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東劇でめぐりあう時間たち。作曲はケヴィンプッツという人でおそらくこれが初めての人。
キャストが、ルネ・フレミング、ケリー・オハラ(メリー・ウィドウは良かった)、ディドナートと豪華布陣だが、元々ルネ・フレミングの発案で作品の制作そのものが決まったみたいだからピーターゲブルとしても力を入れまくったのだろう。
妻に何を観に行くのかと聞かれてめぐりあう時間たちと答えたら私も観たとか言い出すのでどういう意味かと思ったら映画化もされていたらしい。
物語は花は私自身で買うというコーラス、街の雑踏、1999年ニューヨークで幕を開ける。天使なのか死神なのか、物語に芯を通す役らしきラクダ色のコートを着た黒人歌手(ファルセットなのかソプラノなのかわからん)が良い。
中央にルネ・フレミングが登場。サリーというパートナーと一緒にパーティーの準備をしているのだがどうも話し合いがギクシャクしている。編集者でかっての恋人(どうも病気で長くないらしい)の作品の授賞式の前に内輪のパーティーを開こうとしている。音楽は普通の穏やかな無調で最近のオペラはだいたいこんな感じだな。外に出るとダロウェイ夫人と呼ばれるがその呼ばれ方は好きではない。彼とは夏の終わりに別れを私から切り出した。田舎者のルイスを愛しているのが明らかだった。花屋と熱烈なキスをする。
低音の繰り返しが印象的。
上手にディドナート登場。ダロウェイ夫人の冒頭が決まらない。朝食を巡って夫とのやり取り、女中はひどい扱われよう。森へ散歩へ行く。音楽は普通に流れる。
音楽がスチャラカすると50年代アメリカっぽいパステルカラーの室内が下手に登場。ケリー・オハラは今読んでいるダロウェイ夫人をあと1ページ読みたくても子供が邪魔をし夫の見送りをしなければならない。あの人は浮気をしているのかしら。ケーキを作るが子供は自分の思い通りには行動しない。友人が入院中に犬(かなぁ)の世話を頼みにくる。キスをする(花屋とニューヨークのとは雰囲気が異なるが、考えてみるとキスはこの2回が印象的で、どちらも女性と女性)。荷物をまとめて子供を預けて出ていく。舞台の色合いとは異なり、音楽をあえて薄っぺらにしているように感じる。
交互に物語と音楽を溶け合わせながら進む。ルネ・フレミングがパーティーの主役のリチャードのアパートを訪ねる。顔に斑点のメークをしているのでエイズなのだろうなと思わせる。君と過ごした一夏を思い出す。
2幕の冒頭でルネ・フレミングとディドナートの2重唱。
ルイス登場。リチャードのアパートを見上げている。そうか、ルイスの苗字はウォーターズで、ヴァージニア・ウルフの最期の川や一夏の海、花には水などいろいろ象徴する役回りなんだなと今気づいたが端役ではなく君を憎んでいるとルネフレミングに向かって歌いまくる。リチャードは僕の体を愛したけど、それ以外のすべてで君を愛していたんだ。彼の小説は読んだ? 読んだ。500ページの中のすべてが君のことだ。僕のことは3ページ、でも最後にちょっと言及される母親に比べればましだけど。
物語の構造が見えてくるので、やはりルイスは重要な役回りなのだな。
リチャード、窓に腰掛けている。ルネフレミングとのスリリングな会話。さすがに90年代末なら抑制剤もできている(レントよりも後の時代だ)と思うが、それ以外にも薬(これで感染したのだろう)やらなにやらいろいろやりまくっていたので今更どうにもならないのかも知れない。
詩人を殺し、夫人は生きることにヴァージニア・ウルフは決める。
主役不在のパーティにリチャードの母親がやってくる。まるでばらの騎士のような三重唱。
幕間の舞台美術の意図説明がおもしろい。ヴァージニア・ウルフの家はナチュラルカラーで合唱団は書物。ケリーオハラの家は50年代ポップで合唱団は台所用具。ニューヨークの合唱団は花。
特に言及はなかったが、ヴァージニア・ウルフの舞台はほぼ地に着いている。ニューヨークは上下する。ケリーオハラはたいてい宙に浮いている。特に逃げ込んだホテルの部屋は高い位置にある。ページボーイが、ニューヨークの謎のラクダ色のコートやヴァージニア・ウルフの女中のように振る舞う。
ケリーオハラが家を出た後、魯迅が考えるノラのように過ごしたのかどうかはわからない。第2子は本当に存在したのだろうか?
