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「サブカルの巨人」へ始動という記事が日経に出たとき、その「サブカルの巨人」はあるジャンルを捨てた。
よーく考えてみると、いや考えなくても、プログラミング、コンピュータサイエンスといったジャンルは、これまでサブカルであった。それを表現する言葉がハック、ハッカー、ハッキングで、自分たちのことやその行動の最も先鋭的なところをわざわざ乱暴な言葉(ぶった切る、ぶった切り野郎、ぶった切りんこ)で表現してしまう韜晦がいかにもサブカル的でもあった。
ハッカーズ大辞典 (Ascii books)(レイモンド,エリック)
その韜晦が、メインカルチャーにはわからぬ。メインカルチャーは50年以上歴史がある文化しか認めぬ、ことからごく一部の黒い帽子の意味として受け止められるというおまけがついたが、それはどうでも良い。
が、ふと気づくととっくに50年以上たってしまっていたのだった。誰もがヒッピー崩れのオルタナ野郎が磨いたデバイスを買うようになってしまった。植字工アルバイトのジョバンニのように誰かがエクセルに書いたものからJavaのソースコードを拾い出す虫めがね君の仕事になってしまった。
それはサブカルではない。
そういうことなのだろう。
というわけでほぼ最後の書籍となった、Linuxのブートプロセスのソースコード解説本を読んで、メインカルチャーへと昇天した1つのサブカルチャーの冥福を祈ろう。
現時点では今後どうなるのか良くわからないアスキーの鈴木さんからもらったLinuxのブートプロセスをみるを読み始めた。
役に立つかどうかは別として無暗におもしろい。
最初はx86(x64)マシンのブートから始まるので、8086互換のリアルモードに始まって、次にプロテクトモード(これ、以前はプロテクトッドモードではないかとかいろいろ言われてたような気がするけど、今はプロテクトモード一択で落ち着いたのかな)経由でx64の場合はさらにIA-32eモードに推移するまでの石の動きの説明で始まる。
説明するにはリアルモードがあるためにセグメントの説明からIOポートの説明まであり、と、どんどん深みにはまっていく。
とにかくx86についての前提知識のために、ある項目を説明するにはある項目の知識が必要で、しかし順序からはその知識の説明は後回しにせざるを得ず、という状態で、本書そのものが複雑なブートプロセスで構成されているのだが、意図的だとしたら面白すぎる。
と言う具合にPC/ATアーキテクチャの説明を読み終わると1章が完結して全体の1/4くらい。
全体が付録含めて10章だから、いかにx86がぶっ飛んだCPUかが良くわかる。
以下、読んでいてひっかかった表現など。
・P26先頭
……必要なセグメントデスクリプタを並べて作成し、その開始アドレスと数をCPUに通知する命令を実行します。これをセグメント・デスクリプタテーブルと呼びます。
ちょっとおかしい。命令を実行することがテーブルみたいに読める。おれなら「必要なセグメントデスクリプタを並べて作成し(これをセグメント・デスクリプタテーブルと呼びます)、その開始アドレス……命令を実行します。」とするかな。
・P26
「その数は65,536(0xFFFFH)」意味はわかるがちょっと変。あと、0xをプリフィクスしているのにHをポストフィックスする記法が妙かな。
・P26下
上位13ビットの数を8倍した値がオフセット位置だが、実際には下位3ビットをマスクすれば求められると書いているけど、それはその通りなんだけど、てへぺろ感があるような。
・P.28表
コンフォーミングコードって何?(検索してみるとユーザーモードのままで実行できるカーネルメモリ内のコードという意味っぽい)
・他にも表か図で何か気付いた(たいてい校正するとき表の中は見落とすんだよなと思った)のだが忘れた。
・そこはツッコミどころではなく楽しみ箇所
さんざん引っ張ってからこれはLinuxでは使わないのでどうでも良いですというのと、最初からこれはLinuxでは使わないので説明しません、というのが混在していて、つまり前者は書きたかったんだろうなと想像すると楽しい。
というか、x86ってつくづく化け物だな。おそらく互換性を維持しながら高速に処理可能なように拡張方法を設計しているはずなので(マスクとフェッチと論理和のみで済むのかな)、それにしても良くこういう仕組みに作ったなぁと畏敬の念を覚えると同時に、ゼロベースで設計してこれに勝てない(いや、ARMがあるというのはあるけど)他のCPUというのはなんなのだろうという不思議というか。
var condition = true; if (!longlongvariablename.longlongcondition()) { if (!otherlonglongvariablename.longlonganothercondition()) { condition = false; } condition = false; } return condition;
は?
