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メモリ32GBに増設したついででもないが、アマゾンのブラックフライデーにも乗りたかったというのもあって、メインマシン(DELLのPrecision Tower3420というCore-i5ベースXeonのマシン)のディスクをSATA SSDからM.2 NVMe SSDに換装することにした。
どれにするか迷ったが、名前がばかみたいなのと、10700円(ブラックフライデーが終わっても11,980なので10%引きくらいだったのかな)という価格からキオクシアの1Tにしてみた。
キオクシア(KIOXIA) M.2 Type2280 SSD 1TB EXCERIA NVMe SSD 5年保証 国産BiCS FLASH搭載 SSD-CK1.0N3/N(-)
しかしばかみたいな名前だが、東芝メモリのことだった。
で、DELLの取説を読むとサーマルパッドをマザーボードに貼り付けるとか書いてある(純正の何十万円だかするM.2 NVMe SSDの取り付け方法が出ているのだ)のだが、良くわからんので、安いのを一緒に買ったが、ヒートシンク無しでサーマルパッドだけ貼り付けて意味あるのかなぁ?(無いよな、どう考えても)
で、届いたので換装の準備を最初にする。というか、あまりにも小さくて驚いた。宅配で来るかと思ったら郵便でポストに入っていたのだった。
以前買った外付けUSB HDDケースにバックアップ用のHDDを入れて、Windows7バックアップを取るのだが、処理100%の時点で外付けUSB HDDの使用率が100%に張り付いて1時間ほど待ったが(その前に10分であきらめて、再試行している)どうにもならないので、おそらくベリファイのための読み込みでハングしていると判断して(HDDのファームウェアのバグだが、原因はディスクの読み取り不良の無限リトライと推測)あきらめた。
あきらめて、別のHDDと交換してWindows7バックアップをやり直すと、今度はうまく完了しそうなところでエラーとなる。
(この時点で、最初のHDDに問題があるわけで、このHDDについては廃棄が決定した)
エラーの詳細を見ると、さっぱりわからないのだが、通知領域にWindows Defenderのエラーが出ていて、対象がBeckey!用ディレクトリ内のファイルだと判明。
あー、BUGTRAQか。どうも超極悪なPHPベースのリモートスクリプト実行用の検体が添付されていたらしい。
面倒になって、BUGTRAQの全メールを削除して、バックアップをやり直し。が、また最後でエラーとなる。
今度はシャドウコピー内の同じファイルだけど、シャドウコピー内のファイルでは削除のしようがない(あるかも知れないが調べる気にもならない)。
バックアップ自体はできているはずなので、無視することにした(が、おそらく最終処理ができていないのか、この後面倒なことになった原因の可能性がある)。
で、マシンの電源を切って、PCIeのところまでは、デルのマシンらしく、ネジ回し不要でさくっと進む(以前はどのマシンもそうで、筐体のできのよさでデル一択だったのだが、ここ10年くらいはInspironなどの安いモデルは普通にネジが必要で面倒になったが、Precisionは元からのデルクォリティで素晴らしい)。
で、サーマルパッドを乗せようとしたが、どうにも良くわからない。面倒になってディスク側に貼り付けたけどやっぱり無意味っぽいなぁ(絶縁体の役目はしそうだけど)。
で、ネジが無い。デルの取説を読むと、SSDに付属と書いてあるから純正部品なら問題ないのだろうが、買ったやつはディスク単体なのだった。
アイネックス M.2 SSD固定用ミリネジ PB-044(-)
(2000円以上の他の商品と同時購入しないと買えないネジだから、同時にこれも買うべきだったのだ)
で、手持ちのあらゆるネジをチェックしたが2mmネジなど存在しない。スペーサーはマザーボードに直付けされているから問題ないのだが。
で、ネジを買おうかと、ネジ箱を仕舞おうとしてふと見るとプラスティック円盤の画鋲がある。金属円盤と違って絶縁もされているし、針はもちろん細いし長いので問題ないのではないか? と、ネジ穴に画鋲をさしてみたら、針が長いのでネジ山に引っかかって(ディスクは持ち上ろうとするのでうまいこと噛む)外れない(ディスクをちょっと押せばもちろん外れる)ので、これで良いかも知れないと蓋を閉じてしまった。
一応、問題ないな。HDDと違って振動もしないから大丈夫だろう。
で、修復ディスクのDVD-Rを使ってブートしたらSSDを認識しないのでBIOSセットアップでPCIeを有効化して、しばらく操作したらウォッチドッグタイマーでマシンが落ちる(4年前のことなぞ忘れてしまうよな)のでウォッチドッグタイマーを無効にして(と書いて気付いたが再有効化していなかったので後で設定しよう)とかやりながら、復元しようとするとエラーになる。最終処理ができていないからかなぁ。
とりあえずSSDのパーティション分けはされて、C:のコピーで失敗ぽいので、コマンドプロンプトからwbadminでコピーをする。が、途中でエラーになったので、diskpartを使ってSSDのC:をNTFSへフルフォーマットしてやり直し。
で、コピーは完了したが、ブートしない。
再度修復ディスクで起動してdiskpartで見ると、デルの命名だとESPとなるブートパーティションがRAWになっている。
で、diskpartでFAT32にフォーマットして、BCDBOOTで設定。( @ITは強い味方だ)
原作はジョン・アーヴィングで、だから観たとも言えるが、一時期(村上春樹文脈で)アーヴィングが流行った時期があって、僕が読んだのは「熊を撃つ」だけだが、映画はジョージロイヒルのガープの世界(これは傑作で未だに相当のシーンを覚えている)とホテルニューハンプシャー(女優がジョディフォスターだったことしか覚えていないので、映画としては凡庸だったのだろう)は観た。
(過激化したフェミニズムという文脈で現時点的でもあるのは、これもまた神話だからだ)
で、30年くらいたってサイダーハウスルールを観たわけだ(映画は1999年のもの)。
期待通りのアーヴィングのほら話によるアメリカ近代神話の創造(このタイプには傑作が多く、映画文脈だとビッグフィッシュが記憶に新しい)で、山の上の孤児院がある駅に煙を吐きながら汽車が到着するところから始まる。良い映画には煙が必要だというのは、少年、汽車に乗るの宣伝文に蓮実重彦が書いた言葉だったかな。その最初のシーンで約束されたように当然の傑作だった。
孤児院の院長のマイケルケインの独白で、最初は一切言葉を話さない(赤ん坊の名前の由来を話すところでこの時の引き取り手が無教養であることが示されるが、ちょっと逆方向で先日観たリチャードジュエルを思い出した。こちらはマッシュにかけた地口をジュエルが即座にわかることで教養人であることを示していたわけだが)、次は泣き止まないという理由で2度も孤児院に戻されたホーマーの物語が始まる。主人公の出自に異形っぷりがあるところからして神話なのだよな。
孤児院で(結局引き取り手がないため、院長が息子のように育て、教えることで、産婦人科医、小児科医として立派に通用するまでに)成長したホーマーは、若いカップル(空軍中尉とその恋人)の堕胎手術を手伝ったあとに一緒に下界へ旅立つ。アーヴィングは今度は放蕩息子の帰還を描きたいのだな。(12/15追加: というか、ホーマーなんだから、放蕩息子の帰還というよりも、オデュッセウスというべきなのに今頃に気づくおれも最初の引き取り手に劣らず無教養だった)
