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自然を名づけるにおもしろい考察(たった2件の実験結果もある)がある。
人類学者のブレント・バーリンの発見として、幅広い分野で民族分類においては、属の数は600が上限というものがあるそうだ。リンネ以前の自然科学者たちの分類でも属の数は600で尽きている。
どうも、人類という生物は機能的にある項目数の上限を自然と600に制限してしまう=600が記憶の上限らしい。
興味を持った筆者は昆虫学者の夫に生物の属数を数え上げさせてみた。結果は575。爬虫類学者の友人にも頼んだ結果は591。
もちろん、2人とも後になって、なんでこの時xやyを思い付かなかったのだろうと首をひねる。
どうも、バーリンの調査は正しそうだ。必要な時に思い出さないのであれば、命名する意味がない。だから、どの民族も600を上限として命名するようだ。
自然を名づける―なぜ生物分類では直感と科学が衝突するのか(キャロル・キサク・ヨーン)
で、多分に時間がかかるから実際に数え上げテストをやる気はないが、きっとおれはWin32APIで600、JDKで600、.NET Frameworkで600、RubyのKernel、組み込みクラス、主要ライブラリを合わせて600の関数までは使える(詳細はともかくこのAPIを使えばよいと考えられる)のではなかろうか(パラメータや定数も関数と同種として記憶していると仮定するともっと減るだろうが)。
逆に言えば、APIが600を超えた処理系(主要ライブラリを含む)やプラットフォームは、開発者の人間の機能制限を超えるため衰退していくのではないだろうか(それでMSはWin32APIからWinRT APIへ移行させようとしたのだったり)。もっとも何をもって科(属の上の分類)とするかはありそうだが、グラフィックAPIだけで1つの科とかみなすのは無理筋な気がする。
(と最初書いたが、科ではなく、界のレベルで考えなければおかしいことに気付いた。生物の属名といっているわけだし。すると、すべてのAPI界で600というように適用することになる。その場合、どれだけの属名を支配するかで開発者の依存度が決まることになる(600項目の入れ替えが難しいと仮定した場合)。それが、VBを極めると他の言語に動けなくなったり、Win32APIエキスパートがPOSIX全然だったりする理由なのかも知れない。個々人の頭の中の600という属名の分捕りゲームということだし、なんちゃらの専門家というのはそのなんちゃらで600スロットを埋めてしまった状態を指すのかも)
あるいは、それ(存在を思い出せないAPI)をIDEが補完したり推測できれば済むのだとすれば優れたIDEの提供がプラットフォームベンダーには必須(MSの切り開いた方法)という道理だ。
とりあえずFreeBSDのシステムコールが500個、Linux2.6が280個。
2週間くらい前に子供が友達から借りたというので、血界戦線を読んだ。
というか前情報が全然なくてなんだかさっぱりわからず(アニメ化直前で局所ブームでもあったのか?)子供にそれはなんだ? と聞いても要領を得ない。ジャンプ漫画じゃなさそうだけどとか言っていたのだが、実際に見ると集英社のジャンプ漫画だった。
で、ジャンプ漫画を読むモードで読みはじめると、勝手が違い過ぎて戸惑う。
絵柄が妙に古く感じる(なんとなく、手足のデフォルメが島本和彦に似ているように感じた)のはまあ作風として、努力を全然しないからパワーアップもしない。強いやつは最初から強すぎる。目に不思議な能力があってお約束が多いというジャンプ漫画といえばD.Gray-manだが、そのての要素も感じられない(女子マンガというよりはむしろ少年マンガの王道っぽい)。
どうもいろいろコンテキストがあるようだが、読みきれないところが多く、不思議なのはそれが最近のコンテキストではなく、もっと懐かしい感じがすることだ。金持ちの道楽でそこに強烈な執事がついているといえばバットマンとかサンダーバードだし、絵柄は日本のマンガなのに筋肉がアメコミだし、良いとこ取りというよりも趣味の世界過ぎる。そういえばタイトルからして妙だな。
だいたい不可視の人狼ってどこから出て来た用語かよ? とか説明抜きで登場人物の口から用語が出てきたりするから置いてけ感もあるのだが、それでいて少しも困らない。それにしても不可視の人狼の居室のくだりでは思わず笑い転げてしまうのだからエンターテインメント性の高さは抜群ではあるなぁ。
でも、これ巻を重ねているジャンプ漫画なんだよな? と不思議に思いながらも読み進められるくらいにはおもしろいのだが、やはり妙に古臭く感じる。おれが古臭く感じるというのは、物語の進め方がおれの本来の読書体験に近いということだよな、と気付く(ノスタルジックなのだ)。ひとつは登場する女性の扱い方が古い手法なのだ。ということは、この作者はおれとほぼ同世代の人間ではないか?
