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あまりにも良かったので会社休んで新国立劇場。
今回は元帥夫人も文句なかったが、どうも1幕はやはりそれほどおもしろくない。
物語は見れば見るほど嫌いになる。不快な話をどれだけ音楽の美しさで感動的なものとしてごまかせるかという実験にホフマンスタールとシュトラウスが挑戦したのではないかという気分になる。
1幕。元帥夫人の寝室。ベッドに横たわる元帥夫人、脇に立つのはカンカンと愛称で呼ばれるオクタヴィアン(伯爵)。伯爵は17歳。元帥夫人の家にやって来るのは、貴族の戦争遺族の募金団(演出上は部屋を漁ったりろくでもない)、帽子屋、ペット屋、ゴシップ屋、政界の親分が寄越した歌手といった面々に田舎貴族で元帥夫人の親戚(これは本当なのだろう)の男爵。
少なくともフィガロの結婚の時点では、ロジーナはケルヴィーノを歯牙にもかけていない。ところがこちらは最初からフィガロ3部作の3作目に近い状態だ。
ということは、フィガロの結婚の最後で伯爵夫人が許すというのと(そもそも相手は伯爵その人だし)、元帥夫人が許す(というかもともと不義の相手だし)、意味がまったく異なる。
それが世紀末芸術として書き直されたフィガロの結婚だということであれば、まあそうなのだろうと納得するしかないが、どうもいちいち出てくる連中の不誠実さが気に障る。
ゾフィーは最初から単に自分が(血統的な)貴族の奥さんになることしか考えていない(それが妄想だということは、オックス男爵の言動で思い知るわけだ)し、オクタヴィアンはなんか偉そうなことを言いまくるが、ようは狭い世界でしか暮らしていなかったというだけのことだった。
(1幕、元帥夫人が加齢を嘆いているところに登場するや否や、僕を心配しているのですね! と言い出す想像力のなさや身勝手さは、不快でしかない)
ホフマンスタールはこれでもかこれでもかと貴族の品性の卑しさと、まったく釣り合いが取れている新興成金(ブルジョワジー)のこれまた卑しい名誉欲を上から下から裏から表からあげつらいにあげつらう。
おそらく唯一まともな人格の持ち主は、ウィーン撤退のときに逃げ損ねて従者となったムハンマドだけだろう(男爵には法を説いた警視総監ですら、元帥夫人には元の上司の奥さんということですべてを不問にして撤退するのだから、大したことはない)。
それをシュトラウスは、この人こんなに美しいメロディーを書けるのだな!と、もしエレクトラしか知らなければ愕然とするほどの美しい重唱で化粧していく。
その結果、世にも素晴らしい楽劇が生まれた。おそろしいことだ。
courseraのPrinciples of Reactive Programmingを履修(昨年も受けてみたのだが、時間切れとその他もろもろで不可だったので再挑戦)した。まだ修了書は出ていないが、クイズは満点が取れるまで再提出しまくったので(問題の読み間違いや、仕様の誤読とかで一回で満点というのはなかなかできなかった)、パスしただろう。
このコースはオダスキーと仲間たちの授業なので(つまりはローザンヌ校)、当然のように利用する言語はScalaだ。
で、クイズのプログラムを書いていて気付いたのだが、静的型付け言語(ここではScala)には、動的型付け言語よりも圧倒的に良い点が1つある。
それはタプルだ。タプルとMapとSetとVectorがあれば、極端に言えばオブジェクトは不要なくらいに型のおかげでタプルが使える。これは発見だった(プログラムが複雑になると、どうしてもデータ構造に頼る必要が出てくるのだが、そのときにふとタプルを使ってみたら、すさまじく使い心地が良くてちょっと感動したのだった)。
Reactive Design Patterns(Dr., Roland Kuhn)
(なんかコース受講生には割引価格で売っているのでつい買ってしまった(版元のアーリーアクセス)が、アマゾンの洋書の価格がものすごく高くなっていて驚いた)
なんかtwitterでマンガの2ページ分がやたらとRTされていて、その内容に誠を感じた(わけわからん表現だがそんな感じ)うえに絵柄が洗練されていて嫌いではないので興味を惹かれて読みたくなった。
ソシャゲ pic.twitter.com/UGYgs69rim
— ぬるま湯くめぽんぽん™ (@ponpon4774) May 22, 2015
で、それが何か訊いてみたら@yotii23がエロゲの太陽だと教えてくれたので早速買って読んだ。で、2巻(そのときは出ていなかったが予約したら先日配本された。電子書籍の良い点だなぁ)も今日読んだ。えらくおもしろい。
RTされている企画会議のページから推測したとおり、おれの分類上、職業紹介マンガ(古いところでは包丁人うんたらとか、大工のなんちゃらさんとか、鈴木みそマンガとか)で、もともと自分の知らない(でもそれなりのクリエイティビティがある)業界話は興味があるし、絵柄が好みのタイプならば、つまらないわけがない。もっともソシャゲマンガだと思っていたら題からしてエロゲだったのにはたまげたが。
