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仕事コードで、やたらと以下のようなundefinedなコードを見つけて気持ち悪くなる。
x.a = undefined;
undefinedなんてのは未初期化変数や存在しないプロパティにシステムが設定する値で、明示的に書くなよばかもの、と直した。
x.a = null;
そうしたら例外が出まくる。なんじゃこれ?
しょうがないのでスタックトレースを見て調べる。
catch (e) { console.log(e.stack); // Chromeはstackで採れるけど、取れない実装もあったような。 }
すると、次のところで引っかかっていてうんざりした。
if (typeof(x.a) === 'object') { var valueOfA = x.a.value; ...
なぜ、そこでifに書いた条件がおかしいと気付かない?
if (x.a) { var valueOfA = x.a.value;
と修正しておしまい。
恒例のWEB+DB PRESS総集編だが(記事書いたことがあるから頂けるのだが、実にありがたいことだ)、今回からGihyo Digital Publishingのマイページに届くようになっていて、WEB+DBがWEB+DBになったなぁと感じたりする。
内容は、本誌に相当するPDF(主な内容は目次と後述)と3.8G近くあるDVDで、いつDVDの4.2Gに到達するかがある意味楽しみな状況だが、それより前にDVD-ROMの次のストレージが来るのだろうか? そんなものは無くてオンラインストレージが当然になってしまうのだろうか、とは言えオフラインで読めるというのも重要な気はするし(閉鎖環境での開発ってのはあるからね)、でも閉鎖環境での人間による開発というのが無くなってしまえば(たとえば、閉鎖環境で開発可能な程度のプログラムはボットに任せられるとか)それで良い気もするし、先のことはわからないからおもしろい。
で、本体(DVDが本体か冊子が本体かは微妙ではあるけれど)の特別書下ろし「Web技術の過去と現在、そしてこれから」がコンパクトでおもしろい。
おもしろいのは、何がついに語られなくなったか、というところだ。
たとえばフロントエンド技術だと、HTML、JavaScript、Ajax、jQuery、Backbone.js(再来年には語られなくなるだろう)...となっていて、もうColdFusionは当然としてFlexすら出て来ない。Curlも出て来ない。CSSとJavaScriptフレームワークでいっぱいなのだ。良い時代だ。
貧弱な実環境+高邁な理想の標準 → 非実用的
貧弱な実環境+賢い実装(非標準)→ 実用的
となるところまでは良いのだが、ここで賢い実装が賢ければ賢いほど自分で自分のクビを絞める。というのは、バックに高邁な理想が隠れていることが見えるからだ。
しかも賢い実装のために、みんなが使いデファクトスタンダード化する。すると、何が変化するか?
快適な実環境+賢い実装(事実標準)→ 過度に実用的
そこでふと皆気付く。今の実環境であれば、あの高邁な理想が実現できるのではなかろうか? そしてそれが達成されていることに気付く。
快適な実環境+高邁な理想の標準 → 実用的
そのころには、賢い実装もそこら中に経年劣化が目立ってくる。そして、非標準な事実標準から真の標準へのシフトが起きる。
とはいっても、OODBは高邁な理想のような気がするが、そうではなく単なる徒花だったようだ。それにしてもRDBは強いなぁ。シンプルで強力なモデルが下にあるといくらでも長生きできるということなのだろうか。
WEB+DB PRESS総集編[Vol.1~84] (WEB+DB PRESS plus)(WEB+DB PRESS編集部)
レガシーが残っているということは良いことでもある。が、そのレガシーをレガシーと正しく認識できなければただの生ごみ発酵中だ。
というわけで、Vol.1のJSPやiモード用Webサイト構築術とか読みながら、Webの約14年間を振り返って、そうか、今のWEB+DB PRESSはまさに中二病真っ盛りなのかと感じ入るのであった。
感動した。
なんかずいぶん(30年ぶりくらいか?)久しぶりに、千葉から湾岸Bを通って戻って来て、手前から箱崎方面へ行かずにそのまま横浜方向へ進んでレインボーブリッジのほうから東京へ入ったのだった。で、ぐいんと右へカーブして昇りきったら、そここそ東京だった。なんて美しいんだ。
こんなにきれいだったかな? とあまりの光景に心底驚いた。
全面が東京だ。パースペクティブキッドの血が沸騰するかと思った。
素晴らしい。
今になって考えてみると、鈴木は自分のヴァルハラとして臨海副都心を計画してレインボーブリッジと名付けたのかも知れないが、しょせんヴォータンほどの大物ではなくせいぜいがフローが良いところだったのだろう。決定的に間違っていたのは、鈴木が作るまでもなく、東京こそがヴァルハラだったのだ。なので、湾岸Bから神々は入城するのだ。
久々にJavaでHTTPクライアントを書いて、そういえば1.4.2の頃はコネクションタイムアウトすら設定できなかったからSocketを使ったなぁとか思い出しながらJDKのドキュメントを眺めているとURLConnectionが随分とまともになっているようで感心しがてら使うことにした。
が、好事魔多し。ついtry with resourcesが使えるので次のように書いて失敗した。
urlconn.setDoOutput(true); urlconn.connect(); String response = null; try (OutputStream os = urlconn.getOutputStream(); InputStream is = urlconn.getInputStream(); ByteArrayOutputStream bao = new ByteArrayOutputStream()) { os.write(outputData.getBytes("UTF-8")); os.flush(); byte[] buff = new byte[4096]; for (;;) { int len = is.read(buff); if (len < 0) break; if (len > 0) bao.write(buff, 0, len); } response = bao.toString("UTF-8"); } ...
