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4/30の朝に5/1の回を予約したら(渋東シネタワーという名前がいつのまにかTOHOシネマズ渋谷と名前が変わっていたが、シネがまずかったのかなぁ(と思ったが、TOHOシネマズに名称を統一したんだろうな))すでにほとんどいっぱいで不思議になりながら、券種を入れようとしたら大学生の割引がない。いくら探してもない。そのかわりファースト割引というのがあって、しばらく考えてしまった。それにしては同じ割引率の他の券種はあるから、ticetTypes.Where(t => SpecialDayTypes.Where(st => targetDate == st.Date).Any(st => t.Price <= st.Price).Union(SpecialDayTypes.Where(st => targetDate == st.Date))
と、等号を入れてフィルタリングしているようだ。
犬猫豚(免許の更新やデモでぶーたれていたと子供が指摘してきた。たぶんあれは猪だと思うがそういわれてみると豚だなぁ)乳牛(野牛は準主役だが)山羊と家畜はいないんだなと思いながらも羊がいるのがちょっと不思議な気がしないでもないし、各国語版ではニュースキャスターがその国固有の動物(日本は狸で中国はパンダらしい)で、しかし本編のなんでもありのズートピアにはそれらの外国人が姿を見せないところとか、練り込み過ぎて逆に不思議になっているところもあるなぁとか、あとになって考えるとないわけでもないが、当然のように良くできている。
うさぎが記者会見で有頂天になってきつねに衝撃を与えるところとかうますぎて(うさぎときつねの演技が)見ていて思わず目をふさぎたくなるくらいだ。すさまじくうまい。
親切のフォワードという親分のセリフは何かのもじりだと思うが(すさまじく強調していたからだが)わからなかった。転送することとふつうに送ることを同じ言葉で表現するというところがおもしろい(英語と日本語の関係が。元の概念が異なるのだろうけど、sendとforwardの使い分けはどこにあるのだろう)。
正直なところ、ディレクトリ構造が様変わりしているのであまり積極的に更新したくはなかったのだが、アマゾン書影のせいで緑の鍵が出てこない(chromeの場合。IEはEVSでないと緑にはならないから関係ないようで実際はまったく鍵が出てこないのでもっとシビア)のが気になっていた。
で、15周年パーティのときにhsbtさんに聞いたら「最新にすればおけ」とのことだったので、更新。
・元の.htaccessをv5.0.0のほうへコピー
・tdiary.confの設定内容をtdiary.conf.sampleへ反映してtdiary.confという名前で保存(というか、まるまるコピーでも問題なかった。このあたりのマイグレーション問題を避けるようにできている点はtDiaryの美徳)
・rdfが無いのでcp -p で元のをコピー
・imagesディレクトリが作成できずにinternal server errorになったので、imagesディレクトリを手で作成(これ何に使ってるんだろう? - 絵日記用か。全然使ってなかったのでパーミッションがwww-data書き込み不可になってたので修正)
おしまい。
素晴らしい。
エトワール広場を読んで疲れたので一旦休止したパトリックモディアノの続きを読んだ。
2作目にあたる夜のロンドはまさにゴダール風でめっぽうおもしろい。占領下のパリを舞台にレジスタンスの都市ゲリラ(RCO)とゴロツキの私設警察のそれぞれの2重スパイとなった男(スタヴィスキーの息子を自称する)の大活劇で最後はベントレーに乗って悲壮なカーチェイスで終わる。
最初わけのわからない場所でわけのわからない異様な人々に囲まれてモンフィス、マシェリ、モナンファンとルビが振られた「ねえ君」で呼ばれる語り手は、赤毛の盲目の老人とその連れである幼女(ときどき老女)を庇護しながら暮らしていることが語られる。
すさまじくわかりにくい会話から語り手はレジスタンスに潜入した警察のスパイとわかる。警察はレジスタンスを襲撃する予定だ。だが、首魁のランバルは謎のままだ。(マリーアントワネットはいない)
主人公はレジスタンスに加わると、中尉(一味の首領)から私設警察への潜入と二人のリーダーの暗殺を命令される。主人公は受ける。ランバルとは語り手に対して中尉が与えた名前だ。語り手は元々薄い帰属意識とアイデンティティの曖昧さのままに、どちらの指令も先延ばしする。
歴史がわからないので推測だが、中央政府がヴィシーに移動したことから、パリの警察機能は半停止状態となり、そのためゴロツキとギャングによる私設警察が委託警察業を営んでいたようだ。彼らはゲシュタポ(あるいはヴィシー政府)から逮捕権と財産の接収権を与えられている。語り手は豪邸に暮らす。
主人公の意識には、戦後のナチ協力者裁判が何度も出てくる。すると主人公は戦後まで生き延びたのかも知れない。すべては夢かもしれない。
