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日々の破片

著作一覧

2015-04-02

_ Mac mini 2014/10

職場でMountain Lionマシンを維持したままYosemiteを使う必要が出て来たので、Mac miniを発注した。BTOで1TBHDDを256GB SSDに替えた8GB i5モデルで10万を切った(という値段が重要なのだった)。

届いたら意外と重い。開けると例によってAppleらしいきれいな外観で、レディースサイズのピザボックスという感じだ。

最初、サンダーボルトコネクタに悩んだが(元々AirのミニディスプレイポートとVGAモニタを繋ぐのに使っているミニディスプレイポート-VGA変換アダプタを使うつもりだったのに、絵が違うから互換性が無いのだと思ったからだ)、調べてみたら互換性があると書いてあるものを見つけたので思い切って差し込んだら問題なく使えて助かった。

すると、HDMI合わせてディスプレイ用ポートは3つもあるし、USBポートも山ほどあるし、相当便利ではないか。

APPLE Mac mini (2.8GHz Dual Core i5/8GB/1TB Fusion/Intel Iris) MGEQ2J/A(-)

(家用に買うならFusionドライブというのが良いのかな? 相当良いものだったから、家で使っているMac Book Pro 2012がだめになったらMac miniにしよう)

で、使うものといえば、XCodeだが、さすがに8GB載っているうえにSSDなので速い。Xcodeの起動も速いが、とにかく横向き三角を押してコンパイル-iPhoneエミュレータ起動-実行までの速さがまるでTurboCみたいだ(というかもっと速い印象というか、TurboCなんて書いても誰も知らないだろうなぁ。インタープリターよりもソース編集-実行の流れが速い(コンパイルとリンクの速度を無視できる)というので一世を風靡したコンパイラなのだ)。

・そこで疑問なのだが、XCodeでSubversionからチェックアウトしたプロジェクトをいじって、修正、追加したファイルのコミットは問題ないのだが、どうやればsvn rm相当のことをできるのだろう? プロジェクトツリーのDELETEで参照を切ったのに、ソース管理メニューのコミットを選択しても、追加と修正したファイルだけがコミット対象となって、削除が出て来ないのでえらく悩んだ。(追記:参照の削除とかケチくさいことせずに、パーッとゴミ箱行きにすれば良いのだった)

結局調べるのが面倒になって、直接ターミナルを開いてsvn rmしてsvn commitしたが、なんか変な感じだ(ターミナル開いてsvn……とか打つ必要があるのなら、別にXCode内でコミットできるメリットは無いと思う)。

それはそれとして、Emacsがなければ話にならないので、いつものCarbon Emacsを入れようかと思ったが、なんとなくGNU Emacs本家で良いのではないかという気になって、とりあえず検索したらGNU Emacs for Mac OS Xというバイナリー配布のサイトが一番に出て来たのでそれを入れた。

が。

Option-\というもっとも重要なキーがメタキャラ扱い(S-\と表示される)になっているではないか。これでは使えない。

(global-set-key "(そもそもここが入らないわけだ)S-\" 'insert-ucs-character)して92を入れれば、なんとなくOption-\でバックスラッシュを入れられるけど、92とか打ち込まなくても直接文字を挿入する方法ってないのかな?

(global-set-key "(しょうがないからvimを使うか)S-\" 'self-insert-command)じゃないよなぁ。

keyboard-translate-tableは128文字分だからOption-\の場所はなさそうだし(それとも今はkeyboard-translate-tableは256文字分に拡張されているのだろうか?

いやいやそもそもOption-\が0x5cなんだから、S-\と解釈されている時点でだめじゃんとか、ぐだぐだ考えながら検索したら、MacOSでEmacsを使うときは、バックスラッシュにご注意というページが見つかって、そうかdefine-key global-mapを使って直接\をバックスラッシュにすれば良いのかとわかった。というか\(バックスラッシュではないMacの\のこと)って必要なのか? (かな漢字変換で出てくれば十分だと思うのだが)

とは言え、やはり普段使いにはWindows Server 2008R2(そろそろ2012にしなくてはならない)のほうが使いやすい。


2015-04-04

_ ActiveXコントロールは死んだ

消費者市場ではフラッシュなどを除けばとっくの昔に死んでいるが、業務用としても死んでいる。

最近、やっとそれが動きが遅いところでも理解されはじめたようだ。と、とあるシステムのアーキテクチャを見て感慨深かった。

死んだ理由はいろいろあるが、一番重要なのは、結局のところマシンとそれを取り巻くパワーの向上によって、JavaScriptがまともな速度で動くようになったこと、ネットワークが速くそこそこ信頼性が向上したことだ。

それにともなって、各種の規格に対する知識が雰囲気として知れ渡って来た(正確に理解している層は最初から正確に理解しているわけだが、そうではなく、なんだかわけがわからないと考えている上に調べる気も知る気も無い層が、なんだかありふれていて普通に手が届くものだという曖昧模糊たるコンセンサスが生じたということ)ことが挙げられる。それが証拠に初心者ですけどごめんなさいみたいな人も普通に関数をファーストクラスオブジェクトとして扱っているではないか(重要なのはSSLだけど)。

それに比べればXMLよりもJSONのほうが扱いが楽だとか、RESTフレームワークが簡単に利用できるというようなことは、比較的どうでも良いことだ。

1997年から18年、多くの国では生まれた子供が選挙に参加できるだけの歳月がかかったのだなぁと考えると、原理的なところはほとんど変わっていないことに驚くが、最初に書いたように一番重要だったのはマシン能力の向上で、それがあって初めて実用的になったRPCからサービス(密結合から疎結合)へのシフト、HTTPというプロトコルのシンプルさ、HTML-DOM-JavaScriptによる標準化、この3つですべてが賄えるようになったのだった。(ActiveXコントロールは、密結合、独自プロトコル、非標準アプリケーション(UI)制御をWebプラットフォーム上で実現するための機構だったのだから、それはそうだ)


