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そろそろ前回(まだこちらに来る前)の予防接種から1年ということで、獣医さんに連れていくために久々にネコバッグを出して、ファスナーを開けておいたら、さっそく中に入って神妙な顔をしている。
(ドーム式というらしいが、細長の両端がファスナーで止まる蓋になっている仕組みのバッグなのだ。蓋を開けるとちょっとした洞窟みたいになるので中に入りたくなるらしい)
しめしめとファスナーを閉めると、おっとり刀で黒がやってきた。中に入ったのは好奇心の塊の黒で、臆病者の白だとは思ってもいなかった。で、ファスナーを外すと、黒が無理矢理中に入ろうとして、窮屈になった白が出て来た。しめしめとファスナーを閉めて、出発した。
ところが200mくらい歩いたあたりで、いつものプープーという声ではなく、ニャーニャーという声で黒が大騒ぎを始めたので驚いた。ちゃんとイメージ通りの猫の鳴き声も出せるんだ。どうやら、以前避妊手術に連れて行って開腹されたことを思い出したのかも知れない。暴れるわけではないが、とにかくニャーニャー、かってないほど猫っぽい鳴き方をし続ける。
困ってしまって、顔の高さに近づけてへらへらして見せたりすると鳴き止むのだが、動き出すとまたニャーニャー始まる。妻に電話して助けを求めて(網から見知った顔がいつも見えてれば安心するだろうから、とりあえず来てくれ)、とにかく先へ進む。
蓋は両端からファスナーの持ち手を寄せるタイプなのだが、ふと気づくと、ちゃんと合っていなくて10cmくらい空いていた。全体的な位置からは、その程度空いていてもネコが落ちることはないだろうが、危ないことは危ないのでちゃんと閉めたら、不思議、その瞬間から鳴き声がぴたっと止まった。まさか、ちゃんと閉めろと叫んでいたってことはないよなぁ。
で、その後は普通に予防接種を受けるのだが、注射されても平気な顔をしているので不思議になった。もっと嫌がって抵抗するのかと思った。
すると獣医さんいわく、猫が騒ぐのは驚いたときで、痛いのは我慢するから、それを利用した注射方法なのだと、説明してくれた。
本当は痛さが長引くので良いかどうかは微妙だけど、まず少しだけゆっくりと刺して、ネコが平静を装うようなら、今度はじわじわと奥へ刺していくと(痛いのが長引くはずだが驚かないので)ネコは騒がない。これが人間相手のようにちょっとちくっとするけどすぐ終る、というやり方をするとネコは驚いて騒ぐんだよね、で、飼い主さんの気持ちを考えるとギャーと猫が騒ぐよりは平然としているほうが良いわけで、それもあってこういう注射方法は開業術なんだ、とのこと。
帰りは蓋がちゃんとしまっているからか、あるいは妻の顔がいつも見えるからか、おとなしくしていた。
で、家について蓋を開けると黒が出るより早く白が無理矢理入ろうとする。これは大騒ぎになるかと思うと、二人で出てきて(黒に押されて白も後ずさりで出てきて)、出終わったところで白が黒の顔をぺろぺろし始めた。会いたかったよー、ちゃんと帰れて良かったねということなのかな?
友人と本屋に行ったのだが、そういえば以前戦闘妖精雪風がどうしたとか言っていたなと思い出した。神林長平はおれがちょうどSFをまったく読んでいなかった頃に出て来た作家なのでそのまま読むことなくその日になったわけだが、何かの縁だから読んでみようかなという気になった。
で、雪風っておもしろいのか? と聞いたら、そりゃおもしろいが読んだこと無いなら、とりあえず敵は海賊を読んだらどうだと言われた。
が、何やらたくさんある上に古い装丁と新しい装丁と同じやつでも複数あったりする。どれか一冊と言ったらどれだ? と聞いたりしているうちに猫たちの饗宴を買うことになった。
で、読んだ。おもしろかった。
おもしろかったが、おかしくはなかった。
まったく知識がないまま読み始めたため、何やらおっかない猫を想像しながら読み始めたのだった。で、いきなりその緊張の糸を切るというモンスターズインクとかでおなじみの手法を小説でやっていて、なんじゃこりゃと思ったが、1980年代中頃の作品か(にしてもまだ新装版が出ているということは実にロングセラーなのだな)。これ、1970年代に生まれた人間がリアルタイムに読んでいたら、ものすごくおもしろかっただろうなぁとか考えながら読み進める。
で、モンスターズインクを想像したために、アプロという猫型宇宙人に続いてラテルという登場人物が出て来たのだが、当然、こいつもネコ型だと想定して読み進んでいくうちにわけがわからなくなった。実はこのときが一番おもしろかった。
そのうち、どうもスラプスティックコメディだなと気づき(チーフとラテルが精神を固定された状態で会話を続けるあたり)、それにしてはまったく爆笑できないなぁとか考えながら読んでいて不思議になった。
そういえば、数年前にウィリスの短編集を読んでいてああスラプスティックコメディだなぁと思いながらまったくおかしくなかったことがあった。
しかしすぐにスラプスティックコメディだと気付くのは、まさに中学生あたりのころに筒井康隆やらかんべむさしやら超革中やらを読んでいたからで、日本のSFでスラプスティックコメディってのは伝統芸なのかなぁとか考えたりしながら、なぜこうもおかしくない(おもしろくないといっても良いのだけど、小説そのものはおもしろいから途中でやめる気にはまったくならずに先を読み続けているわけなので、やはり可笑しく感じないというのが正しいのだろう。が、可笑しくないというとそれも違うわけで、結局のところああスラプスティックコメディだなぁと認識して読解している状態という奇妙な感覚だ)。
はて、なぜだろうと考えてみる。そうは言ってもこないだマリカセブンを読んで笑い転げたわけだから、何かを読んで笑うということができなくなったわけではなさそうだ。
つまらないかと言えばおもしろいから、単純に笑えないということなんだろうなぁ。で、テンポか、と思い当る。
遅いのだ。
そういえば、こないだYoutubeでゴッドセイブザクィーンのオリジナルプロモビデオ(テームズ河を船に乗ってるやつ)を見て、あまりのテンポの遅さに愕然としたのを思い出した(まるで当時にあってシナトラ版のマイウェイを聞いているみたいだ)。懐かしのテレビ番組とかで主題歌を聞くとあまりの遅さに仰天する(ブーフーウーだと頭の中では再生しているのに、実際にはブーーーーフーーーーウーーーーくらいの速度)のと同じ感覚だ。
勝手にしやがれ!!<35周年記念デラックス・エディション>(セックス・ピストルズ)