盲目の老人と幼女(ときどき老女)は実在しない。
これは大傑作だった。
イオンの東雲に行って妻が買い物している間に子供と未来書店。
で、書店の子供売り場にズートピアコーナーができていて子供と年齢別の本の絵が似ている似ていないとか、幼児用が無理やり終わらせていてすごいとかやっているときに張り紙に気付いた。
(無理やり終わる幼児用)
ズートピア (まるごとディズニーブックス)(ディズニー・パブリッシング・ワールドワイド)
(たぶん小学校低学年用。絵がちょっと違う気がする)
ズートピア (ディズニーアニメ小説版)(スーザン・フランシス)
(たぶん小学校中学年より上用)
本屋の中に動物たちが隠れているから探そうと書いてある。
まさか国語辞典のページ3と4の間に挟まっているというようなことは無いだろうから、なんだろうね? 見当たらないけど、とか言いながら歩きだすと、チェックシートとペンが入り口の柱の陰に置いてあるのを発見。ということは、ちゃんと何かがあるらしい。その何かとは何だ? ということで、とりあえず探してみることにした。おれはチータを選ぶ。
しかしわからん。と思ったら、子供が2つ見つけたと言って、1つを示した。なるほど、そういうことか。では、ここにいるに違いないと指さしたら、タヌ山ポン介がいて、おおそういうことですかとどんどこ見つかる。
が、うまく隠れているのが2か所(ただし同工異曲なので1つがわかると芋づるに2つ目もあわかる)、なるほどそう来たかが1か所(おれが探す予定だったチータ)、最後はまあそうだよねが2か所という具合に全部見つけてしまった。
で、せっかくだから店員に大人がやっても良いか? と断ってからチェックシートを手に取ると、ほぼ答えのようなヒントをくれたのには参った。先に終わらせて良かった。
で、ポストカードをお土産にもらっておしまい。
途中、探している子供を見かけたがチェックシートを持ってない。確かにチェックシートの置き場所が悪すぎる(こちらも、たまたま見つけたようなものだ)ので、教えてやろうかとも思ったが、子供に声かけるのは危険なのでやめといた。
六本木のTOHOシネマズでMX4Dのズートピアを観る。
MX4Dはこれが初体験。
正直なところ、あまり好みではなかった。右足の脛の裏側をこちょこちょされるのはおもしろいが(もし恐怖映画だったらすごい効果だろうな)、背中を蹴飛ばされるのは不愉快だ(それが効果だろうがなんだろうが。たとえば、主人公が背中から落ちるシーンで後ろの席のやつが気を利かせて蹴りを入れてくれたら嬉しいか? おれは嫌だな)。妙な匂いがするのもあまり好きではないし(匂いが)、水しぶきが飛ぶのもだからどうした感しかない。うーむ、なに一つとってもおれにはメリットはなかったようだ。一方視覚効果はごくごく自然な3Dになっていて、もう2Dとの違和感がないくらいに洗練されていて、はて、ということは2Dが最も自然なのか? という疑問が湧いてくるくらいだ。
そういえばスクリアビンが匂いをコンサートに導入しようとしたというのを読んだことがあるが、失敗したのもむべなるかな。
それにしても、ステレオタイプのNYの警察官といえばアイルランド人なわけだが、そのての巨漢ひしめくNYPDに中華人民共和国(一人っ子政策が終わってすごい勢いで人口が増えている農業国で、妙に伝統的な価値観も残っているして自由はあまり無さそう)から小柄な女の子がやってきて活躍する話と考えると、でっかなマーケットをきちんと押さえているなぁと思った(というステレオタイプの2重構造になっているところが興味深い)。
ガゼルの主張とジュディが最初に直面する最大の価値観の転倒がいずれもヒッピー文化っぽい(ガゼルはジョンレノンみたいだし(音楽と踊りは別として演説する内容とか)、ヨガで全裸はヒッピー文化以外の何物でもない)のはなんでだろう。
獅子心王の治世下で緑の服を着たアウトローのキツネが権威と戦う話とは何の関係もないだろうけど、そのあたりも想起してしまうな。
残り半分で面倒くさくなって置きっぱなしにしていたアルゴールの城を読了。
筋はいくつにも考えられる。
アルゴールの城を手に入れたアルベールの元に親友エルミニアンが美しい女性ハイデ(アイデ?)を連れて訪れる。
昼、ハイデはあるときはアルベールと、あるときはエルミニアンと深い森の中へ消える。夜は3人で談話をする。古今東西の知識と深い考察を持つ3人の衒学談は印象のみが語られる。
ハイデは森の奥の泉で死んでいる。次の章ではエルミニアンは失踪し二人の静謐な暮らしが訪れる。エルミニアンは落馬して瀕死の状態で見つかる。
エルミニアンは回復し調査結果をもとにアルベールと城の中の抜け穴を探検し、それがハイデの部屋へ通じていることを見つける。
ハイデは毒を飲んで死に、エルミニアンは城を立ち去り、刺し殺される。
エルミニアンは何をしに城へ来たのか、そもそもハイデは生きて存在しているのか(エルミニアンとハイデが来る前にアルベールは墓へハイデという名前を刻む)、何か死にまつわる何かがあったことは明らかなのだが、それはアルゴールの城そのものの記憶のようでもある。
