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いよいよ試験公開が始まった高橋(takahashim)さん(おめでとうございます!)の達人出版会から、Ruby環境構築講座 Windows編という本を出します(β版は出ました、と過去形)。RubyKaigi2010企画の野良ビルダー養成講座のテキストを加筆修正したものです。お忙しいなかレビューをしてくださった、なかむら(う)(unak)さん、樽家(taru)さん、ありがとうございます。
本書は、Visual Studio Express Edition(C++)を利用したMSWin32版MRI 1.9の構築方法を、コマンドライン開発環境の作り方、依存するライブラリの構築、Rubyのmakeの仕組みやステップなどの詳細から解説したものです。拡張ライブラリの構築からはコマンドラインだけでなく、IDEへのプロジェクトの組み込み方やソースコードレベルデバッガの設定などについても解説しています。
本書の逆読みをすると、OS間移植性のあるプログラムをどう記述するのかの解説であったり、OSS(とその源流となるUnix)のmake install文化とはどのように成り立っているのかの解説であったりするため、そちらに興味ある方もおもしろく読めると思います。
同時に諸橋(moro)さんのはじめる! Cucumberのβ版も出ました。Railsを使っている人や、ユニットテスト以上を求めている方、テストとは何かについて関心を持たれている方はぜひどうぞ。
追記:最初、達人出版会へのリンクがテストサイト向けになっていました。ごめんなさい。(指摘ありがとう>hsbt)
追記:樽家さんの名前を間違って書いてました。ごめんなさい。
日曜日に、ちょっとしたコンサートを聴きに新宿文化センターというところに行った。初めて行く場所で、ちょっとおもしろかった。
まず、太田道灌の山吹の地を僕は、山吹町だとなんとなく思っていた。
が、実際には新宿文化センターがある場所が山吹の地だったのだった。旧跡がたくさん。しかしすべての駅から遠く、陸の孤島になっていて、不思議な佇まいの土地である。
早く着いたのでぶらぶらしていると、妙な岩山があってその横に階段が続く。で上ると岩山の表が見えて、見事な箱根山だった。鳩の森神社のように公開はしていなくて金網の向こうにあるのだが、それなりに良い造りだ。
で、そこは神社の境内になっていて、西向天神という名前だった。本殿の中には灯がたっているので、ちゃんと活動しているらしく、なかなか風情がある。
さらに進むと、紅皿の碑は駐車場の中と書いた立札が出ていて、はて、紅皿とは? と思うと、これが太田道灌へ山吹を手渡した女性の名前であった。まさかそんな碑があるとはねぇと思いながら駐車場に入って一応眺める。
子供が、なんのことだ? と訊くので、お前は山吹の故事も知らんのかとちょっと驚くが(東京都の歴史とかで習ったような記憶があるからだ)、七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき、という歌のあれだが知らんのか? 知らん。と答えるので、ある日、太田道灌が狩をしているとにわかに雨が降り始め……と講談調。
で碑を読むと、その後太田道灌は紅皿を城へ招いて歌の師匠としたと書いてあって、それは知らなかった(本当か?)。
しかし、いろいろ話があるようで、欠け皿というのも知らなかった。知らないことはたくさんそこらに転がっているものだ。
岸本さんから達人出版会の刊行記念インタビューの注についてツッコミをいただいた。
(地の文、つまりしゃべっているところは人称は途中で変わるし、まったく正規な日本語ではないからどうしようもないが、注は文章だからおかしければツッコミされるのも当然ではある)
11/3 1時現在だと、「語弊を招く言い方」としているが、語弊は招くものではなくてあるものではないか? 招くのは誤解だろう、との指摘だ。
で、何も考えずに使っていたので、そういわれるとそうかも、と口の中で「語弊を招く」「誤解を招く」「語弊がある」「誤解がある」とか呟いて混乱してきたので、『語弊』を大辞林をひいてみる。
(実際は、iPhoneアプリだけど)
すると、
言葉の使い方が適切でないために生じる弊害。誤解を招いたり、意味が通じなかったりする言い方。
となっている。弊害を招くなら、別におかしかないだろうと、考えた。
おかしかないはずだが、散々呟いてみたりしたもので、どうにも語弊はあるもののような気がしてきた。
そこで、『語弊』という単語そのものが古い日本語に属するので、固定された言い回しのみで生き残っているのが原因で、招くに招けないのではないか、と仮定してみた。つまり、誤解のような現存する言葉であれば自由な使い方が可能なのに対して、死語に近い瀕死の言葉(『弊』がほぼ死んだ漢字で、弊社くらいしか現在の用例はないように思える)なので自由な使い方ができないのではないか、ということだ。
そのような場合、Googleで単に『語弊』や『語弊を招く』で検索して、用例を見つけても意味はない。正しい使い方か誤った使い方か検証に足る用例とは言えないからだ。
幸いにして、青空文庫があり、そこには明治あたりから昭和初期くらいまでの遺産としての近代日本語があふれている。
したがって、site:www.aozora.gr.jp 語弊で検索するとおそらく語弊という言葉が人生を謳歌している最中の用例を得られるはずだ。
その結果、夏目漱石も芥川龍之介も折口信夫も、というよりも「語弊を忍ぶ」と「語弊が生じつつある」を除けば、ほぼ全員が「語弊がある」としていた。