ピストルズは1977年だけど、1980年代はピストルズのテンポで物事が進んだ時代だから、今となっては実にのんびりとしていたのだなぁと感慨深い。
で、どれだけ主人公たちがどたばたしようがまったくくすりとさえすることなく、淡々と読み進めたのであった。
それにしても先日のうしおととらに引き続き、ネコ型思考様式の相棒を持つ主人公の話を読むことになるとは思わなかったが、なかなか得難い経験だった。
あと多分イラストを描いている人は本当は耽美的な画を書く人のような気がするのだが(でも平仮名名前だから違うのかも)、そっちのタッチのほうが逆に良かったのではないかなぁとか思った。それにしても、イラストを見て初めて主人公はホモサピエンスだと分かった時の衝撃はなかなかすごかった。
妻に誘われてシネパレスでチョコレートドーナッツ。
以前何か聞かされたような気がするが、まったく覚えていなかったので、完全に事前知識0で観る。
いい映画だった。ざらっとした手触りで初期の手持ちカメラで街をうろちょろ撮影していたころのスパイクリーや、幸福な記憶を8mmのぼやけた映像のカットバックや場合によっては背景への合成で技巧的に示すところではパリステキサスのヴェンダースの記憶が甦る。悪いはずがない。
1979年というクレジット。
始まると侏儒かな? と思わせるバービー人形のようなものを持った年齢不詳の人間が歩いている。さっぱりわからないまま(何しろ事前知識が0なので、この後、バービー人形がいきなり口を開けて襲い掛かって来てもおかしくはない)場面が変わり、少なくとも衣装倒錯している3人の美女っぽいクィアーのステージに変わる。口パクだと気づくまで風変りなまま続く。
あまり大したことはない場末のバーだということがわかる。カウンターにまじめそうなおっさんが腰かけ、3人のうちの1人とアイコンタクトを交わす。
はて、最初の侏儒とどう関係するのかさっぱりわからないまま、控室にシーンが変わり、3人が色目を使ってどうだとか、ピノキオやらのジョークを言っている。と、そこに先ほどカウンターに腰かけた男が訪ねてくる。
次のシーンは車の中で、頭を与えている(おお、はじめて利用できたぞ。ルーリードのワイルドサイドを歩けで覚えた言い回しだ)ところになる。
TRANSFORMER-UPGRADED VERS(REED, LOU)
警官がやって来て、一触即発の事態となる。男は自分は検察局の人間で、もし発砲したら5秒で終身刑となる、お互いに見なかったことにしようと取引する。
テンポは良く、すべては映画として流れる。
大音量でテレグラムサムが流れている。アパートの廊下。
そこに先ほどの歌手が帰ってくる。人形が廊下に落ちているので拾い、思い切ってドアをたたく。やつれた女が出てくる。人形を渡し、子供がいるなら、こんな大音量は耳に悪いと忠告する。だまれおかま野郎とののしられる(が、言葉はマザーサッカーだった)。
男、部屋に戻る。広いベッドがある。音が相変わらず流れている。
朝になる。ブノアが家賃を取りに来て男を起こす。12ドルしかなく、明日払うと言って追い返す。相変わらず大音量で音楽が聞こえる。
ドアが開いたままだ(夜の間に女が外から来た男と出ていくシーンがあった)。
たまりかねて中へ入ってスィッチを切る。振り返ると仰天する。
ベッドの上にダウン症の子供がいて人形にしがみついている。
ここで初めて冒頭の侏儒がそうではなくダウン症の子供だったことがわかった。腹が減ったという。
行きがかり上、部屋へ連れていきとりあえず飯を食わそうとする。喋れるか? というような会話がどうにか続き、子供の名前はマルコとわかる。男の名前はルディとわかる。何が食いたいかと尋ねるとドーナッツと答える。太るし体に良くない、と言って結局冷蔵庫の中にあったチーズと引き出しから取り出したクラッカーを出す。子供はなかなか手を出さない。
困った末、ルディは昨晩の男が別れ際に渡した電話番号に公衆電話から電話する。友人がそれを見つけてからんでくる。このシーンで本気で子供に何かしてやりたくなったことが示される。
ポールはルディに家庭局にまかせろと言う。ルディはこういう子を施設に入れても良いことは何一つない。見た目や母親はこいつが選択したことじゃないんだ(という説明はこの後の裁判の時に明らかになる)。
その後は転げる石のように事態は進む。
検察官(ポール)は、元は生命保険のセールスマンだったが、大志を抱いて法律を勉強して、今の地位についた。離婚した理由は明らかではないが、性癖がからむのかも知れない。惚れた弱みもあってルディのマルコを育てたいという意志を尊重することにする。
二人は麻薬所持で監獄に入れられた母親から入所中のマルコの親権を得てポールの家で生活を始める。
途中、ルディが自分語りを歌で示すシーンがあり、その歌が良い。実際に良いだけでなく脚本上も良いためにポールは口パクではなく自分の声で歌うことを勧める。まずはデモテープを作れ。金も時間もないよ。
最初の食事のシーンでポールはたまたま家にあったチョコレートドーナッツを出す。マルコが嬉しそうに食べる。ドーナッツは体に悪いという持論を引っ込めて見守るルディ。
ポールはマルコのために部屋を整えて、豚のぬいぐるみとか適当におもちゃを用意して気に入るかどうかどきどきしている。マルコは泣き出す。嬉しかったのだ。ルディが嬉しいなら泣いていいぜと抱きしめる。
ポールはルディにオープンリールのテープレコーダをプレゼントする。早速デモテープを作る。テープを発送するために、ルディがキスしながら封筒に入れているのを見てマルコが聞く。何してるの? 幸運のキスだ。お前もしてみろ。このテープが当たりになるぜ。
ポールのいる事務所の人間関係が見えてくる。秘書はポールに気がある。上司はポールをかっている。が、顔つきからしてどう見てもホモフォビアだ。秘書がポールを昼食に誘うのをみて安心するところが実に気持ちが悪い。1979年だ。
医者に連れていき、目がほとんど見えていないことを知ってメガネを作る。そして学校にマルコを入れる。教師はルディとポールの関係(ポールは公的にはルディをいとことして紹介しているのだが、relationshipという言葉がダブルミーニングなことが何度か示される。そういうものなのか)ことをマルコが二人のパパとして絵を描いたことから恋人同士であることを知っている。が、それはそれという考え方の持ち主だ。
