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王の没落読了。Twitterで岩波のツイートを見ておもしろそうだからすぐ買ったが、結局先週から読み始めた。
デンマーク文学で、1900年あたりに書かれた20世紀デンマークの代表的な小説らしい。全3部構成で、歴史的にはクリスチャン1世治下、クリスチャン2世のスェーデン占領、クリスチャン2世幽閉後に分かれている。1部では20代(10代後半かも)だった主人公が2部では40代くらいとなり、3部では60〜70代となっている。
読むのに一番時間がかかったのは1部で1週間くらいかけて読んだ。実際情報量(人物、事柄、イベント)も1部が一番多く、2部、3部と少なくなっていく(その代わりに幻想が増えてくる。おそらく主人公が動けなくなるからだろう)。結局3部は半日で読了してしまった。
主人公は1部では大学生として学んでいるがまじめに勉強するよりも市外で農民から食事をおごってもらうことがほとんどだ。
そこに軍隊がやってくる。軍隊には主人公の故郷での領主の息子がいて、同郷ということもあって行動を共にするが違和感を常に持つ。
ニワトコがある家の角の石に落書きがあり、その家に住む女性に恋している。
ニワトコという言葉を見て子供のころ読んだアンデルセンのニワトコおばさんを思い出した。デンマークではニワトコは愛されているようだ。日本の桜に相当するのかも知れない。
主人公は酒場でクリスチャン2世(この時点では王子)を見て美しさに感動する。
主人公は放校され故郷へ帰りそこで領主の息子の婚約者を誘拐する。傭兵として出兵する。
2部では王の直属の軍人となる。デンマーク軍の占領下のストックホルムで知り合った若い騎士(実は1部で出てきた領主の息子の知られざる息子)が持つ、ヘブライ語で書かれた宝について書かれた文書に興味を持つ。もとは大学生でラテン語もヘブライ語も学んだことがあるのだが、その学問の成果をまったく活かすこともできない生活を続けていたので、翻訳してみせることですでに失って(あるいは最初から持ち合わせていない)誇りを取り戻したい。しかし、騎士はその欲望にまったく気づかない。騎士の元に港に停泊した享楽船から娼婦が訪問する。
街ではクリスチャン2世によって広場が血で溢れる。
主人公は高熱を出して死を予感する。そして最後の希望として騎士へ読ませてくれと頼む。騎士は病気が悪くなることを恐れて断る。
主人公は騎士に対して殺意を抱き、そして回復する。
騎士はそこら中で女性と婚約したり結婚したりしては旅立つという猫のような生活を送り、最後は主人公の故郷で主人公の娘(だが主人公はそれを知らない)と婚約する。
やってきた主人公を騎士は歓待し、二人は出かけ、そこで主人公は復讐を遂げる。が、文書が収まっているはずの箱は空だった。
3部になっても主人公はまったく満たされることはない。巡礼の姿をして弟の元を訪れる。農民たちによるクリスチャン2世奪還作戦が行われ、ドイツから来た現政府軍によって農民たちは弟を含め虐殺される。
主人公は王の側近として一緒に幽閉生活に入る。
主人公はイタリアで仕入れた地動説を王に話す。王は認めない。
そこで王は、主人公を智者のもとへ天動説と地動説のいずれが正しいかを聞きに行かせる。入れ違いに主人公の孫(騎士の子供)が親代わりの楽師とともに城(王の幽閉先)を訪れる。
博士は主人公にヘブライ語の文書は娼婦が持ち出し、さらに何人かの手に移り、換金されたことを告げる。
博士のもとには王の隠し子のカルロスがいる。彼は頭蓋骨を持たず、巨大な脳を使って森羅万象を知ることができる。博士に頼まれ、カルロスは天動説と地動説のいずれが正しいか考え始める。
高熱を出した主人公がカルロスについてうわ言で漏らしたために、博士とカルロスは捕縛され、窒息できないようによく考慮した積まれ方をした薪によって火刑になる。
主人公は王の元へ帰り、病気で死ぬ。
