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ルネドーマルの類推の山を読んでいるのだが滅法おもしろい。
20世紀前半期の作品で、一応シュルレアリスムの系譜に属するらしいが古典SFの類と考えた方が良いかも知れない。
山岳ライター(なんだかよくわからない)の主人公が寄稿した文章に対して、謎の男から激烈な手紙が届く。本人、何気なく書いた想像上の山の話だったのに、その手紙によれば実在するから一緒に登ろうという内容だ。
訳が分からなくて会いに行くと、器用貧乏を絵にかいたようなマッドサイエンティストで、地上にはまだ知られていないエベレスト(今の言葉でチョモランマ)ですら足元にも及ばない山がそびえているから、登らなければならないと誘われる。
なぜなら、それは類推から導かれるのだ。
おもしろそうだと思いながらも帰宅した主人公は、(そんな阿呆な話はないよなというニュアンスを多分に交えて)妻にその話をする。と、妻は当然、登らなければならない、と言い出す。
あれよあれよというまに言語学者、山岳画家、科学者と形而上学者の兄弟なんかを集めて冒険隊が結成されて、南太平洋の地図に無い島へ向かうことになる。なぜ、そんな高い山が聳え立つ島が地図にないかというと、光の屈折によるものだとか、もっともらしい説明が入る(ところが、古典SFっぽい)。
誘ったヘーゲル主義者のイタリアの靴職人は弁証法によって、その山が存在しないことを証明したらしき超長文の手紙で断りを入れてくる。
なんか、無茶苦茶におもしろい。
が、はて、類推とは? と気になった。
原題を見ると、Le Mont Analogueで、確かに類推の山としか訳しようがない。
(この字面をみて、あらためてデジタル・アナログのアナログが類推語源と知って、ちょっと驚き、ではデジタルとはと調べたらdoigt(指)で測る、軽量するという意味だった)。
それで、あらためて類推ってなんだ? と考えてみる。
類推は射影で、あるものAとあるものBが似ていることから、Aから得られるaと同じくBから得られるbがあると考えることだ。
したがって、発見のためのメソドロジーで、哲学の領域だ(と、今、初めて意識した)。
フランス革命について考えてみる。王様は~する権利がある。おれは第3身分なので~する権利がない。でも待てよ。王様とおれは同じ人間だ。当然おれにも~する権利がある。革命だ、権利を寄越せ。
この哲学の欠陥は、発展性に欠けるところだ。何かモデルがないと真に新しいものは生まれてこない。
音楽では、ロンドが相当する。スクリアビンがソナタ形式を捨てた後の作品について、高橋悠治が、ビルの窓から次々に顔が出てくるのでおもしろいことはおもしろいが、全部同じ顔だ、みたいなことを書いていたのを思い出す。それが類推だ。
演繹は類推の特化したものと考えられる。なるほど、フランス的だな。
途中で降りるイタリア人の靴職人の弁証法はそれとは異なる考え方をする。弁証法は当然、高校生のころに学んだので良く知っている。類推とは異なり、相違点に着目し、その解決を考える。
王様は~する権利がある。おれは第3身分なので~する権利がない。同じ人間なのにこれは矛盾だ。したがって革命しなければならない。
ベートーヴェンが生み出したロマン派のソナタ形式は、クラシックのソナタ形式と類似ではあるが相当違う。中間部で徹底的に荒れ狂うからだ。そのため、再現部はすでに提示部とは全く異なる様相となる。
これは弁証法に近い。確かにドイツ風だ。
と、考えると帰納はまったく異次元的だ。まさに非ヨーロッパならではだなぁ。自由意志ありきだ。(この後、なぜゴドウィンが最初なのかとか、libertyとfreedomの2つの概念から自由が構成されるのに対して、ヨーロッパにはliberteしかないのか、といった方向に考えが進む)
5/27は新国立劇場のフィデリオ(カタリーナに敬意を表して記録は6/2の千秋楽後にした)。
