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曲名が女の名前の曲というのを読んでいて、そりゃヴァレリーだとすぐ思ったが、そのヴァレリーが見つからない。
検索するとエイミー・ワインハウスのヴァレリー(Valerie)がヒットする(というか、ほぼそれしかヒットしない)が、これじゃない。
スティーブ・ウィンウッドのも違うし、ワインハウスの元曲のズートンズのやつも違う(ズートンズの別カバーの可能性もあるがサビのバレリーのルフランが違って、もっと、ヴァッッレ、リーみたいなシャウトとなる曲調だった記憶はある、と書いてみたがズートンズって1960年代のバンドじゃなくて2000年代の曲なのか。問題外だった)
女性バンドか女性ヴォーカルだった記憶があって、強烈なレズビアンソングだなぁと思った記憶があるから、エラスティカだろうと思ったがそれも違った。
エラスティカではなく、かつおれのiTunesに入っていないということはCD時代よりも前、1980年代にLPを買ったか、貸しレコード屋で借りたLPになりそうだから、もっと生ニューウェーブ楽曲だったようだ。
しかし女性ヴォーカルといっても、ブロンディではなくプリテンダーズでもなく、速度的にヤズーやユーリズミクスでもない。エラスティカだろうとあたりをつけたくらいに、もっと速度的にはパンクだったはず(なのでローリーアンダーソンということもない)。なんとなくカーズから影響を受けていたような記憶もあるから、エレクトリックポップな曲調だった可能性もある。とは言っても強烈なレズビアンソングだなという印象がある以上オルタードイメージということもない。
というか、オルタードイメージってまだ演奏しているのか。ちょっと驚いた。
わからん。
覚えている人いたら教えて欲しい。
が、全然わからない。
子供がおもしろかったから観に行こうというので、ハナレイ・ベイを観に行った。
監督も役者もまったく知らないので、知っているのは原作者だけだ。とはいえ、読んだのはせいぜい羊を巡る冒険までなので最近の作風は知らない。
音楽がなぜイギーポップなんだ。
いきなり出てきたサーファーが死んで親が呼ばれる。検視医か何かが鮫に襲われたというようなことを言う。
主人公、部屋に戻るところで字幕が入り、息子が死んだ。サメに襲われたのだ。とかいうような文字が並ぶ。
そうだ、この作家は非常に乾いた笑いを隠し持つやつだったと思い出した。ばつぐんにばかばかしく、ふつうだったら大爆笑するところだが、なぜか劇場はそういう雰囲気ではないので我慢する。
どうも夫はイギーポップタイプ(本物はちょっと違うっぽいが)らしい。もっとも注射じゃなくて吸引だが。
死因がまたふざけている。ハイになって腹上死。
原作がどうなっているのかは知らないが、映画はこまごまとしたシーンすべてにノードを作ってネットワークを張り巡らす。息子がハワイへ旅立つときに受け取ることを拒否されるサンドウィッチは、10年後に知り合う学生に渡される。シカゴで学んだ料理はなんだったのだろうか。言ってみただけなのだろう。
最初の年では一番でっかく頑丈な車を借りるが(アメリカでのセオリー)、10年たつとこんな車が存在するのかと驚かれるほど小さい車を乗り回す。最初の年では昼飯の間に太陽が移動するので椅子の位置を変えるが10年たつとあらかじめ変えておく。
公園のスケートボードのシーンは悪くない。
長髪のヒッピーっぽいあんちゃんが、しっかりとホテルを切り盛りして爽やかになっているところで、おぎじゅんを想起せざるを得ない。
次々と関わる人たちが死ぬ。良くしてくれた警官かな?は強盗かなにかに打ち殺される。おぎじゅんの相棒はイラクで死ぬ。別の相棒がイラクで死んだ海兵隊(ステロタイプだ)は怒っている。だが関わらなくても人間は死ぬものなのだ。
日本で学生二人組が1人になっているので、トラヤの息子(とおれには受け取れたが子供によれば洋菓子だから違うらしい)は交通事故で死んだのかと思ったら、まだフェラーリは無事のようだ。が、すぐに死ぬだろう。
