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目が覚めたら普通に1月4日だったという夢を見た。
子供が、年賀状を山ほど書くから、宛名(差出人含む)は印刷したいとか言うもんで、はがきスタジオ2007をセットアップしてやった(2週間くらい前の話)。
(はがきスタジオ2008ってのは無いのかなぁ)
で、見てると、妙にすかすかしてどでかい明朝体を選んでいるもんで、そんなのよりHG楷書とかHG行書のほうがいかしているぜ、と教えてやったら、こんなんいやだい、とか言い張る。じゃあ、勝手にしろと思ったわけだが、妙にすかすかしてるし、どでかいから、おれは不思議でしょうがなかった。
で、今日、子供に来た年賀状を見ると、どれもこれも、どでかくすかすかした明朝の宛名ばかりで、行書フォントとか楷書フォントとか使ってるのは1枚も無いじゃないか。ポップ体の子も何人かいたり。
うーむ、そういうものなのか。
(もらってそのままだったのだが、というわけで1年遅れで使ったら、結構、使いやすかった――と言っても、おれは使ってないわけだが、子供に住所登録させて郵便番号検索のヘルプページとか教えてやったら勝手にに逆検索とかも調べてさくさく登録しまくっていたから使いやすいんだろうと思ったということ)
以前、大島さんのところで紹介されていて、おもしろそうなんで読むことにしたPostmanのAmusing Ourselves to Deathだが、通勤の時間+αで、やっと第1部を読み終わったのでとりあえずメモ。
Amusing Ourselves to Death: Public Discourse in the Age of Show Business(Postman, Neil)
いや、やっぱりおれは英語力ないわ。とりあえず半分は読んだが、読めたといっていいのやらどうやら。っていうか、そもそも題がわからないし。死ぬまでおもしろがっていろよ、というような意味なのかなぁ?
第1部は、アメリカ合衆国が成立してから無線によってラジオ網ができあがるまでを書いていて、そもそもアメリカという国は奇妙だから興味深く読めた。何が奇妙かというと、現在のアメリカという国(とその代表としての大統領)と、歴史に出てくるアメリカという国(とその代表としての大統領、たとえばフランクリンとかジェファーソンとか)の落差だ。あるいはボストン茶会事件とか。
で、まさにそんな話から説き起こされる。
移民といっても、プロテスタントとかイギリス国教会からの弾圧を避けて来た連中が多いから、かれらは聖書を読むし、極めて識字率が高くて、90%を超えていたし、婦人でさえ60%を超えていて、これは当時のイギリスの平均より高い、というところからはじまる。
したがって、彼らの娯楽は読書であった。最初のころから本屋が商売していて、場合によっては海賊版をすりまくったり。かくして、作家は英雄として扱われて、そのあたりの様子はディケンズが、アメリカで信じられないほどの熱狂的な歓迎を受けたことをレポートしてるとか。
と同時に、宗教というものが伝統として根付いていないため、理神論が支配的になったとか。ある宗教は、弁論(というか、教理の印刷物)が欠けているために避批難されるとか、つまり、まず文字ありきの文化としてアメリカの歴史は始まったといような調子。
ちょっと正しく読めているか自信がないのが、リンカーンとダグラスの論争のところで、リンカーンが勝ったのが歴史だが、ダグラスの弁論はそのまま文章としても読むに堪える質を維持しているというようなことを書いているから、オーラルを意識した弁論というのに危うさを感じているのかな?
で、そこに無線が出てくることで、素早く、しかし短い、情報が飛び交うことになり、それがつまりニュースで、しかしそれは、だからどうした、というような内容でしかない。つまり、行動を変えたりするような影響力を持たないゴミのような情報にすぎないと続く。
つまるところ、コンテキストの欠如ということで、このあたり読んでいて、もやしもんを思い出した。
まんがというのは、メディアとしては絵に比重が置かれるから、雰囲気とか情動を描くのは(すぐれた作家の手にかかれば)文章より的確に伝えられると思う。が、コンテキストが必要な、知識に関するものは別の話だ。
つまり、樹先生の講義を利用したギャグ(結構、頻出する)。延々と文字が続くので途中で主人公たちがさえぎって別の話をし出すというやつ。
つまりは、そういうことだ。学術的な話は文字の羅列にならざるを得ないし、そうなると、それは漫画の文脈を破壊するし(というか、学問マンガではないわけだし)、したがってそれは途中で無視して話は進む。
アメリカと、コンテキストということで、別のエピソードを思い出す。
映画におけるクローズアップだ。
散り行く花 (トールケース) [DVD](リリアン・ギッシュ)
映画にクローズアップが登場したのは、グリフィスの散りゆく花が最初だとされている。あまりにリリアンギッシュが美しいので、われを忘れてグリフィスがアップしてしまったのだそうだ。
この映画は、徹底的にたたかれた。
それまで、映画というものは、フィルムの中に世界を映すものであった。人物が3人いれば、つま先から頭までフレームにおさまった3人が映り、会話する。(確かに、グリフィスが撮ったアンチコカコーラの宣伝フィルムにしろ、国民の創生にしろ、クローズアップはなく、枠組みの中で芝居が行われる)
それが、まったく意味を持たない(物語的なコンテキストが得られない)女優の顔だけがスクリーンを占有するとは何事か、ということだ。
今は逆だ。ハリウッドの最悪の映画では、基本がバストショットだったりするくらいだ。
グリフィスがクローズアップを発見したころは、ポストマンによれば、活字の断末魔に相当する。フィッツジェラルドやヘミングウェイがすぐれた作品を生み出し、各紙がすぐれた論説を生み出す。しかし、それは失われてしまう、というところで、第1部は終わり。
さて、ひるがえって我が国について考えてみたい。
戦国時代末期あたりは、非常に高い識字率を誇っていた、と網野本とかでは書いてある。方言がすごいので、字を使わないとおふれも出せないとか。確かに楽市楽座で流通しまくっていて、鶴の恩返しのように若い女性が自分の家を飛び出て適当なところで奥さんになってしまう世界なのだから、きっとそうだったのだろう。それは江戸時代に人別管理が行われて姿を消すことになるし、少なくても農民に対しては積極的な文盲政策をとったらしいことは知られている(一方、都市ではそんなこたないのが、絵草子だの瓦版だのは、町人の娯楽だったからだが)。
では、そのころにどんな論壇があったのだろうか?
現在でも残っている、論説というか、説明書というか、自説開陳の書というか、実用書というか、……は、風姿花伝だ。
確かに、これは自説を主張し、考えを明らかにし、それを伝えるために書いた本だ。
これしかないのだろうか?