飯守監督がすさまじく力を入れていたので楽しみに観に行く。とはいえ、フィデリオなんだよなぁ。CDで最後まで聞きとおした試しがないので、結局よくわからないまま行くことになった。
で、演出がカタリーナ・ワーグナーなのだが、新国立劇場だし、適当に無難なところでお茶を濁すのではないかと想像していた。
実際、幕が開くと、3階建ての牢獄で、最上階が1階、中が地下牢、最下層が普通の牢獄という不思議な構造なのはともかく、それほど目立つところもなく、始まる。
が、実は厨坊カタリーナの面目が躍如しまくっているとはこの時点では気づかなかった。
で、囚人の合唱は確かに名曲だなー、なんか所長はナチっぽい制服だなぁとか観ていたのだが、確かに曲は退屈だ。正確には、個々の楽曲はベートーヴェンだし、オーケストレーションもベートヴェンだし、モチーフはちゃんと展開するのだが、紙芝居のように、はい次、はい次と切り替わっていくだけで、つまりドラマツルギーが欠如しているとしか思えない。
なるほど、これは退屈だ。
2幕になるとますます退屈になるのだが、グールドが出てきた瞬間に景色が変わった。第一声が恐るべき轟音で、すべての退屈さが吹き飛んだ。なんてやつだ。
物語は看守(妻屋、良い)とレオノーレ(メルベート、悪いはずもない)が所長(ラデツキー、良いと思う)がフロレスタン(が、グールド)を暗殺したらすぐに埋められるように、穴を掘ることになっているのだが、二人は階段のところでもたもたしていて、代わりにほとんど飯も与えられずに2年も暗黒の中に閉じ込められているのだからとっくに佝僂病になっているか、護良親王のように足が動かなくなっているはずのフロレスタンが這うようにして穴を掘る。まあ、ふつう、死刑囚に穴を掘らせるものだから、正しい演出とは言えるなぁと観ている。
ラッパが響き渡る。機械仕掛けの神ドンフェルナンドが登場するのだが、こいつもファシストの制服を着ていて、かつ所長と和やかに話すではないか。
さて、地下に所長が降りてくる。まず私を殺せと立ちふさがるレオノーレ。
所長は悠然と、フロレスタンにナイフを突き立てる。くたばるフロレスタン。呆然とするレオノーレ。
所長は、(演出的に意図がありそうな人物の画なのだが、判別できなかった)を覆い、布を手にする。
戻って、レオノーレを縊り殺す。
ジークフリートはハーゲンの手にかかり、ブリュンヒルデも自己犠牲して果てる。
すべては丸くおさまる。
ギヴィッヒの郎党が人間として自立するのだ。
おお、まさに厨坊演出。王様は裸だ! と叫ぶ子供だ。これがレアリスムだ。まあまあ。いずれにしても、まったく退屈しなかった。目を離すことができない舞台。素晴らしい。
が、音楽はここからが長い。
長い音楽を地下牢のベンチに腰かけて茶飲み話をするかのように、生者の世界を眺める夫婦。
新国立劇場では珍しくカーテンコールでブーブー豚が鳴くが、カタリーナはこの場にはいない。愉快ですな。
指揮も、歌手も、演出も、オーケストラも良かった。音楽は美しいし立派でもあった。
実におもしろかった。
(絵描きなら、ここの場所に「ひいじいさんの落とし前は私がつける」と首括りの布を手にしごいているカタリーナのイラストを配置する)
東劇でメロライブビューイングのサンドリヨン。
これでマスネはマノン、ウェルテルに続いて3作を劇場版で観たことになる。
・最初ウェルテルを思い出せなかった。
始まると妙に繊細な音楽でメロディーがあまりなく、不可思議な印象を持つ。
振り付けは妙にぴょこぴょこしていて現実感がない(お伽噺だからだろう)。とはいえ、父親とサンドリヨンの2人は比較的リアリティがある。
父親の娘がかわいそうだという歌が白々しいような真剣なような違和感でどう受け取るべきなのか? と疑問を持っているうちに終わってしまう。
妖精の女王のキムが出てきて(なるほど、ほとんど出ずっぱりの良い役だ)技巧を凝らした歌を歌うのだが、やはり音楽の奇妙さを変わらない。