これは良いオペラだった。
池袋へ道化師と田舎騎士道(と珍しく日本語題を利用している)を観に行く。
これはものすごくよかった。
アントネッロ・パロンビのカニオとトゥリッドゥさんが猛烈に良かった(というか歌手はみんな良かった)のだが、演出の妙と劇場の使い方が実に見事で舌を巻く。
まず会場がコンサートホールなのでオーケストラピットがない。
ピットがないから、客席前列を取り外してそこをオーケストラの位置としている。ただ舞台のほうが高いし、舞台真上の反響板が歌手のほうにあるので音のバランスが取れているのだと思う。歌手の声がオーケストラに飲み込まれるようなことはなかった(とはいえ、指揮者も楽団も相当音作りには苦労したのではなかろうか)。
で、舞台真上の反響板がオペラハウスと違って随分下にあるので、そこに字幕を映すのだがこれがめっぽう読みやすい。舞台の両脇や異様に高いところにあるのと違って、舞台と同時に十分に目に入る。
半分コンサート形式のようなオペラなのだが、そうはいっても舞台装置(なんかコンクリの廃墟っぽい)があって、そこを大量の黙劇の人たちが芝居を大阪に移し替えてなぞる(馬車屋はトラック運転手とか、道化師一座が大衆演劇の一座とか、シルヴィオが会社員か公務員)うえに、舞台装置の壁に大阪弁訳が表示される、などなど見せるための工夫が実に生きている。
一か所ちぐはぐなのは、途中で道化師-カヴァレリア・ルスティカーナ(というか、なぜ大体においてこの順だと思うが、なぜなのだろうか?)の順でかける予定をカヴァレリア・ルスティカーナ-道化師の順にしたということで、道化師の最初に大阪弁字幕の説明が来ることだった。
順番を変えた理由は一目瞭然で、最後の喜劇は終わったでカニオが去るシーンはどう考えても全体の最期にふさわしい。(あと、歌手の力配分でこれを前半に持ってくるのは大変過ぎだろうとも思った)。
とにかく観ていて実に楽しい。
おそらくそれは情報量の爆発にあるのだと考える。
完全に視界に入る英語の字幕、日本語の字幕、大阪弁の字幕、黙劇、歌手(かれらも芝居をするし黙劇者と交代したりもする)の演技、ピットがないので指揮者の指揮っぷり(序曲終わってすぐの唯一の民謡っぽいところは指揮をしない)、演奏者の演奏っぷり、すべてがマスカーニのばかばかしいほど美しい(虫歯になりそうだ)音楽と同時に流れ込んでくる。これはおもしろい。こんなにおもしろいとは。
こういう体験はしたことがない。とはいえ、演奏や演出がだめならどれだけ情報量が多かろうがうんざりするに違いないので、見事な歌手陣、黙劇陣、舞台装置、演出、指揮、演奏、曲があってのことだろう。
びっくりするほど得難い体験をした。
トゥリッドゥさんが殺されたは母親。バイネームの歌手にいちいち日本語名(ルチアが光江のように意味の場合もあれば、トニオを富男のように音の場合もある)を付けているから、農婦とかの名無しを出したくなかったのかなとか思った。
東京国際フォーラムでドリームガールズ。それにしてもいつも思うが最低最悪のホールだな(音とか席とかはまあ良いのだが、階段、エスカレータ、トイレあらゆるファシリティが最悪)。
ドリームガールズはなんといってもクリーブランドでのドリームズとしての最初のステージのシーン(暗闇から光に照らされて3人組が登場してチャチャチャチャッチャと始まるところ)が最高で、もちろんこの舞台でも素晴らしい。日本語訳がうまく決まっている(とはいえ思い出せないわけだが)のも好感度が高い。
ホワイトウォッシュ版のキャデラックが高いところを横から出てきて天使的に歌われるのは最高におもしろい。実に器用な作曲家だ。
ソウルをポップスにする作業って、演歌や歌謡曲をJ-POPにする作業に似ているのだろうな、とか、結局音楽にとってこぶしとか唸り声みたいなものはマスにとっては夾雑物だとしたら、昨今のどこまで本当かわからないが、ギターリフの部分は早回しだかスキップというのと同じことなのだろうなぁとか、だとすると協奏曲のカデンツァも夾雑物なのだろうかとかいろいろ考える。属人性の排除か。すべてがコンビニエンスみたいな。
ミュージカルとしては歌手、演奏、舞台装置、いずれもとても満足した(楽曲の2/3はそれほど好みではないのだが)。カーテンコールの最期に指揮者が呼ばれたのが妙に印象的。
新国立劇場の合唱は素晴らしいと痛感。巡礼の歌であろうが歌の殿堂であろうがとにかく合唱の良さは圧倒的。
歌手もエリザベートのサビーナ・ツヴィラクにしても急な代役っぽいヴォルフラムのデイヴィッド・スタウトにしても実に良いし、指揮者の南米の人も僕には良い感じだった。
プログラムを一応読んだが、夕星はつまりは宵の明星=金星のことだから、実際はヴォルフラムも深層意識下ではヴェヌスブルクに(行動を伴わないだけで)捕らわれているという解釈は目からウロコだった。
と考えると歌の殿堂に集まった騎士たちは中世だけに13〜15歳と考えるのが妥当だから、ターンホイザーの煽りは、まさに中学生のひと足お先君による「童貞乙」煽りなわけだから、そりゃ全員抜刀するよな(まさに図星だろうし)。
普通におもしろかった。
不思議なのはなぜオテロの後、おそらく自覚はあるだろうにベルディが最後の作品としてファルスタッフを選択したかだ。
喜劇を書きたかったというよりも、群集(というほどでもない)劇を作りたかったのかな。もちろん、ファルスタッフが自分を奮起させるところはオテロのクレドを思わせるしソロはソロとしてうまくできているのだが、少なくとも劇場の帰りに女心の唄を口ずさむ客を見てリコルディと手に手を取り合って大喜びした売れる歌を作るヴェルディというのはどこにも見えない。
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