おれは、たぶん、違って、たくさんの世阿弥がいていろいろ書物を作っていたのではないかと思う。
ちなみに、宣教師とともに印刷技術も渡来したので、イソップ物語を翻案した伊曾保物語が刷られたのがこのころ。御伽草子もそうだが、こういった子供用の本を刷ってたという事実が、いかに当時の日本人が本を読んでいたかの証左のように思う。
が、民主主義ではなく、特に徳川政権の職業固定政策では、公的かつ大衆的な論説は不要だ。したがって、そういう方向に出版は進まなかったということだろう(が、その一方で文明開化と同時に、自由民権運動のビラだのブレチンだのがどばーと出てきたことを考えると、実際には、公衆弁論の歴史は日本でも脈々と続いていたのかも知れないなぁ)。
かといって、論説がなかったわけではなくて、幕府内では建白書だのは当然出てたわけだし、改革を行うにあたっては、それなりの文書を作っていたわけだが(と思うのだが)、それは広く出版されるわけではないので、単なる古文書となってしまったのであった。
(なんとなく、古文というのが、古い人の文学の時間でしかないのは、このあたりの問題だろうな)
とか、いろいろ考える点が多いおもしろい本だが、確かにテレビのクイズ番組がつまらないのは、まさにコンテキスト(とカタカナを使わなくても背景情報とか、関連情報とか、そこに至る経緯とか、反論とか)がないからなわけで、しかもコンテキストの不在を、間違えた人を間抜け扱いにするというお笑いで埋めるところだな、とか妙に納得したり。
しかし、メディアか。
なんとなく読んだので、要約のつもり(いや、誤訳しそうなところはすっ飛ばしたものをさらに要約してるので、おおはずれかも)。
●Rails Is A Ghetto(Railsは吹き溜まり)
会社や個人を特定してばんばんやるぜ。こいつら寄ってたかっておれのことをこけにしやがった。文句あるなら、リングの上で待ってるぜ。このくそめらめが。
まずはケビンクラークだ。こいつは、おれをサポート扱いしやがったうえに、間抜けあつかいしやがった。
でも、すべての原因は、このばかが、リポジトリ上のconfigureファイルを消しちまいやがったことにある。これじゃ、チェックアウトしてビルドできるわけないじゃん。それをおれが間抜けなせいだといいやがりやがった。
Rails界隈はこんなくずばかりだ。
●Tied To The Rails(Railsべったら漬け)
おれは2006年の4から6ヶ月くらいを無一文で過ごしたんだぜ。そのほかといったらほんのちょっぴりだけ。MongrelとRailsのせいだ。
オビーフェルナンデスのおかげでマックで働く必要もなく、うまいことやれてたんだ。
Mongrelの前は、ニューヨーク市刑務所でいかしたソフトを作ってたんだ。REST XMLを使った監獄管理システムさ。
その前は、指紋認証機。ネットワークプロトコロル、ビジネスプロセスのデザイン、ソフトウェアチームのリーダー、ポータル作り、コンサルタントもね。
なんてこった。Mongrelの後ときたら、すべてのジョブが消えちゃった。ちんけなスタートアップばかりがおれに近づいてくる。くだらねぇSNSを作りたいとか言いながらだぜ。
●The Stories I Could (and will)Tell(おれが話せる(つもりの)物語)
ある会社ときたら、1週間につき2時間のメンタリングに対して、あらゆる書類を書かせようとしやがった。馬鹿か?
別の会社は、結構良い条件だったんだ。ところが、それはRFPにMongrelで有名なおれの名前を入れたかっただけなんだ。実際に仕事が始まると、あっちからアーキテクトがきて、こっちからコンサルタントが来て、その会社の役立たずがリーダーになって……おい、おれの居場所はどこにあるんだ?
別の会社は単純な修正のためにおれを雇った。5分で片付けたら、それじゃ金はやれないな、ときたもんだ。
NYCの会社は上げたり下げたりした上で、すぐ金が欲しかったのになかなか払わないと言いやがる。おれの仕事はなにかといやぁ、Mongrelのカスタマイズなんだぜ。(要約注:よくわからない。NET-30ってなんだろう?)
そして、たわけたSNS野郎どもだ。
Googleときたらねぇ。2回ほどオファーがあったんだ。でも、それが初級シスアドなんだぜ。え? このおれが初級シスアド? 馬鹿野郎。まともなポストを用意してきやがれ。
●Revenge Of The Zen Prick(禅ちんこの復讐)
バンクーバでのことだ。そこにはRailsはなかったわけで、ちょろいRailsの仕事をやったわけだな。ちょろかったぜ。しばらくして、メールが来た。
「お前のコードはかすだ。ブラックリストに乗ってるから、2度とこのあたりの会社は、お前を雇わないぜ。失せろ能無し」
なんのことだ? おれはほとんどコードを書いてないんだぜ。そりゃJavaのライブラリをリバースエンジニアしたやつとか、ソースがないやつのパッチを作ったりしたぜ。だからといってブラックリストってこた、ねぇだろ?
でも野郎は、これをバンクーバ中に回状を出しちまったってわけだ。おい、八方所払いかい?
そしたらメールがまたきやがった。
「やぁ、すまん。ブラックリストにのってるのはShaiだった。君はShawだね。気にしないでくれ」
なんだって? しかも後になって実際にはブラックリストなんて無いとか言いやがったし。
でも、そんな具合でバンクーバはおれの居場所じゃなくなった。(要約注:だと思うがわからん)
●How'd this Happen? (どうしてこうなっちまったんだ?)
てな具合に、馬鹿ばかりだ。
おれは貧乏だから、修士課程が終わりそうなところで中退しなきゃならなかったんだ。でもほとんどMBAなんだぜ。ほぼ完全なソフトウェア開発教育も受けてるし、モデリングも統計学も、社会学だってそうだ。 そのおれさまが、こんなMBAのなりそこねの車のセールスマンからどう思われているか知ってるか?
ただのコード猿だぜ!
Railsから手を引いて、Mongrelから距離を置いて、Rubyコミュニティから離れて、さておれは自分のビジネススキルを見直してみた。なんでRailsコミュニティが役立たずで、馬鹿で、傲慢なのかわかったよ。
2007-1-20にDHHとこんなやり取りがあったんだ。
DHH:fastthreadより前は1日あたり400回リスタートしてたんだ。
DHH:今、10回くらいで済むようになった。
おれ:そりゃ良かった。
おれ:で、相変わらずfastcgiを使ってるのか?(要約注:間違いかも)
おい、よくみてみろよ。DHHがだぜ、ほかの誰でもないDHHがだぜ、1日400回リスタートだってよ? fastthreadより前は。GCとスレッドのバグをだぜ、メンタルガイがfastthreadで直すまではだぜ(メンタルガイはすげぇやつだ。まるで忍者だよな)。
わかるかい? Railsの開発者本人のプロダクトは、4分に1回リスタートしなきゃ使えない代物だったってことだよ?
もし、DHHの言ったことが本当だとしたら、やつは、おれたち全員をペテンにかけてたってことだ。
実際のところ、DHHがやったこたそんなに悪くはない。野郎はあのくそたれなJavaをぶちのめしたわけだし。これでクラっときたんだよな。ああ、おいらは馬鹿だったよ。
GC、スレッド、それにIOが怪しいっておれが言ってるのに、デイブトーマスだのマイケルコジアルスキやらチャドファウラーだのは全員、それを否定したんだ。あのひでぇcgi.rbのバグを覚えてるかい? おれがMongrelの修正版をリリースしようとしたら、デイブとマイケルは、3ヶ月待ってくれとか抜かしやがったんだ。やつらのせいで危険な状態が3ヶ月続いたってわけだよ。
つまり、最初から嘘ばかりだったんだ。
●The The Idiots Came(そして、バカがまとめてやって来る)
Rails肥溜め理論をうまく要約するとだな、マイケルコジアルスキを観察すればよい。あの醜いデブ野郎のことだ。オンラインでは大口叩きやがるが、面をつきあわせりゃただの糞だ。
まあ、誰もあいつのこた知らないだろうよ。
ちゃんと調べる前は、おれにとってはRailsは金がなるプラットフォームに見えたんだ。だから気にしたしMongrelも提供してやった。でももう知ったこっちゃない。おれが手をひけば、マイケルは肥溜めの中に沈むのさ。ざまぁみろ。
もっといかしたフレームワークが出てきてるぜ。Merbとかさ。Mongrel Plus Erbだけど、Erubis使ってるんだぜ。Railsのコアがスレッドがどうしたとか叫んでるのを尻目にうまいことやってるんだ。
Rails野郎たちが、もうちょっとおいらに敬意を表してくれて、言葉に耳を傾けてくれてれば、助けてやったんだけどな。でもやつらはそうしなかったんだ。
ん? おれが間違ってる、Kozはすげぇコーダーだって?