とても不思議だった(が、わかればそれはそうかも知れないとは思うが、ろくなAPIとも思えない)。
あと、こういう処理を考えると、"UTF-8"と文字列でCharsetを指定するよりも、Charsetのインスタンスをあらかじめ用意して使いまわしたいのだが、ByteArrayOutputStreamのtoStringがStringを引数に受けるものしか用意していないのが中途半端に感じた。
public class Foo { public final String bar; ... }
つまり、finalフィールドとすることで読み込み専用のフィールドとして外部に使わせたい(ついでに誤った更新をコンパイル時に弾く)ということだ。
で、コンストラクタを書く。
public Foo(Object o) { try { bar = o.getClass().getMethod("getBar", null).invoke(o, null); } catch (Exception e) { throw new IllegalArgumentException("wrong argument, should has getBar:" + o); } }
するとコンパイラが、barを初期化しないパスがあると文句を垂れる。初期化していないというのはデタラメ千万で、仕様によりフィールドの初期値はnullと決まっている。仕様を無視して文句を垂れるのだから最近のコンパイラのお節介っぷりにはびっくりだ(追記:ふと気づいて仕様を眺めたらfinal fieldについては must be definitely assigned at the end of every constructor of the class in which it is declaredなのでおれが無知だった)。
実際にはcatch (Exception e)ではなくずらずらリフレクション関係の例外を複数の節に書いているので、ExceptionとかThrowableでcatchしてthrowすればそのパスはあり得なくなるから、文句は垂れられなかったのかも。
が、コンパイラ用のスィッチとか調べるのが面倒なのでしょうがないので明示的に設定してやった。
public Foo(Object o) { bar = null; // for shutting up the stupid compiler try { bar = o.getClass().getMethod("getBar", null).invoke(o, null); } catch (Exception e) { throw new IllegalArgumentException("wrong argument, should has getBar:" + o); } }
すると今度は、重複した初期化というコンパイルエラーとなった。まあそれはそれほど悪いエラーではないが、デフォルト警告で十分だろう(あくまでもスィッチを調べる気にはならないのだが、本当にあるのかなぁ)。
まともにつきあうのがいやになったので、finalを削除しておしまい。
追記:
仕様通りの動作であるならば、記述方法を変えるしかない。というわけで、次のように書くのが正解なのだろう。
ctr() { String localFoo = null; try { } catch () { } foo = localFoo; // コンストラクタの最後にローカル変数を利用して初期設定。 }
全体としてはあまり気に入っていない。最初の瞬間はいつも、使わないスタートが出てきて泣いた夜だが、実際にアプリケーションを選択して起動するときは、Windows8(8.1)のばかでかいメニューは素晴らしく使いやすかったからだ。10のは小さすぎるし、既定で入っている無用なカテゴリに対するカテゴリーキラーを見つけられなくてうんざりだし、とにかく今のディスプレイに対してせこまし過ぎて使い辛いったらありはしない。どこのホークアイがスタートメニュー復活とか懐古趣味な復活の呪文を唱えているのだろう?