なんか古臭いなぁとか思いながら読んだ血界戦線だが、jmukさんやtacoさんのツッコミを見て評価が変わった。(おれが何か作家の作品を味わう場合、いかにコンテキストに左右されるか、自分でも驚く再発見でおもしろかった)
最近の作家が作ったジャンプ漫画だと思って読んでいたので、作品そのものよりも、最近の小学生の嗜好の奇妙さ(と感じていたわけだ)にとらわれてしまうようだ。その観点からは古臭い(小学生が読んでおもしろがれる内容とは考えにくい)のに人気があるらしいので終始疑問符がついてまわる。
それが外れると作品そのものの文脈が正しく見えてくる。とすれば、わかる。確かにおもしろいじゃん。
であれば、この作家の他のやつも読んでみるかと、とりあえずトライガンの無印のやつは2冊しかなくてコンパクトなので買って読んだ。堪能した。
[まとめ買い] トライガン(ヤングキングコミックス)(内藤泰弘)
表紙の絵柄はやはりおれには古臭く感じるのだが(なんかたがみよしひさの画みたいだ)徐々に明かされる物語の壮大さと仕掛けのギャップ(なんで早撃ちなんだ)の落差にしびれまくる。舞台設定や小道具と主人公の存在の摩擦のでかさはちょっと神様は辛いよっぽい。見事にサイファイだ。
今度トライガンマキシマムのほうも買って読もう。
家の中はあまり良い雰囲気ではないので(雨が降ると家の中でタバコを吸うことになるが、その翌日に使うエアコンはあまり気持ちが良いものではない)ちょっとノマドワークでもするかと、妻から自転車を借りて猫廼舎へ行く。
着いたらエアコンが入っていない(上の事情から、いつのまにかエアコンが目的化していた)。
エアコン入れる? とogijunは言ってくれたが、なんか事情もあるのだろうと濃いめ大盛りアイスコーヒーを頼み、とりあえず、ちょっとシューマン風な奇妙な場所へ行ってまずは一服する。
Coffee, Cigarettes And Memories(ジェリ・サザン)
(ジョニーギターにしろ、オーティスレディングにしろ、ジムジャームッシュにしろ、船を作るにしろ、ある年代の人にとっては煙草とコーヒーはきってもきれない間柄なのだ)
このシューマン風な場所は適度に緑と土と湿気があり(蚊がいないのは良かった)いかにもビルの裏なのだが、にもかかわらず食べ物屋が入った雑居ビル固有のいやな匂いがない。右には巨大な地下換気用の塊があるのだが、それは使われていないため、アンコールトムのようになっている。左は逆に日本風な侘びがある。実に奇妙だ。
シューマン森の情景 全音ピアノライブラリー(全音楽譜出版社出版部)
自転車でかいた汗もそこそこ引っ込み、そろそろコーヒーも出来ただろうと戻って来て腰を下ろす。
すると、実に気持ちが良い。さっきは気付かなかったが、風が良い塩梅に入口のビルに空いた横穴と裏の奇妙な場所で適度に冷やされて抜けて行くのだ。
なるほどこれならエアコンを付けていないのも道理であるなぁと、本当に久々にゆるい風の心地良さを堪能しつつ、うまいコーヒーを飲むのであった。
しばらくするとセコンさんが見えたので、これ幸いと、今困っている(あるいは楽しんでいる)問題についてご意見をうかがったりした。
子供がおもしろいから読めといって貸してくれたモチーフで読む美術史を読みはじめた。
美術というのは記号の塊だし、当然、相当の記号は理解しているのだが、辞書的に項目を網羅して(1項目2ページ+サンプル2ページ)あると意外な発見や全然知らなかったものやそんなの知らないやというような周辺事情なども語られていて、実に発見や驚異に満ちていて確かにおもしろい。
いきなりおもしろかったのは、兎、鼠、猫で、これらはいずれもネガティブな記号なのだが(にも関わらず兎は知らなかった)それが20世紀になって宗教的文脈抜きにポジティブ化された(ディックブルーナのミッフィー、ディズニーのミッキーマウス(おれならワーナーのジェリーだな)、猫は本書では特に言及がないがトムでもフェリックスでもなんでも良いけど)というのにいろいろ考えるところがあってしびれた。
特に兎は多産の象徴なのでポジティブな記号なのかと思っていたら、全く正反対で、多産のきっかけのほうが重視されて淫欲の象徴でキリスト教の視線からはまさに邪悪そのものであり、そこからティツィアーノの兎の聖母(いや、このタイトルがミスリーディングを招くだろう)では、聖母が押さえつけることで、禁欲的でありそれがまさに聖母であることを意味しているとういのには驚いた。