2015-04-06

_ ユーロスペースでラブバトルと神々のたそがれ

最後に観たのが今は亡きシネパトスでシャルロットゲンズブールがカナダへ行く映画(題名忘れた)なので、えらく久しぶりのドワイヨン。例によって事前知識なしで行く。

映画が始まると何本か予告編があって、ゴリウォーグのケークウォークが鳴ってラブバトルの予告編。どうやら普遍的な愛を描いたとドワイヨンが語っている。というか、なぜ予告編? と思う間もなく美術館の映画が始まって、暗転。フィルムを差し換えてやり直し。これまた随分久しぶりの映写技師のミスであった。

映画が始まるとサングラスにスカートの若い女が脚を出して田舎道をさっそうと歩いている。岡崎京子っぽいなぁと、ドワイヨンがばんばん公開されていた当時を思い出す。

ひげの中年男が納屋みたいな小屋の壁材を手でこねている。列車の音。列車が通り過ぎる全景、列車を遠くに配してまた中年男。

という情景で始まる。

父親が死んだので遺産の取り合いをするために田舎へ来た女だということがわかる。数年か数か月前に男と因縁があったらしいことが語られる。会話に次ぐ会話で、そうそうドワイヨンというのは会話する作家だと思い出した。それも妙な。ロメールのように洒脱な感じがなくてひたすらべったりと会話を舐めまわして心理描写をしていくのだ。

主軸は3本あって、女は父親から愛されていなかったと感じていて、しかし唯一の愛情の徴としてピアノだけがある。父親からピアノを教わったのだ。すぐにやめてしまったが(途中ゴリウォーグのケークウォークをものすごく下手に弾いている)。だからピアノを相続したい。形見として。しかし姉と兄は、ピアノだけが唯一の換金性遺産ということで狙っている。1000ユーロと調律師は鑑定する。きっとその倍はするはずよ、と姉は言う。

女と男は微妙な関係で、お互いにセックスしたいのだが、男は女が妙なのであまりその気でもない。女は良くわからない。結局、二人はlutte(英語ではfightと辞書にはある。バトルというのとは少し違う。喧嘩というか格闘だな。現代はLa seances de lutteだから闘争の情景で、最初のところで女が、ピアノを弾けるのか? という男の問いに、ショパン、でも今の気分はシューマンと答えることや、弾くのが子供の領分だということから子供の情景とかけて格闘の情景ということなのだと思う。全然ラブバトルじゃない)する。男は手加減するが、女は本気の股間蹴りを炸裂させたりして危険極まりない。

毎日女は男を訪れる。最初はサングラスでタトゥーも目立つ(が後のほうではタトゥーがなくなるので単なるシールなのだろうし、それが暗示するように悪ぶっているが全然子供なのだった)、次はGジャン、だんだん服が軽やかになり露出が増える、ノーブラの乳首が目立つようになる。結局することはする。することはするが格闘も続く。

ピアノは兄にほぼ取られてしまう。カメラを盗んだりすることで家族の中の厄介者という立場が明らかになる。

格闘してすることして女は泣き出す。父は私にピアノをくれるといったのに、姉や兄にも言っていた。やれやれやっぱり父親代わりか、と男はうんざりするのだが、それだけとも言い難い。

そうそう、ドワイヨンの映画に出てくる女性はみな病んでいるのだった。ラピラートも、家族生活のジュリエットビノシェ(従妹という役回りだったような)、女の戦いのベアトリスダルとイザベルユペールも、みんなそうだ。ポネットちゃんだって母親を亡くしたばかりでそれを理解できていない子供という設定があるから可哀想ですむがなんかおかしいし、カナダへ追っかけるのもそうだ。

服が少しずつ変わるように、することも、最初は森の中の水溜りで、壁材をこねくり回す納屋の泥の中で、台所の物が乗っかった机と、徐々にまともな方向へ進む。

最後はベッドになる。途中、逃げ出してバスタブの中に隠れて、そこではじめて愛していると言う。が、ベッドに戻ったところでまた格闘が始まり本気の首絞めを決める。男激怒して投げ飛ばす。むちゃくちゃだ。

とにかく狭くて物がいろいろ置いてあるところで格闘するので、怪我しそうなものだが、ちゃんと振り付けているのか、破綻がない。破綻がないといえば、半分格闘しながらセックスしているのに、ちゃんと一線が守られているので、そこもきちんと振付けているのは間違いない。常に構図と身体の動きがきれいにおさまっている。ドワイヨンは偏執的な演出で、異常な心理状態にある人間を描く作家なのだった(ああ、そうか。この作品の場合、女はあまりにやんでれっぽいが、ことセックスがしたいということに関しては男も女も少しも異常な心理状態とは言えないから、普遍的な愛とドワイヨンは豪語しているのだな。変なやつだなぁ)。3回目か4回目の訪問では、女の戦いをほうふつさせる首から上の顔のドアップの切り替えしで会話を行う。

それにしてもどこが普遍的な愛を描いた映画だと予告編を思い出して笑いそうになる。

素晴らしい傑作だった。本当に良い作家だ。

で、ゲルマンの神々のたそがれ。3時間ときいてびびる。が、どこに3時間を使ったのか? と観終って驚くほど凝縮度が高い映画だ。気づくと終わっていた。これまた普通の作家ではないのだ(おれはたまたま日本海映画の試写券を友人にもらったので我が友イワンラプシンから観ることができたが、常にくっきりした輪郭を持った画(白黒フィルムだから可能なことかも知れない)が作られていて、なんだこの作家はと思ったのを覚えているというか、電信柱がある犯人が逃げた丘の手前の道や、兵士を載せて通り過ぎる貨車とか、部分部分の映像を覚えている。同じように車も、雪の街路の向うの壁であるとか、ベリアの風呂(本当の記憶かな?)や、列車の一群などの画が記憶にある。今回のもいくつもの画が記憶されている)。緻密なまでに緻密に小道具を配してまったくあり得ない話を徹底的にリアリズムで作る。

