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あまりに良かったので2回目。千秋楽なのが残念だ。
トロシャンやフロンターリも素晴らしいが、やはり指揮(とオーケストラ)が抜群に良い。アディーオのいきなりな速度。
開幕前にフルートが嵐のあたりの練習をやたらとしているなぁと思ったが(確かに、あの場で外すと困ったことになるが)、その場になるとおそろしい緊迫感がある。
しかし、なぜフルートなんだろう? 小鳥が夜中に鳴くわけはなく、風の吹き始めのピューピューを出したかったのか。むしろ悪魔が来りて笛を吹くかも知れない。
金田一耕助ファイル4 悪魔が来りて笛を吹く (角川文庫)(横溝 正史)
リゴレットとジルダの二重唱でトランペットソロが入る(特に最後の部分が印象的)ことに今回初めて気づいた(聴いてはいたが意識に昇るという意味で)。指揮者の音色処理の絶妙さだ。
同じ意味でコントラバスのピッチカートも目立って、リゴレットは良く知っている曲だと考えていただけに新鮮極まりない。
と、その3つの楽器がやたらと気になったが、カーテンコールで指揮者(ベニーニ)がわざわざ、フルート、コントラバス、トランペットを順に称えたので、なるほど指揮者の意図通りに演奏してみせたのか、と感じ入った。(指揮者がオーケストラ全体でなく、個々のソロパートを称えるのを見るのは初めてだと思う)。
マントヴァから打って変わってイェルサレム。
ヘロデ王は実に複雑怪奇な人であるなぁと思う。
おそらく雇われ(派遣)王様だからだろうが、地位を万全たるものにするために汲々としている。そのため、不愉快極まりないヘロデアスを妻として置いておく必要があるのだろう。
ユダヤ教のラビたちは勝手なことを言い合う。
王を慰めるものは、カエサル(時代は合わないからフリオチェザーレではなく、単にローマ皇帝のような意味だろう)から送られてきた本場イタリアの葡萄酒を飲むことと、歯に衣着せぬ神託を告げまくるヨカナーン(地下牢に閉じ込めてはいるが、むしろユダヤ教の狂信者や妻の送り込む暗殺者から、安全を守るためのように受け止められる)、そしてヘロデアスの連れ子のサロメなのだが、ここでヘロデ王は、サロメに欲情しているようにしか読めない描かれ方をされているが、むしろ、邪心がない美しきものを愛でるという感覚なのではなかろうか。
それが邪心の塊であるとわかったあとは化け物として始末することを選択せざるを得ない。
それにしても、この時代(エレクトラもそうだ)のリヒャルトシュトラウスの金属的な不協和音の爆発は、色彩爆弾のようなココシュカを音楽で10年先取りしたような印象を受ける。聴いていて楽しい音楽ではない。
池袋のシネリーブルでNTLive(演劇の舞台の録画)でライフ・オブ・パイ。
良く内容を知らないまま見始めると、メキシコで日本人とカナダ人が病院へやってきてインド人の少年に海難事故の状況を聞く。
少年が語り始めるのは、海の上で虎とハイエナとオランウータンとネズミ(だったかな)の漂流の物語だった。
トラの名前がリチャードパーカーというギャグ(狩猟者の名前を動物の名前として登録してしまった)が何度も繰り返される。
ハイエナや虎の操り人形がびっくりするほどおもしろい。
想像力は空腹をしのぐとかちょっと考える。
船を床からのせり出しと引っ込めで表現するのだが、そういった舞台装置の巧みさも抜群(したがって場面転換の速度がとても良い)。
まったく知らなかったが、確かに文学史上類を見ない冒険小説だ。
少年汽車に乗る、コシュバコシュと立て続けに映画が公開されたフドイナザーロフだが、3作目のルナパパがおれにはおもしろくなかったので気にしなくなったわけだが、いつの間にか死んでいた。
しかも、おれが気にするかどうかとは無関係に配給の問題か、ルナパパ以降は映画館にかからなくなっていたらしい。
で、遺作となった海を待ちながらを含む回顧展がユーロスペースであったので観に行った。というか初めてフロイナザーロフの年齢を知ったが、少年汽車に乗るが25歳のときの作品というのにはたまげた。というか、あの時代は、ジムジャームッシュ、レオスカラックスとかがそうだが、20歳代でデビューする時代だったのだな。