おまえらRailsのあのくそを覚えているか? URIに;が出てくるやつだ。そりゃパスパラメータだぜ。Mongrelはまともなパーザを持ってるからそんなんじゃまともに動かねぇよ。で、誰がこの間違ったことを仕出かしたか知ってるか? Kozだよ。
Railsには、Kozみたいな連中でいっぱいだ。あいつがどれだけバグを入れたか見てみろよ。日付パーザを見てみたらどうだ? ヒント:1月が30日じゃないこともあるんだぜ。
バカしかいない町にはな、スマートな人間の居場所はないんだよ。
●The Hysteria Of Consultancy(コンサルト会社のヒステリー)
ThoughtWorksときたら(要約注:めんどうだから略)
え、なんでおれがそんなくずどもと働いたのかって? そりゃIBMやアクセンチュアなんかよりはましだからだよ。やつらはRailsを次のVBにしようとしてるんだからね。(略)
●From Industry to Corporate(産業から企業へ)
(略)
で、ThoughtWorksはRailsを次のCOBOLにしようとしてるってわけさ。
●Fighting Consulting Firms(コンサル会社との戦い)
(略)
●More To Come
まだ続くぜ。こんだRubyカンファレンスのあほくささと、どうしてピッケル本がRuby殺しなのかについて書くぜ。
というぐあいに、RubyやRailsに文句をたれてるわけじゃなくて、DHHを含むRails界隈に集まった人々に文句をたれてるわけだな。というか、「おれはコードが好きなんだ」ってのが泣かせるなぁ。
ところで、アメリカではプログラマ(それもMongrelの作者のようなレベルの)の地位が低いということなのかな? それは、そこらのブログで見かける、日本ではプログラマ(技術者)の地位は低い。それに対してアメリカでは……というような話とはずいぶん違うようだけど。ビジネスロジックプログラマの仕事はインドへ行っちゃったけど、コアテクノロジーのプログラマは……というような話もあるけど、Mongrelの作者にしても(書いてることが本当なら)そんなに仕事はないようだけど、それって学歴のせいなのかな? だとしたら、これまたそこらで見かけるアメリカでは技術本位でどうしたことうしたってのとはまた異なる様相だな。
というわけで、世の中は必ずしも一枚岩でもなければ、紋切り型でどの国はこうであの国はどう、っていうような議論が成り立たないという例がまた見つかったということなのかも。
追記:上で軽く感想を書いてるけど、誤読に基づいてたみたいなんで、ちょっと困ったもんだが、直しようがないので、そのまま。米国の就職については、shiroさんのツッコミを参照してください。その他、ツッコミ欄でみなさんからの指摘を受けて修正してます(元のはコメントで残してます。日記にSCMは使ってないし、まあコメントで修正履歴を残すってのもありかなぁとか)。
別の追記:なんか読み直しているうちに、本人はきつい軽口程度のノリでバカバカ書いているだけなんじゃないかな(本気では怒ってない)とか、思わないでもない自分に気づく。DHHの400回ってのも軽口っぽいし、Javaをたたきのめしてくれてありがとうみたいなことも書いてるわけだ。ただ、それとKevin(誤解からZedをdick呼ばわり、これってずばりちんぽこ野郎みたいな言葉だよね?)やKoz(ばかなURIの組み方のせいでMongrelがだめ扱いされたのか?)についての怒りは別とか。
追記(1/16):いいやつオビーによる解説も参照のこと。
まあ、そうは言っても、Zedがあれを書いたおかげで、Ikegamiさんの日記を読めるわけですね。
……そうか、車のセールスマンってZed自身のことと読むのか(良くわからなかった)。(2重に間違って読んでた。訳を略した部分のMBAの考え方のところから、セールスマンは求人側のことで良いのだ)
昨日の続きのRails Is A Ghettoだが、DHHの400リスタートについては更新されてる。DHHからメールが来たそうだ。
相変わらず、抄訳(要約じゃないね、言葉のコンテキストを生かそうとしてるわけだから)。
●DHH Still Rocks More Than You(それでもDHHは、てめぇらよりもよっぽどいかしてるぜ)
おれ、実際のところDHHのこた、好きなんだ。でもあいつはおれのこと嫌ってるんじゃないかな。おれがRailsコアに繋げてるときに悪口言ってるし、おれが正しいことをやろうとしても絶対に助けてくれないし、でもあいつはいいやつさ。
DHHがおれにメールを寄越したから読めるようにしといてやろう。
「ところで、神の気まぐれな手によって400回のリスタートが起きているわけではないよ。同時に60プロセス動かしているのが、メモリの上限に達した時点でリスタートをかけるわけなんだ。」
ってことはだ、エリックのarray.cパッチを放置したのがすべてのドラマと嘘っぱちの原因なんじゃねぇか。まあ、悪意はなかったようだけどな。
でも、それがRailsが吹き溜まってる原因のひとつだぜ。日本人の開発者どもが、こういった重要なパッチ全般を無視するってことだ。やつらはすげぇいいやつらなんだが、しろーとくせぇんだよな。
(訳注の追記:コメント欄も参照。最終的には1.9系についてはakrさんのハッシュ最適化に始まる一連のメモリ使用効率向上修正シリーズで機能的には入ったのではないかと思う(追記の追記:少なくとも時期についてはこれは嘘でした。コメント欄参照。実際にどうかは必要な人が調べてください――さらに追記:akrさんが調べてくれたけど、1.8.4と1.9については入ってないそうです)。1.8.6へバックポートされているかはちょっとわからないけど、調べればわかるだろうから興味ある人は調べると良いと思います(追記:調べても無駄なようです。むしろshiftとか高速化したい人は元のパッチを直してみたらどうかなぁ?)。日本では1.9系に注力しているときに、向こうではRailsのおかげで1.8系が爆発的に利用されているとかの行き違いとみても良いかな?)
追記(1/5):Zedのエントリーを読んでも(というか読むものが間違っているとも言えるけど)、前後関係が良くわからない。Mutex周りにバグあるいはシステム固有の制限があって、それがfastthread(名前にthreadがつくけど、Mutexの別実装だと僕は認識している)で解消されたという話と、array.cのshift/unshiftパッチの関係がわからない。後者はキューとして利用する場合に引っかかるということはわかるけど。で、それらのためにMongrelの動作が不良になるが、Railsコアチームがその不良をMongrelのせいにしたということだとすると、FastCGIを使っていて延べリスタート400回していたDHHの話の原因がarray.cパッチにあるということの関連が見えない。こういう調べればわかるが、今すぐには調べる気にはならず、途中まで書いて放置するのも気になることっていやですね(と共感を求めて放置するメソッドを使ってみるとするか)。
で、追加分。実は、僕は、ここを読んでちょっといろいろ考えるというか、得るものがあった。うん、確かにそうだね、という個所がある。
●Dave Thomas Ain’t No Sammy Sosa (He’s Just Fat) (デイブはただのデブ)
デイブからのメールも来てるよ。電話で話したいのか? ばかめ、泣き言が通用するかってんだ、おいらは地獄君みたくぶっ飛びまくってんだぜ。ぶーぶーぶー、馬鹿め。
(訳注:以下は逆かも)てめぇは、おれのために、1つだけ良いことができるんだよ。「もう1つのカーゴカルト: なぜWebrickではなくMongrelを使うのか?」というゾクゾクしてくるキーノートをおれの目の前で口の穴から噴き出しさえすりゃいいんだ。でも、やってくれないね。
Mongrelは速いんだ。でもデイブはおれが嫌いなのさ。
さて、オリジナルのピッケル本の目次を見てくれ。これだめだろう。おれも、ああ、新しい言語だな、ってんでスルーしたぜ。よくあるOOPの本だ。
ところがRailsを見てびっくりした。なんてすげーメタプログラミングなんだ。しかもブロックでできるのか? くそー、いかすじゃねぇかよ。
ところがピッケル本ときた日にゃ、よくあるOOPの解説本だ。
メタプログラミングについては通り一遍の説明だけ。でもよ、メタプログラミングでブッチできることがRuby最強伝説じゃん。それがねぇのかよ。
おい、それがキモだろう。あとブロック。
(あとはばっさり省略)
いや、ピッケル本(2001年)にそれを求めるのは無理だろ、とも思うわけだが、逆に、DHHのことが好きなのもわかる。
(追記)想像すべきは、あるプログラミング言語の入門書を書くとした場合に、何を書くべきか、ということだ。高速道路理論も忘れちゃいけない。今は知識すらインフレ化してるということ。まるで少年ジャンプマンガみたいなものだ。100人の入門者がいたとして、80人はすでにその言語の入門者だが、他の言語あるいはプログラミングについての基礎的なあるいは高度な知識を持っているかも知れない、しかし、いないかも知れない。多様性は善ではあるが、どこまで読者の多様性を想定すべきだろうか? 1週間の研修でビジネスプログラミングの現場に放り込まれる人をターゲットにするか、自分の研究のシミュレーションのために利用しようとしている人をターゲットにするか、単に趣味で何かを作ろうとしている人をターゲットにするか、現場での日々の作業の効率化を図る人をターゲットにするか、コンピュータを手に入れたのでプログラミングをしてみたいなぁと考えている人をターゲットにするか――同じ入門者ではあるものの、それぞれで求めているものはまったく異なる。理屈という釣り場を与えれば後はその情報を元に自分で竿を用意するところか始める人もいれば、餌をつけたつり竿と糸を垂らすポイントを教えろと言う人もいる。(追記ここまで)
あと、最後に謝辞がある。
DHH、Obie、Bradley、Why、Mongrelチーム、Railsコアチームの1/2(リックオルセンとか)、Rubinusチーム、JRubyチームなどなど、そして最後にMatz。
しょっぱなに無価値なものを火にくべて暖をとってると、最後は骨を焼くことになるぜ、覚えておけよ―Zed
さて、なぜおれは、拙い英語力を駆使して、自分の時間を削って、Zedの記事を訳したのか?