この作品では主人公は徹底的に空疎な人間として描かれている。何一つ希望したことをかなえることも、そもそもかなえさせようと行動することもなく(留学資格を得るために口頭試問に赴いたことはある。また王の側近として仕えられるように依頼したこともあるので、何一つ希望というのは違うような気もするが欲望のレベルが異なるのだ)一人合点で恨みだけを溜め込み(しかし機会があれば放出する)何もなさないままで死ぬ。物語として書かれた会話シーンでも主人公は黙している。一方書かれていないところでは王と会話している。
王もなにかいろいろやろうとしたが理解を正しく得ようとせず、決断を先延ばしし、唐突に血の雨を降らせ、無為に死ぬ。
その点において主人公と王は同じ物語を紡いでいる。
しかもその意志とまったく無関係に子どもたちが孫たちを生み出して絡み合う。
要は歴史なのだった。
読後のカタルシスはないが、澱のようなものが余韻として溜まる、たしかに20世紀的な文学作品だった。
デンマーク語はまったくわからないわけだが、にもかかわらず訳業は偉業のように思う。心理描写のかわりに大量に含まれる風景描写が強い印象を持つ。
・ろくに勉強しない学生が農村などで歓待されるというのは、ゴーゴリのヴィーに出てくる学生を思い出した。そういう習慣があったのだな。
では日本は? と考えると、それが修行僧に相当するのかと考え付く。寺が大学なのか。
・何か同じように空疎で行動しない寡黙な主人公の物語を読んだ記憶があるのだが、なんだったか。
赤坂ACTシアターで、ロメオ&(アンドではなくエなのだが、なぜかアンド)ジュリエットを子供と観に行く。
オリジナルのシェークスピアは当然として、プロコフィエフのバレエも大傑作だし(コジョカルのは良かったなぁ)、映画作家アンソロジーのキアロスタミのやつも好きだが、ジェラール・プレギュルヴィク(sは読まないと思うが良くわからん)というまったく記憶できない作家のロックミュージカルもすごく好きだ。
以前子供がDVDで買ってきて見せてくれたのだが、とにかく音楽の組み立てが抜群だし、ヒバリの鳴き声の情景をまともに演じさせるため一切の曖昧さなしに悲劇性が強調され、最後、毒をあおったためにきれいに死んでいるロメオを見たジュリエットが完全に勘違いして(急いで旅先から戻って来たから疲れ切って眠っていると思う)幸福でいっぱいの歌を歌いながら冷たさに気づき、一緒に同じ毒をあおろうとするが瓶は空っぽで、次に唇から毒を奪おう(ほとんど気が動転しているとしか思えないわけだが)としてそれにも失敗して最後に短剣を取るまでの一連の演出まで、実に素晴らしい。
で、結局やたらと気に入ったので、子供が買ったCDは良く聴く。
Vérone - De La Haine A L'amour (Extrait De Roméo Et Juliette)(-)
(今気づいたが、随分な抜粋版だな)
というわけで、実際の舞台で観られるので楽しみに楽しみにして出かけたわけだった。
で、幕が開くや、これはHiGH&LOWかという感じで、青いモンテギュと赤いキュピレットが激しく踊って、2階建ての脇の道具も良いのだが、正直なところ度肝を抜かれた。無茶苦茶かっこいい。
だが、仲裁に来た大公の髪型が摘まみみたいでさすがにこれはないなぁと思ったり(概して歌を含めて子供対大人というフォーマットを通しているので大人はかっこ悪くしようとしているのかな)。
で、どちらかというと退屈なラエーヌがニクシミーになっていて相当違和感があったりしたり(でもあとで子供にニクシミーは無いんじゃないかと言ったら、言下にゾーオじゃ動物園みたいだし日本語にするならニクシミーしかないと切り捨てられてしまった)しているうちにロメオが出て来てジェペール(日本語でどう歌っていたか忘れた)で、このあたりまではそれほど音楽も好きではないわけだが、やっとモンテギュ組員たちとロメオが合流して、ベンボーリオかメルキューシオか忘れたが、お前はおれたちの王様になるんだからに対して、いや違う、おれたちみんなが王様さと、レルワデュモンドを歌って踊る。ここも実に良い。だからレなのか。