多分、こんなかんじだったのだろう。
var condition = true; if (!longlongvariablename.longlongcondition()) { condition = false; } return condition;
で、otherlonglongvariablename.longlonganothercondition()が必要となったのだろう。こういうおそろしく長い名前はタイプミスの元だ。というわけで、コードの別の箇所から次のコードを見つけ出してコピペしたに違いない。
if (!otherlonglongvariablename.longlonganothercondition()) { condition = false; }
そこで安心してしまったのだろう。
コピペそのものは悪いものではない。タイプミスするより1億倍ましだ。
でも、後が最悪だ。
おそらく、次に悪いのはこういうやつだ。
var condition = true; if (!longlongvariablename.longlongcondition()) { if (!otherlonglongvariablename.longlonganothercondition()) { condition = false; } else { condition = true; } } return condition;
こういうのが悪いのは、不真面目なところだ。
もう少しまじめに考えれば、最初の間抜けなコードが生まれることはない。
var condition = true; if (!longlongvariablename.longlongcondition() && !otherlonglongvariablename.longlonganothercondition()) { condition = false; } return condition;
ifを重ねる必要はまったくないのだから、&&で結合するだけで良い。
しかし、そもそもなぜifが必要なのだろうか?
もし最初のコードが次のようだとする。
return longlongvariablename.longlongcondition();
そこに、otherlonglongvariablename.longlonganothercondition()という条件を追加するとしたら、いやでも次のようにするだろう。
return longlongvariablename.longlongcondition() || otherlonglongvariablename.longlonganothercondition();
まったく最初のような間抜けたコードが出る幕はない。
結局のところ、だらしなさの連鎖が招いた当然のバグなのだった。
なんじゃこりゃと妻が叫ぶ。
どれどれと見に行くと、なぜか手にシックの5枚刃を持っている。
「楽天が試供品を送ってきたから喜んで開けたら、これが入ってたんだけど、男物よね」
と渡す。
どう見てもそれはそうだ。
「でも、おれたちが知らないだけで、実は女性の腋毛剃りとかに、シックの5枚刃が大人気とか?」
「ないない」
というわけで、シックを前に考え込むおれたち。
「お前、マーケティングに非協力な人だから、男名前で登録してあるとか?」
「そんなことしたらクレジット使えないでしょ」
「ああそうか……」
というわけで、さらに考え込むおれたち。
「無い無いって言ったけど、やはり女性に大人気とか?」
「こんなごついのを?」
「うーん、女性が剃りまくっているところは見たことないからおれにはわからんけど、なまくら女性用よりも顔に優しいとか、あるいは実はお前以外は全員ブラジル化しているとか」
「とにかくあげるから使え」
「えー」
おれはナイルロジャーズが大嫌いなので当然のようにジレッ人だ。いやなこった。
ということは
「髭剃りみたいな生活密着毎日習慣的使用物は、他への乗り換えはほとんど起きないはずだから、そこで夫帯者、つまり既婚女性へ送りつけているという可能性はないかな?」