で、題名通りエロゲ業界のマンガなわけだが、設定そのものがエロゲのコンテキストになっている(と思う)メタ化もきいているし、単純化の手法も悪くないので実に楽しめる(扱う業界はエロだが、内容と表現はむしろ子供でもOKな書き方なのが逆に興味深い)。
エロゲの太陽(1) (ビッグコミックス)(はまむらとしきり)
作者(原作のほう)は、巻末マンガやしょっちゅう出てくる説明文(白戸三平メソッドというか)によれば、まさにエロゲ制作会社を経営して倒産させたその業界の人らしい。倒産させたということは、いろいろ事情はあるだろうが、その業界での成功者ではなく(意外とその業界の成功者の描く業界描写というのはつまらないので、これは良いポイント)、後始末のあれこれを考えればいやな面も知っているわけで、物語上はきれいごとが並んでいても想像の余地もあるのもおもしろいところだ。
主人公は太陽という名前で(なんとストレートなタイトルなのだ)、頭が切れて(多分設定上は)イケメンかつ長身でしかも努力家というナイスガイな超人だが、前職でどえらくひどい目にあって、たまたまエロゲ業界に身を寄せることになったという設定(冒頭、あっという間にそこまで持っていく)。
で身を寄せることになったエロゲ制作会社が女性社員しかいない(しかも全員、性格やら態度やらになんらかの偏りがあるが、かわいい)。なんとひどい設定だ(ネガティブな評価ではない)。
物語は、順に社内の経営者、絵師、脚本作家、スクリプトライター、音屋(2巻の今はここ)に焦点を当てて、その周辺を取り巻く外部の人間(通常は敵)によって事件が発生して(というか、ソフトウェア開発である以上は、普通に進捗そのものが事件でもある)とゴタゴタがあってそれを太陽が持ち前の才覚で解決して男を上げるという仕組みになっている。(と、客観的に書くと実にくだらないが、でもここが仕掛けとしてうまいところである)
事件としては、業界(いや、それはエロゲに限らずアニメだろうが、そもそもソフトウェア開発そのものにもある)の黒っぽい体質問題やら、(これは知らなかったので興味深かった)企画-発注-開発-製造-販売までのチャネリングやら、あたりまえだがバグだの(絵もあり音もあるので、デバッグもこちらの世界とはずいぶんと違って興味津々)バグだのバグだのがあって、特にバグにはおもしろさ100倍増くらいに身につまされておもしろい。
で、ふと、主人公のまわりに大量に(性格と容姿が異なる)女性を配置するというエロゲ設定って、マンガの世界で最初にやったのは誰だろう? と疑問を持った。(1人や2人の間で揺れ動くというようなパターンはおいておくとして)
まあ、大人の世界なので、小説では昔からある。主人公のイケメン超人忍者の回りにくノ一やらお姫様やらを山ほどもってくれば山田風太郎だ。というか、紅楼夢には12人の美少女が出てくるし、源氏物語はもっと多い。実用目的なら明代の金瓶梅が確か6人くらい奥さんがいて、さらにいろいろ手を出したような(読んでないのでわからん)。
柳生忍法帖 上 山田風太郎忍法帖(9) (講談社文庫)(山田風太郎)
(柳生十兵衛は強いのだ)
すると、柳澤きみおの女だらけではないかと思い当った。まあ主人公含めて全員兄弟だが、それは当時の表現の上限のための歯止めを作っておくための設定だろう。6人兄弟の上5人が全員それぞれ個性が異なる女性だ。
それまで、1人(ドラエモンのしずかちゃんを想像すれば良い)か2人(明日のジョーの白木葉子と林紀子とか、普通はそんなものだ)だったのが、いきなりたくさん出て来た。
ラブコメというジャンルを作ったこともあわせて、柳澤きみおってえらく革新的な人だなぁと感心したのだった。
5人といえば、吾妻ひでおのふたりと5人というのもあったが、あれは容姿が同じというわけのわからない設定だった。
これは傑作だった。重層構造からはミステリー小説というよりは文学の位置に置いても良い(むしろそのほうが良さそうだ)。
にしても、主人公は夜の果ての旅とか読んでいて、それを見た刑事に高校生の本棚と言われるわけで、まだまだフランスでは文学を高校生が読むのだな。
145cmしかない一方の主人公の警部と仲間のお金持ちで趣味が良い刑事(中川が交番から警察署への勤務に変わったようなものだな)、貧乏で半分泥棒のような刑事、太っちょで大柄な上司、貴族階級らしい不快な検事というオフェンスに対してディフェンス側は、1部は誘拐と監禁の物語で、2部は殺人の物語となり、そこまで読んでまだ、3部が残っていることに気づき、しかもそれが30%くらいあるのに驚いて、読んで、最後、貧乏刑事には泣けた。