で、観たわけだが、これはとんでもなくおもしろかった。ここ数年のベストだ。
物語は、港町(といってもしょぼい)で始まる。女たちが豊漁祈願をしている。そこに姉妹が登場。マレットという名前の船長の妻と妹らしい。妹の演技に不思議な陰影があるのだが、それはそれとしてマレットはひげのまだ若いおっさん。そこに小太りの男がやってきて、嵐が来るから出航はやめろというがマレットは取り合わない。いいか、おれは伝えたぞ。
姉もマレットに悪い予感がするからやめろ、と告げる。いや豊漁だぜ。だったら私も乗る。というわけで、船員と妻を乗せて出航する。
そこまでは最初の豊漁祈願もあって、ほおこれが中央アジアですか(この海ってなんだろう? と思ったら、アラル海と後で知った)という雰囲気の暢気な映画なのだが、そこからどんどこ魔術的リアリズムの世界に突入した。
とにかく湧き上がる雲が普通ではない。切り立った滝のようだ(普通は海の果てで滝が下へ続くのだが、これは上へ昇る)。
マレットは海岸へ打ち上げられる。
さて数年後、とクレジットが入り、マレットは列車に乗って帰郷の旅路だ。
食堂車へ行くと、観客のおれにはどうも見たことがある女給が働いている。女給はマレットに気付く。しかしマレットは気付かない。
マレットがうろうろしていると車掌がにやにやしながら商売を持ち掛ける。中央アジアのリアルなのか魔術なのかわからないが、列車の貨車を舞台とした売春斡旋業を車掌はしているのだった。マレットは買うことにする。
というのを女給が聞くと、わたしが相方よ、と決めつけて貨車へ向かう。途中、本物の娼婦が出てくるがどやしつけて自分が貨車へ行く。
で、マレットの妻の妹ということがわかる。
マレットは町に帰る。というか既に海辺の町ではない。砂漠の町だ。これも魔術か? と思ったら本当にアラル海は干上がってしまったらしい。
人々が寄ってきて人殺し! と石を投げつける。ということから、嵐で船が沈没して船長のマレットだけが生き残ったのだなとわかる。
幼馴染のバルタザール登場。バルタザールに対してマレットはやたらと横暴に振る舞うのだが、良い奴らしくいつもマレットの味方をしてくれる。飛行場の管制官に現在はなっているようだが、いったい飛行機はいつ来るのだ? かっての漁協の建物が博物館になっていて子供を受け入れたりもしている。
マレットは、座礁していた船を復旧させようとする。再び海に帰れば妻や船員たちも帰って来る(と思いたい)。いずれにしても彼らの死体は発見されていないということだ(そりゃ無理だろうと最初は思っていたが、何しろ完全に干上がっているのだから、海の底を浚渫する必要はないから無理でもないのかなぁ、と現実に即して考えても大して意味はない)。
という具合に映画は進む。座礁していたマレットの船も進む。
バルタザールの息子の一味は、まさにヒャッハーなモヒカン(というよりはマッドマックスの敵方)。砂漠といい、間違いなくマッドマックスを意識しているだろう。
役者ではなんといっても亡き妻の父親が良い。抜群だ。最初はマレットに鞭を振るう。長女は殺され、次女は追い出されるのか、あの野郎。しかし最後はすべてを許して窓に蓋をする。というか、なにを作っているのかと思ったら、自分の墓だったとは。
それにしても、町と船をマレットも妹(姉と二役とクレジットで知るわけだが、髪の長さとメイクが異なるだけでまったく別人かと思った)も父親も往復しまくるのだが、距離感がまったくわからん。バルタザールはオートバイで移動しているから、きっと遠いのだろうが、そこは魔術の世界だ。
船の移動は下手から上手。だいたい、海だった砂漠へ向かうのは下手から上手。
BSでやってたので録画して観た。最初の20分くらいは無し(気づいて録画し始めたのが20分後くらい)。
ジョンフォード作品で、主演はジェームズスチュワートとリチャードウィドマーク。
映画の中の映画のような作品で堪能しまくる。
ジェームズスチュワートは軍に雇われた保安官マケーブで、リチャードウィドマークは監軍相当(といっても二人だし、どうも旧知の間柄らしい)のゲーリー中尉。
