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初代iPadは日本で発売されてすぐ買った。確か、アップルストアで予約開始された時点で申し込んだんじゃないかな。調べてみると2010/5/29付けの「iPadをご購入いただき、ありがとうございます」メールが出て来た。2年半たったのか。
で、おそらくiPadはコンピュータ以上に使っているデバイスなのだった。
というのは、老眼のせいで紙の辞書がほぼ読めない(引けないが正しいかも知れないけど、割りと暇なときに読んだりもする)が、iPadの大辞林やロングマンなら余裕で読めるからだ。というわけで、辞書はiPadを利用している。
で、さらに寝っ転がってWeb眺めたり、オライリーや達人出版会の本を読んだりするのにもちょうど良いし(ここが重要なのだが、iPadは重いから寝っ転がって読むというのは、おれの場合については、文字通り体を横にして読むのだ。するとiPadの長辺が床とかベッドとかで支えられることになる。これなら別段、重さはどうでも良い。で、この時、目の位置は縦になるからつまり8の字になる。なにを言いたいかというと、回転固定ボタンがミュートに最低最悪の改悪がされたときほど、アップル愛想銀行への預金が尽きたときは無いということだ。おれの目は8の字になっているのに、長辺が床にあるからといって向きが変わると、読みにくいぞ。が、設定で変えられるようになったので、預金が少し増えて、iPad4(正確には第4世代iPadというらしいのだが、iPad2とiPad(初代、3、4世代って何が違うんだ?)の衝動買いにつながるのであった)
で、まあ良いのだが、さすがに今となっては遅い。元々こんなに遅かったかなぁ? と不思議に思うのだが、キーボードは取りこぼすし、ひっくり返るし、良くfacebookへ打ち込むと無茶苦茶タイポしまくりになったりする。あと、やたらとSafariがクラッシュするようになって、それも不可解なのだが、おそらく購入時よりもメモリ食いサイトが増えたのだろうと想像してみる。
そういうこともあって、そろそろ買い換えても良いだろうけど、愛想銀行問題があるので、今度はNexus10かなとか考えていたが(字の大きさ的に7インチは問題外というのはわかっている。でもKindleみたいな専用機であればそれはそれとして使いみちはあるわけだが)、なんかいつまでたっても売られない。
ついに面倒になって、auショップへ行ったのだった。なんかauショップでも売ってるらしいし、知らなかったのだが家から歩いて5分くらいのところにauショップがあることがわかってしまった。なんで今までは渋谷までのこのこ出かけていたのだろうか。
で、auショップに入って聞いてみるとminiは無いけど、iPad4のほうはふつうに在庫があるというので、買うのだが、料金プランが良くわからない。
で、HTCJを持っているからスマホセット割というのだということはわかって、さて、迷う。
元々ストレージとしてのメモリサイズは今と同じで十分だから、16Gとして、今と同じで家の中主体でしか利用しなければアップルストアで42800円だ。
もし、auで買うと、LTEが使えるけど、53800円で1万円以上高価になる。しかも今使っている回線とは別にしなければいけないから回線利用料もかかる。ふむ、それは嫌なこった。
でも、たまにiPadを持って出かけることがあって、そういうときは、購入当時はポケットWiFi、今はHTCJのテザリングでWiMAXだ。携帯電話は常時持ち歩くから、HTCJテザリングはいつでも使える。つまりアップルストアでWiFiモデルでいいじゃんという声がする。
その一方で、WiMAXいつでも使えるわけじゃないし、遅いの嫌なら、LTEも試してみろというささやきも耳に入ってくる。
で、簡単に計算してみると、まず、そういうことしたくなるのは2~3か月に1回くらいだから、定額プランはあり得ないということになる。
それにしても、auのサイトには「LTEフラット for Tab(i)」を利用したプランしか出てないのだな。(追記:と思ったらあった。ゼロスタート定額キャンペーン)
ダブル定額にすると、基本使用料が0円となり割引しようにもできないので、機種代金がそのまま加算されて2240円とWiFi-SPOTの料金が取られて約2750円を払う必要がある。ただし基本使用料が2240円までの利用なら約2750円のまま。
ただ2240円までLTE使うっていっても、たかだか10MB程度なので実際には使えるものとは思えない。逆に使うとなるとあっという間に上限まで行くはずなので、その場合は4980円とインターネット使用料の320円くらいとWiFi税で約5790円。ただしこの場合2240円が割り引かれるので機種代金が埋もれて5790円が支払い額となる。
LTEフラットだと常時4300円だから1500円割高となるけど、そういう使い方するのが3か月に1回(というか、定額頭打ちなので回数は関係なく、ある特定月ということになる)ならば2750*2+5790<4300*3なので3か月に1か月くらい家以外で使いまくるのであればこのほうが安上がりだ。後は本当に外で使うかどうかだが、夏になれば旅行に行くし、4月末~5月頭とか、年末年始とかにはやはり使うことがあるはず(やはり大体3か月に1月というところだ)。その時になんだWiMAXテザリングで十分だったとなるか、おおLTEいいじゃんとなるかはやってみなければわからない。というか、車で移動ならPCも同時に持つのでLTEテザリングというのもありなのか。
というような計算をして、結局WiFi+Cellularモデル(というのが正式名称っぽい)を購入したのだった。