極端に舞台奥を狭めることで遠近感を狂わした舞台装置のため、椅子に座る王子が小人のように見える。孤独感を示しているのかな。
ネズミはサンドリヨンと同じ風体。
宮廷の官僚たちの動きが奇抜過ぎて笑えない。
違和感を持ったたまま幕間。(各2場の2幕構成か、1幕30分程度の4幕構成のどちらか)
幕間インタビューでビリーが、マスネといえばマノンとウェルテルだ。サンドリヨンは1899年の作品でこれら2作のあとに作られた。コメディだ。ベルディは最後にファルスタッフを作った、と語る。
なるほど、時代(ほとんど20世紀)と隣国の偉大なオペラ作家から多大な影響を受けたのだろうと考える。
もう1つビリーが言っていたのでなるほどと思ったのは、(少なくとも幕間前までは)すべての歌が途中で終わってしまい、すぐに別の心情を歌う違う登場人物となるという点。とはいっても紙芝居というわけではなく、明らかに何か客が感情移入しないで遠目に舞台を観られるようにわざと仕組んでいるように思える。リアリズムを排しているのだ。
2幕、サンドリヨンを探す王子と一人で家を出たサンドリヨン(母と姉妹から、王子が謎の女のことを怒っていたと吹き込まれたからだ)が妖精の女王が作ったお互いを見えなくする壁によって、互いの偽りのない心情を知り、世にも美しい2重唱を歌う。なーんだ、マスネはマスネだった。すばらしいメロディメイカーだ。が、オーケストレーションはあくまでも薄く、バイオリンのソロを多用して甘美な味わいを作り出しすぎる。
サンドリヨンが家を出る前、妻と姉妹を叱り飛ばした父親が美しい歌を歌う。野心のために娘を犠牲にした。二人で森の奥の家に帰ろう。
(なんか先週観たルイザミラーみたいな展開だ)
が、結局、サンドリヨンは一人で抜け出したのだった。
場面転換後、最初ビリーが両手素手で指揮を始める。???と思いながら観ているとカメラがオーケストラに切り替わり、戻ってくるといつもの指揮棒を持つビリーになっている。なんだったのだろう。
最後、当然のように靴になる(その前にすべては夢おちだったのかと嘆きまくる長い父と娘の歌が入る。サンドリヨンは川岸に倒れているところを父親に見つけられて、どうやら森の奥の家に戻ったらしい)。
母と姉妹の声がして、どうやら王子が靴の履きてを探しているらしきこと、病膏肓に入り死にかけていることがわかる。妖精さん出てきて! とサンドリヨンが叫び場面転換して王宮となる。チキンドレスなどが出て来るが、サンドリヨンが出てくるまでもそれなりに長い。出てくると、前の幕の終わりで大切にしまった片方の靴は全然利用されることなく、履いて終わる。
最後の最後に母親が出てきて、自慢の娘ですわ! と掌を返す。伯爵家の面目が躍如すれば結果良しということなのだろう。
父親が、お伽噺は終わった。といっておしまい。
・作曲前に道化師を観て、最近の若者はこういう作劇するのか、ではおれも真似してみるか、と考えたのではなかろうかとか思う。
すごく、微妙な作品だなぁと思うが、見えない壁が取り払われたあとの美しさは信じがたい。
サンドリヨンはディドナート、王子はクート、メゾメゾデュエットというのはすごいものだ。
友人に誘われて、六本木のTOHOシネマズで犬ヶ島。
チケットを予約しようとしたら人形アニメで驚いた。なんで、こんなのを誘ったのか?
が、始まるや度肝を抜かれる。
3人組の太鼓もものすごいが、すべてが普通じゃない。
20年後の日本が舞台だが、はるか昔に犬を守るために少年武士に首を斬られた小林家の子孫が犬を抹殺しようとしている。
日本人は日本語で話し、犬は英語で話す。が、主人公の小林アタリの日本語がおかしい(と思ったらカナダ人で、多分、日本語を話すのはこの映画が最初ではなかろうか)。
あらゆるイメージがすべて歪んでいる。
真っ黒な野良犬(チーフ)が常に反抗的な態度。アタリと犬が行軍を開始すると7人の侍。チーフって菊千代か?
が、仕掛けがたくさん。なんだこれ?