特に行く当てもないホーマーは中尉の身の上話に乗っかる形で、彼の実家の林檎農園で働くことになる。
題名のサイダーハウスルールは、この農園の季節労働者用の小屋に壁に貼られたルールのこと(であり、実情を知らない人間が押しつけ、押しつけられた側はそれを読むことができない(そもそも不要な)ために意味をなさないルールとして、マイケルケインの孤児院での理事会との戦い(というか、堕胎手術を行っていること自体が(米国法-1930年代が舞台なので)ルール違反である)であり、ホーマーが世界との折り合いを見つけること)なのだった。
紆余曲折があり(アーヴィングのストーリーなのでグロテスクではある)結局、ホーマーは「自分は医者だ」と言うことを決断する。
(医者だ、と決断して宣言することで永遠に野球の夢を捨てることになるフィールドオブドリームスのムーンライト先生を彷彿させるが、あれほどドラマティックなシーンではない。が、ホーマー役のトビーマグワイアの淡々とした演技もあって悪くはない)
放蕩息子は帰還するのが神話なので、当然、戻る(一瞬、あれ? 放浪が続くのか? と思わせなくもない状態のシーンにするところがおもしろい)。
そして最後、マイケルケインの代わりに子供達に「おやすみ、メイン州の王子、ニューイングランドの王」とやさしく語りかける。このシーンは構図、音量、声色、タイミング、すべてにおいて抜群で、名作映画とか傑作映画の名台詞名シーンの歴史に残るだろう。つまり、映画としてとても良かった。
サイダーハウスルールの結論は、壁に貼られたルールには従うつもりが一切ないもの(ベッドでの喫煙)、そもそも有り得ないもの(屋根で昼寝)、1つで充分なもの(3条ある屋根についてのルールは、「屋根に上るな」の1条で良いと労働者に指摘されている)で意味がない。ルールは実際にそこで生活するものが決定するというものだ。決して、ルールを無視するでも、ルールを破るでもない。
だからホーマーはマイケルケインが敷いたルール(自分の後任として医師になること)に反発(という積極的なルール破りではなく、自分が見たことがない世界(象徴としてはオーシャンとロブスターだ、あとセックスもおそらく含まれるのだろう、そこはアーヴィングは現代人だ)についても知らなければルールできないという衝動なのだろう)して孤児院から出て行くが、結局、そのルールに(おやすみなさいの言葉を含めて)従うことになるのだが、重要なのは帰還前の放浪により自分でそのルールを選択するという決断をしたことなのだった。(つまり、アーヴィングの作品らしく、まさにアメリカの創世神話なわけだ。が、この自分がルールをルールするというアメリカンな考え方が、オバマプランを否定してコロナ自粛を否定してと、弱い立場のものがさらに弱い立場に自分で追い詰めていく、少なくとも第三者視点からは実に愚かなルールなところが、矛盾なのだとは思う)
妻がおもしろそうだからブリグズビー・ベアを観ようというので観た。
始まるやすさまじくチープで、カルト映画というジャンルの王道ど真ん中だと思いながら観ていると、意外な方向に物語が進み、最後には余情あふれる感動があって、これは実に恐るべき感動カルト映画だった。
聞いたこともない監督、出演している役者で名が通っているのはマイク・ハミルという特定の文脈以外ではあまり有名とも言えない役者だけ、そもそもえらく少人数低予算丸出し、素人映画だからという理由は当然あるのだが劇中の大半を占める映画内映画とテレビ番組はおそろしいほど稚拙(とは言えないところが傑作になっている理由なのだが、少なくとも映像研が作るアニメとは比較にならなそう)、どう考えても無理がある設定(理由が説明できないのなら、説明しない! という思い切りの良さ)、だめな精神科医を除けば(というか精神科医は凝り固まっているだけで悪意があるわけではないので除く必要はないが)悪意がある人が出てこない気持ち良さ、忍者病にかかっている患者のような脇役にもいちいち味がある。
どうなることやらと思ったところで、スタートレックのTシャツ着ている小僧が出てきて(なぜかこいつが主催のパーティらしいが庭には別種の連中がいて、この高校内カースト(側がスタートレック側視点なので高低はなく、単に種類が違うというだけとなっている)の描写によって主人公の居心地が良い場所がうまく作られる仕掛けはとても気分良い)、しかも刑事が役者崩れとか、ご都合主義でうまく進むように仕込んであるのに、それが普通に心地よい物語の進行となって、どうにも気持ちが良い話になっている。驚くべき和解が繰り広げられるので最後は普通に気持ちの良い感動がある。見事だ。
というわけで、わけわからんだろうけど、強くお勧めできる映画だった。
題名のブリクズビー・ベアは、誘拐犯(アマゾンの紹介に明示されているように、最初の生活は偽家族なのだった)の親父が作りまくった連続テレビ番組(その子供専用)で、道徳、数学などの優れた教育番組を兼ねていることがミソになっている。ここをちゃんと読めないとアマゾン星1つの評価者のような見当外れの鑑賞となってしまうのだろう。
・ワルーギツネが窓の外にいるのが実に良い
・バックミンスターフラーハウスもどきなので偽両親の出自の設定もなんとなくわからんでもない
・多分、バックミンスターフラーハウスもどき内で使っているコンピュータもわかる人にはわかるカルトっぽさ(おたくっぽい凝り方)があるのだろうなぁ。2018年の映画なので普通の生活に戻るとMacBook Airになるわけだけど
・解が6になる予想は何かのもじりになっているのかなぁ
ウルフウォーカーが素晴らしかったので、同じトム・ムーアのソング・オブ・ザ・シーをアマゾンで視た。
主題歌のモチーフの2回目最後の跳躍がとんでもなくて(子供が歌うときは少し外れさせている)相当良い。
こちらは兄と妹の2人組+やたらと大きな犬の冒険物語となっている。
シェルキーという妖精の母親と人間の父親(相手が妖精ということはわかっているのかいないのか良くわからない)から生まれた人間の子供(兄貴。父親そっくり)と妖精の子供(妹、母親そっくり)なのだが、母親が(死産ということと考えて良い)妹と引き換えに不在となったことに、兄貴が相当恨みを持っている(とはいえ、おそらく6歳と10歳くらいと思えるので、少なくとも6年間は恨んではいても、無事に成長できるくらいに面倒をみているが、ついに反抗期が爆発して妹を邪険に扱うのなんのって、という感じだな。あとこれだけ母親に似ていると見ていて辛いのかもなぁとか想像したりもできる)。
魔女の呪いで妖精が死滅していく世界という設定で、妹がひょんなことから妖精として覚醒してしまい魔女センサーのフクロウに見つかってしまい、フクロウからの逃亡劇が始まるのだが(この逃亡が別の逃亡との2重構造となっている)、結局妹は魔女に捕まってしまい力を奪われて死につつあるので、母親から言われた世界一の兄さんになるわという言葉を思い出した兄貴が冒険するのだが、なかなか筋が入り組んでいておもしろい。
ただ絵柄はウルフウォーカーのほうがさらに洗練されていて好きだな(子供たちが妙に平面的なのだ。当然、そういう効果を狙っているのだろうが)。
一方で、本作でも精神の移動を示す不思議なアニメ―ションが、ウルフウォーカーの嗅覚と聴覚の世界認識の不思議なアニメーションと同じ手法で、なるほど意外と技術的には連続性がある(いずれもケルト神話由来っぽいという物語の連続性は別としても)のだなと考える。
