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妻が早稲田松竹でファスビンダー回顧展をやっているのを見つけた。
が、残念なことにペトラフォンカントの苦い涙とマリアブラウンの結婚は日程的に間に合わない。しょうがないので、不安は魂を食いつくすと天使の影の2本立てを観に行くことにした。
早稲田という土地には縁がないわけではないが、早稲田松竹に足を踏み入れたことはこれまでない。早稲田で映画というとACTミニシアターで尼僧ヨアンナを観た記憶はあるが。
ファスビンダーはほとんど(というのはタバコを吸うように映画を撮ると評された作家の作品数から言うと無理がありそうではある)観ているはずだが(妻と友達と3人でドイツ文化センターに通い詰めた)、「不安は魂を食い尽くす」という題には記憶がない。
が、スティールを観ていると老嬢とアラブ人の組み合わせで、待てよこれは不安と魂ではないだろうか? とにかく、全員がこちらを注視するカットと、遠くに二人が並んでいるカット、孤立と連帯を凄まじい構図で切り取った作品という覚えがある。
妻が何かを読んで、アキカウリスマキが1番好きな作品、影響を受けた作品だって言っているらしい、と言う。
まあ、観ればわかるからどうでもいいや。
一方の天使の影は観たことがない。ダニエルシュミットの作品は今宵限りは(素晴らしい)とラ・パロマまでは遡ったが、ヘカテはつまらなかったし、その後もケーブルカーの映画までは観たが、天使の影を観る機会はこれまで無かった。
なんとなく退屈しそうだなぁとは思ったが、主演がファスビンダー(脚本も書いている)なのだからそれほどつまらないとは考えにくい。
で、最初が不安は魂を食い尽くすだが、始まるとアラビア風音楽が大音量で、レストランに老嬢が入る。とカウンターを中心にした客と女主人がこちらを見る。
あ、不安と魂じゃん。一度観たら忘れることはできない衝撃だ。
一方、観ていて、なるほど、これはアキカウリスマキに影響与えまくりというのも(初見時は気付かないというかおそらくアキカウリスマキの映画には出会っていないのでは)納得しまくる。
観られる側と観る側を行き来する絶妙な間の取り方と切り替えし。
長兄がテレビを蹴り壊すシーンを思い出す。
物語は妙なシンメトリーで描く。直前の庭園レストランでの不安な食事(とにかくロングの使い方のうまさが抜群なのだ)、きわめて幸福な旅行を中心として、排斥される(孤立する)側が入れ替わる。特に、老嬢が勤めるビル(の掃除婦なのだ)の非常階段のシーンでヘルツェゴビナから来た女性を上に残して全員が下の踊り場で相談をし、ちらちら眺めるのに対して、ヘルツェゴビナが一生懸命微笑みかけるが感じ取る不安は圧倒的だし、蹴り壊した長兄が謝罪に来て金を渡すシーンの唐突さのおもしろさ、食料品店の親父のスーパーに客を取られたから上客は大事にしようと考えての行動、シナリオ的には破綻が無いのにばかばかしくも映画的な受容に変わり、一方、極端にわかりやすくモロッコ人が孤立していく。ラストはまったく忘れていたが、冒頭に戻り、幸福な(と見える)二人のダンスで終わる。ファスビンダーの作品としては珍しくハッピーエンディングなのではないだろうか。
それにしてもクスクスが食べたい。
ミュージカルは別として心理劇としてこんなにおもしろい映画がほかにあるだろうか?