でも、唯一気に入った点があって、それは待ち受け画面に出てくる写真が素晴らしくみょうちくりんなことだ。
むじゃむじゃな木の中の道だのわけがわからないぶにょんぶにょんな風景だの奇天烈にがつんがつんした岩ごろごろだのが使おうとするたびに出てきてそのたびに度肝を抜かれる。世界は広く人生は短い、こういう風景を見られるのは実に楽しい。
そこだけだ。
【旧商品】Microsoft Windows 10 Home (32bit/64bit 日本語版 USBフラッシュドライブ)(-)
アマゾンを眺めていたら、唐突にお勧めに萩尾望都が出てきた。それで思い出して佐藤史生を調べたら(フラワーコミックなんかで結構手元にあるのだが、ワン・ゼロはどこかに失くしてしまったとかいろいろあってkindle本になっていたら買い直しても良いなぁと思ったのだ)、復刊ドットコムで出まくっているのを知った。物理的な本は場所を食うから嫌だなぁと思いながらつい手を出した中に、金星樹があって、これは持っていたような記憶があるのだが本棚に見つからなかったので注文したのだが、実際には完全なまでに初見だった。
激しくおもしろかった。し、衝撃を受けた。
冒頭に収録されている『星の丘より』だ。
画が拙いなぁと思ったが、しかし物語のうまさに当然デビューした後に夢みる惑星の前日(といっても数千年以上前)譚として書いたのかと思ったら、筆者後書きを読むとデビュー用の持ち込み原稿だというのだ。いきなりこんな作品を書いてしまうってどういうことなのだろう? (SFではデビューさせられないということで実際のデビュー作は別の作品らしい)
テレパシーを持つのが普通の人間という世界が滅びかけている。生まれてくる子供たちのミュータント率が上がっているのだ。ミュータントはテレパシーを持たず、孤独な世界で泣きながら生まれてくる。王家の待望の皇子もミュータントだった。そのため、ミュータントの村に送り込まれる。そこではテレパシー能力を持たない人々がその代りに科学という体系を作ることで生存方法を見つけて暮らしている。彼らは水に溢れた第3惑星への移住を考えている。
1977年に発表されたということは書いたのは1976年あたりかも知れない。重要なのは、ここで書かれたミュータント達が独特なセグメントにあることだと思う。
青い犬という奇妙な味の作品について後書きにはデビューして3年目の作品とあるけど、3作目の書き間違いとしか考えられないが、どうしてそういう書き間違い(誤変換とかできる時代ではない)をしたのかが不思議だ。
一角獣の森でという作品が当時の少女漫画の表現的な限界をいろいろ考えさせてくれるのがちょっとおもしろかった(作品はなかなか奇妙な味わいがあってそれはそれで少女漫画らしいのだけど)。
それにしても、レギオンというルシフェルが神々に戦いを挑む作品についての解説が楽しすぎる。宗教団体のパンフレットをつい買ってしまって読んだところ、神の千年王国の退屈さにゾッとして作品になったというようなことが書いてあるけど、それでルシフェルが実に楽しそうに反逆しまくるわけか、と納得してしまった。本当に楽しそうなのだ。(それは青い犬もそうだし、一角獣の森のミュータントもそうだ。佐藤史生の作品は、そういえばどれだけ悲惨な感じの物語でも、主人公たちは実に楽しそうだなと気付いた。自分の立ち位置の悲惨さを客観的に楽しんでいる登場人物を作家として客観的に作品として定着させていくという構造が、読者のこちらにとって客観的に見えるところがこの作家の実に良い点なのだろう)
あらためて才能の大きさに舌を巻きまくった。
アスキーというかドワンゴの鈴木さんからThe Art of Computer Programmingの2分冊目を結構前にいただいたのは良いが内容が内容だけにずっと玄関に放っておいて先日やっと重い腰を上げて開けた。
というわけで買うべき本ではあるのだが、せっかくもらったのに大喜びで封を切って読みはじめたわけでもない僕がいきなり買えというのは道理が通らない。
もちろん、このシリーズを買うことは技術書の未来への投資という大事な側面があるから、そういう志がある人は黙っていても買うだろう。
でも、そうでない人にとって、本書の購入価値についての検討材料は書くべきだと思う。
この巻は副題がSeminumerical Algorithms(日本語版だと帯みたいに見える表紙の緑の部分に「準数値演算」と書いてある)で、原書3版に相当する。
ドワンゴ再版シリーズなので、以前アスキーから出た時と同内容だが、出版後見つかったタイポ、誤植、誤訳などは修正されている(多分、鈴木さんの手元には読者から送られてきた膨大なバグ情報というかプルリクエストがあるのだろう。というか間違いなくあり、それらがパッチされているということだ)。したがって、以前購入した人は買い直す価値はある。
さて、僕が本書の封を切るまでの腰が重かったのは本が厚いってのもないわけではないが、内容が内容だからだ。
本書は2つの章からなっている(数表とか演習問題の解答(これだけで185ページもある)もある)。最初が第3章「乱数」、次が第4章「算術演算」だ。
