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大井町で劇団四季のライオンキング。
開演直後10分間は入場禁止とか書いてあるので何事かと思ったら(もっとも、新国立劇場では開演したら一切入場禁止だから甘いといえば大甘ではある)、観客席の通路を花道として動物たちが集合してくるからだったのだが、脇を巨大な犀(逆側は象)が通り過ぎたのには驚いた。とにかく動物の衣装が素晴らしい。特に出ずっぱりの豹の後ろ脚の造りのうまさには感嘆する。
音楽も物語もほぼ映画のままだが、ヌーの大群のシーンの再現方法のうまさには感心した。ハイエナの首の再現もうまい。
シンバとナラの再会のシーンがどうもバランスとして短く思ったら、後で数年前にも観ている子供が、ファミリー用に表現を抑えて短縮したみたいだと言っていた。映画版を含めて、妙にエロティックなので人間が演じるとそれが強調されるので自主規制したようだ。なんだかなぁとは思うが、舞台として瑕疵というわけではない。逆にミーアキャットがヌーの大群のシーンの再現をしてシンバがびびるというのが映画にはない情景として付け加えられているが、ちょっと蛇足のようには思った。
というわけで子供がたくさん観に来ているのだが、観劇方法を躾けられているのかお行儀が良くて結構なことだが、目の前に陣取った二人組は遅れてのこのこ堂々とウォーキングトールで入って来るし、スマホをいじくりまわすし(本当にそういうやつが藁人形ではなく実在することにある意味感心した。ここまで人間は堕落できるものなのだ)、首を振りまわすしで、ひどいものだった。開演直後10分は逆にいなかったせいで良く舞台が見えて結構なことではあったけど。
大井町は遠いがなかなか楽しめた。
・阪急と東急でなにか百貨店進出のバーターでもあるのかな? と思わされる阪急百貨店の存在。
パパタナシュが最初、特にセンプレリベラの出だしが気になったのだが、今ひとつ指揮者と息が合わないのか妙に小さく産んで大きく育てるみたいな歌いっぷりで、なんだかなぁみたいなところはあったのだが、2幕になると一転、すばらしい。アルフレードのチェネスという人も、乾杯の歌とかはまあこんなものかなと思って観ていると、2幕が始まって嬉しい嬉しいから、ズンタタタッタ経由のこの恥辱晴らさでおくべきかでは、おお、良い歌手じゃんとほれぼれする。というか、ジェルモンの須藤という人も良いジェルモンの代表みたいでおれは好きだ。パパタナシュも本当に良い。最後のたかだか2フレーズの絶唱も抜群。
というわけで2幕(1幕2場かな?)になって、とても気に入る。
休憩挟んで2幕2場になると、特にヴィオレッタの悲痛な心の叫びの部分が極度にテンポを落とすのだが、指揮と合わせて実に良い。
というまま3幕に入って。手紙の朗読の声含めて抜群のまま終わった。とても良かった。
それにしても、イルトロヴァトーレみたいな曲だなとあらためて感じたのは、特にアルフレードのこの恥辱晴らさでおくべきかがまるでマンリーコの復讐の炎は地獄のように燃え盛りみたいだし、フローラの館(かな)の演目のジプシーの花占いから闘牛士のジプシー風スペインがこれまたイルトロヴァトーレみたいだからだ。スケッチで書き散らかした曲の再利用ってことはないのかなぁ。
今年度は新制作が多い分、海外からの歌手を2人に抑えて旧作の客が呼べる演目という選択なのだろうが、まったく良いものを観られた。大野監督ってビジネスセンスがあるようだ。
妻がアマゾンのスターチャネルのお試しに入って、ボウイ最初の5年間があるから観たらどうだと言い出したのだが、時間が取れずに土曜日になった。
さて観るかと思ったら、困ったことに契約終了とかで配信停止になっていた。
しょうがないので適当に配信中の映画を眺めて、クーリャン街とかあるけど別に普通にDVDで観られるしと、やっているうちにダウンタウン物語につかまった。