「そのこころは」
「女性は統計的に吝嗇と言われている。男にいきなり送りつけたら、このナイルめがとそのまま捨てられてしまうのは目に見えている(相手が貝やジレットやウィルキンソンの場合)。つまり乗り換えさせるという使命を果たせない。もともとシックな人で旧型を使っている人なら、試せば、間違いなく剃り味は良いはずなのでグレードアップするかも知れないけど。しかし女性に贈れば話は違う」
「どう違う?」
「今、お前はおれに寄越したじゃないか」
「なるほど。しかしそんな胡乱なことすっかな?」
「楽天の社員用に間違えて大量に仕入れて余ったとかだろうなぁ」
「でも、無差別に送っていたらどう? 独身女性とか」
「気兼ねなく、試してみるかも。ラブラブシェーバーより間違いなく良く剃れるだろうから、新規市場開拓できてラッキーってならないかな」
「こんなごっついの使う気にはなれないと思うけどなぁというかわたしはやなこった。っていうか剃り味は良いはずとか言ってるんだから使えば良いじゃん」
「間違いなく競争しているから良いものを作って生き残っているのはわかっているけど、おれは生まれついてのジレット好きなんだよ。首振り戦争乗り換え組みたいなぽっと出と一緒にされては困る。シックなんてシックオフだ」
というわけで、謎は深まるばかり。
それにしても、今初めて剃刀をアマゾンで検索してみたが、店へ買いに行くのがばかばかしくなるほど安くて驚いた。店(安売り店)で買うと8枚+1が安くても2000円越えだから、同じような額で余分に4カセットがついて来る勘定だ(定期便というのがさらに安いがこれは定期便(忘れてしまう)というのがミソなのだろうな)。
新国立劇場でパルジファル。
第一幕はゆったりとしたテンポで進む。オーケストラの音が実に深みがあって気持ちよい。以前、森麻希の歌を聴こうと子供に誘われて府中へ行ったことがあって、その時も感じたが、飯守泰次郎という人はメリハリの付け方が実にうまい。打楽器を本気で叩かせるという印象を受ける(特に3幕だと思うがティンパニを2人で叩きまくるところとか耳に残っている)。
芸術監督に就任していきなり自演でパルジファルのような大作をすごい演出(そう、演出が舞台装置含めて実に素晴らしい)でぶつけてくるところとか、(あるいは細かいことだがロビーにでかでかとお言葉を張り出していたりとか)なかなかの役者っぷりだ。
光の道が本当に光の道で、奥のほうを細く手前を太くしたパネルで構成している。これの各パーツが下へ潜ったり上へ上ったりして道の遠さや困難さを表現したり、人を登場させたりにうまく使っている。最初、プロジェクションで上から光を投影しているのかと思ったが、そうではなくて下から投影しているのかなぁ。白く光ることもあれば、溶岩流のように赤く光ることもあり(第2幕)、3幕最後は緑の草原が広がる。
それとは別に可動式の槍の穂先が右側から突き出して来て、ある時は瀕死(でも死ねない)のアムフォルタスと聖杯(ところで、翻訳が妙に特徴的で、聖杯王と書くのだが、単体についてはグラールと表記する。ホーリーグレイルという言葉を知っているからドイツ語だとグラールなのかなと気づいたが、最近の流行語なのだろうか?)を運んで来たり、2幕の冒頭では魔法の城の中を流れる溶岩の河(まるでスターウォーズの3作目だ)になったりする。
演出のハリー・クプファーという人が提示したパルジファルの世界は実に興味深い。指揮者の音の強調のさせ方もあるのだろうが、まさにワーグナーの集大成といった趣だ。
1幕はマイスタージンガー(楽想に近いものがときどき出てくる)。2幕はヴィーナスベルグを乗っ取ったタンホイザー(これも楽想に近いものがときどき出てくる)が支配する城で、このタンホイザーがアルベリッヒでもあり(パルジファルが迫って来るところを歌うところはローゲみたいだ)、花の妖精はラインの乙女であって、パルジファルは神々の黄昏のジークフリートと重なりながら魔法の薬から逃れたトリスタンでもある。3幕でマイスタージンガーの禁欲的な世界とタンホイザーの誘惑的な世界が止揚されて(さまざまな箇所がウェルズングの楽想に近い)、これぞパルジファルとして完結する。