見始めたときは、まだ二人は出発前で、マケーブはゲーリー中尉がついてくるのをすごく嫌がっている。どうもコマンチ族に人質として取られた子供(といっても10年以上前なので現在は立派な若者のはず)を交渉して返還させることが目的らしい。
で、金持ちらしき男から、とりあえず顔が立てば良いのだから、どこの馬の骨であろうが連れ帰ってくれば(=人質関係なく適当に青年を連れてくれば)大金を払うという約束を取り付ける。どうもマケーブは金が好きらしい。
一方、ゲーリー中尉はまじめ一方で、町に来ている若い女性から弟を連れて帰って欲しいと懇願されながらも懇ろになりつつある。
そこにマケーブが戻ってきて、弟に夢を持つのは良いが、現実にはろくに白人家庭で文化を覚える前に人質に取られて10年、コマンチの間で暮らせば、言葉は喋れないし、全然違うものになっているぞ。甘ったれるなと怒鳴り散らす。
それは正しいがものには言いようがあるだろうとゲーリーが怒る。
女性は憤然としてどれだけ自分が弟に会いたいかを訴える。
で、馬上の二人となるのであった。
なるほど捜索者の別バージョンだな。
ただし捜索者とは違って、こちらはコマンチから取り返した人質のその後が主眼だった。
というわけで、返還交渉はマケーブが用意したライフルによって(そういえば先日見た「不死身の保安官」(これも良い映画だったラゥオールウォルシュ)でも交渉材料は銃だった)比較的簡単に終わるのだが、軍幹部の妻(メキシコ系)も連れ帰るために軋轢が生じる。
が、酋長にとっても軍幹部は目の上のたんこぶで、男の了解として追加の銃(人質が二人になったので値段がマケーブの元の考えの倍となった)の代わりに軍幹部の暗殺が図られる。
かくして、真夜中に軍幹部が立ちはだかる、それに気づいてマケーブが立った瞬間に早撃ちで射殺する。このシーンは実に印象的。
が、町に帰ると、若者があまりにもコマンチになりきっているため、誰も引き取ろうとはしない。唯一、子供を失った悲しみで異常をきたしている奥さんが息子だと信じ込み、その優しい夫もそれを受け入れる。
一方、メキシコ女のほうはあらかじめ想像していたとはいえ、偏見にさらされまくり、マケーブに、コマンチのところに戻してくれと懇願する。
いや、それは逃げであって本当の希望とは違うだろう。自分の望みをかなえるには戦うしかないんだ、とマケーブは軍のパーティーに連れていく。その前にコマンチ風の髪型を西部の女性っぽくするためにいろいろこねくり回すところシーンが抜群におもしろい。
しかし案の定、パーティでは男は誰一人として彼女とは踊ろうとはせず(さすがにゲーリー中尉が怒るのだが、本人、弟探しの女性とくっついているのでやはり相手にはしないところがなんともな感じではある)、やむを得ず壁の花として椅子に腰掛けると、今度はコマンチとの夜の生活について次々と淑女がやって来ては根掘り葉掘り聞き出そうとするので、我慢の限界にまで達する。
パーティ会場から逃げ出そうとするのをマケーブは押しとどめて、戦え! と言う。
ついに彼女はコマンチの生活とはどういうものなのか、お前らの平和はどういう犠牲の上になりたっているのか、女性を盾にした卑怯な行動について演説を始める。
が、なぜ自殺しないのか? という疑問には答えることができずに逃げ出す。
そこでマケーブは後を引き取り、同じ宗教ならわかるであろう。自殺は罪である(とはいえ、ピューリタンなアメリカ人とカソリックのメキシコ人ではそのあたりの感覚が大きく異なるのかも知れない。マケーブはコマンチとも付き合えるし、カソリックについてもわかるらしく、マッチョな保安官でありながら実は教養人なのだった)と演説を続ける。
が、その場の全員、神妙に聴いてはいるが、それはマケーブがおっかないからだけだというのは映像で見せる。
一方、青年は奥さんが戒めを解こうとするのだが、理解が追いつかずにもみあいとなって殺してしまう。
当然のようにリンチとなり、首吊りの木への行進が始まる。
そこにマケーブ、ゲーリー登場。リンチは許さん、とマケーブ。すると扇動者たちが、おれが検事だ。おれが判事だ、陪審員だと口々にして正当性をアピールする。
万事休す。
荒々しく青年を突き飛ばしたせいで、幌馬車の荷物が崩れ、ゲーリーの相手の女性の荷物からオルゴールが飛び出して鳴り始める。
