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通勤用に買った被差別の食卓を読了(3週間前くらい)。4日かからなかったと思う。
最初に被差別部落に生まれた筆者の話として、あぶらかすがおいしくて好きでいつも楽しみにしているということが紹介される。おいしそうだ。おれも牛すじは大好きなのだ(調理は面倒だけど)。
それが中学くらいにおそらく(と、筆者の書き方も記憶をたどっているので曖昧)同和教育の中で出てきたか何かで被差別部落固有の食い物だと知る。高校のときに同級生があぶらかすをぽりぽり食っているやつを見つけてそれうまいよなぁと話しかけようとして、むむ待てよと思いとどまる。
おれはこの話はどこかで既に読んだ。ビッグイシューかな? 掲載紙は思い出せないが、とにかくえらくうまそうな食い物だなと思ったので印象深い。
というわけで単行本にまとまっているので買って読んだのだった。
本書は、アメリカのソウルフードとして黒人奴隷の食い物としてのフライドチキンや豚もつ煮、ザリガニ料理を求める南部とニューヨークの旅から始まる。
読んだ直後にグリーンブックを観て、ドクターシャーリーがフライドチキンを食ったことがない(ピアニストだから指が油まみれになるのは嫌だろうな、と同じくキーボードを叩きまくる職業のおれは思うわけだが)とかいろいろ考えることはあった。
要は農園主が胸やら腿やらの肉を焼いて食って捨てた手羽先だの首だのを黒人奴隷が拾ってディープフライにして骨まで食えるようにした料理が発祥だということで、なるほどと思う。
次にブラジルに進む。なんといっても、初期に逃亡した奴隷の集落の話が圧倒的におもしろい。
さらにブルガリアとイラクにロマの食い物を食いに行く。ブルガリアのロマも最近は食べなくなりつつあるらしき(良くわからない)ハリネズミ料理を食べる。いっぽう、イラクでは特にロマ固有の料理というのはなかったりする。ちょっとイラクのあたりの書きっぷりにはひくところが多かった。
そしてネパールへ行く。牛を解体して食べる被差別民という日本と近い構造があり、食べ方も似ているなど。革命があったので王制時代よりはましになったとか、確かに血のつながりだけで社会構造が決まる国家というのは滅びるべき存在である。
そして日本に帰って来て、子供時代とは異なり意識的に被差別部落の食べ物を食べまくる。おもしろい。
おれもすじの煮物を作ってしばらく放置すると煮凝りになってその味とか良く知っているので食い物の話としてもおもしろい。
中途半端な社会科学的な考察が入っていてちょっとそれはアプローチが違うのではないかとか疑問に思う面もあるが、食べ物紀行としても、あまり観光的海外話では出てくることがない内部社会の話としても知らないことがたくさんあっておもしろかった。ハリネズミは食べてみたい。
追記:アマゾンの星1票のやつ、おれが(特にイラクパートで)感じたような不快さを表明していて興味深い。
が、おそらくそれは違って、エンターテインメントとして消費できるようにするための一種の文書としての儀式のようなものではないかとも思う。であれば、それはしょうがないものなのだ。難しいね。
団地が評判になっていた松戸市立博物館に行った。
水戸街道をだらだら進んでちょこちょこ曲がるといきなり小山を3つまたがるばかでかい公園になって、その最初の山の上が目的地で、建物を過ぎたところで左に曲がると駐車場とYahooナビが言うのだが、身体障害者と関係者以外は立ち入り禁止になっている。どうしろと? で、しょうがないので山を2つ越えて(といっても車は橋で山と山が結ばれているので上がったり下がったりするわけではない)北口駐車場というのがあったので、そこに停めた。
失敗である。
実は、建物の向かい側に東口駐車場というのがあって、そこに停めれば良かったのだ。が、一見さんにそんなことがわかるわけがない。
かくして、山を2つ越えて(というか橋を2つ渡って博物館に入れた。疲れた。
(帰りは、谷のほうを通って戻ったが、バーベキュー場があったり、草原にテントを建てて裸足だけ外に出して昼寝している人間が山ほどいたりして、不可思議な光景だった)
