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新国立劇場のピット(小劇場が名前なのかピットが名前なのかわからん)で、デカローグの5と6。
わざわざこの2本だけ別扱いっぽい気がするが、少なくとも1~4とは相当趣が異なる。
5は殺人なのだが、とてつもなく巧妙に仕込まれている(おそらく原作もそうだし、演出、役者とも巧妙だ)。
見るからに粗暴でグロテスクなタクシー運転手が怒鳴り散らしながら登場する。
だが、団地の上のほうで作業している間抜けが雑巾を落とすというとてつもないミスを仕出かしたのが原因なのだから、怒鳴り散らすという態度のせいでタクシー運転手に対して観ているこちらは不快感を覚えるのだが、タクシー運転手はパリスのように何も悪くない。
そしてタクシー運転手はそういう(死の危険と隣り合わせの)羽目に陥ってむかつきながら洗車を始める。
始めたところで、産気づいた妻を慮る夫に病院へ連れて行けと言われる。観客から見て実に不愉快な態度を取りまくり最後はスルーして去って行く。
この時点でタクシー運転手は(乗車拒否はともかくとして)ほとんど悪くはないのだが、実に悪い印象を与える。
一方、若者登場。無敵の人だというのはわからなくもないが、おどおどして見るからに弱者に違いない。カフェで店員にいやな態度を取られる。が、強くは出られず、むしろ(おそらくなけなしの)金を余分に使う方向へ持って行かされる。
とはいえ、縄を取り出したりしているのだから、こいつが殺人者なのだろうということはわかる。若者はタクシーに乗り込む。
という合間に新人弁護士が、死刑についての考察を語り続ける。
死刑は見せしめによる抑止力なのか、エンタメとしての復讐なのか?(もちろん前者というのが建前だが本当か?) そもそも機能しているのか? 人が人を殺して良いのか?
ポーランドは日本と違って一人殺しても死刑らしい(少なくとも日本では三人以上殺さないと死刑にはならないような)。
タクシー運転手は粗野な態度を崩さず不快感を与え続ける。横断歩道を子供が渡るときに、一時停止して渡らせてやって、そこで自らたまには良いことをしなけりゃなとか嘯く。が、別に好印象とはならない。
若者が左へ曲がれと言うと、タクシー運転手はまっすぐ進むほうが早く着くと言う。言い方が実に不愉快千万なわけだが、おそらく職業上の正しい選択をしているようだが、観ているこちらは実は遠回りなのかとかそれまでのタクシー運転手の言動から素直には聞けないが、実はタクシー運転手は嫌なやつではないのだろうなと想像はつく。
人気がなくなったところで若者は運転手の首を絞める。タクシー運転手は金の場所を言う。そこではじめて単なる殺人者は強盗に変わる。なかなか死なないのでこれでもかこれでもかと暴力を振るう。運転手が倒れてクラクションが鳴りまくると電車が通り過ぎて轟音。可哀想な運転手。だが、それまでの不愉快さがあるので、まったくカタルシスは無いが、とはいえ、同情もしない。
弁護士と若者の長い対話。若者が無敵の人になったのはまさになるべくしてならされたという事情はわかるが、とはいえ、殺し方が普通ではないので、同情はできない。
そして若者はじたばたしながら首を吊られる。これまた、まったく同情はできないのだが(何しろ殺し方が普通ではない)かといって、そこに何の意味も見出せない。ただ殺人があるだけだ(それは強盗に変わる前の殺人と同じだ)
弁護士は無力感に捉われる。観ているこちらも、ではどうしろという嫌な後味だけ(こういうのは人生における喉に刺さった骨なのだから悪いものではない)が残る。
続く愛については、覗き見母子に影響されて覗き見をすることになった孤独な郵便局員(ちょっとディーバ)のストーキング行為と、これまた孤独な中年女性の愛と幻滅の物語。おもしろさは抜群。最後、郵便局員は人間として一皮剝けてしまう。母親の異常っぷりがおっかない。
東劇のメトライブビューイングでつばめ。プッチーニは初期2作品とこの作品だけは観たことなかったから実に楽しみ。
パリが舞台だということは知っていたが、想像していた内容とはかけ離れていたので驚きがあった。