ただ、以前眺めてそのまま書棚に返したときと違って、今、あらためて読んでみると純粋におもしろい。
以前本書をスルーしたのは、役に立たないと考えたからだ。
まず乱数ならば、rand()を呼べば良い。
基数変換は%dとか%xとか%oとかしてやれば良い。
算術演算にいたっては考える必要すらない(とは言え、1990年代には32ビット整数を16ビット整数で割るために256進法の関数を作る必要が出て来たことがあったけど)。
その状況は今ではむしろ大きくなっている。多項式の演算であればOctaveでもなんでも使えば済むし、64ビットの算術演算がネイティブで実行できるし、規格化された倍精度浮動小数点数演算は何も考えなくても使える。
したがって、おそらく純粋に本書が必要でしょうがない人がいるとしたら、きわめて低レベルなところでOSやコンパイラを作ろうとしている人くらいではなかろうか。
そもそも序に
「より高水準の」数値解析に携わる人々から見れば、この巻で扱う内容は、システムプログラマの領域である。「より高水準の」システムプログラミングに携わる人々から見れば、この巻で扱う内容は、数値解析学者の領域になる。
とある。その他の人びとにとっては、つまり単なる漬物石か? 多分そうだ。
でもそればかりでもない。演習問題についての注意にあるが
演習問題は本書の重要な構成要素になっている。教育効果が上がるように演習問題には工夫を凝らしてあり、ためになるばかりではなく、おもしろい問題を選ぶようにしている。
そして200ページ近い渾身の解答が用意されている。
ようするにこういうことだ。
ゴルトベルク変奏曲は聴くのも弾くのも楽しい。
本書の適当なページを開き、本文を読み演習問題を考えてみる。M2xくらい(Mnxという形式で問題のレベルが示されている)の問題を解いてみる。もしかすると寝る前に考え続けてみるくらいかも知れない。M3xに挑戦してみたりしてみる。
そうやって末永く楽しめるのは間違いない。
The Art of Computer Programming Volume 2 Seminumerical Algorithms Third Edition 日本語版(Donald E.Knuth)
題名から衒学的でちょっと恥ずかしいっぽいし、SFでもないので出た当時は完全にスルーしていたのだが、金星樹と一緒に買ってみて(どちらかというと目当てはワン・ゼロの習作らしい夢喰いだったのだが)、読んで完全にノックアウトされた。
大傑作だった。もしかすると佐藤史生の作品の最高峰かも知れない。
雨男、死せる王女のための孔雀舞、さらばマドンナの微笑、我はその名も知らざりきの4連作だ。
雨男は相当辛い性格の女子高生(最初は書き方もあって中性的なのでなんだかよくわからない)が荒れ果てた庭をスケッチしているところに青年がやって来て、二人の過去が浮かび上がってくるという微妙な心理を描く妙な作品。かっては天才少女だったが、それを封印したおかげで普通の子供として振る舞えるようになり、でもその代わりに才能は失くしてしまったというそこだけはわかりやすい設定。
それが一転次の死せる王女のための孔雀舞で従妹がイギリスからやって来て心理ホラーとなる。次々と判明する新事実。とはいえ収拾が付いて、1作目で過去との折り合いがつき、2作目で家族との折り合いがつく。
で、3作目を読むといきなり雰囲気が変わり、ここから別の物語になるのだなと思う間もなく同じ女子高生が出てきて、おや連作の3作目かと驚く間もなく孤独な魂が共鳴する女子高生同士の友情の話になるのかと思いきや、もっとどろどろした話に入り込んでいく。
そして4作目となり(今度は最初から続きとわかる)、大学進学を前に雨男との関係が曖昧なまま、家族の友人の私塾を営む助教授が出てくることでまた新たな世界が見えて人間関係の見直しがやってくる。ついに主人公の恋の話になる。しかしそれは当然のように感じるそのままではない。分析して理解して許容して解放される。そして比較的幸福な未来が見えかけるところで終わる。
幸福になってもらいたいなぁ。
1981年から1982年に今は亡きグレープフルーツという雑誌に発表された作品。
つまり、あの1980年代はこの作品によって始まったということだ。
死せる王女のための孔雀舞 <佐藤史生コレクション>(佐藤史生)
当時は読まなかったが、今読んでも十分に間に合った。
一方、元々の目当てだった夢喰いは、本人の習作というよりも、読者が着いてこられるかの観測気球なのかな程度の作品だった。
それにしても、雨男(これでは単行本の題にはならないので、どこまで最初は本気で連作を作る気だったのか謎だが)の連作は素晴らしかった。
Ravel: L'œuvre pour piano(Théodore Paraskivesco, Jacques Rouvier)
東京駅の方面に出かける用事があったので、ちょっと早めに会社を出て三菱一号館というとこにある美術館で河鍋暁斎の展覧会を観た。
丸の内側に結構なポスターが貼ってあって興味を惹かれていたからだ。