まだ松戸が海辺だったころの集落の様子からはじまって団地が来る仕掛けというのは知らなかった。
入り口のミュージアムショップに虚無僧ストラップというわけのわからないお土産があって不思議だったが、江戸時代パートに、虚無僧の本拠地が松戸にあったことが示されて、へーと思う。
縄文時代の展示はすごくおもしろい。時代の流れで、道具がどんどこ進化する様子を道具を分類した皿を時代ごとに用意して示してある。最後になると祭祀の道具が出てきて、おお、日本も御多分に漏れずサピエンスですなぁとか。
サピエンス全史 上下合本版 文明の構造と人類の幸福(ユヴァル・ノア・ハラリ)
集落の規模とか、ここの展示は圧倒的だ。外に復元住居があるが、代々木八幡のやつとは違って、実際に火を焚いているので、意外なほどに煙がにおいまくって、茅葺というのは相当密閉性があるのだなと知った。三匹の子豚は最初に藁で家を作るわけだが、縄文人は小麦を栽培したりはしないから茅なんだな(と、外に立っているおっさんに教わる)。
室町期、千葉氏が君臨し、それを滅ぼした高木氏が正統な後継であることを九曜星で示したものの、上杉についたり北条についたり、最後は北条についたまま豊臣秀吉に滅ぼされていっかんの終わり。おもしろい。
ちょうど読んでいる石川淳の狂風記で、九曜星を目に見える七つの星の向こうに暗黒の二つの星が見えずに輝くというようなセリフが出てくるのを思い出したが、どこにも九曜星の旗印が展示されていないので、がっかりだった。
そして虚無僧の本拠地を経由して、御鹿狩りに移る。吉宗が害獣駆除や旗本の軟化に対する活入れとして開始したとか説明される。
が、鹿こそ100何匹か仕留めたものの猪は6匹だか9匹って、全然害獣駆除になっていないではないかとか思う。むしろ仕込みのために近隣の民百姓が駆り出されてそちらによる労働力の一時的減少による弊害が大きかったらしくて、上のくだらない思いつきに振り回されるって薩長を待つまでもなくあったのだな。が、オリンピックと考えれば、ありだったかもなぁとかいろいろ考える。規模がでかいし、船橋の由来って船橋だったか、とかいろいろ知っておもしろい。
で、団地だ。
入るといきなりブラウン管にチンパンジーが映ってバヤリースの広告をしていて、驚く。本気で作っているな。
特に衝撃的なのが、居間の壁にカラーの東郷青児が飾ってあることで、まだ、カラーの時代なのかというのと、そこまで東郷青児(うんと簡略化すると日本にキュビスムの絵柄を普及させた画家)って人気あったのか? おれの時代にはコロンバンあたりのお菓子の包装紙のブルーグレーの絵の人になっていたが、カラーということはそれより前の時代なのだな。
ベッドルームのベビーベッドとか、いろいろ不思議な光景で、いろいろおもしろい。
この6畳2間+台所風呂トイレの四角い入れ物が経済と人口爆発の仕掛けだったのだよあなぁ。
おもしろ過ぎる。
(一応知っておこうと思って高校生の頃買って眺めてもう手元にはないが、19歳のときの自画像は素晴らしくて記憶に鮮明)
# # install GPKI # execute 'fetch GPKI cert' do user '<%= node['user'] %>' command <<EOD curl https://www.gpki.go.jp/apca2/APCA2Root.der >APCA2Root.der; openssl x509 -inform DER -outform PEM -in APCA2Root.der -out APCA2Root.pem; openssl x509 -in APCA2Root.pem -inform PEM -out APCA2Root.crt; EOD end directory '/usr/share/ca-certificates/extra' do owner 'root' group 'root' action :create end execute 'copy GPKI crt and register it' do user 'root' command <<EOD cp APCA2Root.crt /usr/share/ca-certificates/extra/APCA2Root.crt; DEBIAN_FRONTEND=noninteractive dpkg-reconfigure ca-certificates; update-ca-certificates --fresh; EOD end
最初は初見、初聴のツェムリンスキーのフィレンツェの悲劇。