開くといきなり登場人物紹介に硫酸で殺されたという被害者がぞろぞろ書いてあるので(1部の前半にはほとんど関係ないこともあって)なんだろう? と思ったが、硫酸で殺すというのはいささか無理がありそうだ(アルカリならわかる)という点が、ファンタジー的で、そのため相当残虐な殺人描写が行われるのだが、それほど犯人に対して嫌悪感を持たずに読み進められる。もしかすると、そのような読者の登場人物に対する感情も作者は計算して構成しているのだろうか? と奥が深い症候群に囚われざるを得ないほどうまくできていた。
実際のところ、2部まで嫌悪感の対象は、1部では誘拐犯(見た目が怖いだけではなく実際のところ粗野だ)と検事(嫌な奴だ。主人公の背が低い刑事側の視点に立つことになるのでいちいち嫌味が不快さ120%クラスとなる)で、2部では検事(相変わらず嫌な奴で、嫌味にも磨きもかかり、しかも刑事側は成果を挙げていないのでますます不快になる)と貧乏刑事(せこすぎる)になる。この読者の登場人物に対する思いが十分に生じたところでの3部となる(実際問題、3部ではそれまでの嫌悪の対象となる検事はほとんど姿を出さない)。結局のところフランス文学お得意の心理小説の枠組みとしてミステリーのスタイルを使った作品として読めば多少の破綻があっても(いや、私的制裁よりも公的制裁が正しいのだから破綻はどこにも無いとも言えるのだが)問題ではない。
・法は法だという点と、冤罪はすなわち悪という信条があるので感心はしないのだが、すべての事象には理由があるのと、貧乏刑事の真情のおかげで読後感は良いものだった(いや、それはないなぁ。正義のほうが重要だという気分にされるからかも知れない)。
読む価値は確実にある作品だった。そう思うのだから、当然、読んで良かった。
6/20はとちぎRuby会議06なので那須に行った。四谷でogijunさんを拾って、後ろに猫廼舎の出張キットを積み込む。カウンターの上にやたらとおもしろそうな本があり手に取ると、昨夜はこの本を訳した方を始めとしたイベントがあって、この本の話題になったので家から持ってきたのだと教えられた。そんなおもしろそうなことをしていたとは。
オフ・ザ・マップ 世界から隔絶された場所(アラステア・ボネット)
割と早く着いたので、以前ごとけんさんに連れてってもらったSHOZOで昼飯を食べようと考えた(が、SHOZOという名前は完全に忘れ去っている)。
確か、左折すると公民館がある大通りをそのまま廃墟のお城(ラブホテルのように見えるが確か喫茶店)を過ぎて那須の町の中のほうに行くのだなと思い出しながら進むと行き過ぎて橋を渡ってしまった。どう見ても別荘地へ続く道で、道路脇の紫陽花が青くて美しい。Uターンできない雰囲気の片側1車線の延々と続く道だがどうにかこうにか、引き返して今度は右手に折れると少し早過ぎたが、そうは言っても規模が小さいので次のブロックに入るとそれっぽくなってきた。で、駐車場で完全に思い出して停めたのだが、なんか2年たって店舗が増殖しているうえに、似たような雰囲気の別の店も出来ている。こうやって町の色というものが決まるのだなと感じる。おれの印象だと広尾のFOB COOPやら、恵比寿の今は無きCOOPERATIONとかに似た色なのだ。それが寂れてしまった町を変えていくというのは面白いのだが、ノスタルジックなようでもあり、単なるカリカチュアのようでもあり、不可思議な感覚だ。
で、それはそれとして少し遅れてしまって会場に入ると、すでにmatzの基調講演が始まっていて、高校生でポケコンの500行24変数BASICしか持たなかったころの話をしていた。で、PASCAL入門を買ったが処理系がないので、机上でいろいろやっていて、授業で数学的帰納法を教わると、ああこれが再帰だな、シグマを教わると、forループきたーとか、そういう話だった。
原先生のは、確率と人間感覚の違いについて。悪いことが続くと何か特別なことがおきたような気になるが、少しも特別ではないということ。
ある日に悪いことがあれば0、良いことがあれば1とする。すると365日は以下の文字列として表現できる。(以下のコードはその場で示されたものではなく、今、適当に書いている)
days = 1.upto(365).inject('') {|past,x| past + (rand < 0.5 ? '0' : '1')}
大数の法則から、良い日と悪い日はだいたい半分ずつとなる。
days.each_char.inject(0) {|a, x| a + (x == '0' ? 0 : 1)} # => 179
しかし、良い日と悪い日が交互に出現するわけではない。
x = days
r = {}
while x =~ /(\d)\1*/
r[[$&.size, $1]] = (r[[$&.size, $1]] || 0) + 1
x = $'
end
r.sort.reverse # => [[[14, "1"], 1], [[12, "0"], 1], [[10, "0"], 1], [[8, "0"], 1], [[6, "0"], 1], [[5, "1"], 3], [[5, "0"], 3],...