オノヨーコがパートナーを暗殺された悲しさで酒に溺れている。
唐突に滑り台をしようとするアタリ。
すべてがピタゴラマシンのようであり、左から右への横スクロールゲームのようであり、おもしろい。
無茶苦茶だがちゃんと筋が通っていて、すべてのシーンが目を離させない。次に何が起きるか予測させても裏切る。
説明をするときは説明し、そうでなければ唐突に進める。
この作家はまともじゃない。なんというか、ティムバートンをさらに尖らせて本物の映画作家にしたような圧倒的な才能だ。あるいはデプレシャンの時代感覚を狂わせてさらに先鋭化したような才能、カラックスから俗に走っている部分をフィルタリングしてから目隠ししてぐるぐる回してふらついている状態で撮らせたような作風とも思える。
つまり、この30年くらい観た作家の中で最も才能がある作家だ。驚いた。
子供が葉山でムナーリを観ようというので、葉山まで行く。
ムナーリとは懐かしい。
中学生のころ、武満徹が大好きな友人がいて、彼から借りたレコードにムナーリバイムナーリが入っていて、なんときれいな楽譜を描くひとなんだ、と印象的過ぎて忘れることができないからだ。
武満徹: ミニアチュール第3集 / 打楽器のための作品集(武満 徹(1930-1996))
もしかしたら、その後、クレヨンハウスかなにかで絵本も見たかも知れないが、僕にとってのムナーリはなんといってもコンポジションの素晴らしさにある。
というわけで、楽しみで楽しみでしょうがなくなく葉山へ向かう。
まず、入れ物の中身が立派で驚く。
村上知義の大作があるが、それだけではない。そもそも収蔵作品がえらく構成が良い作品ばかりだ(ムナーリ展の前に、常設展から触りと新規購入作品展が2部屋ほどであったのだ)。
それにしても固有名詞をまったく覚えられなくなったな。もとから収蔵している作品から新規購入作品で午前3時という題から、おそらくエロティックアートらしき、しかしそう読む必要もまったくない作品群まで、おそろしくバランスが良い作品が占めている。
おもしろさでは、1本の軸に対して4つの枝が生えていて、一見ランダムに動く作品は抜群だった。おそらく軸が微妙に回転することで、枝を動かしているようなのだが、すばらしくおもしろい。
・ムナーリ展についてはあとで書く。圧倒的な構成力と色彩感覚。赤い正方形はすべてが正方形だが、黒い正方形は欠けているのでいまいち。使えない機械という発想。未来派時代に額縁を作品の延長に組み込む。角丸のキャンバス。切り取られたキャンバス。木。スタンプ、スライド、コピー(未来派っぽい動きの再現)。テクノロジーを使うことで、子供だろうが素人だろうが、すぐに芸術を始められる。参加する芸術のための技術。
アーシュラ K ル グィンが死んだが、考えてみれば、読んだことなかったので何か読んでみるかと聞いてみたら、とりいさんからゲド戦記か闇の左手、とお勧めされた。
ゲド戦記はジブリので観たからパスと言ったら、ばかもの別物じゃと言われたけど、そうは言ってもどうせならまったく知らないほうが良いので、闇の左手を読もうとしたら、まだKindle化されていない。
闇の左手 (ハヤカワ文庫 SF (252))(アーシュラ・K・ル・グィン)
紙の本は岩波文庫の場所しかないので、こうなったらなんでもいいやと見てみたら、唯一『世界の誕生日』だけがKindle化されていたので買った。読んだ。えらく時間がかかった。
おもしろかったかといえば、少なくともワンダーというよりも異物感というか猛烈な居心地の悪さというかがすさまじくあった。あり過ぎて読むのに時間がかかりまくったのかも知れない。
というか、ニュートラルな固有名詞(人名、地名、種族名、都市名、事象名、事物名、星名、なんでもかんでもだ)がばんばか出てくるのに、Kindleだと確か20ページほど前に出てきたような気がするが、あそこではどういう印象を主人公は持ったっけ? とか紙の本なら数秒でわかることが永遠にわからない(検索すりゃいいじゃんというのはでたらめだな。検索が0.1秒でできるのらともかく、手順が多すぎて、思考の流れが完全に切断されてしまって話にならない)のでいちいち暗記しながら読まなければならないのが大問題だったようだ。
やっぱり現在のテクノロジーでは、紙に対する印刷が最強だと完膚なきまでに思い知ったが、それはそれこれはこれ。