映画作法はすべてにおいて良くできていて、目配せも悪くない。
死んでいた心が、死んだことを自覚することで甦るところは、それほど大袈裟ではないのでこれも悪くない。
クレジットを見ていると原作に綺譚とあって、ああゴーストストーリーだったのかと知った。そこは映画のうえではまったく重要ではないので無視していた。幽霊よりも怖いのは生きた人間なのだ。ハートリーか何かにもあったが、それはそういうものだ。地縛されたらそこにいるしかないのだ。ジバニャンは歩き回るがネコとはそういう生き物だ。だから最初の年にはエドガーアランポーを読む。
でも海で鮫に襲われるよりは街でパン屋を襲うほうが良い。
(マックはパン屋じゃないが、夜中だからマックに行く話だったっけ)
サンドウィッチの部分は重要なのかも知れない。本人にはともかく息子と同世代の人間には味が濃過ぎる。息子はちょっとためらった末に手に取らない。死んで10年たつまで、自覚せずに息子の口に合わないものを出し続けていたのかも知れない。だけど息子はそれに抗議することはない。そういうものだ。
往き返りの地下鉄の中でちまちま読んでいたハードウェアハッカーを読了。
なかなか進まないなと思ったら紙だと400ページ越えの大物だった。
内容をかいつまむと、X Boxの解析本で有名になった筆者が、ハードウェアスタートアップをいくつか経験するうちに、深圳との付き合い(発注方法から検証方法から法的な問題とかウィンウィン関係の築き方からなんでもかんでもだ)を学びハードウェアのあるべき姿を模索するみたいなことになる(のかなぁ)。とのかなぁがつくぐらいに内容は多岐にわたる。一本筋が通っているのは、ハードウェアも自由でなければならないという強烈な信念だ。
暇つぶしにDNAの並びをシェルスクリプトを使って(文字通りgrepとかcutとかを使う)いじくってみたり、おもしろそうだと思ったらなんでも自分で試してみる。かっこいい。
だから読んでいて高揚感がある。
この高揚感を自分のやっていることにつなげなきゃなぁ。
ハードウェアハッカー~新しいモノをつくる破壊と創造の冒険(アンドリュー“バニー”ファン)
とはいえ良いハックもあれば悪いハックもある。喫緊の悪いハックの代表が自民党の憲法ハック>だ。
東劇にメトライブビューイングのサムソンとデリラ。最初日付を勘違いしてアイーダのネトレプコのように思い込みながらタイトルはサムソンとデリラとわかっていたので、ネトレプコがメゾで歌うのかと思った。
カラスのアリア集にで私のハートをあなたの声が直撃よを良く聴いているから何の疑問もなかった。
だからガランチャが階段のてっぺんから出て来て驚いた。でもまったく問題なし。
最初合唱がヘブライ人の恨み節を歌う。そこにサムソンのアラーニャが元気良く登場。ペリシテの太守から剣を奪い兵士たちを追い払う。
ダゴン神(なんかクトゥルーみたいだな)の大神官が登場して兵士の不甲斐なさに怒る。
唐突に妖艶極まりない音楽となり女性バレエが入りガランチャ登場。ちょっとブロードウェイ風だな。サムソンを誘惑する。ふらふらとそっちに動いて行くサムソンを対抗して歌で引き留めるヤハウェイの神官(この人も良い声)。奇妙な歌合戦となる。
幕間インタビュー。おれサムソン大好きだよ。子供のころ祖母さんが聖書読んでくれたから良く知ってるし、とアラーニャ。だからあんた髪がロンゲなのね、とスーザングラハム。
どこまで台本があるのか知らんが、スーザングラハムが元々サンサーンスはオラトリオとして……と言いかけた瞬間に、それは嘘だな。最初に書き始めたのは2幕だ。どこがオラトリオ? まさにオペラじゃんか! と言い放ってグラハムが鼻白むのがおもしろかった。
2幕冒頭。
デリラが愛の神でもあるダゴンに復讐の成就を祈願する。美しい歌。とても美しい。
リゴレットの2幕の最初でマントヴァ公がおれはあのこが好きなんだ、本当にとっても心配なんだと切々と歌うのにドラマ構成としては似ている。
がんばれデリラ、悪いサムソンに復讐だ!