ロメオとジュリエットがまだみぬ恋人についての歌を歌う。ここも悪くないが、CDには歌が入っていないな。
舞台ではこのあとパリスがベローナいちの金持ちとして登場し、借金で首が回らないキュピレットが結婚を承諾してから、ジュリエットが自然に出会えるように仮面舞踏会を開こうとなる。
ジュリエットは16歳とシェークスピアから2歳サバを読んでいてなんでこんな無意味な改変したのか? と不思議になったが、法律的には結婚できるからとか喋るから日本版ということで整合性を取ったのかも。
で、当然のようにロメオたちは仮面舞踏会に忍び込んで、ジュリエットを捕まえようとするパリス、女の子をどんどん捕まえようとするメルキューシオと、いろいろ舞台を動かしながら、突然階段を真ん中に持って来て、他の連中を全員退場させて階段の上にジュリエット、下にロメオを配置して、お互い以外にはまったく目に入らない状態をうまく演出する。エスクテュメムラが全然違う詩的な日本語になっているが、悪くない。この曲は演出と相まって実にうまい。これが舞台ならではの感動的なシーンだな。
バルコニーの場はふつうに美しいが、乳母のジュリエットを呼ぶ声をしつこいくらいに繰り返す。
ロメオはロレンツィオに結婚式の相談に行くと、ロレンツィオはYoutubeのドラッグチャネルを視ながら睡眠薬の調合中で爆発させたりする。
乳母が銀色に輝く一昔前のアルミの灰皿を引っ繰り返したような帽子を被ってモンテギュの縄張りに入って来ると、モンテギュ団がUFOが来たと騒ぎ出す。ここは乳母の歌いどころ(レボレレはわりと好き)だと思っていたら、モンテギュの踊りの見せ場でもあったのだな。
乳母は見せ場が多い。最初は親のいうことを聞け → とはいえ恋をして独り立ちするのは当然のことだから応援しよう(レボレレは楽しい曲だが、エブワラケレムはすごく良い曲だ。この曲本当に好きだな) → 死んだものはしょうがないから親のいうことを聞けというのは自然だ。
というか、レルワといい、全体にモンテギュ団のほうが見せ場が多い。(と思っていたら、カーテンコールでキュピレット団のダンスがあって、(子供もやっぱ見せ場が少ないからじゃないかと同意見)おもしろかった)
で、神父と乳母の立ち合いのもと結婚するわけだが、カテドラルのそこかしこに人がいてスマホで撮影して拡散する。(2001年初演時には、写メはあるだろうが、拡散用のプラットフォームってフランスにはあったのかなぁ? というのが疑問点)
それにしても、ここでの結婚の意味合いが完全に50年代ハリウッドギャング映画のモーテルの結婚式場と同じ意味合いでしかなくておもしろい。
で、あまり好きではないがこの作品のテーマソングっぽいエメが歌われまくって1幕おしまい。
なるほど、結婚式の写真が拡散されたからオンディダンラリュなのだなとわかった。この曲はすごく好きだ。
プレギュルヴィクの曲は転調をものすごくうまく使う。この曲もそれが顕著だ。それまで短調だったヴィのィが途中で長調にぱっと転調して気持ちが上向いたりする。転調しないまでも、同じメロディの末尾を上げてみたり下げてみたり伸ばしたり打ち切ったり、感情の動きと音の動きを実にうまく合わせている。
というわけで、歌手もすごく良いのだ(というか、最近の人たちはかっこいい)。昼間観に行ったので甲斐という人のロメオだったが、家に帰ってから子供が配信も観ていて、そちらのほうがロメオっぽいマリオという人だった。
で、当然のようにメルキューシオはティボルトに殺され、ロメオはティボルトを殺し、追放となる。
ロメオはロレンツィオに身の処し方を相談するのだが、そこに乳母がやってきてロレンツィオと一緒に、明日の朝まで時間がないからさっさとジュリエットのところに行ってやるべきことをやってから旅に出ろと直截なことを言い出す。
で、ヒバリの声が聞こえ窓から陽がさし、ジュリエットはあれはナイチンゲールの声よと言っているところに乳母がやってきて目をそらすとか、まあ現代の舞台劇ですなぁと(とはいえ、これまでいろいろ舞台を観てきたが、こういう生々しいのは薔薇の騎士と(相当違う気がするが)オリー伯くらいしか覚えがない)
