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時期
元のプログラムでJSONなどの外部データから得られたHashをそのまま利用していたら、そのデータが複数のモジュール間を行き来するようになった。
モティベーション
Hashキーのリテラルが複数モジュールで記述されるためスペルミスがあってもわかりにくい。外部データで値としてnilが含まれることを前提している場合、キー名の書き間違いによるnilなのか、値がnilなのかの区別ができないためである。キー名の書き間違いはプログラムエラーとして検出したい。
解決方法:HashからStructへ変える
Structは、属性名をキーとした[]記法もできるため、仮に修正漏れがある、あるいはモジュール修正の時期によってStructへの記述変更したモジュールとHash記法のままのモジュールの混在が可能。
例
data = JSON.parse(responseText) if data['result'] == 'OK' other_module.received(data) ... end class OtherModule def received(data) if data['foo'] == 'bar' ...⇒
ResponseData = Struct.new(:result, :foo...) ... data = JSON.parse(responseText).inject(ResponseData.new) {|s, (k, v)| s[k] = v; s} if data.result == 'OK' othermodule.received(data) ... ... def received(data) if data['foo'] == 'bar' # 後刻、他の修正と共に、data.fooに修正する ...
ボヘミアンスタイルでJSONを利用している場合
# 未知のプロパティは無視する data = JSON.parse(responseText).inject(ResponseData.new) do |s, (k, v)| if s.respond_to?(k.to_sym) s[k] = v end s end
代替
リテラルの代わりに定数を利用する
module ResponseKeys RESULT = 'result'.freeze ... end ... if data[ResponseKeys::RESULT] == 'OK'
定数を使う場合のStructに対する
pros: 特にない。
cons: 冗長。
2019/3/6 追記: とみたさんにStructのコンストラクタ呼出し時にkeyword_initを使うと勝手に属性が設定されるからより簡潔と教わった。ありがとうございます。
Struct の keyword_init を使えばもっと完結に書けそう。
— とみたまさひろ🍣🍺 (@tmtms) 2019年3月6日
ResponseData = Struct. new(:result, :foo, keyword_init: true)
data = ResponseData(JSON.parse(responseText))
妻が図書館で借りてきたので一緒に観た。
というか、ボウイをモデルにした映画というようなことしか知らなかったので、いきなりイーノの針の穴に駱駝を通すじゃなくて、駱駝の目に針なのかなが流れて驚いた。
とはいえスターマンがステージの上で死んだりするわけで、ボウイのエピソードをつなげて60年代終わりから70年代はじめにかけてのロンドンを描きたかったんだなという意図はすぐ汲めた。というか、タイトルやクレジットの文字がまさにそれだし。
で、1974年のステージ上の自殺行為(スターとしても、設定の上でも)をした謎を探りに、同時代の空気を吸っていることがもろわかりなイギリス人の記者にヘラルドトリビューンが取材を依頼するのが1984年だ。