暴言を書きまくる爽快感ってのはそれなりにあるのだが、それは別の話だ(役得だな)。
最初にまだ、コメント数が大してないときにスラドのトピックを見たのが理由だ。いや、お前ら、(誰かもコメントしてたが)ニュー速じゃないんだから、ちゃんと読んでから何か言えよ、ということだ。仮にもMongrelの作者が毒を吐きまくってるんだ。単なる厨坊やアンチじゃないんだから、何かそれなりの理由があるはずではないか(書き方は厨坊以外の何物でもないように見えるけど。ロッカーというかソウルレベルなんだろうか? だが、どうにも僕には、ある種の人に特有なユーモアに見える。ダメ会社を並べ立てている個所とか、ゲラゲラ笑いながらノリノリで書いている様子を想像してしまうのだな。しかし政治的には正しくはないのが問題ではある)。
自分でもリンクしていたが、仮にも「Mongrel 0.3.13.4 Pre-Release -- Ruby's LEAK Fixed (Death To Mutex!)」(まあ、Howdy Folks(僕の感覚だと、多分、「よう、おまいら」みたいなノリだと思うんだけど)ではじめるところが、アレだけど、そういうノリの人なんだろう)のようなかっちりした(ように僕には読める)ポストをする男が、爆発しているわけだ。
1つの理由として、技術的な行き違いはありそうだということはわかった。1.9へ歩を進めている日本のコア開発陣(diffに-pオプションが必要だということ)と、とにかくリリース版の1.8系(多分、1.8.5問題もあったので、1.8.4に居残っている連中も多いのではないだろうか)の安定と高速化を求めているRailersの間の微妙な溝ということだろう。JRubyの人が以前、日本語の壁について書いていたのも同根かも知れない。(この段落は、岡目八目で書いていることに注意。僕はこれについて、どちらの立場についても当事者意識はない。1.8系リリースに不満を持つ使い方をしていないからだ) そして、そこでRailsコアチームの中には何かMRI原理主義みたいなものが形成されていて、Mongrel作者としてワリを食わされた(それが技術的な事実か、それとも単なる思い込みかは、調べるべき人が調べれば良い)という思いがあるのではないだろうか。
別の理由として、指摘が多い点、つまりただ働きが限界を超えたということもありそうだ。しかも、そのただ働きが次の飛躍への助走に繋がらず、むしろ不快な思いをすることが多かったらしいということ。これは、Zedが相当まじめな男だからだろうと、僕は思う。例のエントリーは書き方があれだが、異様なほど、上げる/下げるをきちんと使い分けている。繊細な男だ(その意味でも、takahashimさんと弾さんが指摘してくれた、最初の僕の訳でのオビーフェルナンデスのところはまずかった)。後のことの計算がゼロということもないだろう(2回に分けてエントリーを上げたのは、反応を見るためだったのかも知れない。単に最初に書いた量が多くて疲れただけかも知れない。したがってそれはわからない。しかし以下に上げる彼の姿勢については最初の時点のエントリーからも読めるはずだ)が、400回のリスタートの件について、DHHからのプライベートメールを公開して、理由を明らかにしているところや、最後の謝辞、fastthreadを作ったメンタルガイ(すまん、僕はまったく知らない)に対しての賞賛、これらから読み取るべきことだ。
一言で言えば、Zedはあまりに技術的で、ストレート過ぎるのだと思う。彼が「いいやつ」と表現する場合、彼が「金を寄越せ」と表現する場合、両方に漂うマルビ(こんな言葉知らないだろうね)な感じがそれだ。ぜんぜん、ビジネスの感覚が無いのだ。
金魂巻―現代人気職業31の金持ビンボー人の表層と力と構造 (ちくま文庫)(和博, 渡辺)
もう1つ、敬意あるいは無視の問題がある。無数のRailsカンファレンスについてどう扱われたのかは知るすべもないが、あの分厚くて、Railsのことならなんでも書いてありそうなデイブとDHHの本に、Mongrelという言葉が何回出てくるか数えてみると、そのへんのニュアンスも見えてくる。InstantRails(2.0になったの知ってた?)のデフォルトサーバーになっていて、Apache+FastCGIと異なって(今現在のFastCGIのステータスがどうなっているかは知らないので、知りたい人が調べれば良い)作者がリアルタイムにLingrまで使ってくそまじめにサポートしていて、間違いなくWEBrickより高速なのだが、わずかにProxy方式でApacheとつなぐトピックに1、2度顔を出すだけだ。「デイブはただのデブ」のあたりには、そのあたりのルサンチマンがあるのだろう。事実、ピッケル本のことをあげつらいながら、アンディはいいやつだから、ピッケル本のことを悪く言って、あいつに迷惑がかかるとちょっと困るなぁみたいなことを書いているくらいだ。
別に結論はないが、文章があるなら、まずは読み、コンテキストを得て、それから考えて、そして何かを言うと良いと思う。特にそれが微妙な問題ならなおさらだ。
Rails Way, The (Addison-Wesley Professional Ruby Series)(Fernandez, Obie)
ちなみに、いいやつオビーの本。
いや、大間違いかも知れないけど、あれだけでっかな国だ。NYC在住のすちゃらかハッカー(ちょっとヒッピホップ)と西海岸のひげむしゃハッカー(ちょっとカントリー)と北のほうの厳粛ハッカー(ちょっとなんでしょ?)と南のほうの(知らない)ハッカー(ちょっとブルージー)で言語文化が異なってそりが合わないというようなこともあるかも、とかちょっと思った。
高橋さんのZed Shaw 関連情報で「これは参考になる。」と書かれているAkitaさんの記事の部分訳が木村さんのところで読めますよ。
あと、Zedの後日談?も。
ちょっとメールを書いていたりして(Zedに一応、翻訳したことを断っておくべきだなと思ったからだが)、気づいたが、僕が英語を書くのがへただからかも知れないけど、I think that ...とか、I believe that ... というような構文が結構な頻度で出てくる。
これって、i.think do ... endとか、i.believe do ... endみたいだな、と思ったということ。ブロックの外側のコンテキストが透過な、別コンテキストかつ、直接の外側の詳細だということとか。
英語だとそれがthatでできるわけだが、Javaだとインナークラスが必要で、もったいつけすぎだとか。C#だと匿名(とわざわざ書いたが無名)メソッドのおかげでもう少し楽だけど、その型を宣言しなければならないところがやはり大袈裟だな。
Zedが、ピッケル本の問題としてあげていたのは、それがRailsのようなことができるプログラミング言語に、目次からは見えないという点だった。
逆に考えると、では、ピッケル本のようにリファレンス性がありながら、しかもRailsのようなことができることが見えるようにするには、どのような目次の方法があるだろうか? そもそもメタプログラミングとは何か? それを知らない人に、それを使って何ができるということを示せるのだろうか?