第1幕は主人公(マグダ)のサロンが舞台。詩人のプルミエというカイゼル髭の伊達男が娼婦仲間と軽口を叩いている。パトロン連は集まって紳士たちの世界の話をしている。
プルミエが作詩中の詩をピアノの弾き語りで歌うが途中までしかできていない。マグダに続きを作れと無茶ぶりすると、お針子時代に学生と恋に落ちるといった内容の見事な詩を歌いあげる。
そこに紳士仲間の息子(ルッジェーロ)が訪問してくる。パリの最初の夜を楽しめ、いや楽しめる場所はないパリは死んだというような話をしているところに、小間使い(リゼッテ)が参戦してきて、いかにパリが素晴らしいかを力説する。最後、小間使いは奥様(=マグダ)の衣装や帽子をプルミエに言われるままにとっかえひっかえしてお洒落してプルミエと出かけていく。
と、ここまで観て、小間使いのふんばりんぐでオペレッタ(当然こうもりを連想する)、田舎出の息子とマグダの恋の予感で椿姫を連想せざるを得ない。
音楽は室内楽に極めて近いし、ピアノ弾き語りが効果的で、ここについてはレオンカバッロのジジ(ザザかも)を連想する。
なるほど、後期の作品だけにあらゆる素材をぶっこんでいるなと思う(何しろ、トゥランドットではシェーンベルクをぶっこんでくるほどプッチーニは勉強家なのだ)。
2幕は、リゼッテがお勧めしたカフェにルッジェーロがやって来るところから始まる。佳い男なので次々と女が寄って来る。それを眺めながら品評会を行うカフェの常連たち。
そこにマグダ登場。お針子風の地味なすっぴん姿に変装してルッジェーロに近づく。昔の夢をもう一度と、プルミエの詩に触発されてしまったのだ。ルッジェーロは故郷の南フランス(プロヴァンスだな)の女性たちの飾らぬ美しさを思い浮かべてまんざらではないというか、恋に落ちる。
そこにプルミエとリゼッテが登場。奥様だわと大騒ぎするリゼッテをプルミエは抑えて自分の詩が生み出した愛を黙って見守ることにする。
4人それぞれが歌いだし、客たちの合唱となり、愛の永遠が歌われる。
この曲の美しさはこれまで聴いたどのプッチーニよりも素晴らしい。というかどのオペラよりも素晴らしい(もちろんエンジェルブルー(マグダ)をはじめとした歌手陣やメトの合唱の良さもあるのだろうが、それだけではない)。あまりの美しさに超久々に曲を聴いて涙が出てきた。筆舌に尽くしがたい。
客たちが平和と愛を合唱するという点でこれまたこうもりを思うのだが、つばめはここでは終わらなかった。
マグダはルッジェーロと共に今の暮らしに別れを告げて新しい人生を始める決意をする。元の(今なった)パトロンが元に戻ることになるぞと忠告する。
つばめは子供を北の国から南へ帰る。マグダは高級娼婦から貧乏で慎ましい庶民に返るという話かと思ったら、パトロンのセリフからは慎ましい庶民から高級娼婦へ返るという意味のようにも聞こえる。
というか、エジプト人から見ればツバメは倫敦に帰るのであり、幸福の王子から見ればエジプトに帰る。どちらが出発点かは実はどうでも良いのかも知れない。
3幕は海辺の町(別荘地みたいな)の小さな(とはいえでっかい)家。家令が一人いる。
ルッジェーロはお金が尽きたから父親から金を引き出すという話をマグダにする(椿姫の逆だな)。ルッジェーロは金策に出かける。
そこにプルミエとリゼッテが登場。でっかな荷物が二つあるがプルミエは手ぶらでリゼッテが両方持たされている。どうも歌手になりたいというリゼッテに協力してプルミエが知り合いの劇場で歌わせたのは良いが、大失敗でブーの嵐を巻き起こしたらしい。リゼッテは歌手になることを断念して小間使いに戻りたい。
ルッジェーロが母親からの手紙を手にして戻ってきて、マグダに読み聞かせる。息子が選んだ女性なら素晴らしい家庭が築けるだろうから早く連れて戻って来なさい。
マグダはショックを受ける。私のような堕落した女はこの家に行くことはできない。リゼッテ、小間使いとして私のところに戻っておいで。プルミエが、元パトロンからの伝言を伝える。さっさとおれのところに戻ってこい。
ルッジェーロとマグダは別れることになり、リゼッテは小間使いとして再び働くことになる。
なんだこれ?
