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新国立劇場でオデオン座のガラスの動物園。
イザベル・ユペールがアマンダだというのに興味を惹かれてきたのだった。
(御多分に漏れずイザベル・ユペールはパッションで知ったのだった)
トム・ウィングフィールドが大きな音の後、客席脇から舞台の前に立ち手品をする。虚と実の転倒について語り舞台が始まる。
茶色の粘土でできているような質感の奇妙な壁。下手にオープンキッチン、真ん中に階段への出口、上手に毛布などラグが置かれている。父親の写真は実際には無い(と思う)が、代わりに電気のスィッチらしきものがある(ように見える。が、停電時にジムがヒューズをチェックするのはキッチンの奥だった)。
階段と上手のラグの間の壁の一部が開くとまばゆい光に照らされるガラスの動物園がある。
ウィングフィールドという名前は考えてみると飛翔を抑えつける地面のような名前だ。
ローラは大体、上手の毛布にくるまっている。
トムは大柄で気が良さそうな青年で、声が良い。
ローラはやたらと小柄。
アマンダはイザベル・ユペールで、声は落ち着いていて好き。最後の慟哭だけは金切声に近いが、少なくとも滑稽なおばさんではない(朝の目覚まし文句も普通の台詞となっている)。
そのため、船員になるため出ていく決意をしたトムを察して、出てくのは構わないが、ローラのために夫の候補を連れてこいというやり取りに切迫感がある。
キッチンと階段の間に窓がある。窓に意識が向いたのは、ジムを待つことになるあたりで、明るい光が窓から差すからだ。
同様に、ローラが学校へ行かずに時間を潰していることを問い詰めるアマンダとのやり取りでは、ローラの異常な雰囲気(美術館に行ったり、たまには映画へ行くというあたりの嬉しそうな表現)が強調される。
イザベル・ユペール以外の役者について知らずに見ていたので、トムに連れられてジムが部屋に入ってきたときは驚いた(完全に頭の中ではアイルランド人のオコーナーのフランス人版が来ることになっていた)。
ジムとローラの会話ではローラの唐突な笑い声など、単に障害を気にし過ぎている引っ込み思案な人間というよりも、自閉症性が強調された演出となっている。この女優もうまいものだ。ジムも声が良い。
全般にとにかく声が良い。騒がしくなく大声でもなく(もちろん怒鳴るシーンでは怒鳴るのだが)語り合う。
舞台には椅子はなく、すべての会話は舞台の端に腰を下ろして行われる。そのため、ジムがこの連中について話すときは、明らかに観客席にいるわれわれについて語っていることになる。
窓の向こうは雨。
ジムとローラのダンスのシーンがびっくりするほど激しくて、ほとんどぶん回す放り投げるに近い。この荒療治でローラは自分の殻を少しでも破ることはできるのだろうか。
電気がこの後どうなるかはともかく、ジムのまじめさと激しいダンスによって、ローラが多少は自立できるのではないか? というようなほの明るさが残る。
カーテンコールでは出てくる都度並び順が異なる。24回出てくるのかと一瞬考えたが、さすがにそういうことはなかった。
とても良い舞台だった。
・ピアノ曲がドビュッシーなのがちょっとおもしろかった
・ローラが一緒になって歌う黒い猛禽類の歌が実に気になるのだが、なんという曲なのだろう?(オリジナルなのかな)
少女終末旅行、途中まで無料でぽつぽつ読んでいたが、最後の2巻は買って読んだ。
いきなり人類がほぼ絶滅した地球の廃墟をキャタピラ走行車で旅する2人組(良くわからんけど小学高学年くらいなのかな)の少女の物語。
片方はおばかで楽天的、片方は理性的という役回り。
淡々と見たものや出会ったものに感想を言い合いながら旅を続ける。
あまりに淡々としているので、その淡々さが周囲の静寂さ(実際には機械が稼働しているため騒音がすごい場所もあるが)と相まって、どうしようもない終末感が漂う。
どうにもならないし取返しはつかないことは明らかなので、『渚にて』のようにひっそりと世界は終わる(世界を認識する主体の消滅)のだろうなぁという予兆しかない。
渚にて 人類最後の日 (創元SF文庫)(ネヴィル シュート)
なのだが、あくまでも少女たちの表層的(たまに深淵を覗き込む)でおっとりのんびりした対話で進むため、ネガティブな感覚がまったく生じない。
食料と飲料の入手が困難なので常に腹を減らしているので、おばかな方はたまたま食べた魚にこだわりまくる(のが、最後に生き残った魚と、魚監視システムとのエピソードで効いている)。