淡々とまったく意味を持たない描写のみが、しかし饒舌過ぎるくらいに入ることと、動きのなさからロブグリエとデュラスとアランレネの共作が想起される。
去年マリエンバートで [Blu-ray](デルフィーヌ・セイリグ)
ドラマはあるのだが、それは直接は語られない(マリエンバードではバルコニーの欄干が崩落するところは描かれていた)ので、何が起きたかあるいは何も起きていないのかは想像するしかない。
これは全くパルジファルではないということはわかった。
たしかにハイデの寝台の脇には聖杯の画がかかっている。しかし、ここでは誰も救済のために血を流すものはいない。むしろトリスタンとイゾルデとマルケ王だ。しかも第3幕で、トリスタンはすでに城へ帰還している。
テクストの快楽という観点からは実に秀れた作品だが、物語の悦楽はまったくなく、このタイプの作品の読み方を思い出すまでに時間がかかった。
子供がチャルダッシュの女王が観たいと言うので、上野にウィーンフォルクスオーパーの来日公演を観に行く。
チャルダッシュの女王は一曲ネトレプコの初期の作品集に入っていて、結構好きだから、まあ良いかと乗り気70%程度で行ってみた。
B00BH9O6H6
すると、異様に混んでいる。
しかもすさまじくおもしろい。こんなおもしろい作品だったとはまったく知りもしなかった。オペラとミュージカル全盛期(RKOでアステアが踊った頃からMGMでジーンケリーが暴れたりしていた頃まで)のハリウッド映画の合体版のような素晴らしさだ。というか、ハリウッドはコルンゴルトの例を出すまでも無くどれだけ20世紀のウィーンの舞台芸術から影響を受けたのだろう(ルビッチやサークのようにヨーロッパから逃れてハリウッドで活躍した連中が自分たちのルーツとして持ち込んだというようなこともあるだろうし)。
比較の対象がないから舞台としてはいまひとつ良くわからないが(チャルダッシュの女王を歌ったアンドレアロストは物語通りの小さな妖精みたいに素敵なのだが東京文化会館大ホールには声量が追いついていないような印象は受けた)、作品としては好きな舞台作品トップ5に余裕で入るのは間違いなしだった。
初見の作品だが、指揮(ルドルフビーブル。おれは全く知らないわけだが、どうも客席含めてみんなから実に愛されているらしいのがわかった)と演奏が素晴らしいのは始まるやいなやわかった。しかし前から8番目という良いポジションで観たのだが、音の壁がまっすぐ上に昇って歌手の声を遮るようなホールの造りだと初めて気付いた(序曲が終わって幕の後ろに諸行無常なんだから好き勝手に生きようみたいな所信表明の歌が交互に出てくる個所)。いかに新国立劇場が良い劇場かと今更ながら気付いた。
1幕、ブタペストの階段状の舞台をしつらえたキャバレ。口ひげの背の高いうさんくさいプロモータのようなおっさんのフェリ(アクセル・ヘルリヒ、歌も踊りも堂々たるものだ。そういえばサウンドオブミュージックにも口ひげの背が高いうさんくさいプロモータのおじさんが出てくるが、オーストリアのショービジネス界のステレオタイプなのかな)、その友人の歌って踊る若いイケメンの伯爵(ボニ。マルコ・ディ・サピアという人。芸達者で実に楽しい)とかがからみながら、チャルダッシュの女王ことシルヴァ(ジルファ?)のアメリカ公演の話になる。早朝の出発なので朝までみんなでお別れパーティとなり、ボニはバックダンサーと一緒に踊りまくる。ザッツエンターテインメントだ。
支配人(おれは気付かなかったが、子供は新国立劇場のこうもりで牢番フォッシュを演じた人だと気付いた)が次の歌手が来ると今度はそっちが人気になるぜと歌いながらポスターを張り替えていると遅れて若き侯爵エドウィン登場。シルヴァとエドウィンのきれいな歌(曲の作り方が本当にハリウッドスタイルでしびれる(もちろん逆でハリウッドがこちらを取り入れたのだろう)。ヴァイオリンとチェロ(それともコントラバスかな?)のソロだけになる素晴らしく美しい瞬間があったのはこの曲かな?)。
そこに唯一の厭な奴の役回りの従弟の男爵がやって来る。見事にみんなに嫌われるのだが、ボニは彼からエドウィンに内緒で両親が出したエドウィンと伯爵令嬢シュタージ(ベアーテ・リッター。歌がしびれる)の婚約発表の新聞広告の切り抜きを入手する。それを使って、エドウィンが去った後にシルヴァにアメリカ行きを決意させる。
舞台の作りのうまさに唖然としたまま幕間になる。70分間まったくだれない。
ここでプログラムのあらすじを読んでオチを見てしまう。
2幕。ウィーンの侯爵家の客間ホールの手前におかれた待合室。シュタージとエドウィンが、結婚について話し合っている。エドウィンは軍服を着ている(ってことは皇太子は暗殺されたのだな)。エドウィンはシルヴァからの返事を待っている(ボニの陰謀でシルヴァがエドウィンに裏切られたと感じていることを知らない)し、シュタージは貴族どうしだからしょうがないが、他の女に気を取られているエドウィンと結婚することにはすごく懐疑的。ふたりで、北と南に別れて暮らす歌を歌う(これも叙情的な良いナンバー)。