ロメオはマントヴァへ行くのだが、そこの怪しい宿でスマホ(時代的には携帯なんだろうが)を盗まれる(というかフロントに預けた荷物に入っているということかも、いずれにしても盗まれるのだが)。
一方ロレンツィオは24時間後にはジュリエットが仮死状態から復帰できるとロメオにメールを送るかメッセする。
(子供いわくこういう場合は音声電話か音声メッセンジャーのほうが反応の有無を確認できるから良いのにだそうだが、思うに盗まれたためそもそも読めないというのは想定外過ぎる。シェークスピアの僧ジョンが追いはぎに殺されるのと同じ程度かな。というわけで、ベンボーリオが気を利かせてロレンツィオに一言相談してから行けば良いと思うのだが、そもそもロメオ以外誰も教会へは行かなさそうだ)
ここで、キュピレットの親父(団はモンテギュのほうが見せ場が多いが、親はキュピレットのほうが見せ場がある)が、5歳のときに不義の子と知ったから絞め殺そうと首に手をかけたが、お前は何も気づかずにニコニコしている。OKまいった、わかってる。おれの子供だよ、愛しているよと歌い出す。
この曲はびっくりするほどつまらない。一貫してテレレレというメロディしか使われない。
初演時に名優だが歌がへたな俳優に親父をやらせたので曲を極端に単純化したのかな? と思わざるを得ない。というわけで、曲ではなく歌と演技だけなのでCDだと退屈なのだが、舞台だと当然歌手の演技が入るので話は異なる。松村という人はうまかった。
ジュリエットはロレンツィオのベラドンナベースの薬を飲んで仮死状態になる。
マントヴァまでジュリエットの訃報を告げにベンボーリオが来ると、ロメオは迷うことなく薬の売人の死神から毒を買う。
まあいずれにしても遠いところで一緒に暮らすんだからOKとにこやかに毒を呷る。
その瞬間にジュリエットが目覚める。
このMAD好きだ(音声はハンガリー版らしい)。
原曲もおそらくこのハンガリー版も歌の冒頭からロメオが死んでいることが前提となっているので悲しみー喜びの2段階だが、日本語版は歌の間で死に気づくことにして、喜び-悲しみ-喜びの3段階にしているのでより精緻な曲に聴こえた。
Roméo & Juliette - De la haine à l'amour - Karaoké(-)
KARAOKE?
妻がNetflixに入って成瀬巳喜男を見まくっていて今度は浮雲というので、一緒に見た。やっと見ることができたのだった。というか、二葉亭四迷原作かと信じ込んでいたが林芙美子だったのだな。
確か記憶によれば、80年代の後半あたりに成瀬巳喜男再評価があって、(出羽守の先駆者のような連中が)ニューヨークで日本映画といえば小津でも黒沢でも溝口でもなく成瀬巳喜男だとか言い出して、日本でも再上映があったのだが、あまりの出羽守臭さに眉に唾をつけ過ぎて見なかったのだった。ばかだなぁ。
で、今頃になって見ているわけだった。
物語は笑止千万で、最後に「花の命は短くて」が出てきたところでは爆笑してしまったが(他にもおいおいまたかよとかまたそれかとかいい加減にしろとかつっこみどころで満艦飾だが)、映画としては感銘を受けまくる。というわけで映画を堪能しまくる2時間だった。なるほど、これが成瀬巳喜男か。なるほどこれが浮雲か。確かに20世紀の最高峰なのは間違いない。
舞台は昭和20年代戦後直後。元農林省技官の富岡(森雅之。太宰治のようでもあり、髪型のせいか野性味を失った三船敏郎のようでもあり)の許を若い女性(数年前のベトナム時点で24歳に見える、22歳ですわ。それは素晴らしい。本物の年齢より高く見られるということは知性があるということだ、とか富岡はいろいろ冷笑家という設定)ゆき子(高峰秀子)が訪れる。
二人は戦時中のベトナムで浮気な関係になったのだった(パスツール研究所との話などが出て来て、なるほど仏領インドシナとはそういうものですなと思い出したり)。高峰はタイピストとして派遣されたのだった。仕事は何か?と聞かれた富岡に観光案内されたジャングル。
