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日々の破片

著作一覧

2013-11-04

_ ネコのおもちゃ

先日、帰宅すると妻が興奮しながら何か言っている。生協の宅配で取り寄せたネコじゃらしがとんでもない興奮をネコにもたらしたらしい。

どちらかというと控えめな白坊が、恐ろしい勢いで独占して毛をむしりまくっているとか。近寄るとふーふー怒って、寄せ付けない。あまりの権幕にびくびくしている黒坊がかわいそうになって、ちょうど2本入りだったのでもう一本取り出して黒坊の前で振ってみると、突然、白坊が背後から飛びかかって、そちらも奪って逃げていき、最初の一本をガッシと右前腕で押さえつけて、新しい一本を口で咥えて離さない。

とにかく獣降臨という風情でおっかなく、黒坊とふたりで震え上がった(という情景を聞かされると、ピーターラビットと従弟のベンジャミンが穴熊の家の地下倉庫に忍び込んだものの、上で穴熊とキツネのバトルが始まって大騒ぎになって、出るに出られず抱き合って震え上がる映像が浮かんでくる)。

ピーターラビットとなかまたち DVD-BOX(ニーブ・キューサック.檀ふみ)

というわけで、すぐにその猫じゃらしを使え使えと言うのだが、前のがボロになってからでいいやと放っておいたのを思い出して、ちょっと隠し場所から取り出して振ってみせたらさあ大変。猫は獣ですな。

ただ、黒坊はそれほど興奮しないのが不思議といえば不思議で、姉妹といっても相当違いがあって、おもしろい。

理由は一つしか考えられない。

その猫じゃらしは、ウサギで作ったというだけあって、嗅ぐとすごく獣臭いのだ。それが白坊の野生の本能を呼び覚ますのだろう。それに比べると黒坊は普段の行動を見ていてそう感じているように随分と文明的でソフィスティケートされているようだ(か、あるいは体格が大きいだけに、保護者的な役回りを演じているのかも知れない。今見たら、白坊があきて置いておいたのを咥えて段ボールハウスに入ると、閉じこもってガサガサガサガサ何かやっている。

キャティーマン (CattyMan) じゃれ猫 トリオセット 3本入(-)

アマゾンで売っているやつは3本セットで生協のやつには入っていないネズミ型のも付いているから、今度はこっちを注文してみよう。


2013-11-05

_ 底辺の3タイプ

妻が図書館で薄い本(岩波の科学ライブラリーかと思った。そっちだ)を借りて来てテーブルの上に置いていたので、何気なく読んだらおっかない本だった。

見捨てられた高校生たち―知られざる「教育困難校」の現実(朝比奈 なを)

公立高校のうちいわゆる底辺校に属する学校の元?教師が書いた状況報告型ノンフィクションだ。

いろいろな問題がたくさん出てきて、どれもこれも全く、どう解決すれば良いのか落としどころさえ考え付かない内容がぎっしりと詰まっている。

たとえば、地元で知らないものは誰もいない生徒がいるとする。彼がクラスに入れば、そのクラスに暴力の嵐が吹き荒れること間違いなしとする。当然、入試ではねれば良いと、外部の人ならば発想する。おれもそう考える。

ところが、公立高校は基本100%生徒を入れないと(ということは定員の問題から、基本落とすということはあり得ないことになる)、校長の査定に響く。査定するのは教育委員会で、通常、そういう生徒がそう振る舞えるのはそれだけの背景があるからだ。しかも伝家の宝刀というものがある。もしもその生徒に問題があるのであれば、それを解決するのが教育者の使命、というお題目だ。

かくして、これまで校長が体を張って入学を阻止した事例は1件しか知らない。その校長は最後の任期だったから可能だったのだ。

そのほか、なるほどこれが貧困というものかというケースや、親が子供を溺愛しているのは良いけれど、どう見積もっても知能指数が80を割り込んでいて授業についていけるはずがない。しかし何を言っても通じないというケースのように、そういうこともあるだろうな想像がつくものから、それが現在の日本なのか? というようなケースまで、底辺の公立高校にはどういう生徒が来て、それに対して教師に可能なことや不可能でもやらざるを得ないことなどがこれでもかこれでもかとあげられる。

その中で特に興味をひいたのは、生徒を3パターンに分類しているパートだった。

1)小学校や中学校で何か問題があって(たとえばいじめられたというのもそうだろう)登校拒否やあるいは学習拒否になっていたが、高校で心機一転しようと入学して来た生徒。学力は当然低いが、学習意欲があるのでほとんど問題がない。(似たような境遇の友人を見つけ出せればさらにうまく行くとか書いてあったような、それは別の本だったかも)

2)絵に描いたようなツッパリ、ヤンキー、不良、という生徒。姿かたちが絵に描いたようなのと同様、行動やものの考え方や見方まで、絵に描いたようで、何があってもクラスでは授業を受けないのが正しいと考えている。うまく行くはずがない。そして問題を起こすことが一番多い。

3)すべてを捨てている生徒。無気力であり無活動である。

通常、親は何があっても学校へは来ない。そんな親であっても、入学式と卒業式にはほぼ来る。ただし卒業までいる生徒は少ない。したがって、入学式がいちばんわかりやすい。そこで見ていると3種類のパターンがある。

1)子供が底辺校とは言え、入学したことを喜んでいることがありありとわかる。入学式という場にふさわしい身なりであり、言葉使いも丁寧で、要するに普通の人(貧乏そうなことは多い)。

2)派手な親。若い。子供が入学したことを喜んでいる。自分は高校へ行けなかった/卒業できなかったけど~という発言が多い。

3)暗い。どんよりとしている。

見事なまでに、親子の組み合わせが1-1、2-2、3-3となっている。

1は学習しに来ているから良い。2は学校に来たいというだけで、学習をする気はなく、むしろ授業を妨害するのが正しいと信じ込んでいるようだ。(3は忘れたが、こわい)