つまり、用例的には「語弊はある」もので、少なくとも「招く」ものではない。
あまり釈然としなくて、その後もいろいろと頭の中でこねくりまわしているうちにはっと気づく。
漢語は読み下しての漢語である、ということだ。
語弊であれば、それは「語の破れ(弊は大辞林では「悪い習慣」「害」といった意味しか出ていない。が、原意は破れたり弛んだりした状態の布で、巾を八つに裂いた状態を示す会意文字のはず)」である。
もちろん、「『語の破れ』がある」からこそ、弊害が生ずるのであり誤解を招くのである。『語の破れ』を招けるのは、語弊が生ずる前の時点だ。(語弊が良からぬことを招くとは言えるかも知れないが、そこまでもってまわった言い方はしない。一方、「語弊が生じつつある」という戸坂潤の言い回しはうまいと思う)
それに対して『誤った解』を招くことは誤った命題であれば容易だ。
というわけで、深く得心した。
デバッグ出力の方法がおそらく悪くて、状態が変わったにもかかわらず変わっていないと読み取って、どえらく無意味な苦労を3時間くらいしてしまった。
それにしてもいつ状態が変わったのかがわからないところが難しい。
IEでテストしてOKだと思ってSafariで見たら違うものが見えた。
spanって良くわからないし、ということでtableでやってやれと思い、書き換えた。
で、IEでテストしてOKだと思ってSafariで見たらやはり違うものが見えた。
帰宅して、簡略版を作ってためしたら、FirefoxもChromeもSafariと同じものを見ている。はいはい。月曜に会社の開発マシンにもChromeかSafariを入れるよ。
<html> <head> <meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=utf-8" /> <style type="text/css"> table { text-align: left } .x { width: 20px; text-align: right } </style> </head> <body> <table> <tr><td>abcdefg</td><td>x</td></tr> <tr><td class="x">x</td><td class="x">x</td></tr> </table> </body> </html>
上のHTMLをIEとChromeで表示した例。SafariやFirefoxはChromeと同じになる。
width指定が有効らしいことは2カラム目でわかるが、1カラム目のようにIEは直前のカラムとは無関係あるいは左端からwidth分の領域を確保し、Chromeは無視しているかあるいは右端からwidth分の領域を確保している。
text-alignをleftにした場合は同じ結果となるので、ややこしい。
友人の家でビデオを観る。
ウィーンシュターツオーパの総監督引退記念のやつ。
で、ヤングが指揮するところを初めて観た。かわいいなぁというのが第一印象なのだが左手の動かしかたがなんとも優雅なのだった。
良く見るとハイヒールを履いているのだが、いつもそうなのだとしたらなんかすげえな。
歌手としてはローゲの人にびっくりする。ローゲだというのも驚きだが、はっきりくっきりろうろうと、しかも恐ろしく顔芸達者でたとえば(名前忘れたが、雨に唄えばのデビーレイノルズでもジーンケリーでもない人)みたいな感じ。この人でラインの黄金を観たいな。
CSSにはまりまくる。
何にはまるのかというと、カスケード(で合ってるかな?)されるというのがおれには直観的ではないからだ。
<div class="a"> <table> <tr><td class="b">...
みたいになっているときに、
.a td { border-top: 1px double black; text-align: left }とかしていて、
.b { text-align: right; border-bottom: 2 double black }
とすると、td要素に直接指定しているクラスbのプロパティのほうが上のほうで決めたaのtdのプロパティより強い(上書きできそう)と思えるのに、実際にはそうではないからだ。追加(上の例だとborder-bottom)はできるんだけど、text-alignは上書きできない。
で、はるか上の方で<div class="a">とかがあって、.a tdで決められているのに気付かず、ピンポイントでプロパティを設定してそれが有効にならないというのに、はまるからなのであった。(というか、多分、もう理解したとは思うが)
なんというか、悪いプログラミング言語みたいだ。幸い、そんなプログラミング言語は無いとは思うが。
var x = 32; block { var x = 48; if (x == 48) // 外側のブロックでxは32に設定したので偽。
で、手元の辞典をあらためて読むと、
また、同じスタイルシート内でも競合が起こることがあります。その場合でも「!important」を使ってスタイルを優先させることができますが、一般的には、より細かい部分で指定しているスタイルが優先されます。たとえば要素に対して指定したスタイルよりはクラスに対して指定したスタイル、……が優先されます。もし、それでも競合してしまう場合には、より後に指定されたスタイルが優先されます。
とか書いていて、こういう場合はどうなんだ? と疑問に思うのではあるが(というか、!importantがきかないし)、IDを使えば良いのか。が、tdだと複数あるしなぁ。でも変だな。最初にtdでborderを指定してやるとそれが優先されているようだけど、「class 要素」は「要素」より優先順位が低いのかなぁ。