読んでいてこのゆるさが実に心地良い。その視点はなかったというような斬新さだ。要はヒロイズムがまったく無いのだ。それこそ現代の終末SFに求められている視点ではなかろうか。
というわけで終末SFとして大傑作だった。
新国立劇場でジュリオチェザーレ。最初舞台で聴くとジュリオチェザーレの声は音量的に辛いなと思ったが全体音のバランスが良い(指揮者が上手い)のですぐに慣れた。
2幕(だったかな)でトロメオ(それにしてもプトレマイオスがトロメオになるのはわからなくはないがわかりにくい)を暗殺しようとセスト(だったかな)と護衛兵の代わりの職員軍団とのからくり人形的な一進一退の部分は美術館(博物館?)の舞台のおもしろさが生きていた。
クレオパトラがとても良くて、聴きなれた3幕の沈没した船が港に戻って来たは実に楽しめた(というか、この曲は輝かしい前奏といい、ヘンデルの楽曲中でも最高の作品ではなかろうか)。衣装が脚のシルエットを浮かび上がらせるのだが、これもきれいだ。テンポは聴きなれたメトのデュセーのやつよりも相当ゆっくり目で逆に曲の印象が変わって、これはこれでとても良い。
古楽器をたくさん揃えて実に良い音を聴かせてもらえてこれも良かったが(低音用の弦を持つため異様にネックが長いリュートの一種なのかな? とか見た目がおもしろい楽器もあって、2幕目で舞台上に楽団が出てくるところは見た目もおもしろい)、3幕でちょっとホルンが残念だったところがあった。20年近く前のバレエの楽団とは違って、最近あまりひっくり返りとか耳にしなかったので、ホルンはホルンでもこれも古楽器だったのではないかなぁ(音はポーワーとして実に心地良い響きだった)。
というわけで、ロマン派以降の音楽に慣れた耳には実に退屈なバロックオペラなのだが、演出的に工夫をこらしていて、舞台作品として実に楽しめた。良い舞台だった。
問題はやはり楽曲そものだ。ソナタ形式(提示ー展開ー再現)未満のダカーポ形式(1部-2部-1部)の、ソナタ形式でいうところの再現部が曲としては提示部と同じことによる退屈さで、もちろん歌手が装飾しまくって退屈さを抑制しようとはするのだが、そうは言ってもやはり退屈。特に加減を抑え気味だからだろうが1幕の退屈さは本当にうんざりする(逆にいうと2幕目以降はおもしろいのだが、そうはいってもコルネリアが出てくるとまたあの嘆き節かとうんざりすることに変わりはない。歌手にとっては損な役回りだ)。
日生劇場でジャージーボーイズ。
舞台の上にミラーボールがあるので、多分、君の瞳に恋してるのディスコパートでくるくるぴかぴかするんじゃないか? と思ったら大当たりだったが、まさか本当にそこでしか(カーテンコール時も)使いまくらないとは思わなかった(が、予想通りにチャーラッチャーラッチャーラッラッラーラに差し掛かるとくるくる回り出るのには思わずビンゴ! と言いたくなった。それにしてもテンポにしてもミラーボールにしてもフランキーバリーというよりはボーイズ・タウン・ギャングだなぁ)。
演奏(カーテンコールの最後の最後で演奏家をビデオで映したのだが、キーボード奏者が3人以上いるのにはちょっと驚いた)も良かったし、歌も演技も抜群で、実に良いミュージカルだった。
映画との一番の違いは君の瞳に恋してるの扱いだろう。クリントイーストウッド版では娘の死に落ち込み切ったフランキーを立ち直させるためにゴーディオが作ったことになっていたが(まんまと罠にはまってフランキーが本気でこの曲に没頭するところとかうまい映画だった)、こちらではカモンマリアンヌと同時にゴーディオが作ってマリアンヌのほうがレコード会社受けが良いのでステージでの反応で君の瞳に恋してるのレコード化を図るという全然別の物語となっていた。
先にドアーズのタッチミーを知っていたので、これは今だと盗作だよなぁ(にしても、ゴーディオのように才能あふれる作曲家がここまで露骨な盗作をするか?)と不思議に思っていたのだが、歴史的事実だとゴーディオはマリアンヌにはからんでいなかったようだ。
それはそれとしてドアーズとフォーシーズンズで、ブリティッシュインヴェイジョンの頃のインテリはビートルズを聴くがブルーカラーはフォーシーズンズを聴くというのと対をなしているようでおもしろい(実際のドアーズは日本での受容とは異なって普通のアイドルバンドだったらしいけど、でも層は異なるだろうな)。
・マリアンヌ-ドアーズージャックスという判じ物とか考えた。
ただ、ドゥワップのリズムが出てきても全く盗作とは思わないのに、なぜタッチミーについはそう感じるのか不思議だ。ジャンルとまではいかなかったからだろうな(でも同時期には似たような曲が大量にあったのかも知れない)。