が、ルーブル美術館の説明では
うさぎは古代より肉体的接触なしに繁殖する動物と考えられており、そこから聖母の処女性、そして処女懐胎を想起させます。うさぎの白色もまた聖母の純潔のしるしです。
となっていて、ノンバーバルコミュニケーションの難しさも思い知るのであった。
ペテロの鶏は、先日グエルチーノを観てしっかり覚えた鍵と並んで、それはそうだと思いながら、ふと先日観た沈黙を思い出す。
あのペテロでさえ(あるいは、それゆえ「あの」ペテロになったとも言えるわけだが)、キリストを3度裏切り、それをイエスは予見していながら少しも非難はしていないのだ。ペテロの最期ばかりを強調するのはむしろ正しくないのではないかと考える。結局、人間の外部にある契約主体である神という概念を逆に超えて内なる信仰へと転化させたのがキリストの本来の教えであると考えれば、殉教を貴ぶカソリックこそが誤りであろう。
牛や羊と異なり草を食べないことから卑しいものとされた豚(さらにはユダヤ教やイスラム教では不浄とまでされて食べること自体がタブーとなってしまう)が、にも関わらずドイツではデューラーはじめ豚を活き活きと描く(日本の場合もネガティブな意味付けをされているため描かれることがない)くらい重要な家畜という指摘も興味深い。
それにしても全く知らないことが多い(上に示したルーブルと異なる意見の場合もあるので、それは当然という気もするが)。
矢の項で説明される聖セバスチャンが同性愛の守護者として象徴化されたなんて知るわけがない(もちろん知らぬはおればかりという可能性は高いが)。本当なのかなぁ? 三島由紀夫の文脈を持ち出すのは相当本書の範囲を逸脱している気がするが19世紀末としているので、西欧でもこちらが知らない裏の美術史ではそういう解釈もあり得るとは思うが。確かに矢を男性器の象徴と捉えることによって、身体中に矢を突き立てられたセクシーな若い男性である聖セバスチャンをそう捉え直すというのはありそうではある(というか澁澤龍彦あたりが論じてそうだ)。
さらば、愛の言葉よを見ていて、そういえばおれはシェリーを読んだことなかったなと気付く。
それが蟠っていたので、先日古本屋に行ったときに、岩波文庫の縛(それにしても、「縛め」と必ず、どうやっても送られてしまって、その都度修正しなければならなくて面倒だ。教養がないIMEってやだなぁ)を解かれたプロミーシュースがあったので、薄くて良いやと買って読みはじめた。
が、えらく読めない。本気の詩文ががんがん入るのは良いが、読み慣れた北園克衛のような文字による詩ではなく、言葉による詩なので読みにくいこと甚だしいからだ。というわけで薄い本なのに通算で2週間はかかってしまった。
縛を解かれたプロミーシュース (1957年) (岩波文庫)(シェリー)
読んでいて、なるほど、確かにゴドウィンの弟子だ! と感じるところは多い。というよりも、こういうかたちで観念的なアナーキーが芸術として結実していたのかと驚いた。全然知らなかった。
当然のように、世界を支配する絶対権力であるジュピターは最後深い淵へ落ちていき、主のない世界が到来し、プロメテウスは解放される。
それにしても第三幕の第一場はびっくりだ。それまで延々とプロメテウスを縛り付けていた張本人であるジュピターが出てくるなり(幻影としては一幕で出てくるが)退場してしまう。
おまえたちが仕えている者の栄光と力を共に領持って、ここに集っている天のもろもろの力よ、喜べ。今から後、私は全能だ。
というジュピターの高らかな勝利宣言で始まるのは良いが、その4ページ後には、
ああ、ああ、諸元素も私には従わない。眼が眩む、沈んで行く、永遠に、永遠に、下に。そしてかなたに居る私の敵は雲のように、勝利をかざして私の墜落を暗くする。ああ、ああ。
と、デモゴーゴン(さっぱりわからない概念的存在だが、永遠というものらしい)に引きずられて奈落へ沈んで行く。
もちろん本当のアナーキーなので、アメリカ風のリバタリアンではなく、あくまでも愛と愛を交換する世界の到来となる。当然のように、プロメテウスは解放されたからと言って自分が玉座に腰を下ろすわけではなく、洞窟にエイシャと共に籠ってしまう(この洞窟というのがベーコンのイドラの一種ではないのは当然として、では何かというとさっぱりわからないのだが、シェリーの頭の中では良きもののようだ)。