結局、上司がポールを値踏み(この時点では好意的であり出世のための糸口を用意している。が、その一方で誰かを引き上げることは自分に対するリスクにもなるのだから、当然といえば当然)するために、パーティに呼ぶ。そこでポールとルディの関係に気づく。
翌日、警察がやって来てマルコを「保護」し、ルディは監獄に入れられる。ポールは馘首される。
裁判になる。裁判官は女性。証言を集めていくと、二人がマルコをまじめに愛情をもって育てていることがわかる(教師や保護官の黒人女性が好意的な証言をする)。しかし検察側の弁護士により、ハロウィンの時の仮装にもかかわらずルディがマルコの前で女装したという事実(子供への悪影響の無考慮)と、元から持っていた(古さから母親の子供のころからの持ち物を唯一のおもちゃとして与えたからだろうと想像できる)バービー人形がマルコのお気に入り(=女性的な趣味の押しつけ)という論理が組み立てられてしまい、マルコは「保護」されてしまう。
法律家でもあるポールはルディの励ましもあって、闘争を決意する。マルコのような本物の弱者のためであり、自分たちのような差別された存在のためである。
ルディのデモテープを聞いたクラブのオウナーだかフロアマネージャだかから電話が入る。まずは週2日の契約で歌手として仕事を得る。
最終的に黒人の弁護士のもとへたどり着く。白人の弁護士からは相手にされなかった(負けることがわかっている裁判という面もあるはず)からだろうとか、いろいろ言われるが、弁護士も乗り気になる。このシーンは何気ないが、実に映画としてうまい。お互いの立場が映像としてうまく示されている。この作家は相当勉強しているのではなかろうか。
ここまで見た時点で、裁判長(非常に尊敬されているらしい)は女性、最後にたどり着いた辣腕弁護士が黒人ということで、2つのマイノリティが70年代末には認められていることを示しているのかも知れない。
弁護士と二人は、過去の判例から麻薬中毒の親が親権を回復した例などを見つける。合衆国憲法は、特別扱いによる権利の毀損を認めていないからだ。であれば、同性愛者ということが理由で親権を取り上げて良いわけはない。
裁判はあっけなく片がつく。破棄されたのだ。上司が手を回して、マルコの母親と司法取引の一種だと思うのだが、親権の回復を申し立てれば早期釈放することにしたからだ。当然、本当の親のほうが強い。ここでルディがそんな麻薬中毒の女がどうしたと言うのだが(最初の頃の女性のマルコに対するネグレクトを知っているこちらの立場からはその通りではあるのだが)あまり感じが良いことではないなと思った。
早速母親はマルコを廊下に追い出す。さすがに目の前でするわけにはいかない。
マルコはそのまま街へ出ていく。冒頭に繋がる。
裁判官や元の上司や最初の裁判の弁護士などにポールからの手紙が届く。新聞記事の切り抜きが入っている。マルコという子供が3日間放浪したすえ橋の下で凍え死んでいるのが発見された。
みなさんはご存知ないかも知れませんが、本当に良い子だったのですよ。その子に対して愛情をもって接する家庭で育つ権利が認められていればこういう不幸は起きなかったのではないでょうか。良く考えてみてください。
何か所か特に素晴らしいシーンがある。おもちゃや本を並べた棚の前でマルコが立ちすくむシーン。ルディが歌うシーン、チョコレートドーナッツを食べるシーン。
なんとなく買ってしまったFlameだが(理由はいろいろあるけど)、Firefox OS 1.3ではさすがに意味がないので、2.1にしてみた。
が、どうもCygwinの人間が出したPRを精査せずに取り込んだらしくて、OSXでアップデートしようとすると/cygdrive/c/tempが見つからないというようなエラーとなる。
最初、普通にWindowsを使おうと思ったのだが、Flameガイドからリンクされているツール(shallow flash script)が#!/bin/bashだったから、いちいちバッチファイルなり他のスクリプトなりに変換するのも面倒なのでOSXを使うことにしたのだった。
そうしたら、上記のエラーとなる。なぜだ。
で、スクリプトを見ると(ということをしたくないからOSXを使ったのだが)
if [[ `uname`="CYGWIN"* ]]; then cp -r $TMP_DIR /cygdrive/c/tmp fi &&
みたいな行がある。しょうがないので直してPRしようと思ったら、おれがエラーになっている間に修正PRが出ていた(で、今は直っている)。
このifの後ろの[]
が、一番、プログラミング言語とシェルスクリプトの違いが出ている点だと思う。
そして大抵のシェルプログラミングの本だと、必ず空白を入れろというような説明になっている。そのため(理屈がないし、不自然だから)必ずバグの原因となる。
その点でなるほどと納得したのが、シェルスクリプト高速開発手法入門の説明だった。
B00LBPGFJSシェルのifが条件式として取るのは、シェルコマンド(内部コマンド含む)で、戻り値が0なら真とみなす。
コマンドなので、当然[
はコマンドであり、[
がコマンドということは条件式はそのコマンドに対する引数となる。良く使う構文は4引数で[ 左項 演算子 右項 ]
で、Unixのコマンドということはargvに格納されるのだから、空白で区切るのは当然のことなのだ。
$ which [ /usr/bin/[ $さらに
$ type -a [ [ はシェル組み込み関数です [ は /usr/bin/[ です [ は /usr/bin/X11/[ です $ type -a [[ [[ はシェルの予約語です $
([[
はbashのビルトインコマンド(shには無いと思った)なので上の"CYGWIN"*のようなグロッビングがサポートされているので、あまり考えずに常に[[
を使っても良いように思う)
$ uname Linux $ [ `uname` = "Lin"* ] $ echo $? 1 $ [[ `uname` = "Lin"* ]] $ echo $? 0 $
$a=32 $echo $a 32 $b = 48 b: command not found $
というのも当然といえば当然だが、実に気に食わない動きだ。
コマンドと空白で区切った引数で記述できる=最小の実装の組み合わせで効果を得るというそれがUnixだといえることではあるけれど、そろそろこれやめにして、プログラミング言語のREPLにならんものかなぁ。irbでObjectの未定義メソッドはなんでもかんでもsystemに与えるようにすればそれなりに使えるかな?
