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ActiveScriptRuby 1.8.7-p357とか、ついにこの日がとかを読むと、なんかパッケージを作らないように受け取られているような気がするけど、それはまったく違います。
1.8.7系は今となってはまったく興味もなければ、使ってもいないので、パッケージを作らないというだけです。あと、VC6をさっさと捨てたいというのもあるし。
で、1.9系は、ActiveRuby.msiというパッケージの名前が重なるのがいやなのと、Rubyのバージョン番号が反映されなくて不便なので、すでにRubyパッケージを見てのように、Ruby-バージョン番号という名前でパッケージ化しています。
で、当たり前ですが、僕が使うためにパッケージングしているので、当然、RScriptなどは組み込まれています(というか、スタートメニューで、OLEView(HTA)を実行すれば明らかでしょう。ASR抜きでどうやってHTAでRubyが動くというのか)。
ただし、次の違いがあります。
・ActiveRuby.msi
1.8系。VC6(MSVCRT.dll)。1.8で開発が終了しているライブラリ(uconv, starruby)。
・Ruby-1.9.x
1.9系(そのうち2.0系になる)。VC10(というか、その時点のMSVCR最新)。
その他、ActiveRuby.msiには同梱しているけど、Exerbは結局利用シーンが(僕には)無いので1.9系では入れません(パッケージもでかくなるのでちょっと避けたいというのもある)。便利なやつで素直に1.9で動作するもの(algebra、VisualuRuby、DXRuby)は相変わらず同梱しています。(思い出したけど、ruby-1.9.0だか1.9.1だかを最初にパッケージ化したときはASRの1.9対応ができていなかったので別パッケージにしていたから誤解されているのかなぁ)
・共通で入ることがデフォルトなもの(使うために作ったのだから当然)
ActiveScriptRuby、RJB、lhalib、icmpping、suexec (cstruct)、winpath
というわけで、今後は1.9系をよろしくお願いします。
・それとは別に、Rails専用の64ビットパッケージとしてNougakuDoがあります。
さて、全然いいは「誤用は迷信」ということで、おおそうなのかと、「全然いい site:www.aozora.gr.jp」してみる。
しょっぱなが横光利一で、「お前にしても全然いいことをしたのではなからう」と否定で、次が菊池寛で「全然無視するがいい」とちょっと微妙な肯定、で、太宰治が「全然、それと反対である」と内容は否定。で坂口安吾は「全然ダメ」。このあとも坂口安吾と太宰治は否定なのだが(2人とも昭和の戦後も活動していたから比較的新しい人。ただし太宰治でも「全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある」という肯定もあるし、坂口安吾にも「全然よその言葉でお談義あそばしてるだけだ」という肯定表現もある)、北原白秋が「全然開放的であった」で肯定、さすが(活躍したのは)大正人。
大正に殺された大杉栄は「全然芸術家でもなければ、又、全然人間でもない」と、眺めるとほとんど否定がくっついている。
うーん、確かに眺めるだけだとどっちでも良い感じが漂う(が、傾向としては否定が多いように見えるね)。
めりけんじゃっぷ谷穣次の「ぜんぜん新しい」はモダン文体なのでなんでもありなのであまり参考にならなそうだなぁとか。
まあみんな「全然」って言葉は全然好きなようだ。
でも、言葉は世にツレ変化するのが正しい主義者の人は、誤用ということで頑張るのが全然いいとおれは思うな。
菖蒲町へタンタンの冒険を観に行く。i-MAX3Dで観られるならそのほうがいいね。
始まると、ちょっと陰影があるマンガタッチでクレジットが始まる。なんか別に3Dアニメにしなくても、これで十分にいい雰囲気じゃんとか見ているうちに、街頭絵描きに似顔絵を描かせているタンタンが登場。うう、すげぇ違和感。
でも、そのうち慣れてくると、話もどんどこおもしろくなってくる。
で、画に違和感がなくなる(特に、ハドック船長が出てくると違和感がまったくなくなるので、それにつられてタンタンの違和感も軽減されるようだ。後で子供と検討してみたが、おれには、中年以降の人間の肌の質感がアニメの質感と違和感が無いのが大きいように思う。それに対してタンタンは少年でつるぺかなのでアニメによる違和感が大きいんじゃないかな。子供は髭と鼻の特徴によって違和感が軽減されるのが大きくて、タンタンの特徴は前髪だから肌の質感が全面に出るのが問題じゃないかとか)。
一方、違和感がありまくるのが名前で、台詞を聞いているとタンタンがティンティン、デュポンデュボンがトンプソントンプソン(これはひどい)、そのくせハドックは時々アドックとなる(しかも彼はタンタンをタンタンと呼んでいるように聞こえる)ので相当変な感じだ。ナウシカを原作本を読んで知っているベルギー人が、アメリカで最初に公開された映画を見たら名前をザンドラって発音しているけどフラマン語だかフランス語だかへの翻訳チームはオリジナルに基づいて字幕を作ったのでナウシカと表記されていてるという感じだろう。
一方、動きの派手さはすばらしく、海賊船の空中攻撃だの、戦車といっしょにホテルが動いてきたり(絶景な立地に変わるので星が増えるというギャグはおもしろい)、クレーンのバトルなどおもしろさ満点。そういえばスピルバーグは観覧車を転がして唖然とさせたことがあったなとか思い出した。映画ならではのとんでもない仕掛けは見事なものだ。
1941 【プレミアム・ベスト・コレクション\1800】 [DVD](三船敏郎)
(興行的には失敗作だろうけど、おれは映画館で観ていて死ぬかと思うほどうけまくったなぁ。ダンボのくだりも印象深い)
しかも、タイミングが抜群のくだらないシーンも相変わらずうまく(おれがスピルバーグの映画で一番好きなのはインディジョーンズでアラブ人の巨漢が肉体的に攻撃を仕掛けようとしたのを軽く撃ち殺すシーンだ)、ハドック船長がオールを取るやあっというまにのびのびと漕げることになるシーンとか、タンタンが目が覚めるとボートがとんでもないことになっているシーンとか、まあ実におもしろい(このへん原作を覚えていないのだがオリジナルのお笑いシーンだとは思うが、それでも映像化するにはタイミングのセンスが必要だろう。その点スピルバーグのうまさは抜群だ)。
どこまでがセールストークでどこまでが真情かはわからないけど、ビッグイッシューのインタビューだと、インディジョーンズを観た評論家だかファンだかから、まるでタンタンみたいで最高と褒められてタンタンに興味を持ったけどなんのことだかさっぱりわからなくて調べたら、エルジェという人のマンガだった。で、当時アメリカでは翻訳版はあったものの簡単には入手できなかったので辞書をひきながらオリジナルを読んで気に入って、映画化を検討したけど技術的に無理だとあきらめた。が、リング・オブ・ザ・ロードのゴラムを観て、そのてがあったかと気づいてピータージャクソンに協力してもらうことで映画化の目処が立ったとか。というわけで、ゴラムの人がタンタンだかハドック船長だかをやっているらしい。
それにしても実におもしろかった。スピルバーグはスラップスティックコメディの継承者だったのだな。
レッドラッカムってレッドラムとは関係あるのかな?(カがなんだかわからないので多分関係ないんだろうけど) レッドラムレッドラム
#タンタンがびっくりするとビッグスネーク(うろ覚え)とか言うんだけど、あれはなんだろう?