ところでなんの復讐なんだろう? (と、後で、子供と話し合う。いずれにしても俺も読み子供も読んだ、家にある聖書物語ではサムソンのところはとっても印象的なのだが、それは目を抉るという子供のときに最初に出会う信じがたい残虐描写が原因ではないだろうか? とは子供の意見だが、確かにそうかも。しかしデリラが何を恨んでいるかはわからないが、なんとなくわからなくもない)
2幕はすばらしい。余計なバレエ(フランスオペラ最大の欠点)もなく、大神官、デリラ、サムソンが天国のような歌を歌いまくる。
演出も良く、デリラと大神官の丁々発止っぷり。それのせいもあってアラーニャというよりもサムソンのでくのぼうっぷりが生きる。
あなたの声の最後、おれはデリラがサムソン、サムソンと囁くのかと、アリア集なんかかから思い込んでいたが、サムソンがデリラ、デリラ、ジュテームと歌うというか悲痛に叫ぶというかなのか。少なくともこのスコアでは。
二人で寝室に行く。ペリシテ人の隠密部隊がくるくる回転しながら窓から入り込み、寝室へ向かう。
秘密を手に入れた、とデリラが髪を一房手にして飛び出してくる。
裏切られたといいいながらサムソンがのたのた追っかけて来て隠密部隊に捕えられる。
ここの「裏切られた」からの急展開がどうにも、「おれの指輪だ!」のハーゲンみたいだ。
幕間。ハハハハハとインタビューが始まるや否やナウリが悪人笑いをしてみせる。悪役を演じることという微妙な立場を軽妙に話す。おもしろい。
3幕。地下牢で石臼を曳きながら反省するサムソン。ヘブライ人の恨み節の合唱ががんがん流れる。
ダゴンの大神殿は立派な(しかし縁起が悪い)神像。子供なんか、サムソンが真っ二つにするのかと思ったら最初から真っ二つじゃん、とか言っているくらいだ。相変わらずバレエが入るが、すでにデリラはほとんど歌わない。サムソンの祈りばかりだ。
アラーニャはむさ苦しいサムソンに良く合っている。ガランチャは実にデリラだった。大神官のナウリという人もうまいものだ。3幕ではコロラトゥーラを転がす(2幕とはえらい違いだ)。
帰り、妻に頼まれて三越の地下に行き、フレデリックカッセルのミルフィーユ・ヴァニーユを買う。なんだそれ? と思ったら、メタモルフォーゼの縁側のシーンが送られてきた。
確かに食ってみたくはなる。そして食ったらうまかった。
メタモルフォーゼの縁側(1) (カドカワデジタルコミックス)(鶴谷 香央理)
値段といい、サイズといい、味といい、編集者の手土産としてすごい説得力。
同僚が「エンタープライズアーキテクチャーのTo Beってどういうものがあるのか?」とSlackに投げたので、考えた。
モノリス(これだけでは意味を持たないが、良く結合された3層構造以外の選択肢は現在は考えにくい。ただし、プレゼンテーション層としては別にWeb(それがレスポンシブであろうが)にこだわる必要はなく、デスクトップを含めたネイティブアプリケーションであっても良い)はもちろんある。規模が小さければ他に選択の余地はほぼない。
規模が大きければ、SOAが当然の選択肢となる。
ただ、すでにこれらはTo BeというよりもAs Isだ(今が21世紀で良かった)。
マイクロサービスアーキテクチャーはどうだろうか? このあたりがAs IsとTo Beの分水嶺のように見える。
問題はマイクロサービスアーキテクチャーは理屈の上では正しいと考えられるが、本当にエンタープライズアーキテクチャー足りえるのか? という点だ。すでにサービスの爆発による失敗事例も話に出てくるようになっている。
もし、そのシステムをゼロから構築するのであれば、マイクロサービスアーキテクチャでシステムを設計するのは楽しそうだが、うんざりしそうでもある。少なくともおれは目がくらくらしてきそうだ。
その一方で、既存のシステムをマイクロサービス化するのが危なっかしいということも容易に想像がつく。
トランザクションの問題だ。