最後の開放感(メガネをかけ小ざっぱりとして登場)が、車を! を思い出させた。が、車を! は最後まで仲間たちと楽しく列車の旅をするが、こちらはいささか様子が異なる。

世界SF全集〈第24巻〉ゴール.グロモワ.ストルガツキー兄弟 (1970年)(-)

こんなおもしろいのなら、原作(神様はつらい)も読んでおけばよかった(持っているのに読まなかった作品の1つで、今は倉庫に入っている。今度取り出して読もう)


2015-04-09

_ 翻訳文学こそ電子書籍にふさわしい

iTunesを利用するようになって何が良かったかについて、以前、友人と話したことがある。オーディオに相当額を投資していて、とんでもなく大音量でクラシックを聴く生活をしている男である。さすがにLANケーブルについては投資はしていないようだが、USBケーブルは投資していて、あまりの太さに仰天した。

面倒だが、ここまでやったぜ、と彼が言いながら、iTunesを開く。

曲でソートすると、何をやったかがわかった。

トラックがちゃんと切れているものについて、すべて曲名を合わせてあるのだ。

なんのことを書いているか、オペラを聴かない人には理解できないだろう。

たとえば、おれは面倒だから基本的に(あまりにひどい結果が戻った場合や、CDDBになくて自分で登録する状況になった場合は別だ)iTunesが設定したトラック名をそのまま利用する。

結果として、たとえばワグナーのトリスタンとイゾルデ第3幕の愛の死は、以下のようになっている(aの上のトレマのドイツ語版は省略している)。

・Mild Und Leise, Wie Er Lachelt(フルトヴェングラーがウィーンシュターツオパーを振ったCD)

・Wagner: Tristan Und Isolde - Act 3: Mild Und Leise Wie Er Lac...(長すぎて表示しきれていない)(ショルティがウィーンフィルを振ったやつ。というか実際は上のフルトヴェングラーと同じ(ウィーンシュターツオパーが録音やコンサートするときにウィーンフィルを名乗る)

Tristan Und Isolde(Wagner, R.)

ニルソン&ショルティ時代の大名演だと思う。が、別に聴く必要をあまり感じない(ならリングを聴く)

・Wagner:Tristan Und Isolde, Mild und leise (カラヤンがベルリンフィルを振ったCD)

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」全曲(デルネシュ(ヘルガ))

美しい。気楽に聴くには一番好きだ。

・”Mild Und wie er lachtet" (クライバーがドレスデンシュターツカペルを振ったCD)最初のと異なりダブルクォーテーションがついている

Trstan Und Isolde(Dietrich Fischer-Dieskau)

(レオンタンプライスは悪くないし、コロとディスカウは超一流で、クライバーは無比の存在だが、あまり好みでは無いので、前奏曲以外はほとんど聴かない)

・Tristan und Isolde, Act III:Mild und leise wie er lacht(ボダンツキーがメトを振ったCD)

Tristan und Isolde(Artur Bodanzky)

音は最悪だが、フラグスタート全盛とはこれかとわかる(最高音でのシュヴァルツコフの吹き替えなどの逸話もある晩年のフィルハーモニア盤よりこちらのほうが張りがあるのがわかる)。5:35からの素晴らしさ。一番好きかも。しかし音が悪い。

要するに、てんでバラバラだ。っていうかいちいちトラック名にWagner:とか付けるなよと思う。

ところが、友人は、こういったばらばらな結果をすべてMild und Leise, Wie Er Lacheltに統一しているのだ。

結果として何ができるかというと、曲名でソートすると、簡単に聴き比べられる!(それこそが、クラシックの楽しみなのだ。時代によって大きく演奏スタイルが変わり、しかしその中にあって傑出した音楽家は独自の演奏を行い、同じ指揮者でも歌手やオーケストラによって変わり、時期によって変わり、同じ歌手が指揮者によって変わり、時期によって変わり、(目に見えないが)演出によって変わる)

(ちなみに、友人のところにカラヤンは無いかわりに、ベームがあるし、フルトヴェングラーがさらに多い)

おれのiTunesとはえらい違いだ。アルバム名ですら、Tristan Und Isolde [Disc3]という表記やら、Wagner: Tristan Und Isolde (3)やら、ばらばらである。

では、聴き比べるかと、シエピのドンジョヴァンニがどれほど比類ないかについて延々とLa ci darem la manoを聴かされることになった(もしかすると、どれだけステファーノが素晴らしいか延々と女心の唄の聴き比べになったのかも。ちなみに、この聴き比べの結果、おれの中でマリオデルモナコの評価は地に落ちた(アンドレアシェニエは未だに最高だけど))。

これ、本当に良い時代になったもんだ。だってLPのときはできなかったからなぁとしみじみと言う。針あげて、盤をターンテーブルから取り出してジャケットにしまって、別の盤をジャケットから取り出して拭いて(LPは直接針が乗るので拭く必要がある。拭かないと塵を針が轢いておそろしいことになるのだ)ターンテーブルに乗せて、針を乗せて(トラックの途中に進めるのでここに微妙な加減が必要)、やってらんないから、やれなかった。CDになって、拭く必要もなければ、トラックの先頭にはすぐに進められるようになったけど、それでも盤の取り替えは面倒くさい。そもそもリングを聴こうと思ったら、LPなら30枚以上(両面だよ)、CDだって15枚くらいある。

それが見て見ろ、今は、クリック一発だ。本当に素晴らしい!