上でトンプソントンプソンと書いてから、確かにそういうように聞こえたけどプログラムだとトムソンだったような、と思い返してみてみたら、トムソントンプソンだった。ので、次のは間違いだと思う。
トンプソンツインズっていう全然トンプソン関係ない名前の連中のトリオバンドがあって、デビューアルバムをたまたま買ってしまって良く聴いた(そのうちヒットを飛ばすことになったけど)のを思い出した。
で、トムソントンプソンじゃなくて、トンプソントンプソンだったら、もしかしたらタンタンのファンで(当然のように英語翻訳版を読むとして)、そういうバンド名にしたのかなと思ったのだった。
apkをWebサーバに直接置いてダウンロード/インストール→失敗となった場合には、adb(Android SDKのplatform-toolにある)を使う。
adb -e install foobar.apk
この方法だと失敗した理由が表示される。
47 KB/s (38311 bytes in 0.781s) pkg: /data/local/tmp/foobar.apk Failure [INSTALL_PARSE_FAILED_NO_CERTIFICATES]
で、このコードで検索する。
この例ではIssue 19567: JDK 7 - INSTALL_PARSE_FAILED_NO_CERTIFICATES。
あー、やっと解決した。(NetBeansに頼りすぎていたのが敗因だなぁ。だからあれほどコマンドラインツール重要とわかっていたのに)
おまけ:まともな電卓
テレビを見ると海の上になんか棒がそそり立っている画にかぶせてナレーションが入る。みなさんこれが何かわかりますか? ああ一角だなとすぐにわかってしまって、何つまらん番組やっているのかと立ち去ろうとしたら、ナレーションが続く。これまで北極海にしか生息していないなどの理由で生態が全然わからなかった一角ですが最近、研究が進んで、この角の役割なども知られるようになってきました。おお、それはまったく知らない、では見てみようと最後まで見たのがダーウィンがどうしたとかいう題の番組。広告が入らなかったからNHKだと思う。
・イヌイットは一角を貴重な食料源とする(角を売ったりもする)。が、滅多に見つからないので乱獲しているわけでもなんでもない。
・氷が薄いところの下にいるらしい。が、残念、白イルカでした。が、ラッキー、白イルカがいるところと生息条件が同じなので高い確率で一角もいるはず。
・いました。角は体長の1/2にもなる(長いものでは3m)。やっぱりクジラのサイズなんだな。
・骨格標本。さて角といっているがその実体は。口から突き出しているってことは歯なのか。(つまり牙。それも左側だけ。ただし100頭に1頭くらいの割合で両方の牙で双角となっている個体もある)
・西洋には16世紀に珍物として登場。みな、実体を知らないのでユニコーンの角と考えた。しかし17世紀にはクジラの角だということが知れ渡った。
・牙の特徴は、螺旋を描いていること(黄金バットのナゾーが住んでいる塔みたいだった)。
・何に使うのかについて3つの学説があった。
・1)敵(シロクマやシャチ)と戦うため。
・2) 氷を割って息をするため(クジラなので肺呼吸する)
・3) 獲物を捕まえる銛の役割。
・全部間違い。1) ー 敵はすばやいので逃げるしか手段なし。2) − 牙は大事にしているためそんなことには利用しない。氷は頭突きで割る(牙は水平になっている) 3)ー牙で獲物を突き刺したとしてどうやって口に運ぶんだ? (2だと思っていたが、ダメな理由を見た限り一番まともそうな考えだったのだな。というか3)があり得ないのはほとんど頓知レベル)。
というか、雌には牙がない。外敵用、呼吸用、捕食用のいずれも生命維持の問題なので雌に無いという時点でそれらが目的ということはあり得ない(なるほど。そう考えるのか。すごく納得した)
・ってことは雄が雌の気をひくためだな、と自然に考えて見ていると
・角(牙だけど)を使うところが観察できた。
・雄同志の戦いのために利用する。
・なんと、武器か。
・出会ったら、海面に牙を出して長いと勝ち。ただし、より海面から高い位置に先端があるほうが勝ち(長くても海面すれすれだったり30度くらいだと短くても垂直なやつに負ける。高く牙を掲げるにはえらい力が必要なので、それだけ偉いということらしい)。
・負けた雄は、角を使って、勝者の背中をごろごろしてやる。
・なんと。文化になってるじゃん。暴力が全く出てこないという点ではサルや一部の人間より遙かに高度に抽象化した関係性を持っているということだ。
・うーむ、本当にクジラ(少なくとも一角)は確かに知能が高いのかも知れないなぁ。
・雌のナンパにも使うよ。
・ああ、やっぱり、そこはやはりケモノですな。勝者に対しての行動と同じく背中をころころする。
・子育てで発見があったので3部を見ろ。というわけで見る。
・次回はエゾジカだよ(広告の代わりか)。角は1年で生え替わる。抜ける瞬間の映像がこれだ。……びっくり仰天。赤くて丸い跡が残るのか。というか、1年であんなにでかくなるとは。あるいは群れが知床を駆け巡る姿は、まるでサバンナ状態。知らないことがたくさんあっておもしろいな。