と、良い日が14連続とか、悪い日12連続とかが平気である。5日連続良い日とか悪い日なら1年に3回もある。
一応、検算。
r.sort.reverse.inject(0) {|t, e| t + e[1] * e[0][0]} # => 365
というわけで長い目で見れば良い日も悪い日も同程度にあるので続いたからと言ってもこれっぽっちも特別なことではない(という結論だったかどうかは忘れた)。
最後、笹田さんがアンダースタンディングコンピュテーションを朗読。
アンダースタンディング コンピュテーション ―単純な機械から不可能なプログラムまで(Tom Stuart)
抽象構文木という言葉が出てくるが、具象構文木というのは抽象化(たとえば、Rubyの場合だとunlessをif !に置き換える)していない木だと説明したら、会場から、ECMA Scriptでは具象構文木としてコメントなども持つ構文木と定義されているという声がかかる。このあたりかな。Defining a standard JavaScript CST (concrete syntax tree) to complement ASTs.
構造化エディターが扱うのがCSTなのかな?
スタッフはみんな咳さんTシャツを着ていた。
懇親会のLTでt-wadaさんがeasyとsimplicityは異なり、価値があるのはsimplicity(easyは主観、simplicityは客観)という話をしていたが、正しいと思う反面、世の中はそういうようには回っていないので、1)プログラマーは正しくsimplicityを追及すべき、ではなく、2)世の中の方向性と同様にeasyを最重要視すべきか、ではないかと感じた。そこからsimplicityとeasyの生き残りをかけた淘汰バトルをいろいろ想像して楽しむ。
Surface3が届いたのでセットアップした。
Surface Penにループという名前のペン止めがついてきたが、どこに貼れば良いのかさっぱりわからない。ペンに付いてくる紙切れにも何も書いてない(正確には、タイプパッドへの止め方が書いてあるのだが、その通りにやると、ちょうどタイプパッドを斜めに置く場合に引っかかるのでうまくいかない。
途方に暮れて検索して、どうもタイプパッドを開いた状態にして向かって左に貼るのが標準のようだとわかり、貼ってみた。すると、微妙に白い線が出て悲しくなる。しかも、驚いたことに、ループを止めているだけのただの輪っかだと思った紙片に正しい貼り方が書いてあって、ループの付け根の白い線を、タイプパッドの薄くなる直前の位置に配置するように明示されているではないか。しかし一度貼ると二度と剥がせない雰囲気が濃厚なのので、白い線が出たまま使うことになった。
次に、マシンの電源を入れてアカウントを入れたら勝手にずいずい進んで気づくと、名前でディレクトリが作られていてそこがホームになっていた。これも悲しい。
しかしタイプパッドはカバーパッドの100倍くらい使いやすいのでそれは良かった。が、ひっくり返してタブレット状に使おうとするとキーに指が当たって気持ち悪い。その場合はカバーパッドのほうが良いようだ。というか、裏返して使うのではなく、剥がして使うのかな?