いきなり金管のつんざくような音の爆発で、20世紀初頭のウィーンの音楽だなぁと感じるが、これって物語の内容から薔薇の騎士の前奏曲やアラベッラの3幕序曲と同じく性交音楽なのかな。それにしても、猫とかみたいで苦痛が伴いそうな不思議さがあるとふと思う。
舞台美術がとても良い。家の中が家の外で全体が歪んでいるが違和感がない。かといって20世紀初頭ではなく、衣装からは封建時代。最後は首を絞めているのか抱擁と接吻なのか決定させない終わらせ方。もちろん、金のためなら人殺しも辞さない男と恋のためなら人殺しも辞さない女というお似合いの夫婦なのだから後者だろう。
普通におもしろかった。
それよりもジャンニスキッキだ。何しろ僕の好きなオペラの中でも特別なものだからだ(最初に買ったオペラのレコードの1つでもある。)。
プッチーニ:ジャンニ・スキッキ(ロス・アンヘレス(ビクトリア・デ))
(何度聞いたかわからん。大好きなお父様は、その後、もっと良いものがいくらでも聞けたが、ロス・アンヘレスも悪くはない)
なぜ好きなのかはわかっている。音楽の交換が抜群だからだ。
この舞台もそれは本当にうまかった。指揮も良いし、歌手の演技も良いし、振り付けも抜群。
その後の典型となるような(子供の言葉を使うと)ベタなお笑いの連続なわけだが、特に、ラウレッタに説得されて、しぶしぶ遺書を確認しはじめるジャンニスキッキのつぶやきに、ラウルとラウレッタではなく、リヌッチョとラウレッタが喜んだり悲しんだりするところのばかばかしさとか、舞台の前面に二人が手に手を取り合って寄せては返し歌いまくるとか最高であった。
ラウレッタの砂川涼子がまず素晴らしい。声量がある(プッチーニもセリフ劇を意識してオーケストラのバランスをうまく作っているのだろうし、指揮と演奏も良いのだろうが)し、声がきれいなので私の大好きなお父様が決まりまくる。
それにくらべるとラウルの人はいまひとつな気がするが、そうはいってもラウレッタとのコンビになると良い感じ。
ジャンニスキッキのアルバレスって兄弟のほうしか知らなかったが、実に良いではないか。
というわけで楽しみまくる。
なんででっかな家具調度なんだ? と思ったが(秤のため? いや、集まった人々の小物感を示すためかも)、小鳥の餌のクッキーは実にうまかった。
ツェムリンスキーともどもすごく満足しーた(が、表記はツィータだなぁ)。
丸正の上のあおい書店で妻の会計が済むのを待ちながら、何気なく外を見たら、でっかなヘリコプターが向かいの消防署の屋上に停まっていて人が出入りしているのが見えた。
すげぇ、出動か? とか思っていたら、妻が、あれは博物館の展示物じゃない? と言い出した。出動しようとしているんじゃないの? だって、子供がいるじゃん。
あおい書店には何度も来ているが(特に最近は青山原宿近辺から書店がまりあ書店以外すべて消滅してしまったからだ)、だいたい夜だし、特に外を見ることもないので、まったく気づいていなかったことに愕然とする。
というわけで、向いの消防署に初めて足を踏み入れることになった。
無料で、受付に言って首から下げる入館証を受け取るだけの簡単なお仕事だった。
おもしろい。
乗り物がたくさん。
くそ、こんなおもしろいものが近くに存在していたなんて。
1階にはヘリコプターの初號機が展示してあって、あおい書店から眺めたのは参號機らしい。
で、エレベータで5階へ。
が、そこで絶望を味わうことになる。
天気が良く空は青く、風も強くなく、絶好の屋上日和だ。
子供連れの家族がずらーっと行列を作っていてその数10くらい。
1家族が入ると、子供が最大限に満足するまで操縦席を堪能させているので、5分くらい。待っていられないや、残念。
それにしても、本物のヘリコピターの座席に腰かけられるとはおもしろいので、平日に機会を作って再挑戦だ。