指揮者(スぺランツァ・スカップッチ。冒頭の激しい振りといい、3幕の柔らかな振りといい、良い指揮者)が幕間でピアノを使って曲を説明する。
オーストリーの劇場がオペレッタを依頼したのだが、第一次世界大戦が勃発しオーストリーとイタリアは交戦状態となり話は飛んでしまう上にプッチーニがイタリア語で脚本を練り直すうちにオペラになってしまった、らしい。
なるほどオーストリーのオペレッタとして小間使い大活躍になるのはわかるし、2幕の最後の間際に美しい合唱が入るのもわかる。本気でこうもりを研究したのだろう。
一方、パリを舞台でお金がある状態(ラボエームはお金が無い状態)として椿姫にも範を取ったのも間違いなさそうだ。
しかし、絶対的に違う点がある。
プッチーニの作曲の才能は圧倒的だが、そうではなく、時代性がつばめには真っ暗な影を落としている。
この物語にはまったく救いがない。
堕落した女は堕落しているが故に自ら進退を決める。変化しないことにする。
小間使いは無能な故に自ら進退を決める。変化しないことにする。
ばかばかしいほどに反動的な内容だ。
とすれば、2幕のあの抜群に美しい永遠を歌う合唱の意味も変わって来る。この現状が永遠に維持できると良いなぁという心情を歌い上げているのだ。
この作品は、第一次世界大戦という世界の滅亡と嫌でも変わらざるを得ない世界秩序という大激変に対してのブルジョアのささやかな抵抗を支持する物語なのだった。
こんなに後ろ向きな作品は珍しい。恐ろしいことに音楽の美しさは天下一品なのだが。
実におもしろかった。
ジェラール・プレギュルヴィクのジュリエットの死を聴いていると、どうもロメ(ウーアクソングラーヴ)と発音しているように聴こえるのだが、子供はウーアクソンテーギュ(だとロミに近くなる)だと言う。向こうのほうが耳が良いのでそうなのかなぁと思っていたが、幕を見たらグラーヴだった。というのがまず劇場(新国立劇場の中劇場)についての第一印象なのだが、でも今になってみるとアクセンテーギュなのでどうも妙な見え方をしていたようだ)、やはりこの舞台は傑作中の傑作だと思う(舞台を観るのは2回目だ。最初は赤坂ACTだった)。
曲も良いのだが(グノーやプロコフィエフよりも好きだ)、イケメンとイケメン女子がいっぱい出てきて踊ったり歌ったり喧嘩したり死んだりと観ていて楽しい。特に今回はベンヴォーリオのルックス(というよりも髪型だな)が最高。というか、ロメオ、マーキューシオ、ベンヴォーリオの3イケメン(ロメオは二人に比べて地味目にしてあるのもおもしろい)が出て来るだけで楽しいのだった。
冒頭の戦闘機の映像から、舞台は近未来(核戦争後で文明が数百年分退行した未来、でもスマホはある)としてあるので、おしゃれな不良グループの抗争ものを背景としても違和感がない。
というわけで群衆シーンで歌われるles roisがどうしたという曲(ベンヴォーリオかマーキューシオだかが、ロメオのことを王様と呼ぶと、ロメオがおれたちみんなで王様達だぜと答えて歌となる)のシーンと、街でみんなが言ってるぜの曲のシーンが抜群なのだが(どちらもモンターギュ側だ)、冒頭の赤いキュピレットと青いモンターギュのバトルシーンも好きだ。
