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twitterで、講談社のコミックの奥付についてなりさんが書いていたのでふと手元のエンタブレイン(角川)のマンガの奥付を見てみた。
また、本書を代行業者等の第三者に依頼して複製する行為は、たとえ個人や家庭内での利用であっても一切認められておりません。
あー、マンガですからなぁ。言いたいんでしょうなぁと思いながら、一緒に買った中公新書の奥付を見てみる。
また、代行業者等に依頼してスキャンやデジタル化することは、たとえ個人や家庭内の利用を目的とする場合でも著作権法違反です。
しかも、この本は、2011/3/25 10版、つまり半年(以上)前から、これを刷っているということだ(中公論新社)。
ふむ、では技術書はどうだ? とオーム社()2011/5/25のを見てみる。奥付を見ると扉裏を見ろと書いてある(たらい関数)。
また、代行業者等の第三者によるスキャンやデジタル化は、たとえ個人や家庭内での利用であっても著作権法上認められておりませんので、ご注意ください。
(なんとなく、「ご注意ください」に感じるものがあるが、同じことだ)
では、ハヤカワ文庫も同じだろう。と思ってみてみる(2011/9/15 4刷)と
本書は活字が大きく読みやすい<トールサイズ>です。
うむ。
ここで紹介した本は以下の通り。
byflowに登録しようと、アマゾンでテバルディのカヴァレリアルスティカーナを探していた。
Cavalleria Rusticana(Mascagni)
ふーむ、プレミアついて8000円超えとな。確かに名盤とは思うが、シミオナートとデルモナコが普通の価格(2000円くらい)で買えるから、これはちょっとないなぁとか思って、下のほうを見たら、おれが持っているのと同じジャケットの絵が出ていて、何気なくクリックしたらさあ大変。
MP3ダウンロードだと全曲で150円だ。それは確かに録音は古い(だってテバルディが歌っているくらいだから)。でも、プレミア価格をつけたやつはバカではなく、確かに人によっては8000円でも買いたくなる名盤なのだ。
でも、MP3ダウンロードだと150円。
おれは持ってるから買わないけど、その歴史的価値とか芸術的価値とか無関係に新しい/旧い/権利が甘い/辛いとかいったことで価格が決まっているのだな。あー、つまりブックオフだ。夏目漱石の草枕の初版本だってちょっとシミがついていれば引き取ってくれないブックオフだ。
こういのはこういのでおもしろいので、ちょっと自分が持って無くて、しかし機会さえあれば買おうと思っていたやつが無いかどうかちょっと調べてみた。
すると出てきた。
ワーグナー:トリスタンとイゾルデ 全曲(フルトヴェングラー(ヴィルヘルム))
フルトヴェングラーがEMIの当時としては最高の録音技術を使って1952年に制作した名盤がある。イゾルデはフラグスタート(ja.Wikipediaによるとノルウエーの100クローネ紙幣に肖像が印刷されているらしい。それは知らなかったが、もちろんオペラ聴きであれば知らないことはない名歌手)だ。何度も繰り返し再発されて、しかし価格は上げ止まり、つまりその芸術的価値というやつはまったく目減りしていない作品だ。
が、MP3ダウンロードでは違う。
Wagner: Tristan Und Isolde(ヴァリアス・アーティスト)
(追記:Omiさんに教えてもらったまとめリンクに変更)
1幕あたり2分割で、1分割150円なので合計900円。まさに一山いくらの感覚でおもしろい。
追記:若い頃は買えなかった(可処分所得に限界もあれば、LPからCDになっても置き場所に限りがある)し、旧作は再発されるかどうかもわからないのでいろいろと買おうかどうかとか迷ってあきらめたりもしたものだったが、録音者の権利が消えて無くなる頃に、音声のデジタル化とダウンロード販売のような技術によって手軽に入手できるようになった、ってことは本当に良いことだな。
追記:その後、いろいろ見た結果、1トラック150円という仕組みで、昔のLPの復刻だと当時は細かくトラックを分けていなかったのでそのまま150円になるようだと気付いた。どんぶり勘定も良いとこでますますおもしろい。
pthreadの実装に合わせてアプリケーションを作成するのではなく、pthreadが仮定している動作モデル(pthreadの仕様)に合わせてアプリを作成する必要がある…という話です。pthreadに限らず、どんなライブラリでもそうですよね。
箸にも棒にもかからなければそもそも実装を意識もしないから、ある程度できるくらいがヤバイと。とても良い教え。
そろそろ時期かなぁとOS X LionをAppStoreで買って、MBP17に入れた。OSXみたいに不安定なソフトウェアを販売するのにはAppStoreみたいなダウンロード販売は良い仕組みだな。もしこれがDVD販売だったら、せっかく時期をずらしたのに、結局はバギーでギャの嵐を呼んだ10.7.0を掴ませられることになっただろう。でもAppStoreが現在置いているのは10.7.2で普通に導入できた。