読んでから考える。この著者の見方がステロタイプに毒されているのだろうか? いや、違うだろうと考える。

そのほか、就職について(高校の先生って、就職の世話をするために駆けずりまわったりするようで、これは大変だなぁとつくづくと思う)の章も、うーんと黙りこむしかないような内容。

おそらく既に3世代まで来ているのだとしたら、国家がこの層を切り捨てにかかっているのも、うなずけないこともない。が、その場合、気になるのはタイプ1までタイプ2や3に飲み込まれることになることだ。公立の小学校についてはある程度見ることができたから(したがって中学校も類推できる)理解できるのだが、タイプ1の生徒はどうやっても出現する。それを救済する機能だけは維持する必要はあるだろう。

そこで1つ考えたのは、この状況で教師を勤めるには、とんでもない使命感を持つ、維持するか、さもなければ流されるかしかあり得ないだろうな、ということだ。で、前者は、出世(つまり校長になること)を目指すか、それ以外かになり、それ以外コースを選択すると何らかの伝道師となることで使命感を維持することが可能となり、その中には国歌を拒否する(日本国肯定、天皇制否定から、暗に大王支配を称える君が代を否定するのは太平洋戦争敗戦後にはそれなりの支持がある考え方だ)という選択もあり得るのだろうな、つまりそういう教師を弾劾することは、むしろまともに教育に取り組んでいる人員をスポイルすることに他ならない(=国家がこの層を切り捨てる政策を取るに繋がる)ということで、そこで近年その動きが目立つのだろうということだ。

本日のツッコミ(全2件) [ツッコミを入れる]

_ naruse [タイプ2,3はもとより切り捨てられていて、今積極的に切り捨てようとしているのがタイプ1な気がするんですよね。 彼らは..]

_ arton [うーん(と今頃になって反応)そう思っている可能性はありそうだなぁ。そうなったら海外へ逃げるしか手段は残らないんだろう..]


2013-11-14

_ iOSでdispatch_after

以下のインターフェイスを持つオブジェクトを作った。

@interface foo
-(void) doSomething;
-(void) abort;
@end

doSomethingの中で、後でやる処理が必要となったのでdispach_afterを使った。そこから呼び出し元へ結果を通知する。abortは、その動作を取り消すためのメソッドだ。

最初はあまり考えていなかったので、次のようにした。

@implements Foo
BOOL _abortRequest;
-(void) doSomething
{
    _abortRequest = NO;
    ...
    dispatch_time_t t = dispatch_time(DISPATCH_TIME_NOW, NSEC_PER_SEC); // 1秒後に実行
    dispatch_after(t, dispatch_get_main_queue(), ^(void) {
        if (!_abortRequest) {
            ...
            NSNotification* n = [NSNotificcation notificationWithName:@"fooResult" object:nil];
            [[NSNotificationCenter defaultCenter] postNotification:n];
        }
    }
}
-(void)abort
{
    _abortRequest = YES;
}

ところが、呼び出して中断するテストコードを書くとうまく行かない。後続のテストに介入される。

NSUInteger _calledCount;
-(void)testA
{
    Foo* foo = [[Foo alloc]init];
    [foo doSomething];
    [foo abort];
}
-(void)testB
{
    _calledCount = 0;
    Foo* foo = [[Foo alloc]init];
    [foo doSomething];
    for {
        [[NSRunLoop currentRunLoop] runUnitlDate:.....// 時々状態を眺める
    };
    STAssertEqeuals(_calledCount, 1, @"bad called count:%d", _calledCount); // 2は1ではないになる。
}
-(void)notificationCallback:(NSNotification*)notification
{
    _calledCount++;
}

ということは、dispatch_afterのブロック内で参照しているselfが元のselfではないのだということに気づくまでに時間がかかったが(あるいは、インスタンス変数がコピーされているのかも知れない)、そういうことだろう。.NET Frameworkのデリゲートが参照するthisは呼び出し時のthisだと思うのだが、実際のところどうなんだっけ?

いずれにしても、selfが元のselfでないなら、元のselfを経由してインスタンス変数を参照するしかない。

@interface Foo()
@property BOOL abortRequest;
@end
@implements Foo
@synthesize abortRequest = _abortRequest;
-(void) doSomething
{
    _abortRequest = NO;
    ...
    dispatch_time_t t = dispatch_time(DISPATCH_TIME_NOW, NSEC_PER_SEC); // 1秒後に実行
    __block Foo* __weak wself = self; // ブロック内で参照するために呼び出し時のselfを取り出す。
    dispatch_after(t, dispatch_get_main_queue(), ^(void) {
        if (wself && !wself.abortRequest) { // デアロケートされるとwselfはnilになるから、こうする必要がありそうだ(追記)
            ...
            NSNotification* n = [NSNotificcation notificationWithName:@"fooResult" object:nil];
            [[NSNotificationCenter defaultCenter] postNotification:n];
        }
    }
}

で、解決。


2013-11-15

_ 銃・病原菌・鉄

Kindle版になっていたので買って通勤中に読んだ。上から下まで。

これはおもしろかった。

端的には、ニューギニア人の疑問、なぜ西欧人はニューギニア人にさまざまな技術(政治機構のような社会的なものから、衣服のような工業製品まで)を伝えることができ、ニューギニア人はそれができないのか? という疑問への回答だ。

ユーラシアは東西に長い。したがって、同じような緯度での人の移動となるため、農業技術や家畜などの伝搬にほとんど障害がない。そのため、メソポタミアで始まった農業はユーラシア一帯へ広がる。ほぼ同時期に中国で始まった農業も同様だ。コーカサスに生息していた馬は全ユーラシアで家畜として利用されるようになった。