神話の世界の物語(悲しみのあまり海を生み出した巨人を助けたいあまりに石に変えてしまう魔女だが、暴走して他の妖精たちも石に変えてしまう)と、悲しみ過ぎている父親を心配する母親(主人公からは祖母)が、暴走して主人公たちを灯台(父親は灯台守なのだ)から町へ連れ出す(理屈のうえでは、学校のことや犬がでかいから置いていく必要があるとかすべて正論で、子供からは悪い婆さんだが実際にはまったく悪くない)とか、そういうあれこれを知っていながら傍観するしかない渡し舟の船長と、すべての知を司るのだがぼけが激しくなっている神とか、いろいろな相似関係を同じ声優を使って表現する2重構造や、危機に瀕しても陽気さを失わない3人組の妖精(妖怪のような多神教世界での神というべきか)とか、物語とシーン、絵の変化のつけかたがうまい。
逃げ道の揚げ戸の上に犬が乗っていて開かないとか細かな描写のおもしろさも悪くない。
そもそも、町へ連れて行かれるタクシーの中で兄貴が目印を地図に書くシーンがあるが、これがおもしろい。子供の地図だが、実にうまい。パイルという単語が高圧電線の鉄塔を示すというのは発見だった。神聖な泉って、アイルランドにはそのての不思議な遺跡というか場所がいっぱいあるのだろうか?(日本での神社やお稲荷さんみたいな感じなのかな)
クライマックス直前での魔女との戦い(というか説得)はなんか湯婆みたいだなと思った。
で、きちんと円環が閉じてめでたしめでたしとなって、良い作品だった。
友人が、コロナ禍に関連して、クリスティの鏡は横にひび割れてのように死ね! のようなことをFBで書いていたので、はてなんじゃろう? と興味を持って買って読んだ。クリスティは実に中学生の時に読んだABC殺人事件以来だ(カーやクイーンは読んでいるので、どうも肌に合わなかったらしい)。
結論から言うと、とてつもなくおもしろかった。
鏡は横にひび割れては、ミスマープルものだと、買って登場人物一覧を見て初めて知ったわけだが、どうも最晩年の作品らしく、ミスマープルはほとんど寝たきり老人扱いされている(作中、2回外出するが、初回は手ひどく転倒して厄介なことになる。追記:派手に(家政婦の監視の隙を突いたり、止める手を振り払ったりの派手な外出は2回で、それ以外にも資料集めに近所の美容院に出かけたりするので2回ではなかった)出歩くのが)し、作中で100歳か? とか思われていたりもする。
で、読み始めると、昔は良かったが今は新興住宅地に妙な家が建ち並んで変梃な連中住んでいるとか文句をぶーぶー垂れるは、雇っている介護士(とは当時は呼ばれない)には「はいはいおばあちゃん、そろそろねんねの時間ですよーばぶばぶー」みたいな扱いを受けて怒りまくっているし(が、極めて礼儀正しい人なので、怒りは口には出さないが、ぽろぽろ皮肉は垂れるのだが、相手が無教養なので全然通じない)、もう一人の女中はさばさばな若い女でこちらには相当好意的なのだが、とはいえ、やはり若者は杜撰だなぁとかいう思いを隠しもしない。とにかく不満や文句が多く、それを辛辣に表現するのだが、通用しないという、生き地獄となっている。
そういえば、妻が、イギリスの女流作家の作品は底意地が悪いと言っていたけど、確かにそう言えるかもなぁと思い出す。
さて、ハリウッド女優と結婚したての映画作家兼プロデューサー(だと思う)が、ミスマープルの近所の邸宅を買って引っ越してくる。その邸宅のお披露目パーティーで、ミスマープルが散歩中の遭難を助けた女性が毒を盛られて殺されるところから、連続殺人の幕があく。
ミスマープルの知性を理解しているのは、村に2人いるらしき医者の1人と、邸宅の元の持ち主、そしてスコットランドヤードから派遣されてきた警部補(過去にミスマープルの知性に助けられたっぽい)だけで、家の中では邪魔以外に役立つことをまったくしない介護士が介入しまくる状態での孤立無援の戦いが始まる。
推理小説としては、半分くらい読んだところで大方犯人の想像はついてしまうのだが、とはいえ、本書の真価は犯人の動機にあるので、実は犯人を知ってしまっても、まったく問題ないのだった。なるほどなぁ。
したがって、本書は推理小説としてはどうでも良くて、ある一時代の風俗(過去の文化とアプレゲール文化の衝突、共存、さらにアメリカという異国文化、映画文化との邂逅、家族関係についての考察などなど)の切り取りと、人間の愚かしさを、ビクトリア朝を引きずった聡明な老婦人(まあ、作家の分身と考えるべきだろう。そういえば日本でも戦前生まれの素晴らしく聡明なお婆さんというのはちょこちょこいる)の視点を通して描いた心理小説なのだった。すさまじくおもしろい。
警部補に、昔の時代に生まれていたらあなたのような素晴らしい女性と出会えたのかなぁ残念だなぁと言われて、「あの頃の女性で大学に通えたのはほとんどいないし、大多数はは学も知性も教養もないし、あなたのような知性の持ち主にはつまらないわよ!」と鼻で笑われるシーンがあるが、意地悪も何も、作者の自負心が見られるように思う。
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妻が、その昔に買ってきたジャミーラ高橋のアラブ料理の本の中で特に興味を惹かれたのがプルーンタジン(プルーンを使ったタジン料理)で、子供がプルーンを嫌がるとか、当然タジン鍋が無いとか、いろいろあって、いつの間にかおれさまタジン料理を作るようになってしまったが、これが滅法美味しい。
最近、親に食べさせたところ、元のレシピが見たいというので、ジャミーラ本の該当ページをコピーするので読み直したら全然異なるものになっていて驚いた。
まず煮込む時間がおれのは10分未満なのに、こちらはコトコト煮ることになっている。
でもまあ、美味しいのはどうしようもないので、一応おれさまタジン料理のレシピを記録しておくことにする。
まず、鍋にははるか以前に自分で炊事するときに購入した吉岡鍋の上蓋と内蓋を使っている。要は蓋の重みで蒸気が逃げにくいことと、鍋内の空間を小さくすることがタジン鍋の代わりになると考えたからだ。
北陸アルミ 両手鍋 21cm IH対応 軽量 HAMON しろがね セラミック加工 日本製 A-2033(-)
(今や北陸アルミは吉岡鍋そのものは作っていないみたいで、内側がセラミック加工されていたりするようだが、おれが持っているのはかってのMBP13のように全部アルミのやつだ。ステンレス鍋メーカーからのアルツハイマー病アルミ原因説とかで叩かれまくったので変えたのかな? 内蓋も付属していないようだが……)
・材料: ラム 200gくらい(多くても可)、玉ねぎ、トマト(オプション)、ピーマン(オプション)、ジャガイモ(オプション)、ニンジン(オプション)、干しブドウ(ラム酒に漬けていないプレーンな奴)、木の実(塩味なしで乾煎りしたいろんな種類が入っているやつが良い。アーモンドとカシューナッツが入っているべきで、あとは何が入っていても良い)、シナモンとナツメグたくさん、オリーブオイル
・ラム(マトンでも良いのだが、何しろ普通のスーパーではラムしか売っていないのでラム)を200gくらい買ってくる。骨のない、モモ肉あたりが良い。
・ラムを一口大に切る
・シナモンとナツメッグをこれでもかと振りかけて、あえる(適当に転がすくらいだが)。今はやたらとシナモン多めの五香粉があまっているので、それを使っている。
(あまりにシナモンが強くて、全然(イメージする)中華っぽくない不思議な五香紛なので、永遠に品切れとなったのではないか?)