以前書店で見かけてなんとなく買ったまま放置していた果てしなき逃走を読了。
オーストリア将校の主人公が第一次世界大戦でロシアの捕虜になってシベリアに送られる。第二次世界大戦後の日本人だけじゃないんだな。
シベリアで脱走してユダヤ人の隠者にかくまわれてそこで暮らすうちに、故郷に帰りたくなり出発するものの、ウクライナで白軍に捕まる。赤軍のスパイと間違わられたのだ。隠者との別れは美しい。
が、その白軍は赤軍によって殲滅されたため、救出される。救出されたもののオーストリア人なので非常に立場が微妙だ(が、隠者に匿われていたおかげでロシア人の身分証明書も持っている)。重要なのはそこで赤軍の該当小隊の隊長が美人で主人公が惚れてしまったことにある。かくして赤軍に仲間入りしてロシア各地を転戦する。元々オーストリアの兵学校で将校としての軍略を叩きこまれていたわけで、あっという間に頭角をあらわしたからだ。隊長はプチブル意識を革命への傾倒で押し込めて頑張って無理しているタイプで、読めば読むほど意識高い系ってこういうことだよなぁと世界を変えたい欲も含めて感じるのだが、100年たって共産革命家が産業革命家になって化けて出て来たのかぁととても興味深い。
革命が終わると主人公は無為にぶらぶらする生活へ移り、一方隊長は次は文化の革命へと邁進する。結局破局して主人公は黒海のほうへ進み、そこで無口な女性と結婚する。
ここまでがえらく波瀾万丈なのだが、全体の1/4より少ない。はてこの後どうなるのかと不思議になる。
そこへフランス人の女性、弁護士、秘書がやって来る。主人公のことをGPU(チェカーかも)の手先と信じ込んでいる。が、曖昧に描写されたアバンチュールがある。
主人公はこっそりモスクワのオーストリア大使館へ行き自分がオーストリア人で帰国したい旨を告げる。そのまま妻に別れを告げることもできずにオーストリアへ送り返されてしまう。
そして延々と続く貴族的な生活が始まる。
1920年代において、あれだけ壊滅的にダメージを受けたのにオーストリアの貴族は優雅だし、その後転身した先のパリにも上流社会というものは(戦勝国だということ以上にいろいろと)維持されている。目端が利くもの(黒海で出会った秘書)はアメリカを見物して来ている。
ロシア時代の生活を脚色したノンフィクションが売れて金が手に入る。森の隠者へ送ると返事が来る。隠者のところに置いてきた妻がやって来た(ロシア人としての戸籍では隠者の弟ということになっていたのだ)、一緒に生活している、お前も戻ってこないか。
主人公は徹底的に孤立している。おしまい。
読めば読むほど、味わえば味わうほど、妙に現在に通じるものがあって不思議な感じになる。もちろん1920年代の次に来るものは、作者のロート(ユダヤ人)にとってあまりにも嬉しくないものだし、それを予期しているようにはまったく思えないが、それでも主人公のここじゃない感は作家の感覚だろうし、それは読者に与えられるものだろうし、実に奇妙だ。
最初の1/4まではおもしろく、残りは苦痛だ(読みことそのものは文章がうまいので楽しい)。
Firefoxの開発者用資料は、MDNにまとまっていはいるのだが、微妙に情報が古かったり持って回っていたり新しい情報もあるのだが最初に古い情報(ただし現在でも問題なし)がメインにあったりして、決して読みやすくはない。というか、実感として読みやすくなかった。
でも、オープンな情報としては悪いできではない。不足しているものは利用するものが補えば良いだけかも知れない。
というわけで、先週に学んだことをまとめておく。
・Geckoの組み込み
Embedding Mozillaが入口なのだが、どうも壮大な廃墟っぽい。
・XULRunner
そこでさらにいろいろ見ていくと、組み込みをうまく行うためのフレームワークとしてXULRunnerというものを見つけられる。
具体的にはXULRunnerというブートローダーを利用してJavaScriptのコードを動かし、必要に応じてC++で記述したコンポーネントを組み込むためのフレームワークとなっている。ある意味Firefoxはそのインスタンスだ。
独自にWidgetを提供していることが理由なのだろうが、XULはHTMLとは異なるしネイティブなコントロールを指定するようになっている。XULの簡単な例
が、コンポーネントを作るためにSDKを揃えようとしても、SDKのタールボールのビルドに失敗したりドキュメントと実際のライブラリの組み合わせが異なっていたりしてうんざりしてくる。
結局、わかったことはビルド済みXULRunnerを使えば話が早いということと、したがってJavaScriptでコードを書くのは簡単だが、ライブラリやヘッダがうまく構成できないのでC++のコンポーネントを作るのは至難の技だということだった。
・XPCOM
しかしよくよく見ていくと組み込み用APIはCOMそっくりのXPCOMというものでできている。thisポインタをスタックトップに置いた呼び出しということはABIが規定されているのだから最悪ヘッダファイルが無くても問題ないし、dylib(so)との結合なら最低限のエントリポイントさえわかればどうにかなる。が、面倒くさいうえに、サンプルに合わせて作ろうとすると、えらく回り道となってすっかり嫌になった。
XPCOM。ここは能書きだからまあいいのだが、COM同様にIDL(インターフェイス定義言語)を使ってインターフェイスのバイナリデータを作る必要がある(ちょっと微妙でCOMがIDLで生成するのは主としてヘッダとスタブでTypeLibはほぼおまけなのだが、XPCOMの場合はTypeLibの生成のほうがメインとなるようだ)。
でそのためのツールがxpidlなのだがここは罠になっている。確かにある時期までxpidlというツールがあったのだが、今はまともに動かない。
まともに動くxpidlはPythonによるpyxpidlというスクリプトなのだった。
でしばらく格闘してみたがやはりヘッダがどこにあるのかわからなかったり、突然、すべてのチュートリアルの内容を反故にするようなバージョンアップによるインターフェイスの変更が(10年くらい前に)あったりしてうんざりだ。
このあたりはMLベースで開発を進める昭和なコミュニティの問題点としか言いようがない。MLの内容はなかなかサーチエンジンに引っかからないし情報はリアルタイムには良いかも知れないけど10年後に調べるのには向いていない。
そう考えるとWikiが一番のような気がするのだけど。
・js-ctypes
では自前のC/C++というかネイティブコードコンポーネントを利用するにはどうすれば良いかというと、libffiの出番なのだった。MozillaのJavaScript用libffiバインディングがjs-ctypesだ。
というところまでようやくたどり着いて(SDKをビルドするのと自前コンポーネントを作ろうと試行錯誤している時間がやたらと長く、しかもそれは結果的に捨て時間となったわけだが)、FireRubyにたどり着いた。
たとえばJavaのServletコンテナであれば、アプリケーションディレクトリにWEB-INFというディレクトリがあり、その中にweb.xmlという定義ファイルを置き、classesというディレクトリの下にclassファイルをパッケージディレクトリに配置し、jarは直接WEB-INFへ置くといった決まりがある。
