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日々の破片

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2014-05-01

_ 量子暗号について聞く会(続)

ユーエンは、光子そのものをビットとして扱うのではなく、量子ノイズそのものに情報を秘匿することを提案する(したがって、光ケーブルのみでなく、無線に適用することができるということだけど、はてそういえば無線ってなんだっけ? この場合は電子ということになるのかな:追記 光子で良いのだった。ちえぶくろとは思えぬ情報量)。

情報の伝達には1と0を使うが、これは一定期間持続するHIGHとLOWで区別される(と、RS232C時代の知識でおれはとらえたのだけど、それが正しい理解かどうかは別)。HIGHというのは振れが大きい波でLOWというのは振れが小さい波だから、微視的にはアナログだ。したがって1とみなすか0とみなすかは振幅に対する閾値の設定に依存する。

今、最大振幅100として、振幅差が20以上ならば差を検出できると仮定する。

これを10刻みに分離する。60-80/80-100を0/1とする、50-70/70-90までを0/1とする、40-60/60-80を0/1とする……。

ここで慣らしたレベルが75だったとする。60/100であればそれは0を示す。しかし50/90であればそれは1となる。つまり、値が何を示すかはどのレベルでHIGH/LOWを分けるかの閾値に依存して変化する。

この閾値をきわめて短時間のうちに交換していくことで、取り決めを知らない外部からは単なるノイズとしてしか観測できないものとなる。

(というようなこととおれは理解した)

結果として作られるものは単なる波なのでBB84と異なりリピータで増幅し直すことも可能だし、光子レベルの精度も要求されない。ノイズは問題とならない(というよりも、現在の技術を極度に高精度にしなければならないものでもない)。

閾値の変化そのものが暗号化なので鍵交換用ではなく、そのままデータ通信用だ。

すると実現化の課題となるのは、エンド同士が同期をとって閾値をスライドさせる仕組みとなる。

乱数生成器が同一であれば、同一シードから生成されるシーケンスは等しくなる。これをエンド同士が持ち、閾値を変えていくことでそのような機構が実現できる。で、玉川大学ではそのタイプの装置を作っていてサイズは1U。

そこでおれはふと疑問を持つ。USではDARPAがスポンサーということは、軍用研究だし、おそらく基地間や基地と軍用艦/機がエンド用に同一シードを組み込んだ乱数発生器を持てるだろう。(というか鍵配送方式の場合もアリスとボブが自分の家で光子を判定するのか? という疑問がががが) これって民生で利用できるものなのだろうか? ISPが大手町と自社に装置を置くというようなストーリーは見えてこない。

いや、自社データセンター間であったり、本社-研究所間であったり専用線のニーズは当然ある。クラウド事業者が顧客用幹線サービスとして提供するというシナリオも考えられる。これまで光ファイバーは安全だといっていたが、実際にはNSAによって盗聴し放題だったことが明らかになったわけで、NSAではなくそれが産業スパイであったり国際的な犯罪集団だったりしたら目もあてられない。すべてがデータ化されてデータセンターに集約されている状況を考えれば民生用のほうが需要はむしろあると考えた方が良い。

軍用としての需要があるのは当然その通りで、DARPAのほうでは、ジェット機と基地の無線にY-00を適用する実験をしていると聞いた覚えがある。

ジェット機との無線と聞いて、BB84のmbpsとの実用性の違いをおもしろがるおれたち。

概要を知るならこの本がお勧めと言われて教えてもらったのが量子エニグマ暗号という本だった。Kindle版は無い。

量子エニグマ暗号―サイバー攻撃への究極的な防御技術 (万葉新書)(修, 廣田)

エニグマと聞いて、Uボートの中とベルリンでお互いにエニグマをぐるぐる回転させている様子を思い浮かべたり。それに比較してなんとサイファイな世界なんだろう今は。すげぇなぁ。

後で調べたらUltra-secure, ultra-efficient cryptographic systemという特許があったので、これを読むのがわかりやすいのかなぁ。

それにしても本当に全然知らないことばかりで、実におもしろかった。


2014-05-02

_ Ruby-trunk-source

自分で仕掛けてそのまま忘れてた。

MRIのソース(毎日更新 GLOBAL版)


2014-05-03

_ 人はパンのみに生きるにあらず

計数至上主義の人の書いたものを読んでいて、ふと考えたが、定量的評価ってすさまじく割に合わないものだな。

まずそれは短期にしか役に立たない。定量的な結果が出て是正されたらそれで終わりだ。

次に虚しい作業かもしれない。定量的な結果が出ても是正されなければ無駄になる。

そして計数のための条件は明らかにする必要があるから、上で是正するのに利用されなかった定量的な評価は潰しが効く可能性が低い(100年前の評価が現代に使えることは無い)。

これだけ割りに合わないゆえに、計数至上主義者は富士山よりも高い志と鋼よりも固い信念を持つことになるのだろう。そうでなければやってられない。(ソフトウェアのパフォーマンス改善のような分野なら定量的評価以外に意味はないけど、もっとマクロな領域についてのお話である)

ところが定性的な評価は逆だ。

まずそれはすさまじく長期にわたって役に立つ。というか適用できる。3000年前の若者に対する評価(最近の若者はなってない)は、3000年たっても適用できる。お得だ。

次にそれは役に立つことがある。だから道徳教育をどうたらとか親学がどうたらとか江戸しぐさがどうたらで、ちゃんとお金が回っていることをわれわれは良く知っている。

そしてそれは何度でも利用できる。

さて、ここでさらに考える。

定性的な評価がなぜ役に立つのだろうか?

1つは、人は言葉を読むのは比較的得意だが、数字を読むのは比較的苦手だ(と定性的な評価をできるということは、極めて低コストというメリットもある)。

そこで人を動かしやすいということはある。

良く、ケネディは数字を交えて演説して、それは人を動かすにどうしたというような教えをすることがあるが、というかおれはされたが、実はそれは単に人々の定性的な評価を裏付けたり、利害関係に乏しいトリビア(こういう常識があるけれど実はこうなのだ系。例:若年層の太平洋戦争後の犯罪発生率の推移)の場合に、耳目を集めるためのトリガーになるだけで(ダシというやつだ)、肝心な主張は定性的な評価に基づくものだったりする。まあ将来予測になったりビジョンを示したりするので、まだ計測できない世界について語るためのダシなので当然ではある。

で、リフレ政策だ。

リフレ政策って一言で済ますと、中央銀行がインフレにするぞ金利はマイナスになるぞ、と呪文を唱えると、人々がそれはやばいとお金を市場に放出するという政策だ。

これこそまさに定性的評価こそ世の中に影響を与えることができるということではないか?