農業は、定住を可能とするため、1人の女性が毎年子供を産むことが可能となる。狩猟生活では移動が必要となるため、1人の女性が出産後、子供が自立して移動できるようになるまで次の子供を産むことはできない。仮に5歳で移動が可能となるとすれば、1/5の増加に過ぎない。

農業では余剰生産物ができるため、直接労働に従事しない人間を養うことができる。ここには政治家、宗教家、技術者が含まれる。技術者によって道具の革新が常に図られる。政治家によって効率的な人間集団の操作が可能となる。宗教家は他集団に対する侵略、略奪などを正当化し、構成員に自集団への利他的な貢献の要求を正当化する。また、これによって記録が必要となり、文字が生まれ、書記(という専門職)が生まれ、さらに教育が可能となる。すべては農業によって生産物に余剰があるからだ。

アメリカ大陸とアフリカ大陸は南北に長い。そのため、たとえば温帯で作られた農産物を利用した農業は亜熱帯では作ることはできない。このため、農業技術は狭い範囲で断絶する。かくして農業は発展せず、余剰生産はできず、政治機構や技術は進まない。

ユーラシアとアフリカには大型動物が生き残った。人類発祥の地であるため、おそらく大型動物は人類との付き合い方(逃げる、殺す、など)を心得るための時間があり、大型動物が多種類残った。

それより後に人類が進出したアメリカとオーストラリアでは、大型動物はすべて人類に食べられてしまった(南極でペンギンがのこのこ人間を見に来るのと同じようなことなのだろう)。

大型家畜は農業技術に重要な貢献をする。牛や馬が鋤をひくことで、人間には耕作できない地も、耕作可能となる。さらに、家畜と暮らすことで、家畜由来の病原菌への耐性を持つことができた。

アフリカには大型動物がいるが、家畜化できない。家畜化できるということは、飼料が低コストで(大型肉食獣はこれによって除外される)、繁殖が容易で(求愛行動が数か月に及ぶような動物は除外される)、集団生活が可能で……というような条件があり、これに当てはまる動物は、牛、馬、羊、山羊、ラマくらいしかいない。

アメリカでもトウモロコシとラマを手に入れたインカ帝国は帝国を構成した。しかし、鉄は産出しなかった。馬のような機動力がある動物はいなかった。家畜の種類の少なさはヨーロッパ由来の病原菌への抵抗性のなさとなり、インカ帝国は初期には馬の機動力と鉄の武器、防具によってやられ、最終的には病原菌により抵抗力を奪われた。鉄は武器と防具を発展させた。これらの武器は多人数を殺戮しても殺傷能力が落ちにくい。また鉄の農耕具は、家畜とともに生産性の向上に寄与した。

農産物もそれほど多品種というわけではないが、ユーラシアは交易によって他の地区へ移動できた。しかし、南北に長いアフリカとアメリカでは移動できず、オーストラリアにいたってはそのような植物は自生していなかったた。

中国が途中で文明競争から脱落したのは、行き過ぎた中央集権による。明代の途中で政争と北方への対応にすべての資源が向けられたため、技術発展が阻害されたからだ。一方、ヨーロッパでは複数の国家が戦争状態に常にあり、他国に抜き掛けて技術革新が必要だった。

人類は人類で、人種による差はないと考えられる。差は、住んでいた地域に自生していた植物が農業化可能だったか、生息していた動物が大型各地化可能だったか、鉄が産出したかに、依存した。ユーラシアで10000年かけて農業生産以降の歴史があるのに対して、アメリカの農業生産の歴史はたかだか数1000年、オーストラリアにいたっては数100年に過ぎない。時間が短すぎたのだ。

銃・病原菌・鉄 上巻(ジャレド ダイアモンド)

銃・病原菌・鉄 下巻(ジャレド ダイアモンド)

いやー、おもしろかった。なるほど、実に説得力がある。しかも書き方がうまいため、謎解きのような楽しさもある。また、家畜についてはまったく知らなかったので実におもしろかった。チータを数千匹飼育していた話は気に入った。

農業が最初から遺伝子工学だったというのもなるほど、と思わず膝をうつおもしろさ。自生している植物からおいしそうな実を取ってきて食べる。しばらく食い物には困らないとそこで暮らして食べ残しを捨てたり、排泄する場所に捨てる。そもそもおいしそうな実を取って来ているので、そこで選別された植物の子孫がゴミ捨て場や排泄場に育ってくる。おや? というわけで農業が始まる。したがって、農業が始まるには、選別と突然変異が条件となる。突然変異した種が持続しなければならないため、最初の農業では、自家受粉が可能な植物の存在が肝となる。接ぎ木のような技術は数1000年以上たってから生まれた。

そこで、ふと、日本というのは、世界史の縮図のようだと考える。

狩猟民族の縄文人に対して農耕民族の弥生人が後から来て、取って替わったり、融合させてしまったりする。戦国時代には科学技術が発達し(銃砲の作成能力では世界のトップとなり、造船技術も先進的だった)、徳川中央集権政府になってから停滞した(サツマイモの導入といったこともある)。

徳川中央集権政府は悪いことばかりでもない。鉄と大型家畜がいるため、新田開発もできれば鋼鉄の武器で武装し騎馬に乗った軍団もある。病原菌に強く、軍事能力も高いため、南北アメリカで行われたような侵略ではなく、比較的平和的な外交相手とみなされた。

始皇帝の宰相をつとめた李斯は、荀子に学んでいる時、痩せこけて人におびえて生活している便所のネズミと、太りまくってたまに人が来るとゆうゆうと逃げていく米倉のネズミを見て、考えた。どちらも同じネズミなのに、なぜこうも違うのだろうか? そうだ、生きる場が違うからだ。そこで荀子に言う。先生、人生の要諦を見極めました。ここは便所です。私は米倉たる秦へ行って仕官します。