XULRunnerも同様に決まりがあって、以下のようにする。ディレクトリ名はおそらく定義ファイル内にも記述するので変えられるように思えるが、変える必要はないのでそのまま使えば地雷を踏む必要もない。
/appname application.ini …… アプリケーションのメタデータ chrome.manifest …… chrome(外枠ウィンドウ)の定義位置を示す /chrome chrome.manifest ……コンテンツの位置を示す /content main.xul …… DOM定義 main.js …… アプリケーションそのもの /default/preferences prefs.js …… 設定ファイル(たとえばjavascript.options.strictにtrueを設定するなど)
上記の形式で作成し、XULRunnerにapplication.iniのフルパス名を与える。するとmozillaのウィンドウが作成されてmain.jsに制御が移る。
main.jsがロードされる時点ではwindowオブジェクトとdocumentオブジェクトはあるが、まだDOMは構築されていないのでDOMの諸要素に対してイベントハンドラを設置したりはできない。また、windowのloadイベントが呼ばれた時点ではウィンドウが非表示のためalertを呼び出すことはできない。
ただXULRunnerはFirefoxと同時に配布されるようなプログラムではないので別途インストールが必要となる。
XULRunnerの代わりにFirefoxを使うこともできる。その場合は以下のように実行する。
firefox-bin -app (application.iniのフルパス名)
consoleオブジェクトのログを参照できるようにする方法などはDebugging a XULRunner Applicationを参照。-jsconsoleオプションを使う。
Flameを買ったのでFirefox OS用に何か作って遊ぼうと思っていたのだが、OS無しのFirefoxで遊び始めてしまったのでそちらはお預けにした。
でも、せっかくFlameがあるのだから使ってみようと思った。
手元にはOCNモバイルONEのマイクロSIMがあるので(非常用のNexus5に入れている)、それを使ってみようとしたのだが、規格が違うのはだてではなくそのままでは入らない(適当に入れたら認識されないし、しかも取り出せなくなってびびった。結局、少しずつ浮かせながらどうにか取り出した)。Flameには3G用と2G用の2つのSIMスロットがあるのだが、どちらも標準SIMなのだった。
しょうがないのでアマゾンで適当にアダプタを選んで買った(普通にビックカメラとかで売っているのかと思ったら、このての自己責任商品は置かないみたいだな)。
買ったときはなんと80円弱だったので切手代と手間賃を差し引くと10円くらいしか利幅がなさそうな妙な商品だ。でも問題なくマイクロSIMがFlameの3G用ソケットで使えた(SIMを支えるためだと思うが付属シールがあるのだが、後で取り出すときにくっついて取れなくなると嫌なので使わなかった)。
OCNモバイルONEはapnパッチでも出てこないので携帯ネットワーク設定画面でカスタム設定を選択してAPN、ユーザー/パスワード、認証方式を設定して無事動作を確認。設定画面には他にもプロトコルとローミングプロトコル(IPv4かIPv6かを設定できる)という欄があったが、これらは未定義のままで動作した。
で、WiFiをオフにしてちゃんと通信できることを確認したところで、一度データ通信接続をオフにして、しばらくWiFiを使っていて、これを書こうと設定画面のデータ通信を開いたら、設定値がすべて初期化されていてびびる。オフにすると消えてしまうのか! でも、試しにWiFiをオフにしてデータ通信をオンにしてみたら、ちゃんと通信できた。認証情報を隠すために設定値を見せないようにしているのか、単なる表示上のバグかはわからないが、使えるのだから問題ないだろう。
それにしてもやはりFlameは開発者用デバイスであって、(日本の製品水準からは)コンシューマ用とは思えない。
悪い点は
・重い
・厚い
までは良いとして
・タッチパネルがひっかかる
少なくとも手元のHTC ONE、iPod touch、Nexus5のどれよりも触り心地が悪い。指がうまく滑らずひっかかるし(ちょっと表面が粗いように感じる)、えらく汚れる。(追記:保護フィルムが貼ってあるのに気づいていない)
のがあまり嬉しくない。あと、今となっては3Gは遅い。
でもなんとなく憎めないのであった。黒に橙という組み合わせがきれいだからだろう。
ユーロスペースでシュトルム・ウント・ドランクッ。
ギロチン社(大正の無政府主義テロリスト集団)の映画ということですごく楽しみにしていた。しかも主人公が中浜哲だというので興味津々だ。
で、観た。
評価が難しい映画だ。面白かったか? と問われれば、退屈はしなかったし、少しも悪くはないのだが、でもそれほど面白かったわけではない。
面白い点のほとんどは映画そのものではなく、題材にどうしても依ってしまう。
大正デモクラシーという時代は天変地異を背景に白色テロルと黒色テロルがせめぎ合う極めて特異な時代でそれだけで興味津々だ。
(ご多分に漏れず高校生の頃に現代の眼の連載で大正時代についての初歩を学んだのだった)
映画そのものは、1970年代の亡霊も良いところだ。寺山修司(田園に死すの看板の美術と持ってた人が監督らしい)、ATG、シネマプラセット、内藤誠の系譜に連なる。カットバックが異様に多い。
最初平成で始まり、そこに橘宗一と表札がかかっていれば、はて大杉や伊藤と一緒に井戸に放り込まれたはずだが、と、そこで異人たちの物語として枠を作っているのかな? と考えるわけだ。すべての固有名詞がおれには非常に身近だからだ。
おかっぱの身軽そうな女性が出て来ればピストルオペラを想起する。
壁に窓があり、それが出るとギリギリ音がする。音のギリギリっぷりが、ドグラマグラ(小説のほう)を想起する。が、音がでか過ぎる。ここまで音をでかくする必要はないだろうというほどでかい。このアイリスインアウトに使われる壁と窓の向こうに浅草十二階が見えて、となると、大震災が予兆されることになる。
舞台は大正12年に戻る。いかにも中浜哲な丸顔の男が佇み、雨が降り始め、シンセイかな?缶からタバコを出して咥えてマッチを擦る。火はつかなくて、湿気ったマッチと天気に悪態をつく。
小作社にたどり着くと、見るからに古田大二郎な古田大二郎がいる。
ギロチン社(まだ単なるリャク専門のチンピラ軍団でテロリスト集団に脱皮する前)のカラフルな雨戸だかは史実に基づいているものだそうで、それは知らなかった(舞台が終わった後のトークショーで監督が語っていた)。
役者は服装を含め、みな、出てきた時にそれとわかるくらいにうまく作られている。もちろん小西とか田中とか名前しか知らない人物については紹介されるまでわからないが、和田久太郎だの村木源次郎だのは出てきた瞬間にわかる。そのわかる感覚も映画のうちだとすれば見事ではあるけれど、それは知識がある鑑賞者のみの楽しみに過ぎない。