そこにボニとシルヴァが登場。シルヴァは貴族社会のパーティに潜り混むためにボニの奥さんとして扱うことをボニに強要する。
この幕、ボニは常に揺さぶられることになる。シルヴァは腰掛けるや脚を組んで、はっと気付いて直すというジェスチャーをして、貴族社会と芸能人社会の違いを示す。というのを後刻、侯爵夫人と並んで腰掛けるところで示して、知っている(幕間にあらすじを読んでしまったのでおれは知っていたわけだが)人は笑い、知らない人は仕掛けに感づく(というか、侯爵の家柄に関するセリフと微妙な夫人の受け答えから巧妙にオチを感づかせる仕掛けが仕込まれていて、実におもしろい)。シルヴァはそっくりの歌姫がいるということにしてごまかしまくるが、これはコウモリのアデーレの役回りでもあった。そういうオペレッタおきまりのお笑いパターンなんだろうな。
ボニは久しぶりに会ったシュタージの美しさに心を完全に持って行かれる。一方シュタージもハンガリー(だと思ったらこの人もボニもオーストリア人だった)の若き貴公子(しかも気が利きまくり過ぎる才人)に惹かれまくる。この二人の描き方がまた実にうまい。音楽も踊りも良い(ハンガリー人の兄弟のわけのわからない歌。チャルダッシュって、最初ゆっくりした短調のもの悲しげな調子ではじまり一転して長調の激しい舞踏曲になるから演出がしやすいのかも知れない)。素晴らしい舞台だな、おい。
ついにボニはシュタージに求婚するために、ソフィスティケートしまくったシルヴァとの離婚話を始める。
エドウィンは大喜びで、伯爵夫人との結婚なら家柄の問題はないと言い出す。これには歌姫とのプライドがあるシルヴァが傷つく。両親とうまくやれるはずないじゃんと正論を吐いて大暴れし、貴族たちが居並ぶところで、結婚誓約書を破り捨てて退席する。ボニがうまく丸めながらついていく。
続けざまに3幕。
ブタペストの劇場支配人だった男がホテルのラウンジを片付けているとシルヴァとボニ登場。なんでお前がいるんだ? 栄転だなおい。
シルヴァが落ち込んでボニに、自分の態度をどう思うか聞く。田舎娘みたいだな。
そこにプロモータ登場。どうもブタペストで仕事にあぶれてウィーンをうろついているらしい(素晴らしいご都合主義)。もう一度シルヴァと組んで一旗あげようと、引退表明するシルヴァを乗せようと歌い始める。踊り始める。ついには、3人で歌って踊りまくる無茶苦茶なシーンとなる。面白すぎる。そのあと5回くらいアンコールしたけど、そういう芸なんだろう。このしつこくぶらしまくるアンコールを振るのも演奏するのも難しそうだが、すばらしくうまい。舞台の上にはヴァイオリンとコントラバス、ラッパのソリストがいて、それが歌とうまくからむ。カールマンがどこまで作曲しているのかわからないが、繰り返しをだれさせないように巧妙に仕込んである(フェリの首にシルヴァがぶら下がってぐるぐる回るところとかすさまじい)。最初のアンコールではフェリがバースを英語(途中から英語とわかった)、ルフラン(全員)が日本語でやってみせた。(息が上がりかけているのが客席からわかるくらいだ)
すっかりショウビズに戻るつもりになってシルヴァが退出。
入れ替わりに侯爵夫妻登場。ボニを責める。おかげでシュタージは結婚できなくなったじゃないか。ボニは大喜びでシュタージに電話して結婚の承諾を取り付ける。するとフェリが赤毛のヒルダという歌姫の話を始める。侯爵は最後大笑いしながら夫人に呼びかけながら退場。気持ちの良いけりの付け方だな。
入れ替わりにシュタージ登場。歌と踊り。そこに支配人登場。エドウィンがやってくる。ボニはエドウィンと対峙する。エドウィンを揺すぶろうとして自分が揺れる。シルヴァをなだめることを約束して全員を隠す。
シルヴァがやってくると、支配人にかけさせた電話をエドウィンからのように見せかけて、どうしたんだ顔が真っ青じゃないかとくすぐりを入れながらエドウィンの自殺をシルヴァにほのめかす。エドウィンが出てきてめでたし。
突如セピアがかった空間となり、一度だって多すぎる、人生は一度きりと妙な空疎感を醸して終わる。
多分、男爵もエドウィンも(おそらくボニも)戦死することになるのだろう。
あまりにも良かったので、帰宅して子供が探していたらエレールがボニを歌っている音源を見つけたので購入。
B00448IVZU
どう聞いても歌い方がオペラ風なことを除けば、極上のハリウッドミュージカルのサントラだ。
子供が突然、ダンデライオンは中学受験問題にぴったりだと言い出した。
次のフラッシュを見て設問に答えよ。
問1)「空は遠く 狭くなった」とはどういう意味か。30文字で答えよ
問2)「濡れた頬の 温かさは 恐らく お前が くれたんだ」「濡れた頬の 冷たさなど 生涯 お前は 知らなくていい」「濡れた頬の 冷たさなど 恐らく お前が 奪ったんだ」と3回出てくる「濡れた頬」を別の言葉で言い換えよ。
問3) 問2の3つの文章の変化についてそれぞれ主人公の置かれた状態を交えて100文字以内で説明せよ