使ってみると、おお速い! キーボードが追いつく。しかしこれがRetinaだと言われても違いがわからない。そのくらい目が悪いのだな。
で、誤算があって、剥き身だと持ちにくいこと甚だしい。初代の黒いカバーを流用できるかと思ったら微妙に合わなくて持ちにくい。かと言って風呂蓋はいやなので(背中が持ちにくいと思うのだ)、スマートケースを購入。
アップル 【 純正】Apple iPad2、3 & The New iPad (第4世代) Smart Case スマートケース ポリウレタン製 【 グリーン 緑 Green 】(-)
(気持ち悪いが緑にしてみた。もっとも、アマゾン出店者の価格は逆破壊なので、アップルストアに注文した)
それにしてもLTEの月7G制限って少ない。外出先で、Windows ServerとVisual Studioをインストールしようとすると(MSDNサブスクリプションからその場でダウンロードすることを想定。当然テザリングでの利用だ)、なんか、それだけですっ飛びそうな量だ(割と、そういうことするのだが(JDK入れなおしたりとかもある)しないのかなぁ)。
ねじまき少女がおもしろかったので、2ヵ月前くらいに本屋で見かけたバチガルピのシップブレイカーを、先週くらいに読み始めて読了した。
YAのなんとか賞を取ったというわけでヤングアダルトものだったのだな。なんか描写が素気ないうえに、やたらと家族や仲間の絆がどうしたみたいなお話なのでとまどった。
舞台は海面上昇で沈没したアメリカ南部のあたりの世界で、スラムよりもひどそうな瓦礫と化した船舶から資源を拾い出してくる作業についている少年(この作業がシップブレイカー)の愛と冒険の成長物語。
範馬勇次郎よりへたすれば怖い無敵超人の親父との戦い(成長物語だから、当然、味噌汁飲んで大団円ということはなくて容赦なく殺す。ただ逃亡先のスラムで見かけるところとか、怪我でふらふらのところにざわざわ仲間と一緒に向かってくるところとか、実に良いタイミングで魔物のように行く手に立ちはだかる語り口のうまさは見事だ)と、実に奇妙な犬人間(ハックルベリーフィンと一緒に逃げる逃亡黒人の面影と、カタリベに出てくる以前鬼だったおっさんとかがちょっと重なる)、なるほどこれはYAものと言わんばかりの美少女(しかもエンタープライズの跡取り)が主要な登場人物だが、海洋冒険ものっぽさがあったり、なんか実に正統的な小説だった。
というわけで、おもしろかったが、読んでおしまいだなぁ、さすがにYもAもとうに過ぎてしまったし。
10インチのiPad(4Gen)を買ってしまったばかりだが、SONYのVAIO Tap20の存在を知ってしまった、物欲もりもり。
もともと、20インチPad!と考えているわけだから、重さを別にすれば(300グラムだといいのに、なんと5000グラムもある)これこそ理想のタブレットだ。これを机の上に置いて本を読めば、どんな本でも問題なく読めること間違いなし。しかも国産PCとしては異例なほどまともなメモリ量が載せられる(いや、今となってはまともというのは最低16Gという気もするけど)。
ソニー(VAIO) VAIO Tap 20 (W8 64/Ci3/WXGA++/タッチ/4G/外付けDVD/1T/WLAN/BT/Office) ホワイト SVJ20217CJW(-)
うーん、欲しい。
iPad(Retinal第4世代)の緑のカバーも届いたので安心して常用始めたら、実に快適。
たとえば、初代のときはこんな感じ。
ldrでotsuneさんのフィード(100以上通常ある)からおもしろそうなところのリンクへ飛ぶ。戻る→ldrのタブがキャッシュから消えているっぽくて読み直し。未読の部分がすべてすっ飛ぶ。ldrはきれいな状態になっているので、残りを見たければ既読の再表示とかなって面倒だからやめる(おかげで時間を無駄に過ごさずに済んでいるというポジティブシンキングができる)。
fbで何か書いていて、参照しようとちょっと別タブ開いて何か読み始める。Safari落ちる。
というようなことがなくなった。ってことはRAMが増えたり、iOS(あるいはSafari)自体の改善とかいろいろあるのだろう。
何より速度がまともなのが良くて(キーボードの取りこぼしが激減した)、2.5年で世の中の情報量が(無駄方向かどうかはわからない)着実に増えているのだなと実感する。
Apple 第4世代 iPad Retinaディスプレイモデル Wi-Fiモデル 16GB MD510J/A ブラック MD510JA(-)
(まあ、良い製品だ)
ただ、Retinaがどうしたっていうのは、良くわからないなぁ(なんか精細になったような気もするけど、それプラシーボと言われれば素直に納得するレベル)。
で、初代の再利用方法について親にやるとかいろいろ考えたが、今となっては便利なフォトフレーム以上の役回りは持てなそうな気がしてきた(そういう役には立つのは間違いない)。
ならば需要がありそうなところへ放出するのが良かろうと、Sofmapへ売りに行った。初代WiFi16Gは最大5000円(傷とか欠損でそこから値引き)と言われて、ふむ最新の10%か、と納得して査定。で、黒カバーで大事に使っていた(というほどでもないけど)ので素直に5000円と査定されて売却。
で、車を御徒町のほうの路上パーキングに停めていたのだが、ふと線路の下に妙な空間が広がっているのに気付いてうろうろする。