それはそれとして展示物もえらくおもしろいし、見ごたえがある。
消防オートバイは、昭和40年代に渋滞を回避するために導入したとかで、後ろに消化器を2本搭載している。が、昭和60年代に活動終了させたとある。
なぜだろう? 家庭に消化器が普及したからかな? 渋滞が解消したということはあまりなさそうだし。最近の家屋は耐火性能が上がったからとかかなぁ。
というような、本当に知りたいことはどこにも書いていないが、その分、考える余地があるのはそう悪くもない。
というわけで、おもしろかった。
港区立郷土歴史館を再訪。
今度のお目当ては、特設展の最近の発掘関係の展示だったのだが、それよりも、港区の平成史が抜群におもしろかった。
最初が赤坂御所関係で、唐突に不可思議なお仕着せが展示されていて、はて? 東宮ではこんなの着ているのか? と思ったら、マハラジャの従業員の服で、そこからマハラジャとかの六本木ディスコ全盛期の展示となり、次にCDとかAIBO(ソニーは港区か? NECがそうなのは知っているが)の展示となったり。ただ、量は少ないね。
発掘関係は、江戸時代のものが多くて、そうかこんなものも発掘してみないとわからないものなのだな、とあらためて考える。が、意外なほど近代的でおもしろい。
常設展では、明治以降を前回はちゃんと観ていなかったので、今回はちゃんと見る。でもその前に賢猫之塔にお参り。
目黒の大火が川沿いに進んで上野のほうまで延焼しているのを見て、どういう具合に家が並んでいたのか、今とはずいぶん幹線が異なるのだなとかおもしろく思う。
空襲で焼けた範囲が、ちゃんとでっかな病院を外していることを確認して、それで白金が焼け残っていたのだなと納得する。
青山通りの拡幅に伴う櫛の歯状の写真を見たりしていると、最後にゆりかもめが出てきた。
ゆりかもめの運転席用のマニュピュレーションボックスが展示してある。
普段は運転手の陰になるし、そうでないときは蓋を閉めているので、こうやって中を見せるのは珍しいだろう感謝しろ、といった能書きがついている。
が、レバーは触るなとなっていた。駆動軸に直結しているわけではないからどの程度の反発力があるか、とか触って知りたかったのだが残念だ。
NECと森永が提供した田町駅前発展史の映像展示もおもしろかった。
帰りに脇のバスクチーズケーキを買って家で食ったらおいしかった。アップルシナモンのほうがプレーンよりも好きだな。
通勤時にkindleでちまちま読んでいた狂風記を読了。
最初、あまりの言葉遣いの中途半端な古めかしさにびっくりする。これって80年代の小説なんじゃなかったのか? (読了したら書肆データがファイルの最後にあって、1970年に執筆開始、1980年に上梓とあったので、構想を考えると1960年代後半から70年代前半とするとそれなりに辻褄があうことがわかった)
最初に引っかかったのが「かみなり族」で、おいおいそこは暴走族のほうが近しいし、そもそも徒党を組んでいるわけでもないから、特に名詞を使う必要もなかろう(死語だし)と思った。
記憶の中でのかみなり族は、1968年ごろに、キラー通り(当時の呼び名はまだなかったかも)の神宮前2丁目の交差点を過ぎたあたりの陸橋に「かみなり族追放」という垂れ幕がかかっていたくらいだ。もっともエキゾースト音を轟かせて突っ走るのでかみなり族(オートバイ乗りを族と呼称していた)と呼ばれていたのだから、暴走族とは意味が異なるので、文脈は正しい(登場人物がオートバイの轟音を響かせて猛スピードで突っ走る場面で使っていた)。正しいが、既に死語なので引っかかりまくったのだった。読み進めると、風俗小説の本歌取り、内容は死者の饗宴なのだから、死語上等なのだろう、と思わなくもなかったが、初出時にはえらく引っかかった。
というような調子で、一文一文に味がありまくるので、読むのがおもしろい。
が、やはり古めかしい。特にその後は、ガンとカーという単語に引っかかりまくる。そこは拳銃かピストル、自動車がふさわしいのに、なぜか頑なに(とは言え、数回、車という言葉も出てくる)ガンとカーと書きまくられている。が、これも大藪春彦的な世界を示していると考えれば(実際の大藪春雨物語の文体と用字用語は忘れたが)わからなくもない。