演出ノートを読むと仏教がどうしたとか書いてあるが、最初から黄色い法衣を着ていることもあり、チベット仏教のようだ。
すると、終幕、聖杯王が望み通りに死(という解釈となっている)に、新たな集団指導体制としてグルネマンツ、パルジファル、クンドリーの三者(もちろん父と子と聖霊を示しているとしか見ようがない)がそれぞれ黄色い法衣をまとう(パルジファルが聖杯城の近くで僧侶から受け取った黄色い法衣――ただしグルネマンツの元へ出現するときはロンギヌスの槍を隠すために使っている――を手品のように3枚に変える)ところが、あたかも共産党支配を脱するチベットのように見えてきて(多分、そのようなつもりはなく、何かの勘違いから仏教の象徴として黄色を選択したのだとは思うが)異様な政治的メッセージになってしまっていてちょっと違和感はある(仏教を持ち出したのは日本受けを狙って失敗したのかなぁとかいろいろ)。
フランツのずんぐりとした丸顔無精ひげ禿頭が、どうにも金正男のように見えて、白鳥を射殺して聖杯城へ連行されるあたりが、まるでディズニーランドにのこのこやって来て捕まってしまった状態で、ユーモラスな味となっている(が、もちろんそんな意図はないはず)。で、このまま金正男かよと思っていると、2幕あたりから立居振舞の立派さ(ジークフリートを歌っていた時も感じたが声は少し小さく感じるのだが、若々しいきれいな声で外見を吹き飛ばす)もあって、普通にパルジファルとなって良かったね、という感じである。
クンドリーが実に美しい(声だけではなく見た目も)。
2幕はクリングゾルが槍を手に溶岩流へ向かって這っている(アナキンだ)ところで始まる。3幕はパルジファルが槍を手に這っているところで始める。演出で意図的に、両者が同一の存在であることを示している。片や自分で肉体的に去勢した男で(その代償として常に槍にまたがっているのだろう。魔女の箒として扱っているのではない。呼び出したクンドリーの脚の間を槍で突く)、片や精神的に去勢されている男(「お兄さん遊んでいかない?」「いいよ、何して遊ぶ?」)だ。その精神的な去勢が無知に根差しているのなら(というか、そういう設定なのだが)、無知な状態にとどめたのはヘルツェライデなのでこれはこれで相当に意味深な設定だ。
hsbtさんが iOS のファミリー共有機能を使ってみたと日記に書いていたので、早速真似をして子供と共有した。
元々はiPod touchを買って(えらく前のことだ。初代のやつだから)、今は亡き(別の会社が出したかも知れないけど、例のとんでも機能を実装してアップルから追い出された)ロングマンを入れて、このてのデバイスを辞書として利用することの良さに目覚めたことに始まるのだが、気付くと、ウィズダムやプチロワ、大辞林が、二代目になる赤いiPod touchに入っているのだった。
というところで子供にiPhoneを買ってやり、未成年だったから、おれのアップルIDでとりあえずセットアップしてやったのだった。アップルIDがおれだから、当然、iPod touch用に買った辞書のたぐいがすべて入って子供も使っていた。
が、子供が成年したので、クレジットカードを作ってやって、自分のアップルIDをとらせたのだ。多分、こうなると、おれが買ったアプリケーションは消えてなくなってしまうだろうと思ったから、買い直してやるよとか言っていたのだが、そんなことはなかった。そのままデバイスに残っている。
が、ここのところiOS8への対応でばんばんバージョンが上がるのだが、その都度、おれのアップルIDで認証が求められて面倒だったらありはしない。
やはり買い直してやるか……とか言っていたところにファミリー共有機能だ。さっそく設定すると、なるほど、App Storeに「購入したものすべて」というタブが出て、それぞれが購入したもののタブへのリストが出てくる。
(しかしカードは共有したくないのだが、iCloudの設定にはiTunes&App Store設定で変えられるとか出ているのに、実際にiTunes&App Store設定にいくと、そんな項目はないんだよな。Apple IDを表示するとお支払情報は出てくるけど、単にファミリー共有ですとか能書きが書いてあるだけで変えられないのが不可思議だ)