唐突に挟まるオリジナルの台詞(特に朝のシーンで顕著だが、わざわざ単語もそのまま使うので無茶苦茶に異化効果があっておもしろさが3倍増くらいする)も良いし、曲はジュリエットの死が最高なのだが今回の舞台のジュリエットは小柄なので14歳(ただし劇中ではおそらく日本の法律にあわせて16歳としている)の美少女役にぴったりのうえ、目覚めて気分爽快、おやロメオがいる、嬉しい、あれ死んでいるの? 何が起きたの? 私も死ぬわの流れ(たった数分間のうちに希望から絶望、ある種の希望ところころ感情が変化する)を実にうまく演じて(歌って)いて見事だった。
Romeo and Juliette (En Live)(-)
この物語を悲劇にしないためにはどうすれば良いか? を考えると、キーはロレンツォの視野狭窄にあるのは間違いない(そのため、というわけではないだろうが化学オタクみたいな設定にしてある)。もし、ロレンツォが宗教者としての政治力があれば、結婚式に大公(パワーバランスは明らかに両家を圧倒している)の列席を求めるだろうし、それが個人的には無理であればロメオとジュリエット二人に大公の列席を求めさせるといった方法が取れたはずだ。大公としては両家の諍いが公国の発展を阻害しているのを苦々しく思っているわけだから、この好機を逃すわけがない。大公が認めたのであれば両家の親がぐだぐだ文句を垂れる筋合いはなくなる(ティボルドは暴れまくりそうだが)。
東劇のメトライブビューイングで蝶々夫人。蝶々さんはグレゴリアンなので当然のように観に行く(それでなくともプッチーニは観るのだ)。
素晴らしい。
これまで、ある晴れた日には、ついに狂ったなと思いながら聴いていたのだが、全然違う。
グレゴリアンが役者=歌手と言われる理由も良くわかった。
どう観ていても、ピンカートンが戻ってくることを信じ切っている(物語上、シャープレスが感じている通りの)子供(14歳が3年後だから17歳か18歳だろう)にしか見えない。帰ってくることを確信して、ある晴れた日を歌っているのだから、(そしてピンカートンにそんな気持ちは一切無いことをこちらは知りぬいているだけに)こんなに悲劇的な歌は無い。これまで聴いたどのある晴れた日よりも心を揺さぶられた。驚いた。
演劇的なオペラとして(演出ともども)完全に出来上がっているのだった。
(スズキが吾郎を殴るところの演出の細かさには驚いた)
惜しむらくは(その一方で、水平横並びに結婚式の参列者が登場するところの効果は抜群なので痛しかゆし)花の家に続く坂道を舞台最奥に存在することにしているので、坊主のチョーチョーサーン!という怒声があまりに奥床しく聴こえる点で、ここはたとえば新国立劇場の粟津演出のように舞台の前面のほうから豪快に怒鳴って登場するほうが良いように思う(というか、粟津演出を見慣れ過ぎているだけかも)。
衣装を担当している中国の人(子供は幕間に、色遣いが韓国風と評していたが、中国風だったらしい、牡丹とか)が意図を話しているのを聞くとそれはそれでおもしろかった。確かに全然和風ではないのだが、アメリカで最初に成功した中国人デザイナーとしてのアイデンティティと、西洋人が考える蝶々夫人の日本イメージ(ということは単なるオリエンタル洋式)をミックスした結果の作品なのだった(ご丁寧に、「日本人のジャーナリストから全然和風ではないと言われたけど、だってファンタジーじゃん」とまで説明していた)。
パルンボが退任とかで、ゲルブから記念品を授与されているところを幕間にやっていた(演じていたのか)が、蝶々夫人にちなんで(ピンカートンが興味を持つと蝶々夫人が中身と父親不在の理由を語ることになる)漆塗りの黒い箱を渡した。