それは現在の数理モデルに基づく経済学の人たちがばかげていると一笑にふして転落していくスェーデンになるのも無理はないかも知れない(最初に書いたように計数主義の人たちは定性的なものに極度に反発するからだ)。

というわけで、ソフトウェアの領域は話が早くて良かったねということだ。

ハイパフォーマンス ブラウザネットワーキング ―ネットワークアプリケーションのためのパフォーマンス最適化(Ilya Grigorik)


2014-05-04

_ 三軒茶屋でモロッコ

三軒茶屋の246から世田谷通りに分岐するところに、以前から謎の店舗密集地帯があって、えらく興味を惹かれていたのだが、別に用もないからいつも単に通りすがっていた。

昨日、世田谷通りのそのあたりを通りすがっていると、妻がモロッコ料理の店があると言い出した。どこだと聞くと、エコー商店街だという。なんだそれ? あそこ、と指さすところを見ると、まさにおれの憧れの地ではないか。

すぐに車を適当に脇道にそらしたら、そこに駐車場があって、空の1字が見えたので停めた。同じビルに入っている東急ストアで2000円以上買うと1時間の駐車券がもらえると書いてあるので、あとで買い物することにして、スキップしながらエコー商店街(という名前と初めて知った)へ向かう。

が、その前に細い道があって、妻はいやだというから、1人でちょっと探検に行く。2階建ての小さな飲食店がずらずら並んでいて、渋谷川の今は暗渠になっているところの飲み屋街(規模はずいぶん小さくなった)や、新宿西口の歩行者用ガードを抜けたところのような感じだが、より雑然としている。そういう飲食街を回りに置いて、エコー商店街はアーケードになっていて、少しばかりきれいで明るい。

で、どこにあるのかずっと歩いていくとほとんど246というところにあった。

モロッコ料理は自分でこんな感じだろうと想像して作ったもの(羊と野菜をオリーブオイルで蒸し焼きにしてレーズンやプラムで味つけしたもの)は何度も食べているが、それを名乗っているレストランは初めてなので、えらく楽しい。

入ると、テーブルが4個くらいと8人くらいかけられるカウンターがあって、店の人がいきなり予約があるかどうか尋ねて来た。狭いから予約しないとだめなのかなとか思ったら、どうもそうではないようなので(何言っているのかわからなかったのだが、よくよく見れば日本の人のようなので、回りがうるさくて良く聞こえないだけなのだった)、面倒なのでカウンターでいいよとカウンターに陣取った。

でメニューの説明(当日分は黒板に書いてある)をカウンターの中にいる背の高い女性が説明してくれる。しかし当然ながらどれを選択すると良いのかはさっぱりわからない。

そういう場合は、コースを食べれば良いということは経験上わかっているから、2500円くらいのコースを頼んだ。

すかさず飲み物は何かと有無を言わさない雰囲気で聞かれたので良くわからないネーブルオレンジのジュースを頼んだ。これはおいしかったのでOK。妻は良くわからないカクテルを頼んでいたっぽい。

最初に小さい器が並べられた。名前はさっぱり憶えていないが、食材は覚えている。

オクラの塩レモンとにんにく(おもしろい。塩レモンというのはこうやって食えば良いのか)、ナスのコリアンダーなます(コリアンダーが合っていておいしい)、パプリカのなますみたいなの(おいしい)、レンズ豆の何か(これがすごくさっぱりさわやかな味で、おやこういう豆料理があるのかとハッピーになる)、空豆。

空豆のも結構おいしかったし、たまたま家に空豆があるのを思い出してカウンターの中の人にどういうものか聞いたら教えてくれた。茹でた空豆を玉ねぎのみじん切りと炒めてクミンで香りづけをするのだとか。で、家に帰ってから空豆(莢付きなので茹でるのは面倒なので焼いて蒸し焼きにする)と玉ねぎをオリーブ油で炒めてクミンを振って、塩気が無さすぎるのでクレイジーソルトを振って食ってみたら、なんか違うがやはりおいしかった。っていうかクミンシードはこういう使い方も良いものだなと1つ勉強になった。

妻が、カウンターの中の人に本を読んだとか話している。おれは知らなかったがいつの間にか図書館で借りて読んだらしい。

クスクスとモロッコの料理 ~路地裏のモロッコ「ダール・ロワゾー」のモロカンレシピ~(石崎 まみ)

これだな。

おれはどうもレンズ豆とひよこ豆がごっちゃになって言い間違えるのだが、カウンターの中の人が、レンズ豆はメガネのレンズみたいな形のやつだと教えてくれる。しかし、実は順序が異なり、ガラスを使った便利な器具が出来たときに、湾曲具合や形がレンズ豆にそっくりなので、レンズと呼ぶようになったという。

次に揚げ春巻きみたいなやつが出て来た。

いきなり手で持ったら熱かったが、それはそれとしてこれはおいしい。甘いやつとそうでないやつの選択制だったので、甘いやつ(シナモンシュガーを振りかけた鶏のささみのやつ)を頼んだのだが、甘い料理はやはり良いものだ(日本料理も出汁に味醂と砂糖と醤油で甘いのが多いし、甘い料理は料理の王道だなぁ)。

次に、モロッコ風オムレツ。内容やケチャップみたいなものをつける点については、スパニッシュオムレツとほとんど同じで、ジブラルタル海峡挟んだ同じ地帯だけのことはあるなぁとか思う。しかし、どえらくふわふわしていておいしい。どうやればこんな風にふわふわできるんだ? と妻に聞いたら、カウンターの中の女性が、これがタジンで調理するってことなんだと説明してくれた。元々調理に使うには水が貴重だから、食材の水分でできるだけまかなえるように考えられてタジンってのはできてるから、熱の回りかたがうまい。ただ日本のガスコンロは火力が強すぎて、普通の火加減ではうまくできない。あっちでは炭(おそらく備長炭みたく効率が良いわけではないだろうなと考える)なので、同じくらいに弱めにして火にかけてそれなりに時間をかけてやるんだとか説明してくれた。