富岡は妻と別れる気持ちはまったくなく、材木商として一旗あげるつもりだが、まったくうまくいかない。ゆき子は、困り果てて粉をかけてきた若いアメリカ兵と3ヵ月(帰国まで)の契約を結ぶ。
一方、ゆき子の義兄の伊庭(郷里ではゆき子の寝込みを襲って以後3年間関係を持っていたというひどい話だが、よかっただろうと話す時点でまあそういう時代のそういう層のお話だというわけだが)も東京に出て来てゆき子にいろいろちょっかいをかけまくる。最終的に伊庭は新興宗教を友人とでっち上げて寝言を言って莫大な金を巻き上げるシステムを構築する(で、行き当てがなくなったゆき子を再度囲うが、ゆき子は30万円くすねて逃げるのだが、それは後の話)。伊庭は戦後うまくやった田舎実業家の雰囲気が言葉の端々に示されていて脚本(あるいは林芙美子原作)の人間観察のうまさにびびる。
心中するつもりで伊香保に宿をとるゆき子と富岡。心中するつもりというのは見ていてわかるので熱海かと思った(というように、映画は音声が潰れていて1/3程度しか聞き取れない。が、映画表現でほぼすべてが表出されているので、何言っているかわからなくても何をするつもりなのかは理解できる。ただし、錦ヶ浦が自殺の名所ということを知っているように、榛名湖が心中の名所という知識は必要で、かつ、おれは榛名湖も名所というのは知らなかった)。
そこで金が尽きた富岡の金時計を1万円で買ってくれた(元陸軍で富岡同様にインドシナに派遣されていたので意気投合)飲み屋ボルネオの主人(加東大介)の妻(岡田茉莉子)と浮気が始まる。
軒先に大根が丸干しされている(そこで群馬とわかるのかな?)。
脱衣所の着替えでそれを察するゆき子。
ゆき子は、行方をくらました富岡を探して訪ね当てる。富岡は妻が病気で倒れたために治療費で金がなくなって家を売ったりして、今はボルネオの妻(家出して東京に出てきた)の部屋に転がりこんできたのだった。
やたらと子供が映る。三輪車に乗った子供に富岡の帰宅時間を聞くゆき子。ああ妊娠したのだなとわかる。カメラは主人公の心象風景でもあるのだから、このシーケンスになってそれまでと同じような町の風景でも子供が目に留まるようにしているのはゆき子が子供を意識しているからだ。
待っている。干し柿かなぁが軒先にぶら下がる。部屋は机だけが知的で富岡はなにかベトナム時代の随筆を書いて収入を得ているのだった。
ぐだぐだしている富岡(友人の石鹸会社に雇ってもったという話をする)は子供を産んでくれとほざく。
中絶して病院のベッドに寝ているゆき子の隣のうさんくさい(お妾風のスタイル)女性が新聞を壁にしている、その新聞に、加東大介が妻を殺して、情夫は富岡という記事を見つける。
仕事をくびになり、妻が死に、ますます窮乏した富岡は伊庭に囲われて優雅に暮らしているゆき子に葬儀代として2万円を借りる。これで棺桶が買える。
というように、だらだらだらだら話は続いて、結局伊豆長岡の宿(らしいがおれにはどこだか見当がつかなかった。饅絵でもあったのかな?)での邂逅のあと、ゆき子は富岡について屋久島へ行き、そこで病死(まあ結核だろう)する。急に強い雨が降り始めたので窓を閉めようとして動いたのがさわったのだろう(そのとき女中は1日に1回の医者への葉書を出しに出ていた)。
それまで冷たくあしらうそぶりと不機嫌以外を見せなかった富岡は泣き出す。
物語は今となっては正気とは思えないが映画は違う。
たとえば最初は四畳半の真ん中半畳の小さな掘りごたつに二人で入っていたのが、伊庭に囲われて暮らす家では一回り大きい掘りごたつになる。伊庭のおかげでゆき子の金回りが良くなったことを示す「ナイロンを履いた」という下宿の娘かなの台詞。
特に印象的なのは、ゆき子の部屋を訪ねた富岡がずっと帽子をかぶっているのが、脱いだ瞬間に性欲むき出しにして、拒まれた途端にまた帽子を被って去るシーケンスと、同じくゆき子の部屋で、ビールを手酌する富岡のほうに自分のコップをゆき子が寄せるのを富岡は無視(またはまったく気づきもせずに)してビール瓶を卓上に戻してそのまま暗転するシーン。(このあたりは始まって最初の頃だからで、その後はそういう語り口が当然になるので普通に見てしまって印象には残らないし、残す必要もない)。