まさか、将軍ゲルブ拝領の懐刀ではなかろうなと思わせて、祖先の二体(これもなんか和風ではなく、和風なら位牌あたりにするところだ)が出てきてちょっとおもしろい。
ピンカートンはロンディーネに引き続きテテルマンで、これまた良いピンカートン。花粉症からは完全に抜け出したようだ(花盛りの家の前でさらばを歌うのに)。というか、つばめのときは田舎から出てきた好青年に対してこちらでは現地妻大好きなクソ男と、全然違う役柄を全然違う人間として演じていて、この人も良い役者だった。
先日、眼鏡をかけていて、なぜおれはコンタクトレンズを使うようになったのか? と疑問になった。
全視野がまともに見えるというメリットは大きいが、そもそも眼鏡を使っていたのだから、最初からそれを希望したわけはないだろう(むしろコンタクトにして、おお世の中はなんと広いのかと感動を覚えた記憶があるから、それは先ではない)。とすれば、何かトリガーがあったはずだがそれが思い出せない。
と考えていたわけだが、結論は出ない。どうも高校3年あたりだなという記憶が出てきたが、それにしても謎だ。
ということとは別に妻に誘われてアマプラで十二人の怒れる男を観た。なんか、名前は知っていたが観たことなかったから観たら、なるほど語り継がれているだけあって名作ですな、と言う。おれも観たことないということで観ることになったのだった。
おもしろい。シドニールメットって「社会派」というレッテルがついているのでひどくつまらなそうだと敬遠していたのだが、少なくともこの作品は無茶苦茶おもしろい。
密室で十二人のおっさん(女性がいないのは時代性なのか、それとも未だにそうなのか(さすがにそれはないだろうと願いたい)はわからん)が陪審員として招集されて青年の尊属殺人(アメリカも少なくとも1950年代は別格の殺人扱いらしいことは伺える)に有罪か無罪かを決めることになる。有罪なら即刻死刑だ。
基本、みんなさっさと帰りたいのだが、ヘンリーフォンダが疑問を口にする。どんどん疑問が大きくなってくる。一人二人と、単純に有罪と決するのは無茶だなと考えを変えていく。(最後まで有罪を主張するおっさんは、家族関係のもやもやを被疑者にぶつけているだけということがわかるので、おそらくこちらのドラマで観る人もいるだろう)
徹底的な合理主義者の眼鏡が、「合理的に説明できる」(ので、有罪と主張していた)に続けて「無罪だ」と言うところが実に良い(もっとも実際には犯人の可能性もあるので、ここでの「無罪」は疑わしくない、という意味なわけだが)。
その理由として眼鏡の跡が鼻の脇にあるという点が挙げられていて、冒頭の疑問に対する答えが出た。
夏になって、耳の付け根が眼鏡の重さに耐えられなくなって炎症を起こしたからだ。(そうそう鼻の脇に跡がついたもんだというのも思い出した)
少なくとも40年以上前、まともな矯正用の眼鏡はガラスレンズだった。近視用は度数が上がるとそれに連れて厚みを増す。最後のほうでかけていた眼鏡はフレームから前後1cm近く(は大げさとは思うが)はみ出していた。プラスチックは軽くできるがすぐ傷がつくしまったくお勧めしないと眼鏡屋に言われたのも覚えている。だからガラス一択だったわけだが、おそらくガラスの場合、屈折率を細かく変化させることは難しいのではないか?