李斯は正しい。問題は、米倉のネズミ自身は、自分が余裕で生きているのは米倉に住んでいるからだけだという点に気付かずに、便所のネズミより優れているからだと考えてしまうことにあるのだろう。

追記:気付いたが、最新の出版物のはずなのに、日本についての章は含まれていない。ダイアモンド『銃、病原菌、鉄』2005年版追加章。日本と韓国の近縁性を強調しているだけに、右翼には非常に評判が悪いものとなっているようだが(アマゾン評で人気が高いのはそのてのやつだな)、確かに外見は似ているし、書いてあることにもそれほどおかしな点はない。原書に後から入れたのは、韓国と日本という世界経済に影響を与えている国についての知識が原書を母言語とする人たちの間には余りにも乏しいから、情報を埋めておこうと考えたのかな。


2013-11-17

_ ロシア構成主義-ケントリッジ-ショスタコーヴィチ

メトの鼻を観に新宿ピカデリー。

夏に予告編を観た時から、構成主義風な舞台(と激しくモダンな打楽器音)をすさまじく楽しみにしていたのだが、堪能した。

演出+舞台装置は、ウィリアム・ケントリッジという人。もしかしたら、何かの展覧会で見たことがあるかも知れないが、バイネームとしては初見だ。舞台装置、背景に映写されるキネマトグラフィ(とロシア語風に呼んでみたり)、衣裳などに統一感を与えているのもケントリッジらしい。

最初、幕に不安定な構成物が映る。回転するとそれはショスタコーヴィチの横顔となる。リシツキーでおなじみの斜めになった直線と直交する直線、グスタヴォーヴィチのポスターに見られるコラージュ手法が随所に散りばめられていて、1920年代のロシアを舞台に再現する。

2幕の開幕直前には不安定なドローイングが描かれ、移動し追加され、スターリンとなる。いや、まだショスタコーヴィチはモダニズムを楽しんでいるから(1928年)、それはうがち過ぎだが、しかしトロツキーはアルマアタへ追放され、左翼反対派は息のねを止められているのだ。34年のスターリン独裁までもう少しだ。この幕の最後で鼻は顔に戻るが。

すると、この演出での鼻とは、革命によって飛翔した未来派、構成主義派、つまりはモダニズムであり、自由の象徴としているのだろう。

物語そのものはカフカの虫になる話と同時代性を持つ(もちろんゴーゴリが鼻を書いたのは1830年代でカフカの1910年代の遥か昔のことだ。ここではショスタコーヴィチの鼻の時代性に視座がある)。

床屋へ八等官(五等官が部長に相当するのではないかなぁ)が髪を切らせている。床屋の手が臭い。翌朝、床屋がパンを食おうとすると、妙に固い。鼻だ。こっそり捨てに行くが捨てることはできずに警察に捕まる。鼻は逃げてしまう。

八等官は朝目覚めると鼻が逃げ出していることに気付く。警察署長に相談に行くが出かけた後だ。ワシリー大聖堂を通ると、鼻が五等官に変装して歩いているのを見つける。戻れと怒鳴りたいところだが、相手は五等官、こちらは八等官なのでいやでも丁寧にへりくだって語り掛けないわけにはいかない。ついには鼻は逃げてしまう。しょうがないので新聞社に探し鼻の広告を出しにいくが、相手にされない。しかし、顔を見せると、新聞社の広告担当者はみな驚く。しかしそれまでだ。

警察は怪しいものを捕える。鼻だ。警察署長は鼻を八等官へ引き渡しに行く。子供の養育費に苦労していると言って、賄賂をしこたま請求する。やっと戻った鼻だが、顔につかない。近所のおばさん(娘を八等官と結婚させたい)の仕業だと考えて、友人に手伝ってもらいながら手紙を書くが、丁寧な返事が返って来るので考えを変える。鼻が戻らないのであれば、そのような結婚もありだなと考える(本当は、出世のためにも五等官の夫人に取り入って、五等官の美人の娘と結婚したいと考えている)。

翌日になると鼻は戻っている。八等官は近所のおばさんにあいさつをするが、お前の娘とは遊んでやっても良いが結婚などするものかと影で悪態をつく。五等官の美人の娘が通りがかるので気をひこうとする。

まるでアラゴンあたりが書きそうな話だが、19世紀の小説なのだ。

鼻/外套/査察官 (光文社古典新訳文庫)(ゴーゴリ)

小学校か中学校のときに読んだが、あまりに奇妙であり、落ちもないので、途方に暮れた記憶がある。

ショスタコーヴィチは気が振れたかのように打楽器を連打し、叫ばせ、唸らせる。鋼鉄の音楽だ(プロコフィエフみたいだ)。

ケントリッジはさまざまな意匠をコラージュする。その素材の入手のために、ロシアの古本屋で百科事典を購入したとインタビューで語っていた。

第3インターナショナルのための会議場は1幕の比較的最初に出現する。衣裳の幾つかはマレービッチから採ったようだ。

これらのおかげで舞台美術が、とても気持ちが良い。ロシア構成主義には親しみがとてもあるからだ。

ロシア・アヴァンギャルド―未完の芸術革命 (パルコ・ピクチャーバックス)(水野 忠夫)

1982年、池袋西武劇場の芸術と革命展には何度か足を運び、手元には分厚いカタログが残っている。1980年代の初頭はロシア構成主義がブームになったからだ。20代の前半はロシア構成主義に囲まれていたことになる。

もちろん最初は、クラフトワークのマンマシンあたりでリシツキーの名前を知ったわけだが、1920年代ロシアの芸術は不思議なことに、奇妙なノスタルジアと誕生後100年が経過したのに相変わらず斬新で、工業後の最初にして最後の革命の熱狂の10年は本当に自由だったのだなと感じる。

人間解体(クラフトワーク)

(マンマシーンの邦題が『人間解体』だったのは当時としても驚きだったが、どういう発想だったんだろうなぁ?)