・3部。母が子供と2人で泳いでいる。母離れに2年かかる。
・雄が近寄ってきた。これは危険だ。というのはクジラは出産後、雄は子育てに一切協力することはないので云々かんぬん。
・が、一角は違うことがわかった。
・雄が子供と併泳を始めるとメスは遙か深海に潜っていく。多分、子供がついてこられないので、オスに子供を預けてエサを取りに行くのではないか? (深海で何をしているかまではわかっているわけではなさそうだ。エサは、鱈が好物とか別の個所で言っていた)
・オスはメスが帰ってくるまで子供を背中に乗せて泳いだりして遊ばせている(というようにおれには見える。ナレーションでは当然、背中に乗せて泳いで待っている、というニュートラルな表現。しかひ食べるのでもなければ争うわけでもなく、飯を食わせるわけでもなく、単に背中に乗せて海面を適当に泳いでいるだけなのだから、遊ばせているようにしか見えない。メスと交代でどうしたというと皇帝ペンギンの子育てを思い出したが、あれは明白に卵を温めていたけど、一角のはなんで背中に乗せる意味があるのかとか考えると、遊びだよなぁ)。
・江戸時代に、海外の諸文献をもとに一角を調べて書いた本が残っている。双角についての記述まである。どうも世界で一番、一角に詳しかったのは江戸時代の日本人のようだ(とは言え、イヌイットのほうが詳しいだろう)。大黒屋光太夫みたいな連中が北極海をうろうろしていたのかなぁ。
というわけで、すごくおもしろかった。勝敗にルールがあるというのが特におもしろい。
承前)なお、上では「バグ」と一言で表現していますが、実際には一言で割りきれるような障害はほとんどありません。このため、少なくとも自身が経験を積んだ開発者でない限りは、安易に「バグ」という言葉を使ってはいけません。
たとえば、プログラムAとプログラムBの2つのプログラムを組み合わせて利用している状況を想像してみましょう。このとき、Aのバージョン1とBのバージョン2の組み合わせでは問題は起きていなかったとします。しかし、別のプログラムCを導入するために、Cが要求するプログラムBのバージョンアップを行ってバージョン3を導入したところ、プログラムAで例外が発生するように変化したとします。この状態をさしてプログラムAで例外が発生していることから、プログラムAにバグがあると表現するのは間違いです。少なくとも、筆者がAの開発者であれば、「動作保証しているBのバージョンを変えたのは利用者なので、問題の責任は利用者にある。したがって、一義には利用者が自分でBのバージョン3に対応すべき」と考えます。つまり、この場合のバグは、利用者の利用方法で、例外となったプログラムAはむしろ利用者のバグによる被害者です。
したがって、最終的にプログラムAの開発者にサポートを依頼するとしても、「バグ」という表現は避ける必要があります。
(なんか、無用なことを書きすぎたので没)
使い方のバグだろうが、プログラムのバグだろうが、呼び出し方のバグだろうが、なんだろうがバグはバグじゃん。それをバグと呼んで何が悪い?
電子レンジにネコを入れて乾かしたら死んだ(赤ちゃんを電子レンジで殺害した事件から考えると、破裂したりせずに内臓が強く損傷して死ぬらしい)。かわいそうに。当然、電子レンジのバグなわけじゃん。→ というところから原因を追及していって、「電子レンジの」使い方の「バグ」ということがわかるわけで、それが重要なんだから、バグをバグと呼んで何が悪いんだ?
石油ストーブに、ポリタンクに入った燃料を入れて点火したら爆発した。当然それは石油ストーブのバグだ。→というところから原因を追及していって、「石油ストーブに」石油と間違えてガソリンを入れるという「バグ」ということがわかる。そういうおっちょこちょいがいるということがわかったおかげで、取り扱い説明書に、「石油以外を入れないでください」と書けるようになる。これも、バグをバグと大声で騒ぐ間抜けがいるからこそできることだ。
というわけで、原因はわからなくても、ひとたびコトが起きたら、その事象の中心に存在する事物のバグとして大声を上げて何が悪いのか?
という考え方も、もちろんある。すばらしいことである。
でもね、おれはまともな考え方(saneな考え)をしたいわけだ。
ある問題が起きたら、大騒ぎすること自体はまったく悪いことではないどころか、とっても良いことだ(でも脆弱性の報告は別口で)。
でも、それを「中心にある事物のバグ」と呼ぶのにはまったく賛成できない。
なんで何が原因で、あるいは何が起きたのかわかってもいない時点で「バグ」なんていうジャーゴンを使う必要があるのだろうか?
報告は冷静かつ正確に。
「viにバグがあります」という報告には何の意味も価値もない。
「パスワードを変更したくて、vi /etc/passwdとしたけど、パスワードらしき項目がありません。ファイルの内容を表示できないviのバグです」
おしい。最後の一言が余分だけど、何が問題(あるいは何をしたい)かがわかった。そういう場合は、passwdコマンドを使いましょう。
というような話ですな。
地下鉄に乗ったら映画のメディア販売の広告が出ていて、何の気なしに眺めていたら疑問が湧いてきた。
その広告だとDVDは2980円、ブルーレイは3980円だそうだ。でもこれって変じゃないか?