で、Officeをインストールしようとするとこれがうまくいかない。
ライセンス認証用の16桁を入力して、マイクロソフトアカウントで認証して、メールは不要をチェックして次へを押すと、すぐさまエラーコード:1000というエラーになる。数分おいてやり直せと言われるままに8回くらいやったが、さすがにこれはおかしい。
とりあえず、http://office.com/jppipcsetupにアクセスしてFAQを眺めても1000というエラーコードについては何も出ていない。しかし、セットアップ手順を眺めていると、アカウントをoffice.comに作るというようなことが書いてある。おそらくここでエラーになっている可能性が高いことに気づく。フリガナを入力していないとか、そのあたりが怪しい。
で、上記のページから手動でOffice365用のセットアップにアカウントを作成するページへ進めたので、そこでライセンス認証用コードを入れると先へ進めるではないか(正当なコードだから当然とはいえる)。そのまま、さらに先へ進むとOffice2013の再インストールというボタンがあったので、それをクリックしてインストールした。
次にMeadowだがhttp://www.meadowy.orgが死んで随分とたつ。困った。 http://www.bookshelf.jp/soft/meadow_8.html を利用させてもらうことにする。
(さらにJDEが有効だと64ビットJVMを掴んでクラッシュするという問題もあるので、32ビットJVMを入れてJDEを有効にするか、JDEを無効にするかとかいろいろ考えどころがあるけど面倒だからここまででいいや)
Surface 3 128GB MSSAA2 SIMフリー(-)
無印Surfaceに比べると縦横がまともな比率になっていて良い。OSは8.1なのでXPの30000倍、7の5200倍、Vistaの4倍(IMEについては5億倍)は使いやすいのでとても良い。一見すると縦が768みたいに感じるが1024あるのでMeadowを起動しても縦を直す必要がないのも良い点だ。
アスキーの鈴木さんから分厚い封筒が届いたので、wktkしながら開けるとやはりThe Art of Computer Programmingの1が入っていて、猛烈に嬉しい。ありがとうございます。
世の中には、読むべきであり、読めなくても蔵書しておくべきであり、少なくとも眺めてはおくべき本というものがある。でも時代のちょっとした隙間で入手できなくなることがある。また、それはべきべきなので、必ず現時点に何らかのかたちで反映されている。したがって、意識せずとも済ますこともできる。つまり古典というものだ。
その古典の奥付に記された発行者を眺めて、不可思議な感慨を覚える。
1巻は大雑把に(量的に)3つのパートから構成されている。
最初は離散数学で、シグマが山ほど出てくる。O記法(O(n**2)だからダメとかのO記法)もここで触れられている。知らなくても多分なんの問題もなくプログラミングはできるが、ある時点で、なんでおれは知らないのだ? と疑問に感じて(ということは必要性を理解する瞬間があるということだ)結局調べることになる。そこで初めて、高校の時に習った数学の必要性を思い知らされて、もっとまじめに勉強しておけば良かったなぁと感じたりすることになるわけだ。
次が情報構造(第2章)として、線形リストと木について説明してある。こういったことは知らなくても、Javaプログラマであれば、ArrayListやjavax.swing.tree TreeModelくらい何となく使えるはずだ(というか、ArrayListを使わずにプログラムを書くのは無理がある)。
双方向リスト(2.2.5)を読むと、今となっては使われることはないLinkedListについても、なぜJavaの実装当初は必要だと考えられたのか、なぜ.NET Frameworkでは無視されているのか、理解できるかも知れない。(ほとんどのユースケースではArrayListが十分に性能を発揮できるからで、もし、リスト全体のサイズが500MBくらいになってしかも途中挿入(add(index, element))とかが発生しまくれば、ArrayListよりもLinkedListのほうが良い結果となるかも知れない。でも先頭から最後までをしょっちゅう舐めまくるのであれば、途中挿入が発生しまくってもArrayListのほうが性能が良いかも知れない……というときに、プロファイリングしやすくできるので抽象List型を使えば良いね、というような話になるのであって、なんでもList型で受ければ良いというわけではない、別の話になっているけど)
木は使う人は使うが、使わない人にはまったく縁がないデータ構造だが、純粋におもしろい。
残りの1/3は演習問題の解答で、本書の演習問題は基本的に解答がちゃんと出ている。したがってモヤモヤした気持ちになることは無い。
サンプルのコードは、MIX(引用すると「MIXは1960年代から1970年代にかけて使われた数々のコンピュータとよく似ている。違っているのは、たぶんそれらのコンピュータよりも魅力的なことであろう」というわけで、クヌースのある意味理想のコンピュータなのだろう)という仮想マシンのアセンブリで書かれている(MMIXというRISC版に書き直した版についての言及が本文にも奥付にもあるけど、RISCで読みやすいのだろうか?)。多分、このコードを読むと、なぜ1970年代まではフローチャートが仕様の図示に使われていたのか、なぜGOTOが有害とされるにいたったのかを理解できるであろう。というのはともかく、理解しやすいと思う(また、なぜアルゴリズムを考えなくても今はプログラミングするプログラマーが存在できるのかを理解することもできる)。
The Art of Computer Programming Volume 1 Fundamental Algorithms Third Edition 日本語版(Donald E.Knuth)
なぜ、ドワンゴの第一弾(だと思う)が本書なのか、その歴史的な意義を考えて、まずは購入して欲しい。
あらゆる意味から得こそすれ損となることはあり得ない(本書そのものを蔵書する価値は当然だが、今後の技術書という存在自体の存続に関係するものに違いないと考えざるを得ないからだ)。
以前蛾の先生から教わって買ったままになっていた自然を名づけるを読んだ。
ここ数年で読んだ中で一番おもしろかった本かも知れない(不満もたくさんある)。あまりにおもしろいので400ページを越えるハードカバーの重くてかさばる本なのに通勤時に持ち歩くことになってしまった。
純粋にすさまじくおもしろい点を挙げる。
・まず、生物分類学という学問そのものと学者たちがおもしろい。
・良く知らない情熱を傾ける人がいるジャンルについて知ることそのものがおもしろい。
・リンネのキャラが立ち過ぎている。傲岸にして不遜、しかし真摯というおれの好みのタイプだ。
・数量分類学(ソーカル、最初ポストモダン叩きの人かと思ったら別の人だった)のキャラも濃い
・ソーカルがすごく好き――思い入れをもって読んでしまうのは、今になって気付いたが、師匠のミチナーとあわせて、まるで「先生、おれは対位法にさかのぼって勉強する必要があるんでしょうか?」「君、数学を知っているじゃん。音楽は構成だ。数学を使ってみればいいじゃん」というクセナキスとメシアンのことを意識せずに重ねて読んでいたからのようだ。
・ウーズのRNA分類が途中で消えてしまうのだがどうなったのだろうか?