だがそれは悲しさでもある。その10年後には17世紀以前のような専制が襲ってくるからだ(が、ポスター美術にだけは意匠化されてしまって安っぽくなったとしても、生き残ることになる)。


2013-11-18

_ 137億年の読了

飯食いながらちまちま読んでいたロイドの137億年の物語も読了した。

137億年の物語 宇宙が始まってから今日までの全歴史(クリストファー ロイド)

途中から通勤用にダイアモンドの銃・病原菌・鉄を読み始めたので、なるほど、ダイアモンドから相当引っ張ってきているのだな、と納得したりした。

ダイアモンドのほうが学術書の一般書化なのに対して、ロイドの本は一般書の子供用化という趣なので、より明確な方向性の位置づけがある。まあ、教養のある英国人なので、当然、多様化を認めてどちらかといえばエコ寄り、暴力的であるよりは見守り的なバイアスが強い(ただし、バイアスは選択する語彙によって決まるので、翻訳者によって導入されたバイアスの可能性もある。文芸春秋なので微妙なところだ)。小中学生が読むのであれば、そのようなバイアスはむしろあったほうが健全なので、良いことだ。

特に、先史時代までに関しては、ずいぶんと子供の頃に習った歴史と変わってきているので(大陸が1つだったとか、ビッグバンとか、1960年代の子供は知らない)読んだ価値はあったし、同様に、4大河文明についてもずいぶんと異なることになっている。歴史時代であっても途中で小氷期があった(北条の鎌倉の頃)というのは知らなかった。

なかなか興味深い歴史のエピソードとして、北アメリカへ渡ったバイキングの話は初めて知った。

北アメリカへ着くと、当然、ネイティブアメリカンが住んでいて、でっかな船からヒゲの大男たちが出てくるので驚くが、まあ遠くから来たからと歓迎する。バイキングも相手が歓迎してくれば暴れたりはしないので、この連中とならうまくやれそうだと、とっておきの牛乳を振る舞う。(移住のための航海なのだから牛を連れてきていたのかな? 牛乳そのものを樽に入れて来たのだとしたら腐りそうだが、そういう様子ではない)

これはおいしいと、酋長をはじめとしたえらい人たちが喜んで飲む。

しかし、北アメリカには牛はいないから、当然、牛乳を飲んだことはない。乳糖不耐症なのは明らかだ。

案の定、翌朝、酋長たちは強烈な下痢に襲われる。あの野郎共は毒を盛りやがった。というわけで戦闘を開始する。

バイキングはほうほうのていで船に乗って北欧へ逃げ帰った。

もし、ここでバイキングとネイティブアメリカンの同盟が生まれていたら、イギリス人やフランス人に好き勝手に北アメリカが荒らされることはなかったかも知れないのに、残念なことだ。

本当かなぁ? でも、おもしろい。

さらに、イギリスの王朝はバイキングが元と知る。なるほど、それでシェイクスピアを読むと、負けた王族がやたらとスェーデンのほうへ逃げていくことがあるわけか。意外と近しい関係なのだな。

ムガール帝国の崩壊もこの本で知る。アレキサンダー大王もそうだが、あまりに偉大な王の後は、帝国が崩壊するのがパターンのようだ(偉大なため、政策が多岐にわたり、それぞれには矛盾があるのだが、1人でさばいていればうまくおさまるところを、複数の人間がそれぞれに次いでしまうと整合性が取れずに瓦解するということのようだ)。

ローマ帝国、イスラムの帝国群、ムガール、中国といった大統一帝国が、すべて停滞して中世のヨーロッパに圧倒されることになったのは、宗教的な思想の統一による競争の無さということに落ち着くようにみえる。そう考えてみると、八紘一宇が成功しなかったおかげで1960年代以降の日本の大躍進もあったと考えられる。もっとも国と国が争うのは不経済なので、企業と企業が争うように方針を変えたのがアダムスミスだとしたら、1920年代にもなって、のこのこ領土をでかくして旧知の資源を内製しようという発想がすでに時代遅れだったとも言える。

現代のほうではハイオクとフロンを発明した科学者の悲劇が印象的だ(同じ人なんだな)。ハイオクの実験で鉛中毒になり、より安全な部署へ移動してフロンを発明する。いずれも、発明時点では画期的なのだが、副作用が大きいため排斥されることになる。本人は病床で楽に動くための補助器具の誤動作で首が絞まって死ぬというおまけつき。しかしオゾン層破壊が判明してフロンを規制すると、赤外線を抑制していた効果が減少して(これも意図せぬ副作用)ちょっぴり地球の温度も上がったとか。

アマゾン評で、星1つの書評を書くのであれば、次の点を突けば良い。日本はモノマネの才能で躍進したという記述がある(1950年代以降)。それを白人優位視線として言葉じりをとらえれば良いのだ。

だが、躍進というのは、基本マネだ。メソポタミアの農耕の真似をした地中海諸国が躍進し、それを真似したヨーロッパ諸国が躍進し、エンリケ航海王子のマネをしたスペインの南米政策(鉱物資源を現地調達の奴隷に採掘、加工させて輸入する)をマネをしたイギリスが躍進する。歴史を見ればマネをすれば後出しでよりうまくやれる。今、サムソンの動きを見れば、イギリスがスペインのマネをするときには、スペインでガミを食った連中がイギリスに寝返って航海するのに相当力を貸したのだろうなぁとか想像がつく。技術に国境がないように、海の男たちにも国境はないからだ。というわけで歴史は繰り返しながら進んでいく。