インストールが終わったので今度はXcodeをAppStoreで買った(無料)。AppStoreの表示がインストールに変わり、それが終了したので、ターミナルを開いて./configureするとCコンパイラが無いよというエラーになった。
はて、と不思議に思うわけだが、確かにls /usr/bin/ccとやると、そんなものは無いと言われる。
でいろいろ探し回って、ApplicationにXcodeのインストーラがいることに気付いた。そういう意味だったのか。というわけで起動してインストールする(と、いきなり画面がバカでかいアイコンが並んだ妙なものに変わってびびるのだが、後でそれはLaunchPadというものだとわかる)。
で、Xcodeのインストールが終わったので、あらためて./configure --prefix=/usr/local
と打つとエラーになった。
$ ./configure --prefix=/usr/local checking build system type... x86_64-apple-darwin11.2.0 checking host system type... x86_64-apple-darwin11.2.0 checking target system type... x86_64-apple-darwin11.2.0 checking whether the C compiler works... no configure: error: in `/Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0': configure: error: C compiler cannot create executables See `config.log' for more details
なぜだ? と不思議になって、cat >hello.cとかしてハローワールドを作って、cc hello.c;./a.outでちゃんとコンパイル、リンク、実行できるのを確認して考え込む。
See config.logと書いてあることに気付いて読んでみると、
configure:3385: gcc-4.2 --version >&5 ./configure: line 3387: gcc-4.2: command not found
と出力されていることに気付いた。
実はNEWSに
==== OS X Lion * You have to configure ruby with '--with-gcc=gcc-4.2' if you're using Xcode 4.1, or, if you're using Xcode 4.2, you have to configure ruby with '--with-gcc=clang'.
と書いてあるのだが、そこを読まずにtwitterにごにょごにょ書いていたら、sora_hさんやknuさんに教えてもらえて、で、途中回り道したが、結局、./configure --prefix=/usr/local --with-gcc=clang
としてmakeに成功した。
続けてmake testも成功。でもなんとなくmake test-allしたらSEGVする。
.................../Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/net/imap.rb:1439: [BUG] Segmentation fault ruby 1.9.3p0 (2011-10-30 revision 33570) [x86_64-darwin11.2.0] -- Control frame information ----------------------------------------------- c:0034 p:---- s:0146 b:0146 l:000145 d:000145 CFUNC :connect c:0033 p:0198 s:0143 b:0143 l:000142 d:000142 METHOD /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/net/imap.rb:1439
わからん。なぜconnect? と、make test-all TESTS=socket すると、これは通る。で、しょうがないので、
-- C level backtrace information ------------------------------------------- See Crash Report log file under ~/Library/Logs/CrashReporter or /Library/Logs/CrashReporter, for the more detail of.