丸顔、口ひげ、ころころしたタヌキのような長女の夫は本当にとんでもない奴だ。
で、天使の影。
美しいシーンは抜群に美しい。が、長過ぎる。あまりの美しさに自分で見とれてカットするタイミングを逸しているのだろう。
最後のほうになると、唐突に挟まる音楽のセンスが研ぎ澄まされてくる。
ダニエルシュミットの光と影と構図の美しさ、表情の捉え方、音に対する鋭敏さは疑う余地はない。
が、退屈極まりない。長過ぎるのだ。あとセリフが演劇の脚本そのままなのではなかろうか(ファスビンダーの指示の可能性もあるだろうが)。とにかく映画としては長過ぎるため、1カットが長くなりすぎる。
なのだが、映画を観るという意味では満足度は高いのだからよくわらかん。
それはそれとしてネコを溺死させるのはひどい(が、タオルを剥がしてファスビンダーが弄んでいるシーンは不可解でおもしろい)。
(プログラムを買って保存しているくらいにファスビンダーは好きだ)
1+Dumplingという水餃子の店で羊の水餃子を食べてから帰った。この店は適当に入ったのだがおいしかった。
東劇でメトライブビューイングの「デッドマン・ウォーキング」。
なんか、ジョイス・ディドナートの作品は最近は現代ものばかり観ているような気がする。
・最初にディドナートを観たのは舞台から落ちた翌日に車いすでロジーナを歌ったセビリアの理髪師のDVDで、それから随分年を取ったが、その頃と変わらぬ妙なポジティブさがあって実に好感が持てる歌手だ。
原作も映画も観たことないので、なんとなくゾンビ―オペラだと思い込んでいたら、まったく違った。そもそもデッド(死体)ではなくデッドマン(死を宣告された人間という意味かな)なのだった。絞首刑時代の「死刑台への13階段」のような意味らしい。
物語は死刑囚と文通している修道女が、会いたいとの手紙で刑務所に面会に行き、そこで相手が殺人犯だが罪を認めていないことを知る。再審請求も恩赦の嘆願書もすべてだめで最終的に死刑になる、というものだ。
というところまでを上映前になんとなく理解したので、これは冤罪ものによる反死刑の物語なのかな? と思ったら、演出のイヴォ・ヴァン・ホーヴェがビデオを使って、男による幸福そうな高校生カップルの襲撃、殺人、強姦を延々と映し出す(延々とというのは序曲が長いからなわけだが)ところから始まる。全然冤罪ものじゃないじゃん。
焦点は、あくまでも自分は無罪であると主張する男が、自分の罪を認めるか否かだった。
で、転機となるのは修道女が語った「認めることは自由になることだ」という1文なのだった。
これまで絞首刑や電気椅子、ギロチン、斧による死刑シーンはいろいろ観たが、毒注射(殺鼠剤と本人は読んでいるが、演出効果のためか本当にそうなのかは知らんが緑色の液体が腕の静脈から大量に送り込まれる)による死刑シーンは初めて見た。後片付けはクリーンなのは間違いなさそうだが、死ぬ本人がギロチンより楽かどうかは微妙だった。
音楽はなんというか、中途半端なミュージカルとオペラの合いの子のような作品でそれほど気には入らなかったが、2幕の最初のセガンの打ち下ろしによるアタッカからの始まりは衝撃的。悪いものではない。どころか、1990年代に作曲されたオペラとして例外的な大成功と再演が繰り返されているらしい。メトでは初演らしい。2幕、長過ぎておれは退屈したが、修道女とその同僚(ちょっと上の位っぽい)の2重唱は美しい。
スーザン・グレアムが母親役(無学なのは、修道女が代筆した再審請求の文章の中の単語を読めないことで示す)を歌うのだが、観ていて歌手スーザン・グレアムではなく母親その人のように観えて混乱した。とんでもない演技力だ(演出のうまさも光っている)。
演劇的におもしろいのは、1幕、アンゴラ刑務所に向かって修道女がスピード違反で切符を切られそうになる白バイ警官とのやり取りで、まったく本筋とは無関係なのになぜこれを入れたのだろう? 異様な暑さ、深刻な中に入れることが可能なユーモラスなシーン、罪を許すということ、といった要素を集約できているからかなぁ。
驚くべきなのはライアン・マキニーが2幕冒頭(ここでも2幕冒頭になる)で50回程度腕立て伏せをしながら歌って、さらに上体が上になった時点で手を打つ腕立て伏せをさらに10回くらい行うことで、オペラ歌手に求められるものがどんどん難度を高めているなぁと思わずにはいられない(マキニ―ならできるだろうというホーヴェの演出なのかも知れないが)。