問4)(1)「橋の向こうで出会ったヤツ」とは何か。(2)なぜそう考えたのか歌詞内の言葉を3個使って100文字以内で答えよ。
SD2016/5を買った以上はsoracomを試したいのでRaspberry Pi3 Model Bを買ったは良いものの、なかなか資材が揃わなかったりして、やっと今日つながった(soracomのSIM自体はFlameを繋いで動作は確認したのだった。というか、何もRaspberyy Pi3を買わずにFlameで良いのではないか? と気付いたときは後の祭り)。
いろいろGoogleと対話しながらではすんなり行かなかったところがあるのでメモを残す。
ソフトウェアデザイン 2016年 05 月号 [雑誌](-)
1. SDを買ってsoracom SIMを入手
Raspberry Pi3 Model B ボード&ケースセット 3ple Decker対応 (Clear)-Physical Computing Lab(-)
2. Raspberry Pi3を購入。
3. USBドングルを購入(soracomで購入した)
ナノSIMのアダプタは随分以前にFlame用に購入したものを流用。マイクロSDは32GBのやつが余っていたのでそれを利用。NOOBSをコピーして準備完了。
USB電源はNexus7の(5V2.0A)を流用。
ところが、モニタと繋がらない。HDMIの入力口が無いからだ。で、ここで何を買えば良いかわからずに時間がかかった。モニタにあるのはDisplayPortとDVIとVGAだからだ(それで最初HDMI−DisplayPort変換ケーブルを買ったのだが、これが大間違いで出力DispalyPort、入力HDMIの変換器を買ってしまった。このショックから立ち直るのに数週間)。
で、良く良く考えたら素直にVGA出力にしておけば良かったのだった(なんとなくHDMI出力なのだからVGAでは受けられないのだろうとか余計なことを考えたのだった)。
UGREEN HDMI VGA 変換アダプター HDMI 変換 VGA 音声出力 1080P ビデオ変換アダプター プロジェクター PC HDTV等に対応(-)
やっとブート画面が見られるようになったので、最初何も考えずに、日本語設定してインストールを開始して、ブート、ターミナルからものの本に合わせてsudo apt-get install wvdial
した。ら、ロケール回りでnot foundエラーが出てそこで止まってしまった(実はその次のステップで止まっていたことを後で知るのだが)。なんでこんなところで止まるんだ? と不思議になるが、日本語フォントも無いのにLANGUAGEがja_JP.utf-8になっているのが問題なのかなぁ? ととりあえず、NOOBS入れ直してやり直し。
今度はGBのままで始める。
するとapt-get install wvdialがwvdialの設定でそのまま止まる。今度はロケール回りのエラーは無いので、ふともしかしてモデムを探しに旅をしているのか? と気付いて、FS01BUを挿して(後でやるつもりになっていたのだった)sudo modprobe usbserial vendor=0x1c9e product=0x6801
した。/dev/ttyUSB0-2ができたことを確認。しかしwvdialは返ってこない。
一度リブートしてから、dpkg --purge wvdial
してからapt-getをやり直し。
が、wvdialconfがずっとcpuを100%使いながら返ってこない(topを使うことを思い出した)。
あきらめて、wvdialconfをkill。しかしすでに必要なモジュールは導入されているから構成をしようとしているのだし、自動認識はできなくても、ttyUSBということはわかっているのだから、wvdial.confを設定すれば良いのだろうとGoogleと対話して探す。
すると、soracomのハンズオン資料が見つかって、ダイアルするためのスクリプトについて言及がある。ハンズオン資料に書いてあるURIをcurlをしても404だが(ハンズオンのときにテンポラリに置いただけなのだろう)、元のスクリプトはgithub(というかgist)に用意されているのでありがたくそれを利用させてもらうことにする。
で、問題なく接続を確認できた。
init.d用のスクリプトも用意してくれてあるところが素晴らしい。
で、今日(というか1週間くらい)はここまで。
高橋さんが『渕一博―その人とコンピュータサイエンス』という本を陰影ある書き方でAIに興味ある人は必読と紹介されていたので、読んでみた。(都立図書館で借りたのだった)とは言っても全部は読んでない。後半、渕の論文集になるのだがたとえば『逆対称声道形の推定と多帯域沪波特性近似』(軽く眺めるとおもしろそうなことが書いてあるけど)とか読む気にはならない。