あのあたりは三菱がやたらとあるので地下道にある地図を見て、丸ビルを過ぎ、キッテを過ぎ、東京フォーラムのほうへ進んで、右手の12番からどこかのビルに入って、そして着いた。
エレベータを降りるなり係員に美術館へ行くなら傘を始末しろといきなり言われて右手を指さされて、見ると出口を出た中庭のようなところに傘立てがあるので、そちらで傘を置いてきたが、ちょっと面食らった。全体に通路が狭いのでなんか余裕があらゆる面で無さそうな妙なところに来たものだと感じる。
で、チケットを買ってエレベータで上へ上って下りると、河鍋暁斎とコンドルの二人展とか書いてあってますます面食らう。コンドル? ポスターにはどこにもそんなこた書いてなかったような。
で、いきなり二人のなれそめやら、上野のお山にコンドルが建てた藝大(違うかも)とか、暁斎が書いた上野の山の地図やらを見る。まだ西郷さんの銅像はなく、東照宮が異様にデフォルメされていて、さらに下に大仏があり(今は無いような、それとも隠してあるのか)清水院があって、面影はなくはない。楽しい。
で、百圓の枯木寒鴉之図を見る。
おお、すげぇ。なるほど、これが「これまでの修行の対価」と嘯いたというやつか、それだけのことはある、と感じ入る。鴉の脚から乗る枝の美しさが素晴らしい。
で、次にコンドルの部屋になり、鹿鳴館の階段とかいろいろあって、結構おもしろい。それでいきなり、そうかこの建物はコンドルの作品だな、と気付く(確認したら合ってた)。おもしろい趣向だ。
で、暁斎の弟子となって英斎と名乗って描いた作品がいくつかあるのだが、一目瞭然までに彼我の違いが明らかで、驚く。
良く線に迷いがないという形容を見かけるが、暁斎の画には線に迷いがないということなのか、と言葉の意味が二人の作品の違いでくっきりと浮かび上がる。
特に比較できるようにしたのか、英斎が暁斎の作品を模写した鯉魚のオリジナル(5匹)と模写(2匹)があり、2匹にするために小魚を配してあり、そこで英斎の構図は悪くないのだが、何が違うというと線が違う。
これが画才というものかと考えながら先を見る。
すると、暁斎の膨大な下絵やら絵日記やら日光スケッチ集(華厳の滝が何個も)が出てきて、さらに説明文として、毎朝、道真や観音を書いて筆先が鈍らないようにしていたとか書いてある。まるで毎朝起きると平均律を通して弾くのを日課としたというバックハウス(だったかケンプだったか)みたいだなと思いながらも、なるほど、それが修行の成果という嘯きであり、迷いの無い線の実態なのであるなとますます感じ入る。
つまるところ書いている量が半端ではない。英斎と暁斎の違いは画才ではなく量の問題なのだと先の考えの間違いを知る(英斎も構図は良いのだ)。
大山倍達の好きな言葉に、「きみぃ、素手で牛を殺すのなんて簡単なことなんだよ。毎日正拳突き100回を10年間やれば良いだけのことなんだ」というのがあるが、まさにそういうことであるなぁ。
コンドルが出てくるのはそこまでで、後は暁斎がたくさん。
絵日記がおもしろいのは(これまた毎日書いていたとのことだ)、途中から頻出する人物については判子を作って押していたという説明で、実際に「ワスレタ町のクアントールさん(というような表記になっているコンドルのこと)」という判子が押してあるページが2つか3つ展示されているのだが、妙にユーモラスであり、明治時代の英語の発音表記もおもしろく、何よりも、毎日絵日記を書き道真やら観音やらを書く修行とは別に、判子で済ませる合理性にしびれまくる。こういう人は大好きだ。
でっかな顔の猫が田圃からにょっきり顔を出して、畦道を行く旅人が二人腰を抜かしている画が、絵ハガキ大の作品なのにはちょっと驚いた(もっとでっかな画だと思っていたからで、ちょっとカントールの群集画の実物を観たときのような驚き)。
幕府と長州の戦争を蛙に見立てた画のおもしろさ。最後のほうに出てくる江戸期に描いた作品には狂の字が多く、狂斎の号も確認できた(なので暁斎と書いてキョウサイと読むらしいが、暁はギョウだけどな)。
姑獲鳥(うぶめ)、多分、尾上というような字が書いてあるから歌舞伎画だと思うのだが、これが凄惨なスピード感(velocityとはこういうことか?)と迫力があり、生首を咥えた狼の生首の異様な色遣い、贋作というか他人の名前を騙って描いている付喪神達。
顔が女陰の鬼が棲む大江山(じゃないような気もしてきたが、どこかの山に修験者の格好をした雷光一行じゃないかなぁ、よくわからない絵巻物)の春画が、あまりに奇妙でなんじゃこれ? と何度見てもなんだかわからない。
春画と言えば、12月それぞれを描いた絵ハガキみたいなのがあって、そのうち1枚、でっかな何かの中に入って男の顔だけ出ているのがやたらと印象的なのだが、観たそのときはそれが何月でそれは入っているものが何だからとわかったのに、今思い出そうとしても出て来ないのがおもしろい。
その12月のを見ていて、なるほどわらい絵とはこういうことかと思わず笑いそうになる。やっと心から納得したが、あまりにもすべてにおいて極端なので一笑を誘うということなのか。