エンタープライズの比較的大きなサービスを分割したために大河トランザクションで流れまくるように構築しなければならなくなったり、ここぞというときにベンダー独自の2フェーズコミットの隘路(2フェーズコミットは理屈と異なり、ネットワークとハードウェアの万全な信頼性を基盤とするので、本当に必要となる不安定な局面では、ミドルウェア自身のバグをつつき出す蓋然性がある。ディスクが本気でやばくなるとRAID5を制御するファームウェアがバグでフリーズしたりするのと同様だ。こういう信じがたい障害が20世紀中に片がついたとは考えにくい)の中で紛失したりするのが想像できる。
クリーンアーキテクチャは素晴らしいが、これは実装アーキテクチャーであって、エンタープライズアーキテクチャーというのとは次元が異なる。
というところまで考えて、島田さんからもらって半分ほど読んで放置していた進化的アーキテクチャを思い出した。で、残りも読んだ。
それが答えだ。
モノリスがベースとして存在し、As Isまたは中期目標のTo Beとしての複数のモノリスを並べたSOAがあるとして、それでも現在のTo Beにはマイクロサービスアーキテクチャがあると考えた場合、これらを共存させつつ、統合させて、「手放す」。「手放す」というのが最終目標だ。
手放すのが目標である以上、サービスは分割されていなければならないし(診断、修理が容易で、かつ容易に交換可能な必要がある)、位置自由でなければならない(位置自由に相当するカタカナ用語が思い出せない。サーバートランスパレント?)し、開発からデプロイ、運用までがパイプラインに並べられている必要がある(唐突に、なぜ今はベルトコンベアという表現をしなくなったのかな? と疑問が浮かんだ。工業との無意味な類推を招きやすいからか?)
進化的アーキテクチャ ―絶え間ない変化を支える(Neal Ford)
(この文章ではたどり着かなかった)
イメージフォーラムでアラン・ロブ=グリエの不滅の女。
初見。
冒頭、地中海風の町が映り、女性のアップ、鎧戸から外を覗く男、鎧戸で女性の切り替わり、波止場か埠頭で釣りをする男。太ったこちらを監視する男。
1962年の作品とわかる。当然白黒だ。
抜群におもしろかった。もしかすると、ここ10年で観た中で最もおもしろかったかもしれない。
すぐに、複数の状態がモンタージュされることから去年マリエンバーグを想起する。アラン・レネの端正な映像よりは荒っぽいが、むしろおもしろい。
物語はどうも、次のいずれかの物語の組み合わせのようだ。
1) 絞殺魔がフランスからトルコに逃げて来て、ここで知り合った女性の首を絞めて殺す。海に捨てに行く。犯行がばれて逃走中に立木に衝突して死ぬ。
2) 言葉が通じない異国で孤独なフランス語教師が、たまたま誘った女性が来るのを窓際の鎧戸越しに外を眺めて待つ。待っている間に妄想に耽る。
3) 知り合った女性と逢瀬を続けるが、嫉妬深い彼女の夫にばれてしまう。彼女は隙をみて脱出して男と車で逃走しようとする。3-1) 女、夫の飼い犬にそっくりの犬を見て驚愕のあまり事故死。男は女の死を認められず彷徨する。3-2) 男、無理矢理ハンドルを奪って心中する。3-3)女は事故死するが男は助かる。しかし女の死を信じられずに同じようにドライブして事故死(または自殺)する。
4)孤独なフランス語教師が集まってくれた人を眺めて妄想に耽る。
5)木曜に何かがあったが、それが何かはわからない。
6)地下牢に女が閉じ込められているので救出する。
7)謎のトルコ人から買うが気に食わずに海に捨てる。
主な登場人物は、主人公のフランス人の教師。トルコ語はわからない。(映画ではトルコ語にはすべて字幕がつくので、わかっていないのは主人公だけ)
ニナリッチの服を着ている謎の女性(不滅の女ではなく、不死の女と訳すべきだ) チューリップ1号。主役。
謎の女性の夫かもしれない 1) 犬を2頭連れた太っちょ(事故の後は犬は1頭になる) 2) ラズロコバックスみたいな男。 どちらも黒いサングラス
謎のトルコ人。いつも道を歩いているが、女性を入手する相談に乗る