という、読書スタイルを確立するまでの作品はしたがってあまり印象がないというか、どちらかというとろくな印象がない。
・愛がケメルを迎えしとき(1995年、読んでいる間は発表念を気にしていなかった、今、記録として掘り起こしている)
事象を次々と忘れながら読んでいたため、全然記憶にない。えらく退屈だったような。
・セグリの事情(1994年)
少し読み方がわかってきたのだが、異様にヘヴィーな作品で死ぬかと思った。
・求めぬ愛(1994年)
慣れた。さらに異様にヘヴィーな作品で死んだ。
・山のしきたり(1996年)
求めぬ愛の世界の続きなので楽しめた。が、さらに異様にヘヴィーな作品で生き返った。が、これは一連の作品の中でも新しいだけに、骨格以外の肉付けがある(そこが物語性となって読みやすくなっている)のだなと今、年代を入れて気づいた。
・孤独(1994年)
おもしろい。が、異様にヘヴィーな作品でまた死んだ。
・古い音楽と女奴隷たち(1994年)
おもしろい。クッツェーの夷狄を待ちながらみたいだなと思いながら読んだ。辺境におかれた文明人が内乱に巻き込まれて文明性を完膚なきまでに抜き取られても残る意志、政治と人間の対立、冒険、そういった要素に共通点があるからだ。という意味において、20世紀末期の文学に通底する問題意識を掘り当てたので純粋に楽しめたのだと思う。(作家の腕前が上がった可能性も高いと思ったが、年代を見るとそうでもない。扱うテーマの違いによるものかも知れない)
・世界の誕生日(2000年)
引き続き、呪術的文学作品。抜群におもしろい。というか、作家の腕前は明らかに上がっているだろう(年代的にも正しい可能性がある)。
・失われた楽園(2001年)
見事なSF(スペキュラティブなだけではなく、味付け的にも、という意味で、他の作品もすべてスペキュラティブではある)作品。おもしろい。
世界の誕生日 (ハヤカワ文庫SF)(アーシュラ K ル グィン)
前半の作品群を読んでいて想起しているのは、クッツエーではなく沼正三で、異様なまでにセクシュアル(社会学以前に生物学的特徴が最重要視されているのでジェンダーではない)な物語群なのだが、片や倒錯した理想郷(なので好みは別としてエロティックである)、片や突き放した(まさに異星人の目による)単なる叙述(なのでセクシュアルではあるが、これっぽっちもエロティックではない)と、同じような世界を描いてもこうまでも違うのかという興味深さもあるが、それよりもなによりも、読んでいて感じるのはとんでもない違和感で、もしかすると、それは強制される異物感かも知れない。と考えるとワンダー以外のなにものでもない。構築力といい説得力といい大した作家だ。想像なのだが、ここでおれが得た異物感が日常というのがジェンダーなのだろう。
・1970年代初頭くらいの知識ではセクシュアリティを主題にしたSFというのはファーマーくらいしかいない(そもそも子供用ジャンルなので、主題にしないという不文律があったのをファーマーが打破した)ということだったのが(実際には60年代後半からSFがジャンル小説から文学の領域に入ったので、そんなことはなく、10年遅れの知識だったわけだが)、どえらく進化して深化したことそれ自体がワンダーだ。
ツィッター眺めていたら、シュヴァンクマイエルが挿絵を描いた怪談について書いてあるものがあって、おれも欲しくなって購入。
奇書だった。
ハーンについては松江の居室を見たこともあるし(まさに箱庭のような庭をうかがう落ち着いたたたずまいの部屋だった)、坊ちゃんの時代での描かれ方が美しくて(夏目金之助を東大が雇うために代わりに追い出されたような書き方になっていたような記憶がある)まず好きだ。
坊っちゃんの時代 : 1 (アクションコミックス)(谷口ジロー)
(山田風太郎の明治物に影響を受けたと思われる、実在人物の年表を並べてあり得た出会いとすれ違いの過去を再構成した作品としてはうまく書けている。谷口ジローの描く薄幸のでも幸福そうでもあるラフカディオ・ハーンが実に良い味を出している)
怪談自体は小学生のころ、近所の本屋で角川文庫版か何かで読んだ。まあ、茶碗の中が最高ですな。
シュヴァンクマイエルはクエイ兄弟の師匠格とあって、六本木のシネヴィヴァンに短編大集合みたいなのを観に行った記憶と、DVDでアリスを買ったけどなんか封も切らずにどこかに埋もれてしまったていどの愛着である。クエイ兄弟ほど洗練されていなくて気持ち悪いので、好きなんだけどあまり愛着はないけど、本になっていれば別物ではある。