線路下の空間といえば、新橋や上野-御徒町の戦後の闇市が時代に取り残されてそのまま根付いたみたいな印象のところばかりだけど、これはなんか妙に新しい(建設時期が新しいのはわかりきっていて、そうではなく空間の利用方法が新しい。もちろん店子を両脇に突っ込んでいるという意味ではこれまで通りなのだが、おそらく店舗(出店者)の若さみたいなものを感じさせるところ)。白いからかなぁ。
とにかく1つわかったのは、遥か向うまで延々と細い通路が続く空間ってのはかっこいい(なんか幻惑される)ってことだ。
先週から読み始めて結局昨日で一気読み。
ポルノ、ハードボイルド、ヴァンパイアもの、SFとジャンル小説を匿名で書き散らしている大して売れてない小説家が、3ヶ月後に死刑を控えた連続猟奇殺人事件の容疑者(刑は確定してるから犯人と言っていいんだろうけど、いちおうそこも謎のうちとして容疑者)から手紙をもらう。告白手記を書かないか? から始まるミステリーなんだけど、人間関係の上手さがおもしろい。
ハードボイルド作家としての自分のシャドーをして貰っている花屋とか、そこから絡んでくる(でもさらに深い線でのつながりもある)DJとか、ヴァンパイアものの大ファンの弁護士見習い(初めて目の当りにする自作のファンで舞い上がるのだが事情があって自分が作者とは名乗れない)、ヴァンパイアもののシャドーでもある母親(というのが事情)。
(アルファベット3文字のDJってのは多いのかなぁ)
奇妙なのは主人公の作家と殺人鬼は両方とも父親が不在で、いや、正確には主人公のビジネスパートナーの女子高生以外の人物はすべて父親が不在で、女子高生の父親も不在がちだ。この父親が不在という関係から何か違和感がある登場人物がいるのだが、まあそうなんだろうなぁと落ちがついたりもしたり。
その父親の不在さを埋め合わせているのが主人公の中年男とビジネスパートナーの女子高生の関係で、この関係が心地良い。小生意気で見下したというか呆れたような口をききながら、なんだかんだと世話を焼いてくれたりする。
で、こういう関係って結構ポストハードボイルドでは利用されてるよなぁという気になるのだが、ゴースケ&マレッタ(この二人は恋愛にまで進んだけど)、オデッセイ&プチ、丈太郎&かすみ(違うかも、というか本当の父娘だった)、キートンと娘とか、思い出すのは日本のマンガばかりだった。が、そのくらいに相性が良い。
LIVE!オデッセイ (上) (双葉文庫―名作シリーズ)(狩撫 麻礼)
後、妙に面白かったのがヴァンパイアものの読者の習性みたいなのが書かれてるんだけど、これがもちろん小説として誇張してるだろうけど、さもありなんな腐っぷりでトワイライト(これはジュヴィナイルなんだろうけど)とかの受容層とか思い浮かべて合点したり。
トワイライトIV 最終章 (ヴィレッジブックス)(ステファニー・メイヤー)
というか石蹴り遊びとか出て来てそれがつぼに入ったり。
石蹴り遊び (ラテンアメリカの文学 (8))(コルターサル)
ロブグリエがポルノとして読めるようにして実験したことを、もしかしたら作者はミステリーとして読めるようにしてもっとうまくやったのかも知れない。とかかんがえてみたり。
と、多層的に楽しめて実に満足。
ヴァンパイアもののファン層はそりゃあおもしろく書かれている。
ハードボイルド(っていうか黒人マッチョもの)も魅力的なファンが描かれてる。
ポルノファンもちょっとというか、少なくとも分析がある。
おまけに純文学派のサークルと定期刊行誌もかかれている。
さらにミステリーというか探偵小説談義もある。
でも主人公が書いている作品でファンやジャンル語りが見事に欠落しているジャンルがある。
なぜだろう?
SFのファンはあまりに自明でネタにならない?
いや、と考える。
奴らは、ものすごく、おっかないんだろう。きっとそうだ。だから、そっと無視することにしたに違いない。
触らぬプログレとSFにたたりなしと昔から言うからな。
トーマス・アデスというカナダの人らしいが、のテンペスト。金管ビョンビョンなので、なるほど第二のブリテンというのはそのあたりかなと思う。
ただ、特に3幕(2幕の前奏部でも感じたような記憶あり)で顕著なのだが、解決を正に和声の解決に重ねるので、中途半端な感じもする。一方、20世紀前半と異なり、何がなんでも無調と肩肘張らずに音を作っていていいなぁとも思う。要するに良かったのだ。
シェークスピアのうち苦手な(なので読んだことない)妖精物語なので筋を見るのは今回が初めてなのだが、そこはシェークスピア(もちろん台本作家もうまいのだろう)えらくおもしろかった。
ミラノ大公だが学者肌、閉じこもって文献あさりに精を出していたために、政務を任せた弟とナポリ大公の陰謀にはまって幼い娘と小舟に乗せられ放逐されたプロスペローは、人情味あるナポリ大公の宰相の計らいで積まれた多少の文献と食糧のおかげで謎の島に上陸、幻術で島を支配する。
大魔術師ということになっているが、物語の中で優れた学者は学問の力を借りて世の人には魔法のような暗示をかけることができるとか説明されている。
しかしどう説明しようと妖精が空を飛び、奇妙な獣が(プロスペロー上陸までは)島を支配している場所なので、魔法は魔法だ。で、身体一面に失われた文献から忘れぬように彫り刻んだ黒いスペルで埋まっているのだが、このスタイル、歌唱、顔つき、身体つき、プロスペロー役のサイモンキーンリーサイドがまず素晴らしい。
魔法の力でテンペストを起こしナポリ大公と現ミラノ大公を乗せた船が島へたどりつく。
さっそく復讐のために、ナポリ大公が愛する王子、フェルナンドを誘拐して連れてくると、娘(ハイティーンに成長している)のミランダが一目惚れ。ちょっと父娘の諍いがあるが、プロスペローが勝利してフェルナンドは宙に磔となる。
しかし、夜になってミランダがやってきて、魔法を解除し二人は逃げていく。
