような話が並んでいる。
すべてのエピソードが生き残る話ばかりじゃない。たとえばマリーキュリーとか(でもこれは知ってはいたけど)。夫のピエールは腕にラジウムを直接当てて焼け焦げるのを観察してみたり(で放射線療法が生まれる)。マリーキュリーの研究ノートってフランス国立図書館に保管されていて希望すれば読めるけど、今でもノートからは微量な放射線が出ているので、図書館を訴えないという誓約書にサインが必要だとか。
#追記:これ、アマゾンでは品切れなのか。おれは3日前に八重洲ブックセンターで買ったんだけど、平積みのピラミッドができてるよ。っていうか、1900円の本を3800円で出品してるやつがいるが、そりゃひどいだろう。と思ったけど、紀伊国屋文左衛門とか河村瑞賢の一種と考えれば、まあそれもありだとも思わないでもなくもない(でも瑞賢や文左衛門はとんでもなくリスクテイカーだったわけだが)。
#木筒にいろんなものを詰め込んで丸呑みしたり、ゲロ吐きまくっていろんなものを漬け込んで、胃液が酸性で、胃によって消化することを実証した18世紀のイタリアの科学者(スパランツァーニ)の話も気に入った。特に、従姉妹がボローニャ大学の教授をやってて、彼女の勧めで法学者コースから科学者コースへ転進するところ。18世紀のイタリアの大学には女性の教授がいたっていうところからして、いかしてるね。
というわけで、2回あった前夜祭のあとに、いよいよ蒼ざめたカヤックがやって来る。
僕もrjbがちょびっと言及されていることもあってレビューに参加したのですが、いろいろな読み方ができる本なので読む価値はあるでしょう。
読み方1: かくたにさんの漢を読む(翻訳ってのは結局、自家薬籠中のものにすることだからね)。Rubyサイコー
読み方2: テクニカルに読む。確かにある種のシステム(具体的な例は自分で考える)であればJ2EEよりRailsのほうが向いているわけだ。
読み方3: 開発者のマーケットセグメンテーション戦略として読む(インドに行かせない方法というか)
読み方4: SIerの〃 (読み方3をよりビジネス寄りにシフトさせて読むってこと)
読み方5: 批判的に読む。当然だけどJ2EEは優れたテクノロジーだ。テイトが書いていないことを読めば、J2EEであるべきシステムがはっきりわかる。
読み方6: なんで、USでRailsがブームになったかを読む。あるいは時代の空気を読む。テイトってカナリアだな。
読み方7: ツッコミを入れながら読む。ちょ、という個所はあるよ。
読み方8: 言いくるめ方の教本として読む。この本ってJava信者をRuby信者に改宗させようとするコーランですな。もう一方の手は剣じゃなくてEclipseを握り締めてるわけだが。
読み方9: J2EEを豊かにするために読む。テイトはある意味、敵前逃亡者なわけで、Javaに問題があるとしたら、ではそれは何か、どうすればよいのか、を考えるネタ本でもある。
という具合に、読み手のスタンスによっていろいろ示唆を受けることができる。正直に言うと、おれにはまったく実利的には役に立たない本だったわけだが、ではレビューした時間が無駄だったかと言えばそんなことはない。少なくても1つの原稿で上の9種類の楽しみ方ができた。9についてはおれはアウトプットをする気が無いからいまいちだけど。
DSもいれば、PSPもいるし、そこら中の家がAP持ってるし、ノートパソコンもぶんぶん出してるし、電子レンジは昔からいたり……というわけで、802.11aシフトが徐々に始まっているらしい。
携帯買い換えたので、なんちゃらの洞窟(忘れるのはあっという間だ)とピチョン君のゲームができなくなってしまった。
電車は主に地下鉄なので、PCサイトビューアがついていようがなんだろうが、ネットワークがつながらないから、オフラインで遊べるものが必要だ。
というわけで、いろいろ見ても、どれもこれも時々オンラインになるとか書いてある。売り切り方式じゃなくて、会員制にしてサービスフィーを取る形式へ移行してるからだな。
で、いろいろ見ていったら、大戦略ってのがあって、その昔、名前は聞いたことがあったので、それにしてみた。もちろん完全オフラインなのは確認した後だ。
で、これが、おもしろい。とりあえずめでたしめでたし。
ジェズイットを見習え |
Before...
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