と出力されているのでクラッシュレポートを眺める。するとSnow Leopardかその前あたりに、OSXのOpenSSLのバージョンが古いんだかそもそも入っていないんだか忘れたが、自前で~/libに入れたlibcryptoと/usr/libのlibcryptoが競合していることに気付いた。
+libcrypto.0.9.8.dylib (0.9.8 - compatibility 0.9.8)/Users/USER/*/libcrypto.0.9.8.dylib libcrypto.0.9.8.dylib (44.0.0 - compatibility 0.9.8) <3A8E1F89-5E26-3C8B-B538-81F5D61DBF8A> /usr/lib/libcrypto.0.9.8.dylib
なんかまだありそうな気がする(しかし、~/libの下には他にもいろいろ入っているので思い切って全部消すのはためらわれるのでピンポイント削除作戦で行くことにする)ので、クラッシュレポートが報告するライブラリをソートして表示するフィルタを作る。
# coding: utf-8 class DupChecker def collect(fin) lines = [] fin.each_line do |line| break if line =~ /\AExternal Modification/ if line =~ /0x[0-9a-f]+\s+-\s+0x[0-9a-f]+\s+(\+?([^)]+\)).+)\Z/ lines << [$2, $1] end end lines.sort do |x, y| x[0] <=> y[0] end.each do |line| puts line[1] end end def check_dup(fin) File.open(fin) do |f| f.each_line do |line| if line =~ /\ABinary Images:/ collect f break end end end end end if $0 == __FILE__ if ARGV.size == 0 $stderr.puts 'usage: ruby duplib.rb crush-files' exit 1 end d = DupChecker.new ARGV.each do |fin| d.check_dup fin end end
で、~/libのやつを消して、無事net/imapは通った。が、その後もまだSEGVするのであった(で、上のスクリプトでクラッシュダンプを調べたらzlibの重複があったので、それも解消させた)。
が、まだSEGVする。←今ここ
何しろ、これまでの経緯からはRubyのバグではなくて、こちらの環境固有の問題の可能性が高すぎるのだが、さてどうしたものか。
TestCSV::Interface#test_write_lineno = 0.00 s = . /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:780: [BUG] cfp consistency error - send ruby 1.9.3p0 (2011-10-30) [x86_64-darwin11.2.0] -- Control frame information ----------------------------------------------- c:0019 p:---- s:0075 b:0075 l:000074 d:000074 CFUNC :map c:0018 p:0124 s:0072 b:0072 l:000071 d:000071 METHOD /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:780 c:0017 p:0020 s:0064 b:0063 l:001340 d:000062 BLOCK /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:565 c:0016 p:---- s:0059 b:0059 l:000058 d:000058 FINISH (省略) -- Ruby level backtrace information ---------------------------------------- ./test/runner.rb:15:in `' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:634:in `run' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:630:in `run' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:21:in `run' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:884:in `run' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:895:in `_run' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:895:in `each' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:896:in `block in _run' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:909:in `run_tests' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:746:in `_run_anything' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:563:in `_run_suites' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:563:in `each' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/test/unit.rb:565:in `block in _run_suites' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:780:in `_run_suite' /Users/arton/devl/ruby-1.9.3-p0/lib/minitest/unit.rb:780:in `map'