ボウイを投影しているのがブライアン・スレイドという名前でブライアンか、とか思いながら観て行くと、全然イーノではないが鳥のイメージをつけているからイーノをビジュアル上はモデルにしたらしきジャック・フェアリーというラボエームのムゼッタのようなことをしている人も出てくるし、ここぞというときのバンドの音楽がベビーオンファイアーだったり、どうも音楽はイーノが大きい。マークボランも20世紀少年とかがベルリンで行われたグラムの死コンサートという設定の箇所で気分よく流れてくる。
オスカーワイルドと共にスターマンが置いて行った緑の宝石が、誰かはわからぬ(たぶんジャックフェアリーなんだろうけど)少年の手に入り、ジャックからブライアン、ブライアンからルー・リードとイギー・ポップの合成物のカーク・ワイルド、そしてカーク・ワイルドから主人公の新聞記者に渡って、最後、ジャック・フェアリーが鎮魂歌っぽい歌を歌いながらおしまい。
狂言回しとしてアンジェラ・ボウイ(映画の中ではブライアンとカークが寝ているのを見るが、アンジェラが書いているのはミック・ジャガーとボウイだったな)とヘルミオーネ・ファージンゲールを合わせたような女優と、最初のマネージャーと、RCAにはいそうにもない謎の2番目のマネージャー兼レコード屋が出てくる。が、物語はそれほどおもしろいわけではなく、主眼はポップカルチャーな雰囲気の再現なんだろうなぁと思ったし、その点ではうまくできていた。
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それにしても、この映画の大音量でブライアンの曲を流しながらロック雑誌のブライアンの写真を見ていると大音量にたまりかねた父親、続いて母親がドアを蹴破って入って来るシーンって、恐怖映画だな。
子供にTick Tock: A Tale for Twoって脱出ゲームがおもしろいらしいからやろうと言われて、はて? と思ったら、同時進行の2つのシナリオを別々にプレイしながら情報交換するということがわかった。
最初、子供はSTEAM版を用意していたが、STEAMとかマシンに入れたくないのでiPad版を買った。が、おれのiPad v2では買えるしインストールできるし起動できるが、スタートすると落ちる。残念だがすっぱりあきらめて、ゲーム用のノートPCにSTEAMを入れるところから開始。
すると、STEAM版は2人用で売っているとのことで、子供がプレイ権を送ってきて無事に始めることができた。
最初、ピアトゥピアで通信するのかと思ったら全然違って、別々のストーリー(ただし舞台は同じ)を同じ、しかし微妙に異なるパラレルワールド空間で探検(といっても各ステージに4ロケーションしかない)して得た情報をお互いに交換して情報を組み合わせたりして先へ進むという完全オフライン仕様だった。
が、これがめっぽうおもしろかった。雰囲気はテスラパンクっぽいが、なんだかよくわからない少女の失踪談で、マーニー入っているかも(最後塔が舞台になるからだが)。
最初はちょろいチュートリアルで、なるほど、こうやってゲームを進めるのかとわからせてから最初のステージへ進む。全部で4ステージ、全部同じ場所だが時間が数年ずつ異なる。
3ステージ目では時間の要素が大きく手詰まりそうになったがクリア、4ステージ目では英語力が必要(とはいえ、文法の基礎を押さえていれば問題ない)。
言語は英、独、丁だから、日本語しかできないと特に4ステージ目はきつそうだ。でも機械翻訳があることはあるけどね、いやもしかして丁なんてあるのは変だから丁人が作ったゲームと考えるほうが自然で、すると近しい独はともかく、英はグーグル翻訳だったりして。それじゃあ解けるわけがないはずだけど、よく解けたもんだなぁとか馬鹿話をしておしまい。
おもしろかった。
総プレイ時間は約220分(終わると表示される)なので1ステージ1時間弱かかったようだ(1~2ステージは比較的簡単に解けたので、3ステージ目で結構時間を取られた)。
クリントイーストウッドの運び屋を観に豊洲。とりあえず都心で駐車場が利用できる(バルト9の駐車場は映画を観ても別料金だが、豊洲のユナイテッドは3時間の券がもらえる)のが良い点。