謎の子供。ギリシャ語またはトルコ語を話す。地下牢を案内する。
謎の子供と一緒にいる女性。フランス語で喋りかけるうっとうしい男を適当にあしらう。
下宿の3階にすむ女中(チューリップ2号)。1階で釣りをする男の関係者だが、男に対してはすべてを説明しない。
謎の釣り人。釣りをしている。左に釣り人、真ん中に魚の構図は素晴らしい(始まってわりとすぐだが、1度しかない)。太っちょのほうの亭主または父親または無関係の人またはフランス警察から依頼されて絞殺犯らしき男を見張っている警察官に対して、鎧戸はしまったままで男は不在だという映画を観ているこちらからは誤った情報をわざと与えているように見せる。
ネコ。坂道の右側の縁石の陰から出てくる。坂道(謎の子供と女性の家の前の道)を横切る。すごくかわいい。3匹くらいいる。
骨董屋。裸体像を売る。回収して再度売るか、または単なるイカサマ師でレプリカを売っているだけ。本筋とは関係ない。
モスクの前のお土産売り。女と夫、女と男のいずれの関係についても女をかばう側に立つ(買収されているからだ)
カトリーヌ。ロブ=グリエ。小柄。パーティで女と知り合いということになり、談笑していたように男にはシーンとして記憶されている。トルコには暗い面があることを知っているか、適当を言っているか、とにかくそこに住んでいる。実は何も知らない。
窓から女と男の行動を見張る異常な女。男が家に入ると階段の上からわけのわからないことを怒鳴りまくる。
それにしてもおもしろかった。
最初から最後までどのシーンもすべてがおもしろい。ずっと脳みそが刺激されまくっている。すげぇ気持ちよさ。
マリエンバードは日本でもそれなりに売れたんだから、公開されても少しもおかしくないのだが、なぜ無視されたのか不思議だ(アラン・レネと違ってプロフェッショナルな監督ではないから、配給会社のルートがなかった、とかかなあ)。しかし、途中から言葉の通じない異国での不安定極まりない恋愛状態という点から広島モナムールをずっと想起することになった。おれは、相当左岸派が好きなのかも知れない。
Alain Robbe-Grillet: Six Films 1963-1974(Alain Robbe-Grillet)
(これに収録されているみたいだが、1963~になっているなぁ。1962というのは記憶違いかも)
・首筋に回す手
・ベリーダンスと食い入るように眺める男たち
・室内でのベリーダンス
・ニナリッチ
・斜めの墓標群
・紛い物作成か修復か
・イチニンみたいな歌詞(音が印象的なので2回目もわかる)
・写真をめくっていくと女が映った写真が何枚も出てくる
・椅子を持ち出した、わたしはずっと立っているのに、椅子はなんのためにあると思っているんだ
・フランスから届いた手紙には何が書かれているのか。1枚は丸めて投げ捨てる
・ウェイウェイの映画の予告編で、全世界には6500万人の難民がいると出てきて、つまり100人に1人は難民なのか、と愕然とする。
引き続きイメージフォーラムでアラン・ロブ=グリエのエデン・その後を観に行く。
エデンは大学の前の超おしゃれな喫茶店の名前。でもあり、大学生の楽園でもある。
彼らはそこでロールプレイに興じる。ガラスと鏡、青、赤、白、黒い枠線、モンドリアンだ。
主役はセシルカットっぽい超ミニスカート(時代だ)の女学生で、彼女の家にある叔父が残した青と白の画を巡る冒険譚となる。
ガラスの前にあらわれた謎の男、デュルシャンまたはダッチマンが、彼女を運河に誘い、迷い込んだ工場で夜を明かしたところから話は急展開、チュニジアの海岸沿いでの冒険となる。
海岸の左に男、右にひっくり返った自転車。快楽の漸進的横滑りのモチーフがここに出てきている。
色と登場人物のロールプレイっぷりが、ゴダールの東風を少し思わせるが、もっと不真面目で、役者も半分以上素人なのかテレまくっていたりする(特にジャンピエールとボリス)。
映画の中のロールプレイのその後の物語という意味ではメタメタシネマなのだが、マリエンバード(脚本)や、不死の女のような物語の多重構造はあまりない。が、若くてきれいな女の子の冒険物語なのでそれはそれでおもしろい。