・30分くらい置いておく(液体に漬けるのではないので意味ないと思わなくもないが、常温に戻すという意味はあるかも)
・玉ねぎ1個をみじん切りする(必須)。人参を一口大に切る(なければ入れない)。ピーマン1~2個を適当にそぎ切りする(あったほうが良い)。ジャガイモを一口大に切る(あったほうが良い)。果物で悪くなりかけているのがあれば入れても良い。トマト1個を適当に切る(なくても良いし、最後に握り潰して入れても良い。冬になると握り潰すのは冷たいので、包丁で切ってしまう)。
・吉岡鍋の上蓋を熱してオリーブオイルを入れて熱する
・玉ねぎを炒める
・色が変わったくらいでジャガイモを炒める(⇒人参を炒める、玉ねぎ以外は火が通りにくい順に入れる)
・ラムを全部入れて炒める。表面が白くなるくらいまで(どうせ煮るし、一口大なのですぐに火が通るので適当で良い)炒めたら、というよりも、最初に入れた野菜にもシナモンとかがくっついたら
・トマトとピーマン、干しブドウを入れる。
・水200ccくらい(いつも目分量で適当に入れるので実際には150ccくらい)を入れる。
・木の実を入れて蓋をする
・OK Google タイマー10分
・(一休み)
・OK Google あと何分? (2分を切ったら、蓋を開けて様子を見て、ジャガイモに菜箸が通る程度になっていたらやめる)
・器に盛る。できあがり
もし、鹹味が欲しければ塩を適当に振る。面倒なのでおれは塩は振らない。
FBで知人が反三国志について書いていたので(最近Kindle版として復刊したのだな)思い出したが、翻訳が出てすぐ買って読んでうんざりして、同じく三国志好きな父親(小学5年か6年のころにおもしろい本はないか? と聞いたら吉川英治の三國志を読めといって全10巻を買ってくれたくらいだ)に貸したらなんてつまらん本だといって返してきたのだが、存外アマゾンでの評価は高くておもしろい。
とはいえ、四半世紀前にはゴンタの新釈(曹操が主役なのはともかく董卓がマッチョでかっこよかったり陳宮が見るからに文弱だったり孔明が酒色に溺れるのが大好きな軽いのりのやつだったり、劉備はほら吹きのお調子者、関羽は義理人情大事のやくざそのもの、と新釈なのに史実に近くて(さすがに董卓の外見のかっこよさについてはそれはないと思うが、とはいえ人望と実力がなければあそこまで専横を振るえるわけがないのでその意味では正しいとは思う)おもしろい)三国志があったりしたくらいなので、反三国志の徹底した劉備上げにファンがいるのはちょっと不思議ではある。
(悪くないというかこれは良いものだ)
四半世紀の間に世の中が変わったのだろうか? もしそうならとても嫌な予兆ではある。
三国志とは何か?
陳寿の三国志は正史として記述されたものだし、正史といえば董狐之筆で、事実そのものよりもその時点での思想/善悪の観点に忠実に記述するとはいえ、基本無色と考える。すると特に晋を贔屓しているわけでもなく、むしろ蜀漢に同情的なのは陳寿が蜀の官僚だったからという説はあるものの、特に曹操が悪者として正義の劉備と対峙するようには書かれていない。
そうではなく、三国志といえばやはり三国志演義なのだった。
三国志演義が書かれたのは明代で、これが重要だ。演義としておもしろおかしく潤色しているから基本は演義となる。おれが最初に熟読した吉川英治とおそらく吉川英治を種本とした横山光輝は劉備が主人公だ。が、どうしても曹操が魅力的なのだ。なぜか? 曹操は1周回って近代的価値観を持っているからだ。
そこには中国の歴史、法家と需家の対立を読むことができる。
法を厳正に銘文化し、特権的な権力よりも上に法を置き、善悪ではなく有能無能で人間を見極める法家思想は、秦帝国の成立から数100年において中国の治世の基盤、つまり法治主義をもたらした。
その後に、法よりも道徳、能力ではなく身分、厳密な文書による法ではなく事例、血統重視の儒教が取って代わる。こちらは人治、きれいごとな言葉だと徳治である。
歴史を見てみよう。
三国は、それぞれ一応のto beな国家像を持つ。
漢は最初に漢中を治めたときに蕭何が法三章を掲げたように、法治主義が治世の根底にある。それは秦を滅ぼして全土を統一した後にも変わらない。そもそも秦の官僚体制を引き継いだのだから当然だ。ただし、一部の儀礼については劉邦の好みと、大量の(国がばらばらな)国民を統一して扱うために儒教の儀礼を取り入れた(叔孫通による儒教の換骨奪胎による外面儒教なので、後世の儒者からの評価はぼろくそ)。
この秦から漢への易姓革命は、始皇帝が定めた法治が、宦官の専横によって骨抜きとなり恣意的な運用となったことに起因すると見ることができる。というのは、この後も同じパターンが続くからだ。
漢も同じことで、最初は明白に法治主義だったのが、十常侍やそれに対抗するために呼ばれた何進の専横で、がたがたになって自滅する。
その後を引き継ぐ三国が再び法治の確立を目指すのは必然だった。
曹操は典型的な法家だ。法を厳正にし(青年時代に夜間外出禁止を破った高官を叩きのめしているから、最初からそういう指向だ)、徳とか仁とかは完全に無視し、完全な能力主義を取り入れる。とは言え、魏⇒晋の下剋上で貴族(というかその時点での有力豪族)が力を増す。こうなると法治は人治(徳治)に成り下がる。この後さらに異国人支配などが入り込み、法治も徳治もへったくれもなくなる。
孫権も基本は同じ(周りの官僚は漢の生き残りなので当然そうなるが、漢帝国の主要官僚を引き継げた曹操と異なり、しょせん呉の田舎官僚しか集まらないのも問題)なのだが、君主が若すぎるうえに政治基盤が弱いため、地方豪族の人治を排しきれない。しかも孫家が創業(曹操の場合は本人は漢の丞相として自身は創業していないし、そういう戦略を取らせた優秀な法家官僚が回りにいるためそれほど無茶をしない。もっともそれが司馬氏による簒奪を招いたと言えなくもない)ということで以降の世代で無茶苦茶になる。
劉備も当然基本は同じだが、曹操の官僚家系であるとか孫氏の武力であるとかいった創業のための資産が漢の末裔という血統しかないので、そこに物語作者の付け入る隙があるが、それには明を待つ必要がある。