さすがにとぼけてるのではないかと思ったら、そんなことはなく、良いテンポで90歳の爺さんのロードムービーに近い映画で実に良いものだった。ロードムービーは行って帰らないが、これも往復しまくったあげくに最後は行ったきりだし、ロードムービーといえば車から流れる音楽だが、それもありありでなんかくだらない歌を一緒に歌って、それを盗聴している車の連中もまた一緒に歌うとか。
テーマは回復の物語で、その点は実にうまい。
2005年の絶頂期、ラテン人3人組に出荷を手伝ってもらったりしている(スペイン語で軽口を叩いたりするのだが、これは後で役に立つのだな)、しょぼいインターネット通販(20ドルで全米どこへでも)をインターネットは嫌いだと切り捨ててから12年、農園が破産してインターネットにやられた、と呻く。2005年の絶頂時にすっぽかした娘の結婚式を根に持たれて娘からしかとされる12年でもある。
それがたまたま行く先がなく向かった娘の家(すぐに追い出される)で、孫娘の婚約パーティでラテン人から仕事を紹介される。紹介先へ向かうと機関銃をかまえた男たちがいる。かくして第二の人生が始まる。
最初の旅でエンジンのかかりが悪い壊れかけた車(フォード)を新車(わからん)に変える。あとになって考えてみれば、旅はすべて回復なのだから、新車は新しい仕事、新しい人生の象徴なのだろう。つまり、人生の最初の回復なのだ。
次の旅で農園を回復する。
その次の旅で火事になった退役軍人会のレストラン、つまり居場所を回復する(25000ドルだ)。爺さんは朝鮮戦争の帰還兵なのだが、イーストウッドの映画では朝鮮戦争帰りというのはいつも意味がある。ベトナムが負け戦でグレナダは勝利したがしょぼすぎ、アフガニスタン以降はさすがに年齢設定上範囲外かまたは何か含みがあるのだろうが、戦争といえば朝鮮戦争になる。対共産主義という点ではベトナムと変わらないはずだが、負けたうえに時代的な問題意識がつきまとうベトナムと違って朝鮮戦争は比較的自由のための戦い(この映画でもこのセリフが出てきていた)というイデオロギーが未だに成立しているのかも知れない。
5度目の旅で孫娘の美容学校の学費を払って卒業させる。でもまだ妻の愛は取り戻せないが、家族の回復の第1歩となる。
最後の旅で金(つまり仕事)ではなく妻を選び、家族を回復する。
確か5度目の旅の途中に出てくる白い砂漠が印象的だ。
途中、パンクして立ち往生している黒人の家族を手伝うことになる。明らかに悪気はない言い方で、ニグロと一緒にパンク修理だ、と軽口を叩くと場の空気が変わる(このあたりの映画的な手法はさすがにうまい)。夫のほうが今はそうい言い方はしないんだ、と冷静に言う。そうかわかったと答える。
これは良いシーンだと思った。映画の中の設定として、この爺さんのこの時点のありかたが良く出ている。直した方が良いと言われたことには素直にしたがう。この爺さんが基本他人に親切(それが家族に向けられない心の持ちようだということが妻の不満でもあり本人が最後に自覚する問題なのだということも明らかになってくる)なのは、バイク集団でエンジンのかかりが悪いやつに、リレーがいかれたのが原因だと教えるところとか、細かくシーンがある。どうでもよいがダイクスがレズビアンを指す言葉だというのはなんとなく知っていたが、本人たちが名乗るものとは知らなかった(し、ちょっと考えていたのとはニュアンスが違う。それにしても今はじめて辞書をひいたが本義が土手というのは日本語の隠語との共通性もあるところが意味深だな)。
別のストーリーがある。メキシコの麻薬王だ。
映画としては結果オーライになり続ける運び屋の自分勝手な旅程が問題となる。麻薬王は、結果が良いということで、気にしない。仕事の属人性を認める運用をしているのだ。当然冷酷無比な殺し屋でもあるわけだが、確かに古いタイプのギャングで意外なほど身内と思えば親身となり人情もある。
それに対してそういう甘い経営ではいかんと考える一派によりクーデターが起きる。爺さんの仕事にもタイムスケジュールに合わせた正確性が求められる。が、実はそれは警察に捕まる道でもある。わりとこういう考え方は70年代っぽくて(ルパン三世にもそういうテーマの回があった)好きではないが、定性的には正しいような気がする。