アリス 【HDニューマスター/チェコ語完全版】 [Blu-ray](クリスティーナ・コホウトヴァー)
(さっさと見れば良いのにまだ見ていないというか、持っているのはBlu-rayではなくDVD)
原書はハーンの怪談とか虫のやつとかを適宜選んでチェコ語に翻訳してシュヴァンクマイエルに挿絵を描かせたというチェコの作品で、それを国書刊行会(表の顔は幻想とオルタナティブな文学だけど、裏というか本業は総会屋だというのを30年ほど前に見たけど今もそうなのかな? というか、今は総会屋という職業は成立しないと思うので、良くわからん)が平井呈一の訳を使って日本語版にしたものだ。
平井呈一は永井荷風の弟子筋の翻訳家で、怪奇小説好きなら創元のアンソロジーや、牧神社のアーサーマッケン全集の訳業で知らぬ人はいない人。多分、現在のつまらない風潮の下では戸田奈津子スタイルとして排斥されそうな訳業だが、逐語訳ではなく、意味と時代背景、主人公の言い回しの癖、雰囲気を明治初期から昭和初期にかけての江戸の文化が多少残る東京のそれなりに教養(当然、その教養は江戸の文学から明治に輸入された海外文学ということになる)がある人間(爺さんが江戸言葉を喋るとかだと当然、その文化が残る)の文学として再構築したもので、おれは素晴らしく好きだ。ビクトリア朝の黄昏に似合うではないか。
という、癖のある人大集合な本なのだから、つまらんわけがない。
たとえば訳業。冒頭の誰でも知っている耳なし芳一のはなしの
その地尻の、浜に近いところには、ひとくるわの墓所も設けられて、そこには、入水した天皇のみ名や廷臣たちの名前をきざんだ、幾基かの墓碑が立てられ、毎年忌日になると、かれらの菩提をとぶらうために、さかんな法会の式がいとなまれたものである。
といった1行にしびれまくる。リズム、語彙、ひらがなと漢字のバランス(ただし編集者が手を入れている可能性はある)、読点の位置、名詞と動詞のバランス、すべてが美しい。声に出して読んでみれば、圧倒的な律動感に讃嘆するはずだ。
選択はわかりやすい。明らかな怪異談を選んでいる。茶碗の中がないのはまあ当然ではあろう。
で、シュヴァンクマイエルだが、冒頭、1ページを使って、創作の方向について自ら語っている。
古い西洋の怪奇譚の挿絵に対して、日本の怪物の画をコラージュすることで、東と西の怪異が唐突に衝突することで生じる超現実を提示する、ということらしい。
おれには、エルンストの出来損ないに見えなくもない。
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢 (河出文庫)(マックス エルンスト)
というか、ここまでコラージュを全面的に押し出した書籍としてまとまった作品というのは、エルンストくらいしか知らないからだ。
ただ、エルンストはそこで物語を展開させようとしているのだが、シュヴァンクマイエルは居心地の悪さ(それはときどきはおっかなさだし、ときどきは気持ちの悪さである)の演出に専念している。
日本の化け物に転化されているのはチェコのポレドニツェとかヴォドニークとかいった連中らしい。
次の狼の化け物らしきものが大首の幽霊に、襲われる小僧が黒坊主に転化した画がわかりやすい。ただし、なぜこれが芳一が寺を抜け出し鬼火のが飛び交う墓地の中で壇ノ浦を詠うところの挿絵なのかは謎である(というか、おそらくシュヴァンクマイエルはいちいち書籍の文章側に合わせようとはせずに、単純に言われた枚数を作っただけではなかろうか。でも、衝突なのだからそれで良いのだろう。
美しい書籍(文章、話、挿画、装丁)を楽しむには素晴らしい本だ。
子供に誘われて、Le vociの劇場支配人と魔笛。
劇場支配人という歌劇の存在そのものを知らなかったため、魔笛は長すぎるので翻案して劇場支配人というつなぎの新作(新演出)のフレームワークの中で魔笛を演じるのだと完全に勘違いして観始める。
すると、序曲が全然聞いたこともない曲なのだが、まごうことなくモーツァルトで、完全に混乱する。
指揮者はなかなかのマエストロだし、オーケストラも良い音を出している。
それにしても、劇場支配人は別に知らなくても全然人生を損しない曲だった。おもしろいことはおもしろい。