確か高校生の頃に名画座かテレビか忘れたけど、えらくおもしろかった記憶がある。
というわけで観始めたら、クレジットにポール・ウィリアムズと出て来て、あれ、この映画もポール・ウィリアムズが楽曲を提供していたのかとちょっと驚いた。制作年を見ると1976年なので、ファントム・オブ・ザ・パラダイスと同時期で、この頃油が乗り切っていたのだなとか考える。
夜の街角で雨樋がアップになり、名前忘れたも水の流れに注意していれば死ぬことはなかったのに、というようなナレーションが入り、ギャングスタ―の衣装を着た男が転がり込むように路地に入り込む。ゴミ箱か何かに躓き大きな音が立つと、2階の窓があき、おばさんが「やかましい」と喚きぴしゃりと窓を閉める。通りの向こうから5~6人のギャングスタ―が横並びにやってきて、マシンガンを構える。と、白いものが飛び交って男の顔にぶつかってストップモーション、はい、死亡。ギャングスタ―達が去って行き、ピョンとジャンプして体が斜めになったところでストップモーション、映画だ。と、モテモテ男バグジー・マローンの歌が始まる。良い歌だ。
それで思い出した。キャストが全員子供のギャング映画のミュージカルだった。子供なので血は出ない。代わりにパイ投げで勝負が決まる。自動車はすべてペダルをこぐのがエンジンになっている。ことその2つを除けば、セットも衣装も完璧に30年代ギャング映画になっている。
禁酒法時代のニューヨーク東が舞台。ファットサムが酒場を経営しているが、ダンディダンが縄張りに進出してきて今や風前の灯。
ダンディダンは新型の武器であるマシンガン(石膏ガンと字幕が出るが、クリームでなければおかしい)を使って、サムの子分を次々と殺していく。
そういう殺伐とした物語を背景に、風来坊のボクシングマネージャのバグジーマローンが芽が出ない歌手/女優のブラウジーに恋をして、ハリウッド行きの2人分の切符を買うためにサムの手伝いをすることになる。強盗に襲われたときに助けに入ったルロイ(バグジーが口説いてボクシングへ転向させる)や失業者を使って最後の決戦のお膳立てをして、去って行くという物語である。
バグジーというよりもブラウジーに意地悪をするためにサムの愛人で酒場のスター歌手のタルーラ(ジョディフォスターが演じていて、やたらときれいなのでちょっと気持ち悪い)にちょっかいをかけられたり、いつまでたっても舞台に上がらせてもらえない下働きの黒人少年(タップの名手らしいのだが、靴は見せても踊りは見せず(映画文法から言ったら絶対にタップを踏ませるべきだが、おそらく踏めないのでやらせなかったのだろう)、最後はショッキングな死に方をする)、気が弱いがやたらとパンチが強いルロイなど、出てくる人間はそれぞれ魅力がある。最後の一人なので自分のことだとわかっていやいやながら敵陣に潜入するベイビーフェイスというのが良い演技をしているが、ジョディフォスター以外だとベイビーフェイスは現役の役者になったようだ。
それにしても、なんでこんな映画を作ったんだ? と不思議になる。
作家のアラン・パーカーはこのあと、おれが観たのだとミッドナイトエクスプレスにしろウォールにしろエンジェルハートにしろ、やたらとスタイリッシュという共通点がある以外は無茶苦茶に傾向が異なる(子供ミュージカル、ドキュメンタリー調政治映画、ロックスターミュージカル、ホラー)映画を撮りまくっていたのを考えると、ハリウッドを本場とすれば映画辺境の地のイギリスで目立つためには何か外す必要があったのかも知れない。
肝腎のダウンタウン物語という映画はテンポも音楽も役者も映像も実におもしろいし、映像を再建したのか45年も前の映画とは思えない美しさだし、満足しまくった。
・バグジーといえば、フラミンゴホテルのバグジーを思い出すのだが、同じ人物なのかな?