他にもシカゴ警察に転籍してきたエリート捜査官のストーリーがある。麻薬王に拾われて頭角を表してきた子分のストーリー、爺さんにSMS(テキストと喋っていたからSMSだが、字幕ではメールになっていたが、どちらでも良い)の数字の打ち方を教えるためについ本拠地のほうの住所を教えて殺されてしまうサルというギャングのストーリー、イリノイ州の豚サンドの店の声に出されないラテン人差別、強面のおっかないスキンヘッドのギャングが妻とのいきさつを知ると麻薬王に懸命に取り成す(姿は見せない)など細かいエピソードがあり、退屈する隙間が全然なくおもしろかった。
以前、イーストウッドの映画のテーマの変遷について書いたことがあるが、過去の落とし前をつける映画を撮り続けていたのが、ルーキーのあたりから変わったということは気付いていた。
運び屋を観ていて、ある意味、この映画も過去にそうであったほうが良かった人生を回復する物語という点では過去に落とし前をつける映画ではあるのだが、別のテーマがはっきりと見えるように思う。
その意味ではやはりチャーリーシーンと組んだルーキーは重要だったのかも知れない。要するに、若者から学ぶ老人の物語だ。
ペールライダーまでの過去との戦い方は孤高のものだったが、若者と組んでそこから学ぶことで新たな戦い方をするというのがそれ以降の、おそらく老境を自覚してからの映画なのだ(組んでいる脚本家やプロデューサーもそれに協力しているのだろうけど)。
自分は端役に徹しているパーフェクトワールドですら、ケビンコスナーは連れ歩いている子供からいろいろ学んでいたのだった。
アジア人からいろいろ学ぶグラントリノにしてもそうだし、運び屋も黒人家族や、ラテン系のギャングたちからいろいろ学んでいる。おそらく、そうやって学ぶことが、逆にそれらの作品で若者に対しては学ばせていることにもなっている。
そういう老人というのは良いものだし、そういう老人映画の作り手なのだな。
再び豊洲に行ってグリーンブック。
なんかの広報誌で見て話がおもしろそうだから観に行ったわけで、物語の映画としてはその点については十分におもしろかった。
最後に自分の言葉で妻を称える手紙を書くところとかなかなか印象的ではあったし、なるほどソ連に留学したということなのかとか疑問点が払しょくされたりもして楽しめた。嘘ではなくはったり(映画の中で原語と翻訳語でどう言っていたかは忘れたが、日本語としてはあまり良い訳とは思えなかった。が、字幕の制限がある以上やむを得ないとは思う)男としてのリップだとか、そのはったりがつい手を出してしまって頭を抱えていると傲然と立ってはったりを超えた事実で釈放を勝ち取るシーンとか普通に映画的に気持ちよくもある。
一方、映画としては運び屋に引き続きこれまたロードムービーで、それ自体はテンポも悪くないし、無力感に突き落とされる農園のシーンや指さす方向の庭の中に立っているトイレのシーンや、翡翠のシーンなどなかなか良いし、音楽はおもしろいし、何気なく(その前にはいろいろあるわけだが)立ち寄ったバーのピアノを演奏するシーンなど気に入ったが、いかんせん終盤があまりによくない。
また警察がやって来たと思ったら親切だったというのは良いとして、観ながら、この作品はラストが作りようがないのではないかという疑念が渦巻く。史実を利用するとそういうことはある。現実はフェードインフェードアウトの連続なのでかっちり終わらせるのは至難だ。
想像したのは、独りに返って、兄への手紙を書き始める、というものだが、まあ紋切り型だからそれはないだろうなとも想像はつく。だとすればどう終わらせるんだろう?
一緒に家に入るのか? と思ったが、それは大家族のクリスマスパーティーという絵にはそぐわない。実際、カーネギーホールの上の部屋に戻り、召使いに帰宅をうながす。ここまでは他に選択はないからまあ良いのではなかろうか。
一方、水道工事の連中が口をつけたというだけでコップをゴミ箱に捨てた同じ人間が、ニガーという言葉に反応してたしなめるというのもそりゃそうだろうと思いながら観ているのだが(全体反対、個別賛成が高じて全体に対しても考えが変わるというのは、本当に普遍的だな)どう考えても終わらせようがないままずるずると進むのだろうか?