最後に男が自分の罪を認めるところは確かに感動的で、罪を背負うということはこういうことなのかな? とイエスのことを考えざるを得ない(全然位相は異なるのだが、罪を背負って死ぬという点では同じことだし、おそらくその点がこの作品の重要/受容されている点なのではないか?)。
(ショーン・ペンはこの役に合っていると、後付けで思う)
主人公の修道女は死刑反対論者でもあって、論議のための経験による著作を上梓したところベストセラーとなり映画化とオペラ化もされたという経緯があるらしい。
クリスマスシーズン恒例のKバレエのくるみ割り人形を観にオーチャードホール。
東急本店は作り直しているが、最西端のオーチャードホールはそのまま残っているのか。
子供が、熊川版の良い点は花のワルツを真ん中にもってきてパドドゥを混ぜることで退屈させないところだ、と言い出す。確かに曲としては大団円にふさわしい華やかさはあるが退屈なので、それはそうだと同意する。
熊川版の一幕で一番好きな情景は、雪の王国に入り込む寸前、くるみ割り人形とドロッセルマイヤーがクララでキャッチボールをするところなのだが(音楽の選び方も良い)、今回の舞台では1回しか投げなかった。が、不満感は持てない良い踊りだった。くるみ割り人形とマリー姫も実に良い。
それにしてもバレエをまじめに観始めたころは、どの楽団であろうがバレエのオーケストラには2軍以下を配しているのかなぁとか思っていたものだが、ちょっともたついたとは言えスペインの踊りの最初の部分の金管とか実に立派になったものだなと感慨深い。
子供に誘われてTOHO日比谷にウィッシュを観に行った。
ちょっと最後のほうでは驚くほど(というのは、ディズニー映画では記憶する限り皆無だからだが)心が揺さぶられて驚いた。
歌はとても良い。(字幕版を見た) ここぞとなると歌いまくる量と質からはミュージカル映画に近い(たとえばエルサがレリゴー歌いながら山を登ってもミュージカル映画という印象にはならないが、こちらはミュージカル映画に近いなぁという感想となった。当然、ミュージカル映画は映画だから好きだ)。悪役の歌は楽しいし、動物大合唱も楽しい。
特にウサギがたくさん出てくるところは素晴らしい。まさに映画(もう1か所あるが、いわゆるネタバレになるので書けない)。
最後の権力移動は、え? そうなるの感があっておもしろかった。まあそうなるか。
併映の100周年記念短編はディズニーキャラクター達に思い入れがないから(チップとデールとティモシーと鴉軍団は好きだが)まあそんなものかなぁとは思った。
午後は妻とユーロスペースにほかげ。
元々も枯れ葉を観ようとしたのだが、出遅れて席が無い。でオンライン予約を観ていると「ほかげ」というのに目が留まる。アキカウリスマキ回顧展が併映されているというのは知っていたから、もしかして日本未公開か何かでおれが観たことない作品かな?と思って予約したのだった。
ら、全然アキカウリスマキ関係ない塚本映画だった。題がほかげだから、枯れ葉だの街のあかりだの、真夜中の虹だのの一種と完全に誤解してしまったのだった。
塚本映画っておそらく鉄男しか観たことないので、まあ、それもありだなと観た。楽しい映画ではなかったがなかなかおもしろかった。
3部構成。
1部はほぼ室内劇で、呑み屋兼食堂の女の家(なぜか焼け残っている)が舞台。劇としては夜になって子供と元教師の帰還兵が家に帰るところからがすべてで、疑似家族生活が描かれる。が、帰還兵が暴れ出して最初に脱落、子供が何をやって稼ぐかでひと悶着あって、脱落する。襖の向こうに何があるか? であるとか、子供は昼間何をやっているのか、であるとがスリルとして提供される。途中、子供が昼の家に飯屋の客として連れてくるおかしな老人が印象的(このシーンだけは明らかな昼)。
2部は近郊の田舎を舞台に、謎の男(素手で魚を採る)と子供の旅となる。1部がほぼ夜なのに反して、こちらはほぼ昼で明るい。座敷牢(というか土蔵というか、藤子F不二雄ののすたる爺みたいだ)に閉じ込められた帰還兵と謎の男の対話(は直接は聞こえず、後から子供に説明する)。男の行動の真意が明らかとなる。こういうったゆきゆきて進軍は、どのくらいの普遍性があるのだろうか? おれの爺さんは戦後は部下の会社に役員として迎えられて働いていたから、必ずしも悪い関係ばかりということもないのだろうが、それはどこから帰還したか(どこで戦ったのか)に大きく影響されそうだ。