・悲劇の半生ヘニックの知性にしびれまくる。またそれを発見した人たちも偉いなぁ。
・分岐学派の描写がヒャッハーのモヒカンそのものでぶっ飛ぶ(訳者のあとがきによれば、別に筆者がもっているわけではなく、十分以上に抑制して書いているというのだから、どれだけ攻撃的な連中なのかと。リナス世代なのだろうなぁ(と、タネンバウムとの論争を想像したり))
分類という行為に関する知見もおもしろい
・脳による生物と無生物の認識の差というのは実におもしろい
・ポケモンやら乗り物やらに対する子供のコレクション欲求
・些細なブランド(カバンでもPCでもOSでもなんでも良いけど)の差異分類/識別能力
・特に筆者による、現代のマーケティング(ブランド戦略)は人類(生物)の本質的能力である固体識別/分類/認識能力の刺激に依存しているのではないかという知見には感心しまくった。説得力があり過ぎておもしろ過ぎる。
特に中半まではページをめくる都度に新たな発見があるくらいに興奮のるつぼ状態で読める。
自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか(キャロル・キサク・ヨーン)
不満点は、著者の態度だ。
どうにも分母が少ないからだとは思うが(とは言えこれまで著者名を意識して読んだ5人のうち5人全員だ)、女性科学者(科学分野著述者)特有の不快な攻撃的文体(訳者のものとは思えない。おそらく文章の組み立て方法にあるのだと想像する)が多用されているのだ。
特に第1章と後半で鼻につきすぎる。とにかく第1章が香ばしすぎるので危うく読むのをやめるところだった。
ルサンチマンが漂うと、ようするにこいつは全然知らなくて自信もないから虚勢を張って適当を書いているのではないか? と疑念が浮かんでくるからだろう。内容は最高なのだからもっと普通に書けば良いのにもったいない。
なんか最後のほうでは
・読者を子供扱いしてご機嫌を取るというくだらない戦略
・本気でぶっとんでしまった
・もともと頭が悪い
・書くことがなくなったので出版社とのページ数の契約上の帳尻合わせ
のいずれかに見える。
もっとも、本書にも出ているが、アメリカという大半の住民が進化を否定している国の言語で一般教養書を出版するということによる慎重さという可能性もある。その場合は
・読者をばかだと想定……というか、最初の可能性と同じことだった
そこが非常に読んでいて気分が悪いが、内容は本当におもしろかった。
池袋ジュンク堂で、角さんと角谷さん(名前の字面に山がない)によるエクストリームプログラム新訳のトークセッション。
参考文献特集でいろんな本が売っていたが、まずは青木さんの新刊だ。と思ったら置いてないので、長田さんに頼んで持ってきてもらって、まずはゲット(後払いだけど)。
10年戦えるデータ分析入門 SQLを武器にデータ活用時代を生き抜く (Informatics &IDEA)(青木 峰郎)
間違って早く着きすぎたので読み始める。
PostgreSQLを一応使うように書かれているが、それはあまり関係ない。
前書きを読むと、読者としてエンジニア(ソフトウェア開発者)とプランナー(データコンシューマ)の両方をターゲットとしていることがわかった。
・エンジニアはプランナーの意図を知るために読む。そしてエンジニアリングで何ができるかわからずに悶々としているプランナーの机の上にこっそり置く
・プランナーはエンジニアに意思を伝えるために読む。そしてデータ分析という観点が欠落しているエンジニアの机の上にこっそり置く
・プロジェクトの前にプランナーとエンジニアが勉強会を開いて一緒に読み、何をなすべきか合意する
と、3番目の読み方で、なんとエクストリームプログラミングのトークセッションの会場で売るにふさわしい本であることがわかった。
「XPは人と人とのつながりを変える」のだから、まさに青木さんのデータベースの本はエクストリームなのだった。
で、それはそれとして縦持ち横持ちとか(そうはいっても横持ちにも良い点はあると書いてから、では縦持ちにしましょうと進める余裕が、昨日の本の著者には無い文章作法で、実に心地よい)、ウィンドウ(これ、SQL Serverに導入されたとき、別の呼び方をしていたなぁと思い出しても思い出せない)とかを読んでいるうちに時間となった。
集まった人たちをみて、黒テントを観に行ったらじじばばばかりでびっくりしたのと同じような感慨を全員が共有しているところで、始まる。
そうか、PofEAA読書会の同窓会のようなものなのか。