それを遠くから見ながらプロスペローが、なんと父の魔術を打ち破るほどの強い愛をお前は覚えたのか、さよなら娘よ、成長したなぁと嘆き節。いや、思い切りの良さがかっこいい。
という父と娘の物語と並行して、王子が行方不明になったので今こそナポリ大公を暗殺して自分が王座につこうとたくらむ甥だの、それをそそのかすミラノ大公だの、忠義一筋の(人情味あふれる)宰相の政治ドラマと、かって島の女王によってあまりの悪さゆえに木に閉じ込められていたのをプロスペローに解放された妖精アリエルが、解放条件の12年の奉仕がもうすぐ終わるというので、やたらとさっさと解放しろと歌いながらも空を飛んだり宙に浮いたり、普通のソプラノよりさらに高い音域で歌いまくり、島の本来の持ち主の怪物カリバン(ただ頭が良くないので、ミランダが成長したから当然自分と結婚して島は再び怪物で満ちるだろうと根拠なく思い込んでいる)の島の奪還作戦が繰り広げられる。
音楽的な見せ場はミランダとフェルナンドの二重唱と、アリエルの愚痴なのだろうが、既にして時代は21世紀、オペラは歌がついたドラマとなっているので、特にどうということはなく進む。
島を奪回に来たカリバンにミランダが、なんでお前みたいに醜い獣と結婚するなんて思えるの? 鏡見たことあるの? と身も蓋もない痛烈なことを言うが、元々フェルナンドに一目惚れするところも、あらいい男、というような感じだったので、あまりの薄っぺらさが逆に衝撃的だった。
最後、プロスペローはミランダとフェルナンドの結婚を祝福し、ついでにみんなを許してやる。ナポリ大公は息子の帰還と復活ミラノ大公の娘との婚姻を大いに喜ぶ。しかし現ミラノ大公は自尊心を守るため島の彼方へ一人去る。プロスペローは魔法の杖を叩き折り(その後、なんかおたおたする)、解放されたアリエルは天に昇っていく。
島に残ったカリバンはたった一人で取り残される。
幕間のインタビューで歌手たちは全員、歌が難しいと語る。なぜ? とデボラボイトに訊かれるがそこは答えない(フェルナンドがリズムの複雑さを上げていたかな)。アデスのインタビューでデボラボイドが聞くとやはり答えない。メロディーが無いからだということは口にしないという約束があるらしい。音を変えても良いのか? とデボラが聞くと、許さないとアデスは答え、これだから作曲家ってやつはとデボラが肩をすぼめる。
昨日は中年作家と女子高生の仮想父娘小説を読んで、今日も父娘オペラかと思っていたら、別口で父と息子もののマンガがやってきてなんでだ? と偶然の連続技をおもしろく思う。
演出(ミラノスカラ座を舞台とする)も良かった。特にキーンリーサイドのメークと衣装が良いなぁ。出だしのくるくる回るアリエルのスタントの人と布から半身を出した波に呑まれる人々の描きかたもうまい。
カーテンコールではアリエルのオードリルーナが特に大拍手。キーンリーサイドでスタンディングオベーションが始まりアデス(指揮もやった)が舞台に乗るとほぼ総立ち。確かに舞台として実に見事だった。
読まず嫌いはよろしく無いなぁと、テンペストをKindleストアで探すと無い。小田島訳は白水社だから期待していなかったが、それにしても見事に無い。というか、シェークスピアそのものが坪内訳のロミオとジュリエットしかない。なんだ、この本屋? シェークスピアも置いてないとは話にならないじゃないか。と、あまりの使えなさに逆に仰天した。
テンペスト (白水Uブックス (36))(ウィリアム・シェイクスピア)
(と思ったら、シェイクスピアで検索したら1092タイトルも出て来た。それはそれで使えないような。というか、「なぜ大和を「ヤマト」と読むのか」なんていうどういう脈絡でひっかかったのか謎な本を結果に出すくらいなら、シェークスピアの検索にシェイクスピアを含めろよと思うのだが)
小田島好みだが、未知の訳者のこれでも買うかと、
あらし 研究社シェイクスピア・コレクション(ウィリアム・シェイクスピア)
を購入。
例によって原作を読むと、3歳になる前に追放されて、もうすぐ12年だから、14歳だった。ハイティーンじゃないや。
何かで、ある時代まではアガペとエロスのうち前者が存在しない時期があって云々というのを読んだことがあるのだが、テンペストを読むとまさにそんな感じで(実際のところロメオとジュリエットとか、すべてそうだけど)、それはそれで興味深い。
で、プロスペロがフェルディナンドに丸太運びのような力仕事をさせて発散させたり、二人にチェスをやらせてみたりして、どうにか式を挙げるまで引き延ばそうと策を巡らせるのが、実におもしろい。(オペラのほうでは、解放されるやさっさと木陰だか海辺の岩陰だかに行きましょうとか歌いながら行ってしまうのだが、そこは現代風ということだったり)
シェイクスピアは、16世紀中ごろに生まれたわけで、時代的には足利幕府が滅亡して織豊時代に活躍しているわけで、日本でも世阿弥とかがいかにウケを取るか考えてみたり、阿国とかが興行したりしているから、意外なほど東西の文化は近いものだなぁと思ったり。
舞台はバミューダで、そのくせそれ以外は地中海だから(遭難したのはナポリ-チュニジア航路)無茶苦茶なのだが、バミューダ島をイギリス人が発見したのが1502年らしい。なので辻褄はもしかすると合っている(どうやって地中海から大西洋を横断したのかは別問題として、たぶん、シェイクスピアの頭の中ではドーバー海峡以外は地理的な距離を把握していないんだろうけど)。
翻訳は気持ちよかった。特に、「おみごと、おみごと勤勉小僧、きっと自由にしてやるぞ」という科白はツボにはまった。
Kindle版で購入した宴の夜というよりも十二夜を読了。
宴の夜 研究社シェイクスピアコレクション(ウィリアム・シェイクスピア)