いや、あっちはバグジーシーゲルだった。
で、ポール・ウィリアムズ、1970年代中期、カルト(的な映画)というところで、超久々(30年ぶりくらいか?)にファントム・オブ・ザ・パラダイスも観るかと、レーザーディスクを取り出して、余りのでかさと重さに驚きながら観始めると、バンバンスクラッチされて同じセリフが何度も繰り替えされる(それがちょうど、永遠とか、終わることはない、といった歌詞や台詞の場所なのがおもしろくないこともない)。メディアは本当に腐るなぁとうんざりする。それでも早回し(ではない)スキップすることでどうにか最後まで観ることはできた。
アラン・パーカーが45年たっても新鮮なのに、ブライランデパルマはだめだ。古臭くなり過ぎている。スクリーン分割や、きらきらした文字、ビデオによる2重写しとか、そういった映像で凝った部分が全滅だ。唯一、スワンが隠し扉に入って、その扉が閉まると鏡面にファントムが映るところは良いシーンだと思った。
まだファントムになっていないウィンスローがパラダイス劇場に忍び込み衣裳部屋に入るまでの階段のシーン(次々と人が出てくるが、視線をカメラ(カメラはウィンスローの視点となっている)に向けることなく立ち去る)は抜群にうまいのだが、あまりにさりげないのでちょっともったいない。
あと、やはりシンセサイザーに囲まれた作曲部屋はアナログっぽさがむしろ最高にかっこいい。
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でも、それそれとしてカンタータ・ファウストの音楽をカントリーにしたりサーフィンにしたり、ソウルにしたり、アンディウイリアムズの才能は抜群だ。
・レーザーディスクですらまともに保存できないんだから、いずれにしても、ビデオテープの契約ではそれほどスワンの生命は永遠ではないだろうな、とか思った。
子供とバルト9でアナと雪の女王2。子供は先に吹き替え版を観てからの合流で、いきなりオラフの歌が気に入る(聞き違いだったと後でわかるのだが)と思うとか言われたが良くわからないままにシアター3に入る。
で、オラフが大人になったらいろいろわかるっかなーとか歌うのは実に好きだが、はてそれほどか? と思いながら見ていたら、置き去りにされたクリストフが延々とえらく長い森の中で道に迷う歌を歌い出すのだが、これが実に秀逸。枝にぶら下がった松ぼっくりみたいなものをマイクに見立てたり、映像効果で(時期的にボヘミアンラプソディーのオペラパートを絶対に意識していそうな)コーラスが歌手の回りを囲む映像だの、クリストフとスヴェンの位置を入れ替える映像だの、途方に暮れていると木の陰からクリストフの影分身が2本しめじで出て来て3人で合流したり、安っぽい80年代初期のミュージックビデオスタイルになっている。これは楽しいな。
で、文明の力を見せつけてから騙し討ちとか、ネイティブアメリカンとアメリカ人か? (そういえば精霊うんちゃらとか実にネイティブアメリカンっぽい)と思わせて、最後、どちらかというと色黒側のアナ(いや、全然ネイティブアメリカンじゃないけど、そもそも母親も王国側から見て普通だし、あまり色でどうたら区別する気は一切ないのだろうけど)がアメリカ側、見るからに白人のエルザがネイティブアメリカン側に分かれて、予定調和の人種混交のハッピーエンドかいなと少しばかり鼻白む。
でも、音楽は抜群だし、エルザが手を上げて水を凍らせるのはかっこよいし、うまくできているは実にうまくできている。イディーナメンゼルってレントでも絶唱がうまいなと思ったが、相変わらず見事な声を聴かせてくれるし、楽しめた。海のシーンは良いな。立ち塞がる波の海を越えるディズニー映画といえばリープチープを少しだけ思い出したが、全然関係ない。
で、終わって子供と合流(予約が遅かったのでばらばらの席だった)したら、クリストフの歌のシーン好きだったでしょと言い出すので、なるほど確かにその通りだと思ったが、はてなぜだろう? そのタイプのビデオが家にあるからなのかな。
エンドロールの最後が迷う歌だという点が相当おもしろいのだが、それ以上に実写処理のアニメによるパロディを精密に実写で再現するのが最高に好き。
そういやイディーナメンゼルって出世作も魔女だったな。
2年使っていたHTC U11の分割払込が半分終わったのでアップグレードプログラムを適用して機種変更した。画面が割れまくっているので追加費用をそれなりに取られるけどしょうがない。
で、auから乗り換えるつもりはないのでauのオンラインショップで現行機種を眺めたわけだが、まったく欲しいものがない。HTCはauから撤退したみたいだな。
考えてみると、すでにポケモンGOすらしてないのでゲーム性能は考慮不要、まともにWebが見られて、SlackとTwitterがまともに動いて、Felicaが搭載(これが1番重要)されていれば良いということで、自然とサムソンのA20かA30のいずれかとなり、さすがにA20のRAM2Gは狭過ぎだろうとA30を選んで、auショップに行くの面倒なのでそのまま注文した。
で、届いたので延々と移行作業をしたりして使い始めたが、安いレンジのマシンとはこういうことですか、が幾つか。
まずLEDがないので充電してるのだか、通知があったのだか、何もわからん。でもまあ、これは無くても問題ない。
スピーカーがモノラルで1個しかないのは驚いたが、これはそれまでの歴代HTCがスピーカー2個搭載してそれなりのステレオ再生できるのは、それが売りだったわけだから1個で当然かもしれない。基本、外ではスピーカーは使わないし、家では普通にスピーカーがあるのでやはり問題ない。ちょっとスマホいじりながらyoutubeで適当に聴くにはHTCは良かったな、とは思ったが価格相応の価値とまではいかないだろう。
カメラは撮れれば良いのでどうでもよい。
と、普通に買って半額以下になったわけで、今までおれは数万円過剰投資してたのかと思わないでもなかったが、昨日1日車に乗っててオーディオ接続のBluetoothが切れまくるは見失うはで、これが個体の問題の可能性はあるが(しかしPebbleとは安定して接続されているので、そうではなさそう)閉口しまくった。しかも車側は動き出すと一切操作できない超安全仕様で再接続要求も出せないから、高速に入ったら完全にお手上げでノーライフキング状態になる。
これは盲点だった。Bluetooth接続の相性問題(ということかなぁ、Pebbleとは問題ないわけだから)に引っかかるとは考えてもいなかった。
どうしよう(iPodを車用音源として復活させるしかないのか?)
