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群馬から東京へ戻るのに、上を通れば北陸自動車道で、下を通れば中山道ばかりでつまらないので、カーナビが一番勧めないコースを選んでみた。
254号線だ。今調べたらこれが川越街道なのか。
ちょっと妙な感じもする道で、特に藤岡市のあたりは変なのだが、荒涼としているのだ。途中、いかにも研究所という感じの建物が左に見えて、なんて書いてある? と妻に看板を読ませると原子力研究所で、荒涼としているだけに、そのての研究所があるのかなぁとか思いながら先へ進む。
神流川(これでかんながわと読むのには驚いた。橋の手前には「神流川」と書いてあるのでじんりゅうがわかなとか思うのに、橋を渡りきると平仮名でかんながわって書いてある。しかも、えらく長いらしい自転車専用道(と書いてあるし、見ると車では入れない細さの舗装道路がえんえんと続いているのが見える)を越えて埼玉へ入る。
(2015/5/9 烏川と神流川がごっちゃになっている。自転車専用道は烏川の埼玉寄りの側にある)
途中、右へ行くと秩父だなというところを左に行ってしばらくすると、山の中だ。ここらあたりが嵐山かと、なるほどところどころに渓谷はあるし、不思議なところだ。
さらにクレヨンしんちゃんの画が書いてある妙にテカテカしたピラミッド(シタデルに花崗岩を奪われる前の、本来の光り輝いていたギザのピラミッド)みたいなでっかな建物がでてきて、なんだろう? と思いながら(どこかの工場だったようだが忘れた)進む。
さらにしばらく進むと、どーんとでっかなホンダの工場地帯が出てきてびっくりした。
そのとき、右側に、「重要文化財 吉田家住宅」と書いた看板に気がついた。
なんだろう?
だいたいこんなところに重要文化財というのも良くわからないし、寄ってみることにした。妻がスマホで調べると、埼玉県最古の住宅(約300年前で元禄期あたり)だということらしい。蕎麦屋をやっていると書いてあるというが、別に腹は減ってないなぁとか言いながらとりあえず向かう。
すると、山があってふもとに家があって道路があって、田畑があって川があるという典型的な日本の田舎風景となった。
そこの山のところに、吉田家があった。
藁葺の立派な家だ。
中に入るとタケノコがバケツに入って売っている。そのほか、唐辛子だのいろいろ売っている。観光地に来た観光客だから、あとでタケノコを買うかと考えながら、うろうろする。
先客がいて、おばあさんがいろいろ説明している。一通り説明が終わったらしくこちらに来たので、とりあえず団子を頼んだら、もう遅いからおしまいだという。
はて団子はあるのに、と思ったら、囲炉裏で焼くのだが火が消えてしまったのだという。
でも燠火があるから、大丈夫かも、とまだ赤い炭を寄せてそこに網を置き、あとは自分で焼けと言われた。醤油味は適当に焼けたら竹の筒に入った醤油につけて、もう一度焼き、全体が乾いたらもう一度漬けて、さらに炙ったら食べられる。餡子のほうは、これでお終いだから全部使っていいよと弁当箱を渡された。
で、神妙な顔つきで団子をころころ焼いたりしてみた。
写真を撮ろうとしたら家の中が薄暗いからか、燠火だけでえらくハレーションがおきて、おもしろい。
なかなか香ばしいなと食っていると、米の粉だけで作った団子だよ、と教えられる。新粉だな。
トイレへ行くかと裏のほうから出ようとすると、この扉は低いから頭をぶつけないように気をつけろと言われた。確かに低い。ところが、この右手は馬小屋なので、馬を入れるときは、この扉全体を開けるのだ、と二重構造を見せてくれた。
うむ、猫扉と人間扉の関係が、人間扉と馬扉なのだな。
で、普通はこの高さで十分だが、あちらの(と、正面の最初に入った扉をさす)はさらに高い。
なぜ、そんなに高いのかというのは、実際のところはわからないのだが、入って左の一段高いところには畳が敷いてあったらしいということが調査してわかった(井草でも出て来たのかな?)。本来、百姓は畳は使えないことになっている(商人が絹を着てはならない、というようなことだな。封建時代というのはくだらないルールが多い)。なのに畳があるということは、おそらく、そこには馬に乗ったまま代官なりなんなりが入って来てそのまま通すようになっていたのではないかということらしい。
で、こちらの馬小屋だが、なぜこれが馬小屋とわかったかというと、土間より一段低くなっている。地層が異なるのであとから埋めたということがわかったのだ。馬はイバリをすれば糞もする。土間と同じ高さだと人間のところに流れてきたりして厄介だ。というわけで一段低く作るものらしい。ここは2頭入れるサイズだったのだが(そういうふうに掘り下げられていた)、一度屋根を葺き替える時に削ってしまったのではないかということで、こないだ修繕したときにきっとこうだったのだろうという形に直してみた。
(どうも、長い年月の間に改築したり改装したり生活習慣が変わったりで、内部にいろいろ手が入って元々どうだったかは学術調査していろいろわかったらしい)
というように、話はおもしろい(プロのガイドといえばプロのガイドだからうまくても当然かも知れないが、この家の関係者だよなぁ多分)が、「らしい」がえらく多い。
本当に、徳川幕府はバカだ。
ひまなときに、農民ったってこれだけでっかな家の持ち主だ。筆と紙とほんのちょっとの教育を与えれば、いろいろメモを残しただろうに(畳奉行ですら残すのだ)、あの連中がばかで、くだらない政策をとるから、何も本当のところはわからんじゃないか(もちろん連中の目論見としては、字が書けて読めれば、軍事行動のための計画、作戦伝達などが自由にできてしまうから、それを政権としては避けるためという立派な名目があるわけだが、おかげで未来のおれたちにはこの国のことが良くわからないというおまけがついてしまった)。
元禄御畳奉行の日記―尾張藩士の見た浮世 (中公新書 (740))(神坂 次郎)
と、こういう話を聞くと、つくづく徳川家康の先見性の無さを思い知るのだが(結局、おそれていたとおり、薩長に食われたわけなんだから、国民(封建制だから自国の人間=天領の人間ということになるのだが)に教育の自由くらい与えておけば良かったのだ。そうすれば、赤報隊あたりの下劣な宣伝にころりとだまされて甲州-秩父の人間が薩長を歓迎するなどということもなく態勢を整え直すことだってできたかも知れないのだ)、それでも知らないことばかりでえらくおもしろい。
小川町は紙の産地でもあるので、明り取りには紙(ということはつまりは障子なのだが、桟が狭いのでなるほど、明り取りには良いものなのだとわかった)。
煙突で煙を逃さないのではなく、煙をまんべんなく屋根に下から回すことで、酸による虫避け剤の塗布効果にする。
茅葺屋根は、ツーバイフォーに乗っているのと同じ。乗っているだけなので、隙間をそこら中にあけておくので、煙はそこらじゅうから出て行く。乗っているだけといってもすさまじく重いから飛ばされたりはしない(乗っているだけと聞いて不思議に思っておれが聞いたのだった)。
夏の暑さをしのぐことのほうが重要だったのだな。
で、筍を買って帰った。
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