というようなことを考えると、結局はありきたりなことにならざるを得ない。
今、ある程度の耳年増なら知らないとは思えず、仮に知らないとしても、ちょっとユースケースを上げれば納得させることができる言葉、つまりDSLを使うのが良い、ということになる。
およ、というか、それはうまくいきそうだな。
Rubyist Magazine 出張版 正しいRubyコードの書き方講座―RubyistのRubyistによる、Rubyistとそうでない人のための(青木 峰郎)
DSLの例であれば、すでにRubyist Magazineで取り上げられている。しかもユースケースベースだ。でも、この本はやはり添削という形式を取っているから、ちょっと違うとも言える。
というようなことを考えている。
どう見てもフィッシングメールなんだけど、確かにmicrosoft.comから送られてきているみたいだなぁ、いや、見直したら違った。
しかし、クリック先のURIが怪しすぎるし、もし本物だとしたら、なんでこのご時勢に、わざわざmicrosoft.com以外のホスト名を使うんだろう?
逆にフィッシングだとしたら、すごくうまくできているなぁ。
バーミンガムロイヤルバレエ団を観に上野。
実はそれほど期待していなかったのだが、これは良かった。というか、どうもイギリスのバレエが好きみたいだ。こないだの真夏の夜の夢も良かったから。イギリスってのは良くわからない国だな。
1幕途中、ベル(でよいのかな? 末娘)が野獣の家へ行く道に迷ってカラスの集団に空飛んで連れてってもらうところ。ここまで空を飛ぶ振り付けははじめて。
なんとなく高慢と偏見(あれは、上2人対中立1人対末2人だが)を思い起こさずでもない(というか、リア王をはじめよくある構図とも、というか、3つともたまたまイギリスだな)、上2人と末1人の対立+親父の様相とか。
最初の導入部、太ったというか恰幅のよいスナフキン(帽子とマント。というか、自然派の放浪者ってのはそういう姿なんだろうか)が雌狐を猟人から守るために女性に変化させ、猟人に呪いをかけるところ。を、とてつもなくグロテスクな木の触感がある書棚で本を読みふける末娘。本当に豚鼻なコション氏(2幕では、散々飯に飛びついて豚のお面まで被る早変化あり)。
2幕非常にグロテスクな老人たちの舞踏。の前は、道化師的な役回りのカラスと雌狐の組み合わせと、獣達の舞踏会。
呪いが解けたあとの、末娘と元獣の踊り。これは、艶かしい。ああ、そうか、真夏の夜の夢もそうだが、2つとも、19世紀ものと違って、妙にエロいのであった。もつれたりじらしたり浮かんだり。
最後はスナフキンが狐に戻してバイバイ。
伸びやかで美しい。
舞台装置も良かった。
音楽は、まあ、こうなるのかなぁ。1幕は無調、2幕は不安定だけど調性音楽。最後の2人の踊りはメロディもある。2幕途中の獣が一人で怒りながら踊るところでは、足踏みのタイミングで太鼓。
1.1b1には、1.4.2とか書いてあったが、実際にコンパイルすると@に引っかかるという罠があった。
RCがどうなっているか、調べてみよう(あっさり1.5以降としてるかな?)……とか思ったら、まだソースのター坊がないという罠。
メニューのファイル−オープンでファイルオープンダイアログを開くと、ぱーっと散ってしまうアプリケーションがこれまでに2個ほど見つかっている(もう1個あったと思うが、忘れてしまった)。
1つは、Beckey! 2.44で、もう1つは葉書スタジオ2007のイラストマジックとかいうような名前のサブコンポーネント。Beckey!の場合は、添付ファイルで死なないときもある。葉書スタジオは100発100中死ぬ。
が、そんな情報はどこにも見かけない。しかし、ほとんどのアプリケーションは死なない。なんか未初期化ポインタバグとかで、Vistaの中の人がプログラム名を見て回避ルーチンを通すとかが抜けているのかなぁとか。
Becky!は一見辛そうなんだが、添付ファイル作成直前に自動セーブしているらしく、確実に復旧できてるから、まあ良い。葉書スタジオには来年まで用が無いから今となってはどうでも良い。
それにしても情報がないなぁ。
--- parser/erb.rb~ 2008-01-09 12:33:24.000000000 +0900 +++ parser/erb.rb 2008-01-11 11:52:47.000000000 +0900 @@ -15,7 +15,7 @@ module GetText module ErbParser @config = { - :extnames => ['.rhtml'] + :extnames => ['.rhtml','.erb'] }何が起きているかわからず、えらく悩んだ。
ああ、なるほど。上を読んで下を読むと、ほら、オープンソースであることはすばらしい、となるわけか。(下のは、後になってcvsを見たら8/1には当たっていた、っていうか動かせばすぐわかるわけだし)
手元の大辞林は、80年代の終わりに買ったやつ(初版)で、さすがにいささかくたびれてきている。20年ということは、成人の日ってことだなぁ。
というか、第3版になってるし。
年もあらたまったことだし、そろそろ買い替え時期かも。
でも、大辞林を買ったときは、図版の充実度から広辞苑ではなく大辞林を買ったのだが、今度は広辞苑にしようかな。
ではなくて、
広辞苑 第六版 DVD-ROM版 (<DVDーROM>(HY版))(新村 出)
こっち。
Javaのメタプログラミングについて、どんな方法があるか、軽く調べている。
このうち、事前のソースコード生成(その後、javacしてjarする)は、とりあえず無視するとすると、
・リフレクション
・インタプリタ作る
・インタプリタ使う(JRubyとか、Rhinoとか)―微妙に反則
・自力でバイトコードを生成してロード
・ありもののコンパイラを使ってバイトコードを生成してロード
くらいだろう。
最後の手法が軽そうで良いなと思ってAPIリファレンスを眺める。
すると、javax.toolsがいかにも面倒そうなのでうんざりする。このうんざり感の原因には小クラス主義(1責務1インターフェイスあるいは、サブジェクト主義と名付けたくなる何か)にあるのだなということがわかる。
つまり、目的主義でAPIを眺めると、その目的にたどりつくまでのステップが多過ぎる。
その一方で、1責務1インターフェイスというのは、ケチのつけようがない考え方だと考えている自分にも気づく。
何かが間違いなのだろう。
伝統的な思考方法に則れば、そこに止揚すべき何かがある。
まず1つは、異なる界面をリファレンスのフラットな空間に配置していることが問題に見える。これはパッケージの使い方の問題だ。
そこで、界面を分離する。
すると、以下の図のようになる。
あと、ImplementationModel(既定の実装群)パッケージがあれば言うことなし。
ふと気づいたが、ソフトウェア産業=工業という見方はよく反論の対象となるわけだし、実感としてもそれ(反対意見)は正しそうに思うのだが、実はやはり、その見方が正しいと言えるのではないだろうか。
レベルの設定が間違っているということだ。
工業は最初から、今の工業になったわけではない。
歴史の教科書的には、家内制手工業が来て(江戸時代末期の織物産業)、工員大量導入時代(明治の冨山あたりの時代)が来て、ベルトコンベア時代のオートメーションが来る。
それでいくと、単に、家内制手工業から工員大量導入時代のあたりにいる、というのを、ベルトコンベアと比較するからつじつまが合わない、ということではないか、ということ。
だから、専門的にもまだ近代の曙程度のレベルなんじゃないだろうか?