詳解HTML&XHTML&CSS辞典 第4版(大藤 幹) 手元のは第3版だからそのあたりが違うのだろうか?第2回目が公開されました。刊行記念:artonさんインタビュー 第2回
それにしても、おれはどうして、こうも変な話し方をするのだろうか、と嫌な気分になるのだよなぁ。
可能性1)おれはおかしい(まあ、方言を隠さないってのはあるけど)
可能性2)世で良くみるインタビューは、アンカーが徹底的に推敲したもので、達人出版会とかるびまが特殊。
可能性3)世で良くみるインタビューは、あらかじめシナリオを記述してあって、それを読んでいる。(インタビューじゃないなぁ)
なお、書籍自体は、リリース版へ向けて着々とバグを潰していますというか、現在までに発見されたバグは潰し終わったところです。
後で無料でバージョンアップできるので安心してお買い求めくださいませ。
上野でベジャールというかジルロマンのバレエ団。すごい人の名前を冠した組織は表現が難しいな。シャネルただしカールラガーフェルトとかみたいだ。日本の襲名って方法はあれでなかなか合理的なのかも。
始まると、体操みたいなウォーミングアップのような感じで退屈(でもそれはおれの見方が悪いように感じる――春の祭典はここだったかな)してくると一閃奥の壁に穴があき、ツインドラミング。
薄い青いズボンのさすらう若人の世界旅行が始まる。
イタリアの料理人たちのアクロバティックな踊り。永く続く優雅なデュエットに突如闖入してくる範馬勇次郎のような黒いエジプトの王様。全編通しておれでもここの範馬無双がただ者ではないことはわかる。凄かった。
パルジファルはむしろトリスタンで美しい。奥にスクリーン、左手にモニタを模した幕。音楽は重要だ。
アデューフィリッピーヌでも描かれていたヨーロッパ人の極地無知な最北の果て。
最後の退場を先導するために再見するとはこの時点では知らない。再見時の首にぶら下がって足をパタパタするやつ好きだな。
改行がCRLFってのはいやだなぁとつくづく思う。もっとも、メモ帳がLFだけでも改行として処理してくれれば、結局共存できるからどうでも良い。とか一瞬は思う。
が、それでも、ふと気づくと2行改行されていて困ることがある。なので、やはりいやなのであった。
そういった本来1文字のものを2文字で表現する(正確には2文字ではなく2バイトで1文字なのかも知れないけど)というのは、いろいろ問題がある。
そこでEUC-jpの半角カタカナを思い出す。
あれは考えようによっては1文字単位にシフト文字がくっつくわけだが、そのために、面倒くさがり(としか思えない)システムではなぜか半角カタカナだけは使えない扱いにしていたりすることがあった。やはり厄介なのだろう。
しかしEUC-jpでは表現方法はあったし、現実世界でも流通している文字なのだから、なぜああまで強固に使われることを拒否していたのか不思議だ。ISO-2022-jpでは表現できない(というか、シフトの仕方が決まっていなかったような)からかな。じゃなくてISO-2022-jpでは未定義なのか。
ruinedの編集モードを作っていて不思議現象にぶつかった。
気付くと改行が増えていくのだ。
元々、OSXやLinuxで編集したソースなら改行は\nだけ、Windowsでメモ帳で作ったソースなら改行は\r\n、でも他のエディタで作れば\nだけ、という状態を保持したいわけだが、途中でHTMLのtextareaに入れるから、そこをうまいこと復元させようと考えていたのであった。
で、次のことに気付く。
File.open('foo', 'w') do |f| f.write "abc\r\ndef\r\n" end
とすると、書かれたファイルはabc\r\r\ndef\r\r\nとなって\rが増える。
てっきり\r\nであれば、つまり\rに続けて\nがあれば余計な\nはつかないというような制御をしていると思っていたのでこれは驚いた。
が、そうではなく、\nを見ると自動的に\r\nを出力するのがテキストモードの仕様なのだった。
まさかと思ってCで試してみる(msvcr100)。
#include <stdio.h> char* data = "abc\r\ndef\r\nghi\r\n"; int main(int argc, char* argv[]) { FILE* p = fopen("crlf.txt", "w"); fwrite(data, strlen(data), 1, p); fclose(p); return 0; }
うむ、確かにabc\r\r\n... となる。
結論:
テキストモードを使う場合は、明示的な\rを出力バッファへ含めてはならない。あるいは、\rを意識するのであればバイナリモードを利用する。
そういえば、昨日はつい怒りにまかせて改行を1文字であるかのように書いたが、正しくは、復帰で行の先頭に戻り、改行で行送りをするのだから、\r\nの復帰改行2文字が正しく、\nだけだと80カラム端末ならたまたま80カラム出力した後であれば同一行でくるりとカラム0にカーソルが進み、そこで改行コードで直下に落ちるのでうまくいくだけなのだった。
が、コンピュータはタイプライターではないのだから、そういうことはどうでも良いのだった。でもたまには復帰の意味を思い出してやるのだった。
そのへんについてはレイモンドチェンが書いている。
