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あまりにも良かったので会社休んで新国立劇場。
今回は元帥夫人も文句なかったが、どうも1幕はやはりそれほどおもしろくない。
物語は見れば見るほど嫌いになる。不快な話をどれだけ音楽の美しさで感動的なものとしてごまかせるかという実験にホフマンスタールとシュトラウスが挑戦したのではないかという気分になる。
1幕。元帥夫人の寝室。ベッドに横たわる元帥夫人、脇に立つのはカンカンと愛称で呼ばれるオクタヴィアン(伯爵)。伯爵は17歳。元帥夫人の家にやって来るのは、貴族の戦争遺族の募金団(演出上は部屋を漁ったりろくでもない)、帽子屋、ペット屋、ゴシップ屋、政界の親分が寄越した歌手といった面々に田舎貴族で元帥夫人の親戚(これは本当なのだろう)の男爵。
少なくともフィガロの結婚の時点では、ロジーナはケルヴィーノを歯牙にもかけていない。ところがこちらは最初からフィガロ3部作の3作目に近い状態だ。
ということは、フィガロの結婚の最後で伯爵夫人が許すというのと(そもそも相手は伯爵その人だし)、元帥夫人が許す(というかもともと不義の相手だし)、意味がまったく異なる。
それが世紀末芸術として書き直されたフィガロの結婚だということであれば、まあそうなのだろうと納得するしかないが、どうもいちいち出てくる連中の不誠実さが気に障る。
ゾフィーは最初から単に自分が(血統的な)貴族の奥さんになることしか考えていない(それが妄想だということは、オックス男爵の言動で思い知るわけだ)し、オクタヴィアンはなんか偉そうなことを言いまくるが、ようは狭い世界でしか暮らしていなかったというだけのことだった。
(1幕、元帥夫人が加齢を嘆いているところに登場するや否や、僕を心配しているのですね! と言い出す想像力のなさや身勝手さは、不快でしかない)
ホフマンスタールはこれでもかこれでもかと貴族の品性の卑しさと、まったく釣り合いが取れている新興成金(ブルジョワジー)のこれまた卑しい名誉欲を上から下から裏から表からあげつらいにあげつらう。
おそらく唯一まともな人格の持ち主は、ウィーン撤退のときに逃げ損ねて従者となったムハンマドだけだろう(男爵には法を説いた警視総監ですら、元帥夫人には元の上司の奥さんということですべてを不問にして撤退するのだから、大したことはない)。
それをシュトラウスは、この人こんなに美しいメロディーを書けるのだな!と、もしエレクトラしか知らなければ愕然とするほどの美しい重唱で化粧していく。
その結果、世にも素晴らしい楽劇が生まれた。おそろしいことだ。
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