というわけで興味津々でまともに読んだのは林晋の『情報技術の思想家』という中途半端(とならざるを得ないということが書かれていて、それは生きていて利害関係のある人間のバイアスのかかった証言や反証が出てくることが可能な程度の期間しか過ぎていないものは、歴史として文献ベースで客観的に評価することが難しい壁があるという理由で、なるほどWikipediaが本人による編集を拒むのと同じ理屈であろうし、真実ではなく事実という歴史の見方からはなるほど正しいと判断できる)な人物伝と第5世代コンピュータプロジェクト評価の章(渕一博の思想を発展させたもの)だった。
読んでいて、先日読んだUnixの考古学と対比してしまうのはしょうがないだろう。
Unix考古学 Truth of the Legend(藤田 昭人)
プロジェクトの主体となった巨大家電メーカーのGEのコンピュータ部門とともにMulticsそのものはどこかへ行ってしまったが、途中でビジネス的にうまみがないので手を引いたAT&Tの研究所(BTL)の出向組が引き上げて冷や飯を食わされている暇にあかせてサブセットっぽいもの(=Unix)を作りそれをネタに出向組のビジネス的なプロジェクトとして認めさせると同時にインストール行脚をしながら他の連中のアイディアを取り入れて発展させていくというのが、Unixが成立するまでの流れだった。GEの技術者はMulticsもろともどこかへ行ってしまったが、途中で手を引いたBTLのトンプソンやらリッチーやらはその名前とともにUnixとしてMulticsの成果が残った。
・家電に基盤をおくメーカーは国家プロジェクトの成果を世界に還元できなかった(意図的なのかそれが当然なのかは別の話)
・途中で手を引いたといっても技術的においしいところ、設計としておいしいところ(TSSとか)は継承された
・その他いろいろ
第5世代コンピュータプロジェクトは歴史的にちょうどAIブームが終焉するところにかちあったこと、巨大コンピュータからダウンサイジングするところにかちあったことが問題だったらしい。
でも、読んでいると淵が作りたかったのは違うものだったように(まあ評伝だから悪くは書かないだろうけど、それにしてもそれまでの経歴からいっても)見える。
たとえば、Multics->Unixについては、Multicsのような巨大OSを作るという発想が途中で時代遅れとなって……とか完成したブツを入れたハードウェアでビジネスする主体が……というような問題はあったにしろ、明らかにUnixという成果があった。
つまり、問題は日本の通産省から金をもらってプロジェクトに参加したメーカーにBTLが存在せずに、全部が全部GEだったことこそが問題であり失敗だったということではなかろうか。
ちょっと後付けで考えてみれば、そのころVLSIでMPUという発想はあった。そこに、第5世代の並列の発想を持ち込んでマルチコアMPUとか考えた連中がいたらどうなっていただろうか?(そりゃ当時のプロセス技術だからろくなものにはならないだろう。しかし、25年前からパソコンがマルチプロセッサ当然として動いていたら、20年前には日本のソフトハウスからErlangのような言語が生まれていたっておかしくはない。(あまり良い例が出せない)
雁首ならべてどこにもトンプソンもリッチーも本当にいなかったのだろうか? (そんなこたないだろう)
とすれば、それは何が原因か? というところにこそ問題点があるのではなかろうか。
シグマだって考えてみればそうだ。そこから撤退したあとに、本当はこんなのがほしかったんだよなとジグマ(今作った名前)が生まれたのであればプロジェクトそのものが失敗だからといっても全体として考えれば何の問題でもない。でも、何も残っていない(あるいは単に表に出なかっただけなのかもしれない。でも表に出なければそれはなかったことと同じだ)。
失敗の本質は、だから第5世代コンピュータ(述語論理的プログラミング)がビジネスにならなかったことではなく、そのプロジェクトに参加した人たちが世の中に目に見えて還元できるものを持ち帰らなかったことにある(でも、個々の参加企業にはあるのかもしれないが繰り返しになるが表に出なければ、あるいは関連性を示されなければそれまでだ)。
(家電屋さんについてはわからないでもない。実際GEもRCAも何かを残したようには見えない。いろいろビジネス的な壁が大きそうだということもわかる。アカデミズムと無縁な業界はせいぜい特許出願くらいでしかソフト(ウェアには限らない)なものは公表とかしないものだ。しかし通信屋さんや研究所や大学とかはどうなんだろう?)
東劇のメトライブビューイングでロベルトデヴェリュー。
これで、アンナネトレプコのアンナボレーナ、ディドナートのマリアストゥアルダと来てドニゼッティのエリザベータ女王三部作は全部観たことになる。
エリザベータはソンドラ・ラドヴァノフスキーでおそらく本物の天然痘を意識したおっかないメイク、対するノッティンガム公爵夫人がガランチャでなんか公爵(でっかな領土を持つ王様というか文句なく大名)夫人なのに妙に質素な服で、これが驚くほど似合って美しい(ガランチャはアンナボレーナにも出ていた)。
しかし、不思議なのはなぜドニゼッティはこんな作品を3作も作ったんだろう?