映画は滑稽映画として進む。細川邸でのリャクのシーン、英国皇太子暗殺未遂のシーン、甘粕の弟襲撃のシーン、福田襲撃のシーン、いずれも遊戯的な演出で、まるきりリアルスティックではない。夢の物語だからだ。シュトルム・ウンド・トランクというよりは、もたもたのろのろだ(というのは別に悪くなく、そういう演出としたことは興味深い)。もたもたのろのろといえば井月だな(とつげ義春を想起するわけだが、そういうトーンなのだ)。
それは古田による銀行員刺殺のシーンですら同じだ。
いやー、こいつら本当に愚かだな! という演出なのだ。うん、愚かだ。歴史として文字で書かれたものから受ける緊迫感や破れかぶれっぷりが、どんづまった人たちの滑稽で現実から遊離した抵抗として映し出される。
相当史実を調べているのか、有島武郎からの援助についても描かれていたりする。
ギロチン社の人物たちがイメージ通りなのに対して大杉栄は目がいささか小さく、伊藤野枝はやたらと背が高い(大杉より14cmくらい低いはずだ)。橘宗一を含むこの3人は舞台から浮いた存在として描かれている。やはり夢物語なのだろう。
最後、クレジットを見てコンテクストをいろいろ納得しまくる。
企画は夜行の人で、えらく納得する。個々の役者はわからないが、福田が流山寺祥、何の役か忘れたが天野天街とか、小劇場のそうそうたる人たちが参画している。
映画と演劇は絶対的に異なるのだが、シュトルム・ウント・ドランクは(小劇場スタイルの)演劇だったのだ。それが映画としての面白くなさに通じる。映画を期待していったので肩すかしを食らわせられたのだった。
確か高橋悠治が黒テントについて「電車に揺られてといいながら揺れてみせる」と評していたが、演劇の人はどうしてもそういう癖が出てしまうのだろう。それが映画としては異様に滑稽で、もしかすると滑稽感は狙って演出したのではなく、そうなってしまっただけなのかも知れない。
演劇では特権的肉体がものを言う。だが優れた映画には特権的な肉体は不要だ。監督に言われるままに扉をあけて入ってきて壁まで進んだら、壁に対して垂直に歩き続け、天井をそのまま歩いて扉側の壁を歩いてそのまま出て行く役者によって優れた映画ができる。(という映画と役者の関係を、宮崎駿の映画を観るといつも思い出す。声優というアニメ(映画と演劇が異なるように、映画とアニメというのは異なるジャンルなのだと考えざるを得ない)の手垢が抜けるせいでアニメというカテゴリーを完全に無視した観客動員ができるのはそういうことだろう。実際、観ていると映画のコンテキストで観ている自分に気づく)
難波大輔や金朴烈に対する言及があったが、大正は白色を含めテロルの時代だったのだな、と感慨深い。
最後の間際、昭和6年となり、尺八吹いている人が出てきておや辻潤かなと思うと、そのまま白山の店(南天堂。当時からの有名な店らしいが白山にもモダンな時代があったとは知らなかった)になる。(多分、市電が走っていたのだろう。交通機関の変遷で街の意味付けが変わった事例として万世橋と同様な歴史がありそうだ)
宮崎資夫は名前が出ていたが、あとは辻潤(尺八があるから)と林芙美子くらいしかわからなかった。サトウハチローとかも居たのだろうか? 無政府主義は政治的なテロルから芸術的なテロルへ変わって生き延びている。そのフロアをギロチン社の面々がフォックストロット風に踊る。ここはシュトルム・ウンド・ドランクだ。
思い返してみると個々のシーンには美しいものも多かった。しかし、映画としてはやはりそれほどおもしろくはなかったなぁ。
それにしても夜行とガロ、あがた森魚(ここでは甘粕大尉)という似たようなコンテキストでも、こちらは会社が倒産するほどのひどいものでは無さそうで、さすがにプロの監督はうまいな、とは感じた。
終演後のトークショーは音楽担当の人でジンタらムータというバンドの人らしい。生演奏でワルシャワ労働歌ダダの時代版など。クラリネットの表現力にびっくりする。これは素晴らしかった。
池袋北口へ中国東北料理を食いに行ったのだが、少し早く着いてしまったのでうろうろしていて、奇妙な感覚に襲われる。
おれは(乏しい経験から導かれたものとして)香港の街を歩いているのではないか。
それは嗅覚が、それほど日本では嗅ぐことができない香辛料の香りを捕らえたからだ。しかもべたべたと暑い。
ところがそうやってうろうろしていると、次の瞬間には日本の飲み屋街ならではの、生魚を焼く香りが今度は飛び込んでくる。が、少し行くとまた中国の匂いに変わる。しかもそこら中で急に紫煙の香りが漂ってくる。あれ、この街は歩行喫煙無法地帯なのかと不思議になるが、歩道に歩行喫煙禁止という絵が書かれている。
意外と飲屋街っぽい生芥臭は無いので匂いの混沌っぷりが実に良い感じだ。
おもしろい街だった。
なんということでしょう。以前「タッチパネルがひっかかる」と書いたが、そりゃそうだ。
『買ったばかりの本体にはフロントパネルを保護するフィルムが貼られているのだが、これがインカメラやスピーカーのかたちにピッタリとカットされているので、剥がすのが実に惜しい。』だったとは。それで滑らないし、べたべた指紋がつきまくるのか。全然気づかなかった。でも言われて良く見ると確かにフィルムが貼ってある。
というわけでペリペリ剥がそうと思ったが、逆に文句垂れながらも気づかずに使えているんだからそのままでもいいんじゃないかという気にもなる。
はてどうしようか。
本屋へ行って岩波文庫のコーナーを見ていたらサイバネティックスが復刊していたので手に取ってぱらぱら眺めた。最初、表紙が逆についているので驚いて、岩波文庫とは思えぬ横書きで句読点が「.,」の本でびびったが、ぺらぺらめくってもそれほど難しそうな数式などは出ていなそうだったので買ってみた。
ウィーナー サイバネティックス――動物と機械における制御と通信 (岩波文庫)(ノーバート・ウィーナー)
高校生の頃、ブライアン・イーノの文脈でサイバネという言葉が流行っていたし、それがフィードバックに関するものだというのはわかっていたけれど(音楽は楽譜を視覚で認識して音響を仮想的に再生し、手が演奏し耳がそれを聞いて仮想的に再生した音響との差異を元に修正していく作業だからまさにフィードバックの世界だ)、ウィーナーのサイバネティックスそのものを目にすることはなくてそのまま忘れていた。
眺めると1940年代の本だということがわかり、えらく古い。でも副題の『動物と機械における制御と通信』というのはやたらと興味深い。
ページをめくって『第一版に際して』というウィーナー自身の前書きを読むといきなりシャノンという名前が出てきて、あ、そういう分野なのかと理解した。
それが『第2版への序文』になると、学習する機械(learning machine)という言葉が出てきて、machine learningや遺伝的プログラミングのオリジナルな考え方なんじゃないかとわかりますます興味を惹かれてまじめに読み始めた。
が、この本は1940年代に書かれたものだし第2版にしても1961年だ。
序章はサイバネティックスという学問の分野が成立するまでの歴史の俯瞰となっている。ここは人文的な章なので普通に読めて非常に興味深く、しかも感動的だった。