新国立劇場でレオポルトシュタット。
オーストリーのレオポルトシュタットに根付いたユダヤ人のブルジョア一家の1899年から1955年までの時々を切り取って描く。2時間半休憩なしで緊迫した舞台が続きまったく弛緩がなく堪能した。
最初、一族らしき人々の中間に食卓を配し、上手にクリスマスツリーで、各自ばらばらに会話をしている。現代劇なだけに常に異なる会話をさせることで全体像を掴ませずに個々の断片のみを観客に与える実験演劇なのか? と思ったが、まったくそういうことはなかった。
やたらと文句を垂れて食卓の周りをうろついている紳士が前半の大きな主人公(が、群像劇なので誰かひとりが突出しているというわけでもない)の当主だった。3代目にして巨万の富を得た工場主でブルジョワだ。彼は融和主義者なのでユダヤの血には興味なく妻はオーストリー人だ。
下手では一族を代表するインテリの数学者(リーマン予想を解き明かすことを自身のライフワークとする)とドイツ(オーストリーかも)人で一族の娘と結婚した民族的偏見を持たない医者。文化人なので、マーラー、クリムト、ユダヤ人抜きにウィーンを語ることはできない(ウィーンっ子というわけだろう)。
一族、それぞれが自分の思想信条にしたがって宗教を選び思想を選んでいる。
子供がクリスマスツリーのてっぺんに六芒星をつけて場面が凍り付く。その星は違うのよ。
女性たちはオーストリー人将校の話で夢中になっている。
主人公は友人のブルジョアの推薦でウィーンの競馬倶楽部の会員になることを楽しみにしている。
が、彼は妻についても競馬倶楽部についてもユダヤ人であることを思い知らされる。
1924年、第一次世界大戦が終わり、息子は片目片足になっている。
シオニストのイスラエル建国の話が出てくる。
数学者はリーマン予想を証明できない。
1938年、すでにナチスはオーストリーに入り込んでいる。イスラエルへの脱出という話も具体性を帯びてきているが、一族の母親は絶対的に反対の立場をとる。
これまでもいろいろ差別されてきているが、頭を垂れていれば風は吹き過ぎていった。
数学者は頭がおかしくなっているが、綾取りを子供たちに教えていると正気を取り戻す。
イギリス人のジャーナリストと一族の女性は婚約している。
クリスタルナハトの日であった(世界同時発生的にウィーンでも起きたのか、象徴させたのかは知らない)。
ナチスの将校が屋敷に乗り込んできて、一族を徹底的に侮辱し、主人公には工場と財産すべてを政府に譲る誓約書にサインをさせ、すべてを没収して帰っていく。
が、主人公はオーストリー将校に認知させているので、工場は息子のものだと説明する。息子はアーリア人の妻とアーリア人の将校の間の子供で、ユダヤは関係ない。したがって誓約書は無効なのだ。
イギリス人と婚約者は子供の手を取って脱出する。
1955年、一族の生き残りの3人が再開する。
イギリスへ脱出した家族の生き残りが嘯く。おれはイギリス人だからユダヤもレオポルトシュタットもどうでも良い。ロンドン大空襲で母が殺されたからナチスは嫌いだ。
早いうちにアメリカへ渡った家族の生き残りの娘が、その言い方は無いと憤る。
それよりも憤っているのは、アウシュビッツから一族でただ一人生還した男だ。
で、とイギリス人が聞く。なぜアーリア人の息子はここにはいないんだ? 彼には何の問題もなかったのだろう?
彼は1944年に自殺した。
なぜ? そんな理由はないだろう。
なぜわからないの?
そして、憤激した娘は別室に去る。男二人の会話となる。戦勝国は戦後の統治の方便のために、戦敗国の責任を当時の政府(軍)のものとして国民も被害者とした。本当にそうか?
娘、紙を手にして戻ってくる。
一族の名前がここにあるわ。そして死因を読み上げる。(ウィーンっ子が毒を注射した妻の死因は語られない)後半、アウシュビッツが延々と続く。死の行進ときくと日本軍のビルマを想起するが、同じような収容所間の殺すための行進があったのかな?
描かれているのは裕福なユダヤ人の歴史だが、射程に入っているのは語られていない、「ではそうではない「純正な」オーストリー人は何をしていたのか?」 で、観ていて クロードミレールの『ある秘密』 を想起せずにはいられなかった。それはナチスだけの問題なのか?
当然、その視座には日本も含まれる。
傑作だった。
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