マイ! と初めて青年の口から英語が飛び出す。彼女はマケーブに当たり散らされたときに、弟の大事なオルゴールで、「僕の僕の」と夢中だったと話した伏線がいっきに回収。もちろん、彼女は連れ帰られてきた青年を見た瞬間、あんな獣は弟ではないと言い切っているので、どうにもしょうがない。
青年は吊るされる。足がぶらぶらする。
テンガロンハットを顔にのせて、揺り椅子にだらんと寝そべって、柵に足をかけている、象徴としての保安官登場。
マケーブが軍から解雇されたので帰還したのだな(冒頭を観ていないので実際のところはわからないのだが、終了後に映されたスティールにジェームズスチュワートが同様な青い服を着て寝そべっている姿があるから、その読みであっているはず)と思うと、全然別人。
マケーブが戻ってくると、おれがあんたの不在中に選ばれた新しい保安官だと名乗る。
まじすか? とマケーブが保安官事務所兼酒場(に見える)に入ると、酒場の女主人(どうみてもマケーブの本来の相方に見えるというか、最初から観れば良かった)が、メキシコ女を口汚く死ねば良かったのにと罵る。
メキシコ女わっと涙をこらえて、遠くへ行く駅馬車に乗る。
なんてこと言うんだ、とマケーブが女主人を殴ろうとすると、ガーターベルトからナイフを取り出し、殴ったら刺すという一触即発状態となる。このテンポも抜群。
愛想がつきたぜ、とマケーブも駅馬車に乗ることにして御者台に乗り込む(というのを、一人悲嘆にくれるメキシコ女が地面に移った影に気付いて見上げるとマケーブがいるという演出となっていてうまい)。
ただ、新保安官、女主人、それとゲーリーの部下でマケーブの呑み友達らしき伍長(だと思う)がにこにこしているから、夜のうちにマケーブがメキシコ女に惹かれていることに気付いたゲーリーと伍長が示し合わせて、不器用でへそ曲がりなマケーブとメキシコ女を結び付けるための一芝居だったらしきことが暗示されて終了。
映画を観た、と心から満足した。
コマンチ族のところへの途中でジェームズスチュワートがリチャードウィドマークに早抜きで銃を突きつけるシーンとか思わず巻き戻して2度見してしまった(ら、実にインチキだった)。
アマゾンだとR18+になっているがなぜだ?(ネイティブ差別的視点か? そうではなく健全なアメリカ市民こそが下品で手前勝手で偏見に満ち溢れたカスという差別的視点で作られているからか?)
国立能楽堂で能楽教室(というような名前の初心者向けの公演)に行く。
最初に金春流(こんぱるりゅうと読むらしい)の人が演目や舞台についての解説。
屋内に能楽堂があるわけで、柱が観劇の邪魔になる(そのため斜めの席はあまり良くないとブックオフィスで言われた)のだが、なぜ国技館みたいに屋根を吊り下げるだけにしないのかと思ったら、柱についての説明があった。
能面を被ると視界が非常に狭くなる。柱は見えるのでそれを目安に動く。
なるほど、実用的な意味があるのだな。
羽衣での仕草についての説明。遠眼鏡ではないが額のあたりに手をやる仕草は涙を袖で抑える仕草で悲しみ(ではない言葉を使っていたが残念ながら忘れた)を示す。
最初は狂言で伯母ヶ酒という伯母が営む酒屋に行って只酒を飲む話。
最初はやたらとだらだらした舞台だなぁと観ていたが、だんだん酔いが回って来ると見てるな見てるなと伯母を脅す間隔が短くなっていっておもしろいではないか。
次は羽衣。無理矢理隠して女房にするが大掃除のときに見つかって逃げられる話ではなく、白龍という爺さんが宝物だから天子様に献上するというようなことを言いだすと天女が悲しくなってしまい(ここで最初の説明の仕草が入るわけだが、教えてもらわなければわからないなぁ。でももう覚えたぞ)、つい白龍もほだされて舞を見せれば返すと言い出す。天女は羽衣がなければ舞えないというと、先に渡すと舞わずに逃げるのだろうと白龍。何を言うか、天の世界は人間とは違って偽り事はないとぴしゃりと言われて、恥ずかしなくって羽衣を渡す。天女は舞いながら天上に帰る。
人間と違って偽り事は無いというのは御伽草子でも他人の女房を欲しがるとはさすが盗人国の盗人天子だと天上人に呆れられるところといかにも同時代の作品らしい。後白河法皇あたりの記憶も新しい時代ならではだ。