イリリアの侯爵(ただし途中で女主人公の1人のほうに身の丈を合わせるために伯爵に変化しているのだが、そのいい加減さもシェイクスピアの真骨頂)が、若い伯爵令嬢に恋をする。しかし伯爵令嬢は伯爵が死に、跡をついだ兄もすぐに死んだために、喪に服している。が、どうもそれを言い訳にしているだけのような……。何故だ、と侯爵は不思議に思う。イケメン、金持ち、性格良し、音楽に親しむ教養人と、非のうちどころがないこのおれがなぜ好かれないのだ? (シェイクスピアの時代は歯に衣を着せないので、当然、これは全部、事実という想定だ)
さて嵐が来て、船が(上の話と関係なく)真っ二つになり、美しい乙女ヴァイオラは船長と辛うじて沈み行く船から逃れてイリリアの地に上陸する。双子の兄はたぶん、海の藻屑となっただろう。故郷へも帰れない。そこで船長に頼み、イリリア候の宮廷にカストラートとして就職を斡旋してもらう(女性のままでは身が危ないが、かといって男装して通用するのはカストラートくらい。音楽はもともと得意だ)。でも私が女だということは秘密にしてね。
船長「あなたが金抜きならあたしゃ舌抜きといきゃしょう、だんまり役が勤まらぬようなら、ついでに目ん玉も抜きやしょう」
さて、仕えているうちに、ヴァイオラはすっかりいかした風流人の侯爵の恋のとりこになってしまう。が、仰せ付けられる役目は、伯爵令嬢への恋の使いばかり。
一方、伯爵令嬢はすっかりこの美しいカストラートに首ったけ(船長の言葉から行っても、ヴァイオラのちょっと不思議な台詞から言っても結婚対象の男じゃないのは自明だと思うのだが、良くわからない。子種と夫婦は別なのかな? と謎に満ちたイギリス16世紀)。
さらに伯爵家に寄生する騎士だの道化だの、デスピーナの一族のメイドやら、どっこい生きていたヴァイオラの兄貴、その友人にしてイリリア候の不倶戴天の敵やらがからみあい、伯爵令嬢は間違えたままヴァイオラの兄貴と結婚の誓いをし、わけがわからなくなったところでヴァイオラは侯爵へ告白し(もちろん女性へ返る)、ちゃんちゃかちゃんちゃか大団円。最後に道化が歌を歌っておしまい。
道化がいちいち気の利いた受け答えをして、同じくヴァイオラが気を利かせまくって(ベニスの商人のポーリーヌといい、シェイクスピアの舞台には頭の回転が早いいかした少女(どうせヴァイオラも14歳かそこらなのだろう)が出てくるが、伯爵令嬢もやたらと頭の回転は良いのだった。というか、愚かな騎士と呼ばれる人物以外、全員、目から鼻へ抜けてセリフがペラペラ、気転がくるくる、抜け目はないないで、読んでいて、こんなに楽しいものはない。
翻訳も実に快調。
シェイクスピアは本当におもしろい。これだけおもしろい作家だから、ハロルド作石も題材にしたかったんじゃないかなぁ。
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が、良くないことがある。
Kindle版は妙に書籍より安いのだが、欠陥商品も良いところだ。改行位置がどうもおかしいが、訳者がブランクヴァースを生かすために、妙な段組みしたと解説に書いているので、そのせいかと思ったら、全然違う。
第4巻 宴の夜 (研究社 シェイクスピア・コレクション)(大場 建治)
書籍版の中身が見えるが、台詞を受け取って流れを作るために、余白を多用してつながりを作っていることが、妙な段組みの正体だった。
この訳者の工夫がKindle版ではまったく見えない。単にだらだらつながっているからだ。
えーと、これは詩劇なのだ。そして詩とはリズムで、文字でリズムを表現するのは、改行、余白、ヤクモノだ。
これでは広告文の「舞台のリズム・台詞のリズムを完璧に活かした、流麗の決定訳」が嘘っぱち、ただの翻訳文字列だ。
Kindle版は、単に文字の羅列であり、そこには詩が無い。
(もちろん、詩は人の心の中にあり、歌う口から流れ出す、そこに詩がないのは当たり前、なぜそれをお金で買えると思うのか、何を信じればよかりょうか、消え行く定めの脚韻に(ブランクヴァースでは脚韻をあえて省略する形式)
そりゃ安いはずだというよりも、問題外と言っても良い。
たとえば、マンガで吹き出しの中は読めるけど、それ以外が全部白がRGB(255,255,255)、黒がRGB(253,253,253)で塗られていたら、それは商品として成立しているのか? という問題だ。もちろん問題外だ。
ぷんすかぷんぷん、でも作品は素晴らしい。
超久々にルソーでも読むかと、まだ読んだことがない本が光文社の新訳シリーズで出ていたので手に取った。飯を食いながらぼつぼつ読んでいたのが読了した。
孤独な散歩者の夢想 (光文社古典新訳文庫)(ジャン=ジャック ルソー)
自民党のおかげで今や風前の灯の天賦人権説を、何もないところから生み出した人類史上に燦然と輝く大天才がルソーだった。人は人として生まれ、人として死ぬ。
そのルソーが50後半から66歳で死ぬまでの間に書き溜めたのが孤独な散歩者の夢想らしい。
読み始めて驚いた。論旨は明瞭、意思は明確、主張は堅固、しかし話がおかしい。世の中すべてがルソーに対して迫害のために日夜敵意をむき出しに、隙あらば襲い掛かってくるという内容だからだ。
また、運が悪いことに、坂道を散歩中に犬に襲われて転倒し、口蓋裂傷、歯が数本折れるという大けがをする始末。
知人が珍しく訪ねてきて、共通の知人が上梓した本を紹介する。そこで子供を愛さない人間は人間に非ずというようなくだりが出てくる。ルソーは憤激する。
これは、私生児を孤児院に預けた自分の過去に対する大いなるあてこすりに相違ない。かくのごとく、世界はわたしを迫害し、嘲笑し、無視しているのだ。
なんだこれ?