で、まあそれで思ったのが、電話だのiPod touchだのはパーソナルデバイスだから、家族全員が持つわけで、そうなら、ソフトウェア(iTunesの楽曲も共有できるようだからコンテンツもだな)は共有させてやっても良いかという、アップルというまさにハードウェア屋ならではの方策だなぁということ。
ふと、パーソナルコンピュータだって、家族がそれぞれ1台持つんだから、マイクロソフトもさっさと家族共有をやってくれれば楽なのにな、と考えたが、パーソナルコンピュータは、家族の共有以上に、企業の共有というよろしからぬ利用がなされる可能性があるから、そんなに簡単ではないのかと思い当った。このへんはアップルは企業用のハードウェア屋じゃないからやれるのだな。
(なら、Androidもやってほしいものだが、これもグーグルはハードウェア屋ではないので、収益はPlayの個々の売り上げの積み上げからなるのだから、共有させたら損ばかりということでやれないのかも知れない。デバイスは別だからなぁとはいえNexusブランドは使用料とか取ってそうだが)
と、各社いろいろな持ち味があっておもしろい。
Fire HDX 8.9タブレット(第4世代) 16GB(-)
Kindleマンガ専用になっているiPadの容量が不足しているので、Kindle HDを考えているのだが、マンガ専用になるとわかっているものに5万円は出せないなぁ(普通の本はPaper Whiteで間に合っているし)とまさに金だけが問題で躊躇しているのだった。
新国立劇場でドンジョヴァンニ。
タイトルロールをエレールが歌うというのですごく楽しみにしていた。前回のクヴィエチェンも良かったが(まるでプリンスのようなすごい歌手だなと思っていたらメトのスターになってしまったからもう新国立に来ることはないだろう)、エレールは別格だ。ウィーンスターツオパーの総裁引退記念でのローゲを観てからのファンなのだ。
それが予想以上に素晴らしかった(そう来るのかという驚きもあった)。威風堂々、ノーブルで、しかも風雅なドンジョヴァンニなのだ。もちろん歌う内容は下種なのだが、それはドンジョヴァンニだからどうしようもない。
後になってインタビューを読んだら
「まず第一に、ドンは貴族なのです。どんなに汚い面やダークな面を持っていても、彼は貴族ゆえにたいていのものは手に入る身分です。それが手に入らない場合にのみ、実力行使に出る。ふだんは荒っぽくて粗野な部分を出す必要はないと解釈しています」
と語っていて、なるほどと納得すると同時に、自分がイメージした通りの人物像を観客に間違いなく提示できる知性と力量を持つ大した歌手だなぁと感心した。1幕、ツェルリーナに語り掛けるように歌い始めて二重唱になるやつがこんな良い曲だとは思わなかった(というかツェルリーナも良かったのだ)。
レオポッロのマルコヴィンコはカタログの歌のところではなんか声は通らないし、あまり愉快ではないなぁと感じたが、どんどこ良い調子。いずれにしても、2幕でもう飛ぶまいぞこの蝶々の引用のところで、これは知っているというのはずる過ぎる。
演出は前回と同じく、鏡面の水面をゴンドラで登場する。(その前に扉が開くところが美しい)。後ろの幕があくと、水面に建物が影を落とす(前回もそうだったかな?)。
エルヴィーラは声が通る良い歌手。
でも特に良かったのはドンナアンナで、正直なところ(おれはそれほどモーツァルトは好きではないこともあって)ドンナアンナとドンオッターヴィオが歌っている間は休憩時間なのだが、このドンナアンナは素晴らしい。声量があるわけでもなければ、すさまじい美声というわけでもないように思える。しかし、どうあってもこれまで聞いたどんなドンナアンナよりも歌の良さ(そういうものがあるとして)を引き出していた(カルメラ・レミージョという人)。
妻屋は不思議だなぁ。最初にラインの黄金のファフナーあたりで見たときは全然ぱっとしない感じだったのに、実に堂々とした歌いっぷり。