いずれにして、おもしろかった。


2013-11-23

_ フリーダム・ライターズを読んだ

ogijunお勧めシリーズのフリーダム・ライターズを読んだ。興味を惹かれてから3年くらい経っているのか。

黒人、アジア人、メキシコ人などのラテン系、白人の人種対立が激しい地域(銃で撃たれた人間を見たことがないものがいず、兄弟親戚の誰かしらが殺された経験の持ち主がほとんど)の公立高校に赴任した大学卒業したての教師が、意外なほどの生徒の幼さに気付いて(ということなのだと思う。すさまじい不良少年だと思っていたら、クラスで回覧されている落書きの似顔絵で泣き出すというエピソードが最初に語られている)、読書体験と日記を書くことで尊厳の確立による自立を支援する、とまとめれば良いのかな。

内容は、教師と生徒たちの日記のより抜き集という体裁をとっている。

結果的に、この教室の生徒たちは先生ともに4年間を過ごし(教師が同一クラスを卒業まで担当することは例外的なことで、そのためにいろいろ古参教師と戦ったりしたことが語られている)、ほとんどの生徒が大学かコミュニティカレッジへ進み、その後は教育関係の仕事に従事しているものも多いそうなので、成功と言えそうだ。ただし、ロサンゼルス暴動の4年後から8年後までの内容なので、今でも有効なのかどうかはわからない。でも基金は今でも生きているので、衰退してしまったというわけではなさそうだ。

読んでいて最初に感じるのは、あまりにも生徒が素直なことに対する違和感だ。文句を垂れながらなんだかんだとアンネの日記とか読んで、日記をつけているからだ。

でも、そのうち、それがアメリカのそのあたりの感覚なのかなと考えられるようになる。人間の特性として社会性が必要だとしたら、それは他者からの受容要求と他者に対する受容の2面から構成される。

素直というのは幼稚の同義語だから、それまでの受容のありかたが民族抗争であったりファミリー意識であったりセックスであったりと、実に直接的で幼稚なものでしかないところに、そこにまったくの第三者の日記(1つの単位が短く表現が比較的直接的(悲しければ悲しいと表現するというようなことだ)で読みやすいということと、その後の活動についての結果を見ると社会的なコモンセンスとして読んでまったく損がない)を読み、それを自分の状況に引き付けて考え、それによって受けた思いを日記として表現し、それを教師とクラスメートが受容するという、民族やセックスのようなある集団の中でのメンバーという受容のされかたから、何かを考えて記述したところの主体である自分という受容のされかたに変わることに(またそれによって変わることを目のあたりにしたりすることで)まったくの新しい世界のありように気付いたり目覚めたりしやすいということなのだろうと推測する。教師がそこまで考えたかどうかはわからないが、正しい教材を選択したということだろう。それにしても、予算が乏しいために、夜はホテルでアルバイトをしている(が、そのコネクションをいろいろ利用したりする)というのが興味深い。

生徒を大学に進学させると決めてからのくだりで興味深かったのは、大学での詰め込み型学習の予行演習をさせるというような記述だ。

なんか、ここを読んで、なぜ日本のゆとり教育が失敗したのか(失敗したということで総括されていると考える)わかった気がする。

アメリカでは大学で詰め込むところを、日本では中高でも詰め込まず、大学でも詰め込まないという構成になってしまったからなのだろう(当然だが、どういう制度だろうと意識的に学習するやつはいるから、そういうのはどうでも良くてマスとしての話だ)。

ゆとり教育より前は、中高で詰め込んで大学ではモラトリアムというのが問題となっていたはずだ(中高で詰め込むと視野が狭くなり過ぎて、しかも本来の学問をすべき場所でその視野の狭さが学問の深化につながらなくなる)。それよりも、中高という若い時分には生活体験などで視野を広げるための伸びしろを作って大学で、というところまでは良いとして、その後に大学でがっちり詰め込むべきところを(そうやってバランスを取るべきところを)、大学の遊園地化は解消されないまま(むしろ、その傾向を広げる方向で)進めてしまったのが問題だったのだろう。文部省の権限の及ぶ範囲が中高までだったのが敗因ではなかろうか(私学については大学の運営には強く口をはさむことはできないはずだ)。

フリーダム・ライターズ(エリンとフリーダムライターズ)

日記を読むといえば、小学低学年のころ、母親の知り合いからもらったユンボギの日記のことを思い出した。

ユンボギの日記―あの空にも悲しみが(勲, 塚本)

李承晩時代の韓国の少年(中学生くらいだったような)がガムを売ったり靴を磨いたり、家出した妹を心配したり、父親は病気で母親はいなく、幼い兄弟が別にいるというような内容で、今でも覚えているのは、靴磨きだかガム売りだかの親方にノルマのことで叱られるというところがあって、ノルマとはなんだろうか? と疑問に思うとちゃんと訳注がついていて「このての言葉(ビジネス用語と悪口)は日本語から取られているものが多い」とあり、全然ノルマの説明ではなくて、親に聞いて理解したということと、靴を磨くのに唾をつけてツヤを出したら殴られたというようなくだりとか、戒厳令というのがあって夜になると外を歩いてはならないとか、なんか隣の国なのに(当時の)日本の20年前みたいだなぁと思ったことだった。祖父が戦後に復員してみたら仕事が消えていたのでしばらく虎の門で靴磨きをしていたという話を聞かされていたこともあって、なんとなく親近感もあったような。

アンネの日記も同じころ読んだが(子供用に選り抜きになっているやつだと思う)、イラストが印象的だった鉄条網越しの友人との再会の箇所がフリーダム・ライターズで語られていて驚いた。全然意識の中にも残っていなかったイラストを思い出したからだ。