次にタジン料理。妻が肉を食わない人なので、しょうがないので肉がないやつにした。すると、実に薄味の汁に野菜が浮いていて、これはおいしい(特に汁がおいしい)のだが、自分でこんなものだろうと想像して作っていたタジン料理とまったく違ってある意味拍子抜けした。

最後にクスクスで、以前、良くわからないまま買って食ったら、たんにぽろぽろしているだけでこれはどういう食い物なのか? と不思議に思ったのだが、トマトで出汁が出たスープがついてきてそれをびしゃびしゃかけて食うのだった。付け合わせにおれは、牛と羊のソーセージのようなものを注文したら、これが香ばしくてやたらとおいしい。

覚えてないが、ハリサ(唐辛子ペースト)がどこかの時点でついてきた(シナモンシュガーのやつとは思えないから、オムレツかな? ケチャップという記憶にすり替わっているけど、小皿と色からはオムレツにハリサがついてきたと考えるのが正しそうだ)。この調味料は以前妻が買ってきて使っていたことがあるが結構好きなのだった(チューブがラミネートではないのでえらく使いにくかった)。

ハリサ 唐辛子ペースト 70g(-)

(家にあったのとは違うメーカみたいだから、ハリサってのは商標じゃないのかも)


2014-05-06

_ 中年と少女

いつの間にかKindleの中に見覚えがない妙な表紙のやつが入っていて首をかしげる。

隻眼の少女(麻耶 雄嵩)

で、まあしょうがないので連休だし読み始めて、だらだら読んでいるうちに興が乗って来て読了した。なんか取ってつけたようなところも多いが(というか、本格推理小説ってそういうところがあるな)、テンポも良いしおもしろかった。

で、最後になって、あ、確かにこれは買ったと思い出した。しかしこういう作品について公開の日記に書くのは厄介だな。とにかく、まとめサイトを眺めていて、そんなものがこの時代にあるのかと興味を惹かれて買ったのだった。まったく覚えていなくて良かった。

で、1部と2部に分かれているのだが、2部が妙に良い。

それにしても最近読んだ探偵ものは中年男と少女の組み合わせが多いように感じる。実の親子のこともあれば、疑似的な親子の場合もある。まったく恋愛感情は(すくなくとも中年側の視点で書かれたものしかなく、その限りにおいて)ないのだが、微妙な腫れ物に触る感があり、それがおそらく殺伐とした話に柔らかさを持たせるのかなぁ。

たとえば名探偵コナンもその範疇かも知れない。

事件屋稼業 : 1 (アクションコミックス)(谷口ジロー)

関川夏央は大嫌いだが、事件屋稼業はそれほど唾棄すべき作品ではなく、谷口ジローの力もあって、良い作品だが、ここでも親父と娘の関係が大きい(こちらも離婚しているが、コナンと違って娘は母親側が引き取っている)。

二流小説家(デイヴィッド ゴードン)

二流作家も疑似親子関係があるのが作品の読みやすさを大きくしている。

あ、待てよ。ギリシャ悲劇的な彫琢をもたせることをこの連中は考えているんじゃなかろうな。

谷口ジローと言えば、Liveオデッセイのオデッセイとプチの関係も疑似親子(ただしオデッセイ視点)だった。

LIVE!オデッセイ (上) (双葉文庫―名作シリーズ)(狩撫 麻礼)

原作者は違っても、なぜか谷口ジローにはこういう組み合わせを書かせたくなるものなのかも知れない。

印象だともっとたくさん挙げられそうな気がしたけど、思ったよりも出せないものだった。


ところでこの作品ってアリバイが全員ないという点からいくらでも処理できるうちの1つの割とどうでも良いパターンが書かれているだけなんじゃないかと思う。第一部についていはその時点の犯人がその時点の犯人だけど便乗で+1されているとしたほうが筋が通る。そして第2部では一番動機があるやつ(過去を繰り返したい人)が暴れ狂っているのでご本尊が退治に来たが邪魔が入ったので被ったとするほうが筋が通る。あるいは第2部は第1部の反転した繰り返しと見ることもできる。この親にしてこの子あり。そして第1部の最後の逆パターンで終わるとか。つまりは機械仕掛けはうまくできていて、ただ動機の強弱によっていくらでも犯人の当てはめができるというのがミソになっているようだ。


2014-05-07

_ 鍼灸師海を渡る

パーデレ・ゴンザレスは瞠目した。

御薗意斎はエスパニアのどの審問官よりもうまく針を打つ。打たれた男は血の一滴すらたらさない。表情は良く見えないが呻き声が聞こえてこないのだから苦痛もないに違いない。

常心殿、この男は魔女ですかな?

パーデレ・ゴンザレスは十字架を目の前に掲げて一歩ひきながら尋ねた。

はて、魔女とは? この男はただの患者ですな。

御薗意斎は小槌を振って男に太い金の針を打ち込みながら答えた。

常心殿、実際のところヤパンのその男が魔女だろうが第六天魔王だろうがどうでも良いのです。ぜひ、わたしと一緒にエスパニアへ来てください。教会には先生のお力が必要なのです。先生のお力をお借りすれば、すべての教会の敵を魔女として火あぶりにできるのです。

ふむ、それはなぜですかな?