ブルーレイのメリットって容量とDRMのガチっぷりだ。で、前者はROM化された時点で消失しているんだから、後者しか残らない。でも、そのメリットは販売側のものであって、購入側のものではない。なのに、なんで価格が上なんだ? 謎だ。
追記 もちろん、まだ先行投資分の回収が終わってないって可能性もなくはないだろうけど、さすがに出てから何年立ってるんだ、と考えるとそれもないだろうしなぁ。
家族で、大久保の三徳へ行っていろいろ見ていたら、子供がこれ食いたいとか言って牛すじをみせた。100グラム98円か。で、300グラムくらいでパッケージ化されている。オーストラリアとかの肉で普通は100グラム400円、すね肉とかで300円割る価格、モモ肉のブロックで300円半ばだからばかみたいに安い。
で、まあ良かろうと大量に買って(でも700グラム買っても700円いかないんだぜ)帰った。
で、どう作ろうかと、白いところがたくさんの牛すじを見ながら、考えていてもしょうがないのでぐぐる先生に訊いたら田村隆先生の牛すじの煮込みが見つかったから、これをベースに作ることにした。
まずは書いてある通りに、沸騰した湯に突っ込んだ。
でも、その前に書いてある通りに水洗いをした。もともと三徳は結構きれいにパッケージングしてあるから、ほとんど汚れみたいなものはないけど、血は多少出ていた(後で、考察する)。
で、沸騰させると(こういうのって火加減が微妙で100度に保つ保温的な火力じゃだめで、強火でぐらぐらさせるのが重要なようだ。そうするとばんばんアクが出てくる)結構アクが出るので捨てる。野菜のアクはあまり気にならないのだが、良く観察していると、どうも血液が肉から出てきて途中で凝固しながらアクになるみたいで、これが結構、強烈な臭いがするからだ。
で、15分と書いてあるし、実際、その程度ゆでるとアクも出なくなるので、火をとめて、水をがんがん入れて冷ましながら、肉を取り出した。
で、また書いてある通りに包丁で筋目に垂直に切っていく。つまりはベルト状だから横に切っていく感じだ。脂肪分はほとんどない(これは茹でている間にわかった)のだが、結構、ぬるぬるして持ちにくい。
で、これまた書いてある通りに、ゴツゴツしているところや、あまりに筋が硬いところを最初にさっきの鍋(軽くゆすいで水を入れた)に入れて1時間。
とは言え、最初の15分くらいでもうアクが出ないことはわかったので、断熱した。
で、1時間後に取り出して残りを入れて、今度はもうアクが出そうもないことはわかっているので5分程度で煮立ったところで断熱。
1時間おきに取り出して煮立てて断熱を2回繰り返して、書いてあるとおりに3時間に持ち込んだ。
で、これまた書いてあるとおりに、ゆで汁をステンレスのボウル(しか手頃なやつが無かった)にあけて、肉を取り出す。で、大根を切ったのを入れて、上に肉を入れてゆで汁を戻す。水はたさなくても問題なしな量だった。
で、火にかけながら、その他のやつの用意。
ショウガとは書いてないけど、これだけ臭みがあるんだから入れて悪いことはないだろうと、適当に輪切りにしたやつ数枚を入れる。にんにくはガーゼとか使うの面倒なので、1片というか1つの房を皮を剥いて包丁の柄で叩きつぶして放り込む。ネギのゆでゆでになったやつは好きなので、白いところを5cmくらいの長さに切ったやつも放り込む。
で、酒を適当にだばだば入れて、昆布を入れて、煮立てて断熱。アクはほとんど出なかったので、それほど長くは火にかける必要はなかった。
これまた1時間くらいで取り出して再煮立て。大根はもうちょっと柔らかくても良いかなとまた断熱。
で、1時間くらいして取り出して、良い感じな気がするので、醤油を適当に入れて(多分、大さじ3杯から4杯というところ。塩気調味料については少ない分にはあまり気にしない。後で足せば良いからだ)、砂糖を大さじで3杯程度、足りなければ食うとき足せば良い(と思っていつも少なめにするのだが、あとから追加する必要があった試しはない)。で、また断熱。
このとき、マイタケがあったので一緒に入れた。キノコは煮込んでも煮崩れしないし、なんか出しが出まくるみたいなので煮込み料理にはとても重宝する。とくにマイタケは良い感じだ(2回目に作ったときは面倒なんで最初の時点で入れたがそれでも問題なかった)。
で、一晩放置態勢に入るのだが、起きている間は途中2〜3時間おきに再加熱、煮立てて断熱とする。途中で煮立てないと、なんか雑菌が繁殖しまくりそうな気はするからだけど、そもそも入り込む余地がそれほど無い気もする。
で、朝起きて、再煮立てして、よそって食う。むちゃくちゃおいしいではないか。
というわけで、牛すじは実に良いものですな。(で、何回か作ったけど、一晩放置しなくても醤油とか入れる時点+1時間程度で一応はおいしく食べられることもわかった。が大根にぐじゅぐじゅにしみこんだほうがおいしいので、それには一晩放置したほうが良いかも。ニンジンも入れてみたが当たり前だがこれもうまかった)
・三徳で牛すじが店頭にない場合は、お店の人に言うと、パッケージを作って持ってきてくれる(あれば)。
で、2日くらい店頭放置されたっぽいのは相当血が出ているが、作りたてパッケージは血が出ていない。これは洗う時点でも同様なんだけど、煮立てるとアクは作りたてパッケージのほうが出る。ということから、アクの主要素は血なんだろうと思う。また、アクが臭みのもとだということはわかった(嗅げばわかるわけだ)、というところを混ぜ合わせて考えると、血が出てしまった古めのパッケージのほうが調理する時は良い製品のように思える。刺身で食う食べ物じゃなくて、がんがん加熱しまくって煮込みまくる商品なんだから、鮮度もへったくれもないわけで。
でも、無ければできたてパッケージにしてもらうしかないので微妙なところだ。
サーモス 真空保温調理器 シャトルシェフ 4.5L ステンレスブラック KBA-4501 SBK(-)
(なんか見てくれが似ていたので間違えてえらく違う製品の書影を貼っていたので修正した)
断熱調理器ってのは、ステンレスの断熱材の容器と、中にっぽり収まるステンレス鍋のセット。煮立った鍋を容器に入れて保温しておくことで、余熱の長持ちさで調理するという道具。煮込みにはやたらと便利(圧力鍋が速度重視なのに対して、浸透重視ということだと思う)。
便利なのは3点。通常は弱火で煮込むとかになって火をつけっぱなしするところが、火は使っていないので出かけようが寝ようが自由。落としぶたとかいらない(ただし、材料が完全に液中に浸かるように水加減を通常の料理のレシピから変える必要がある)、なんか失敗したためしがない(何を作ってもワンパターンの作り方しかできないのだが、それが必勝パターンに近い形式になっているからだと思う。
ロジクール ワイヤレスマウス 無線 マウスM185RD 小型 電池寿命最大12ケ月 M185 レッド 国内正規品 3年間無償保証(-)
1000円切ってる。というわけで、意味なく購入。勤め先用にするか。
追記:価格しか見ずにぽちったけど、重量が75gなのか。おれは100g越えじゃないとイマイチ使いにくく感じるから、ちょっとだめかも知れないなぁ(その場合は妻のと交換しよう)
参考:
LOGICOOL ワイヤレスレーザーマウス Unifying対応レシーバー採用 M505 ブラック M505BK(-)
おれには持ち心地が良い120gのマウス(でも、これでもちょっと軽く感じる)
でも、今、気づいたが、ノートパソコンとマウスを一緒に持ち歩く人だと、マウスに100g越えってのはちょっと痛そうだな。
あー、何ページも作ってから間違いに気づいてしまった。なかなかの衝撃。
具体的には次のようなコード。
$ATTR_NAMES = array('x', 'y', '......); ... // save the post data foreach ($ATTR_NAMES as $attr) { $_SESSION['prior_post_'.$attr] = $_POST[$attr]; } ... if ($some_condition) { $_SESSION['prior_post_x'] = 0; // エラーなので初期化して保存しておく。 } ... <span class="error">なんかおかしいから入れ直してね。無視したらゼロとして扱うよ!</span> <input type="text" value="<?php echo $_POST['x'] ?>" ...