実際のところ当時の学者である孔明が政治面を見ているのでいやおうなく法家型国家を目指す(儒者なら仁を見て許すのが当然だが、法家なので泣いて馬謖を斬るわけだ)。が、なにしろ漢の末裔というのが取り柄なので漢のぐだぐだになり散々いじられた制度の引継ぎが必要となるし、地盤としたのが蜀という劉備にとっては完全な外国のため地方豪族の勢力を温存させなければ国家が成立できず(子飼いの軍隊の少なさで孫権よりも圧倒的に不利)、完全な能力主義を取ることはできない(ここが一番の問題点だったので、あっという間に滅びる)。
で五代六国した後にやっと隋が再統一を果たす。当然、法治で、その象徴が科挙(どこの馬の骨だろうが能力があるやつを選ぶ)だ。とはいえ、楊家の支配も呉と同じパターンに陥りたかだか2代で滅びる。
この後も中国の各国は基本は法家主義で進むのだが、再統一を果たした唐になると再統一を助けた人間の出自がいろいろなこともあって法家と道教と仏教の混淆国家となってしまう。逆に混淆思想のおかげで文化がすさまじく発展する。
唐では特に則天武后という女帝の存在がおもしろい。儒教では女性が男性の上に立つことはあり得ないが、法家の能力主義と道教の万物斉同主義が根底にあらばこそだ。
特に唐では道家が強いため文化のみならず学問も百花斉放する。ここで韓愈が儒教を学として復活させたのが後にとてつもない影響を及ぼすことになるのは痛恨の一撃なのだがこの時点ではまだ問題とはならない。
が、こんな混淆国家では統一王朝を保つのは難しいのは明らかで、事実ぐだぐだした末に分解してしまう。
そして趙氏が宋を創業する。
ここで初めて儒教が国家原理となる。
要はいくら法を定めても長い年月がたつと弱肉強食の貴族主義によってぐだぐだになる(官僚は科挙による能力主義であっても武力は武力で別だからで、その意味では文武分離が本当に望ましいかは怪しい)のを、本気で避けて趙一族で永続支配しようと考えたからだ(文官については法治が正しいと考えていた節があり、科挙は存続させるわけだが、ここで試験問題を孔子と孟子にしてしまうのが将来の禍根となるが、儒教国家なのでしょうがない)。血筋を最重視するのであれば法家の能力主義や道教の万物斉同は都合が悪すぎる。人治のためには徳治あり。
が、思わぬ伏兵で夷狄(金)やモンゴル(元)が攻めて来て宋は滅びる。
元がうまく統治できずに滅びた末に下剋上が再現し最終的に明が成立する。
元が滅びた以上治世のモデルを再度宋に取ったため自然と儒教国家となる(ここでも科挙は存続)。そもそも明の朱家も永続的支配を目論む以上は儒教国家を作るのは必然だった。
ここで文学としての三国志演義が成立するわけだが、国家思想に沿わせるため(沿わせなければ発禁処分やいやなことがたくさん待っているのは明だけに明らかだ)に、「正統」な王朝の末裔の劉備を主人公として儒教国家としての蜀漢(と、その前の漢)というフィクションが入る。
孔明も法家なのに儒者風の不可思議な存在に変わる。ついでに呉の官僚も儒者にされてしまうので、魏呉大戦前には儒者の孔明が儒者の呉の官僚や地方豪族群を儒教にそって論破するというわけのわからない場面となり、作者も困ったのか、孔明の揚げ足取りで論破(そのような考え方では親も子もないことになり、それは孝を否定するケダモノですぞ! というようなセリフはおもしろい)という愉快な場面となる。物語としては実におもしろいが、現実の政治ではあり得ないだろ。
が、市井の知識人である三国志演義の作家は当然のように法家的にものを見ている。また読者庶民にとっては儒教なんてくだらないものはどうでも良く道教的な価値観を持つ。
そこで、主役は儒教国家再建を目指す劉備なのに、魅力があるのは法家思想に忠実な曹操と、ここぞというときに法家の真の姿をあらわして馬謖を斬ったり、無理矢理儒者となって揚げ足取りの弁舌を振るったり、道士として風を呼んだりする孔明という不可思議な物語が成立してしまう。
三国志演義のおもしろさとは、その表面的な国家思想に合わせた儒教的価値観と、実際に展開される現実(法治主義者と読者に沿わせた道教的アナーキーと歴史的な地方豪族による武力競争)描写のアンビバレンツなのであった。
さて、時は中華民国建国後、儒者(孔子と孟子を猛勉強して科挙に受かったのだから当然儒者となる)の官僚周大荒は、法治(20世紀なので西欧的なようだが秦以降の法家思想と考えたほうがおさまりが良い)と北洋軍閥の武力で勢力を増す袁世凱に対して、どうにも文弱な孫文(なんとアメリカ帰りの民主主義者というわけで、ここで中国史上初めて民主主義が出てくる)と儒者官僚群の勢力争いを見るに見かねて一冊の奇書を世に問う。
儒者が望む歴史を描いた反三国志だ。当然、儒教が勝つのだから、儒者以外が読んでおもしろいわけがない。
が、三国志好きにとってはなんとなくおもしろそうな気がしてくるので、つい手を出してしまうのだよな。
そして、一読三嘆、なるほど儒者にとってはこうあるといいなぁという世界は、やはりくそみたいな世界だなぁと感嘆してしまう仕組みだ。
かくして孫文は追放され、袁世凱は帝位を目指すことになるのだが、他の地方豪族がそうはさせじと中原に鹿を追う競争が、夷狄の倭人も巻き込んで繰り広げられるのが中国の20世紀であった。儒教は死んだ。良かったね。
最後に勝ったのは、法家でも儒家でも民主主義でもなく、毛沢東の(ソ連もマルクスも無関係な)おれさま共産主義なのだが、それなりには法治であった。でもあまり良くなかったね。
ちなみにこの奇書が復活したのは1987年でこれまたなかなかおもしろい。
時期を考えると、なぜこの儒教布教のくだらない本が1987年かが見える。
鄧小平の改革開放路線に対するアンチテーゼだ。
鄧小平が推し進めた改革開放というのは能力主義であり、党幹部の子弟超優遇という人治から外れた、客観的に正しい国策だ。
それに対して、無能なおれたちにはやっぱり儒教の人治のほうがいい! という反動路線として儒教押しの本書があるわけだ。
それにしても、この儒教押しの本が堂々と復刻出版できたわけだから、その程度にまで鄧小平は統制を緩めたともいえる。そして緩め過ぎたと気づいた末に天安門事件が起きるのは本書復刻の2年後の1989年となる。
2020年12月31日でFlash終了なわけだが、そもそもおれにとってFlashとは(あるいは一番印象深いFlashのコンテンツとは?)と考えていたら、違法アップロードの主体となるのはその時点の違法アップロードをしたい世代なんだな、ということに思い当たり、なんとなくインターネットの歴史の一部として記録しておきたくなった。