魔女には針を打たれても血を流さず苦痛を感じない悪魔との契約の徴が体のどこかにあるのです。われわれはそれを探すために、大変なご苦労をしているのです。探されるほうも大変でございましょうが、探すこちらも大変でございます。今、先生は即座にそれを見破りました。それこそわれわれが求めておるものです。先生のその鍼術があれば、何万人もの魔女を1か月のうちには全員火あぶりにできるのですぞ。

くだらん、人中いたるところに経穴あり。おまえさまの言うことは、すべての人間は悪魔と契約をしておるとのことですぞ。

わたしどもといたしましても、身内のもの以外はすべて魔女として火あぶりにできればとてもお幸せでございます。では、なにとぞよしなに。

御薗意斎は宮中の勤めもあることから、弟子の玉毛取斎をパーデレ・ゴンザレスに預けることにした。この男が後の大審問官トマス・デ・トルケマダである。


2014-05-08

_ PowerShell雑感

PowerShellを先々月あたり、仕事に使おうかと思ってサーバーの上でスクリプトを書きながらいろいろ試し始めて、結局翌日にはRubyのMSIを突っ込むことになったのだった。

くそのような言語だ。おいしいものを詰め込んで酸をぶっかけてこねくり回して栄養を吸い取って匂いをつけて一丁あがりだ。

悪いとこどり。

dirの代わりにlsと書けたり、エイリアスからはちょっと/bin/shみたいに見える。Unixerを向いているのかと思えば、dirとも書けるからbaterのことも向いている。

dir|moreと書けばそれなりに出てくるから、cmderにも向いていそうに見える。

でもdir /wとすると

dir : パス 'C:\w' が存在しないため検出できません。

となるから、cmderには少しも優しくない。

ならばとls -lと打つと

Get-ChildItem : パラメーター 'LiteralPath' の引数が指定されていません。型'System.String[]' のパラメーターを指定し、再試行してください。

となってUnixerに優しいわけでもないと気付く。

中途半端というのはPowerLessのためにある言葉だ。

でもls | % { echo $_.name }というような書き方を知って来ると、おや便利かも、という気がしてくる。が、なんで今更$_なんだ? と感じるおれがいる。

しかも@"で始まるからバーベイティムストリングかと思ってC#er魂が湧いてくると、妙なエラーとなる。

here-string ヘッダーから行の末尾までの間に文字を使用することはできません。

実はヒアドキュメントなので、直後に改行を打たないとエラーになるのだった。ぐは。

JavaとJavaScriptの顰にならって、C#に対するCsScriptとかにしてくれれば遥かに話が楽だったと思うのだった。ぷんすか。

しかも拡張子ps1を動かすためにやたらと手間がかかったりとか。

でも無いよりはましなので、ちょっとずつ覚え中なのであった。

【改訂新版】 Windows PowerShell ポケットリファレンス(牟田口 大介)

今のところ、$conn = new-object System.Data.SqlClient.SqlConnection('xxxx')で始まるものを書かせたら、一番楽なことだけは間違いないと思うからだった。


2014-05-11

_ 書いた通りにプログラムが動かないC

プログラムが書いた通りに動かないといえば、Cだよなぁと思い出す。

今を去ること4半世紀昔のことだ。

386sxを載せた98note SXというノートPCが出たので購入したのだった。

PCは買っただけでは役に立たないので環境を整えるために、まず安いコンパイラを探してTurboC 2.0(9801用)を買った。

手元にはAmiga用のプログラムのソースがそこそこあったので、最初にMicro Emacsを移植した。Turbo Cには妙なエディターが付いていたのだがMicroとは言えEmacsのほうが使いやすいのだから当然そうするものだ。

これをやったおかげでPC9801というコンピュータのハードウェア回り(VRAMとかキーボードとか)をTurboCでどう書けば良いかわかったような気がする。ついでにJISコードとシフトJISについても相当に理解した気がする(記憶違いかも知れないが、9801のVRAMにはJISコードを転送する必要があったような)。と書いているうちに思い出したけど、というわけで文字コードの変換が必要なのかかったるいなと思ったら、TurboCのVRAM操作関数のできが良くて(vramprintfみたいな名前だったような)直接VRAMをいじる必要がなかったのだ。AXかDOS/Vかは直接シフトJISコードを転送すれば良いのでそう実装したのと記憶がごっちゃになっていたようだ。

というわけで、そこそこまともなエディターが手に入ったので次に手元にあったAmiga用のNethackを移植する。

で遊び始めるのだがそこはNethackすぐにOに囲まれたり飯がなくなったりして死ぬわけだが(そのうち面倒になって飯が不要なモードとかを実装することになる)墓がおかしい。エピグラムが異様だ。

                       ----------
                      /          \
                     /    REST    \
                    /      IN      \
                   /     PEACE      \
                  /                  \
                  |    starvation    |
                  |    starvation    |
                  |    starvation    |
                  |    starvation    |
                  |    starvation    |
                  |       1991       |
                 *|     *  *  *      |
        _________)/\\_//(\/(/\)/\//\/|_)_______

多分、3.0あたりだろう。

と言う具合に当時の最適化の技術(TurboCのある最適化オプションをONにするとそうなったわけだが)はお粗末だったのだった(というか、いかにDOSではメモリコンシャスにするのが重要だったかというか)。

本日のツッコミ(全1件) [ツッコミを入れる]

_ ふる [だからこそ人力が必要だったんですよね。 最近のコンパイラ賢いから勝てるシーンが少ないです。]


2014-05-13

_ 久々に絶対読め本が来た

オライリーの高さんから、ハイパフォーマンスブラウザネットワーキングを頂いた。

どんな本かもわからなかったけど書影を張った甲斐があった(わけないだろうな)。実に良い本を頂けた。どうもありがとうございます。

この本は、名前の書名の通りに受け取ると妙にピンポイントだけど(なぜなら、ブラウザネットワーキングをハイパフォーマンスさせるための技術書だとしか読めないし、ブラウザネットワーキングって妙な言葉だけど、Webブラウザにしか関係しなさそうに読める)、全然違う。

この本は、小手先の技術書ではない。

だから、ネットワークにパフォーマンスを要求するためには、まずネットワークとは何でどのような技術で、どのような種類があり、それぞれにおいてどのような制約や特徴があるのか、からきちんと説明がある。

最初は、レイテンシ(遅延のこと。遅延といったって、伝播遅延、伝送遅延、処理遅延、キューイング遅延と分類している)と帯域という2つのパフォーマンスを決定する要素についての定義的な解説。

そしてとにかくTCP。TCPの速度を決定付ける技術について。

ではTCPを最適化する最も簡単かつ効果的な方法は? カーネルを最新バージョンに保つことだ。世界中の優秀な連中が絶え間ない改良をしている。ではどんな改良があるか、今となってはディスエーブルしたほうが良い技術(たとえばスロースタート)がなぜ(今となってはディスエーブルしたほうが良いとしても)導入されたのか、それはどのようなアルゴリズムで何を解決するために組み込まれたのか。