角さんのお話は、エクストリームプログラミングは読みにくいので(初版の翻訳はとても問題があると考えていたが、いざ自分で訳してみたら、ケントベックの書き方に問題があることが良くわかったとか話していておもしろかった)、ではどう読むべきか、それは表層(テクスト)ではなく作家主義でいくしかない、というわけでケントベックの生い立ちなどの説明から始まった。
作家主義ってそうではないような(と、つい映画における作家主義を考えてしまう)。ゴダールやトリュフォーがジョンフォードやハワードホークスの生い立ちを調べたとわけではない。その作家の作品にはその作家の刻印があり、それはその作家の作品を見ることだ。映画は役者の名前でみるものでも、物語がどうしたとか、ジャンルがどうしたとかでみるものでもない。それは誰が作ったかで観るものだ(突然思い出したが池田ののびーは黒澤明について誰かの書いたものをとりあげて、映画作家という呼び方をふつうはしないと断言することで見識の狭さを妙なところでも発揮していたなぁ)というのが作家主義のような気がするが、テクストとの対比ということは文学用語なのかも。しかし、野坂昭如の韜晦を額面通りにとって引用するのを目にすると、作品を書いた言葉と同じ作家の言葉であるという言葉の本質を軽々と無視できるのがとても不思議になる。作家の言葉はすべて作品なのだから、作品であろうが作品について語ったものであろうがどちらもメタな言質であって額面通りに受け取ってはならない。
とか考えながらも、角さんのプレゼンはむちゃくちゃおもしろくてまったく時間を忘れるほどだ。語り口のうまさと興味をひかせるためのアイキャッチとしてのスライドの融合だな。実におもしろい。
で、終わった後の懇親会に参加するためにうろうろしていれば、いやでも入口に並べられた本に目が行く。
というわけで、参考文献特集から、とりわけ目をひいたものを購入してしまう。
ディズニーアニメーション 生命を吹き込む魔法 ― The Illusion of Life ―(フランク・トーマス)
ケントベックによれば(エクストリームプログラミングの参考文献リストにはケントベックによる一言コメントがついていて、そこも訳出されている。これが実におもしろい)、「ビジネスや技術の変化に対応するために、ディズニーのチーム体制が長年にわたり、どのように進化したかが描かれている。ユーザーインターフェイスデザイナーのヒントになることが満載。素晴らしい絵も収録されている。」
なのだが、そんな言葉を読む前に、目の前にした本の美しさとぱらぱらめくったときの書物としてのパターンに惹かれまくってしまったのだった。というか、タイトルがすでにデザインパターンではないか(魔法の形容ではあるけれど)。
その他、まだ読んでないことに気付いたので、クーンとか購入。
思い出した。
角さんによれば、2つのタイプの人間がいる。
1つは目的至上主義。重要なのは目的の達成(成果を上げる)。
もう1つは手段至上主義。重要なのは過程を楽しむ。作る喜び至上主義。
で、続けて次のように断じる。
ケントベックは後者で、後者のことを世間知は「ボンクラ」と呼ぶ。
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たとえば、「はじめに」を開いた途端に次の文章が目に入る。
「良いチームだろうと悪いチームだろうと、改善は必ずできる」
おかしい。
良いチームなら改善の必要ないじゃん。そんな余計なことをしている閑があったら、さっさと成果物を出せ。
とならずに、改善することが目的化していることにケントベックはまったく気づかずに改善に邁進する。
その結果、成否は問題とならなくなってしまう。重要なのは「開発者として最善を尽くすことだ(第1章の冒頭)」。
男だぜ。
というか、なるほどボンクラであるな……
が、そこがエクストリームプログラミングで語られていることの要点なのだった。
1980年代の流行語(世界的)にattitudeがあった。すべてのかっこよさはその個人のアティチュードに起因する。まさにエクストリームプログラミングとはあるべき(とるべき)アティチュードを示すものだ。なるほどケントベックが職業人としての道を歩み始めたのは1980年代だ。
それは真摯である。人間であるならば、かくありたいものだ。
したがって、本書の対極にあるのが、チームギークだ。
チームギークにはチームワークをうまく回すためのいろいろな戦術が書かれている。なぜそのように振る舞うのか? それは成果を上げるためだ。多様性の尊重よりも、エゴの抑制(多様性を尊重するということは、おれさまのアティチュードも認めろということに他ならない)。すべてはチームの成果のために!