確か、おれが最初に違法アップロードされたものを耳にしたのは、椎名林檎の幸福論で、要はMP3時代全盛の頃だった。なんかのアングラ掲示板だと思うがそこは全く記憶にない。
なんだこれ? と一聴して気に入って、今時の人たちはこういうのを聴くのか、それはなかなか良い耳だと、確かその時点で出ていたのは無罪モラトリアムと勝訴ストリップ(まだ出ていなかったかも)と買いまくった(勝訴ストリップが2000年、幸福論が1998年だから1999年頃じゃないかなぁ)。
で、似たようなもので、MADが全盛になってその中に、パフュームのBaby cruising LoveとベースボールベアのエレクトリックサマーのMADがあって、正直Baby cruising Loveはどうでも良くてベースボールベアのパートになる(どこの誰だか知らないが、実にうまくミックスしてあったのだ)のが待ち遠しい。
というわけで、その後、ベースボールベアを買いまくることになる。エレクトリックサマーが2006年だから、MP3の違法アップロード時代から8年くらいたってMADという形式になったのだな。それにしても同じ違法アップロードでもえらくクリエイティブになったものだ。(MP3時代と並行してMIDIがあったはずだが、おれはそっちはまったくかすりもしていないのでわからない)
ELECTRIC SUMMER(Base Ball Bear)
時代が変わっていたので、今度はCDではなく、iTunes Store(まだiTunes Music Storeとか言ってたころだ)。ベースボールベアはそれから当分の間新作が出るたびに買うことになった。(でも一番好きな曲はエレクトリックサマーに入っているSAYONARA-NOSTALGIAなのだが、LOVE MATHEMATICSが一番まとまっている気がする)
LOVE MATHEMATICS(Base Ball Bear)
で、今はオリジナル時代になったのだと言えるのかなぁと思ったのは、FBで上のようなことをさらっと書いたらshachiさんが、ニコ動は米津玄師で、ライバーがYOASOBIだなとレスをくれたわけだが、そりゃもう完全にオリジナルじゃん。しかもおれが見る範囲が変わったらしく、その2つとも紅白に出ることになって知るくらいの感度の鈍りっぷりがおもしろい。
で、Flashだ。
おれにとってFlashとは、bump of chickenなのだった。
ものを見まくったというか聞きまくったのは2chだとは思えないが、2chのAAにバンプを合わせたFlash、K、ダンデライオン、ラフメイカーはAAの組み合わせが抜群で、こちらはその後子供がCDを買うことになる。BBBなどと違って自分では買わなかったのは、曲はスピード感があって悪くはないが、あまりに歌詞が応援歌っぽくてさすがに音楽だけ聴くのは気恥ずかしいからだった。どうにも応援歌ロックというのは嫌いなのだ(が、ブルーハーツの人にやさしくとかボブマーレーのゲラップスタンダップとかどう考えても応援歌ロックなんだけど、こっちはOKなのが良くわからん)。
ところが、それがAAのギコ猫などと合わせることでうまいこと昇華されているように思えたのかも知れない(AA以外のフラッシュも見た覚えはあるが、なんか気持ち悪く感じたのは覚えている)。
これらはおそらく2002~2004年くらいだと思う。(検索してみると年代などの記載がないものがYouTubeにアップロードされていたりするが、わからん。バンプ関係ないがしいの歌が2002年という記述を見つけたのでそのあたりかなぁ)
延々と数年に及んでマインクラフトの最初に作ったワールド(サバイバルのイージー)をうろうろしていて、ふと子供に、「これ永遠にふらふらしているしかないのか?」と聞いたら、「一応エンダードラゴンを退治するのが最後みたいだよ」と答えられた。
そこで、ふらふらしているのは楽しいが、とりあえず、最後までやってみるかと何か月か試行錯誤して、ようやくエンダードラゴンを退治した。
とりあえず、要塞を探してエンドポータルを見つけなければならないということがわかって、何の役に立つのかわからないままに集めた宇宙人の〇をエンダーアイにして放り投げて要塞を探して、見つけた場所は掘ったが要塞のかけらも出てこない。
TNTも駆使して深さ50×50×50くらいの巨大な穴を開けたが、まったく存在しなくて途方に暮れる。
しょうがないので調べまくると、えらく前からプレイしているので途中何度か大きなバージョンアップがあって、そういうこと(地形生成情報がどこかにすっ飛ぶ)があるらしいとわかって呆然としてしまった。
そこでまだ生成されていない大地に埋まっている要塞を探すことになった。
が、1000×1000くらい探しまくったが、エンダーアイは巨大な穴しかポイントしない。
twitterで嘆いていたら、コピーを作ってチートモードで探したら良いのではないか? と教えてもらってやってみた。見つけた座標まで元のワールドで進むと、(途中で地形生成されるのがそこのパターンが変わったのか)見つからない。そこで、地形を新規生成できるところまで元のワールドで延々と行軍して再挑戦。コピーしたりは面倒になってそこでエンダーアイを投げたら、明らかに元の大穴とは違う場所を示したので、そこで探すことにした。ら、噂通りに村の井戸の下をポイントした。が、この村がゾンビ村だったのですごく助かる点もあった。
・この時点で、いくつかの謎が解けた。巨大バージョンアップで仕様が変わっても以前の情報を引き継ぐものがあるということなのだな。
・最初の頃に見つけた村の農民は卵16個をエメラルド1個に交換してくれる(1回あたり16×8くらいは交換できる)ので、巨大な養鶏所を作って交換しまくり。スイカは切れ端4個が1エメラルド、最高レベルではきらめくスイカを安く売ってくれる)
が、ある時点からの農民は、スイカは丸々1個(シルクタッチで収穫しなければならないし、切れ端4個の場合は幸運かアイテムドロップを使うと1個から7切れくらい収穫できるので、随分インフレしている)、卵16個の場所が謎いパイとの交換、最高レベルは金の人参(暗視のポーションって使いどころがわからん(海底探検に必要なのかな)のでまったく不要だ)になっていて、何人農民を生成させても(最初は殺すとゴーレムが襲ってくることに気付かず、何度も殴り殺された)卵16個農民が出てこなくて謎だったが、ゲームバランス調整で農民の交換パターンが変化したとわかった。