2部と3部の幕間に元の家への子供の帰還がある。女は自分が病に侵されていて近寄らないように告げる。期間が短すぎるので鼻が落ちているわけではないだろうが、それっぽい。女は子供に拳銃を捨てることと、昼間のまともな仕事をすることを誓わせる。軍隊を持たず勤労に励むというのは、まさに戦後日本そのものだ。
3部は闇市で子供が女に言われた通り、とにかくまともに労働するために奮闘する。というか、いつもこの子供が確かな人間観察眼を持っているのがおもしろい。案の定、目をつけられたうどん屋の親父は子供に仕事と飯と少しのようだが給金をくれる。
夜、子供は駅の地下道(上野あたりを想定しているのだろう)に寝ぐらを求めて立ち寄る。傷痍軍人。廃人となった元教師の帰還兵を見つけて預かった教科書を置いていく。
翌日、鰻屋(かなぁ)で精がつくのかと聞きながら買おうとするが金が足りない。向かいの洋服屋(古着屋)でこの服は良いものか? としつこく聞く。2通りの解釈ができる。いずれにしても栄養がありそうな食い物=病気の人へあげる、とか婦人ものの服という点から、元の家の女へ、まっとうな労働で得た金で買って贈ろうという考えなのだが、1. 女が喜び、再び疑似家族として暮らす。2. (時系列からは無理があるが)古着は女のもの(=死んだ)。
最近になってバビロンベルリンを観たが、第一次世界大戦のPTSDに苦しんでモルヒネを打ち続けている主人公が出てくる。日本も太平洋戦争からの帰還兵にPTSDで苦しんだのが大量に存在したのではないか? と考えるわけだが、あまりそういう話は見ない。この作品は、第2部に出てくる上官を除けば(その上官も実際のところはわからないわけだが)、帰還兵は全員苦しんでいるか廃人になているか座敷牢にいる。それはそうだろうと思う。というようなことを妻に言うと、横溝正史の戦後の作品には、そういう人が(頭がおかしくなったという雑な形容ではあるが、というのはPTSDという概念が無いからだが)出てくるじゃん、と言われて、なるほどそうだと気づいた。
観たかった方向の作品とはまったく異なったが、そう悪いものではなかった。
昨日のほかげはともかくとして、枯れ葉を観にユーロスペースへ行き直し。妻は腹を壊して一回休みとなってしまった。
スーパーの期限切れ食品の仕分けをしている女性、それをうさんくさそうに眺める監視員。
家に帰って、広い部屋でラジオをつける。宇露戦争のニュース。
彼女は期限切れ食品を持ち帰っていることがばれて馘首になる。
男のほうは仕事が終わって同僚とカラオケに行く。同僚は声自慢で妙なラブソングを歌う。なんか調子っぱずれだなぁと観ていたら、そういう曲だったようで、居合わせた客たちは皆聞きほれている。おれの美声なら声がかかるはずだ。と同僚は得意そうに言う。
隣の席の女が声をかけてくるが、同僚が年寄りだと見てよそよそしくなる。その女の連れが最初の女だ。同じスーパーの同僚でお互いにかばい合う程度には仲が良い。
男は車(修理工場勤務かな)の運転中に事故を起こし、飲酒癖を突かれて馘首になる。
病院(同僚が倒れたのか、男の事故か記憶にない)で二人は再会し、映画を一緒に観に行くことになる。
ジム・ジャームッシュのデッドドントダイを観る。彼女はこんなに笑ったの久しぶり、のようなことを言う。
映画館にはダルジャンのポスター。なかなかセンスが良い映画館だ。
二人は再会を約束し、女は電話番号をメモに書いて男に渡す。別れた後、男はタバコを吸おうと取り出したときにメモが落ちて排水溝のほうへ飛んでいく。
ラジオを聴きながら(相変わらず宇露戦争)電話を待つ女。
メモがないことに気付く男。
男は映画館の前で会えるのではないかと待つ。気狂いピエロのポスター。あきらめて立ち去ると女が来る。
男は仕事中の飲酒がばれてビル工事現場も馘首になる。
(病院はここで入るのかも)
なぜ電話をくれなかったの? 失くしてしまったんだ。
女の家へ呼ばれる。煮込み料理が出てくる。料理の説明があったが忘れた。
男はアペリティフのシャンパンだけでは足りずに酒を要求する。女は呆れて父も兄も酒で死んだ。酒飲みは死ねと追い出す。
男が酒断ちする様子。
(病院はここで入るのかも)
酒を飲むのはやめた。なぜ? 君だ。ここの恩着せがましさがまったくないシーンは見事だ。
二人は並んで第三の男のようなまっすぐな道を向こうへ去って行く。
2週間たつとここぞというシーン以外は忘れてしまうものだなぁ。
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