こういったことが実に手際よく説明されている。

パケットロスは全然OK。

UDP。UDPで工夫するよりTCPを使うほうがいいかもね。(いやまあ思い出すこともあって、でも20年近く前のカーネルが提供しているTCPよりバギーでもUDP上の独自アプリケーションプロトコルのほうが高速かつ高信頼だったこともあるとか)

TLS。HTTPSは遅くない。

WiFi。シャノン・ハートレーの定理。初めて知りました。C=BW*log2(1+S/N)

3G、LTE。

物理層レベルについても押さえながらモバイルネットワークの最適化までで2/5くらい。

で、怒涛のHTTP。最後はWebRTC(さすがに今日届いて3部目はほとんど目を通していない)。

ハイパフォーマンス ブラウザネットワーキング ―ネットワークアプリケーションのためのパフォーマンス最適化(Ilya Grigorik)

今一番重要なインフラは、もうCPUでもメモリでもディスクでもなく、ネットワーク(モバイル含むというか、モバイルの比重が非常にでかい)だ。

ということは、現在のIT技術の基礎の基礎たる知識はこの本から学べるということだ。

内容紹介にはインターネットにかかわるすべてのエンジニアに必携と書いてあるけど、インターネット関係なく、必読文献の1つだ。


2014-05-15

_ チュロス

ネコが遊べ遊べと言うので、しょうがないので棒の先にゴム紐で羽を束ねて鈴をつけたおもちゃで遊んでやる。

キャティーマン (CattyMan) じゃれ猫 宙返り(-)

アマゾンで買うと安いじゃん。

で、これを素早く動かして追っかけさせるのだ。

鉢割れな猫のほうは、1m近くジャンプしたりして楽しそうなので上下運動を取り入れてやっていたのだが、割れていない猫のほうは、一度ジャンプしてそのまま横向きのまま落ちてしばらく固まっていたことがあったので上下運動はなし(猫って自然に空中で身を捻って脚から着地する生き物だと信じ込んでいたのでびっくりしたのなんのってその時はおれも一緒に固まってしまったのだった)。

で、時々うまく捕まえてどこかへ持っていこうとするのだがゴム紐がついているので引っ張られて、ちょっとした弾みでこちらへ羽の固まりは戻って来る。すると猛然と追いかけてくるのでまた追っかけっこをさせてやる、の繰り返し。の繰り返し。の繰り返しで、30分近く繰り返させられるとさすがにうんざりして来るが、今日はいつも以上に喰らいついて来るし、シューシュー言い出すから途中でやめるのも憚られる。

と、突然追いかける脚が止まってじっと固まっている。

?と思って近づくと、口から吐きはじめた。

のだが、時々みかける液状の中に毛の固まりがある、ああゲロだなというのとは様子が違う。

見た目は色、太さ含めてチュロスそっくり。長さは8cmくらいありそう。

で、匂いもない。

ティッシュで摘まんで捨てたのだが、半固形で別段崩れる様子もなくて、とても不思議だ。

猫の胃ってどうなってんだ?

その後は元気になって暴れていたから、気にする必要はなさそうだが、(人間も暴れ過ぎると吐くことはあるし)、妙なものだな。


2014-05-17

_ カヴァレリア・ルスチカーナと道化師

新国立劇場でカヴァレリア・ルスチカーナと道化師。

最初にカヴァレリア・ルスチカーナ。マスカーニのハープとピチカートを多用した面妖なオーケストレーションは素晴らしく美しい。メロディーも覚えやすくきれいだし、大好きな作曲家なのだが、舞台できちんと通して観るとうんざりした。退屈きわまりない。一本調子だからだ。まさに映画音楽。特に一幕最後のサンタとトゥリッド、サンタとアルフィロのやり取りの下世話っぷりに目がくらくらする。そういうことはわかっているにも関わらず、マスカーニは好きなのだが、まじめに舞台で観るのは相当辛いものがある。というか、舞台で観るのは初めてだった。

トゥリッドさんはフラッカーロで、いつもプログラムに載っているポートレイトだと太っちょにみえるのだが、実際にはちょっとずんぐりはしていても、普通にシチリアの酒場の息子に見える程度にはスマートで、あれ、こんな歌手だったっけかな感がある。サンタ(サントゥッツァと書くとくどい名前だと子供が言うのだが、確かに日本語で表記するとすごい名前だな)はなるほどサンタだという外見だが良い歌手。アルフィロが実に良い。

舞台はアゴラ風なところに、黒衣の女性、白シャツ野良着の男性がうろうろ。復活祭の準備のための生々しい磔刑像が置かれている。良い舞台だ。

それに比べると、道化師は見事だ。レオンカヴァッロとマスカーニの才能の差は、リストとタールベルクくらいある。でも後世の評価はショパン(プッチーニ)に持って行かれてしまうわけだが。

まず、何度聴いてもトニオの前口上が素晴らしい。楽想をぱっと切り替えてゆったりした朗詠調にして主張を強調するうまさ、ヴェリズモという新しい芸術の宣言であり作品解説であり、それ自体が素晴らしい歌であり、19世紀のトリを務めるのにふさわしい傑作だ。

舞台でみると、とにかくトニオが良い。歌手も良い。歌手も良いという点では、単にきれいな声でオーケストラをほとんどつけずに気持ちよく歌う2幕のアルレッキーノというかペッペの歌が良かった。見せ場が多いオペラだ。

最後、コメディは終わったと宣言するのは、カニオではなくトニオ。カニオが言うから悲劇性が強調されると思っていたのだが、トニオが宣言することで、前口上のヴェリズモ宣言の続きだということが初めてわかった。浮ついた、現実世界とは無関係な、喜劇は終わった、これからは現実芸術だ、という力強い宣言なのだな。カニオが言えば、それはコメディの延長線上となる。しかしトニオが言うことで、舞台の上のコメディ→ドラマをさらに外部から観察する芸術家のメタな視線でのヴェリズモ宣言が完結する。

途中でカニオに変えたのは、宣言としての完成性よりも、観客に受ける同時代のエンターテインメント性を重視したと考えれば、100年以上経過した上演においては、元の宣言に戻すのが筋に合っている。