画の切り取りはうまいから、観ていて退屈するところがない。
チュニジアの青い海と空、白い砂漠と家の壁、血の赤、黒い服(とくにジャンピエールだかボリスだか)。
これまた抜群におもしろかった。
指揮はジャンリュックタンゴという人。見た目もなかなかかっこ良いが、聴衆のざわめきが終わるかどうかというあたりでいきなり切れ味良くスピード感を以って始まる。なんかとても良い。チェロかな? 序曲の2番目の箇所で普段と違う場所が強調されたり、のっけからとても良い。
速いばかりかと思うと、2幕のセギディーリャとかむしろ遅かったり、なんか自由自在でおもしろい。部分部分で歌手とオーケストラの追っかけっこのような状態いなるのだが、意図的かも、と思えるくらいにおもしろい(本当に意図的なのかも知れない。要するに説得力がある指揮っぷりだった)。
カルメンのジンジャーコスタジャクソンという人はあまり好みの声ではない(艶がないというかハスキーというか)のだが、カルメンとしては抜群の立ち居振る舞いと歌唱力。ドンホセのオレグドルゴフはもっさり感がある見た目だけど美声でとても良い。ミカエラの砂川涼子はなんか今回、とても良い。指揮にあっているのかな? 特に1幕最初の部分はいつも退屈するのだが、今回はまったく退屈する余地もなかった。
残念なのはエスカミーリョのティモシーレナーで、見た目は最高のエスカミーリョなのに声量が無い。というか、エスカミーリョの出だしの部分は何が何でも低音過ぎるのではなかろうか(舞台で観ていて、おおこれぞエスカミーリョという歌に出会ったことがないような)。
観客は入りが満杯なのは良いとしてこれまでの新国立劇場で最悪だった。
隣の老人は歌の最中に薬を取り出そうと、ガサガサ、パキパキ初めて、それが延々と続く。
その隣の隣あたりからは、エスカミーリョのみならず合唱の時(第3幕)ですら、闘牛士の歌に合わせて一緒に歌う。なんだこいつ? 年を取り過ぎて脳内歌唱が外部に出力されているのか? こんなくそは初めてだ。
というわけで舞台の上は天国(だがホセにとっては地獄)、舞台の周りは地獄(しかし舞台の上だけに注目していればそこそこ天国)というとても不可思議な体験をした。
島田さんからもらった進化的アーキテクチャを読了した。
良い本だと思うし、サジェスチョンと確認と方向づけなど有意義な内容に満ちている。
なので、現在のエンタープライズアーキテクチャー(あるいはある程度の規模、たとえばモデルが8クラスを越えたあたりのWebアプリケーションなど)を構築する場合、あるいはなんらかの改造、修正、移行をする場合には一読しておきたい。
要点と勘所をメモもかねて書く。
ただ、もらっておいてなんだが、本書は良くない点も多い。
最初に、(というのは、要点と勘所を書く前に明らかにしておきたいからだし、正誤表的なメモを最初に掲示しておく意味があると思えるからだが)苦言を書く(もしかすると、このエントリーはそれで終わるかも。最初にネガティブなことを書いて後から誉めるのは悪手だが、それでも本書については最初に苦言を書くべきだと思う)。
本書は、読みにくい。
「読みにくい」という言葉を使うにあたって、おれの立場と言葉についての含意を説明する必要がある。
基本的におれは「読みにくい」とか「難解」とかいう言葉を発するやつは、少なくとも対象の書籍を読む最低条件を満たしていないか、またはそもそも読解力に欠けている無能者だという立場だ。要するに負け犬用語、負け犬判定用の言葉である。
しかし、おれは本書を読む最低条件を満たしていないとはまったく考えていない。読解力はどちらかといえば控え目に言っても並みのレベルは越えている(読み過ぎて壺にはまることはあるとしても)。にもかかわらず読みにくい。おれは負け犬か? いや、本気で本書は読みにくいのだと考えざるを得ない。
本書の場合、こういうことだと考える。