そこで巻末の年譜と解説を読み、社会契約論のみならずエミールさえも禁書となり焚書され、国外追放となり、行く先々で逮捕されそうになったり、また追放されたりの繰り返しで、ついにルソーは精神のバランスを崩してしまったらしい。
(ヴォルテールとの論争や、カソリックに日和って宗旨替えして敵に回った友人がいたことなどが拍車をかけたようだが)
ついには、イギリスへ亡命できるよう尽力しているヒュームロック(ひどいバグ)と渡英中に喧嘩別れする始末。
かくして、想像力が悪い方向へ悪い方向へと進み、ついに全世界が自分の敵だという認識になってしまったらしい。
植物観察の喜びを書いているかと思うと(その過程でリンネに対する礼賛などが出てくる)、なぜ自分は植物観察にこれだけ惹かれるかというと、もう人間はこりごりだからだ。なぜならばやつらはわたしを憎むからだ。そういえばこんなことがあった(と散歩中に出会った人の描写)が、きっとわたしを監視していたに違いない。そして後で笑いものにしているのだろう。と続く。
世の中の人々が何も疑っていなかった神中心の世界秩序観の中で、人は人として生まれたそのことで人であるのだという人間とは何かという概念を作り出し、国家は神から授けられたものではなく一般意思によるものだと看破した想像力が(宇宙の始まりを想像し、ビッグバンにたどりつかせた外的宇宙に対する想像力に匹敵する内的宇宙に対する想像力だ)全力を振り絞って陰謀論にのめり込んだのだからそのパワーたるや並ではない。
これは悲惨な戦いだなぁと愕然とするが(一方、その大いなる想像力が良き方向へ向かえた時期のことを考えて、それがどれだけ画期的なことだったかに気付き感動するのだった)、それだけにところどころに戻ってくる、植物を観察し、なぜ植物がかくも美しいのか考察したり、美しい過去を回想し、回想がなぜ美しいかを考察したりする正気のルソーをみるとそのささやかに取り戻した幸福な思考にほっとするのだった。
奇書だった。
スティーブン・レヴィ(ハッカーズを書いた人)の『グーグル ネット覇者の真実』がKindleストアで叩き売りされてたので買った。読み始めた。すげぇおもしろい!
というか、おれもオルタヴィスタを使っていたクチではあるから(千里眼とかいう名前の早稲田かどこかの検索エンジンのほうを良く使ってた記憶が甦ってきた)、Googleが検索システムに殴り込みをかけて、まだ、たったの15年という事実に驚愕し直す。本当に、世の中が変わるのなんてあっという間だ。
ハッカーズもそうだが、レヴィのスタイルは、時期ごとにテーマを決め、そのテーマの真の主役とその脇を固める人々の証言を元に何がどのような理由で起きたのかを整理しながら描く。したがって、他の読み物では出てくることがない人々もそのテーマに関する証言を行い、それによって多角的にテーマに対する検討を加える(ことを読者に許す)。
この本も実に見事にその方法論がはまっている。
したがって、リンクを検索の最初に置くという発想が単にそれだけではなく、むしろ機械学習によって回りを固めることの重要さとか、あるいは同時代に同じくリンクに目をつけた他の研究者とその状況(から、なぜペイジとブリンだけがGoogleになれたか)や、ペイジやブリンの動機や、そこに至るまでの指導教官の方向付けや、そういったものが合わさって、1995~1999という驚くべき時代について、すさまじい大冒険が(水平線の彼方に何があるかわからない(滝になって地球から落ちてしまうのかも)時代に大西洋の向うへ船を出したコロンブスみたいなものだ)繰り広げられたことが、いきいき(おれはこの形容詞は老人ホームみたいで大嫌いだが、カタカナでヴィヴィッドとか書くよりも、やはり日本語のいきいきという言葉が正しかろうと、残念ながら利用する)と書き出される。
くそー。
今年は大好きな映画人が2人亡くなった。
まず藤本義一。
とにかく、日本映画の金字塔と言えば、田宮二郎の犬シリーズだ。その作品の脚本が藤本義一だった。
趣味が高じてピストル自作して早撃ちの練習をしてとんでも無い腕前になったいかれた兄ちゃんを田宮二郎が演じている。で、正義漢なので結局は暴力団を退治することになるので(たとえばジッポをずらっと並べて次々に蓋をはじき飛ばして火を点けていくとかの技を披露すると向こうが勝手に降参したリする)、拳銃不法所持だとわかっているのだがあえて目を瞑って泳がせている刑事が天知茂。確か、勝負犬、野良犬、鉄砲犬、続鉄砲犬、早撃ち犬、暴れ犬くらいは観た(TV東京のお昼の映画の時間帯だ。全部同じ話だが、確か、森一生が撮った暴れ犬が圧倒的におもしろかったような記憶がある(それで森一生ファンになって映画旅を読んだりすることになる)。野良犬は今さん)。
というわけで、日本一の映画の脚本家というわけで藤本義一は好きなのだった(でも他に何をしたかは11PMの司会をしていたらしいということしか知らない)。
そしてクロードミレール。
最初に観たのはイザベルアジャーニが出てくるシネノワールで(一番うまい歩き方はアテネか日仏でやったときに見損ねてそれっきりだ)、次になまいきシャルロット(予告編を見ると実に細かくうまい監督だということがわかるが、視線が妙なのが特徴的)、小さな女泥棒(意地悪をした鑑別所の隣の席の女の手にフォークを突き刺すシーンは、おっかない)、その後、シャルロットゲンズブールはドワイヤンのほうに行ってしまったので映画も一緒に来なくなってしまって、それからずっと空いてある秘密だった。ある秘密は素晴らしかった。(助監督を含めて良ければほとんど観ているが、本人の監督作品はそれほど観られないというのがちょっとおもしろい)