そうしたら、質屋夫婦で1クッション置いた後に、予想される一番どうでも良い終わらせ方になりつつあり、そうはいっても、他に選択肢もないしそれほどは悪くもないかなしょうがないかもとか思っていたら、なんとイタリアンママは何でも知っているというすさまじくくだらないオチを付けて終わらせたのには呆れた。
でも、そのあとで小鬼の饗宴のオルフェウスのジャケットを見せてくれたから良しとする。
シャルロットが家から出てきて歌い出すやびっくりした。
声量といい高音の伸びる声といい、圧倒的じゃないか。
3幕の手紙の歌って、これまで観ても聴いてもそれほどおもしろいとおもったことはないのだが、これは違った。おそろしいことだ。
藤村実穂子は少なくともヴァルトラウテは観ているはずだしそれなりに良かったとは思うが、ここまですごい歌手だとは思わなかったが、これはすごい。
歌手で感動した。
ピルグというテノールはなんか日本人テノールか? という感じであまり気に入らなかったが、歌の最後が奇麗に終わるので、オシアンの歌とかはさすがに良いものだとは思った。
が、とにかく藤村実穂子が素晴らしい。
妻と白金の港区立郷土歴史館に行った。
元々は妻がテレビで泰山タイルが今でも見られる建物ということで見に行こうとなったのだった。
白金は家からのアクセスは最悪だが、意外と需要がなくてコインパーキングが安いのは見えていたから車で行く。
で、すさまじくおもしろい。次の企画展が滅法おもしろそうなのもあって今日は意図的に半分くらいで引き上げた。
そもそも建物がおもしろい。院長室(もとは公衆衛生院なので一番偉い人は院長)の床だけが凝った寄木とか、5階が寮棟になっていて、こちらも床は寄木(といっても院長室のように斜めの組み合わせとかはなくて単に長方形を組み合わせたもの)で、生活空間としての木材というような思想が見えておもしろい。それにしても往時の日本人の体格に合わせたのか全体に天井が低く、扉などは170cmぎりぎりくらいなのに、寮棟だけは天井が高いのが不思議だ。2段ベッドや3段ベッドの寮室だったのかなぁ。というか、白金のあたりは他にも庭園美術館になっている建物があったりするくらいだから空襲に合わなかったのだろうけど、それなりに医療施設が多いから鬼畜ルメイが手加減したのか不思議だな。
目当ての泰山タイルは1階(でも相対して地下)の喫茶店に使われていて、ほーこれが泰山タイルですか、と撫でてみる。見た目は焼き豆腐のちょっと焦げ目がついたやつ。そう言えば焼き豆腐もまったく見かけなくなったな。包装のおかげで生豆腐も日持ちするからだろう。昼はこの喫茶店でとったが、ドレッシングが液体ではなく粒状にマスタードとチーズを固めたやつで、妙なこだわりがあるようだなと思った。
常設展示では、昭和28年に木造2階建ての戸建てで供給されたのがわずか4年後に集合住宅に変わった北青山団地の写真がとんでもなくおもしろい。こんなだったのか、と身近な知らない歴史の断片がおもしろいのなんのって。
薩摩屋敷跡から出土した豚の骨を眺めて江戸時代でも薩摩は豚食ってたのかなとか考える。豚食って元気いっぱいで江戸に放火して回ってたのか。まさに薩摩だ。
それとは別に総毛脱狗之霊と刻まれた江戸時代の貝塚から出土した狆の墓石もおもしろい。総毛立つの駄洒落なのか?
一方、猫はまとめて賢猫之塔(と刻まれているので、塔だから墓ではないだろうと解説されている)に祀られていたようだとか。かしこ猫とは家の猫のことだな。
東大の医療研究センターの裏の大きな桜が見えて、これもちょうど咲きまくっていてきれいだった。
駐車料金は2時間くらいで1200円くらいだったから電車を二人で乗り継ぐよりも安く済んで(コインパーキングは安いだろうという読み通りだったので)気分良い。
パンクドラゴンと発音が同じなので、なんとなくずっとトンだと思っていたらジュンだった。
オペラがやたらと良かったので買った紫苑物語だが、あっという間に読み終わって今頃になって一応書いておく。
石川淳の文章の美しさ(言葉の選び方だけではなく連なりによる律動感とそれによる色調)は、座右の書である雨月物語・春雨物語というよりも、樊噲で大いに知るところではあるわけだが、本人オリジナルの作品にはまったく食指がこれまで動くことは無かった。おそらくは、最も日本文学を読みまくったミドルティーンの時期に、同時代の坂口安吾に比較してあまりに浮薄な印象を受けてすぐに興味を失ったからだと思われる。