相当楽しめた。
テレンス・ブランチャードのチャンピオン。この作曲家の作品は初めて。
オペラ・イン・ジャズと銘打っているが、ジャズ(オーケストラピットにカルテットがいるらしいが良くわからん)の要素は良くわからない。
何よりも圧倒的なのは、エミール・グリフィス(子供、青年、老年の3人が出てくる)の青年期を歌ったライアンスピードグリーンでオペラ歌手とは信じがたい肉体(演出上、ボクシングのシーンがあるので当然上半身は裸になる)と見事な歌唱だった。
ヤニックネゼセガンも妙な服を着て指揮するなと思ったら幕間で、衣装係に用意してもらったといって見せびらかしたので良くわかったが、フーディーだった。ボクシングにぴったりだろ? で、二幕目の登場時はファイティングポーズを指揮台でとって喝采を受けていて、雰囲気の乗せ方も抜群の指揮者であるなぁと感心した。
まったく知らなかったが、エミール・グリフィスというバージニア諸島出身で50年代後半から70年代にかけて何度もチャンピオンになったボクサーを主題としたオペラだった。
帽子職人として出発したエミールはニューヨークの生き別れとなっていた母親の元を訪れる。母親は生み捨てごめんで次々と子供を捨ててはついにニューヨークで暮らしている謎の女(この後はステージママとして君臨する)で、エミールを長兄と勘違いし続ける。
知り合いの帽子工場にエミールを連れて行くと、工場のオーナーはボクシングのマネージメントをしたい男で、天才ボクサーがいないと嘆き節を歌っている。
そこに現われたエミールを見てピンとくる。その肉体はどうやって得たんだ? ブロックだ。という二重唱。ブロックってなんだろう? と謎のまま物語は続く。
工場の女工を含めた賑やかなシーンがそのまま舞台セットを変えてボクシングジムとなり、トレーニングに励むボクサーたちの後ろのリングでエミールが次々と相手をノックアウトしていく。ここの演出は抜群。実におもしろい。
子供時代の回想となり、ブロックの意味がわかる。預けられた叔母の虐待で、頭の上に重いブロックを持ち上げさせられることが続けられていたのだった。
この子供の歌手も抜群にうまい。特に2幕で、青年、子供、老年と3世代のエミールが交互に歌うシーンでは圧倒的だった。カーテンコールでもひときわ大きな拍手を得ていたがさもありなん。
2幕は冬の時代となり、エミールは負け続ける。
心配した帽子工場の親父が、テストをする。学校、ベル、鳴るの3語を覚えさせて時計を10時11分に合わせさせる。時計を合わせることはできず、3語は忘れる。パンチドランカーになっている。
ゲイクラブで若者とじゃれあったあと、外に出たところを袋叩きにされる。レントでコリンズがエンジェルに助けられるところみたいだ。アメリカはおっかないな。
老年のエミール(エリックオーウェンズ、老けメイクをしているがこれもうまいものだ)には献身的な看護士だか伴侶だかのルイスがついている。
ルイスに頼んで、試合中に殴り殺した(とはいえ、その前の試合ですでに異常を来していたことが語られている)ベニーバレットの息子と会う。息子は、おれから許しを得るのではない、それは人違いだ。あなたを許すのはあなた自身だ、と言われる。
確かにそうだな。
with you with meのアリアは耳に残る。
幕間インタビューで本人含め何人かが、作曲家のプッチーニ愛について語っていたが、どこが? と思っていたが、2幕の橋の上で子供が歌うところが、どうにもトスカの2幕の牧童の歌と重なって(曲調からシチュエーションからまったく異なるのだが)、こういうところかなぁと思った。
それにしても素晴らしい作品だが、青年期のエミールの歌手に求められる肉体(グリーンは役のために30kg減量したと言っていたが、ウェルター級は無理だからヘヴィー級の肉体を参考にしたとか、確かにヘヴィー級だ)、子供の歌手の少なくとも普通ではない歌手を揃えなければならない点で、そうそうは演じることはできなさそうだ。たとえばノルマのように数百年後に特異な歌手が見つけ出してレパートリーにするとかだろうか。
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