序章はウィーナーたちが組織した学際的研究の場とそこに集まった異才とそこでの議論、なぜ学際的研究が必要で役に立つのか、そういったことが淡々と、しかしえらくエキサイティングに語られている。最初は1930年代にハーバードのホールで月に1回夕食を食べながらの討論会をやっているうちに学際的研究の重要性に気付くところから始まる。
(引用はいちいち,.にするのは面倒なので、。を使う)ある時代におけるすべての分野の学問を自由にマスターできるような人は、ライプニッツ以後、おそらく一人もいないであろう。(略)今日では、単に自分は数学者であるとか、物理学者であるとか、生物学者であるといえるような学者はほとんどいない。今日の学者は位相数学者であったり、音響物理学者であったり
するので、
重要な研究成果が三重にも四重にも別箇にまとめあげられているかと思うと、ある部門ではすでに古典的とさえなっている結果が、他の部門ではあまり知られずに研究が遅れているというような有様である。
というわけで、ウィーナーと心臓病の権威らしきローゼンブリュート博士、MITの物理学教授ヴァリヤルタ博士、計算機学者のブッシュ博士、論理数学者のピッツ、ノイマン、シャノンといった人たちが集まって来る。
1930~40年代のことだ。日本が孤立して太平洋戦争と日中戦争をやっているときに、アメリカでは機械から電気へ、10進法から2進法へ、人間による操作から自動的操作へといったことをやっていたのだった。
序章は次の産業革命が起きることを確信し、
腕利きの大工・機械工・裁縫師は第一次産業革命の場合でもある程度まで失職しなかったと同じように、第二次産業革命でもすぐれた科学者や行政官は失職しないであろう。しかし、(略)倍々よりも人間の価値を尊重する社会をつくることである。
と能書きを言うだけではなく労働組合の幹部とも話し合いを持ったりもしたようだが、
このようにして新しい科学、サイバネティックスに貢献したわれわれは、控えめにいっても道徳的にはあまり愉快ではない立場にある。
というところで終わる。実際のところ、サイバネティックスはもっと低次元のところを徐々に変えたに過ぎないけれど(それでも1947年段階ではまだ先のこと扱いしている完全自動工場については、相当なところまで実現している)こういう心配をしているところに、すさまじい自負心を感じて、その気宇壮大さに感心する。
序章でもっとも興味深いのは、コンピュータはミサイルの弾道計算のために……という一言で語られる歴史がより詳細に説明されていることだ。
飛行機が速くなった結果、その速度は弾の速度とそれほど変わらなくなった。それに対して、効果的に(弾は高価であるから)撃墜するためにはどのようにすれば良いか。まずそれだけの速度で移動している飛行機は急激に進路を変えることは不可能だから、直前と同じ方向へ進んでいると仮定する。これは心理学の点でもほぼ真と考えられる。なぜならば戦争状態で緊張している飛行士は複雑な自発行動を取るよりも、それまでの訓練で身に覚えた型どおりの行動を取る可能性が高い。
これらの条件から、飛行進路の曲線を予測する計算機というのは役に立つ可能性が高いので研究対象として資金と時間を注ぎ込むに値する、というわけで開発を始めたという箇所だ。
その前段では加算と乗算は計量式ではなく計数式にすべきで、それはスイッチ操作を高速に行うために機械ではなく電子管、10進法ではなく2進法……というように現代のコンピュータが少しずつ立ち上がって来るのも興味深い。
1章ではニュートンの時間、ベルグソンの時間と題して、非可逆なものを扱う時代が到来したということを説明している(のだと思う)。
天体の観測であれば、5時間後の月の位置と5時間前の月の位置はいずれも求めることが可能だ。古くからある学問としての天文学に対して、気象学は最近やっと学問として立ち上がった。5時間前の雲の位置も5時間後の雲の位置も正確に求めることはできない。そこでは統計学的な記述が意味を持つ。これによって生物学から自動機械への道が開かれた。
第2章ではルベーグとギブズという積分論の数学者と、統計力学の解析学者の2人によって(お互い相手のことはまったく知らなかったために最後まで到達できなかったが)達成された統計力学の説明なのだが、さすがにここからは難しくなってくる。まだ出てくる数式は積分と微分だけなので書いてあることは読めるのだが、はておれは内容を理解しているのだろうか? と疑問になってくる。ある系に対して変換をかけることで平均が1または0のいずれかになると言っているのだと読めるのだが。うまく要約できないから、おそらく理解できていないようだ。
とりあえずここまで読んだ。
昨日、朝、外に出たら妙にちらちらした黒いものが横切る。
コウモリにしてはちょっと小さいし、そもそも明るいし、変だな、と思って良く目をこらすと実体がない。煙のような小さな龍のような、でも一番近いのは梵字だ。
これは本格的に眼がおかしくなったぞと思い、調べると、そういう飛蚊症らしい。
これまで飛蚊症というのは急に明るいところを見たら、ユスリカみたいなのが瞬間的に見えてすぐに消えていくやつのちょっと激しいやつ程度の認識だったので、差し渡しが4cmくらいある梵字も飛蚊症とは思わなかった。そのうえ、全然消えない。
しばらく観察しているとなかなかおもしろい。視点を変えていないつもりでも実は結構動かしているというのが、梵字が目の前を横切るから良くわかる。目で負うとそれに連れて逃げていくというのもおもしろい。が、でっかな分だけ実に目障りでもある。というわけで面白がってばかりはいられない。
しかもどうやら年を取ると普通に出てくるらしいが、場合によると悪性のやつもあるらしい。
悪性だと困るので眼科に行って、眼底検査を受けたが、検査用に2回にわたって点眼した瞳孔を開く目薬というのがなかなか衝撃的だった。4~5時間はそのままだから車の運転したり書類読んだりはできないと言われたが、なるほど、瞳孔が開きっぱなしというのは、こういうものか。世の中すべてがハレーションしているみたいに見える。しかもピントがあまり合わない。
で、結論としては悪性ではないらしくて安心した。2年くらいはそのままだと言われて、不思議になった。2年たつと消えるのか? 消えるわけではないが形が変わるし慣れるから気にならなくなるだろう、とのことだった。
それにしても、気にすると気になる。気にして目で追うとますます目立つ。厄介なものだな。
twitterを眺めていたら、こんなやり取りをしているのを見かけた。
(良くTwitterの引用って画像でやっているのを見るけど、それってなんかツールがあるのか? 探すの面倒だから逆に面倒だが多分今回オンリーなので手作業でタグ打ちだ)
えっ、もしかして普通の人は文章の声って聞こえないの?
@nalsh どっちかっていうと映像的記憶
@nalsh 映像化された作品の場合は聞こえるような感じもするようなしないようなって具合ですが、そうじゃない奴はたいてい聞こえません。世の中の多数派がどうなのかは知りませんが。看板や広告でも聞こえる(→ https://twitter.com/uranoia76/status/504987331003043840 … ) んですか?