・一方、ゾンビから復活させた農民は最初の10日くらいまでは大盤振る舞いをしても、すぐに普通の交換条件に戻っていたのが、現在はいつまでたっても大盤振る舞いを継続してくれる(こうなると、ニンジン1個で交換する農民、石炭1個で交換する鍛冶屋、腐肉1個で交換する司祭とか、とんでもない連中がいつでも使えるため(特にゾンビ8人村を発展させたところを抱えているので一日交換16個制限があってもまったく問題とならない)、超デフレとなってエメラルドが山のように集まることになった。(要塞を探すために開拓した新天地なので、何人かの本屋(後でこれが重要となる)とは2000以上離れているため、エメラルドが山ほどあってもなかなかきつい)
・同じく最初に作ったネザーポータルはすぐにネザー要塞に直結していていくらでもロッドが入手できるのだが(面倒なので耐火ポーションを飲んで、スポーナーのところで出てきたロッド魔人を殺戮しまくる)、新天地で作ったポータルはなんかとんでもないところで周囲をいくら探してもネザー要塞が出てこない⇒ロッドが入手できない状態(2000離れているポータルまで取りに行かないとだめ。どこか具合の良い場所にポータルを作れば良いのだろうが、今のところすべて外れだ)
で、ようやく見つけたエンドポータルだが、エンダーアイが無いし、宇宙人がなかなか出てこない場所なのだった。と思ったら、ゾンビ復活司祭と腐肉を交換しまくっていたのでレベルががんがん上がって、宇宙人の〇がエメラルド1個で交換状態になっていたのでまったく問題なかった。
が、ロッドが無いので2000離れた場所に取りに行くのだが、えらく大変なので馬用の道路を作ることになった。始皇帝が作った道路みたいだな。今度煬帝のような運河も作ってみても良いかも知れない。
・で、エンドに行ったらあっという間にタコ殴りで死ぬ。
・カボチャマスクしかないということがわかる。
・鉄格子の中のクリスタルを破壊するために砂を積み上げて登っているとドラゴンに殴られて落ちたり、クリスタル破壊時の爆風で飛ばされたり(だと思う)落ちて死ぬ。
・とにかく死ぬことがわかったので、チェストを持っていって以前死んだときの装備を回収してしまっておくことにしたので、回収後は全裸でエンドポータルに飛び込むことになった。
・ふと思い出したが落下軽減Ⅳの本屋が最初に見つけた村にあることを思い出す。で、延々と2000(実際は3000くらいかな?)を旅して、そこではエメラルドが無尽蔵に交換できないことを着いてから思い出して、取りに戻ったり(さらに本がなくて本棚を買って壊して本を入手したらエメラルドが微妙に不足したりとかいろいろ。養鶏所がまた役に立った)。
・で、落下軽減Ⅳの威力は甚大で32ブロック(36かな?)積み上げた場所から落ちても死ななくなったので、クリスタルを破壊しまくる。
・最初土を大量に持って行ったが、落とされると回収できなくて詰んだので、以後は砂にした(はしごを登りながら繋ぐ方法が未だに良くわかってないのだが、梯子を使うほうが楽なんじゃないかな。というか最近追加された櫓の使いどころはここなのか? 試せば良かった)
・最初殺し方がわからず矢を射かけまくっても全然効かない。
・尻尾ふりふりしているところに近づいて剣でタコ殴りが一番効くことがわかって殴っていたらいつの間にか終わっていた。
で、妙に長い説教をくらわされたあとにスタッフロールが続くのだが、長い長い。最後は面倒になってスキップしたが、途中までくそまじめに見ていたら、どうもやたらと生なフォントが出てくる人がいる。
このキャプチャだと4、5行目と最下行。
国際色豊かだから、その人名に対応するUTF-8のフォントが無いからかな? と思ったが、John Smithみたいなどう読んでもただの英語だろみたいな名前でも生なフォントの人もいるので不思議だった。
ロボット・イン・ザ・ガーデンという名前は、先日子供にミュージカルに行こうと誘われたので初めて知ったのだが、本屋へ行ったらなかなか心惹かれる表紙の文庫があって、ふと手に取るとそれがロボット・イン・ザ・ガーデンだった。
まあ、そういうこともあるなと買って帰って読み始めて結局そのまま読了してしまった。
無職でそれなりに立派な家と財産でぷらぷら暮らしている男の家の庭に、そこから見える馬(の牧場)が気に入ったのか四角い旧型のロボットが居ついてしまう。
男は金があるからハッピーかというとそうでもない。弁護士として精力的に仕事をこなす奥さんとはあまりうまくいっていないのだ。その奥さんが、庭にいついたロボットが気に食わないのでどうにかしろと要求する。
しょうがないので、男はロボットとコミュニケーションを取ろうとするが、なかなかうまくいかない。うまくいかないのでのめりこんでしまい、ついに妻からは愛想を尽かされて離婚となる。
ロボットに対して愛着が湧いた男は、ロボットの破損した部品を修理するために製造元を探して、ロボットと共にイギリスからカリフォルニア、ヒューストン、東京と旅を続ける。
おもしろいかおもしろくないかの2択なら間違いなくおもしろい。いっきに読了したのだから間違いない。
が、いろいろ気持ちが悪い点も多い。
主人公の年齢設定(35歳)がまずなんといっても気味悪い。金と移動の自由と、そこに至るまでの人生観から逆算すれば35歳というのは設定として正しく思えるが、中身が17歳くらいの感じだ。
やたらと愛想の良いフレンドリーな人々で満ち溢れた東京の描写も薄気味悪い。物語の流れとしては暗黒のカリフォルニアからヒューストン経由でポップな東京という天路歴程っぽさが欲しかったのかなと思うが、こちらは実際にそこで生活しているわけで描写は気になるなぁ。
ただ、ロボットが地下鉄の駅ごとにチャイムが変わるのを気に入ったり、山手線の各駅のチャイムを覚えるまでぐるぐる回ったりするのは、悪くない。
出てくる人間のステロタイプ度もなかなかのものなのだが、特に後半の一種の敵役(登場人物紹介が、物語の前半までしか出ていないのは、たかがこんなレベルの物語ですら「ネタバレ」という不思議な概念に対する忖度なのか?)のムーヴがあまりにも馬鹿げていてご都合主義ですらないのにはあきれた。結論は同じになるにしても、もう少し動機付けをどうにかしたらどうなんだろうか?