Windowsプログラミングの極意 歴史から学ぶ実践的Windowsプログラミング!(Raymond Chen)indexesとxの後ろにexを付けるのは素直な英語で、boxとboxesとか。でもindicesという奇妙な複数形がある。
奇妙な言葉は歴史的な事情によるものだから、無知な人が増えるあるいはマイルドに表現すれば、人々から記憶が薄れれば、標準化されていくはずだ。
日本語の発音が標準化された例は身をもってあじわったことがある。
いくらおれが柳と言っても通じずに、やなにって何?とか。
視ると観ると看ると診るがなんでも見るとか。仮名漢字変換の文脈判定の中途半端さにも原因はあるだろう。
というわけで既にknightもnightもみんなniteで通じるらしいから、当然indexの複数形もindexesだろうと推測する。もっとも、術語化するとその言葉が狭い世界で固定化される、あるいは一定の知による囲い込みが行われるのでindicesが生き延びる領域もあるだろう。
で、ロングマンの英英のほうをひいてみる。
すると索引とデータベース(特に図書館の目録)の2つはindexesで専門用語の指標と指数はindicesだった。
一方、同じロングマンの英和では、語による区別はなく「複 indices /-dɪsìz/ , indexes」となっている。すると、複数の索引をindexesと英英ロングマンに従って記述すると、最初に出現する本記ではないほうを選んでいるようにみえるだろう。
と、言葉の生き物っぷりを観察したり推測したりするだけで結構な時間をすり減らせるのであった。
「科学技術大国」中国の真実を読了。
「科学技術大国」中国の真実 (講談社現代新書)(伊佐 進一)
東大を出て科学技術庁、在中国日本大使館、文科省と歩いてきた官僚の人による中国の現状分析(新書だから感想ってところ)とそれに対する日本はどうすべきかの提言という感じの本。なかなかおもしろかった。
大ざっぱには、次のような主張。
中国には11億人いる。この数をなめてはならない。どういう意味か? 行列がきたないとかだらしがないとか無計画とか、ようするに中国のネガティブな面を見ればそれはおそろしくネガティブだ。というか、11億人いるということは日本人の1億でさえばらけているのがそれ以上ってことだ。仮に20:80でだめな人がいるとする。するとだめな人が8億以上。日本人の8倍だ。
というわけで、平均をみても意味ないし、ましてやだめなところを見るのはばかげている。では、上澄みはどれくらいいるか、その上澄みは本当にすごいのか、それを考えてみよう。
というわけで、アメリカで博士号をとった人の出身大学を調べると1位は清華大学、2位は北京大学。で、この人たちは頭脳流出したってことかというと、そんなこたない。海亀政策ってやつで超優遇するから、どんどん帰国してきている。
では恐るべきかというと、実はそうでもない。スパコンで負けた! と考えてみると実はそうでもない。インテル並べれば良いってわけではなく、実質効率は70%台だ。日本は90%台を叩きだしているんだから、その意味では日本のほうが技術はある(これ本当かな? SX8とかTSUBAMEとかでアーキテクチャが違うから一概に比較できないような)。でも有人宇宙船を上げるのはやはりすごいし、ペイロードを運ぶってことも実績を積んできている。しかも政治と技術と商売の結合もうまい。AA会議の席上でナイジェリアの衛星を打ち上げる話を冒頭に持ち出すとか、見事なものだ。
論文の数も被引用数も伸びているのは事実。というかほぼ日本と並んでいるし。
しかも中国のトップはその実情(実はたいしたことない点が多い、たとえばちょっとした応用だけとか)を把握している。
それにライフサイエンスという面からは臨床例の積み重ねができる、変な風土病がたくさんとか、いろいろ便利な面が多い(で、いかに日本と協力できるか書いているうちに、おそらく731部隊とか思い出したらしく、突然、きちんと協力の分化をしないとちょっといろいろまずい点もあるかも……とか尻すぼみになっていくのは読んでいて妙だった。というか、医学関係は変な協力をすると、外人の科学者に人体と生命を提供している問題とかになってしまうだろうし、ましてその外人が日本鬼子ではいろいろまずいだろうな)。
というわけで、向こうの上澄みとは大いにつきあうべきだし、それをうまく利用してやれば、市場はでかい、技術力はこれからだからうまい売り込みもできるかも知れないし、うまく組めばアジア市場を日中で制覇できるしヨーロッパなんか目じゃないぜ。デファクトだろうがデジュールだろうが思いのままだぜ。
でも、うまく協力しないと出し抜かれるのは間違いなし。
というわけで、インターフェイス協力、コアは見せないというやり方がいいよね。で、インターフェイス回りの周辺については手の内さらけ出しとか技術移転とかちゃんとフェアにやって、でも、握ったこぶしの中身は見せない。
そうやってうまいこと中国と組めるといいなぁ。
というか、そうでもしないと、本当に日本は滅びちゃうぜ。まだ、技術力も科学力も底力では勝っていると思えるわけだが、今のままじゃ本当に抜かれちゃうし、そうなったら最後、市場規模から行ったってもう太刀打ちできなくなるよ。今なら、まだこちらに有利な条件で組める。それが日本の生きる道ですよ、本当に。というか、サムソンみたいな枯れた技術の商品開発とかじゃなくて、先端技術のすげぇ日本でいいじゃん。その使い方込み、技術協力込み(でもコアは特許でおさえとこうね。中国も特許を守る国際ルールに従うほうが結局は自分のためと今では理解しているから。上澄みのほうは)で、中国とパートナーシップを組んで、恩義を売りながら、メンツを立ててやって、世界を支配しようぜ!