2013-11-25


2013-11-26

_ 少年ノート一気読み

本屋へ行って、何かおもしろそうなマンガは転がっていないかなぁと眺めていたら、鎌谷悠希の少年ノートというのが6冊揃っているのが目についた。

鎌谷悠希は、隠の王がとにかく絵柄、構図、人のポーズが抜群にうまくてえらく好きだったので、食指が動く。というよりも、その本屋が限られたスペースで既刊本を全巻そろえているというのは、間違いなく売れているか(売れているのなら別におれが買う必要はないとも思うのであまりモティベーションとはならない)、さもなければ何か仕入担当のやつにひらめくものがあるからに違いない。で、仕入れ担当のやつは誰だから知らんけど、これまでの経験から相当信頼できる。

ならば買うしかあるまいと、まず1巻を手に取ると、なんか合唱部の話らしくて気がそがれた。しかも主人公の絵柄にひっかるものがある。悪くはないが、なんか見たことがあって、あまり良い印象を受けない。

で、とりあえず1巻だけ買って、子供に貸した。

翌日、子供が、早く続きを買えと言ってきたので(つまりは良いできだったのだろう)、なぜか聞いた。1巻はまだ登場人物紹介だが、それぞれの性格がきちんと分けられていてしかも魅力もあれば影もある。続きを読みたくなるから早く買え、というようなことを言われた。つまりはおもしろいということだな。

では読むか、と読み始めた。

やばい。

午後になって2~5を買ってきた。Edyの残高問題で6は買えなかったのだ。

翌日、6を買ってくることになった。

物語は地方都市の中学校の合唱部の物語で、天性の歌唱表現と美声を持つボーイソプラノを主人公として、音楽一家の中で微妙な立場にいる優秀な部長(秀才めがねくん)、謎めいた副部長(影がある美少女で、ちょっとイレイザーヘッドの家庭生活が漂う)、引っ込み思案の少女(かわいい系だが親戚が集まることで背景に説得力を持たせたり)、性同一障害らしき謎の短髪少女、挫折多いがまじめで信頼がおける合唱指導の教師(これも良くできている)、その同僚の(野心家でもある)音楽教師、船乗りのおおらかな親父(これが後ろに控えているので安心感と安定がある)、ミニコミ誌で活躍中の理解力抜群で子供を信頼している母親(悲劇性がないのは母親の存在が大きい)、悩めるロシアの天才ボーイソプラノ歌手とそのマネージャを勤めるよき家庭人にしてきわめてまっとうな切れ者のおじさん、スネ夫とジャイアンを普通の中学生にした二人組(単なるモブかと思うと、実は通奏低音として必要な存在だったり)、きわめつけはスナフキン(ハルメンの笛吹きの役回りもするが、最近読んだところではもやしもんのお兄さんの役回りも兼ねている、主人公たちを吹っ切れさせる役回りの半分大人半分子供の自由人)、といったどこかで見たことがある典型をいろいろ使いながらコンクールのような競争あり、失望や挫折や友情もあれば、それぞれの家庭の事情の葛藤もあり、迷走ありの、とても良くできた地方都市の青春物語となっている。本筋から外れたように見せてそれを中核にからませたりの作り方も抜群にうまい。

うますぎる。これだけうまくできた作品はそうそうはあり得ない。

少年ノート(1) (モーニングコミックス)(鎌谷悠希)

それにしても、最初に受けた印象は実はそれほど間違ってはいなかった。

髪型のせいもあるだろうけど、どうにもあすなひろしがちらつくのだった。特に青春群像劇という点では青い空を白い雲がかけていったをほうふつさせる。主人公はもろ主人公だが、副主人公の番長がなぜか父親になっていたりはするが、それにしても、隠の王のときは気づかなかったがあすなひろしの表現手法に似ているのだ。

それがいやな印象なのは、あすなひろしにまつわる伝説(ばくが原稿を依頼したときの悲惨な晩年のありようとか)を想起したからだろう。作家の悲劇性と作品の印象は同一視できないから、それを振り払えば、あるなひろしの表現性は抜群なのだから少しも悪いことではない。

この鎌谷悠希という作家は不思議な存在だ。長澤節としか言いようがない人物のポーズの美しさや表現技法のうまさ(ふわふわしている心境を示すための雲の使い方の自然さとか)と、あすなひろしみたいな構図や絵柄や60年代の楳図かずおかい? というような表情への陰影の付け方の異様な古臭さのちらつきとか、長篇2作目とは思えないストーリーのうまさとそれを支える人物の性格付けと背景の設定、絵の書き分けとか、これで長篇2作目とは信じがたい。一体なんなんだろう?

最初から信じがたい表現力で作品を生み出した作家というと思い出すのは森脇真珠美で、本人自身を描いたマンガに、地方都市で原稿を自転車のカゴに乗せてポストに投げに行くのがあったが、日本の地方都市には突然完成度が高い作品を生み出すマンガ家が産まれる余地があるみたいだ(そういうのって金子みすず以来の伝統なのかも)。

# ノートがダブルミーニングと気づいたのは3巻を読み始めたあたり。


2013-11-27

_ 東京の中の異国

東京駅に用事があって出かけた。いつもなら、そのままフォーラムのあたりから地上に出るか、八重洲口に出るかして、丸の内口そのもので地上に出ることはないのだが、その時は、なんとなく地上に出たのだった。

時刻は18:30頃。

そうしたら、そこは東京ではなかった。

東京ではないので、ここは東京ではないなぁと呟くと、xibbarさんから東京とはなんだ? というようなツッコミが入ったので考えてみる。

東京は東京なのだから、なぜ、東京駅丸の内口の地上18:30が東京ではないのかを考える。

すると、3つの特徴がわかった。

まず、暗い。そんなの311以降どこでもそうじゃんという声がするが、それは間違っている。東京駅丸の内口地上11月末18:30は圧倒的に暗い。

次に、人がいない。いや、信号待ちをしている人間もいればタクシーも並んでいるではないかと思うが、東京駅丸の内口地上11月末18:30は全然人影がない。それは車道の広さとそれと同等以上の歩道の広さとその上の車と人間の密度の問題だ。