言葉の魔術と言えなくもない。
その分、物語は適当だ。
大筋は、雄略天皇に暗殺されて皇位を簒奪された市辺忍歯皇子(別王)の怨霊が受肉して国を取り戻すことになるが、その周りには江戸時代の井伊直弼の師にして友と、その愛人の生まれ変わりの因縁談(なのだが、愛人のほうは、全然、井伊直弼の師の生まれ変わりと寄りを戻しはせず、皇子についている)に基づくまるで課長(ではなく専務)島耕作と社長秘書の会社乗っ取りについてのビジネス三文小説(当然お色気あり)、江戸川乱歩のパノラマ島の三代目の「余計者」によるガンとカーいじりの中途半端なバイオレンス小説、天井桟敷か紅テント風味のアングラ演劇をポルノ化した風俗小説、全体的には1950年代のカストリ雑誌のエログロ猟奇風味に、パノラマ島的な昭和初年のエログロ猟奇風味を混ぜ合わせてお祭り騒ぎにしたもの、というべらぼうなものだった。ちょっと山の周辺は南米の魔術的レアリズムのような中上健次風のオルタ神話のようでもある。
一言で片づければ怪作だった。
21世紀に読む意味を見つけるのはすごく難しいし(そもそも現代の人には個々の出典を楽しむことすら不可能だろう)、娯楽作品としては元ネタそのもの含めて古色蒼然過ぎる。
が、読んでいる間は圧倒的なわけのわからない迫力でおもしろかった。わりと良い読書経験だったな。
港区やら松戸やらの郷土資料館に行くまえに、まず足下を照らせということで、渋谷区の郷土博物館に行く。場所は、ライフの帰りにお稲荷の脇を通って旧オウムの村井刺殺現場経由で帰宅するときに通るので知っていたのだが、初訪問となる。それにしても、山種美術館だの国学院の博物館(感想を書き忘れている)だの、薩摩屋敷跡だのおもしろいものが多い地域だな。
目当ては町内会の掲示板で見かけた渋谷川の昔の写真展なのだ。そんなもの先日まではまったく興味がなかったが、港区の資料館で見た北青山団地の昔の写真がえらくおもしろかったので、俄然興味が湧いたのだった。
おもしろい。
展示がうまくて、最初にどの写真が現在のどこかを示す地図がある。そのあとに写真が続き、千駄ヶ谷駅高架下になるあたり、国立競技場前、(ここが飛んでしまうのは、当時はわざわざ写真を残す必要があるような場所だとはだれも考えなかったからだろう)キャットストリートあたり、隠田あたり、宮下公園近辺、渋谷駅近辺、恵比寿、広尾と昭和初年から7年あたりの写真と、その現在の写真を上下で並べて表示してある。
しびれまくる。
くねくねした渋谷川と木などでいい加減に架けられた橋や、氾濫(昭和2年か7年、すでに覚えていないのはもったいない)によって作られた護岸(3段構造)や金属橋、ガード下の鋳物工場、中折れ帽の3人組、高島屋、家具屋、民家、写真に写りこんだその時点の社会と、その90年後くらいの社会の同じ物理位置の異なる時空間という展示構造の妙がすばらしい。上下の写真の間を粒子が飛び交い、横の間を電子が流れる、超アナログ量子コンピュータ展示だ。
常設展も意外と悪くない。江戸時代の部屋、昭和初年代の部屋の復元も良い。
小学校で習ったような覚えもあるが、東京市が23区制に移行する前は、渋谷町、千駄ヶ谷町、幡ヶ谷町に3分割されていたことが示され、それぞれの人口動態が展示されていた。なるほど、特に千駄ヶ谷の急激な人口増加カーブは、移住者が大半を占めることによってご近所さんに見知らぬ顔が急に増える疎外感、隣がなにものかわからない恐怖感や危機意識を増幅させて、それに対する緊急時下の統制によって、朝鮮人大虐殺(生き残りから誤爆されそうになった話を良く聞かされたのはそういう環境に起因するわけだが、当然誤爆を免れた人を見かけたら背後に30人の殺戮があるだろう)につながるわけだな。同様に、千駄ヶ谷が永井荷風の目を引いたのも、ちょっと特殊な独身女性の町の地位を占めたのもこのあたりの人口動態に関係しそうだ。
ハチ公の銅像は2つあることが示される。初代は戦時供出で鋳溶かされて、現在のものは戦後に作られたもので、初代と2代目の彫刻家が親子で、その子供も先日亡くなったとか(先日亡くなったことは窓口の人が教えてくれた)。