その意味では、同じように古代・中世の架空の日本を舞台とした安吾の耳男・夜長姫と比べれば、本作(紫苑物語、八幡縁起、修羅)のいずれも物語としてのまとまりも欠ければ登場人物はすべて機械のように動くだけであの頃の読み方であれば興味を持てないのもしょうがなかったのであろう。
が、今になって読んでみれば、浮薄と思われる内容はより大きな流れを背景とした遷ろいとも言え、もとよりの流麗な文章と合わさり、ある絶景の切取としての美しさが見事であった。
特に驚くべきは艶めかしさで、このときとばかりは短い文章にて終わらせるのがむしろ凛として印象に残る。特に八幡縁起の清流と細い糸、鮎、裸足で語る妻取りの条が鮮烈。
物語作品としては修羅の一休禅師の無道を行司として勃興する足軽を無産階級、源氏を資本家、語られることがない公家皇室と、古市党の階級闘争の歴史模擬戦(白土三平の原型のようとも取れるが時期的にはほぼ同じなので昭和30年代のコンテキストがあるのだろう)のおもしろさが群を抜いていて読み返せど興趣は尽きない。
あまりにおもしろかったので、敬遠していた狂風記を読み始めた。
ティムバートンのダンボを観にバルト9。
地下鉄から出たら新宿御苑の花見客が群れをなしていてびびる。その余波なのかバルト9のエレベータ待ちの大行列が十重二十重に丸井を囲んでいてあやうく本編上映に間に合わないところだった。
映画が始まると、映画の中の映画でわくわくがたまらない。列車と煙は最高だ。ケイシージュニアが元の曲を少し不穏に変えた中を走りまくり、コンパーメントが映されて登場人物が紹介される。それにしても多芸な力持ちの多芸っぷりには驚くというか多芸の意味を理解したのは最後の紹介のときだったが。
原作は前半で終わる。クライマックスは当然のように火事のアパートからの飛行だが、もう最初からダンボが空を飛ぶのは自明だから出てくると同時に飛んでしまって、意外なほどそこには重点がない(ように思わせて、やはりここぞというときには飛ぶので飛翔にまつわるカタルシスはありまくる。飛翔のカタルシスといえば、突然野田秀樹の白夜のワルキューレか彗星のジークフリートだか、どちらかの飛翔シーンを思い出したり、ウィズの飛翔シーン(これが一番映画的にはうまく表現されていたと今でも思う)を思い出したりもして、映画は記憶だよなぁとつくづく納得したり)。
原作と最も顕著な相違は、獣と人間だけはリアリズムで分離したことで、ティモシーは白いハツカネズミだしそもそもダンボと友誼を交わすわけではない(お勧めはされる)。コウノトリが不吉な預言を告げるかのように出てくるのはおもしろい。意地悪な上流のおばさん象たちは出てこない代わりに鬼のような飼育係が出てきてあまりの悪役っぷりに気分悪いなぁこれがこのまま出てくるのかなぁと思うとあっという間に退場していくのはなんだろう? 当然のように街の鼻つまみものの黒い集団も出てこない。
代わりに親子の物語に話を変えていて、まあそれもありかなぁとかは思う(母親の喪失の2つの物語と、母親の回復(昇華)の2つの物語の同時進行と言えなくもない)。それにしても、アニメと異なりそれなりのリアルな質感を持つ象が空を飛ぶのは、絵的にはあまりに異様で、本気でティムバートンはダンボが飛ぶ、サーカスといえばフリークスそれは見世物な映画を撮りたかったのだろうなぁという気にはなる。
何の役にも立たなそうなイカサマっぽいサーカス団員たちが実はそれぞれの持ち味を発揮しまくって大団円へ向かう様子はフリークスを思い出す。特に太ったマーメイドと、奇術師が抜群だが、奇術師に対する比重の掛け方とか謎演出も多い(同じくダンボが奇術師と同様な役を果たすシーンも異様に長い。何か、作家としてはスィッチに対する強い思い入れがあるのだろうか)。インドの蛇使いが的確な一言居士の役回りで良いし、実は本当の蛇というのも味があるが、なぜいきなり主人公を締め上げるのかとか、ふざけた演出が大量に散りばめられていて実におもしろい。
元の作品を切りまくって公開版にしたのかな、と思うのは、サーカス団長がいつの間にか銀行家と仲良くなっているところとか、いくつか。おそらく3倍くらいの長さのディレクターズカットが出てくるのだろう。
酔っ払いのピンクの象の本歌取りも不思議で、異様なまでにダンボの目を強調していて(原作だと酔っぱらってトローンとするのだが、同じくトローンとさせまくる)、後に何か続けるのかと思うと、別にそんなこともないとか。
ダンボといえば1941。
ジェズイットを見習え |
_ corpus [小説では絶筆の『蛇の歌』をもっと読みたかったです。]
_ arton [絶筆とは口惜しいけど、それも読んでみます。どうも!]