指揮は緩急自在なのだが、速いところではちょっと金管が追いつかず、衣装をつけろは何が何でも遅すぎる気がした。が、不満はなかった。

良い舞台だった。

#道化師を観ていて、イル・ノーメがやたらと耳につき、次に観客のなんという迫真の演技! 泣ける! で気付いたが、もしかすると、ほんの少しでも、これが最後の作品とトゥランドットを書き始めたプッチーニが、近代イタリア歌劇の最初の作品を思い出して、近代イタリア歌劇最後の作品としてトゥランドットを位置付けたのではないかと想像したり。新国立のトゥランドットの演出が、サーカス小屋での上演だったのは、演出家もなんとなくそういうことを考えてみたのかなぁとか。


2014-05-21

_ Someday Worldがとても良い

ブライアン・イーノなんてとっくの昔に過去の人だと思っていたし、最後に聴いたのはブライアン・フェリーと組んだマムーナで昔とった猫柄の歌とか歌って、まあもう聞く必要もないやと思ったものだが、佐々木さんがFBにYoutubeを貼り付けているので何気なく聴いたらぶっ飛んだ。全然生きてるじゃん。これには驚いた。

むちゃくちゃテンポがモダンなトランスヨーロピアンエクスプレスというか、いや、メルセデスベンツの広告みたいだから、アウトバーンの21世紀イーノバージョンだ。(でもジャケットの写真は電車の給電線だな)

アウトバーン(クラフトワーク)

(もちろん嫌いではない)

それにしても、イーノ&ハイドはすげぇかっこいい。

特にびっくりしたのは、イーノの歌が最盛期から40年とか過ぎているのに実にイーノの歌だということで(確か、ソロになったばかりの頃は、ケツの穴に銃弾を撃ち込まれたウサギの鳴き声とか酷評されていたはずだが、ロックの文脈からずれているというだけで、気持ちが良いねばっこさがあって好きなのだ)、それがソリッドなビートに実に合う。あー気持ち良い。これこそがインダストリアルミュージックだ。

Someday World [特装パッケージ(ハードカバー)+スリップケース / 4曲入りボーナスディスク付属 / アーティスト本人による解説付 / 輸入盤帯付スペシャル・エディション/2CD] (BRWP249X)(ENO • HYDE)

今更CDを買う気にはならないので(ブックレットがついていても)、iTSで購入。


2014-05-23

_ ねこのきもちはわからない

妻が図書館からねこのきもちというムックの抜け殻(図書館のだから付録は無い)を借りて来たので眺めていたら不思議な記述があり、いろいろ思い返してみると、不思議でもなんでもないようであり、気になった。

そこには、2匹飼っている飼い主の話と、専門家による解説という形で、後から来たネコが最初からいるネコの尻の匂いを嗅いではパンチを食らわせられるというのを繰り返している。どうすればやめるのか? というようなことが書いてある。専門家によれば、相手の尻の匂いを嗅ぐというのは優位なネコの特権だから、後から来たネコにそれをやられるのは最初から飼われているネコのプライドが許さないのだろう。その反面、後から来たネコは以前の場で優位なネコとして君臨していたので、そのような行動を当然取ろうとするのではなかろうか、というようなことだ。

これは、人間社会の関係性からは転倒している。コピ転のようなネコ転世界だ。

「市民、おれさまの尻を嗅げ」のほうが、どう人間の常識と照らし合わせても、「市民、おれさまに尻を嗅がさせろ」よりも自然な感じだ。

B004K62N64

家で飼っているネコは小柄(今日量ったら3.5kg)と、大き目(今日量ったら3.8kg。大して差はないじゃんと一瞬思ったが、10%でかい)の2匹がいて、良く小柄なほうが大き目のやつの尻を嗅いでいるから、大小がそのまま力の強さで、弱い小さいほうが大きいやつのご機嫌をうかがって尻を嗅いでいるのだと思い込んでいた。

違うんだな。

その一方、性格的な振る舞いもあって、時々、妻と小さいほうを高原由紀と呼んでいたのだが、実際その通りなのだと納得したのでもあった。

が、本当なのかな。

愛と誠 コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD](妻夫木聡)

尻を嗅ぐというのが優位性を示すというのは、親代わりというか親に代わって支配するものという意味なら、あり得るかも知れないな。


2014-05-24

_ 東をどり

新橋演舞場で東をどり

先日、妻が、何かを見て行こうと言い出したので行くことにしたのだった。

なんでも大正14年から90回記念らしい。細かいことはわからないが、新橋芸者の芸の披露用に演舞場を作り、その日に限り一般大衆に見物料を取って見せることにしたらしい。というわけで、料亭に行ったりしなくても東をどり(という興行は)誰でも安い見物料で観られるというわけで、おれたちも行ってみることにしたのだった。せっかく東京に住んでいるんだから、新橋色の新橋を知らないのはばかげている。

で、着いてみるとバスが入口前に並んでいるし、客層もいろいろ(とは言えじじばば多し)で実に興味深い。

演舞場に入るのも初めてだが、こじんまりとした2階建てで、とは言え花道もある立派な舞台だった(回り舞台になっている)。席は比較的ゆったりとしているし、悪くない。

最初は良くわからないが女性3人、女性の男が2人の踊りで、清元は花の都は新橋のくらいは聞き取れるがごく部分しかわからない。が、30分まるまる退屈せずに楽しめた。なんとなく女性3人、女性の男が2人だと思ったが、後で妻から足の開き方が違うのだと説明される。なるほど。

休憩時間は松花堂弁当を食べる。6つの料亭がそれぞれ趣向をこらし、どれが当たるかわからないという仕組みで、おれはやま祢とかいうふくの店のが当たり、妻は吉兆のが当たった。やま祢の弁当は豪快というか大雑把な見てくれだが(鱧握りとか米の単なる固まりに見える)、味付けは気持ちよかった。吉兆のは金箔が入っていたりご飯がこっていたり、ぱっと見の華やかさが良いものだった。

やま祢の松花堂

(やま祢の松花堂。玉子焼きは半分食ってしまった)

吉兆の松花堂

(吉兆の松花堂)