執筆者が高い位置から全体を書こうとしているために、比較的新しい概念を持ち込んだり、既存の概念と衝突するが微妙に異なるような場合に、積極的に新しい用語を発明している(のだと考えられる)。あと、アーキテクト、コンサルタントとしての(利用する用語についての)気取りを捨てきれていないのではなかろうか。好意的に解釈すれば、少ないページ数に考えを凝縮させるために言葉に意味を詰め込み過ぎたのだろう(そのため、原書を読んでも同様に意味が通らない箇所はあると考えられる)。
それに対して、島田さんがあまり適切ではない訳語を持ち込んでいたり、消化しきれずに訳してしまった箇所がある。
また、全体的に抽象的な説明や筆者の考え方の開陳が多いため、確立しきっていないものを説明するために言葉があやふやになっている箇所を、おそらく咀嚼しきれずに訳したか、あるいは本人は咀嚼していても日本語に落とし切れていない。内容が抽象的なところについては、校正もうまく機能していなそうだ。
たとえば最悪の例としてP.151の継続的デリバリーを選択すべき理由を解説した箇所の結論部分の段落(ただし、英語のまともな本なので、各節は、重要事項の提示(結論)-補説-具体例についての説明―提示部をそれに合わせて再現―という構造なので、抜粋部分は再現部に相当し、日本語の意味での結論ではない)を抜粋する。
一般的なビルドツールは、いずれもこのレベルの機能(引用者注:依存しているコンポーネントの最新バージョンの非互換性を検出したら、静的に現状の利用可能なコンポーネントのバージョンを自動的に記録し自動更新から防御する機能。BundlerのGemfileは自動ではないので、これには当てはまらない)はサポートしていない。そのため、開発者は既存のビルドツールの上にこの知性を構築する必要がある。しかし、この依存関係のモデルは、サイクルタイムが重要な基礎を成す値であり、他の主要なメトリクスの多くに比例する、進化的アーキテクチャにおいて非常にうまく機能する。
呪文みたいだ。「知性」はインテリジェンス(この場合は非互換検知による自動静的バージョン固定機能、継続的デリバリーのためのスクリプトに自分で実装する)という意味だろうと想像がつくが(それでも、インテリジェンスにしても知性にしても、適切な言葉ではないだろう)、「しかし」の後は言葉のサラダみたいだ。
原文を読んでいないから想像でしかないが、日本語であれば次のようになると考えられる。
「一般的なビルドツールには依存しているコンポーネントのバージョンを固定する機能がない。そのため、開発者自身が実装する必要がある。実装コストをはらってでも継続的デリバリーを選択するのは、依存関係を適切に解決することがサイクルタイムを短く保つためのキーファクターであり、進化的アーキテクチャを正しく構築するためには、他の主要メトリクス以上に重要だからである。」
(追記:「比例」というのは上の解釈と違って、「(依存関係を正しく処理することは)主要メトリクス全般に影響する。このため、進化的アーキテクチャをうまく機能させることができる。」という意味かも)
というような具合に読み替えが必要なので、読みにくい、と言わざるを得ない。
以下目立ったところ。
P.9
「アーキテクチャの一部はしばしばガバナンス活動だとみなされてきた。しかし、アーキテクトは最近になってアーキテクチャを通じた変更を可能にするという考え方を受け入れてきている。」
何がなんでも意味不明。ガバナンス活動=変更を不能とするほどの統制、という意味か?
(これは原書もおそらくガバナンスアクティビティとしているのだろうが、統制に対してアーキテクチャを通じて変更するというはいきなりそう書かれても意味がわからない。ただ、落ち着いて考えると、組織論に対する逆方向の影響について良く書いてあるからわからなくはないか)
P.27
「アップグレード中断テスト」
意味はわかるが、用語を投げて投げっぱなし(これは原書の問題だろう。節題ですらない重要な概念(ボルドを使っている)を投げっぱなしにして良いのか?