で、PebbleはすでにGoogle Playから消えていてしょうがないのでPebble Alternateというのを入れたら、最初にPebble.appをダウンロードしろとあって、ちょっとひいたが面倒なのでダウンロードしてインストール(非承認アプリケーションのインストールになる)したら、とりあえず通知は受けられるようになったのでOK。
妻のプライムビデオを使って一緒にわたしは、ダニエル・ブレイクを観る。
ケン・ローチの作品だけに淡々とだが映像で明確に説明しながら、心臓病のため医者に就業を禁じられているにも関わらず、生活保障を受けられず(この部分が冒頭、電話での会話か、それとも面談かわからないが、音声によるやり取りだけで、すでにカフカ的というかずばり城のような不可解な迷宮に英国が変貌しているさまが浮き彫りになる。というか、政府事業をアメリカの会社が委託されて適当な仕事をするって、日本のすぐ未来っぽい。既に水道利権を売り渡したわけだし)申請のための手続きをするための手続きをするための手続きをする資格を得るための申請をするための手続きをするための講習を受けるための手続きをするための申請をするための申請書を記述するための講習を受けるための手続きをするための(が延々と連鎖する)静かな戦いが始まる。
が、勝ち目のない戦いなので最終的には心臓発作で死んでしまう。
隣に住むチャイナと呼ばれる黒人が、中国の工場からの横流しでそれなりに余裕ができたり(服が良くなる)、ロンドンからニューカッスルに追い出されたシングルマザー家族との交流(いかにも年取った男性的価値観で殴り込みにいくところはなんとなくおれは引いてしまったけど)や、人間的にまともだが役人としてはだめな女性職員やらとのからみやら(唐突にイアンカーティスが同じような職業だったことを想起したり)が続く。
内容はとてつもなく深刻なのだが、そこは映画らしいユーモアの連続(特にパソコンを使って申請書を作成するためのくだりは抜群。エラー時のビープ音が素晴らしい)で実にうまい。
結論がない、ある生活の切り取り映画(というのがいつものケンローチの作風)なのだが、実にうまい。映画らしい映画でおもしろかった(が、内容はまったくおもしろくなく、不愉快極まりない)。
バルト9でスカイウォーカーの夜明けを観る。
3部作が全体で3部作を構成するという試みの最終話になるのだが、3というのはおもしろい。
普通に考えて、3で構成している以上は、ヘーゲルの正-反-合で解釈すべきものだ。
確かに最初の4~6を反と置けば、こちらがジェダイ側の勝利で終わるのだから、1~3の正はシスの勝利で終わったのは当然だ。
それぞれの内側もまた正-反-合なのだから、4でジェダイが頑張り5でシスが逆襲し6でシスがジェダイに回帰するように、1~3や7~9が構成されるのも必然だろう。
とすれば全体の合でありかつ7~9においても合となる今回は、映画文脈上、正義側の勝利で終わると決まっている以上、本来シスであるべきものがジェダイへ止揚される話になるのも必然なのだろう。
それはそれとして、最後の最後、巨大な旗艦に対して有象無象がごちゃごちゃやって来たのが映るやいなやパーパーパパパパーパーと流れるのは、巨大なマイクロソフトに対して有象無象のOSS開発者が束になって戦いを挑むという1997年を思い出させて実に不思議な感覚に襲われた(まあ、無駄に高揚感も持つわけだけど)。
今や、巨大な旗艦というものは存在せず、ビッグ5(AFGMA)はクラウドという有象無象サーバーの組み合わせになっているのだから、こういうったわかりやすい構図は取れない。
それにしても、カイロ・レイの役者は不思議な顔つき(美男じゃないよな、とはいえ不細工でもない)で立ち居振る舞いが良い。一緒に観た子供が、ちょっとスネイプ先生顔だといったが、なるほど役柄はおいておいても顔つきはスネイプ先生みたいだ(中心が堆いというか)。
新訳 ドイツ・イデオロギー (マルクス主義原典ライブラリー)(マルクス)
ドイツ・イデオロギーってこんなことになっているのか(内容紹介がすさまじい)。読み直すべきかなぁ。
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