アンナボレーナはヘンリー8世の不愉快っぷりがひどいし、マリアストゥアルダはマリアもエリザベータも人間としてひどいし(マリアが開き直るのはエリザベータが悪いようには見えるが)、ロベルトデヴェリューもノッティンガム公爵の非情っぷりは多少同情の余地はあるにしても、エリザベータのくずっぷりは親父顔負けだし、ロベルトの適当さは不愉快だし観ていてテューダー朝への反感ががんがん湧いてくる(まあ、最後にエリザベータはいきなりジェームズに譲位を宣言したからテューダー朝はこれでおしまいだ)。
テューダー朝はほぼ15世紀全体なので日本でいくと日野富子から大阪夏の陣くらいまでだから、ドニゼッティが3部作を書いた1830年代から250年くらい前、ちょうど曲亭馬琴が八犬伝を書いたのに近いかも知れない。もっとも八犬伝は15世紀が舞台なのは同じだが作家の本国の話だからちょっと違うか。むしろ近松の国性爺合戦(こっちは17世紀が舞台だな)のほうが近いかも。
まとも(カトリックという意味)なヨーロッパの文化人から見て野蛮人の王族の栄枯盛衰話をおもしろおかしく取り上げたと見ることもできるが、一方で、シェークスピアがその頃にいたことは知っているはずだから(ドニゼッティの頃だとまだ周知はされていないかも知れない)、イギリスを単なる野蛮人扱いは無理がありそうだ。でもヴェルディのジョヴァンナ・ダルコですら開始早々、海の向こうから野蛮人が攻めてきた! とカルロが大騒ぎするところで始まるから、ドニゼッティの頃は独自の奇抜な宗教を信じる異常者の群れ程度の認識がまだ残っているかも知れない。とすれば、野蛮人の王族の奇怪な殺し合いをおもしろおかしく描いた見世物気分の作品ということなのかな(しかも歌は素晴らしく美しい)。
マリア・ストゥアルト―悲劇 (岩波文庫 赤 410-6)(シラー)
マリアストゥアルダの原作はシラーだからロッシーニにヴィルヘルムテルにしろヴェルディの群盗やドンカルロスにしろ、イタリアの大作家のシラー好きとみることもできるが、第1作のアンナボレーナはシラーとは全然関係なさそうだからそれも違うし。
ロベルトはポレンザーニで女王の寵愛を信じ切っている歌がきれいなおっさんで、妻を愛しきっているだけではなく親友としてロベルトの助命嘆願に走りまくるノッティンガム公爵のクヴィエツェンはそれだけに裏切られたと知ったときの酒瓶片手にガランチャにからんでいくところはおっかないというか、真珠取りと同じパターンじゃん。
前回は2012年6月だったから4年ぶりだ。
なんかフォークトが歌っていればそこはOKみたいな感想を書いているが、今回もほぼ同じ。でも、エルザ(1幕では妙なかぶりものを頭にかぶっていて、明らかに妙ちきりん)が切羽詰まって(ふつうの人には)何言っているのかわからない妄想をしゃべっていると白鳥に人々が気づく場面の美しさから鋼鉄の処女のような奇怪な乗り物に乗ってローエングリンが降臨するところは実に素晴らしい(前回はそれについて特に書いてないのはなぜだろう?)。
飯守泰次郎の指揮は素晴らしい。序曲、しばらくずっと弦の高音域だけを使うのだが、これが見事に美しい。しかも盛り上がってティンパニの連打のあたりの思い切った大音量、色のつけかたが良いのだ。
オランダ人の夢見るゼンダはオランダ人を信じ切って自分が死んでしまって、次のタンホイザーのエリザベートはタンホイザーを信じ切っていたら相手が死んでしまって、さてこんだどうするかとワーグナーが考えた末に、エルザは信じることができずに失ってしまうとしたわけだな。で、これで夢見る乙女3部作は完結するわけだが、いろいろ考えてみるに、ワーグナーは夢見る乙女を仮想的な顧客としてオペラを作っていたら、思いもかけないことに乙女側ではなく自分をローエングリンだと思い込んでいる金持ちの若者に出会って路線を変更することにしたのであった。というわけで3部作となり、トリスタンとイゾルデは政略結婚という打算を最初からわかっている夢見ない乙女を使うことにしたのは良いが、どうにも話が合わないので、媚薬の効果で夢を見させることにしたのだろう。
一方、12歳のエルザと14歳のローエングリンでは子供過ぎて簡単に去ってしまうことになったので、14歳のジークリンデと16歳のジークムントの場合はジークリンデは人妻、ジークムントは行く先々で不幸な女性を救って酸いも辛いも知り抜いた渡世人として、ローエングリンと同じく家系や名前は言えないわけだが、わたしは幸福をもたらすものとは呼べないから、名前は悲しみを運ぶものとか名乗るし、ジークリンデも心得たものであんた気に入ったから勝利をもたらすものと名乗んなさいよ、と息があっていて気持ち良い。
演出で目立った点。1幕のエルザは妙な帽子をかぶった不思議ちゃんというかメンヘラ少女なのが、2幕では大人な恰好に変わり、社会的制約というカセ(の傘の骨組みみたいなもの)を課させられると、もう一つの人格であるオルトルートが裏側から飛び出してくる。
で、第3幕では飯守泰次郎があっと驚くほどの猪突猛進な速度で序曲を演奏する。これ、この速度だと、アラベッラの第3幕の前奏曲と同じ意味になるんだな。明らかにそういう意図だろう。
すると、侍女たちが部屋にローエングリンとエルザを残して去るときに、寝台(白い花を模したもの)をこちらにくるりと回すと、なぜか深紅の敷物が不定形に置かれているけど、それも意味がついてくる。演出と演奏は一緒になってエルザの質問はあとのことと明示しているのだ。そうした意図が、エルザが強気で質問することに合わせたのか、ローエングリンの軽薄さ(と薄情さと無責任さ)を際立たせるためなのか、おそらく両方で、結果的に置き去りにされたゴットフリートの将来やブラバント公国の上に立ち込める暗雲を残すことになるし、そんな気分の悪いものを見ながら能天気に自分をローエングリンに見立てた王様の小僧っぷりや、ワーグナーのひねくれたものの見方に対する批評にまでなっているのだった。