P.37
「彼らが解かなければいけない儀式であるとみなす罠」
決まり文句とかボイラープレートとかおまじないとかに訳したほうが良いのではなかろうか。というか「解かなければいけない」に「儀式」はかからない。日本語にするなら「彼らが封じなければならない呪い」(解くの逆の意味だが「封じる」に訳したほうが日本語としては良いと思う)
P.75
「一般的に大きくなるものが、安定もしている」
タイポ? 「一般的に大きくなるものの、安定している」あるいは「一般的に巨大化するが、安定している」
という意味だと思うが、順接の「が」で「安定」に繋いでいるので意味が不明。
P.79
「結合度が低め、」
普通のタイポ。「結合度を低め、」
(P.110 オプション3はとても良いというか、なるほど! と真似することにした。と、メモ)
P.113 5.2.1
これはひどい。節題が「2相コミットトランザクション」だが、どこにも2フェーズコミットについて書いてない。(おそらく原書が悪い)
内容を読めば、サービスを分割していくと分散トランザクションが必要となるため、2フェーズコミットのような機構が必要になる、ということなのだが……
(P.115 重要なことが書いてある…… 付箋紙を元にだめな点を挙げて行くことにしたのだが、段々暗澹たる気分になってきたので、気づきマークについても()内に少し入れることにした)
(P.123 ぽろっと「進化的アーキテクチャを構築することにおける最大にして唯一の障害は、扱いにくい運用だ。」という文が紛れている。なぜ、独立した項目にしない?(おそらく筆者たちは実運用に深くコミットしたことはなく、ただ現実問題として運用が障害になっている事例を知っているからではなかろうか))
(P.124 COTSは存在自体が障害(とまでは書いていない))
(P.126 最高におもしろい)
P.131 「赤で示す」
原書はカラー印刷なのかな? いずれにしても網掛けの工夫が必要そうだ。実際は和集合の箇所とはわかるけど。
(P.140 技術的負債の再定義。早すぎる最適化も技術的負債である(利用されなかった場合))
P.143 「サービステンプレート」
具体性に欠け過ぎている。想像はつくが、もう少し説明なり参照ポイントなりを出すべき。
(serverspecとかかなぁ、それとももっと良いものをThoughtworksは持っているのか?)
P.149 くだらない(としかメモが無いけど単なるページの埋め草と思ったのかな?)
P.151 「内部的にサービスをバージョン付けする」
言いたいことはわかるが、抽象的にしようとしてどう考えても失敗している。または誤訳。
本章では、外部APIにバージョンを付けることと、内部でバージョン分岐をすることの2つの方法を示しているのに、節題は「内部的にサービスをバージョン付け」としているので意味がわからない。ただし、結論は内部解決が良い、だがバージョン付けとナンバリングが完全に異なるというのがわかりにくい(バージョンは普通ナンバーだから)。
まあ、当たり前といえば当たり前のことではあるから書いてあることはわかるけど。
(P.156 クリーンアーキテクチャがなぜ必要なのか)
(P.163 圧倒的に正しい。ただし、コード:メタデータ≒サービス:インスタンスが混乱した記述になっている)
(P.179 とても良い提言。取り入れる)
P.199 「ソフトウェア開発エコシステムの動的平衡によって、予測可能性は効力を失っている。」
意味不明。そもそも平衡していないから予測可能ではないのではないか? 動的平衡言いたかっただけだろ的な。
「ソフトウェア開発エコシステムがもたらす急激な変化は業界バランスを容易に崩してしまう。このため予測可能だとは考えないことだ」くらいに訳さないと(おそらく原文含めて)意味が通らない。と、思うけど(自信なくなってきた。動的平衡を個別に進化することのような意味で使うのが正しいのかなぁ)
(P.202 順応とは並列であり、進化とは統合である。(だから進化を選択せよという話))
とりあえず以上
ジェズイットを見習え |
_ yyamano [Neal Fordの提唱している Service-oriented Architecture とマイクロサービスアー..]
_ arton [ミックスですね。マイクロサービスは、安全なインフラ(データを持たない)として、外部に置いたサービスの実装/デプロイの..]