バックステージツアーに当選したので終演後は舞台装置の見学。舞台監督の斎藤さんの話を聞くのはこれで3回目くらいの気がするが実におもしろい。袖から舞台に移動するとすーっと変化するという話は特におもしろかった。(客席後方のマシン室は金魚鉢と呼ぶらしい)
そのとき、おれの頭の中ではムーンバット先生がグラウンドから外に出るところのシーンが想像されたのだった。
ウィリアム・ウォーカーは、閑を持て余していた。心の中はイギリス人への憎悪でいっぱいだった。
南北戦争には興味をもてなかった。それよりも、かってニカラグアを支配したときのように、自分が王として君臨したかった。それもかって見たこともない地で。
再度私兵を引き連れメキシコ湾に上陸した時に、アメリカ海軍最大の外輪フリゲート艦ポーハタンを乗っ取ることに成功した。水兵たちは全員、ウォーカーを英雄視しているし、士官たちもウォーカーの実行力には一目も二目もおいていたのだ。ウォーカーはこの船が日本という太平洋を遥か西へ進んだ先にある国へ行ったことがあることを教えられる。
かくしてウォーカーは中米ではなく、東洋を目指すことを決意した。乗組員たちはかって知ったる浦賀へ向かうことになる。3度目の黒船も熱狂的な歓迎を受けた。ウォーカーは幕府を傀儡として日本を支配することを目論む。
その頃、イギリスは長州藩と戦争をしていた。長州はボロ負けしたが、高杉晋作はうまいこと賠償金を幕府へ肩代わりさせる交渉に成功し、イギリスと同盟を結ぶ。このままイギリス海軍の力を借りて一気に討幕だ。イギリス海軍は九州を迂回し黒潮にのって江戸湾を目指す。途中、薩摩の軍艦が一行に加わる。長崎のパークスが坂本龍馬経由でイギリス海軍と薩長連合を結びつけたのだ。
かくして、伊豆半島を舞台に、ウォーカー率いるアメリカ人傭兵部隊+幕府と薩長イギリス連合の日本支配の戦いの火蓋が切って落とされた。
昭和のいわゆる三丁目の夕日のあたりの給食事情って知らない人のほうが多いんだなぁと感慨にふけるが、これっぽっちもノスタルジックなものはなく、よくここまで来たもんだと感心する。
事実だけを列挙した給食の歴史だけからはわからないのだけど、太平洋戦争でボロ負けしたのではしょうがないとしても子供が食べられないのはまずかろうと(食い物に困るくらい完膚無きまでに敗北したわけだ)、ユニセフが脱脂粉乳、米国が小麦粉を援助することで、大都市で完全給食というものが始まった。これもなぜ大都市かというと、大都市にはそこに居住する学童に配分可能なほどの農業がないからという理由だ。(都会の人間が田舎へ列車に乗って農家と物々交換で米を手に入れる必要があったような時代のことだ)
多分、(そういうことを書いているものを読んだことがあるし、経済合理性からは正しそうだが)、寄付する側、つまり米国は、日本を米国からの食糧輸入に頼る国家にしたかったのだと思われる。子供の頃から小麦粉→パン食によって米を食べる習慣がなくなれば、世界最大の小麦輸出国家の米国に依存する必要が出てくるからだ。脱脂粉乳はほとんど廃棄物のようなものから作ってたというような噂もあったし、実際、えらくまずいものだったらしい(けど、これについては、飲み慣れないからそう感じたんじゃないかと、眉唾感はある)。
僕が小学校給食を食ってた時代(昭和40年代の後半以降)になると、ほぼまずい食パン(これのおかげで当初の米国の目的がどうあれ、子供はパンは不味い豚の餌だという認識ができたので、米農家にとっては逆に良かったように思う)、月に1日くらい揚げパン(砂糖をまぶしたコッペパンを揚げたもので甘いから美味しい)が入る。蛋白源としてはほぼまずい豚肉(これがまずいので僕は豚肉を嫌いになったけど、パンと違って必ずしも意見が一致するわけではない)がほとんどで、月に3回くらいクジラの竜田揚げが(これも当時は安くて一般需要はなかったのだろう)出たのだが、クジラは(竜田揚げという味付けの性格上)人気メニューだった。脱脂粉乳はさすがに消えて、森永の牛乳(ときどき明治に変わったり、名前忘れたけどそれ以外のところに変わったり)になった。日本でもこの頃になると酪農が発達したのだった。
というわけで、今と全然違うのは、
・基本的にまずい