と、朝から晩まであらゆる画を書きまくっていた(いきなり当日200枚書いたというような説明文もあった)おかげで融通無碍の境地に至った職人というか技術者のことを、画師と呼ぶのだなと考えた。
良いものを見た。
(この画の実物が意外と小さい)
天保六花撰とは、江戸は天保年間、幕府お抱えの御数寄屋坊主、河内山宗俊、直参旗本の片岡直次郎、日本橋の物産問屋、その実体は海賊稼業の森田屋清蔵、醤油問屋の跡取り息子が勘当されて流山の博徒の親分になったが良いは兇状持ちとなり江戸で道場を開いている金子市之丞、その弟分で包丁握らせれば立派な板前だが何の因果か博徒をやっている闇(くらやみ)の丑松(一人だけ名前がチンピラぽいが、人間的にはとっても良い奴)、花魁三千歳の6人
天保時代はなかなか物語的には興味深くて、千葉のほうには天保水滸伝があるし、お江戸には天保六花撰がある。世に相容れなくなった悪党がうろちょろしだすとだいたい国家が傾く道理で明治維新まであと30年程度の頃だ(もちろん、逆でそういう世相を背景とした物語を後付けで作ったということになる)。
しかも家の近くのお寺の門前に河内山宗俊の墓があると書いた石柱が立っていたり(ただし本名の宗春表記。近年、その石柱は撤去されてしまった)、永井豪の作品に直侍(多分あばしり一家)だの闇の丑五郎(目明しポリ吉)だのが出てくるので、天保六花撰にはもともとなんとなくだが馴染みがある(永井豪の作品には講談から名前を取った人物がたくさん出てきておもしろい。デビルマンの平手美樹は天保水滸伝の平手造酒が元ネタだろうし、早乙女門土は当然旗本退屈男の早乙女主水之介だ)。
とはいえ相当以前に藤沢周平の天保悪党伝を読んだがそれほどおもしろかったわけではない。
どうも違うような気がしたのは、天保年間を舞台にしたにしては、どうにもこうにも悪党になるという感じではなく、最初から悪党っぽいからだ(水滸伝に出てくる(北宋政府からみた)悪党たちは、大体がちょっとした罠に引っかかって道を外れてしまう仕組みで、当然、そういうステレオタイプだろうと思うのにそうでもない)。
で、なんとなくもやもやしていたが、ふと見るとKindleで講談を書籍化したやつが出ていたから買って読んだ。おもしろかった。講談調(でもないけど)にのって、ぽんぽんぽんとあっと言う間に読み終わったが、実に気持ち良かった。出版は1976年、「恋のチェンジ・オブ・ベース」みたいな章題があるくらいだから、その時点の講談語りを書籍のかたちにしたものだろう。
河内山宗俊は秀才少年で、学があり智がある設定だ。本人曰く
人間はのう、知恵と、学問と福徳、この三つがそなわらなくてはいかぬ。それに度胸だな、知恵があっても学問がねえと、その知恵をいかすことができねえ、よし、また学問があっても知恵がねえと、それを働かせることができねえ、そんなのは生きた本箱、生きた字引きで、生涯人に重宝がられるだけでおしめえだ。ところが知恵があり、学問があっても、福という一点に欠けると、貧すれば鈍すといってな、貧は諸道のさまたげとなる。この宗俊も学問もあり、知恵もあるけれども福に欠けているから、算盤とくびっぴきの質屋の番頭にあめえ世辞もいわなくちゃあならねえのさ。
もともと、品行方正だったのだが、ふとしたはずみから、片岡直次郎と義兄弟の契りを結んだのが身の破滅、あっという間に遊興を覚えて身上潰してゴロツキとなった。とは言え、生来の知恵と学問と度胸のおかげで、フィクサーとして江戸の顔となる。揉め事があるとうまく金で解決させて上がりを取るのだから、まさにフィクサーだ。そもそも、無心のために出かけた埼玉は深谷で雲助から聞いた話だけから推理して殺人事件を解決して犯人と被害者双方から金をせしめたところが悪党稼業の出発点だ。
一方の片岡直次郎は、顔は抜群に良いが、頭は今一歩、度胸もいまいち、腕も立たない、これはどうにもダメ人間で、登場時は良いところがあるのだが(それで河内山宗俊と義兄弟となる)、あれよあれよと落ちぶれていき、ついには宗俊に愛想を尽かされて絶縁されてしまう。
この時、便宜をはかったのが森田屋清蔵。宗俊とぴぴんと来るものがあったか、巨悪同士で惹かれあい、まずは森田屋が自己紹介、ついには宗俊をして
さても徳川の天下ももう末だ、今が天下泰平の頂上、これからさきは乱れるばかり、始まりあれば終わりあり、八百八町の大江戸、しかもその真ん中の日本橋、室町三丁目の物産問屋、男所帯の立派な商人、それが海賊の張本であるということが、上役人の目に届かねえようじゃあ、もう政治は乱れている。が、森田屋、心配はねえ、世の中を反れて渡っている河内山、盗っ人と知ってつきあおう。
と肝胆照らす仲と相成る。
一方、その直次郎に惚れたのが花魁の三千歳だが、これまたダメな人間で苦労を知らないのでろくなことはしない。
それでも直侍のあまりの不甲斐なさに愛想も尽きる。
その三千歳が直次郎に愛想を尽かした後に入れあげたのが剣客金子市之丞。