と、雑に書けばそういった内容だ。
主張はうなずけなくもなく、まあ、今の日本の取る道としては妥当な提言のようには読める。
で、やはりおもしろいのは(個々の中国のだめだめエピソードとかもおもしろいし、逆に中国すげぇのエピソードもおもしろいけれど)、最後の核心である、プロトコルの内部ブラックボックス化のところだ。
例はインテルプラットフォームにしているが、実におもしろい。
というのは、20世紀最後に、マイクロソフトが打ち出した生き残り戦略は、プロトコルの脱共有化で、おれはこのアイディアにはしびれたもんだ。つまり、徹底的にインターフェイスをオープンにするのだが、その一方でハードルをどんどん上げていくことで、オープンだけどプレイヤーがいやおうなく絞られるという仕組みだ。Officeがどんどこ機能が増えて、OOoとかがいつまでたっても追いつかないのはこれだし、SOAPがWS-*になってみんなRESTに行ってしまったのもこれだし、Ecma標準だけどMonoしかないのもこれだろう。というかミュゲルってすげぇな。
でも、21世紀になったら、戦略レベルではもっとつまらないがシンプルな方法がふつうになってしまった。それがプロトコルをシンプルにして内部をブラックボックスにする方法だ。
これはWindowsとそのAPIというのとはちょっと違う。もっと圧倒的な差の話だ。というとインテルよりも、GAEだな。内部ブラックボックスが成功するには、レベルが全然違う必要があるか、またはそのレベルに達するためのコストがとんでもないか、いずれかの必要がある。おそらくGoogleは前者、Intelは後者。
で、どちらの戦略も外部に対しては丸出しにしているところがおもしろい。デファクトでもデジュールでも良いが、インターフェイスは公開、場合によってはインターフェイス回りの周辺部品は低廉に提供(インテルの例だとチップセットとかバスの仕様とか)したり特許フリーにしたりとか。
Twitterでma2さんが最近読んでる本として挙げてくれた粘膜人間を読了。
うーん、なんというか、どんどん読めるぐいぐい読める、後に残るは時間の経過というか、まるでファストフードみたいな本だなぁ。
どんどん読めるぐいぐい読めるっていう意味ではつまらなくもなければ退屈でもない、つまりはおもしろいのだが、なんというか感興ってのが湧かない。
色っぽい描写もあるのだが少しもエロティックじゃないし、暴力がばしばし振るわれるのだがまったく恐怖はない。なんなんだろうか?
選評が収録されていて荒俣宏がこういうのが今様なんだろうなぁとか書いているが、きっとそうなんだろう。ヴィッテプロプル。
という意味ではおれはいろいろ面白い移り変わりを楽しめて来たのだろう。
でももしかすると単に年を取って擦れただけなのかも。そういえば昨日子供に借りて魍魎の匣の最終巻を読んだが、博士や京極堂が何か言うたびに小説家だのその他の登場人物たちが妙におののくのですごく違和感があったが(腰かけている箱が臓器だからといってなんでそれに動じるのかとかいろいろ)、それはおれがすれてしまっているからなのかも知れない……かなぁ。
でもやっぱり時代精神の変遷ってやつだと思うのだ。
最初はホラーってのは本当におっかなかった。
こんな感じだ。
それがいつの間にか恐ろしいということは爆笑に変わった。怖ければ怖いほど可笑しい。
こんな感じだ。
懲戒の部屋 自選ホラー傑作集1 (新潮文庫)(康隆, 筒井)
(走る取的)
それがホラーってのはファストでクリーンなものに変質した。
こんな感じだ(そのてので最初に読んだやつ)。
シンプル・プラン (扶桑社ミステリー)(スコット・B. スミス)
それが、いきついた先なのだろう。
おそらく想像するに心の闇というものが普遍的な認識となり、誰もが当然のように深い闇を持つにいたれば、そのようなものに恐怖はなくなり、ただただクリーンでシンプルなものこそが恐怖となる、ということなのかも知れない。
現実の世界でせめて殺してからにしてくださいと喚く人間の首を電動のこぎりで切り落とした奴が罪に問われるってことがニュースで流れるわけだから、せめて仮想な世界はクリーンでありたいってことなんだろうな。
なんとなく手元にあったファインマンの困りますを読み、そこで粘膜人間のモダンさについてあらためて考えてみる。
というよりも、冒頭の最初の奥さんについての思い出話は何度読んでも胸を打つ。
手紙ハックとかのエピソードが続き、息を引きとるというのはどのような肉体の状態かを考察しているうちに奥さんは息を静かに引き取ってしまう。仕事に戻り(広島の人達のことは考えるはずもない)しばらくして買い物に行き、奥さんが好きそうな服を見つける。そして初めて涙を流す。
書かれてはいないが、読者はそこで筆者が、プレゼントして奥さんが喜ぶところや、着たら似あってすっかり嬉しくなって二人で楽しく過ごすところとかを想像して、そしてそんなことはもうありえないと不在を実感したのだと理解する。悲しみとは本当にかけがえがないものを永遠に失ってしまったということの実感だ。それを喪失感と呼ぶ。
困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)(R.P. ファインマン)
その実感をいかに届けるかがその文章の表現力となる。
であればそれを逆手に取ることもできる。
そのように表現しなければ、そこにどれだけ大量の不在が生じようが喪失感は表出せず、乾いた時間の経過のみとなる。しかし、ことは簡単ではない。それは事実をたんたんと述べるだけでは表現出来ない。読者は自分の知見に基づいてコンテキストを補間するからだ。