解説に書かれているシェリーその人の逸話もいろいろおもしろい。
最初の奥さんとの間がうまく行かなくなるのと同時並行でメアリー(ゴドウィンの娘)と懇ろになって、最初の奥さんにクソ真面目に「君は魂の妹だから、メアリーと3人で仲良く暮らそう」と手紙して罵られたり、メアリーとヨーロッパへの駆け落ち旅行中(このときメアリーは17歳)に(これまた大真面目に)「楽しいから君もおいでよ」と手紙して罵られたり、大杉栄と同じ思想の持ち主ならではの豪快さがある(が、ついていけずに最初の奥さんは自殺してしまい、晴れてシェリーはメアリーと結婚することになる。このときシェリーは24歳、メアリーは19歳)。
というわけで読んでみれば発見もありそれなりには面白くもあったが、18~19世紀を駆け抜けた自由主義の文学者であれば、切実さと現実主義のゆえにシラーのほうが好きだな。
時々行く喫茶店に置いてある雑誌で1話分だけ読んで気になっていたので、出てすぐ買って結局その日のうちに読んでしまった。
抜群におもしろい。
周囲の反対にあって看護の仕事につけないことに業を煮やしたナイチンゲールが、劇場に巣食う決闘士の幽霊に自分を殺すことを依頼する。
この幽霊がなかなか味がある。ぷかぷか浮かんだり、潜ったり。
絶望しきった人間を殺すことで劇的な殺しとなると考えて、なかなかナイチンゲールを殺さないことで話が回り続ける。
半分歴史物語なのでナイチンゲールは歴史通りにクリミア戦争に行くことになり、幽霊もついてくる。
物語の語り口は本当に素晴らしい。
黒博物館 ゴーストアンドレディ(上) (モーニングコミックス)(藤田和日郎)
で、読了して満足しきったあとに、ふと気付いたが、情熱的な人間と、それを殺そうと取りついた化け物の間に緊密なつながりが生まれて感動的な物語となるって、(こちらは男と女なので恋愛感情のようなものもあるのだが、それでも化け物が人間のまっすぐさにいらつき歯がゆくなっていろいろ手を貸してしまうという構図といい)、この作家の得意技ということなのだなぁ。
あまりにアスキーの立川シネマシティの記事がおもしろすぎたので、たまたま立川へ出向く機会があったのを千載一遇のチャンスとばかりに観て来た極上爆音マッドマックス怒りのデス・ロード。
入口に張り紙があって、水曜の上映では音出しに失敗したので返金しますとか書いてある。そういうこともあるのかと思うと同時に、音目当てで集客しているのですぞという姿勢に好感度が高まる。期待も高まる。
劇場の中に入るといきなり礼拝堂みたいになっていてちょっと驚いた(けど、そういえば上の記事にも何か書いてあったぞと思い出したというか見直すと写真があった)し、どれどれどれが噂のサブウーファーかと見てみると、意外なほど筐体は小さいが、鳴らなければ真価はわからない。
で始まった。
いやぁおなかが震えましたな。
V8のぶんぶんにしろ六連太鼓のどんどこにしろ来まくる。さすがに中半以降になるとびょんびょん来るのは当然のこととして慣れてしまうが(驚きはなくなるが)実に良い。確かにこれは劇場でなければ得られない体感だなぁ。しかも、企画室長が豪語としている通り、どれだけぶいんぶいん腹に来ていても耳はしっかり音声を聞き取れる。
映画は西部劇のコンテキストなので過去の因縁はぐだぐだ説明せずに幻影(マックスについては)や一言(フィオリサがジョーに放つ)で終わらせるのが実に気持ち良い(ふと気付いたが、荒野のストレンジャーは幻影、ペイルライダーは一言だったような)。
映像は、谷に棲んでいるバイクの連中が襲撃するところで、バイクの連中の視点と関係なく高いところから谷底めがけてカメラが進むところがえらく印象的で、舞台の広さと人間の小ささ(争いの局所さ)の映像的な間合いの撮り方がチェンカイコーの映画みたいで実に気持ちが良い。
というか一瞬だけ映る砦の中の畑のシーンがえらく奥行があって(しかも唯一緑と明るい光で満たされていて)、この一瞬のためだけに用意したのかなぁと不思議に思った(印象的なシーンなのだが、あまり意味がないというか、それとも、約束の地はここにあるということを潜在的に覚えさせておくための仕掛けなのか)。一瞬のための凝ったシーンといえば牧場のシーンもなんか妙に凝っていたような気がする。