2つ並んでいる歯ブラシのブラシ部のでかさに妻が仰天していたしおれも(知っているから)仰天はしないが、なんで1960年代までの歯ブラシってあんなにばかでかかったのだろうかと不思議になる。技術がないから細かく作れないというのはあるだろうが、そもそも磨くということの歯周病予防効果がわかっていないので、一度に全体の1/3を磨けるように大盤振る舞いしていたということなのかな。
とにかくこの二人が歩き回る。ベトナムのジャングルから千駄ヶ谷(日共の本部近くだけにインターナショナルを歌いながらデモ隊が通り過ぎるシーンはなかなか好きだが、これが昭和30年代始めの千駄ヶ谷なのか(1955年の映画だからそんなものだろう)。
ゆき子の部屋ではカストリ、ボルネオではサントリーの角。
鹿児島の旅館の女中の言葉がまったくわからない(ので、富岡が通訳するのだが、自然とゆき子に対する念押しになっているので、全然観客のためという取ってつけた感がない)。
船をいつまでも見送る医者。
安南人の下働きの無表情。仏領インドシナと安南という言葉の並列っぷりがおもしろいと思ったが、1955年の映画だとまだインドシナ(フランスが敗走するのが1955年)であってベトナムではないからで全然当たり前だった。
籐椅子を2つ向かい合わせに置いたベランダ(どこの旅館もみな同じ)。
音楽もベトナムでベトナム(というかアジアン無国籍)スタイルの音楽が流れるのは当然として、商店街では東京ブギウギやリンゴの唄をアレンジしたものが流れるのに、二人で部屋で差し向いになると同じ無国籍スタイルの音楽を流すなど実に細かい。そういった細かさ(ベトナムと日本とそれぞれの行動をモンタージュしまくる)を中絶以後は排して二人の時間をそのまま追っかけるようにする(で、最後の最後で富岡は山へ登り、ゆき子は部屋に残る)のもうまいなぁと感嘆しまくった。
小山さんが異様に推しているので、どうもポスターの絵柄はいまいち好きではないが観に行った。ら、抜群におもしろかったし、いろいろ我が身に感じるところもあり、実に良い体験だった。
映画館は良くわからないので、新宿のカドカワのアニメシアターというのを選んだ。緊急事態宣言中とはいえ(6/11から延長になった)相当混んでいてというか、選んだ会は満席だった(とはいえ市松模様売りなので実際のキャパの半分なわけだが)。
開場までの間にパンフレット(最近はプログラムとは呼ばないのだな。以前はチラシがパンフレットで、購入するのはプログラムだった覚えがあるのだが)を読もうとしたが、コンタクトをしているので実に読めない。
それでも、ポンポさん役の声優が書いている、見た目は子供だけどそれには捉われずに40代のバリキャラを想定しろと言われて納得したとかいうのだけは読み取れた。
なるほど、と、記憶をたどって、なんとなく岩波支配人の高野悦子(プロデューサーではなくディストリビューターだが)を頭の中でポンポさんとして想定する(このギャップが見ている最中、えらくおもしろかったがそれは別の話)。
おまけマンガが配布されたのだが後編となっていて残念な気持ちになる。が、こちらも読めない。
始まると良い感じで歌と踊りが始まってスピード感が抜群で気分良い。
映画会社の下働きの熱心なメモ取り小僧が、30秒CMを任せられる。フィルムを素材に30秒にまとめていく。存在しないカットを入れて観ている側に錯誤と想像力の刺激を与える。すごく楽しそうで、観ていて楽しい。
できが良かったので、60秒も任せられる。
映画のCMといえば、未だにゴダールの探偵のCMが忘れられない。まったく本編と関係なく、ハードボイルドスタイルの男がベッドの中の女に話しかける。「ゴダールの探偵を観に行こう」「いやよ」「行こう」「いやよ」男、いきなりピストルで女を撃ち殺す。観客のほうを振り向いて「ばかな女ですね」
という話とは別に、女優志望のアルバイト少女の話が錯綜し、モンタージュされる。