読者によるこの物語への介入を回避するためには、いくつかの手段が取れる。一つは登場人物を異形化することだ。が。粘膜人間の場合、確かに異形ではあるけれど、感情の動きは無理がなく、それが読みやすさの一つの理由だろうが、取るべき行動を取る。したがって、その手段ではない。
別の方法として、異常な事態が次々と発生すれば、読者は異常事態そのものの対して一種の不感症となる。おそらくこちらの手法だろう。
が、実際に読んでいる間はそれには気付かない。というのは、そこでの日常としてあたりまえのこととして(登場人物の視点を使って)表現されているからだ。
そのようにして、喪失感や、昂揚感や、恐怖感や、(ここまで、哀楽怒の効果を書いてみたが、なるほど喜を笑いととらえた場合の感情を適切に効果へ転化するのが難しいことに気づく。笑とは高尚なものなのだな。おそらく)違和感を読者に与えることなく物語を語るのだから、それはすらすら読めるはずだ。おもしろい。
演出がおもしろい。最初、前回のフィガロのような抽象演出なのかと思ったら違った。ちゃんとコスプレして(かつらも使う)、それなりの小道具も使う。
幕の直前はフラッシュを使った戦闘シーンで効果音と共にギロチンが下る(1幕――実際には1場だけど――ではびびった。2幕では慣れた。3幕ではうんざりしかけた。幕間のギロチンが増殖する映写とか。この増殖の仕方の微妙な角度が、東京リングの映像(神々の黄昏のギュビッヒの羊の頭のマークあたりだと思う)にそっくりで、おそらく同じ映像作家の手になるのではないかな)。
シェニエを演じたロシアの人は低音のほうがちょっと弱い気がするが、伸びやかで好きな声。マッダレーナもいい(アンコールでやたらと子役を気に入ったらしく抱っこしたり引っ張りまわしたりしていてなんだろうか、と思った。髪形が同じ)。ジェラールは好演だと思う(バリトンの人はわりといつも声が小さく感じるのだが、そういうことがない)。それにしても物語の長さのわりに上演時間も短いし、良く歌う歌手はその3人だけだからえらく疲れるのではないかなぁとか余計な心配をしたり。
だが、僕が一番感動したのは、50年という歳月だ。
アンドレア=シェニエ*歌劇 [DVD](デル・モナコ(マリオ))
僕にとってのシェニエとは、NHKのイタリアオペラに他ならない。確か、このDVDはそれほど問題ないという記憶があるのだが、キングから発売されていた(という記憶)LPではラママモルタの直前のチェロによる独奏がこれ以上はないというくらいに失敗しまくっていて、テバルディもデルモナコも素晴らしいのに、何このオーケストラというのが率直な感想だった。そのため、1幕のデルモナコが愛を唄うところばかり聴いていた。
が、東京フィルは見事に演奏している。オーケストラが素晴らしいじゃないか。ここまで来たのだなぁ。
それに合唱の美しさ。くだらない(現実の音楽としても脚本上の音楽としても)羊飼いの歌が実に甘美でこれなら革命しなくてもいいよなぁという感じ。
それにしても貧民大集合のジェラールの示威行為が大鎌かついだ黒装束の集団というのもちょっとびびった。演出の適度な過剰さが気持ち良い。
子供が、孫を革命に差し出した老婆が支えを求めてうろうろするのはどういう演出だ? と訊いてきたが、さてどうだったか。あのシーンを見るとジェラールは血も涙もない政治家にみえるが(容赦なく子供を引き連れていく)、そういう意図なのだろうか。
最後、シェニエとなんちゃら夫人の名前を呼ぶところはエコーをかけたマイクを使って強圧的というか冥府からの呼び出しのような効果。
これは良いプロダクションだ。再演したら(今回が2回目らしいが)また行きたい。
zipファイルが40個以上あって、それを展開しなきゃならなくなった。
というわけで、スクリプト使うしかないなぁとみてみると、コマンド版を探すにしても、ライブラリ探すにしてもなんかいろいろ面倒そうだった。
それでrjb使えばいいかなとスクリプトを作る。
unzip.rbが、Rjbではあまりin/outタイプの引数については考えていなかった。
ということは、
InputStream#read(buff, offset, len);
でbuffに設定された値が呼び出し元に戻らない。
そこで、考えてみるに、JavaではStringはイミュータブルなのでこのようなin/outな使い方をするのは、ほとんどがオブジェクト(StringBufferとか)に限定されるはずだ。
そういうのは既に使えるわけだから、byte[] を特別扱いすれば良いだろうと気付く。
で、そういう機能を実装したのでrjb-1.3.4となった。
新しいOSを入れると使い物にならなくなるという情報を提供しているサイトがあるのに、少しも気付かず、つい腐ったバージョンにしてしまった。
おれの使い方は横になって左半身を下にして床に長い方の左側面をつけて読むという方法だ。
したがって、今ではまったく、読めないデバイスとなってしまった。
たった、半年足らずだが、それなりに使えて楽しかったが、これでおさらばだ。
かす。
アップル製品を買うのもこれでおしまい。
追記:その後渡辺さんやbackbeatさんからホームボタンを続け様に2回押してから、左から右へ画面をこするとソフトスィッチが出て来ると教えてもらって、無事使えるようになった。実は、購入してからすぐに上で書いた使い方になったため、回転ロックを解除したことはTwitRockerのバグ解除時以外はまったく無いのであった。したがって、機能さえ残っていればまあOKではある。
なんと驚いたことに、おれは、困りますファインマンさんの、スペースシャトルのところを読んでなかった。
困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)(R.P. ファインマン)