魔笛は、想像よりも遥かに良かった。
夜の女王がどうも声がかすれるのが気になったがコロラトゥーラは良くて、あまり体調が良くなかったのだろうか。
パパゲーノが声がでかくてこれまた見事だし、タミーノは曲がまったく好きではないので退屈するのだが歌手は立派。ザラストロも同様。なんか良いものを観ているぞ、と気づく。
パパゲーナが老婆から変身すると、これまで見たこともないほどパパゲーナそのもので、目を奪われる。
というのもあって、パパパが実に泣ける。こんなに嬉しくも感動的なパパパはそうそう観ることはできないのではなかろうか。
子供がパパゲーナだけはオペラではなくミュージカルの文脈を演じていると言っていたが、確かにそうだったかも知れない。
で、考えてみると、ダポンテと魔笛合わせて、バルバリーナ、デスピーナ、チェルリーナ、パパゲーナの末尾ナの4人は、異物感がある。歌劇の中に伝統芸能(ここでおれは道化劇のコロンビーナを想起しているが、コロンビーナも末尾ナだな)の女歌手が紛れ込んでいるみたいだ。でも、その4人がいるからこそ、ダポンテの3作と魔笛は素晴らしいとも言えるのではなかろうか。
上野でイル・トロヴァトーレ。
聞いたこともない歌劇場だが、フリットリのレオローラを目当てに行ったら、フリットリは気管支炎で欠場だった。3/11の後も日本に来てくれていた人だから、本当に体調が悪いのだろう。残念だがしょうがない。
代役のヴァシレヴァは声はきれいで嫌いではないが、特に1幕2場の登場シーンでは音程がおかしいように思えて気になった。全体的にあまり深み(多分、倍音をどう含めるかということだと思う)は無いので、単調な印象を受けた。悪くはない。(フリットリとヴァシレヴァはスカラ座のファルスタッフで共演しているのでおれは観ているはずだな)
それよりもメーリが素晴らしい。結構有名な人らしいのだが(一緒に行った人は、メーリとフリットリなら楽しみだと言っていたから、おれが知らないだけなのだろう)、最初の舞台裏からポロンポロンに合わせて歌うところが高音が良く入ったきれいな、しかし通る声で、おやこれは本物がやって来るぞ、と期待感が高まる。
ルーナ伯爵、レオノーラとのチャンバラ3重唱では、ヴァシレヴァと音域が完全に重なってなんじゃこりゃみたいなところもあったが、歌う歌う、3幕はおおこれぞイタリアオペラみたいな調子で実に良かった。
というか、名前が見つからないが開幕早々の中隊長の昔語りも良ければ、ルーナ伯爵のガザーレも良い味出している、というか声が朗々としていて、これまたおおヴェルディですなぁと良い気分にしてくれる。
ルーナ伯爵はいちいちポーズを決めては去る演出なのだが(マントをぱっと跳ね上げて去ったり、修道院のシーンでは剣を放り投げて去ったり)、どれもきっちりと決まってかっこいい。
それにしても聞いたこともない歌劇場とはいえ、序曲の金管鳴りまくりだろうがなんだろうが、実に決まりまくるし、合唱の迫力(火刑台の炎にしろ、城を奪還して宝物を奪えにしろ、ジプシーの歌にしろ)も凄まじく、なんかすごく良い時を過ごせた。
5階にまったく人が入っていなかったが、もったいないなぁ。
これまでイル・トロヴァトーレは魔笛を越えるでたらめでバータリーなストーリーだと思っていたが、今回、異なる印象を持った。
マンリーコの母親の演出と歌いっぷりが良いからかも知れないが、3幕でルーナの一党に捕まる場面で、母親は兄に弟を殺させるために意図的に捕まったように読めたからだ。
であれば、完全に一貫しているし、最後の最後の復讐は成し遂げられた! から、おれは生き続けなければならないが、見事な大団円として成立する(ガゼーレはここでも最後をピシッと決めて、見事だった)。
ということは、ニコリッチ(母親)もまた名演だったのだ。
すごく良いものを観られたな。
良いと悪いの間に、良くないと悪くない、それから並があって、おれの言語感覚では、良いほうから順に「良い」「悪くない」「並」「良くない」「悪い」となる。
悪くないは、積極的には良いとは言えないのだが、しかし並ではない。否定形を使わなければ、まあまあ良いとか、割と良いとかに相当するニュアンスを持つ。良くないも同様で、積極的に悪いと評価はできないのだが、しかし並ではない。どちらかといえば悪い、まあ悪いかなぁくらいのニュアンスになる。