というやり取りを新訳でびっくり。カフカ『変身』の主人公は、本当に「毒虫」に変身したのかを読んでいて思い出した。

そういえば、おれは悪霊が好きで、図書館でいろいろ読み比べたことがある。

結果として、江川卓が一番好みだと言うことがわかった。

悪霊(上) (新潮文庫)(ドストエフスキー)

というか、もともと江川訳でステパン氏(ネチャーエフの役回りのドミトリ(だと思ったがさすがにスタヴローギンとステパン氏以外の名前は忘れている。でもキーロフはキーロフだな)の父親で確か大学教授(インテリ)なので心情左翼ではあるけれど、暴力革命を支持することはできないため若者たちの前でおろおろする損で滑稽な役回り)について、とぼとぼ歩く愚かしい姿があった、というような描写があって実に言い回しの妙に感心して、他の訳者ではどうなっているか読み比べたのであった(が、思い出そうとしても全然覚えてないや)。

あとは、日々の泡についての読み比べとか。

最初に曽根訳を読んでえらく感じ入った(高校の図書館でだ)。あまりに気に入ったので買おうと思ったがそのときにはどこにも売っていなかった。

日々の泡 (新潮文庫)(ボリス ヴィアン)

(再刊されてよかったね)

しばらくすると、なぜか早川が全集を出したので当然、買いそろえた。

うたかたの日々 (ハヤカワepi文庫)(ボリス ヴィアン)

が、おかしい。スケートリンクのところが文章の体を呈していない。もっと普通だったようなのにおかしいなぁ。

で、さらにしばらくしてアテネの教材に使われたので読んだ。

L'Écume des jours (French Edition)(Vian, Boris)

(持っていた10/18のやつはないみたいだし、手元にも見当たらないが、Kindleで300円台なら買っちまおうかな。しかし今も読めるんだろうか?)

やっぱり伊東守男訳はおかしいじゃん。ってことは、こんなに楽しめているアンダンのトラブル(一番好き)も実はバグなのか?

ボリス・ヴィアン全集〈1〉アンダンの騒乱(ボリス・ヴィアン)

(で、これも10/18で買ったのだが(こっちは手元に残っている)、先生無しでは読めないことがわかって、翻訳とか先生とかのありがたさを知るのであった)

で、こういったことをiTunesのオペラ聴き比べみたいにやりたいわけだよなぁ。

カフカのやつも冒頭の比較だけど、もっとここぞという個所(悪霊だとステパン氏がとぼとぼ歩くところ)でやりたくても、頭出しが面倒過ぎる。もっと、それをピシッとやりたいものだ。今の電子書籍はそこまで進んでいないけど、それでも紙の本よりはましな可能性がある。問題は、読み比べたいものは白水社とかなんだよな。(でもシェイクスピアの読み比べはちょっとやったのを思い出したけど、Kindleでは本よりも遅すぎて話にならなかった)


2015-04-11

_ 前橋のうるい

前橋駅がさびれているさびれていると妻が言うのでどれどれと見に行った。

駅ビルとは思えないんだから! という。

カーナビに駅を設定してもらったら、北からのアプローチになって、見るとエキータというビルをさして、ここと教えてくれた。

なるほど、駅の北でエキータか。いかにも地方のJRの駅ビルだわいと思いながら(ふとWikiepediaを見てみたらJRは無関係だった。公式ホームページのリンクがあったので見てみたらここには誰もいない)駐車場に入れると混んでいるじゃないか。あれ? 結構、車が停まっていると妻も不思議そうだ。が、1フロアあたりの台数が少ないのだ。結局3階(実質2階)に回ると空きがあり停められた。

で、レストランフロアに降りると閑散としている。1軒はランチが終わったらしく準備中、ラーメン屋は営業中、あとは閉まっている。ゲームコーナーも閑散としているというか、誰もいない。今、このフロアにいるのはラーメン屋のおっさんと、準備中の店で何か食べている従業員(3人くらい)、そしておれたち夫婦だけに見える。

1階におりるとさらに閑散としている。というか、誰もいない。

妻がトイレに行っている間にフロアーマップを見ると、リニューアル中と書いてあるので、それで店子がいないのかなぁと考えるのだが、それにしたって、そもそも街を歩く人がいないし、駐車場の1階分の車は従業員の車ではなかろうか。客が存在するとは思えない。

で、そんな1階ではあるが、一か所ちゃんと営業している店があって店員が二人いる(客はおれたちしかいない)。

それが食の駅だった。

ここで、と妻が言う。はこちゃんまんじゅう(なんだかわからないけど、おやきの発展形のような饅頭)とか買えるし、タラの芽が売ってたよ(もともとは、関越のSAでタラの芽が入ったソバを食うかという話から、SAのわけのわからないタラの芽よりも、先週行ったとき駅ビルの群馬物産コーナーみたいなところ(食の駅というから道の駅のようなものかと思って、こんなことを言っていたのだが、実際には地元の物産も扱うぱっとしないスーパーみたいな感じだ)で売ってたから、そこで買った方がおいしそうだという妻の提案でここに来たのだった。いや、先週売ってたからと言って今日あるとは限らないじゃんと言うと、いや大丈夫、どこにも客がいないから売れ残っているって(もちろん冗談だが、実際に来てみると半分本気だったのかも知れないくらいに客がいない)。

で、野菜コーナーへ行くと、あるある。タラの芽もあればうまそうなウドもある。安いので買いまくる。そこに細長い白いところが多い野菜があって、うるいと書いてある。うるいってなんだ? と気になってそれも買った。前に作ったことがあるよ、とか妻が言うのだが記憶にない(言った本人もあまり記憶にないらしくどうやって食べれば良いのかと聞いてもむにゃむにゃしている)。見た目は、なんか、チコリをさらに長くしたみたいな感じだ。

チコリの一種だとしたら生で食えばいいのか? と思っているとPOPにゆでてお浸しや味噌汁の具にも良いとか書いてあるのを見つけた。(エキータに買いに来る人にもそれほど知られている食い物ではないようだ)いずれにしてもチコリとは違いそうだ。