カロリーや必須アミノ酸やビタミン、カルシウムなどは計算されていたわけだが(おそらく衛生面についても厳重に管理されていたと思う。給食由来の集団食中毒というのは聞いたことがない)、味というものはほとんど考慮されていなかった。
というよりも、味を良くすることは、予算的にも技術的にも不可能だったと思う。輸送技術(東名高速開通前で長距離は貨物列車に依存。空輸はあり得ない。というか、最初に乗った飛行機はまだプロペラ機だったくらいの時代なのだ)、保存技術(冷凍庫が普及する前だ)、調理設備などがまだまだ未発達だったからだ。もしかすると米を導入できなかった原因の一つは、多い所では1つの小学校で数1000人の学童がいる(子供が多かった時代だ)から、それだけの米を炊くということは物理的に不可能だったのではないだろうか。また、パンと異なり炊いた米は水分が多いので、外部に委託した場合は(首都圏近郊にせざるを得ない)輸送中に腐敗が始まる可能性もあり、衛生面から無理がありそうだ。(真空パックとかも安価な技術としては存在していない)
・クジラは人気メニュー(このあたりが、反捕鯨運動に対してある程度の年齢層が胃袋レベルで反感を持つ理由ではなかろうか)
いろいろ思い出しながら書いてみると、技術の発達によって、子供がそれなりに食える給食をもらえるようになったのだなと実感するなぁ。
妻が図書館でネコ学入門という本を借りて来たので読んだ。
著者はイギリス人らしい。
最初の数ページはとてつもなくおもしろく、わくわくさせてくれる。
人間とはまったく異なる生物がどのような思考体系を持つのか、それを解明してコミュニケーションに役立てることを考えるというようなことが書いてある。
まるでファーストコンタクトものSFみたいだ。
そういう発想でくるのか。ある点では行動経済学的なアプローチのようでもある。
が。
本文に入るとそこまではおもしろいものではなかった。
むしろ、この人のバイアスが不思議になってくる。
イギリスでは犬よりも猫のほうが飼われているという数値がデータとして示される。なるほど。
人間がネコを飼う効用は他者から頼られるということに由来する満足感を高めることであり、それは自尊心の問題である。したがってノラネコに餌をあげる専ら高齢の女性がいるが、そのような効用があるからだ。
うーん、まあそうだろう。
生後2か月の間に親猫から他の動物とのつきあい方などなどを教育されたかどうかで、その後が変わる。そういうことはありそうだ。未熟な親に育てられるとなつかないネコになる。
それもあり得るかも知れない。
ネコ用トイレ砂のイギリスでの消費量についての記述がある。
次の瞬間、筆者はこれは妙だと書く。なぜならば、生後数か月したらトイレ砂は不要となる。なぜならば、庭に穴を掘って排泄して自分で埋めるから、トイレはいらないからだ。
ちょっと待った。家猫という発想は無いのか? ――無いのだ。それは良くないことなのだ。ネコは昼は外で暴れているのが自然なのだ。
でも待て、イギリスといえば別に庭にネズミや鳥やウサギ(猫はウサギも狩るらしい)がちょろちょろしている田園だけではあるまい。想像だが、ロンドンというところはそれなりの人口があり、おそらくそれに見合った猫を飼っている人がいるのではあるまいか。そしてロンドンというのは多分、そこらじゅうが舗装されていて猫が排泄のために掘れるような場所があるようには考えられない。もちろん、ロンドンに行ったことはないから想像に過ぎないが。家猫として飼えばそれはトイレ砂は消費されるはずだし、むしろ、筆者は少数者ではないのか? 何かおかしくないか?
餌についての記述もそういう目で読み始めると何か変だ。
これがイギリスなのだな。
と言う具合に、何かがおかしいのだが、それでもいくつかはなるほど感もあった。
ネコ学入門: 猫言語・幼猫体験・尿スプレー(クレア ベサント)
むしろイギリスの猫の本ならばこちらのほうがおもしそうだ。
ジェズイットを見習え |
_ ishisaka [MSもホームネットワークというコンテンツ共有機能あるんですけどね。今一だし、今一なのはMSがコンテンツビジネスで発言..]