遠近両用メガネのレンズは遠視用の場所は削り取られたように同じレンズの中に異なる円が作られていたのを見た覚えがある。
それから数十年たって、プラスチックで自由自在に屈折率を変えられるようになったのだろう。
眼鏡の一つは三種類(遠、普通、近)の多段レンズだが見た目そんな仕掛けがあるとはまったくわからんし、そもそも全然薄い。
ただでさえ軽いプラスチックで、屈折率をある程度自由に設定できるのであれば、耳の付け根に炎症を起こさせたり、鼻の脇に跡がついたり(十二人の怒れる男)するような重いレンズである必要がない。
世の中良くなるものだなぁと眼鏡を見ながら思うのだった。
サントリーホールへ、メトオーケストラ+ヤニク・ネゼセガンとガランチャとヴァンホーンの青髭公の城を観に行くという気持ちだったが(なんといってもバルトークとガランチャが好きだしセガンも好きなのだった)、実際に観ると第一部のオランダ人序曲とペレアスとメリザンド組曲(ラインスドルフ版)も圧倒的で、楽しめた。
あまりに青髭公の城に気を取られていたせいで(そもそもどれだけ好きかと言えば、ショルティのLDから、ブーレーズの新旧2枚、ヤーノシュ・フェレンチク版(LPからCDに切り替わった当初、ブーレーズ版がCD化されていなかったので買ったのだが、意外と良いもの)と手元に残っているのだけで4種類はある(ケルテス盤もあったようなそもそも無かったような)くらいだ。
が、よくよく聴いていれば、19世紀末から20世紀初めのオペラのオーケストレーション技法という側面からの一貫性を持たせたプログラムだったのだな。
というよりも、まずオーケストラの音のバランスに驚いた。
上手前列のほうにいたので第2バイオリン(驚いたことに第1と第2を向い合せる配置だったのだが、メトってそうなのか、それともこの楽曲構成だからこうしたのかわからん)の音しか聴こえないのではないかと思ったら、とんでもなくバランスが良い(もちろんホールの良さというのも大きいだろう)。
とにかくオランダ人のタンタタタタターンが繰り返されていきなりドーンと来るところの迫力でガツンとやられた。
セガンはめりはりの付け方が抜群だが、振りが(指揮棒を持っているのだが)音を引き出すのがうまいのだろう。千年王国冒頭のファウスト博士が大地の精霊を呼び出すところみたいだ(ファウスト博士のビジュアルは小澤征爾みたいだが、関係なかった)。
セガンはどんな服を着て来るのかと思ったら、ラメでキラキラして歩くと靴底が赤いのが印象的な靴が目立つが、全体には黒い詰襟っぽいおとなしい服だった。
聴いていると時々頭が揃っていなかったりもするのだが、とにかく迫力ある音作りというのだろう。それでいて木管がきれいなので雑な印象は全然ない。ペレアスとメリザンドの玄妙さとか、こんな良い曲だったのかと再発見の喜びもある。(長さ的には、オランダ人と組曲ではなくアッシャー家の崩壊というプログラムもありだろう)
ドビュッシーは実に良いなぁ(思い出したが、最初にクラシック音楽を真剣に聴いたのは、ドビュッシーの海で、あまりにおもしろかったのでクラシック音楽を聴くようになったのだった)。
青髭公の城は最初の語り(場内アナウンスを利用しているのかな?)からまじめにある。
第5の扉が開き、広大な領地が立ち現れるところ(オーケストラが実に荘重に轟く)でのガランチャのアーアーは凄かった。それにしてもこれだけのためにパイプオルガンを響かせたのかなぁ。というよりも、ホールにパイプオルガンがあるから青髭公の城を選んだのかもしれない。
城の溜息が実に大きな音で鳴るのだが、どういう楽器を使っているのか(基本、第2バイオリンと上手側だったのでガランチャと辛うじてビオラと後ろのキーボードしか見えない(キーボード奏者が見えないのはちょっと不思議)。幕間に見たハープが赤かったり、妙な管楽器が赤いのが気になった。セガンの靴底といい、赤に何か意味を持たせているのだろうか。(オーケストラを見ていて気付いたが、驚くほどビオラを使う(逆にバイオリンを使わない)曲なのだな)
それにしても物凄いものを観られた。
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