で、家に帰って味噌汁を作る。

水に鰹節のスライス(が最近は売っているので使う。本当は煮立ってから入れるのだろうが、面倒なので水からだ。ついでに長ネギをぶつ切りにしてこれも突っ込む)。しばらく煮立ててから、きっと菜っ葉の一種なんだから湯がく程度でよいだろうから、まず半分に切った下のほうを入れて、次に味噌入れてまた煮立ってきたところで上のほうも入れて、ちょっとかき混ぜておしまい。

で食べると食感が実に良い。味はあまりないので山菜っぽくないが(たいていの場合、山菜が野菜になれないのは、えぐみがあったりするからだと思うが、うるいに関しては逆に味があまりないのが野菜になれない理由に感じた)、皮と皮の間にぬたっとした層があって食感が本当に気持ち良い。これは良い買い物をした。

(うるいという名前は覚えにく過ぎるので、書いて覚えるをやってみた)


2015-04-12

_ 新国立劇場で運命の力

11日は、運命の力。これは完全に初見で、粗筋もその場でプログラムを眺めて知った程度。なんかやたらと人間関係が複雑そうな印象を持っていたらそうではなかった。

一見すると筋は通っているのだが、おそらく途中で作り直しを何度もしているように思う。早い話でたらめで、そのでたらめっぷりはイルトロヴァトーレを越えるし、最後の無茶な終結っぷりはドンカルロスよりもひどい。

幕があくと、若い女性がどきどきしている。今夜は駆け落ちする日なのだ。そこに親父がやって来て、どうやらお前もあの卑しい者をあきらめたようだなと説教する。親父出て行く。小間使いがいよいよですねと言い出す。すると若い女性(レオノーラ)は、唐突に逡巡しはじめる。遠くから馬が近寄って来る。男(ドン・アルヴァーロ)登場。さあ、出発だ。ちょっと待って、お父様にあいさつをしてから。はあ? そうね無理ね。では明日ということで、はあ? というとんでもないやり取りになる。レオノーラってバカなのか? と見ていていくらオペラでもここまですさまじい薄ノロは滅多に見られるものではないと呆れかえってしまう。そうやってのろのろのろのろしているせいで、当然のように親父再登場。ああ、お前は! するとドンアルヴァーロ、ここは私に任せなさいといって銃を取り出す。きゃーとレオノーラ。いやそうじゃない、とアルヴァーロ。親父に向かって、私を罰して下さい。ほらこの通り丸腰です。と言って銃を親父のほうに投げる。すると暴発。このくそやろう、呪ってやると言い残して親父死ぬ。侍女があわててレオノーラを連れて逃げる。アルヴァーロ、茫然としているが、進退きわまって立ち往生しているうちに、場面転換(この場面転換はおもしろい)。

ここまで、アルヴァーロ役のトドロヴィッチの不思議な歯切れのよい歌唱になんとも言えない気持ちになる。不思議な歌だ。いっぽう、レオノーラのタマーは悪くない。

さて第2場、ロバ引きがやって来るので、宿場とわかる。ハゲの体格の良い男がどうやら、レオノーラの兄貴らしくて、家名に泥を塗りたくった妹とアルヴァーロを殺すために旅をしているらしきことがわかる。レオノーラがそれに気づいて歌を歌うが、どこにいるかさっぱりわからない(男装していたようだ)。

兄貴のフェリーチェが素晴らしい歌手。好きだなぁ。

一方、ロバ引きは日本人テノールらしからぬ、明るく気持ちよくはっきした歌で、最近の若い歌手(先日観た後宮からの逃走のペドリロ役の人もそうだった)は鼻にかけずにはっきりと朗々と気持ちよく歌うスタイルを習うようになったのかなぁとか思う。つまり好きだ。

そこにジプシー女(ケモクリーゼ。スタイルも良ければ声もきれいで似合っている)がいてスペインのために戦争へ行こう、敵を追い出せと、旅館の客たちにけしかける。うーん、どちらかというと、カソリックスペインよりもイスラムのほうが生活しやすいんじゃないか? と疑問に思うが、あまりそういうことを考えた脚本ではないので、愛国ジプシーということで了解する。

ちょっとエキゾチック混じりで合唱も良い調子ではいる楽しい曲。

一方、レオノーラは修道院へ逃げ込み、修道女になれという院長の言葉を即座に完全拒否し、岩穴に籠ることを宣言する。なんだかよくわからないが、どうも、自殺を認めないカソリックならではの、緩慢な自殺を意味するようだ(即身仏ほど過激ではなく、少しはパンを運んでもらえるらしい)。

休憩。

3幕になると、野戦病院(と、ベッドが並んでいるから思ったが、そうではなく、軍営らしい)で、いきなりアルヴァーロの長い述懐が始まる。作劇上はリゴレットのマントヴァ公みたいだな。

おれの親父はスペインによる圧制に怒ってインカ帝国を復興しようと母である王女と結婚した(ということは混血なのだろう)。しかしおれは赤ん坊のころに遠い親戚に身分を隠して預けられた。おかげでこうやって生きているが、両親は反乱者として断頭台へ消えた。

唐突に高貴(とりあえず王族だ)な身分ということが明かされた。

おれはすべてを失った。愛するセビリアとレオノーラ。

いつの間にか、こいつの中ではレオノーラは逃げる最中に殺されたことになっているようだ(それで探さずに軍隊に居るのか)。

と、あっという間に、いろいろな物語の説明を繰り広げるが、良い歌。

そこにケンカだケンカだと声がする。アルヴァーロは部下と一時退場。

次にアルヴァーロとはげ兄貴登場。

一体なにがあったんだ?

賭場のケンカだ。

なぜそんなところにいたんだ?