なるほど映画の映画だけにいろいろな技法が入り込んでいておもしろい。というか、実写と違ってアイリスイン・アウトが自由自在でそれもおもしろい。というかスピード感が抜群だ。
小僧は初監督作品を与えられるという話と並行して小僧の学生時代の知り合い(すれ違った程度)が出てくる。見た目が異なる位相なので敵役なのかなと思うと全然違った。
かくして、大物俳優(マーロンブランドみたいなものだな)、新人女優(ナタリー・ウッドみたいな名前なので小僧のジーンはディーンなのかと思ったが別にプラネタリウムとかは出てこないので関係なさそうだ)、プロデューサーのポンポさん、その他のスタッフがからみあって物語が展開する。
羊なら皆殺しの天使かウィークエンドだが、山羊だから違うな。
アルプスが広がる。おれが喚起されるのはサウンドオブミュージックの冒頭のマリアがくるくるするヘリコプター撮影(だと思う)が、おそらく異なる引用だろう。
というか、そもそもこの作品の中の映画の映画はニューシネマパラダイスだが、おれは観ていないのだった。イタリア人の映画の映画だとこんなに愛し合ったのにだな。
と、作者とおれの時代ギャップが大きくて引用はほとんどわからないわけだが、そんなことはどうでも良いほど映画がおもしろい。
で小僧は自分の映画を獲得するためにただ1個の制約だけを遵守することにして、それ以外のすべてを薙ぎ倒して行く。
冒頭の30秒CMを作る経験がここでさらに発展し、新人女優の大事な思い出だろうが脚本家の設定だのをばっさばっさと斬りまくる。
わかる。
プログラムを作るのと同じだ。守るべきアーキテクチャ以外は、どれだけ良く書けているコードだろうが、最後の段階では単なる素材でしかない。素材を選別するのは楽しい。
しかし、ここまでクリエイティブ側の視点で押し通すのはある意味すごいが、あまりに狭いなぁと感じていると、学生時代の友人が別の視点、つまりビジネス側の視点を映画に注入(もちろんプロデューサーのポンポさんはビジネス側なのだが、妖精のようなものなので側を持つわけではない)するために活躍することになって、なるほどうまいものだと感心した。しかもここでも不愉快なやつは出てこない。不愉快な言動を取る連中とそれをやり込めるカタルシスのようなものも用意されているが、その連中であってもその論理からは全く正しいから、不快なわけでも悪役というわけもない。
そして実に気分よく終わる。
実におもしろかった!
[まとめ買い] 映画大好きポンポさん(杉谷 庄吾【人間プラモ】)
マンガが原作らしいが、絵柄が好きではないというのはどうにもしょうがないな。
緊急事態宣言が明けたのでオフィスへ行って、さて昼飯を食べるかと、久々にさかり寿司へ行く。
なんか店先の信楽焼の女将さん風のタヌキが気になって結構ランチを食べに行ったのだが、緊急事態宣言でリモートワークしまくっていたので数カ月ぶりくらいの雰囲気だ。
で、だいたい昼はマグロ漬け丼のバリエーションが出ていてとても美味しい。
というわけで軒先のスペシャルを見ると、マグロ漬け熟成くえ丼というのがラインアップされている。
くえって食べたことないな、と思って、それを頼んでみた。
大体、良いものを仕入れたような時は店の親父が丼を出しながら、今日のは~とか説明してくれるのだが、今回のはいつもと様子が違って(大体は産地とかなのだが)価格の話だった。「夜だと一切れ600円はいただくところなのに、3切れも入っているから超お得です。ちなみに熟成5日目」とか、そんな感じ。
くえってそういう魚なのかと(知らないだけに)思っていると、追い打ちをかけて「これは醤油でも良いけど、塩昆布が合うから」と言って、小皿に塩昆布を一つまみ出してきた。こういうのは初めてだ。見た目はきれいな白身だ。
というわけで、なんかよくわからんが塩昆布を乗せて食べてみた。
ほー、こういうものですか。とにかく歯ごたえの塊なのだが、筋があるとかそういうわけではないので最後まで噛み切れる。しかし噛み切ってもまだ噛める。一方、味は全然感じなくて、塩昆布の味ばかりで、どうやら乗せ過ぎたらしい。