という調子で、POSTされたデータを保存するのに、いちいち$_SESSION内に展開していた。
が、ふと、こういったデータの中に配列があって、それで気づいてしまった。
これでいいんじゃん。
$_SESSION['prior_post'] = $_POST; ... $_SESSION['prior_post']['x'] = 0;
ディープコピーがデフォルトだったのか……
良かった。幾つかの発見もあったし、何より普通に楽しめた。
・4幕のロドルフォとマルチェロが2人で回想にふけるところで歌が途切れるとソロでヴァイオリンが出てくるのだけど、まずそれに初めて気付いた。しかもそれが妙に浮いた(ヴァイオリンの弾き方はわからないのだが、ポルタメント気味なレガートということなのかなぁ)弾き方なのだが実に美しくて、おおこんなに美しい個所があったのか、と新鮮な驚きがあった(プッチーニにはトゥランドットにも3幕でリューが歌うところでソロヴァイオリンが妙に美しい旋律を奏でるところがあるが、歌とソロヴァイオリンのつなげ方が実にうまいと思う)。
La bohème (Puccini, Giacomo)(多分334ページのCalmoからの4小節分だと思う、というか、楽譜が読みたいときにすぐ読めるというのは実にありがたいことだなぁ。実は確認したくて帰りにカワイに寄ったのだが総譜は売って無くてあきらめたのだった)
・全体にオーケストラはとても良かった(東京交響楽団)。2幕の最初とか管の合奏だからなんか冷ややかに聴いていたら実に良い感じだった。
・テンポは全体にえらくゆっくりめな気がしたのだが(これは指揮者がそう決めたのだろうが)、その分、管弦楽がくっきりして、あらためてプッチーニのうまさというものが楽しめた。
・この演出は三演らしいが僕は初見だ。この演出は実に良い。多分、オーソドックスにオーソドックスで、ミミが積極的にロウソクを消したりとかは一切しないのだが、歌手をうまく動かしてまったく飽きさせない(歌と音楽だけではなく、位置関係で物語を補完するということなのだと思う)。2幕の奥行きを活かした演出も好きだ。最後、行進しながら奥へ進み、手前でアルチンドーロがドタバタしているのを尻目にするところとか、ムゼッタが馬車から降りて見得を切るところとか(建物がくるくる回転して、帽子屋になったりミュモスになったりするところとか、実に楽しい。打って変わって3幕では遠景にあった店がミミがマルツェロを待っている間に手前に来る(が、静謐感に変わりは無いところとか。ただ、4幕最後に雪が降るのはなんじゃらほいな感じがした(ずっと初夏のできごとだと思っていたからだけど、クリスマスイブに出会ったことを思い出したのか、それとも3幕での寒い季節では2人で過ごしたいと歌ったことを思い出させたかったのか、青い照明に変わる)。
・プログラムに演出家(粟國淳)の談がいつものように出ているのだが、今回のはまず、それがひと味違った。というのは、ああそうなのか、とそれまで気づきもしなかった点まで良く読み込んでいることが示されていたからだ。言われて、気付かなかったけどそういえばそこは確かに妙な引っかかりがあるなぁというのは、コッリーネがショナールに2人だけにしといてやろうと言うと、そこでコッリーネが劇中で初めて「哲学者」と呼ばれるという指摘。それだけでなく確かに4幕のショナールは奇妙な振る舞いが目立つのだが、そこに着目したのはおもしろい。どうにもショナールのことが気になったらしく、(これまで見たモノでも実はそういう演出、つまりト書きに書いてあるのかも知れないが、今回妙に目立ったのだが)ミミが寝台から手をだらりと下げているのをマフの中に入れてやろうとしたのか、寝相の問題だと思ったのか直してやろうとショナールが手にとって、その冷たさに驚いて死んでいることを悟るというシーンが実に印象的(ショナールの動かし方がうまい)。ショナールの動きが良いと、唐突にコッリーネがさらば外套を歌うというのも繋がりがでてくる道理となる。というわけで、有機的に人物が動く舞台となって、これが実に良かったのだった。
ショナールの不思議な動きと言えば、水を持って入ってきて(左から)、右半分に来かけて2人に気付いて左の奥へ引っ込むのだが、最後にマルツェロ(右から出て薬を買って右から戻ってきて、そのまま右にいる)のところへ行くときに、手前に廻らずに奥から回る(逆かも。忘れた)のが妙に不自然な流れで引っかかった(悪い意味ではない)。とにかく、人物の動きにいろいろ意味を持たせているのだろう。
・と、音楽が良くて、舞台が良くて、元の曲が良いのだから、つまらないわけがない。
・逆に歌手の印象がいまひとつ。ロドルフォを歌った韓国の人は淡々と良かった気がする。ミミもきれいだし、ムゼッタも楽しげだが、強烈な印象は受けなかった(が、そこがなんというか、普段着的な良さがあったのかも知れないというかラ・ボエームという演目に合っているというか、悪い印象はない)。
・ベッドを動かしてダンスのための広間を作り、さらにそのベッドを入り口付近に動かしてミミを寝かせる。
・ブノワが入ってくる前に、右側の扉の外に一人配置しているのだが、あれはどういう意図なのかなぁ。
・ほとんどの人たちが外にでるときは右の扉(1幕で3人が出て行くのもミミが入ってくるのも、4幕でムゼッタが入ってくるのも、ムゼッタとマルツェロが出入りするのも)なのだが、ブノワは左から入って左から出て行く。ショナールが水を汲みに行くのも左(コッリーネも左かな)。でも、3人に呼ばれてロドルフォが今一人じゃないんだ、と呼びかける窓は左。
・幕が開く前にその舞台を示す画がかかれた幕が見えるのだが、なんか良い感じだった。特に1幕はしばらく幕が下りたまま舞台で画をかいているマルツェロが見えるのだが、それが良い感じ。
・思い出したが、1幕ではテーブルで食事をしているのが、4幕では左側の広間(あるいはマルツェロの画室)と手前のリビングの間の段差に腰掛けて食事をしていたような。この段差はムゼッタがお祈りするのにも利用していたような気がする。それともムゼッタはテーブルを利用していたかな? テーブルは右奥でロドルフォが書き物をするのに利用しているやつだから、多分、4幕では動かさなかった(ベッドを動かす関係で動かせないのかも知れない)。