昨日来たばかりだ。

という訳のわからない会話をしながら、ケンカに巻き込まれて殺されそうになった兄貴をアルヴァーロが助けたらしいとわかる。

友情行進曲が始まる(が、ドンカルロのやつに比べるといまいちかな)。

で、敵が攻めてきて解散。

次に、アルヴァーロが担架で運ばれてくる。兄貴、命の恩人の貴官を救うためならなんでもするぞ、と意気込む。貴官は本当の英雄だ。カラトラーヴァ勲章(レオノーラと兄貴の家名)が出るぞ。なに? カラトラーヴァ? とアルヴァーロの顔色が変わる。なんと、こいつはおれの仇に相違ないとすぐに納得する兄貴。

それはそれとして、おれは死ぬ。と、アルヴァーロ。頼む。この小箱の中の手紙を燃やしてくれ。

そして医者が手術のためにアルヴァーロを連れ出す。

兄貴一人残る。

あいつは命の恩人で戦場の英雄だ。だが、カラトラーヴァと耳にした途端に青ざめた。やつが仇に間違いない。この手紙を読むと、きっとわかるんだろうなぁ。誰も見てないから読んでみるか。は! いかんいかん、おれが見ている。男の約束もしたではないか。いかんいかん、卑しい男になるところだった。ふむ、肖像画が入っている。これは見ないとは約束していないから見てみよう。なんと! レオノーラ! やっぱり野郎、アルヴァーロか。くそくそ絶対にぶっ殺す。

という誇りも高いがなんとなく下品な感じもする歌を歌うのだが、これが名曲。しかも名歌唱。すばらしい。

さて第4幕。修道士が貧民に修道院の残飯を配っている。もっとくれ、はやくくれ。と貧民が歌う。

あっちへ行け、この乞食。おまえらに食わせる飯はない。

なんて乱暴なこと言う坊主だ。あーあ、ラファエロ神父は良かったな。

ラファエロはお前らにお優しすぎてノイローゼになって引きこもってるよ、このくずめらめ。おまえらにやる飯はない。

その残飯をおれにくれ。

残飯だと? 施してやっているのに、なんたる言いぐさ、乞食め去れ。

なんだなんだ、この歌とやり取りは。

と唖然とする。運命の力という題名がそもそも反神学的だと思ったが、反カソリックのオペラなのか? と思っていると、院長が出てきて、施しは我らの勤めとか歌い出す。

が、残飯なのは間違いなさそうだなぁ。

ラファエロ神父は良かったなぁと歌う貧民たち。

修道士は院長にペラペラしゃべる。ラファエロに、やいインディオ野郎と言ったら怒り出しましたよ。きっとあいつインディオですよ。

なんだ? この差別野郎は、とびっくり。

そこに兄貴登場。どうやら先ほど噂のラファエロはアルヴァーロらしい(まあ、インディオとか突然言い出したわけだし)

かくして兄貴とアルヴァーロの対決となる。

兄貴が言う。やい腰抜け、ナイフを取れ。

おれは腰抜けではない! 血を見せてやる。いや、いかんいかん。私は聖職者。

やい、お前の両親もお前もくずだ。

なに! 家を侮辱したな。ぶっ殺す。いや、いかんいかん、私は聖職者。

という、らちが明かない繰り返しを何度も繰り返した挙句、結局、決闘になって場面転換。

岩穴の中のレオノーラ。

ここに来れば平安を得られると思ったけど、さっぱりだわ。なんてことなの。あ、そうか。パンを食べているのがいけないのね。

……いや、最初からそういう役回りだとは思っていたが、この歌詞はひどい。

何者? ここへ近寄るではない。

チャチャーン!

と、終結。

え、こう終わるのか。決闘の結果、どちらかが生き残ったけど、それは藪の中として観客に考えさせるのかな。

と思ったら、続きがあってアルヴァーロ登場。

なんだかなぁ。どう聴いてもあの最後でオペラは終わっているが、曖昧な終了を劇場支配人かリコルディが許さなかったのだな、と思いながら、見ていると、レオノーラとアルヴァーロ、再会に歓喜するが、兄貴を殺したというアルヴァーロの言葉にわれに返ったレオノーラは岩穴の外に倒れているらしい兄貴を見に行く。

きゃー。

実は兄貴は生きていて、家名を汚した妹を刺殺したのだ。もちろん、兄貴がすぐには死ななかったように、妹もすぐには死なずに、岩穴に戻って来る。

アルヴァーロとレオノーラ、さらには院長までやって来て(兄貴の死体は見なかったのかな?)、見事な三重唱が始まる。

音楽は素晴らしいが、話の乱暴さに唖然。

おれの予想だが、3幕になるまで、アルヴァーロがインカ人の末裔だと明かされないということは、企画段階ではシチリア生まれの美男子、激情家を想定(スペインハプスブルクから副王が来ているのだからそれほどおかしくはない)。話の大筋、復讐物語が決まる。

なんかいろいろあって、シチリアではつまらないので、インカ帝国にしてみる。

復讐譚だけだと暗くなる一方なので、口の悪い修道士を出して笑いを取ろう。ついでにカソリックの検閲が通りやすくなるように神を称えまくろう。でも、それやり過ぎると時代遅れだし。でも、題名は運命だし、院長は無力だし、実際、神は沈黙したまま(つまり死んでいる)から、観ている人は神を称えるふりしているだけとわかってくれるだろう、とか、いろいろ辻褄を合わせて作ったように思える。

脚本のひどさはこれまで観たヴェルディの中でも最高峰だ。ドンカルロスは最後が唐突なだけで、主人公の愚かさでちゃんと説明できるし、イルトロヴァトーレのでたらめっぷりはジプシーの母親の恐怖と復讐への妄念によるものだということでOKだし(それがマンリーコの実力過信も生んでいるとすれば)、でも、音楽は充実しまくっている。(最後はおかしいと思うけど)