プログラマは設計をしているといっても、ベルトコンベアレベルに至っていなくて、せいぜい機織機を作っている程度に過ぎず従って最低1人の機織職人が必要な程度のレベルなのだ、おそらく。
したがって、インドやベトナムに機織職人の仕事が行ってしまうよね、という段階に過ぎないわけだ。
作るべきものは、機織機のレベルではなく、ベルトコンベアのレベルなのだろう。ということは、現時点での仕様を切る人の専門性もずいぶんと低くい(機織機を木を削って作っている程度のことだ)。そうではなく、仕様を切る人は、ベルトコンベアを作る人のレベルまで行かなくてはならないのだろう。
そこに至って、はじめて機織職人が不要になる。そうではなく、機械の運行を検査する人が居れば良くなる。そのレベルに至ってはじめて生産性が云々というような話ができるように思う。
今は、せいぜい、誰が一番速く機を織れるかというような話をしているだけみたいだ。ポールグレアムは違うみたいだが。やっと意味がわかったかも知れない。
#おれは、多分、その機械の修理工程度だな。
ちょっとぶれてるけど、メモだしな。トヨタの初代にまで至っていないというか。自動織機になってないじゃん。
タイトルがすべてなんだけど、greenteaさんの言ってることももっともだと思って、あと、shiroさんの3番目というのもあって、これはきっとあるでしょう。というか、なければおかしい。
でも、箸の上げ下ろしを指定しているようなコーディング規約にしたがって作るソフトウェアってやっぱりばかげている。そういう機械的な作業は機械にやらせるのが筋だ。改札口とか高速の入り口、スーパーのレジとか、機械にやらせれば良い仕事があって、その中の1つでしょう。マニュアル化可能な職業で、スマイルが不要なら、機械にやらせるのが人類の進歩というものじゃん(70年代万博を小学生のとき体験した世代なもんで、進歩というものに対する信頼感はあるんだ)。人間の意志決定が必要な職業、あるいは他人の意志決定に影響を与える職業、それが機械化不可能な職業だ(マクドナルドはあのスマイルで買う気のなかったドリンクを買ってしまう人が存在する限りは、機械では置き換えられないのだろう。おれは買わないけど)。
SoftwareFactoryについては、とりあえずおいておくとして。
工業が、だいたい200年弱くらいかけたということを考えると、ソフトウェア産業はたかだか50年(仮にCOBOLをスタート地点とすると50年に微妙に満たない)、まだ150年ほど残された時間があるんだから、ゆっくり試行錯誤しながら考えていきましょう。(人間の試行錯誤の生産性は別段、それほどすごくなったわけではないかも知れないけど、情報の交換速度は早まったから、えいやで、あと30年くらい、と目標設定すればいいんじゃないかなぁ)
ということで。
夜顔がなんかヒットしたらしくて、正月ロードショーがずれこんだまではまだいいが、たった1週間+モーニングショーだけになってしまった、動物、動物たち。うっかりしていると、見逃しかねないので、ちょっと怖い(前売りは買ってある)。
薄いじゃん。MacBook買うの我慢しといて良かった(でも、本当は次々と下取り使って交換するものらしい)。
Apple MacBook Air 1.6GHz 13.3インチ MB003J/A(-)
追記:注文してしまった。HDDモデルだけど。
XPでiTunesでtouchを利用してた。
こないだ、XPをVistaへアップグレードした。
MailやMapが欲しいので、久々に、touchをつなげたところ……Windowsによって妙なデバイス認識が起きる(Windowsに制御は移らなかったと思うがなぁ? と疑問に感じる)。というか、iTunesが起動しない。
エクスプローラで見るとアイコンがデジカメになっている。
iTunesを起動したが、touchはまったく見えない。
iTunesのヘルプをみながら、touchをリセットしたり、試すが復活せず。
iTunesのアンインストール、インストールをしろと書いてあるので、やってみる。
だめだ。というか、アンインストールしたからか、DRMの登録が解除されている。再登録。うう、++されてしまった。まだ後1つあるから、とりあえず放置。
というか、やっぱり認識しない。
今度は登録解除してから、アンインストール。
再インストール。登録……を、--されて正しい数になった。
でも、やっぱりtouchは認識しない。
待てよ? と気づいて、デバイスマネージャからデジカメを探す。
プロパティ−ドライバの更新。
ドライバの指定−c:\progra~1\common files\apple\Mobile Device Support\Drivers\usbaapl.infを指定
復活。
という具合で3時間もつぶしてしまった。なんてことだ。
バーミンガムロイヤルバレエのコッペリアを観て来た。
演出は、DVDで良く観ている熊川版と大体同じだな、と子供に言ったら、熊川はイギリス出身だからそりゃそうだろうとあしらわれたが、なるほど確かにそうだ(追記:見直すと相当違った)。
吉田都の機械っぷりは、すばらしくおもしろく、フランツ役は1幕ではしょっちゅう転びかけてたが、3幕ではきっちりきめていて、粗はともかくリフティングがうまくて、良い感じだった(そういえば、これも、ゆうぽうとルール、つまり女=日本人、男=白人のパターンだな)。
最初に意識してバレエを観たのは中学生のときにテレビで観たどこかの国の日本公演(ローランプティだったような)のコッペリアだったなぁとか思い出す。つまり、このバレエはとっつきが非常に良く、それほどルールを知らずに観てもおもしろいのだ。
で、とにかく序曲が良かった。演奏は普通なのだが、曲も普段は聞き流しているのだが、おや、というほどおもしろかった。これは意外だった。
ドリーブというのは、典型的なバレエ作曲家だ。個々の曲はとりたててどうってことがなく、耳ざわりは良いが、すぐに忘れてしまう。時の踊りは有名だけど、あれは3泊目の刻みのせいだろうなぁ。でも、やはりどうってことのない曲だ。
それにしても、序曲にはわくわくした。特にマズルカがとても良い。ところが、もうどんな曲だったか忘れている。聴けば思い出すのだが。舞台で幕を前にして聴くにはすばらしい曲なわけだが、やはり大したことがないのだ。
確かに、バレエと言えば、ミンクスとかドリーブとかアダンとかばかりが有名で、しかし彼らは音楽史的にはまあどうでも良い存在というか、メインストリームにかすりもしない人たちで、バレエ音楽というジャンルそのものが、周辺音楽だ(もしかしたらドイツ=オーストリアにはバレエがなかったのか?)。無理やりいうと、タンホイザーの冒頭のヴェヌスブルクがバレエっぽいけど、ちょっと違う。
どうも、音楽としては格下の仕事みたいに見える。サントラみたいなもので、勝手に流用されたり(真夏の夜の夢とかレシルフィードとか)。
で、なんとなく、チャイコフスキーのバレエ作品というのは、たとえてみれば、RMSとかが業務用アプリケーションを作ったようなものなのかなぁとか想像してみたのであった。
追記:この演出のラスト。コッペリウスは一人取り残され、破壊された人形を前にしょぼくれる。市長から贈られた鐘をみつけ、そっと鳴らす。すると奇跡が起きる。
と、まあ毛髪のことだが、どうにも、こういう連想が働く。
●プーチン
エッセンシャル・リヒテル The Philosopher(リヒテル(スヴャトスラフ))
エッセンシャル・リヒテル The Virtuoso(リヒテル(スヴャトスラフ))
エッセンシャル・リヒテル The Mystic(リヒテル(スヴャトスラフ))
(これは選曲が良い)
エッセンシャル・リヒテル The Poet(リヒテル(スヴャトスラフ))
しかし、このシリーズすごいな。こないだグールド買ったばかりだから自重しておくが。
●エリツィン(というよりもブレジネフだなぁ)
(遠い星への飛行だけは聴きたい)
字面が違うような気がしてきたけど、渋谷で見かける回転寿司チェーンに台所屋というのが少なくとも3軒ほどあった。
最初、妻がどこかで台所屋(やっぱり名前が違うような気がするが、調べてもしょうがないので調べない)がうまいと聞き込んできて、そのときはいっぱいあるのを知らずに、見かけたことがある道玄坂の中ほどにあるところだと思って、そこへ行った。うーん、別に悪くは無いが、特にうまいわけでもなく、それっきりだ。
で、そんなことを忘れたある日のこと、桜ヶ丘の坂のふもとのほうにある寿司屋に子供と入って、子供はなんとも思わなかったらしいが、おれは、この店はちょっとやだな、と思った。あんまり雰囲気が良くないからだが、桜ヶ丘ってのは全般的になんかすさんだ町だから、そりゃしょうがないかも。で、名前を見たら台所屋。
で、さらにそれとは別に、ある日のこと子供と東急本店のはずれのほうを歩いていたら、子供が回転寿司に行きたいとか言い出したもので、手近なやつに入った。で、よくみると台所屋。あちゃーとか思ったが、まあいいやと食い始めたら、めっぽううまい。というか、回転しているのはポン酢や山葵で、寿司は注文聞いてから握ってるし。
で、ホワイトボードに書いてあるやつをいろいろ注文して、相当満足した。
というわけで、その店は渋谷で寿司という場合の定番になったのであった。同じチェーンとは思えないんだよなぁ。でも旗とか同じだし。
で、そのめっぽううまかった台所屋には相当足を運んだのだが、わかったのは、回転寿司と言っても寿司屋さんが握る寿司には味にばらつきがあるということで、最初に入った時の職人がいなくなって、次に行ったときはうーんという感じで、しばらく足が遠のいていて久しぶりに入ったら今度はわりとよくなっていてとか。なんとなく握り方を見ているとそれぞれ違いもあったな。
で、そんな昨日のこと、行ったら廃屋になっていて、ちょっとびっくり寿司。
The Voyage of the Mimi: The Book(Bank Street School)
ほー、売っていたんだな。
Little Ben Affleck in Voyage of the Mimi
Youtubeにも上がっていたり。
Thousands of American middle school children had been forced to watch this series in school and complete assignments based on it.