が、ふと、必ずしも常にそう使っているわけではないことに気づいた。
上の5段階の評価は、審美的なことであったり、作品の評価であったり、つまるところ、good/badの間の表現だ。
しかし、そうではなく絶対的な行いの善悪が問われている場合は、そもそも「並」というものはなく、「良い」「良くない=悪くない」「悪い」の順になっているように感じる。正確には「善い」「善くない」「悪くない」「悪い」だろう。その行いは善くない。だが悪い行いではない。その行いは悪くない。だが良い行いとは言えない。この場合、善くないと悪くないは価値的に等しく、その時点の文のつながりや、善悪どちらを強調したいかの判断によって使い分けているようだ。
つまるところ、善悪は2元論なので中間がなく、良悪はスペクトラムなので幅があるということなのだと思う。
そこで、最初の良くないは悪くないより悪い評価、というところで、なぜ、おれがそう使うのかについては思い当たる節があって、もしかすると、実は人によって使い方が異なるのではないか、という疑問が湧いている。
おれが、いまひとつだがまあわりと良いかもな、という意味で「悪くない」と評価したときに、人によっては、悪いとまでは言い切れないが、これっぽっちも良くはない(つまり、おれの5段階表現では「良くない」に相当)というニュアンスを読み取られたとすると、それは明らかに齟齬が生じている。
「良くない」は、どうもおれの場合、ファントムオブザパラダイスでポールウィリアムズ扮する悪徳、しかし才能あふれる作曲家/プロデューサーのスワンがオーディションに来たカントリー歌手に対して「not bad, but ...」(正確ではないかも)といってリジェクトする言い回しの「not bad」に影響されている可能性が高い。
このシーンでは、他にもlittle pretty, but ...などいろいろな言い回しでgoodなもの(がフェニックスという女性歌手)が出てくるまでリジェクトしまくるのだが、そこで使われるnot badという言い回し(と、そう評価される歌手の歌)が妙に印象的で、それを脳内で翻訳して「悪くない」という言い回しを決定的ではない肯定として位置付けているようだ。
ファントム・オブ・パラダイス [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray](-)
ファントムオブパラダイスという邦題は、公開時からツッコミを受けまくっていたが、未だに「ザ」を入れないままなんだな。天国の妖怪(怪人)なのか、パラダイス「座」の妖怪(怪人)なのかは、どえらい違いだし、当然ながらザの有無でオペラ「座」の怪人のバリエーションかどうかが変わるのだから、絶対的に必要なはずなのだが(オペラの怪人とオペラ座の怪人では全然違うってのと同じだ)。
・(原作のフランス語で)パラディと、パロディの語呂合わせでもあるように思えるし、パラダイスと言えば、Les Enfants du Paradis も当然のように想起されるのだが、Les Enfants du Paradis も邦題だと天井桟敷(この場合のパラディの訳としては正しい)の人々なので、もう2つの作品の関連性は日本語ではゼロですなぁ。
ところで、ファントムオブザパラダイスのスワンはカリオストロの城に引用されているということだが、観たことないのでわからない。
#ところで、right/wrongである一方、good/wrongもあり得ることに気付いた。であれば、good/bad、good/wrong対良悪、善悪で、英語だと悪が2種類善が1種類で、日本語だと善が2種類で悪が1種類で、ちょっとおもしろい(おれが持つ悪相当の語彙のバリエーションが乏しいだけのような気もする)。どちらかというとright/wrongは善悪ではなく、正邪の組み合わせのように思える(よこしまという和語は今では悪いに吸収されてしまって、音読みのジャ以外はそれほど利用されていないように感じるが、どうなんだろう)。
ジェズイットを見習え |
_ ムムリク [闇の左手。読んではいるのですが、もうすっかり記憶の彼方です。ファーマーの「恋人たち」も懐かしく思うのですが、実は未読..]
_ arton [去年を待ちながらもおもしろいですね(夷荻を待ちながらは分析的にはおもしろいけど娯楽的にはそれほどおもしろくはない)。]