要は主人公とロボットの二人を除くと、あまりにもステロタイプなのでペラペラ過ぎてそもそも不要なんじゃないかという気になってくる。おそらく作者の本能的なマーケティング力による想定読者層にぴったりなのだろう。良く書かれる側と悪く書かれる側が見事なまでに類型になり過ぎていて、そこが実に気持ち悪いのだった。
ただ、主人公がどうにかロボットとコミュニケートしようとするのが、自分が飼っている猫であるとか、乳児の頃の子供であるとかとのコミュニケ―ションの記憶と重なるように書けているのだと思う。そこが本書の唯一の深みとして読んでいておもしろい、のかも知れない。
もちろん、高度な技法として人間的なロボットと、非人間的な主人公以外の世界というものを表現しようとした、ということは一切ないなぁ。
というわけで浅薄ではあるけれど全体としては悪いものでは無かった。
少なくともロボットが名前の由来を語るところは抜群だ。感動的ですらある。まさにぐっと来るというやつで、牧場を走っている馬の映像とあわせて再現できるくらいだ。
あと、ラッキーなことにおれも味わうことができた、あの瞬間をすさまじくうまく書けている。
まさに一言なのだ。
あの瞬間を味わえるのはそれぞれにおいて世界で一人しかいないわけで、作者あとがきの後ろの謝辞にあるとおりなのだろう。
歩いて余裕で行ける範囲のスーパーマーケットがほぼ全滅したので(頑張ればOKストアには行けなくもない)、大体、週に1~2回、車で買い出しに行くというちょっとアメリカンなライフスタイルが続いている。
それぞれ個性があっておもしろいので、書いてみる。
・四谷丸正総本店
駐車場が地下にある。台数は少ないがわざわざ車で来るやつは少ないので停められなかったことはない。ただし入り口がやたらと急傾斜なので入るときは良いのだが、出るときは壁沿いに歩いて来るうかつな歩行者を跳ね飛ばさないように細心の注意が必要という罠がある。
3階にあおい書店があるのが一番の美点で、Kindleではなく紙でマンガを買う場合は大体ここになる。
食料品は、場所柄なのか超高級なものが時たま出て来て度肝を抜かれるのが楽しい。
今まで見た中で一番の大物は、竜宮の遣いの2万?千円で、すごく食べてみたかったが、価格もさることながら、まったくうまく捌くことができるとは思えなかったので断念した(10年に1度しか見たことない)。それでも3000円クラスの魚だと、これは食いたいと思うと3年に一度くらいは買ってみる。そしてうまい。牛も良いものが多いので大抵は買えない。
あと、仕入れ担当者の顔が見える妙なコーナーがいくつかあって、それも楽しい。バルボッサのカレーはここで知った。抜群。
・ヨークマート富久町
ちょっと前までイトーヨーカドー食品館だったがなぜかヨークマートに変わった。駐車場はそれなりの広さ。出口の歩道の切れ込みが意外と中心寄りのため、出る時に縁石に乗り上げやすいのが難点。
しょせんセブンイレブンなのでろくなものはないが、時たま鮮魚に良いものが来ることもある。マグロ解体ショーで買った中落は美味かったな。たまにアメリカ牛の筋を投げ売りしているので、そのときはありがたいので大量に買い込み煮込むことになる(多分、単価が低すぎて他のスーパーでは店頭に出さない)。
値段は手頃なので悪くはないが、とにかくつまらないので好きではない。
ただし、壁際のサードパーティコーナーにシャトレーゼが出店しているのが素晴らしい。
ドライアイスが無料で面倒なコインとかが不要な点はさすが王者の貫禄と思う。
入っているマンションは、エンドのクリスタルタワーのように夜は先端の鉄格子の中がきらきらしてときどきドラゴンにパワーを与えているように見える。
・麻布日進
駐車場はある。
ウサギの肉とか、グラスフェッドの牛とかを買うならここしかない。ホワイトハム(オリジナル商品っぽい。おいしい)などの久兵衛があるとハッピーな気分になる。
野菜は良さそうだが、だいたい高め(なので向かいの八百屋へ行くこともある)
・京王のなんか
神楽坂の近く。
一時期、駒場のケーキ屋の生菓子が入っていたので買いに行って、パンは向かいのカイザーで買うというパターンがあった。駒場のケーキ屋との契約を切ったのかなくなったのでここ数年は疎遠。
駐車場の人間用の通路に一時期ペットボトルの粉砕機があって、ここを使ってパンパカパーンになるのも楽しみだったのだが、それもなくなった。
全体的に高めなのだが、その分ものは悪くはない。とはいえ上記の理由から積極的に利用する意味がなくなったので、最近は使わない。
・ライフ
ライフは何軒かある。
渋谷の恵比寿寄り(広尾までは行かない)の店の駐車場に停めて、チリチリカレーを食ってから買い物するという使い方をしていたのだが、チリチリカレーが移転したことと(途中からチリチリカレーは金土日休業になったので、平日の昼にスーパーに買い出しに行ける場合は、やたらとライフに行くことになった)、やたらと駐車場が満車のことがあることから渋谷は最近は御無沙汰。3階の薬屋とかお菓子安売りコーナーとか悪くはないし、肉コーナーもいろいろ良い。でも鮮魚はぱっとしない印象がある。
若松町店は駐車場も広いし、鮮魚は充実していて丸正とはまた違ったおもしろさがある(2万円の魚とかは見たことがない)。クリガニがやたらと入荷されているときがあって、なんだこれ? と思ったらFBで福島Ruby親方とかがクリガニうまいとか書いていて、おおそうなんですかと買って(出直したらまだ売っていた)食ったらうまかったとかは記憶が鮮明。
四谷店は、やたらと立派なビルの駐車場が使える。が、店自体は若松町店のほうがおもしろい(なんか少し客単価を高めの設定にして、定番多めで、コンビニっぽいのかも。ヨークマートに近い雰囲気になっているのがいやな理由かなぁ)
中野新井店も、新し目の雰囲気なので良い。駐車場も悪くない。平和公園に近いので、中野刑務所正門を見物に行ったときに使ったが、家からは遠いので、ここに来るなら若松町のほうが良いかなぁ。
でも、鶏のハツを常備しているっぽい。それはとても良い。
・三徳
一番好き。
大久保の本店の駐車場は少し店から距離があるのは良いけれで、歩行者信号がなかなか青にならないのでいらいらするのが難点。
魚も肉も楽しい。ただし、時によっては欲しいものがまったく無いこともある(安定度はライフのほうが上だな)。
ドライアイスは3片か4片までは無料。イオンやヨークマートのようなシューっと噴き出す仕組みではなく、タングで取り出す仕組みなのが、逆に好きかも。
ただし早稲田店は、30年くらい前にあまりに安いので標準米を買って悲しくなった思い出があるため敬遠気味(というか駐車場もない)。
東京女子医大の向かいの店は駐車場も悪くないのだが、本店のほうが好きだな(逆に清潔過ぎる感じを受けるのかも)。
・マルエツ
三軒茶屋の店は、じゃじゃおいけんにじゃじゃ麺食べるときの駐車場用。昭和の生き残りのようなスーパーであまり感心しない(生鮮食品を買いたくならない)のだが、使えなくはない。
江戸川橋に最近?できた店は明るくて駐車場も使い勝手が良いし、なんかライフみたいで好きかも。生鮮食品を扱う店は明るいほうが良いと思う(建築時期によって、ガラス多めに作る技術がまだそれほど普及していない時期に作られた店は不利だな)。
・ワイズ
高田馬場店には駐車場がある。途中からチケット制度になったのだが、マシンの位置が良くないこともあって、結構な頻度で取り忘れる。時々満車のときがあるが、入れるときも多い。
魚が良いし、肉も良いし、調理パンも悪くないし、なんか好感がある。
寿司も良かった覚えがあるのだが、途中から置かなくなった。
ジャックフルーツのような妙なものに出会うこともなくはない(が、その後はお目にかからないな)。
・大丸ピーコック
魚籃坂店には駐車場がある。ほぼ使わない。歩いていく人用な印象(三軒茶屋のマルエツと同じで歴史がありすぎるのかも)
・イオン
東雲店はそれなりに使う(豊洲で映画観た帰りとか)が、イオンだ。ここもドライアイスには王者の貫禄がある。
品川シーサイド店もそれなりに使うが、ちょっと遠いのが難点。ただし未来堂書店が入っているというなにものにも勝るメリットはある。
・大関
世田谷に行ったら大関。練馬区役所脇でも大関。古めスーパーの中では圧倒的に大関は良いものだと思うが(お肉屋さんがスーパーになりましたみたいな感じで、コンビニがスーパーもやってますみたいな店とは一線を画している)、いずれにしても遠いので滅多に使うことはない。
・OKストア
安い。初台店には駐車場があるが、常に満車なのでたまたま通りかかって空車なら入る。
肉も魚もおもしろそうなものはほぼ冷凍。
ただし、赤と緑の2色のメロンアイスは最高なので、メロンアイスのために行くことすらある(なので、売っていなかった場合の衝撃はすさまじい)
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