・これまでトリノ、メトロポリタンと観たが、ゼッフィレリ版(ビデオでも観ているので印象は強いわけだが)のメトロポリタンのやつを含めてすら、今回の演出(舞台装置)が好きだな。唐突にパルピニョールがすごく派手なピエロの衣装で、相棒が2人いたのを思い出した。
実に楽しかった。
・思い出した。1幕だと思うが突然ピアノの音がしたのだけど、あれはなんだったのだろうか(まあ、ハープなんだろうなぁ)。確か電話の音を聴かされた(私はミミの最後のあたり)のよりも前だから、この冷たい手の手前くらいだと思うのだけど)。
なんかAmazonで見ると13"が10万円を切っている。
Apple MacBook Air 1.7GHz Core i5/13.3/4G/128G/802.11n/BT/Thunderbolt MC965J/A(-)
次の新製品発表が近いのかなぁ(だったらもう少しだけ待ってもいいかも)。
が、2GBしかない初代MBA(デザインはどう転んでも初代のほうがかっこいい)が、さすがに遅すぎて辛くなってきた。
どうもLionがメモリ食いのような気がする。Snow Leopardのころはここまで遅い(=スワップしまくり)ってことはなかった(思い出はいつでも美しいってやつの可能性はあるけれど)。
・Safari
・グラブ
・Dictionary
・Carbon Emacs
・Graffle (4.2 まだ更新していない)
・Terminal
しか立ち上げていないのだが。
本屋で平積みになっていたのでなんとなく買って、1週間くらい通勤中にちびちび読んで、読了した。
なかなかのおもしろさだった。
題名は、ある路線がABCDEと駅をつないでいる1本の線路なのにABとDEはJR、BCとCDが異なる私鉄あるいは第3セクター、あるいはCD間は何もないというような、妙な路線がそこかしこにあって不思議だから、なぜそういう虫食いのような路線ができたのか、実例をあげて調べましたというような意味。政治問題、経済問題、そりゃしょうがない、そんな無茶な、と、いろいろあるが、結局は日本の近代史の縮図がそこにある、という興味深い話がたくさん。
最初は国鉄民営化によって、日本の鉄道網がずいぶんと減ったというところから始まる。どうも文体が夕刊紙みたいな妙なレトリックがあってはなにつくのだが、出てくる数字がおもしろいので読み進むうちに歴史の話となった。
なぜ国鉄がばかみたいな赤字の塊になったのかが語られるのであった。
根本問題としてあげられているのは原敬内閣のときの法律で、地方ばらまき政治大正版として地方に鉄道を作りまくることが決められた。で、ごていねいに付表として何を作るのかが規定されていたからさあ大変。一度決まった法律を変えるよりは、予算を使って消化するほうが楽だという不思議な国家運営があるので、戦争をやろうが負けようが、炭鉱が閉鎖されようがオイルショックがあろうが、とにかく鉄道を作りまくる。大正時代には欲しくてたまらなかった鉄道だけど、高速道路が通ったからみんな車に乗っていても法律で決まっているから鉄道を相変わらず作る。
というのが中心に一本びしっと通った見事な法治国家ではあるけれど、そこに鉄道王を目指す男たちの野望あり(東武、東急、阪急だけど、その中で西武のエピソードはなかなか浪花節で良い感じ)、明治にさかのぼれば富国強兵の最大の切り札として輸送力に目をつける連中もいるし、なるほど、鉄道の100年間ととらえれば、これもどえらくおもしろい。
で、とても不思議な民営化のエピソードで、整備新幹線のところはさすがにひどいと思わされる。
整備新幹線を作れば在来線は旅客数が減る一方で、メンテナンスコストは鉄道2本分だからとてつもないことになる。
そこで法律で、整備新幹線ができたら、在来線は捨てても良し(地方自治体などが拾いたければ拾うも良し)と決めた。
あれ? と不思議に思ったのは、民営化するときに、JR貨物は在来線の路線に利用料を払って運用すると決めたんじゃなかったっけなぁ、と思わず読み返すと、確かにそう書いてある。在来線を捨てたら(何しろ新幹線を通すような主要幹線なわけだから)JR貨物はどうするんだ? と当然の疑問に思う。
で読み進むと、案の定、東北で大騒ぎになったということが書いてあるし、そんなことはJR貨物を作った時点でわかっているはずだと指摘している。そりゃわかるよなぁというわけで、一体、運輸省や(当時の政権与党の)自民党はそういうことはすべて織り込み済みで先送りしたのだな、と良くわかる昭和の歴史。
その他、バス会社になってしまった地方鉄道とか、どんどん不要化していく(その一方でバスのせいで大渋滞になってまったく通勤通学がとんでもない事態になった地方もあったり、でも鉄道を健全に経営できるほどの旅客数はないとか)。
そこで本を置いてちょっと考えてみると、鉄道がピーク1時間に500人しか運ばなければ、列車2台で回すとしても赤い色が見える。運賃300円としても150000円しか売上が無い。往復で1日30万円。それにちょこちょこ昼間に乗る人がいてもせいぜい40万円いかない。1か月で1200万円。職員が10人いたら、人件費で残りがほとんどなくなってしまうが、当然電気代もかかれば電車の修理も必要、鉄橋があったりトンネルがあればその分金がかかるし、燃料費もかかる。ディーゼル単線化が切り札らしいがそれでもただのわけはない。そこで運行をやめるとピーク1時間500人が車を使うことになるとして、100人はバスに乗るとバスが3台。400人は通勤に車を使うと車が400台。そんな過疎っぽいところだから国道は片側1車線。すでに鉄道が使命を果たしたということはすでにトラックも走っていれば車も走っている。そこに同刻に数100台の車が入ってくればそりゃ渋滞になりそうだ。
と、基本的に電車は3分程度駅で待てば乗れる世界で暮らしているおれには興味深いことばかりで、おもしろかった。
Rails 3.2.1でちょっとアプリケーションを作ってみようかと試したら、いきなりrake assets:precompileでエラーになる。