そして美しい。東京は世界でも類を見ないほど美しい街だが、それはおもちゃ箱をひっくり返した上にペンキの棚をひっくり返して、さらにその上から煤をぶちまけたところにバースデーケーキを叩きつけたらアリがわらわらと群がって来たことで生まれる美しさだが、東京駅丸の内口地上11月末18:30は整然とした美しさだ。整然とした美しさに人間は不要だ。人間が存在しない11月末の18:30は暗くて当然だ。したがって、東京駅丸の内口地上11月末18:30は自然に美しく、自然な美しさは東京の美しさとは正反対のものだ。

なるほど、確かに、東京駅丸の内口地上11月末18:30は東京ではない。

他にこういう美しい非東京を観られるのは数か所しかない。代表的なのは竹橋の美術館の薄暗がり時から半蔵門までの間だ。片方の歩道からもう片方の歩道までの幅とその上にいる自動車と歩行者の密度が低く、そして薄暗い。

道路以上の共通点がある。圧倒的なレンガ(調)の建物の存在だ。

おれの眼が覚えている光景で巨大なレンガの建物があり、夕暮れ過ぎると暗く、そして人影がない広々とした道路、しかし建物内の人口密度が高い都市の光景は、モスクワ(ブレジネフ時代の末期)で、それはとてつもなく美しかった。

竹橋のモスクワは郊外の帝政ロシアの面影が残る非東京の風景だが、東京駅丸の内口のモスクワはブレジネフ時代のロシアそのものの非東京の風景だった。


2013-11-29

_ ネコのディックな世界

木曜日、黒に避妊手術を受けさせた。

子供の頃に受けさせた猫は腹巻みたいなのをつけて戻ってきたが、最近は違うようで、白いチョッキ(というよりも拘束具としか思えないが)を着て帰って来た。

白いチョッキの黒

麻酔でフラフラしているので白とは別の部屋でじっとさせておいた。

さて、翌日以降。

白が相棒がいないので箱の中だの物陰だのをのぞきこんではうろつきまわっているので、1日ぶりの姉妹対面させたら、様子が違う。

黒は薬がきいているのか、ぼーっとしているのだが、白が凶暴な顔つきになってシャーッと威嚇する。こいつ、こんな声を出せるのか。シャーッというのは明らかに作った擬音で、本当は、フハーなのだが、カタカナで書くと水木しげるのマンガに出てくる、もうどしようもない現実の前に押しつぶされた人々の悲哀の溜息と区別がつかないなぁ。

猫又の恋―水木しげる短編傑作集「幻想編」 (Sun wide comics)(水木 しげる)

これはやばいというわけで、しばらくまた別にしておく。

黒は何やら思うところがあるのか、自分の体の露出しているところをペロペロし始めた。し始めたどころかずっとしている。

さて、黒がふらつかなくなってきたところで、また対面させる。

白は、黒に近づき、尻やら耳やらの匂いを嗅ぐ。体臭のきつそうなところの匂いを嗅ぐということは、多分チョッキなどに染みついた病院の薬臭さから区別するためなのかなぁとか想像しながら眺めている。

と、黒と顔が合い、黒が白を(いつものように)舐めようとすると、いきなり一歩退き、大きな口を開けてシャーッ(本当はフハー)。

やばいと、白を引き離す。

黒は茫然の体。

妻によると、その後も、近づいては顔を見てはシャーッと威嚇するもので、黒はますますしおしおのぱーになっているらしい。

子供が調べて、どうもネコはあまり頭が良くないので、固体識別ができていないのではないかと言い出す。白いチョッキを模様と考えれば、明らかに別のネコだし、病院の匂い(そもそも腹に消毒液につけたガーゼが貼られているように見える)がするからだ。そういえば、話に聞く自分もそうだったというじゃないか(子供が2歳より前だと思うが、おれが床屋から帰ってきたら、恐怖で引きつった顔をして、避けまくったことがあったのだった)。

ありそうな気もするが、しかし風呂上りやたばこ吸った直後の人間(匂いが違う)、しかも毎日着替えるからその都度模様が変わっていることになるけど、それなりに識別してそうだから、にわかには承服しがたい。もっとも識別単位が30cm四方で、人間については顔、ネコについては顔から腹まで、とかで識別しているのなら、そういうこともありそうだ。というか、そうなのだろう。

どうやら白はSFの世界にさまよいこんだようだ。

地下室のキノコで自分の子供が別の子供にかわっていたり、でっかな枝豆のさやから出て来た同じ顔同じ姿の別のやつに隣人たちが入れ替わっていたり、アルファケンタウリから裏山に落ちたロケットの中から出て来たやつに細見のナイフで殺されて入れ替わられたりしているような気がするパラノイアだ。ススムちゃんは確か入れ替わったのではないからもっと怖い。

怪奇短編集 2 ススムちゃん大ショック (アイランドコミックスPRIMO)(永井 豪)

どうみても、匂いを嗅いでも、いつもの仲良し黒ちゃんだが、しかし、この黒ちゃんは黒ちゃんではない。

そうは言っても黒ちゃんらしい、としばらく仲良く一緒に寝ているのだが、ふと目覚めるとやはり黒ちゃんではない。シャーッ。ポコポコ(猫パンチの嵐)。黒は弱っているので反撃もできなければ弁明もできない。

1週間後には今度は白が避妊手術を受ける。当然、同じようにチョッキを着て異臭を漂わせて帰って来ることになる。

はたで見ていると白より遥かに賢い黒が、その時、どう白と接するか楽しみだ。


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