これは興味深い。
でもポストマンが指摘したことは、(航海技術とか鯨の生態とかの内容が実利的には役立たずということはさておいて、というかあれはあまり意味がない罵倒のように思う)学習するという行動が、テレビを視聴することとして刷り込まれることに対する点だったわけだが、そういう観点は特になさそうだなぁ。
#なるほど。そういえば、視聴覚教育の時間というのは、内容はさておき、テレビを見る授業ということで、みんな歓迎してたよな。
Wiiフィットに慣れてきたもんで、バランスゲームのやり方をいろいろ考えるようになった。
特にバランスmiiとかいうシャボン玉の中で川を下るやつとか、滑降なのかな旗くぐるやつとか、ペンギンが魚食うやつとか、綱渡りとか。
このへん、どうも腕が邪魔になるので、ズボンのポケットに手をしまうようにしたら、なかなかいい感じだ。
で、やっているうちに、ふと気づいた。
バキ―NEW GRAPPLER BAKI (No.24) (少年チャンピオン・コミックス)(板垣 恵介)
龍書文だな。
このバカな2分法を見たのはいつごろだろうか? 多分、安価なデジタルウォッチってのが出てきたころだから、今を去ること30年くらい前だろうな。
論調としては、こんな対比
たとえば道を尋ねると
デジタル: XX銀行の角を右へ曲がって、花屋の左を曲がって、3番目の信号を……
アナログ:20メートルくらい行ったところを左のほうに3分くらい歩いて……
あるいは、デジタル時計ダメダメ説というのもあって、たしか、
瞬時に差を見ることができん。
というようなことだったような。だいたい、時計を見るときってのは、4時まであと何分だ? っていうようなのが多いから、アナログなら40分のところに長針があれば、120度=20分とわかるけど、デジタルだと、60-40=20とする必要があるから、というような主張のようだったが、バカか? と思った。思ったものの、そのとき、おれは瞬時に60-40=20はできるが、120度だから20分という見方をしていないことに気づき愕然として、以後、アナログの修行をすることにしたのであった。
そこで気づいたのは、この2分法はばかげてはいるけど、結構、おもしろく使えることであった。
たとえば、比喩。
アナログ人間は、情報の隙間を生める必要がある(何しろ連続性重要だから)。したがって、まず、比喩から得られるパターンというかフローを頭に描いてから、そこへ情報を埋め込み、理解する。
おれは、わりとこの思考方法が得意だ。パターン化して捕らえるってやつ。多分。修行の甲斐があったらしい。
デジタル人間は、情報の隙間を生めるものはノイズなのでそもそも見えないか、または、邪魔である。そのため思考がさまたげられ混乱してしまい、正しく認識できなくなる。そうではなくそのものの情報だけがあれば良い。(道順の説明でポイントとなるものを指すのと同じ)
なにしろ人間が違うんだから、前者は比喩(というか例え)があって、はじめて理解できる。後者は、比喩(というか例え)がなければ、はじめて理解できる。
ようは、人それぞれだってことだ。
これはおそらく、ポストマンの本にでてくる、学習過程から得た思考法なんだろうかな、と考える。学習の価値は、学習内容にあるのではなく、その学習を受けることによって得られた学習方法だというような説。
ポストマンは、だからテレビ教育は教育をエンターテインメントにしてしまうから、それを受けた人間の学習方法が断片的かつその場しのぎのものになってしまい、そうすると政治のように歴史的なコンテキストであったり継続的な論議が意味を持つ分野についての学習のさまたげになる(とは書いてないと思うけど、そういうような意味になると思う)と書いているわけであった。というか、彼の書き方が事例を積み上げて考察を加えるという、まるで諸子百家のようなものだから、そういう結論にはなるだろう。というか、最初のほうで、「この本を読まれるような諸君は……」と読者を共犯関係にしているし。
しゅわっち。
なんか、メモリが安くなってきたとは言え、すでに640MB実装しているわけで、でも1G付けられるなら付けてやりたいな、と思っていたところ、咳さんが古そうなiBook G4に1G乗っけて動いているようなことを書いているのを見つけて、だめもと(バックアッププランは一応確保はしてあるのだが)で買ってみた。
I-O DATA SDD333-1G PC2700 DDR SDRAM S.O.DIMM(-)
定価の半額とはいえ、DDR2に比べると高いなぁ。
BUFFALO DDR2 667MHz SDRAM(PC2-5300) 200pin SO-DIMM 2GB D2/N667-2G(-)
(DDR2なら2Gでお釣りもくる)
で、Air Macカードを抑える針金が固くて閉口したがとりあえずちゃんと収まって、サイズも認識したし、効果はそのうち見えるだろう。
でも、気づいてしまった。確かに半額にまで下がっているが、512MB増設した時点で払った金額と合わせると、最初から1GB載せといても同じ(ような)金額だ。だったら、中途半端なことせずに、最初から買っておけば良かったのではないか、と思ったけど、iBook G4 1Gのスペックでは増設メモリのサイズは最大512MBと書いてあるから、さすがに無理な相談だ。
(というか、PowerBookが今512M×2で1Gなのを、これを2枚買って2Gにしたら気持ち良さそうだと思ってあわや買いそうになったが、やめた理由)
2004年ころに買ったiBook G4の既定のメモリって128Mだったんだよな、と上のを読んでて、あらためて驚く。
1Gだって不足なくらいだ。
今、Airが2Gだけど、4年たったら20G必要になる……とは思えない。
ということは、隔世の感というより、元々がふざけたデフォルトだったということか。
さて、ポストマンのとことん楽しむ人たちを読了した。確かにおもしろかったが、最後の最後で意味をとれなかったりもして(マザーテレサの表彰とかあったが、満員の客席は最後の瞬間だけを待っている。そしてメリルストリープが出てくると一斉に大歓声とかいうくだりとか)まあ、いろいろ。
Amusing Ourselves to Death: Public Discourse in the Age of Show Business(Postman, Neil)
読みながら、「一億総白痴化」?とか思うときもあったが、
自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり……これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から
というような、だったら能動的に視聴すりゃいいのか? みたいなツッコミが入るような内容ではなかった。
そういう意味では、ポストマンは白痴番組はOKと考えていて(娯楽を否定しているわけじゃない)、むしろ、そうでない番組がまずいという論議をしているのであった。
そういう点から、何がまずいかというと、おそらくクイズ番組タイプはもっとも好ましくないということになりそうだ。もちろん、トリビアはトリビアでよいのだが、あるテレビ的にネタになる断片のみを取り出して、そこをクローズアップすることで、重要なものが抜け落ちるというのはありそうだ。
で、次の本として買っただけ状態だったサイモンシンを読み始めて、ああ、これもそうだよな、と思い当たる。
暗号=スクランブルという短絡的な思い込みってのは、まさに、暗号のおもしろさのある特徴的な一面だけがクローズアップされるからだろう。
おれも、ルパンやら江戸川乱歩やらで(黄金虫ってのもあったな。ポオだ)、暗号というものの存在を知った口だからよくわかるのだが、ネタとしての暗号というのは、ある秘密の文章があって、それを読むにはどうすればよいか、という点だけしか見ないのであった。
発信者の特定は済んだところから始まる。たとえば海賊クックが宝のありかを書いた手紙、とか、黒手組が脅迫に使った手紙、とか。そして知恵を使って秘密を解く。パズルクイズルだけど、これは暗号の一面に過ぎないわけであった。
暗号は最初の時点から、発信者の特定が肝心だったはずだ。カエサルからの指令じゃなければ、軍を動かしたりはできないだろう。仮に手紙が奪われた場合に備えて作戦の内容を秘密にするのは当然としても、それ以上に手紙の出所がカエサルその人だと特定できなければお話にならない。そして、内容がすり換えられていないということも保証されなければならないわけだ。
でも、お楽しみとしての暗号は、そうではない。発信者は特定した状態で、挑戦者として中身を読む、その一点だ。そういうふうに暗号というものを知って、軌道修正がかからなければ、それで終わりだ。かくして、見た目が平文でなければOKみたいなことが平気で言われたりするのだろう。
テレビ的な表現というのは、そういうもので、それはまずいというのがポストマンの主張で、なるほど、と納得するのであった。
あと、コンピュータ教材についての、パパートと森毅 対 その他の先生という話も思い出す。
命題:すぐれたプロダクトは作り手が使いたいものの具現化である。
今、仕事で使っているそのOS、シェル、コンパイラ、エディタ、メーラは理想? 自分で作りたくない?