で第二部になると春夏秋冬と題されていたのはわかったが、最初は太閤の花見らしい春で、これはそれなりにおもしろく、夏は杜若に始まり水芸が入り夜の橋となる(のだと思う)。これも結構おもしろく、水芸とはこういうものかと。途中真ん中の人が兄さんが見ていると言いながら立ち去るので、はてなんのことやらと思ったら、滝の白糸であったらしい。

秋も橋なのだが、これは退屈して途中しばらく見ていなかったが、次に気付くとおはらしょうすけさんなんで身上つくったと変えた歌に始まり有名民謡パレードのような趣。

冬となるとさっぱりわからない。色男が手紙を読みながら部屋へ入ると御新造さんらしき女性がいてしばらくすったもんだした挙句、さささと退場していくというこれまた???となりながら見ている。まるでエフゲニオネーギンのような、はて面妖なと。

後で、藤十郎とお梶とアナウンスがあり、とは言えやはり見当もつかない。

出てから調べたら菊池寛の作品で、手紙と思ったのは近松門左衛門による台本、実際の女性を相手に道ならぬ恋の心のあやを見聞するための役者の知恵が当の女性を死に追いやるという、芸のためなら女も殺すというようなお話であった。なるほど、それは知らなかった。

次来るときは演目は予習したほうが良いということは良くわかった。せっかくのおもしろさが半減してしまう。あと清元の聴き取りはもう少しできたほうが良いな。なんのために日本語が理解できるのか、この聴き取り能力ではまるで無意味だ。

と、用意が足りずに反省する点もあるが、それにしても、実におもしろかった。日本の文化は良いものだ。


2014-05-25

_ ローマのシモンボッカネグラ

上野でローマのシモンボッカネグラ。アバードが亡くなった今となってはイタリアのマエストロと言えばこの人しかいないのかなぁというムーティ。

一体何歳になったんだろう? と不思議なくらいに若々しい。

で、弦を主体とした(室内楽的ですらある)序曲が始まる。良い音だ。

いかにも悪役っぽいパオロが出てきて、群衆が集まり、壁に灯る火、向うは夜だ。物語が始まる。

1幕になると、向うに海が見える。2場ではどでかなジェノヴァの獅子。

フリットリの代役のエレオノーラブラットという人はどうなのかなぁと思うと、なんかぱっとしないし高音が良くないなぁとか最初は思わせたが、シモンとの二重唱以降、悪くないというか良い。

でも、

Opera Arias(London Symphony Orchestra)

このCDで何度も聴いているフリットリのこの仄暗い夜明けにを舞台で聴いてみたかったな。

歌手は全体にとても良い。アドルノが実に朗々たる良い声で(役柄)間違ったことを歌いまくる。これも代役のはずのフィエスコの人が実に味わい深い。当然のようにシモーネの人(ペテアンという名前)は終始見事で、終幕の和解に至る二重唱が良かったのなんのって。

パオロが開き直って、もうちょっと意識的ならイヤーゴだという歌を歌うところのオーケストラが落雷のように威力があってしびれる(で、その後の歌も良かったのでパオロ役の歌手は気に入ったのだった。マルコカリアという人)。

あらためて舞台できちんと観ると、ベルディの一番の傑作はシモンボッカネグラなのかなという気になって来る。

ドンカルロスのようにキャッチーなソングナンバーは無いし、オテロのように実験や静謐さは無いし、しかしオーケストラの緊密感、重唱のうまさ、適度な上演時間、これが一番良い作品のような気がしてくる。最初にフィエスコが出てくるところのブオーンブオーンというのは、ドンカルロスの親父の苦悩の出だしに音が似ている(というか、こちらも親父の苦悩であった)。

台本としては、平民と貴族の対立、イタリア分裂期(ベネツィアとジェノヴァの協定の話が出てくるが議員に否定されるので、シモンが感動的な統一の歌を歌う)を背景に、親父(貴族)と親父(娘の恋人。海賊というか平民)と娘(平民出身の貴族)と娘の恋人(貴族)という複雑な家族関係、陰で政治を操る立場の人間が逆に操られることになる逆転、実におもしろい。おもしろいがイルトロヴァトーレのような破綻はない。

ヴェルディ:歌劇《シモン・ボッカネグラ》フィレンツェ5月音楽祭2002年 [DVD](クラウディオ・アバド)

(アバードが指揮しているのと安かったので購入したが録音バランスがむちゃくちゃでオーケストラばかり聴こえて歌手の声がほとんど聴こえないというひどいDVD)


2014-05-28

_ 歴史に立ち会うという感覚

これまで、何度か、歴史に立ち会ったことがある。

その時も、もしかしておれは歴史に立ち会っているのではないかという感覚を持ったし、今も、あの時おれは歴史に立ち会ったなと感じる。それは誇らしいことではないけど(別段当事者ということではないからね)、でも傍観者という立場であっても、それが歴史であるのは当事者以外に傍観者の視点があるからだということを考えれば、そうはいってもおれも歴史を作ったのだなと言って良さそうな気がする。

この感覚は老化なんだろうか? でも、その時点でも、あ、おれは今歴史に立ち会っていると感じたことは強く記憶している(だからこそ、歴史に立ち会ったという感覚が皮膚から浸透してきて今に至るも手触りを覚えているのだ)。

歴史に立ち会う感覚を映画的に表現したものがいつくかある。

24アワー・パーティ・ピープル [DVD](スティーヴ・クーガン)

トニーウィルソンはピストルズの最初のギグに立ち会ってしまった。

Back To The Future: 1, 2 & 3(Blu-ray)(ロバート・ゼメキス)

チャックベリーのバンドマン(名前は忘れた)が、マーティのギターを聴いて思わず電話をかけるところ。

僕はどんな歴史に立ち会ったことがあるだろうか?

