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5/27は新国立劇場のフィデリオ(カタリーナに敬意を表して記録は6/2の千秋楽後にした)。
飯守監督がすさまじく力を入れていたので楽しみに観に行く。とはいえ、フィデリオなんだよなぁ。CDで最後まで聞きとおした試しがないので、結局よくわからないまま行くことになった。
で、演出がカタリーナ・ワーグナーなのだが、新国立劇場だし、適当に無難なところでお茶を濁すのではないかと想像していた。
実際、幕が開くと、3階建ての牢獄で、最上階が1階、中が地下牢、最下層が普通の牢獄という不思議な構造なのはともかく、それほど目立つところもなく、始まる。
が、実は厨坊カタリーナの面目が躍如しまくっているとはこの時点では気づかなかった。
で、囚人の合唱は確かに名曲だなー、なんか所長はナチっぽい制服だなぁとか観ていたのだが、確かに曲は退屈だ。正確には、個々の楽曲はベートーヴェンだし、オーケストレーションもベートヴェンだし、モチーフはちゃんと展開するのだが、紙芝居のように、はい次、はい次と切り替わっていくだけで、つまりドラマツルギーが欠如しているとしか思えない。
なるほど、これは退屈だ。
2幕になるとますます退屈になるのだが、グールドが出てきた瞬間に景色が変わった。第一声が恐るべき轟音で、すべての退屈さが吹き飛んだ。なんてやつだ。
物語は看守(妻屋、良い)とレオノーレ(メルベート、悪いはずもない)が所長(ラデツキー、良いと思う)がフロレスタン(が、グールド)を暗殺したらすぐに埋められるように、穴を掘ることになっているのだが、二人は階段のところでもたもたしていて、代わりにほとんど飯も与えられずに2年も暗黒の中に閉じ込められているのだからとっくに佝僂病になっているか、護良親王のように足が動かなくなっているはずのフロレスタンが這うようにして穴を掘る。まあ、ふつう、死刑囚に穴を掘らせるものだから、正しい演出とは言えるなぁと観ている。
ラッパが響き渡る。機械仕掛けの神ドンフェルナンドが登場するのだが、こいつもファシストの制服を着ていて、かつ所長と和やかに話すではないか。
さて、地下に所長が降りてくる。まず私を殺せと立ちふさがるレオノーレ。
所長は悠然と、フロレスタンにナイフを突き立てる。くたばるフロレスタン。呆然とするレオノーレ。
所長は、(演出的に意図がありそうな人物の画なのだが、判別できなかった)を覆い、布を手にする。
戻って、レオノーレを縊り殺す。
ジークフリートはハーゲンの手にかかり、ブリュンヒルデも自己犠牲して果てる。
すべては丸くおさまる。
ギヴィッヒの郎党が人間として自立するのだ。
おお、まさに厨坊演出。王様は裸だ! と叫ぶ子供だ。これがレアリスムだ。まあまあ。いずれにしても、まったく退屈しなかった。目を離すことができない舞台。素晴らしい。
が、音楽はここからが長い。
長い音楽を地下牢のベンチに腰かけて茶飲み話をするかのように、生者の世界を眺める夫婦。
新国立劇場では珍しくカーテンコールでブーブー豚が鳴くが、カタリーナはこの場にはいない。愉快ですな。
指揮も、歌手も、演出も、オーケストラも良かった。音楽は美しいし立派でもあった。
実におもしろかった。
(絵描きなら、ここの場所に「ひいじいさんの落とし前は私がつける」と首括りの布を手にしごいているカタリーナのイラストを配置する)
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