入ってすぐが1990年代? というような「現代ファッション」の展示で、相当引っかかったけど。
やたらと凝縮された展示なので1時間では1/2くらいしか見られなかったし、地下の文学館は完全にスルーせざるを得なかった。
また行こう。
シネスイッチ銀座で、ゴダール。
ハウリングのような不快音で始まる。いつもの調子。
技法としては80年代にちょっとはやった映像をハレーションさせたりフォーカスを変えたり彩色したりを使いまくっている。ボカノフスキーやイーノのサーズデイ・アフタヌーンなどをちょっと思わせなくもない。
奇妙なのはスタンダードをビスタにトリミングする妙な映像(2秒くらいたってからいきなりサイズが変わる)を何度も何度も繰り返していることで、多分、おもしろいと思ったのだろう。
が、それはあくまでも技法の話であって、再構築された映画史のような、全編コラージュ作品だった。
当然、記憶から引っ張り出されるものと、まったく知らないもの、見知っているがわからないものがてんでんばらばらに出てくるので、自分で再構築しながら観ることになる。
最初はリメイクで始まる。
最後はアラブの湾岸国の宰相がテロリストの発生を奇貨として独裁体制の樹立をもくろむが、親友の隠者から不成功を示唆されて国外へ逃亡、隠者はテロリストと海岸で話し合うという、ここだけはしっかりとした物語が、棒読みで語られる。
アルファビル、カラビニエ、告別などの自作のシーン、ジョニーギター、ソドムの市、メキシコ万歳、ロッセリーニの何か、それからたくさんのボリスバルネット(船上の2人や散らばり落ちる首飾り)くらいはわかるが、アラブの映画らしきものもたくさん。どれも数秒再生すると次へ進むので、引用数がどれほどあるか見当もつかない。
ベートーヴェンの7番から2音。
観ていて映画の不思議さに包まれる。
映画は映像と映像の繋がりだ。
ハリウッドの映画は、映像と映像の断片が繋がっているだけだが、明確な物語が語られる。なぜ、物語を認識できるのだろうか?
本質的には連続していない(そもそも24コマの静止画を1秒間に連続再生するデジタルなメディアだ)。
とんでもなくイマジナティフな作品だった。固定されているがいつどこで何に気づくかは運任せだから、マラルメ風の偶然性作品だというのが一番正確なのではなかろうか。
88歳がアメリカでは驢馬、フランス(スイスかも)では映像の書か。
2週間前くらいに、妻がアマゾンプライマーになっていろいろビデオを観まくっていたが、テッドがとてつもなくかわいいから観ろというので途中から見た。水族館の暗いところでテッドが振り返るシーン。
そうそうフラッシュゴードンはクイーンだったとか。
そのあとそのまま観て、どうやって生命が吹き込まれたのか聞くと忘れたとか言い出す。星に願いをかけたんじゃないのか? と聞くとそうかもとか曖昧。しょうがないので冒頭も観ることにしたら、いじめられているユダヤの子にもいじめられる主役が祈ると、たまたま外では星が落ちるということになっていってなるほどうまいなとは思った。親がわりとさくっと現状を納得するところが素敵だ。
眉毛が下がっているところがポイントだった。
テッドを観終わった妻がなんだかどえらくおもしろいというので、これは最初から観た。
相当おもしろい。
最初、女の子が外の光に驚いていると絵に描いたような宇宙人が出てくる。
とてつもなく冴えない二人組が、イギリスからコミコンにやってくる。カメラの視線が外部的ではなく同士的なのでファンジン映画なのかな。この二人が主役なら、ハリウッド話法の映画ではないな、と思いながら観続ける。
おっぱいが3個ある宇宙人が表紙のつまらなそうなSF同人誌を作っているらしい。太ったほうが作家で髭が絵描きらしい。ビッグネームに鼻であしらわれる(このビッグネームの作家にはモデルがあるのか?)。
次にUFOの聖地巡りになる。って、これファンジン映画だな。
ホテルに行くたびに男二人ということで勘違いされるので面倒になってキャンピングカーを借りて旅を続ける。
そこにやたらと口が悪いというか、俗っぽい表現でしかしゃべらない宇宙人が出てきて一緒に宇宙人を帰すための旅が始まる。