今、仕事で作っているそのシステム、インターフェイス、思想、デザインは理想? 自分で使いたい?
俺様主義の問題とは何なのか?
誰かが買ったCD。
魔法の島の悦楽~リュリ:ディヴェルティスマン(クリスティ(ウィリアム))
すばらしい、のじゃないかなぁ。題がいかしまくり。
ああ!まだまだ待たねばなるまい-僕は裏切られた!-ああ!僕は暗い墓の中に降りてきてしまった
こりゃ、聴きたい。買う。
6人組を全員言えるかどうか試すと、オネゲル、ミヨー、プーランクあたりで止まる人が多い今日この頃ですが、長いことプーランクとクープランをごっちゃにしていた。ということはないか。
恋の夜鳴きうぐいす~クープラン:クラヴサン名曲集(ボーモン(オリヴィエ))
で、そんなある日のこと、NHK FMを聴いていたら柴田南雄がノリノリでDJをやっていた番組だと思うが、ストラヴィンスキーのアゴンと、プーランクの歌曲で皿を回したことがあった。
アゴンはすごく気に入ったし、舞台も観てみたいものだが、
ハンス・ロスバウト(1895-1962)の芸術(ロスバウト(ハンス))
(だいたいロスバウトについて:緻密で的確、しかもドイツ風というダルムシュタットで12音音楽を振るために天が遣わしたような指揮者)
それはそれでよいのだが、それ以上にプーランクが気に入った。
誰がシャウトしていたかというと、そんな変なものを取り上げてしかもレコード化できるのは、世界にただひとり、フィッシャーディスカウしかいない。
で、もちろん、どんなに気に入ってもそんなわけのわからないレコードを買えるような財政状態ではないので、大人になるまで待つことにした。
で、今日、それを思い出した。
が、アマゾンでは見つからない。
しかし、プーランクは再発見されたらしく、なにやら山ほどCDが売られている。ミュージックで検索すると400件もヒットする。
何が起きたのだろう? オリンピックのフィギュアスケートで誰かが牝鹿でも利用したのかな?
プーランク:牝鹿、デュティーユ:狼、ミヨー:世界の創造(プレートル(ジョルジュ))
(スイーツを語るのなら、まずはフランス近代音楽に精通してからだ)
というわけで、面倒なのであきらめる。
さすがに、歌曲全集に手を出す気にはならないなぁ。
_ ムムリク [クープランて、恋のうぐいすって、といろいろ納得したのでした。]
影響力のある人ってのは、つまり権威ってことなんだし、自分で吟味しない人は常に一定の割合でいて(そうでなければ、世の中に権威という存在はありえないわけだが、実際、存在している)その人たちに影響を与える。
ってことは、権威がある人は、だめなものはだめ(良いものは良い)、と言うべきですね。
重要なのは、権威に逆らう人ではなく(もちろんいろいろな理由からそういう人はいる。権威が間違っているということもあるし、単に権威に挑戦したいって人もいるし、権威へのレベルに意味を求める人もいる)、おおそうだったのか、と権威に言われてそれまでのあり方を考え直してみる人たちだ。
ラーメン屋をことごとく食らいつくした人間のラーメン批評にはいかに主観が混じろうとも、意味はある。少なくてもカップラーメン1種類しか食ったことがない人間のラーメン批評よりは耳を傾けるべきだ。仮にそれが的外れであっても、まったく問題ない(情報から意味を抽出して再構成して自分の役に立つべく知識化するのは、受け手の問題だ。そこまで責任を負う必要は一切ない)。ハンスリックの的外れなワーグナー評であっても、歴史的な意義がなくならないのと同じことだ。まして、それがプログラミング言語のようなジャンルならなおさらだ。
というわけで、がんがん発信してほしいな(それが立場をわきまえるということだ)。
と、思った。
たとえば、
影響力の大きい人が発言してるので怒ってます。
これは、非常に興味深い。書いていて疑問を感じないのだろうか?
この言明は「影響力の小さい人の発言であれば怒らない」を含意している。(誰が発言しても怒るのであれば、「〜が〜して(い)る『ので』」と理由の「ので」は出てこない)
もし、怒るのであれば、「〜という指摘は正しくない」であるべきだ。
ところが、この表明からはそのような情報は得られない。このような発言をさして「図星」と呼ぶのは正しい。なぜならば、もし「的外れ」な批評であれば影響力の多寡ではなく、その論点の誤りを指摘できるからだ。
したがって、どうやら正しいらしい指摘を、影響力のある人が行うことは、その影響力ゆえに怒る(影響を与えられた=反応を引き出された、これはネガティブなサンプルであるが、当然のようにポジティブなサンプルもありうることは想像できる)と表明している人が少なくとも存在している以上、きわめて意義があるということだ。
ふーむ、やはりessaさんの考察は深い、と納得しながら読みながら、暗澹たる気持ちになる。
なんというか、ここは、民主主義の国なのか? まったく民主主義の根本となる考え方(総意に基づきながら社会を改良していく)をできない人間が相当数存在するという意味じゃないか。
#その違和感が上のエントリーを書きたくなった真の理由らしい。(書いているときは、essaさんのように読むことはできなかったので、気づかなかった)
_ Mats日記読者 [>「影響力が大きい人が発言しているので〜」という発言について 私も、あの日記のコメントを読んでいて「この人はなんなん..]
ジェズイットを見習え |
_ naruse [http://www.microsoft.com/japan/users/hagakistudio/endofsup..]
_ arton [さすがのマイクロソフトも筆まめとかの既存ユーザーの壁に勝てなかったのか、それともローカル固有のプロダクトは廃止の方向..]