という調子で3枚食べてみたわけだが、味ではなく食感の食べ物だなという印象は最後まで変わらない。随分違うような気もするが、あいなめ(おれが知っている刺身の中では一番近い)が吟醸なら、くえは大吟醸という感じだ。
味が淡いので昆布と塩なのかな。確かに醤油という感じではない。昆布の旨味があるから美味しいのかもと思った。
なんとも奇妙な感覚で、とにかく香りはほとんどなく、しかし食感は抜群、もっとも味はおそろしく淡泊(というよりも無いに等しい)ということは、おそらく、日本酒の良いものと抜群に合うのではないだろうか。
あとになって、あらためて調べてみたら(クエ)偽物が出るほど超高級魚とかになっている。一方、旨味は無いと書いてあって、なるほど、だから熟成させているのかと思った(が、熟成させても旨味が滲み出てくるわけでもなさそうな)。
一方、今日のマグロの漬けは希少部位(多分脳天)で、これはもう味の塊のようなもので実に美味しい。
というわけで、さかり寿司は実に楽しい。
江戸楽4月号の桂右團治の落語紹介の鴻池の犬がおもしろそうなのに、いくら読んで(行間から細部まで読みに読んだ)も全く下げを理解できない。
コイコイコイでどうしてああなるのか?と妻(読んだ直後に、黒が手伝わされたのかとか寝とぼけたことを言っていたくらいだ)と2人で不思議がる。
この後当家と末永いお付き合いと今橋は鴻池善右衛門の手代の太兵衛に言わせているのに弟を追い出すくらいだから、元の船場の南本町の商家と今橋の鴻池で、大阪人にはわかる何か関係があるのかな? 花札のコイコイが関係するのかな? とあらぬ方向にまで想像力を伸ばすが、もちろんわかるわけがない(それはそれでおもしろい何かがあるのかも知れないが、少なくとも何も関係なさそうだ)。弟が白と斑というのも何かありそうな気がしないでもないが、それでもやっぱりわからない。
で、結局妻が調べてコイコイコイは本来クーロクロクロという大阪の方言とわかって、情け容赦なく下げを解説しないで突き放す右團治の清々しさに感服した(編集者だってあれ読んですぐに下げを理解できたとは思えないが、そうでもないのかなぁ)。いずれにしても、落語家本人が語って落ちたらだめだろうからそれは良いことだ。
というか、超わかりやすい版(たとえば Wikipediaでは下げをあらすじ内で説明している)であっても、(おれはなるほどと映画だかテレビだかご近所だかの記憶がよみがえったが)そもそも現時点の日本語でどれだけ理解できるのか? と失われ行く日本の文化に思いをはせる。
王の没落も三体(死神永生)も読み終わったので、いよいよサハリン島にとりかかった。
うわっ、実に奇妙だ。
最初、先祖代々受け継いだマッキントッシュのコートを手入れしている女性の一人称から始まる。
徐々に貨物船に乗っていること、未来についての文化人類学的な研究のために、北方領土をめぐる旅についていることが明らかになる。
海には幽霊船(乗り手不在の難破船らしい)が出没して、貨物船を護衛する水雷艇が爆破する。水雷艇の乗組員になることは憧れの的らしい。その一方で、水雷艇に護衛される唯一の貨物船(他に護衛される船は天皇のお召し船だけ)だけに、その乗組員は屈折した(というのは、水雷艇の乗組員は憧れだからだが)誇りを抱いている。
貨物船には中国人労働者が大量に載せられ、ほぼ帰ることができない鉱山労働のために択捉島で降ろされる。労働者は胸に鉱石が溜まり、廃人となり、最終的には圧搾機で絞り殺されて肺にたまった鉱石0.5gとなる。
隣の船室のイヌと呼ばれていた囚人(妻と子供を殺した)は自殺すると、船長は塩漬けにして韓国人街でなにかと交換するらしい。
主人公の母親はロシア語を話せたらしいので、主人公はどうもロシア系の日本人のようだ。
一体これはどうなるのか皆目見当もつかない。
異様な帝国の観察という意味では家畜人ヤプーのような作品なのか?
その一方で、この奇妙な日本は、犬ヶ島をも彷彿させられる。
先を読み進めるのが楽しみだ。
ジェズイットを見習え |