日本のひなびた温泉宿や、ジュネーブの安宿とかは確かに読み返しているという意識があるのだが、O型リングのやつは、全く記憶に無い。どうも分量に気後れして後回しと思ってそのまま忘れてたようだ。
おもしろい。
最初は推理小説のようである。それもヒントがたくさんの。
ところが実はこれはカフカの城のような不条理な官僚社会のカリカチュア(いや実話のはずだ)であった。
重要な示唆がたくさん。ファインマンは、この時、それまでに積んできた人生経験のおかげで、幾つもの危機を脱して目的完遂のためにまいしんできる。たとえば、あえてくだらない書きつけの捜索依頼を無視するとか。あと、味方を嗅ぎ分ける嗅覚。
組織というものが持つ防衛力について考えるに、異人がいかに重要かということと、本人は組織に呑み込まれるとしても、安全弁として異人を導入しておくことの重要性とか。
余りに面白いので味わいながら、やっと全体の半分くらい。
それにしても、アメリカの技術者/科学者の一部とそれ以外との人生観の差は、日本の理系/文系の差より遥かに大きな断絶があるようにみえる。みえるという意味だと、日本の文系には極めて理系的な人間が含まれるが、アメリカの理系には極めて文系(政治的な駆け引きと調整力の発揮にどうやら興味も真価もあるという意味)な人間が含まれるようだ。おそらくどちらが権力を持ちやすいかの差に基づく選択なのだろう。
切り口として3種類を考える。
まずは古典。だがもっと違うのが良い。それはいろいろ手に入る。
次に個別の言語など。だがそれもそろそろ終わりで良い。
もう少し引いて個別のテクノロジー。でもそれはノスタルジー。
おお友よ、もっと輝かしい歓喜を。空は青く、雲は漂う。
と、ベートーヴェンなのだが、つまりはニ短調の合唱付きだが、第4楽章の切り口(モティーフ)を考えたのでまずはメモ。
コンピュータで処理出来るようにするということについて、ある課題のためにその問題をより処理しやすいか、または処理系に入力しやすい形式にマップするということ。例えば面積へマップするやつ。
次に問題を解決するための処理そのものをモデルとしてとらえるということ。
最後に具体的な話。見せる技術。
子供が等比数列のn番目を求めるってやつの帰納的な解き方と関数化して解くってやつをやっているのを見ていて、これってまさにプログラミングとコンピューティングの微妙なところに関係する考え方だな、と考える。
コンピュータを利用することで帰納的な解き方を現実的な処理時間で利用できる。しかし空間計算量が増える(時間もかかるがそれは無視する、この場合は)。そこを気にしなければ、関数にする直接のメリットはない。だが、うまく関数化できた時の気持ち良さは失われる。
割と良く見るコピぺコードに、レジストリや名前サービスからの読み込みがあって、3行くらいのインスタンス変数への読み込み処理が10回くらい連続する。
関数にするにはたかが3行なので、こういう時こそコピぺとなり、ルックアップする名前と、代入先の変数名だけが異なるコードがだらだら並んでいる。
おれはこれが大嫌いなのだが、確かに関数化したからと言って、それ程のメリットも無い。既にGetProfileStringだのlookupByNameだのが関数になっているわけだし。16Kしかないシステムに無理矢理コードを押し込める必要もなくテストをすれば名前の書き間違い程度はすぐに直せるので特に困ることも無い。
しかし、逆にこの程度のコードすら関数化できないのであれば、より高度な関数化など、到底できないだろうとも考えられる。したがって、この程度の細部であっても同じコードが出てきたらうまく片付けるほうが良いのではないか。割れ窓は細部に忍び込む。
これはおそらく感覚の問題になってくるのではないだろうか。
等比数列を綺麗に関数化できて、たくさん並んだ階乗の足し算が消されていくのを見るときの気持ち良さみたいな味わいを抜きにしたプログラミングなんて、全くつまらない。この快感は上で挙げたような細部にすら存在する。
おそらく、本当のプログラミング教育における重要なことは、その快感を味合わせることなのではなかろうか。しかし、その快感がどのようなものかは、経験に基づく想像力を要し、その想像力は最初に例とした等比数列の関数化を求めた時のような、抽象的な経験によってしか培われない。そのような快感を味わうことなくいきなりプログラミングを始めたとしたら、それはひどく味気ないものだろう。であれば、汚いコードを平然と記述できる心性も多少の想像がつく。
散々不愉快な思いをさせられて、すっかりおれの中ではソーテック未満の格付けと成り果てたアップルだけど、タイムカプセルが壊れたせいで見直した。
APPLE Time Capsule 2TB MC344J/A(-)
(おれのは500Gだが、そんな小さな容量のはもうないのだな)
気づいたらネットワークが死んでいて、順を辿っていくと、最終的にタイムカプセルのLEDが消えていることに気づいた。コンセントもゆるんでいないので、不思議なこともあるものだと、差し込み直しても何も起きない。何度か繰り返して、やっぱりアップルだなぁと、うんざりしてあきらめる。
とは言え、このままではどうにもならんので、予備の回線を使って、アップルのサポートページでタイムカプセル(Macに含まれるので,最初戸惑った)の情報を見ようとしたら、FAQのトップに電源がどうたらと書いてある。読むとビンゴ、シリアル確認でビンゴ、その場で渋谷のジーニアスバーの予約をして(ラッキーなことに1時間後くらいに空きがあったのだが、そもそも土曜日だとか、壊れる時はせめてそうであって欲しい理想的な状態ではある)出かけたのであった。