上陸 - 日出づる国に雷鳴轟く――日本で最初のライトニングトークに立ち会い、高橋メソッドが誕生する瞬間を目撃した。世の中にこんなおもしろい世界があるのかとびっくりした。全くこれまで考えたこともないエンターテインメントの世界を知ったのだった。YAPCはそれ以前からあったはずだから、実際にはそういう世界はとっくの昔に成立していたのだろうけど、でも興行収益(少なくとも商業的な宣伝効果)が得られる場としての技術カンファレンスの可能性はここっから始まったのではなかろうか。というわけで、今も続くLLイベントは初台の今は亡きアスキーの地下から始まったと思うのだ。

DIコンテナカンファレス(ダイコンとか言っていたような)もそうだ。YAPRCとは全然異なる雰囲気(それがお金の匂いなのかも知れない)がそこにはあって、へーこういう世界と人たちもいるのだなと思った(そのほかいろいろ予想したが、相当外れたなぁ)。(正確には、これより前に小岩で開かれた勉強会が最初の最初だったような記憶がある)

他にも新宿の今はなきJAMでの最初のギグとか、屋根裏でのシーナ&ロケッツの東京上陸第一弾のギグ(ベースが弦切ったのを覚えている。最初はバットマンだったような)とか、そっちもそれなりにあるかなぁ。

(と、これも初台だったと覚えているけど、20040410のDIコン10周年として1か月半遅れで書いてみたり)


2014-05-29

_ TypeScriptの本

アスキーというかカドカワの鈴木さんから実践的TypeScript入門をいただいた。

JavaScriptは嫌いではないのだが、いかんせんfunctionと打たなければならない点とか厄介なことが多いので、OSSから企業提供のものまでいろいろバリエーションが出てきているが、マイクロソフトのJavaScript改がTypeScriptだ(という理解であっているはず)。

まあ、Visual Studioでインテリにセンスしまくる前提だからだろうけど、functionはfunctionのままで、すごく大雑把に(おれさまが考える)特徴は、

1)型チェックさせたければできる

2)クラスベースで型を拡張できる

3)モジュラー指向(インターフェイスがあるのはこの文脈とおれは理解した)

だと思う。

GoogleのDartほど大げさではなく、CoffeScriptほど簡潔ではなく、ActionScriptよりはモダンというとこかな。

で、そんなTypeScriptなのでTypeScript言語仕様(pdf)を読めば使えるが、そうは言っても英語はいやとか仕様は固くていやというような人はいるだろうから、そういう人には最初の良き友達となると思う。

値段も2000円を割っているし、薄さも200ページに満たないので必要なところをさっと眺められる。

JavaScriptプログラマのための 実践的TypeScript入門(川俣晶)

というわけで、とりあえずTypeScriptのサンプルコードを見ながらささっと使えるようになるというような目的にはお勧めできる。VSを画面に広げて試してみるなら、電子書籍より紙の本のほうが場所を取らないので良いだろうし。

ただ、何しろ出始めでイディオムとかが見えているわけでもないので、実践「的」というのはベストプラクティス的な意味合いはなく、読みながら学習する向き(理論なし)というような意味だろう。

あと、ほんのちょっぴりNode.jsを使って型安全なNode.jsプログラミング用としてTypeScriptを使う方法が書かれている。が、著者はNodeで使うのに否定的な見解のようだ(Nodeより前の時点で、サーバーサイドをこの手の言語でプログラミングすること自体に懐疑的なのかな)。


2014-05-31

_ アラベッラ

新国立劇場でアラベッラ。

2010年10月に続いて2回目となる。今回は異様に空席が目立った。特に1階の脇のようにS席としては今ひとつな場所が空いていた。さすがに4回目となると、もういいやとばかりに来なくなる人がいる(その一方で追加される観客はいない)ということなのだろうか。

が、客の入りと演奏はまったく関係なく実に良かった。前回のシマーも良かったが、ベルトランビリーの指揮は精緻で、弦がとにかく分厚い編成なのだが、室内楽的な細かな響きで、そこにアラベッラとズデンカの2重唱、アラベッラとマンドリカの2重唱などがからみあって実に美しい。

アラベッラもズデンカもまったく知らない歌手だが(というか新国立劇場は基本的にそういう選択の劇場だ)、アラベッラの伸び上がる歌も美しければ、ズデンカの落ち着いたような浮ついたような不思議な歌も美しい。マンドリカのコッホという歌手も前回のマイヤーに負けず劣らず良い歌と演技。特筆すべきは親父役の妻屋で、どんどん良くなってきているように思う(ナブッコのテロリスト役からこっち次々と異なる性格の役を演じているわけだが、どれも良いのだったが、どんどん痩せてきているようにも感じるけど、衣装とかのせいだろうな)。

ふと気付いたが、19世紀終わりから20世紀頭にかけてのオペラはここぞというところで、セリフを吐かせることで、強烈な異化効果を生み出している。

ラボエーム(1896)でルドルフォがなぜおれを見ている?と叫ぶところ、トスカがマリオーと叫ぶところ、道化師(1892)の最後でトニオ(またはカニオ)がコメディは終わったと叫ぶところ、カヴァレリアルスティカーナ(1890)のトゥリドさんが殺されたという叫び声、これらはいずれもオペラという夢のような(通常の演劇よりはるかに)非現実の世界のできごとを現実にあり得るものとして観客の意識をこちら側へ引っ張り戻すものだが、アラベッラの、マンドリカがいきなりまじになって怒り出すところから現実的な演劇となり、ズデンカの告白で頂点に達する。もっともアラベッラは1930年だから直接の影響うんぬんではなく、そういう手法として確立しているものを利用しただけなのだとは思う。

とにかくとても満足した。

最初士官の名前がマッテオとイタリア風なのが不思議だったが、オーストリーハンガリー帝国にはイストリアやトリエステといった今のイタリアも含んでいるのだからおかしかない。

脚本的には、主人公一家、マッテオ、マンドリカ、3人の御曹司それぞれが名前から民族的なおかしさなり意味付けがあるのかも知れないけど、そういう方向から説明したものは見かけたことはない。

プログラムを読んでいて一点へーと思ったのは、3幕の開始が性交音楽だという指摘。なるほど、確かに2つの主題のからみ方からはそう受け取れる。シュトラウスというのはあまり官能的な音楽というのは得意だとは思わないのだが(サロメのヴェールの踊りなどうまい曲だとは思うが特段官能性は感じない)技巧的に過ぎるからかも知れない。

劇中マンドリカが山ほど持ってこさせるのは、読み間違いでなければモエエシャンドンで、なぜウィーンでしかもハンガリー出身でモエシャンドンなのかとか、これも時代的な意味はあるのかも知れないがわからないなぁ。

モエ・エ・シャンドン マール・ド・シャンパーニュ 700ml [並行輸入品](-)


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