演出はすっきりと、第一次世界大戦あたりに持ち込んでいて良い感じ。舞台の使い方はおもしろい(新国立劇場の奥行をうまく利用して2つの構成要素を組み合わせるようにしてある)。

指揮はテンポが実に良いと思った。あとはとにかく兄貴のフェリーチェが気持ち良い。

_ catchしないtry

Java7ベースで開発しているとcatchもfinallyも書かずに済ませられるのはソースコードの簡潔さという点でなかなか便利だ。
public void foo(String name) throws IOException {
    try (FileReader fr = new ...) {
        ...
    }
}
なのだが、上位で例外を掴んでログを取るときにちゃんとスタックトレースを残しておかないと、どこで死んだかさっぱりわからなくなる。

2015-04-13

_ 湖上の美人

メトのライブビューイングでロッシーニのハイランダーもの。

フローレスがスコットランド王。ディドナートが宮廷の内紛からハイランダー側に寝返った大臣の娘。それにハイランダーの酋長?(部族長?)のテノールと騎士のメゾソプラノがからむ。

とにかくみんなコロラトゥーラで、酋長は出てくるやいなやハイハイで(ジョンオズボーンという人。すごい)、二幕になるとスコットランド王とハイランダーの酋長がハイシー連発機銃掃射でバトルするというとんでもないサーカスみたいな作品だった。むちゃくちゃ面白い。

幕間インタビューで騎士役のダニエルバルチェローナが、ズボンを履いたズボン役と違ってスカートだから気持ちの切り替えが難しいというようなことを言っていてちょっと面白かった(普段ズボンを履かないのだろうか)。


2015-04-17

_ 15年前に気付かなかったこと。

ActiveScriptエンジンにJScriptを選択した場合の一番の問題はin/outパラメータにある。

in/outパラメータというのは、具体的には、引数に対して値を返せるものだ。Cならお馴染みなので、Javaでもやりたがる人がいて、無理矢理配列にしたりするあれである。

void c_func(int* p) {
  *p = result_value;
}
を無理にJavaでやろうとして
void java_method(int[] p) {
  p[0] = result_value;
}
で、ActiveScriptは本来的にVBScriptがプライマリ言語なので、当然のように呼び出し可能なCOMコンポーネントにも山ほどin/outパラメータが出てくる。
interface COMobject {
  [id(1)] HRESULT hello([in,out]BSTR* greeting, [out, retval]long* pResult);
}
でVBScriptだと
dim greeting
If object.hello(greeting) = 0 Then
  WSH.echo greeting '結果が返っている
End If
で、このてのやつをJScriptから呼ぼうとすると型エラーとなる。
var greeting;
if (object.hello(greeting) == 0) {  // エラー型違い
  WSH.echo(greeting);
}
と言う問題があって、JavaScriptを使いたくてもVBScriptを選択せざるを得ないことがあった。
これは簡単なラッパーをかませることで対応できると気付いた。
HRESULT Wrapper::Invoke(....) {
  IDispatchEx* p; // JScriptのオブジェクトはIDispatchExなので話が簡単
  pDispParams->rgvargs[0].pdispVal->QueryInterface(IID_IDispatchEx, (void**)&p);
  DISPID dispid;
  p->GetDispID(CComBSTR(L"value"), 0, &dispid);
  VARIANT var;
  p->InvokeEx(dispid, LOCALE_SYSTEM_DEFAULT, DISPATCH_PROPERTYGET, &noargs, &var, 0, 0);
  p->Release();
  pDispParams->rgvargs[0].vt = VT_BSTR | VT_BYREF; // idlのin,outの型に合わせる。
  pDispParams->rgvargs[0].pbstrVal = &var.bstrVal;
  HRESULT hr = wrappedInterface->Invoke(....);
  return hr;
}
呼び出し側は上に合わせて
  var inoutparam = { value: '' };
  if (objectWrapper.hello(inoutparam) == 0) {
    WSH.echo(inoutparam.value);
  }
もっともJavaScript同士と同様に、値オブジェクトの利用が正解だとは思う。
function hello() {
  return { greeting: 'hello world',  // Javaでもこのくらい簡単に記述できれば配列をパラメータにして結果を返すなどという妙なことをする人は出て来なかっただろうな。
           resultCode: 0
         };
}
と同じように、
interface Result {
  [id(1), propget] HRESULT greeting([out, retval]BSTR* p);
  [id(2), propget] HRESULT result([out, retval]long* p);
}
で、
  var r = object.hello();
  if (r.result == 0) {  // なぜ戻りコードが必要かは謎。エラーなら例外で良いのではなかろうか。
    WSH.echo(r.greeting);
  }

2015-04-20

_ 吉田さんの家を訪問

群馬から東京へ戻るのに、上を通れば北陸自動車道で、下を通れば中山道ばかりでつまらないので、カーナビが一番勧めないコースを選んでみた。

254号線だ。今調べたらこれが川越街道なのか。

ちょっと妙な感じもする道で、特に藤岡市のあたりは変なのだが、荒涼としているのだ。途中、いかにも研究所という感じの建物が左に見えて、なんて書いてある? と妻に看板を読ませると原子力研究所で、荒涼としているだけに、そのての研究所があるのかなぁとか思いながら先へ進む。

神流川(これでかんながわと読むのには驚いた。橋の手前には「神流川」と書いてあるのでじんりゅうがわかなとか思うのに、橋を渡りきると平仮名でかんながわって書いてある。しかも、えらく長いらしい自転車専用道(と書いてあるし、見ると車では入れない細さの舗装道路がえんえんと続いているのが見える)を越えて埼玉へ入る。

(2015/5/9 烏川と神流川がごっちゃになっている。自転車専用道は烏川の埼玉寄りの側にある)

途中、右へ行くと秩父だなというところを左に行ってしばらくすると、山の中だ。ここらあたりが嵐山かと、なるほどところどころに渓谷はあるし、不思議なところだ。

さらにクレヨンしんちゃんの画が書いてある妙にテカテカしたピラミッド(シタデルに花崗岩を奪われる前の、本来の光り輝いていたギザのピラミッド)みたいなでっかな建物がでてきて、なんだろう? と思いながら(どこかの工場だったようだが忘れた)進む。

さらにしばらく進むと、どーんとでっかなホンダの工場地帯が出てきてびっくりした。

そのとき、右側に、「重要文化財 吉田家住宅」と書いた看板に気がついた。

なんだろう?