それにしても良い音だった。
突然思ったが、クローネンバーグがハワードショアと組んだ一連の映画をこの劇場で観てみたいな。確かハワードショアの音は人を不安にさせる低音の持続が特徴だったような記憶があるからだ。
こんなのとかスキャナーズとか。
(ふと気になってハワードショアって何をしているのか調べたら、クローネンバーグとコンビを組んで気持ち悪いが妙に印象的な音楽を作っていた人から、アカデミー賞クラスの大物になっていたのか。というかリングやホビットも手掛けていたとは驚いた。まあ才能がある作家なのは最初の時点から明らかだったし)
HONZの『慰安婦 パンパン 浮浪児 特攻くずれ 在日 そしてそれぞれの思い 『あれよ星屑』』の書評が抜群に良かったので、あれよ星屑をまとめ買いして、寝る前にまとめ読みしたら朝になりかけていた。
文句ない傑作だ。魂が震えた。仮にこの後(まだ全然途中なのだ)どれだけぐだぐだになろうとも、不朽の名作として残るに違いない。細かな登場人物たちも作中に語られない過去があっての現在を生きているので物語の厚みが凄まじい。
舞台は戦後の瓦礫となった東京と日中戦争末期の中国を行き来する。
ほとんど内心を吐露しないが生き残ったことに対する忸怩たる思いを抱えて酒浸りの日を過ごしている川島徳太郎というとインテリと、川島の軍隊時代の部下の黒田門松という熊のような大男(引き揚げ後、すぐに置き引きにあって素寒貧で登場するが、単純明快、直情径行、粗暴だが気が良い)を中心に、インテリやくざの金子、金子の戦死した弟(これが実に味のある男なのだが、川島の部下だったという設定)の許嫁で小料理屋を営む菊子とスミ子の姉妹、門松が戦前に関係した元スリのお吉を中心とした街娼4人組、犬がとりもつ縁で知り合った浮浪児集団、金子が厄介になっている組の若い連中(いつの間にか黒田と仲良くなっているが、そういう描写にも黒田の性格が語られているのが実に心地良い)、川島と黒田が暮らす廃車住宅の隣に住む昭坊親子、特攻隊生き残りで背中に七生報国と墨を入れてしまったために本来の帰属集団と日本人意識の間で苦しむ在日朝鮮人(になってしまった)の木村、川島の友人にして理解者で同期のはずが3階級も差がついている渋木少尉、川島班のしたたかな古参兵と初年兵たちなどなど出てくる人間たちはみな一癖も二癖もあるのだが、それもそのはず、それが人間だ。だから、作品のジャンルとしてはある時代を描いた群集劇による人情話ということになるのだろう。
絵柄も抜群に良い。一本の線でささっと書いているように見えるが、ぽっと空虚な表情を浮かべたり、怒ったり、とまどったり、表情が派手な黒田と陰影がある川島のコンビは当然として、どの人物もみな感情がある。
生き死にを吹けば飛ぶような人生と笑い飛ばす部分と他人であっても些細な縁ができれば生死に平静ではいられない深刻さをないまぜにしたスタイルは、僕にはバロン吉本やつげ忠男の最上の作品群に近いものを感じる。本物のリアリズムだ。川島がとぼけた顔をするときは、ちょっと関川夏央とコンビを組んでいた頃の谷口ジローを彷彿させたりするし、初期の大友克洋の雑なようですさまじく決まった画の作品群のようにも見える。まるで戦後日本のノンジャンル漫画の集大成のようだ。
突然挟まる川島が昭坊に童話を読み聞かせるシーンも悪くない。悪くなさ過ぎてその後のエピソードで川島が受ける衝撃が強調される。作劇上の構成も良いのだ。
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すごい作家がいるものだなぁと感服すると同時に、おそらく今の日本の2/3の人間にはまったく親しみがない日本を描いた作品を発表する場を与える出版社もすごいなと感心した(中高年世代市場を最初から狙っているとか? まさかね)。
ジェズイットを見習え |
Before...
_ taco [はじめまして。内藤先生は1968年生まれなのでartonさんの6つ?くらい下ですね。内藤WORLDにハマるなら、無印..]
_ taco [↑1967年の間違いでした。]
_ arton [どうもありがとうございます。無印トライガンは今朝買って読んじゃいました。いいですねぇ。]