HDDは問題ないことはほぼ間違いないが、復旧させるにはセンドバックサービスとかなっているから、ここはすっぱりあきらめた。先日のJDKヘッダ削除事件みたいなことがあると致命的だが、そうなったら愛想銀行から口座を今度こそ引き上げるだけのことだ。
で、ジーニアスバーへ行くと筒井康隆みたいな顔をしたドヤ顔親父や死ぬより脚が長い白人の子供がウロウロしているのでどうにも居心地が悪い。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い。
で、番がきてジーニアスに電源が落ちてて入らないしシリアルが引っ掛かってるので持って来たとか言ったらちょろちょろ調べて、店頭だとデータは残せないけど宜しいか? と訊いて、交換用在庫調べて、すぐに箱入りのやつが出て来た。見ると同じロットなので、これだめじゃんと文句言ったら既に修正済みだから問題なしとのことで、ならと持って帰ってセットアップして、Macのバックアップ取り直して現在に至る。
で、気づくとここまでの間、おれはもちろん、店のやつも、ものが本当に壊れているかとか再現していないのだった。同じロットの修正済みのやつが出てくるくらいだから、単なるおれの勘違いとか、電源ケーブルの断線とかいろいろ可能はありそうなのだが。ジーニアスがそういったことを調べるために時間を費やすより客の言い分で動く方が効率的なのかも知れないが、それでも、同様な事例が明らかにあり、ユーザ登録上同じロットの製品を持っている事が明白な客に対して、再現させてエビデンスを写真で送れとかくだらない事を言い出して、しかも実際にさせるDELLより、百億倍まっとうな客あしらいだ。こちらとしては、「確認の結果、こちらでは再現しないという事でお引き取りください」という最も不快な経験をするチャンスを与えられない(何しろ確認しないのだから)わけだが、もちろんそんなものはいらないから正に望ましい。
というわけで、不良品(機械は壊れるのが当然だが、この場合は不良品という事で良いのだろう)を掴まされてわかるユーザーエクスペリエンスについては、アップルは実に気分良い。
Apple MacBook Air 1.4GHz Core 2 Duo/11.6"/2G/64G/802.11n/BT/Mini DisplayPort MC505J/A(-)
(余りに気分がよかったので危うく買いそうになった。が、まだ待とう)
突然、エットーレスコラのあんなに愛しあったのにを観たくなったのだが、なかなか観られないものだ。(実際にはレーザーディスクがあるので、劣化していなければ観られるとは思うのだが、時間を連続して確保するのは難しいよな)
あんなに愛しあったのにを僕は、有楽町のセゾン系のホテルの映画館で観た。
3人の男と1人の女を中心とした出会いと別れと再会の物語で、その中にイタリアの戦後史と、ほんの少しの映画史をからめていて、しかしその映画史の部分がまさに映画の中の映画となっている。フェリーニの甘い生活のロケ(の再現)。印象的な、時代が変わる瞬間の広場のタイルからどんどん上へ引いていくシーン。
3人の男の一人は野心に燃えていて実業界に入り込み、最後にはもっとも成功していて、しかし最も孤独な男だ。出世のために恋人を捨てて金持ちの娘と結婚し、しかしその金持ちの娘は彼が自分を愛していないことを直感で理解し、スクラップ置き場の自動車の山の中で昇天する(確か、すばらしく美しいシーンだった)。その彼がガウンを脱ぎ、自宅の広大な庭園の中のプールへ飛び込み、着水するまでの間に物語がすべて流れる(と思った)。このあたりの演出があざと過ぎるのだが、でもそういうテクニックと思えば、あるいは若気の至りっぽくもあり、不快ではない。もう一人の男はふつうの男で、確か、看護師ではなかったかな。ふつうに彼女を愛して、確か野心家に捨てられた彼女と暮らすはず。もう1人は映画を愛する男で、他の二人と同じく彼女に恋している。やっとのことで連れ出してデートでは、彼女にいかにエイゼンシュテインの戦艦ポチョムキンがすごい映画かを乳母車のシーンを再現して説明する。あまりのその説明のうまさに、再見してしまったくらいだ。
戦艦ポチョムキン【淀川長治解説映像付き】 [DVD](アレクサンドル・アントーノフ)
その後、テレビの映画クイズ番組に出演してどんどん勝ち進む。最後の質問「自転車泥棒でブルーノ少年が泣いたのはなぜでしょう?」に答えればお金持ちになれる。
自転車泥棒 [DVD] FRT-160(ジーノ・サルタマレンダ/ランベルト・マジョラーニ/リアネーラ・カレル/エンツォ・スタヨーラ)
彼は自信たっぷりに答える。「ヴィットリオ・デ・シーカが、 エンツォ・スタヨーラのポケットにタバコをこっそり入れておいて、『この不良め、お前はタバコを吸っているんだな』と頭ごなしに怒ったからだ。」
「残念でした! 正解は、父親が……」
彼はあわてて説明する。「いや、ヴィットリオ・デ・シーカはリアリズムを追求しているから、本当の涙を撮るために、エンツォ君に濡れ衣を着せて弁解をきかずに頭ごなしに叱ることで信頼を壊したんだよ。だから、泣いたんだ」
だが、彼の抗議も空しく、敗者となり1リラも手に入らない。
実におたくっぽい。
あんなに愛し合ったのにの作家はその後もメタシネマを撮っていたようだ。
(これは観たことがないが、観ればきっと素晴らしいのだろう)
ジェズイットを見習え |
_ matarillo [DOCTYPE宣言を書くとIE8も他のブラウザと同じになりませんか。]
_ arton [ツッコミありがとう。Strictを入れたら同じになりました。何か書いてあるな(元ネタを直してた)と思って気にして無か..]