だいたいこんなところに重要文化財というのも良くわからないし、寄ってみることにした。妻がスマホで調べると、埼玉県最古の住宅(約300年前で元禄期あたり)だということらしい。蕎麦屋をやっていると書いてあるというが、別に腹は減ってないなぁとか言いながらとりあえず向かう。

すると、山があってふもとに家があって道路があって、田畑があって川があるという典型的な日本の田舎風景となった。

そこの山のところに、吉田家があった。

藁葺の立派な家だ。

中に入るとタケノコがバケツに入って売っている。そのほか、唐辛子だのいろいろ売っている。観光地に来た観光客だから、あとでタケノコを買うかと考えながら、うろうろする。

先客がいて、おばあさんがいろいろ説明している。一通り説明が終わったらしくこちらに来たので、とりあえず団子を頼んだら、もう遅いからおしまいだという。

はて団子はあるのに、と思ったら、囲炉裏で焼くのだが火が消えてしまったのだという。

でも燠火があるから、大丈夫かも、とまだ赤い炭を寄せてそこに網を置き、あとは自分で焼けと言われた。醤油味は適当に焼けたら竹の筒に入った醤油につけて、もう一度焼き、全体が乾いたらもう一度漬けて、さらに炙ったら食べられる。餡子のほうは、これでお終いだから全部使っていいよと弁当箱を渡された。

で、神妙な顔つきで団子をころころ焼いたりしてみた。

写真を撮ろうとしたら家の中が薄暗いからか、燠火だけでえらくハレーションがおきて、おもしろい。

なかなか香ばしいなと食っていると、米の粉だけで作った団子だよ、と教えられる。新粉だな。

トイレへ行くかと裏のほうから出ようとすると、この扉は低いから頭をぶつけないように気をつけろと言われた。確かに低い。ところが、この右手は馬小屋なので、馬を入れるときは、この扉全体を開けるのだ、と二重構造を見せてくれた。

うむ、猫扉と人間扉の関係が、人間扉と馬扉なのだな。

で、普通はこの高さで十分だが、あちらの(と、正面の最初に入った扉をさす)はさらに高い。

なぜ、そんなに高いのかというのは、実際のところはわからないのだが、入って左の一段高いところには畳が敷いてあったらしいということが調査してわかった(井草でも出て来たのかな?)。本来、百姓は畳は使えないことになっている(商人が絹を着てはならない、というようなことだな。封建時代というのはくだらないルールが多い)。なのに畳があるということは、おそらく、そこには馬に乗ったまま代官なりなんなりが入って来てそのまま通すようになっていたのではないかということらしい。

で、こちらの馬小屋だが、なぜこれが馬小屋とわかったかというと、土間より一段低くなっている。地層が異なるのであとから埋めたということがわかったのだ。馬はイバリをすれば糞もする。土間と同じ高さだと人間のところに流れてきたりして厄介だ。というわけで一段低く作るものらしい。ここは2頭入れるサイズだったのだが(そういうふうに掘り下げられていた)、一度屋根を葺き替える時に削ってしまったのではないかということで、こないだ修繕したときにきっとこうだったのだろうという形に直してみた。

(どうも、長い年月の間に改築したり改装したり生活習慣が変わったりで、内部にいろいろ手が入って元々どうだったかは学術調査していろいろわかったらしい)

というように、話はおもしろい(プロのガイドといえばプロのガイドだからうまくても当然かも知れないが、この家の関係者だよなぁ多分)が、「らしい」がえらく多い。

本当に、徳川幕府はバカだ。

ひまなときに、農民ったってこれだけでっかな家の持ち主だ。筆と紙とほんのちょっとの教育を与えれば、いろいろメモを残しただろうに(畳奉行ですら残すのだ)、あの連中がばかで、くだらない政策をとるから、何も本当のところはわからんじゃないか(もちろん連中の目論見としては、字が書けて読めれば、軍事行動のための計画、作戦伝達などが自由にできてしまうから、それを政権としては避けるためという立派な名目があるわけだが、おかげで未来のおれたちにはこの国のことが良くわからないというおまけがついてしまった)。

元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世 (中公新書 (740))(神坂 次郎)

と、こういう話を聞くと、つくづく徳川家康の先見性の無さを思い知るのだが(結局、おそれていたとおり、薩長に食われたわけなんだから、国民(封建制だから自国の人間=天領の人間ということになるのだが)に教育の自由くらい与えておけば良かったのだ。そうすれば、赤報隊あたりの下劣な宣伝にころりとだまされて甲州-秩父の人間が薩長を歓迎するなどということもなく態勢を整え直すことだってできたかも知れないのだ)、それでも知らないことばかりでえらくおもしろい。

小川町は紙の産地でもあるので、明り取りには紙(ということはつまりは障子なのだが、桟が狭いのでなるほど、明り取りには良いものなのだとわかった)。

煙突で煙を逃さないのではなく、煙をまんべんなく屋根に下から回すことで、酸による虫避け剤の塗布効果にする。

茅葺屋根は、ツーバイフォーに乗っているのと同じ。乗っているだけなので、隙間をそこら中にあけておくので、煙はそこらじゅうから出て行く。乗っているだけといってもすさまじく重いから飛ばされたりはしない(乗っているだけと聞いて不思議に思っておれが聞いたのだった)。

夏の暑さをしのぐことのほうが重要だったのだな。

で、筍を買って帰った。


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