C:\tmp\webtest>rake assets:precompile c:/Users/arton/NougakuDo/bin/ruby.exe c:/Users/arton/NougakuDo/bin/rake.bat asse ts:precompile:all RAILS_ENV=production RAILS_GROUPS=assets c:/Users/arton/NougakuDo/bin/rake.bat:1: syntax error, unexpected tIDENTIFIER, e xpecting $end rake aborted! Command failed with status (1): [c:/Users/arton/NougakuDo/bin/ruby.exe c:/U...] Tasks: TOP => assets:precompile (See full trace by running task with --trace)
なんだこれ? と追っかけて行ったら、actionpackにたどりついた。
namespace :assets do def ruby_rake_task(task, fork = true) env = ENV['RAILS_ENV'] || 'production' groups = ENV['RAILS_GROUPS'] || 'assets' args = [$0, task,"RAILS_ENV=#{env}","RAILS_GROUPS=#{groups}"] args << "--trace" if Rake.application.options.trace fork ? ruby(*args) : Kernel.exec(FileUtils::RUBY, *args) end
fork = true1なら、ruby(*args)を実行し、そうでなければKernel.exec(FileUtils::Ruby, *args)を実行する。これが諸悪の根源だ。
Rails 3.1.0のときは次のようになっていた。
Kernel.exec $0, *ARGV
元のコマンド($0)に引数を与える。
こういうことだ。
3.1.0のときに、rake assets:precompile とコマンドラインで打つと、それはrake.batの実行となるので、$0にはrake.batが入る。つまり、rake.batに引数を与えて実行することになる。
でも、3.2.1では違う。明示的にFileUtils::RUBY(これはrake/file_utilsによる、本物のfileutilsに対する拡張定数)を指定した呼び出しとなるか、またはrubyメソッド(これもrake/file_utilsのメソッド)呼び出しとなる。
ここでは、第2引数を指定していないのでrubyメソッドの呼び出しとなる。
これは中で結局は、rubyを指定して以降を引数として実行する。
つまり、ruby rake.bat ... となる。
Rubyはバッチコマンドの羅列を当たり前だがRubyのスクリプトとはみなさない。
当然、エラーとなる。
actionpackのChangeLogを読むと、Rails 3.1.1 (unreleased)に次の記述を見つけられる。
* Re-launch assets:precompile task using (Rake.)ruby instead of Kernel.exec so it works on Windows [cablegram]
ほー、Windowsで動くようにするためとな……
3.1.0で動いていたのが動かなくなったのだが、いったい、どういうマジックなんだろうか?
Ruby 1.8.7との組み合わせとかか? これをチェックしないと単なるシーソーになりそうだなぁ。
飯食いながらちまちま、しかしすごく楽しみながら読んでいたフラグスタートの自伝(聞き書きらしい)を読了。
実におもしろかったし、満足度も高い。
ヴァグナーの女王--キルステン・フラグスタート自伝(ルイ・ビアンコリ)
キルステイン・フラグスタートは、戦前(というのは湾岸戦争でもベトナム戦争でもなく、第二次世界大戦)にメトロポリタン歌劇場でワーグナー歌手として一世を風靡した大歌手で、戦後もそれなりに活躍した人。
僕が最初に聴いたのはショルティのラインの黄金でフリッカを歌っているもので、つまりはほぼ引退した大歌手を引っ張り出して脇役をやらせましたというやつ。何しろラインの黄金のフリッカは、世界を支配しようとぎらぎらしているヴォータンがラインの黄金を手に入れようと画策しているのを小耳に挟んで、「ちょっとちょっとあんた、その黄金を手に入れたらあたしのネックレスとか作ってよね」みたいなくだらないセリフを吐く役だから、どうでも良いといえばどうでも良くて、まったく印象には残っていない。
Wagner: Der Ring des Nibelungen (Ring Cycle Complete)(Hetty Plümacher)
これが、ヴァルキューレでは、ヴォータンの指輪奪還計画が、最初の前提から間違っていることを冷徹に指摘してしまう恐るべき大女神となるのだが、こちらになると時期の関係か、クリスタルートヴィッヒが歌っているからもう関係ない。
でも、先日、アマゾンMP3で、フルトヴェングラーがフィルハーモニアを振ったトリスタンとイゾルデを聴いて、おー、やっぱり大歌手ってのはすごいなぁとえらく惹きつけられた。
ワーグナー:トリスタンとイゾルデ 全曲(フルトヴェングラー(ヴィルヘルム))
これが、1953年頃で、もう高音が出ないので一個所だけシュヴァツコップが代わりに声を入れたというが、そんなことは無関係にそれは素晴らしい。
というわけで、あらためて「大歌手」という存在は凄いなと思ったのだが、はて、大歌手ってなんだ? と疑問に思う。たとえばデル・モナコは大歌手だが、20代のとき、バーの歌声コンテストで優勝したら、劇場主がやってきて、君、オペラをやりたまえということで歌手になったとか、つまりは、音楽学校で理論を学んだりするわけではなく、もう、生まれついての音楽家というやつだ。当然のように、1960年代以降は死滅してしまった人たちだ。