@n_soda 要するに音声化してから認識しているので、声自体はあります。が、看板レベルだとニュートラルなので気にはなりませんね。標準から外れた口調であればあるほど、特徴のある声色になります
@nalsh へー、どれくらいの人がそうなんでしょう。僕は看板や広告で声が聞こえることは全くないです。
おれはどうだろうとか考えているうちに、あれ、この議論はどこかで見たなと思い出した(実際は結構違ったんだけど)。
ファインマンの『困ります、ファインマンさん』で読んだんだ。
困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)(R.P. ファインマン)
困りますは、ファインマンの著作の中では一番雑多な内容だと思うが(というのは、おそらく遺稿集みたいな感じでまとめることになったからだろうけど)、その分、内容は多岐にわたっていて興味深い。その他のファインマンを読んだわけでは無いから、これが一番ということは無理だが、それでもファインマンを読んだことがなければ、読む価値はとてもある古典的な読み物(エッセイ集)だ。
最初の奥さんとの悲痛な(でもユーモアを忘れない)思い出話(そのタイトルは『ひとがどう思おうとかまわない!』)から、両親から受けた家庭内教育(母親については最後に3行、でも教わったのは重要なことだ)――教育といっても日々の生活の中での会話から生まれること――について、最後はおそらく最も興味深い内容のスペースシャトルの爆発事故の原因究明委員会での闘争の記録、そういった内容だ。
通底しているのは、考えること、頭を使うこと、それがすごくおもしろいということだ。
その中の『ワン・ツー・スリー、ワン・ツー・スリー』に、上のやり取りに良く似た内容が書かれていたのだった(でも、読み返したら、良く似ているけどちょっと違う)。
似ているのはこういうことだ。人はそれぞれ独自の手法で思考する。
少年時代、ファインマンは思考とは自分へ向けた言葉であると考える。それを友人に言うと車のクランク・シャフトを自分に対して説明してみろと言われる。なるほど視覚要素もあるとわかった。
そのうちたまたま読んだ妙な本から、時間意識に目覚める。実験から得た時間意識は脳内の鉄の化学反応だという書物を目にしたからだ。
いろいろためして大体60数えるのに48秒要するということがわかる。鼓動に呼応しているかどうか階段を駈けて心拍数を上げて試したりしていると、(大学院の寮でやっていたために)他の学生の興味を惹くことになる。
しばらくして、仲間に実験結果を解説することになる。
たとえば読書をしながら数を数えることを並行にできる。しかし喋りながら数を数えることはできない。
すると、1人が手を挙げた。それはおかしい。喋りながら数を数えるのは容易だが読書しながらなんてできるわけがない。
かくして実証実験をすることになった。
ファインマンは渡された未読の本を読みながら60数えたところで切り上げる。48秒だ。次に読んだ内容を話す。
うひょーと疑義を挟んだやつが驚く。
次にそいつの番だ。あらかじめそいつの60を数えるために必要な時間を計測する。次にそいつはメリーさんの羊がどうしたというような即興の話を始め、60数えたところでやめる。なるほど、そいつが60数えたのは確実な時間経過で、しかも確かに喋っていた。
そこでなぜかを話し合って、ついに理由を発見する。
ファインマンは数を頭の中でワン、ツー、スリーと声に出さない声で数え上げている。そのため声は既に使われているので喋れない。
一方、相手(トゥキー)は数が書かれた見えない紙テープが目の前で進んでいるのを眺めている。そのため視覚は既に使われているので本は読めない。
この実験のおかげで、ファインマン(とトゥキーとそこに居合わせた連中)は、数を数えるという当たり前の思考ですら、人によって異なる方法を採用しているということを知る。なんてこった。
というわけで文字を読むなんて当たり前のことでもunakは文字通り字を眺めていて、nalshはそれが読み上げられているのを聞いている(実証実験はしていないけどまあいいじゃん)。
おれは視覚だけど、多分、視覚的な濃淡ある塊単位に分類して読んでいる。したがって漢字が少ないいわゆる開いた文章はすごく読みにくい。漢語が多ければ多いほど読みやすい。(それで、最近の平仮名がやたらと多い本やブログとかはすさまじく読むのに時間がかかるし、見た目が醜く感じる=醜いから読みにくいという洒落ではないけど、からすごく嫌い)
おもしろいなぁ。
#60%の人類はプログラムが書けないというような話も、おそらく60%の人と40%の人は異なる方法でプログラムを思考しているってことだろうね。
やはりWindowsでも動かしたいよなぁとFireRubyをいじっていていろいろ戸惑う。
OSXと異なり、firefox-binがない。
でも、C:\Program Files (x86)\Mozilla Firefoxをつらつら眺めると、XULなどの構成には特に違いもない。さらに見ると、firefox.exeが妙に小さい。
それにしても、空白入りディレクトリに、自分のディレクトリまで空白を入れるところに感心した。いきなりC:\のルートにインストールしろとかたわけたことを平然と書いているカスは見習うべきだろう。
それはそれとして、ということは本体をDLLとして、exeは単なるローダーに過ぎないのだろう。
つまり-binは不要な可能性が高い。
そこで、firefox -app ... のように試してみたらエラーになる(後に、この時点で引数をうまく作れていないことに気付いたが、そこは本質ではない)。
そこでfirefox /app ... のように試したらうまく行くではないか(この時点で引数も正しく作れてしまっていたのだけど)。
なんと、良くあるPOSIX脳と違って、ちゃんとDOSコマンドラインの流儀に従っているのか! と感心した。
(その後、ディレクトリセパレータが/ではなく\にする必要があるとかいろいろDOS流儀に忠実なためにこちらが音を上げることになるのだが、それは別の物語)
かくあるべきかくあるべしな優れたソフトウェアだな、と認識を新たにした。
アスキーの鈴木さんから『統合監視ソフトウェアMIRACLE ZBX/Zabbixシステム管理』を頂いたが、さすがにこれはないだろうと、眺めながら思う。
統合監視ソフトウェアMIRACLE ZBX/Zabbixシステム管理 (アスキー書籍)(株式会社システム・テクノロジー・アイ 武見弘之)
どう考えても、おれには不要だし、読まねぇよな(タイトル通り、ミラクル・リナックスが提供している統合監視ソフトウェアZBXの解説書なのだ)。
とは言いながら表紙のラックの写真がかっこいいので何気なくパラパラ中を見たらなかなか面白い。
つまり、この本は(当たり前だが)統合監視ソフトウェアの製品のユーザーインターフェイスについて、実際のスクリーンキャプチャ、監視するべき(なので監視する)状態の説明図(たとえば図5-30 SNMPトラップの有用性)、想定される障害などについて説明してある。
ということは想定できる障害とその検知(もちろんユーザーインターフェイスの説明書なので具体的な検知方法が書いてあるわけではないから、そこは想像しながら読むわけなのだが)、検知後の通知、監視ユーザーインターフェイスといった、ソフトウェアシステムのアーキテクチャ(非機能要件)を考えるためのネタがゴロゴロしているのだった。
ZBXの説明書ではあるけれど、システムの統合監視ということについて考えたり設計したりするための参考書として、相当良いものだった。
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