そこには人間としての真摯さというポエジーはない。あるのは、冷徹な計算だ。
まさにクール! スマート! ~(ボンクラ)である。
Team Geek ―Googleのギークたちはいかにしてチームを作るのか(Brian W. Fitzpatrick)
中庸を良しとするのであれば、両方から学ぶことができる。
そうでなければ、エクストリームプログラミングを勧める。「中庸を良しとする」妥協策が気に入らないとすれば、それは手段を重視しているからだ。
新国立劇場で、松村禎三の沈黙。
原作は読んだことがないので、完全に初見でもある。
松村禎三はえらく前にビクターから出たLPを持っていたことがあるが、響きが美しい曲を作る人という印象がある。
(多分、これの元になったやつじゃないかなぁ)
場を細かく区切った2幕構成。
舞台には巨大な十字架が斜めに立つ。
最初、十字架にかけられて火あぶりにされる人を背景に置き、家族を密告したとしてキチジローという男が村人から責められているシーンで始まる。ハライソの寺へ行くのだという歌のみ明確な旋律がある。
場が変わるとマカオで、フェレイラから音信がとだえたため現状を知りたいと日本への渡航を地区長へ頼むロドリーゴ神父が出てくる。水先案内人としてキチジローが連れて来られるが、あまりのびびりっぷりに神父が呆れる。
場が変わると切支丹村で歓迎されるロドリーゴになる。名前がロドリーゴなので間違いなくこいつは牢屋へ入れられるのだろうなぁとか考えながら見る。恋人同士を祝福する。
場が変わると踏絵となる(幕を下ろした手前で演じられる)。
ああそうかと最初の場の記憶もあってはじめて、踏絵について納得した。
そんなもの、我が心の神を守れば、いくらでも踏めば良いではないかと不思議だったのだが(実際、江戸時代の中期以降はそうなったらしいが)、
1) 神は外部にあるのだから、その行為をどう取りつくろうが、神に見られているのだ(※)という意識があればなかなか踏むことはできない
2) 踏んで帰れば、村の人間は踏んだということを知ることになる。まして踏まずに帰ってこない人間がいればすでにそこに留まることは難しい。カムイ伝の正助だ。
※)この宗教受容のありかたが、日本人の多宗教容認(外に神があるという感覚の喪失)につながっていたりもするのかな?
かくして場が変わり、一緒に捕えられて踏むのを拒否した3人が海中への磔となっている。いよいよ潮が満ちて息ができなくなるというときに、前の場で結婚した男がハライソの寺の歌を歌う。このシーンは信じがたいほど感動的で驚く。見事な舞台だ。
ついにロドリーゴはキチジローの密告により捕まり、1幕は終わり。
2幕、奉行は以下の条件をロドリーゴへ出す。神父が転べば、その影響は絶大だ。お前が転べば、村人たちを許す。
ミノムシ状態で船から海へ投げ捨てる処刑を前に転ぶから許してくれといいだす村人が登場するが、奉行は認めない。もう遅い。しかしロドリーゴが転べば許す。だが、他の村人たちが、おれたちは喜んでハライソへ行くのだ。パードレは転ばんでくださいと言うのに力を得てロドリーゴは拒否する。
フェレイラ(沢野忠庵)登場。日本人はデウスを大日如来ととらえるし、しょせん、自分の外側に絶対的なものをおくという考え方はできないのだ。お前のやっていることは無駄だから、転んでしまえ。ロドリーゴはやはり拒否する。
最後の夜となり、牢屋に一人いるロドリーゴは呻き声を耳にする。音響として呻き声以外の何者にも聴こえないのだが、ロドリーゴにはそれが牢番の高いびきに聴こえる。
キチジローは告解をさせてくれと牢の外をずっとうろついている。ロドリーゴにはその声も不快に感じる。
忠庵が最後の説得にくる。ロドリーゴは拒否しつつ、牢番のいびきを止めてくれと言う。忠庵は驚き、あれは逆さ吊りにされた切支丹の苦痛の呻き声だと教える。お前は、自分が信仰を捨てぬことで神から認められたいというだけなのではないか。村人たちの苦しみを救っていないではないか。もしイエスだったら、どうすると思うか?
ロドリーゴはここにいたって観念する。
最後の場は長い。ロドリーゴは踏絵の踏まれて汚れたイエスを見て散々ためらった末にそっと足を乗せる。そして持ち上げ抱きしめる。
・原作では、ここで踏絵の中のイエスが感動的な語り掛けをするようだが、オペラではすべては無言のうちに進行する。
なるほどなぁ。傑作だ。
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