というところに、フラグスタートの自伝があることを知って、食指が動いたのだった。で、これが大当たりだった。読んで良かった。
フラグスタートは、1895年にノルウェーの音楽一家(たとえばバッハとかモーツァルトとかを連想するとそれほど外れではないが、違うといえば違う)に生まれて、オルガン弾いたり、歌を歌ったりして成長し、歌手になる。
カソリックの国では、教会のオルガン奏者にはお金が給付される(今もそうかは知らないが、政教分離則があれば無いように思うが)ので、10代からそうやって稼いでいるというのが、まずは目から鱗。最初からプロ(=金稼ぐ)なのだ。当然、いわゆるプロ意識というのがある。
で、成長したら普通の主婦になって音楽家から脚を洗おうとするのだが、周囲が才能を放っておかない。なるほど、そうなるのか。
で、都会(オスロあたり)の大歌劇場で歌うようになると、支配人が、教育を受けなさいと金を出して先生につける。
この先生が、ふむふむなるほど、と、英国王のスピーチの先生みたいな存在だ。
どうすれば大きな声を出せるのか、半分医学者、半分音響学者、半分体育教師、半分音楽家、加算すれば1人で2役みたいな存在で、なるほど、そうやって大歌手というものは練り上げられるのかと、これもおもしろい。
もっと、おもしろいのは、初出時に、「今では彼を良く言う人はあまりいないと思うけど」みたいな言い訳がつくとろこで、なるほど、彼女の歌手人生の途中から音楽教育はこういう怪しげな先生ではなく、もっとアカデミックな教育者に代わったのだな、ということが見え隠れする。
さらに、ヨーロッパに進出すると、プラハに勉強に行けと言われて、セル教授というおっかない教授のもとでいろいろ学ぶ。
セル? そう、もちろんクリーブランドを叩き上げたセルの若き(まだ30代だろう)姿なのだが、当時から大教授、アカデミシャンだったのだな。
(それでセルと言えばまずドヴォルジャックということになるのか。プラハに君臨していたのだから、そうなのだろう)
あるいはドイツの地方歌劇場のオーディションを受けに行くと(このあたりの1920〜1930年代の欧州の音楽家ビジネスのありかたは非常におもしろい)、そこには、クレンペラーという人がいてとか、次々の知っている名前が出てきて、それもやたらと興味深い。
そしてついにメトロポリタン歌劇場と契約する。
この契約というのがまた興味深くて、ほとんどの場合、共演したより高名な歌手が、別の劇場で「〜にXXXという歌手がいるのだが、あれは素晴らしい」という口コミネットワークのようだ。で、オーディションは厳正で、劇場に合う合わない、向き不向きなどが吟味されて契約にこぎつけたり、契約できたものの、次のシーズン以降は声がかからないなど、さまざま。
が、1940年にナチスがノルウェーを占領する。
彼女の夫(二人目、というかカソリックにしては1910から20年代に普通に離婚しているので、なるほど、北欧は文化度が昔から高かったのだなとわかる)は、お金持ち(資本家だ)なので、そこに何か謎があるのだが、少なくとも、若い頃は国家社会主義の政党に所属していたのは事実で、占領後に離党したのも事実、あとは謎で、ナチス撤退後に国家の敵として逮捕されてそのまま獄中死(病死だから病院で死ぬ)しているのだが、なるほど、占領された側の意識というのはなかなかただごととは違うのだなぁというのが実に良くわかる。敵側についてもつかなくても、無関心であっても直接の被害があっても。
(というところから、平和ボケの一症状としての占領された側に対する鈍感さというのがあるのだな、ということを知ってしまった)
さらに、アメリカのユダヤによるメディア支配というのはもしかして陰謀論じゃなくて事実なのかな? と思わざるを得ない(本人はそんな陰謀論の存在はまったく知らないだろうが)、メトロポリタン歌劇場復帰に至るまでの個人攻撃(1940年の帰国直前にも凄まじい罠というか個人攻撃もあるのだが、その当時は夫が国家社会主義政党の党員だったからわからなくもないが、夫の政治活動と経済活動、夫人の経済活動は全然別と考える、文化度が高い北欧の人に対して、妻は夫の付属物という感覚が高そうなアメリカの低い文化度とか、いろいろ語られることがない(何しろ、大歌手視点で一貫しているから)いろいろがうかがえて、これもおもしろい)。
戦後のヴァルターのリハーサルの押しつけがましさというか、口のうまさとか、他にもおもしろい点はたくさんある。
また、最後にはグルックやパーセルの作品をメインにして、その理由は特に書いていないのだが、おそらくトリスタンとイゾルデの録音から考えるに、まだハイCのような曲芸が生まれる前の歌劇だからなのだろう。つまり演技と歌で雌雄が決せられるというのが、大歌手の活動後期の作品としてふさわしいと本人が考えたのだろうなぁと想像するのだが、それにしても、特にグルックは聴いてみたくもある。
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲(メルヒオール/フラグスタート/ライナー)(1936)(ライナー)
(こんな、最盛期の録音もあるのか。ライナーが出来が気にくわないといってお蔵入りさせた録音があるようなことが本文にあったけど、おそらくこれのことだな)
と、欧州の歴史と音楽の歴史、歌劇と歌劇場の歴史(そういえば、戦前のスカラ座では、誰も拍手しないのが伝統なので、すごく混乱したと書いているが、本当なのだろうか。いや、嘘ということはないだろうけど、本当にイタリアの北というのは、イメージするイタリアとかけ離れているのだな)、いろいろな面から実に興味深かった。読後の満足度は、最近では親指ピアノ教本なみに高かった。
ジェズイットを見習え |
_ ムムリク [どもです。 わたしも受け止め方はそういうもので、いよいよ1.8系が終わるなあというものでした。自分でもすっかり1.9..]
_ arton [どもども。こちらこそ。]