さらに停めたモーテルがインテリジェント・デザイン主義者とその娘が経営していて、ひと悶着のすえ、インデリジェント・デザイナーの娘も一緒に旅をすることになる。
SF本屋での、おれの記憶だとパーフェクトワールド(新興宗教にかぶれた親子の頑迷をほぐすという点で同じテーマでもあるから、それなりに影響されているのかも知れない)のキャスパー坊やみたいな子供に助けられての冒険とか、いろいろあって、冒頭の少女の成れの果てを拾って、最後はエイリアン退治といえばなるほどこうなるのかというバトルシーンがあって、未知との遭遇の白夜のセーヌ河のでっかな船(追記:ここにもブレッソンだ)が去って行く。
最後、この二人組は次の年(だと思う)のコミコンで、ネビュラ賞を受賞する。良かったね。
なんで、テッドといい、口が悪い異形の映画を立て続けに観ているんだ? と不思議になるが、要はリコメンドシステムのせいだな。
地味に傑作だった。というか、地味ではないな。ジャンル映画には違いないが、相当良い映画には違いない。おもしろさは抜群、コメディも良い。が、なぜかあまり手放しの賞賛はしにくい映画でもある。
というか、お前は買ったまま10年以上放置するのはやめて、さっさとビッグフィッシュを観ろ。ダンボの原型でもあるのだぞ(サーカスか、と観ていてわかった(父と子供の話でもあるな))、と、妻におどされてビッグフィッシュを観る。1000円で買ったらしい。
で、封を切って観始めた。傑作なのはわかっているが、想像しているよりもさらに傑作だった。
記憶はおもしろく、言葉は流れ、ティムバートン最高! という映画だった。
それにしても結婚式の日にブチ切れて3年間口も聞かないって、どこかで聞いたバルタザールだ(ここで唐突にバルタザールという言葉が出てくるのは、おそらく運び屋の原題のミュールと、次項で書かれるドライヤーに近しい作家のブレッソンという連想なのだろう)。
不覚にも川辺にみんなが待っているシーンでは号泣状態となる。
ビッグ・フィッシュ コレクターズ・エディション [DVD](ユアン・マクレガー)
妻曰く、ティムバートン固有のグロテスクが、普通のきれいな家族映画と信じがたい巧妙さで融合した大傑作。その通りだ。
シュレイダー(ポールのほう)の映画に行こうという話になったところで、妻がドライヤーの映画を予習のために観たいというような話になる(あとで、ほぼ勘違いとわかる)。
ドライヤーなら主要作品は大切にDVDで保持しているぞ? 知らんのか。ということになり、押し入れの奥の聖地から、聖杯を取り出し、これまた封を切る。
そして奇跡を観る。
なんか妻が身構えているので説明する。
この作家は、一見すると岩波映画っぽく見えるが、それは勘違いだ。
悪魔とドライブという短編でその特徴を知り抜いたが、くそまじめなテーマ(悪魔とドライブの場合は、危険運転をやめようという交通安全キャンペーン)を映画という娯楽メディアで表現可能な娯楽性を徹底的に追及してフィルムに定着させる能力を持つ信じがたいエンターテイナーなのだ。
その意味ではブレッソンに似ている。
違うのは、ブレッソンは本人は岩波映画を作るつもりで信じがたい娯楽作品を作ってしまい、しかし本人は現物を観てなお超高尚な文芸作品のつもり(それはもちろん一面の真実ではある)なのだが(だからこそ信じがたい)、ドライヤーは映画とは何かを知り抜いた末で映画として(娯楽作品として)作っている点にある。だから、身構える必要は全然なく、その意味においてはティムバートンや宇宙人ポールと変わらない(が、題材はくそまじめ)。
で、おれも奇跡は初見なのでわくわくしながら観始める。
いきなり兄が丘を登るのを見た弟が父親を呼びに行く。ここだけで滅法おもしろい。
カメラが信じがたい回転をして、兄嫁の登場。映画じゃん。
どのカット、どのシーン、すべてが素晴らしく、まったく時間軸と現実の時間軸が無関係に流れるのがすごい。
全体が左上に斜め線が入る構図の中に、右から兄嫁が入って来て中心の親父にもたれる。親父の右側の頭、型、腕の線は最初の斜め線を形成しているが、左の線は陰に埋もれている。
その構図が崩れて右側に大きな三角形が配置される。しびれるほど美しい。
なんでこんな映画が作れるんだろう?