森一生の暴れ犬の予告編もあるが、これ見ても全然おもしろくないなぁ(というのも、長いシーケンスが良い監督だからだ。短いのがぱっぱと進む限りは鉄砲犬の村野鐵太郎のほうがおもしろいかも。端役のクレジットが出るシーンで田宮二郎が走るシーンが出てくるが、ここにおもしろさの片りんが見える)とか見ていたら、草笛光子に口説かれてふと振り向くと向うから悪役が親分を先頭に歩いてくるところがワンカットで流れるがこれはしびれる! シネスコの使い方もいいなぁ)。
暴れ犬が圧倒的なのは、田宮二郎が歌を歌うシーンがあるからだ。確か「ハジキ持つ手に心も踊る、いかすシャッポも革ジャンパーも、いきなおいらのトレードマーク、夢を持とうぜ、あーばーれーいぃぬぅぅぅ」
昨日の真夜中、屋上に出てふと空を見上げるとまさに天上に北斗七星が見えた。いつもは見えない柄と杓の付け根の星(メグレズ)まで見える。北斗七星が見えれば、自然と尺取して北極星を見つけるのだが、これも良く見える。まったく世界は美しい。
何千年も前に空を見上げ、ある1点を中心に星が回転していることを見つけた先人の観察力や、それをつなげて位置を把握することを考え付く想像力に感嘆する。
この年になるまで知らなかったが、比較的都心でも天の川も見えるし、部分的には3等星ですら(それがメグレズだった)見えることがある。
でも、この年になったから見えるのかも知れない。一番空を見上げやすかった年齢の頃は高度成長期で、工業地帯からは随分と離れている家のあたりでも空はいつでも曇っていたからだ。
それよりもっと重要なことがある。
子供の頃はメガネだったが、今はコンタクトレンズという便利なものがあり、おれの視力は1.2程度あるからだ。
おかげで、子供の頃は本の中の世界に過ぎなかった北斗七星を眺めることもできれば天の川の壮大さに見とれることもできるのだ。
しかし、その代わり、コンタクトレンズをしていると普通の人間と同じく老眼の影響をもろに食らう。
辞書は読めず、文庫もほとんど読めない(早川の新しい活字サイズはどうにか読める)。マンガもコミックサイズはほぼ読めない。
そこでメガネをかける。これは中途半端で0.5程度に抑えているので、本はそれなりに読める(でもスタンダードくらいに字が細かい辞書は読めない)。しかし5mくらい離れると人がいることはわかっても顔はよほど見知った人でなければ誰だかわからん。空を見上げれば、オリオン座だけは場所はわかる。それ以外は金星だけで、あとは異様に明るいのでシリウスだろうなとそれだけは見当がつく。
さらに裸眼になる。どんな辞書でもばっちり読める。20cm以内ならば。しかし空を見上げても月しか見えない。
でも、まあ視点の多様性をそうやって確保していると考えることもできるな。
Windowsと言えばブルースクリーン、アミーガと言えばグル・メディテーション、Unixならパニック、フレンドリーMACなら爆弾だ。
しかし、フレンドリーを脱皮してオシャレになったMacには名前がない。ただ、ひたすら、レインボーくるくるが回るだけだ。
さっきも妻のMacをセットアップしていたらレインボーくるくるが出てきて、気付けばいつもより余計に回っていて数時間が経過していた。こうやってトンボは捕まるのだな。
APPLE MacBook Pro 13.3/2.5GHz Core i5/4GB/500GB/8xSuperDrive DL MD101J/A(-)
(妻用の白いMacBook 2008earlyの蝶番がおかしくなったらしくすぐに画面が黒くなるようになってしまったので、さすがに4年使ったのだからと新調した)
WindowsのブルースクリーンはVista以降、目にしたことはないし、アミーガのグルメディテーションは最後に電源を消してから10年以上も見ていないし、Unixのパニックもここ10年以上見ていない(ちょっとGentooを使おうかといじくりまわしていたらそれっぽい状態になったことはあったけど、GNU LinuxはUnixではないし、職場でSolarisをいじっていてもお目にかかることは全くない)。
その点、Macは圧倒的に――システム(Windowシステム含む)にレースコンディションがらみのバグを持っているのだと思う――不安定で、すぐにレインボーくるくるになり、気付けばいつまでもいつまでも回っている。
染之助・染太郎のおめでとうございます(海老一染之助・染太郎)
でも名前が無いということは素晴らしい。レインボーくるくるには名前がないので、誰もそれを口に出さない。まるでハリーポッターに出てくるあの人のようだ。名前を口に出さなければ存在しないも同然だからだ。
かくして、未だにスラドではWindowsといえばブルースクリーン! Unixといえばパニック! と大声で叫ぶ人はいても(彼らがそれを目にしたことがあるのかどうか疑問だ)、Macの不安定さを叫ぶ人はいない。
これはフェアではない。
というわけで、おれがレインボーくるくるに名前をつけることにした。
「ヨガの眠り」だ。
それはそれとして、熱くてキーボードを触れないMBPなので先回りしてキーボードも買った。