最後、ローエングリンと名前を知ったのにエルザはあなたあなたと呼びながら抱きついてきたゴットフリートを置き去りして駆け去って行くし、公国民はがっかりして去って行く(ハインリヒもどこかへ消えてしまう)。あとにはゴットフリートがorzでおしまい。
3幕の序曲はすさまじい速度だったが、だんだん悠揚迫らぬ速度となり、名乗りのところではフォークトがパルジファルのところで待ち合わせするくらいに合わなくなってきて、でもそれは舞台作品ならではのだいご味として楽しめた。こういう良い舞台が観られるって実に素晴らしいことだ。
エルザを歌ったマヌエラ・ウールはとても小柄(日本人歌手かと思ったが、声量は素晴らしい)で、12~3歳設定のエルザにふさわしい。良い歌手だと思うな。
・今回休憩が2回、それぞれ40分と長くとっているのは良かった。安心してホワイエで食い物を食べられる。
銀座松竹タワーのドワンゴセミナールームで、著者の藤田さんによるUnix考古学の夕べ2に参加。
現在はIIJのようで、前ふりは和田英一先生からUnixはどうでもよいけどMulticsについて書いてあるんなら1冊持って来いと言われてあわてて献本したという話から。
で、和田先生からWhirlwind(P.13)はいまも富士通のどこかにあるはずで、当時ゴードンベルが富士通の何かが欲しくてバーターしたはずだとか。
さらに1958年にMITでTX-0(P.15)を見学したが「電動タイプライターによく似た機構のコンソール」とはFlexowriterだったと教わって、さらに1973年にMITで教鞭をとっているときに学生がレポートを印刷して持ってきたので(1973年だよ)一体どうやったんだ? と尋ねたらTX-0を使ったんだと言われたとか。
で、タイムシェアリングのアイディアは1958年にパリの会議でChristopher Strachey(チューリングの友達)が提唱したのが最初だったんじゃないかなぁとか、さらにはDoug McIlroyがパイプパイプ連呼していた(P.50)のをIFIPの会議で聞かされたなぁ(Unixよりはるか前のこと)とかガンガン聞かされて、こうなるとMulticsの考古学をやりたいなぁという話となった。
(現在、和田先生はRaspberry PiでBCPLを動かしてコードを書いているらしい)
で、NECのACOS6というのがMulticsで、1960年代にMITでMulticsの性能評価で博士号を取ったSakinoという人がいるらしいとか、NECのACOSがMulticsなのは、当時の通産省の戦略で日本のメーカーが1社ずつ戦ってもアメリカに好きなように転がされるだけだから2社ずつ組んでプロジェクトを作るように指導したからで、富士通+日立がIBMプラグコンパチ、NECと東芝(というのはksmakotoさんから)がMultics、沖と三菱が(メモが無い)。(それでNECのメインフレームは異質なのか、とはじめてわかった)
というわけで前ふりがめっぽうおもしろかったが、そのあとはいかにしてUnix考古学を書いたかという方法論で、それもおもしろかった(が、余白があるけど時間がない)
第2部は斉藤先生と砂原先生と歌代さんと藤田さんによる雑談。
砂原先生から、理科大の計算機の博物館がおもしろいから是非行くようにと紹介がある。
斉藤先生が1966年にジェロームソルターという当時26歳くらいのドクター取り立ての先生がMulticsのことを教えるために1週間来日したという話を始めて、渕一博―その人とコンピュータサイエンスで読んだことだ、と(まだ関係者がいるというのはこういうことかと)いろいろ感じるものがあった。そのころユーティリティコンピュータということをファノン(?かなぁ)が提唱していたけど、それってクラウドで、60年かけて実現したというような話とか。レーガンがアメリカで1万台のロボットが稼働しているときに日本で50万台が稼働していることに驚いて日本からロボットの研究者を招聘してとかそういうような話とか、いろいろ。
Σの唯一の(というような言葉遣いがおもしろいわけだがそういうおもしろさというのは参加して楽しむものだな)成果はNECがUnixで日本語を動くようにしたこと(wnnはオムロン)。
で、温故知新(古いことを現在の視点から見直すことで新しい知見を求めることが重要である、というような結論でおしまい。
おもしろかった。
なお、Unix考古学の夕べはあと3回(JUS例会、博多の何か、京都OSC)あるそうなので、参加するといろいろおもしろいと思います。(点と点の情報が結合されることで思考の道筋が生まれる感覚ということかな)
ジェズイットを見習え |
_ よしき [家族の都合で3回見ました。豚はニュースレポーターにもいました。でも馬もいないし確かにあまりにも馴染みのあるものは避け..]
_ arton [あ、訳語はわかりません。字幕を読み損ね時は音を聞いて補い合わせてるので、フォワードは音で、親切(読み損なっているので..]
_ arton [ペイフォワードという映画があるのは知っているのですが、映像的にゴッドファーザーに復讐が復讐を呼ぶみたいなセリフにフォ..]