仕立て屋の家に直談判に行く。信じがたいカルト集会が開かれていて、演説も自分たち以外は地獄落ちという話をしている。全員、目が往っている。映像だけで示されている。通されて、奥へ進み、右側のソファで待っているのと左側の集会が映される。おもしろい。
新任神父が家にやってくる。ヨハネスしかいない(というか、この3兄弟、2番目が宗教家、1番目が俗物(というか普通の社会人)、3番目が無垢なる精神からようやく脱却したところ、ってもろカラマーゾフの構造だ)が、まったく噛み合わないのに、見事に噛み合った会話が交わされる。面白過ぎて笑い出さずにはいられない。このおもしろさこそ本質だな。
子供だけがヨハネスを信じていることが示される。椅子を使って背の高さを解消。
右側に寄った位置で仕立屋が聖書を音読している。右の頬を打たれたら…… いきなり霹靂が青天を走りまくる。おれは間違っていた! むしろ前回登場時には結婚に賛成のような様子だった妻のほうが引き留め役に回る。
で、まあ、奇跡が起きるのだが、ここでのヨハネスの構図と台詞の素晴らしさ。それに対する神父と医者の居心地の悪さの表現。当然奇跡は起きるに決まっているのだが、にもかかわらず息を止めて凝視せざるを得ない。なんでこんな映画が作れるんだろう?
すべてが最高だった。
あー、せっかく取っておいたこの世の楽しみの一つが空いてしまったのだなぁ。
オライリーの高さんからいただいたWTF経済を読了した。結構時間がかかった。反芻の時間が結構必要だったからだし、あまりつまみ食いしながら読むのも難しいからだ。
日本は、1960年代からの高度経済成長期に農村から都市部への大きな移動があった。
総務省の「都市部への人口集中、大都市等の増加について」によれば、下図の通りだ。
明らかに1950年以降東北から関東へ、九州から近畿への移動が見られる。
ここから考えられることは、農業人口の減少による収穫高の減少と都市人口の増加による食料危機だが、もちろんそんなものはなかった。
政府統計ポータルサイトで水稲の作付面積と平年収量を表示したのが下図だ。
1958年以降、作付け面積は1970年の本格的な生産調整の開始まであまり変わらず、平年収量はむしろ微増、1970年の減反以降でも10%未満の減少に過ぎない。グラフをいじるのが面倒なので、最右の収穫高は図には入っていないが、ほぼ収量通りの結果となっている(1971年は予想以上に減反がきいたのか収量を大きく下回っている)。
どうして労働人口が減ったにもかかわらずむしろ収穫量が増えているのだろうか。
もちろん農業の生産性が上がったからだ。
結果から上記の都市流入を説明すれば、農業の生産性が高まったことで農村では余剰労働が発生して失業状態となる人が出現した。農村で失業した人を、高度経済成長政策によって不足した都市部の雇用が吸収した、ということだ。
したがって、経済成長でGDPを増やしたのは工業なのだが(その産業が創出されたからだ)、それを支えたのは農業の生産性向上だ。
個々の人間はそういうことは考えない。
なんか田舎でうだうだしているよりも都会に行ったほうが楽しそうだから恋人を残して都会へ行ってサラリーマンになって木綿のハンカチーフを贈るとか、農業ではもう食えないから都会に出稼ぎに出て記憶喪失になってそのまま居ついてしまったとか、そういったドラマとなる。
それから半世紀たって、1960年以降と同じ姿を保てるわけがない。
ある産業から別の産業への移動が始まる。
それは移行前の産業が消え去ることとは限らない。上の例の農業のように必要な産業であれば、生産性向上によって他の産業へ移行した労働力を補う。
そういうことだ。
これを確認してから、WTF経済について書くことになる。
この本は産業構造の変化についての本だからだ。
重要な点は上記の産業構造の変化は、失業者を生んでいないということだ。
トラクターを使って耕す? コンバインを使って稲をこく? 工業野郎がおれの仕事を奪うのか! とは誰も叫ぶ必要がなく、実際、誰もトラクターやコンバインや新たな品種の種を燃やしたりはしなかった。こいつは楽だ! と使いこなすことになった。
しかし、残された人は都会に出てきて別の仕事をする必要はあった。が、それは個々の人間にとっては良くもあり悪くもありで、それは人それぞれということでしかない。
生産性向上とはそういうことだ。新しい産業が人々を求めているときに、旧産業から労働力を奪うかわりに、旧産業への贈り物として生産性向上のための技術が与えられる。
今、卑近なところではRPAとか無人レジとかが出てきて、その後に続々とAIが人に取って代わろうとしているのは、新しい産業から旧産業への贈り物に過ぎない。工業がトラクターやコンバインや新らしい品種を農業へ与えたのと同じことだ。
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