Apple Wireless Keyboard (JIS) MC184J/B(-)
実にかわいい。
あと、高さを調整してやるために、置台も買った。これもなかなか良い感じだ。
下部構造はとっくに資本主義になっているのだが、どうも上部構造は未だに封建制を引きずっているのだなと、『正社員』(とそこからリンクされているページ)を読みながら考える。
江戸時代、やんごとなき事情で藩がお取り潰しになる。あるいは厳封となりリストラが始まる。その藩に仕官していた侍のほとんどは(別の藩からスカウトされる人脈力があったり特異能力があったりする侍もいないわけではない)途端に食い詰めて(百姓と異なり農地は持たず、商人と異なりビジネススキルは持たず、職人と異なり技術は持たない)、しょうがないので人手が必要そうな江戸へ出てくる。
何人かは誰でもできる傘を張るという刺身タンポポ(でも実体は菊)な仕事につき、何人かは埋め立て工事の現場で働き、何人かは不良浪人として悪いことに手を染め、何人かは佐渡送りになる。
下部構造が劇的に異なるにも関わらず、上部構造はそっくりだ。
というのもそのはず、終身雇用という構造は、出仕して少しずつ出世して、すごいやつなら家老になるけど、一生足軽のままでも取りあえずは食えるという侍のビジネス構造にきわめて似ているからだ。
というようなことは、昭和30年代にはなぜ民主主義(これも上部構造だが、政治のほう)なのに、武士道みたいな生活をしているのだ? という疑問が生まれ、そのあたりの疑念をうまく汲み上げた、サラリーマン小説のベストセラー作家が生まれたりしている。例:南条範夫。武士道とはマゾヒズムと見つけたり――忠義という名目の下、主君の理不尽な命令やお作法という名の非人間的(まあ人権という概念がないわけで)なシステムの下に嬉々と従って苦しみながら死んでいく人を描く)と喝破したのだが、ブラック企業+社畜って昭和30年代にはいわれていたことなのですな。
結局、こういうことかな、と考える。
明治政府は革命(天皇が変わっていないので革命の定義に合わないため、維新とか自称しているけど、その意味では武力による政権交代を一般に意味するクーデターと呼ぶべきだろう。というか、レボリューションを革命と訳すのなら、クーデターも維新と訳すべきですな)によって、資本主義による効率性を取り入れて欧米列強にすぐさま追いつこうとする。そこまでは正しい戦略。そのためにはホワイトカラーを大量に作る必要があり(もちろん工業化するからだが、実際の作業を行う工員は比較的簡単に作ることができる)、そのためのメンタルモデルに武士道を残すことによった。でも、もしかすると軍隊の生成にメンタルモデルとして取り入れたというのも大きそうだ。なぜなら徴兵制によって全国民が一定期間の軍隊内での教育を受け、そこは「軍服様へ敬礼」「軍服様にお前の体を合わせるのだ」といった武士道顔負けの理不尽を導入したわけだからだ)。
追記:メンタルモデルとして取り入れるにあたって、労働法もそれに見合ったものにしていることになる。それが正社員の定義となる。
そのメンタルモデルを破壊して、資本主義に見合った上部構造を構築し直す機会は2度あった。
十分に資本主義が発展した大正デモクラシー期と、敗戦による秩序崩壊時だ。
でも、その2回のチャンスを生かすことはできなかった(とはいえ、2回目の時に軍隊と徴兵制を無くしたおかげで、理不尽度は多少薄まったはずが、高度経済成長のいけいけどんどんが、会社組織の封建制メンタルモデルの強化に進んでしまったのは不幸なことだったのだろうなぁと後知恵で考える。ものの本を読むと、大正と1950年代が相当自由な印象を受ける)。
実は3回目の封建制度からの脱却のチャンスがあって、それがバブルだった。滅私、それ何おいしいの? フリーターですちゃらかですよ、という風潮が生まれたのは良いことだった。需給が完全に逆転したから、封建制メンタルモデルで企業へ勤めるという考えが生まれるわけがない。
が、はじけてしまって逆方向。
これまでの封建制メンタルモデル脱却のチャンスは、ポジ(大正)、ネガ(敗戦)、ポジ(バブル)だった。(今気づいたが、おおざっぱには1920, 1950, 1980と30年周期だ。で、今が2010)
この3つを見ると一番インパクトがあったのはネガの時だ。
ならば、今、再びネガ方向のチャンスが生まれているのかも知れない。
(だが、おれはみんなの党は支持しない)
#というように、おれは進歩史観主義なので、封建制メンタルモデルは捨ててしまったほうが良いと考えるのだが、もちろん世の中には異なる考え方の人もいて、下部構造がどれだけ変化しようが、上部構造としての封建制メンタルモデル(忠義、滅私)こそ最高のビジネスモデルとみなしているのだろう。ものがメンタルモデルだけに、一度染み込んでしまうと変わることはないかも知れないなぁ。
#ヒント:上部構造がどうだろうと、左甚五郎は自由人だ。
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Before...
_ arton [転落というか、陥落か。]
_ ma2 [家族で覗きこんで使う…みたいな絵が浮かんでくるのがいいですよね。]
_ arton [うん。読者用はともかく、なんか、家庭用としてはこれまで考えたこともないようなコンピュータの姿で、そこが痺れます。]