若気の至りで落魄した家を助けてくれた恩人の情けを踏みにじってしまったために母親に勘当されてそのまま博徒になったものだが、もとは良家のお坊ちゃん、性格も良ければ愛想も良い、趣味も良くて頭も良いうえに、親孝行。みるみる頭角をあらわして流山でも一二を争う大親分になった。しかし八州同心の左腕を切って逃げたため、兇状持ちのおたずねものとなる。が、そこは切れ者、手紙を隠すには状差しで、木を隠すなら森の中、人間隠すにはお江戸が一番、かねて習った神道無念流の看板掲げて町道場を開くと剣客としてなかなかの威勢を誇る。それが無聊をかこって吉原通いを始めたものだから、すっかり三千歳もその気になった。
おもしろくないのは直次郎、夜討ちを仕掛けて失敗しているところに耳にした、市之丞の正体を知人の同心に垂れ込んだ。かくしてさしもの市之丞もこれまた破滅に向かってまっしぐら。
その弟分の暗闇の丑松は、腕の良い板前なのだが、なんとはなしに博打にはまってヤクザ者の道に入ってしまって、まあいろいろある。
いろいろあったが、惚れた女のお半との間に子もできた。悪党稼業からすっぱり足を洗って堅気になって暮らそうと、河内山に別れを告げてまじめに板前稼業に出る。しかし、なんの因果か女の義理の母親がこれまたとんでもない因業婆、良い金蔓を見つけたもので邪魔な娘の亭主をどかそうと、あわや闇討ち紛れに殺されそうになる。身にかかる火の粉は払わなければならないと、気付いた時は人殺し、騒ぎに巻き込まれて子供は死んで、愛しい女房を友人の同心に預けて姿をくらましたまでは良かったが、預け先の同心が悪心を抱いたために、女房は売られた挙句に自害して果てる。もはやここまで、渡る世間に未練はなしと、同心夫婦をたたっ斬って自首して小塚原の露となる。
森田屋も潮目が変わって掴まるが、なぜかきっかけとなる越後国村上の城主内藤家の雪子姫との結婚詐欺については、3行さらっと書いて終わりになる。
言葉遣いとリズムが良いのはやはり講談、日本語の世界、出版したのも講談社、これが美しい日本の文章で、読んでて実に小気味よい。あー、堪能しまくった。
Surface3は相当気に入っているのだが、ペンの付け方をえらく失敗して悔しくてしょうがない。
というわけで、後から後悔する人が少しでも減るように、知見を書く。
まず、Surface PENの梱包を開くと、ループ用シール(Surface PENの紙箱には「ペンループ」と記載されている)が出てくるが、どうすればうまくペンループをタイプカバーに貼れるかの説明が一見どこにもない。
ペンの説明書には「ペンをカバーに留める」という今一つ意味がないイラスト入りの説明があるのだが、ループ用シールの説明はどこにもないのだ。
で、シールを止めてある筒状の紙からシールを外しておもむろに貼り付けて見事に失敗した。
正解は、シールを丸めて止めている筒状の紙にあった。
その紙を読むとわかるが、裏返してタイプカバーの固くなった箇所に粘着部の端を当てて貼る必要がある。そこをつい、粘着部を確認しながら貼ろうと表向きにやると、端のマチの部分まで粘着部が来ることになる。すると、そこはすぐ剥がれるし、白い線が表からすぐ見えるようになってかっこも悪い。
とはいえ、それは大して重要ではない。
上の写真を見て欲しいのだが、これが最悪の選択だ。
でも、おそらく大抵の写真では同じようになっていると思う。なんとなくペン先が下を向いているほうがバランスが良く感じるからだ。
大間違いだ。
というのは、タイプパッドをキーボードとして使っている場合、上の写真の方法だと、傾きを付けると(Surface3の良い工夫)、ペンループの粘着部が浮く。ペンは重い。つまり少しずつ剥がれてくる。
それだけならばまだ良いが(というか、そのくらいの耐久性はある強力な接着剤なのだ。逆に言えば、一度貼ったら貼り直しはできない)、タブレットとして使う場合が大問題だ。
スタートメニューの位置からもカメラの位置からも、タイプパッドを折り曲げた箇所を下(横向きの場合)にして持つことになるだろう(つまりタブレット面はノートPCモードと同じ向き)。
そのとき、タイプパッドは逆向きになる。つまり、ペンにとっては先端が上、ペンループが下になる。まさに、負荷がペンループに一気にかかる。しかもペンの長い部分のほうが上にあるためにバランスが悪くてフラフラし、そのたびに粘着部に無用な負荷がかかる(というよりも、指を引っかけて思わず引きちぎりそうになる)。
つまり、ペンループは、全角/半角キーの横ではなく、Ctrlの下あたりの横につけるべきなのだ。
・あと、ペンの塗装は無茶苦茶に弱い。写真を良く見るとさっそく濃紺の塗装が中左あたりで剥げていることが確認できる。どうせ剥げるなら安いシルバーペンのほうが良いかも(とはいえ、それは気分の問題でもある)。
結論として、お絵かきするのでなければ、ペンは買わなくても良いのではないかなぁということだったり。
Surface 3 128GB MSSAA2 SIMフリー(-)
(軽いし、それなりに動くのでマシン自体は気に入っているんだよなぁ)
アマゾンアフィリエイトのリストを見ていたら、誰かがスピリットサークルというマンガの5巻を買っているのを見つけた。なんだそれ?
で考える。5巻まで出ているし(それなりに連載が続いているわけだし)、それを買っている人(しかも少なくともおれのところを踏んでいく人)がいるってことは、結構おもしろいんじゃなかろうか?
でも、アマゾンのページの書影を見るとなんかぱっとしない。
スピリットサークル 5巻 (ヤングキングコミックス)(水上悟志)
絵柄が子供っぽいしなぁ。サークルってサークル漫画かなぁとか考えると今一つな感じもする(なんか小学校とか中学校のオカルトサークルみたいな名前じゃん)。
と思ったが、食わず嫌いは損なのでtwitterとかで聞いてみたらkarinoさんやshachiさんが反応してくれて面白いと教えてくれた。彼らが面白いと言うなら面白いに相違ない。
手のひらの露 1 (星海社FICTIONS)(shachi)
(shachiさん、作家デビューおめでとうございます)
で、まとめ買いして読みはじめたが、こりゃすげぇや。全然知らない名前のマンガ家だったけど危うくこんなすごい作品を見逃すところだった。
というわけでおれのアフィリエイトを踏んで買ってくれた人には心から感謝する(難癖をつけるなら、おそらく次巻で完結なんだからそのときにしてくれれば良かったのに。早く続きを読みたいぜ)。
絵柄は少年マンガの王道路線で、舞台は普通の中学校、14歳の仲良し5人組(男3人女2人)のクラスに謎めいた転校生がやって来る。幽霊を連れて。
なんだこれ? と読み進めると、あれよあれよというまに輪廻転生の旅に主人公が巻き込まれて、アステカ風の王国やら中世ヨーロッパやら古代エジプトらしきところやらに飛び込んでいろいろな人生を体験する。
これがいちいちうまくて、適度にゆるいギャグ(スフィンクスのところはゆるいどころか大爆笑ものだけど)を交えながら泣かせる泣かせる、親子愛(これが大抵は親のパターンで、主人公の性別からか父と娘になるのが計算高いというかなんというかこちらの壺をぐいぐい押しまくる)あれば友情あり恋愛あり夫婦愛あり師弟愛あり孤独もあれば苦痛もあり短いようでも人生は長い、それをいちいちかっちりと描いて、むちゃくちゃに殺伐としたものを背景にするだけに感情をうまく揺さぶるのだ。
そのくせ絵柄と表現は少年マンガの枠組にぴたりと収めてあるのがうますぎる。少年マンガの14歳の男の子が主人公だから平然と泣きまくるから、思わず貰い泣きしやすいんだなこれが。
というわけで小中学生に読ませたい本ナンバー1みたいな内容であると同時に親の世代が読むべき作品みたいになっていて(泣きながらそういう分析もするのが読書スタイルなのでしょうがない)舌を巻きまくる。
表紙が5巻でいきなり黒になり、話もアップテンポになってそれまでの重厚な歴史路線からちょっと軽い挿話風の転生を挟み(読める伏字のセリフをHGウェルズ型とロズウェル型の宇宙人が延々と会話するところがあって、もしかしたらちゃんと読むべきかも知れないが面倒だからそこは飛ばしてしまった)いよいよ最後の大詰めの人生もクライマックスとなったところで、次巻へ続く。
えらく次が楽しみだ。
スピリットサークル (1) (ヤングキングコミックス)(水上悟志)
(読むなら1巻からでなければならない)
ジェズイットを見習え |
_ ruimo [「ExceptionとかThrowableでcatchしてthrowすればそのパスはあり得なくなるから、文句は垂れら..]