(CrushReport) Thread 0 Crashed:: Dispatch queue: com.apple.main-thread 0 libsystem_kernel.dylib 0x00007fff8e600ce2 __pthread_kill + 10 1 libsystem_c.dylib 0x00007fff8cc657d2 pthread_kill + 95 2 libsystem_c.dylib 0x00007fff8cc56a7a abort + 143 3 ruby 0x000000010abb5088 rb_bug + 184 4 ruby 0x000000010acc0850 vm_call_method + 2576 5 ruby 0x000000010acb0f5e vm_exec_core + 9326 6 ruby 0x000000010acba614 vm_exec + 100 7 ruby 0x000000010acb7909 rb_yield + 105 8 ruby 0x000000010ab8c1dd rb_ary_each + 45
友人の家で、結構前にBSでやったらしいカラヤン生誕100年だか90年だかの記念番組の録画を見せてもらった。
そこで、噂に聞いていた恐竜のような声という(ひどいしゃがれ声なのだ)のを初めて聞いたのだが、そんなことよりも内容がえらく気に入った。
最初に、内藤町にあったNHKのスタジオでベルリンフィルと録画したマイスタージンガー前奏曲を見せてもらった。
「つまらんだろう?」
と訊かれたが、いやすさまじくおもしろい、と答えた。すべての楽器の音色がきわめて明瞭に聞こえてくる。ヴァグナーはこんな響きの音楽を作っていたのか。これは不思議だ。(1958年ころの録画だ)
その次に、ヴィーン交響楽団とのシューマンの交響曲4番のリハーサルを見た。これが抜群だった。
たとえばこんな感じのことを言う。
「そこは、本来ピアノでの演奏を意識していたはずのフレーズです。ターンタターですからね。でもそれを弦でやろうとしているせいですごく難しいのです。弦楽器固有の撥音を抑えて演奏する必要がありますね。余談ですがリヒャルトシュトラウスが指揮をしていたらフレーズを変えてしまうはずです。でもそうはいかないからもっとレガートにもう一度やってみましょう」
おーなるほど。カラヤンレガートというのはこういうのに由来するのかというくらい、レガートを連発する。
「ちょっと待ってください。ここでは第一ヴァイオリンとフルートが同じフレーズを演奏するわけですが、君たち、今フルートが聞こえましたか? (楽団員首を振る) ヴァイオリンはもっと指板に近いところを押さえて演奏してください。それによって倍音が抑えられてフルートの音が入ってくるはずです。ではもう一度やってみましょう」
おー、確かにフルートの音色が混ざって聞こえる。これは素晴らしい。
「そうです。今度はフルートの音が聞こえましたね(楽団員うなずく)」
このリハーサル風景を見て一発でカラヤンが好きになった。そしていろいろな情報が整理されて腑に落ちた。
カラヤンは位置としては新古典主義(楽譜に忠実)の完成者なのだ。しかも、それまでの指揮者ががーっとやってぱーっとやってそこでがんがん、ここでさわさわみたいなやり方をしていたのに対して、どう演奏すればどう聞こえるからここではどうすべきかということを理詰めで説明し、かつフィードバックをきちんと与えることができる。
楽団員はプロフェッショナルだから、技術に落とし込まれて説明されればそれを再現できるし、その効果が明らかならその正しさを理解できる。論理と実証が常にペアで廻って音楽を構成する。
逆に、このリハーサル風景を見て、なんか理屈をこねくりまわす技術屋(=芸術をないがしろにしている)と捉えた連中がカラヤンを悪く言っていたわけだ。
(この本にも、とにかくリハーサルを繰り返すだけのチェリビダッケに対して、カラヤンのリハーサルはボウイングについての的確な指示を出すものだったことが書かれていた)
するとその後のどたばたもある程度は見えてくる。
おそらくカラヤンは1950〜60年代までは(特にヴィーン交響楽団は2流なので細かく指示をしているのだろうし、録画されていることを意識しているはずだが、それでも普段とそれほどは違わないと仮定して)、ベルリンを含めて、楽団員にとっては理論的な説明によってきわめて斬新的でモダンでありながら、伝統的な(ということが実は新古典主義の目標であるわけだし)音楽を引き出す指揮者としてありがたかったのだろうし、お互いにドイツ零年以降の音楽を作り出す同志であったのだろう。
だが、いつまでもそういうスタイルのリハーサルはできないはずだ。というのは、オーケストラは組織である以上、メンバーの入れ替わりはゆっくりだ。だが、すでに同志として結ばれた楽団員が多勢を占めている間はうまくやれる。すでに知っていることをさらに教えても意味がないし、かっては斬新であったものは普通の伝統芸になっているわけだ。
それが1970年代以降になると、音楽学校で最新の技術を習得して入団してくる演奏家が増えてきて、当然、同志たちは退団していく。そうなったとき、技術的指導者として君臨してきたカラヤンの王座が揺らぎ始めてきて……ということなのだな。
カラヤンの傑作に新ヴィーン学派の作品集がある。
新ウィーン楽派管弦楽曲集(ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団)
これは本当に玄妙にして明解、あー、ヴィーン学派はおもしろいなぁと感じる作品だが、これを作ったときは、久々にかってやったような指導ができたのだろう。それまではばらばらでつながりも脈絡もない音が意味を持ち、つながりを持ち、音楽として構成される、そういうおもしろさを楽団員は堪能したと思う。
同じように、カラヤンの耳と演奏技術や音響についての知識が、録音技術にどれだけ貢献したかについても想像できる。
また、それが音楽の技術的側面を無視する愚かな連中の憎悪を駆り立てることになったかも想像できる。
というわけで、まったく間違いなく20世紀中期においてカラヤンは偉大だったのだ。
少なくともおれは技術屋だからカラヤンの偉大さを認める必要はある。
でも、田園を聴くとしたらフルトヴェングラーとウィーンなんだけどね。
NHKクラシカル カラヤン生誕100周年ボックス <Karajan 100th Anniversary BOX > [DVD](カラヤン(ヘルベルト・フォン))
売っていたらしい。
(既に廃盤になっているところが、カラヤンの凋落を示している)
via gdgdiler
poppenさん、tdtdsさん、jmukさんと、面白い本を必ず読む人たちが全員読んでいるので、これはおもしろいに違いないと、ねじまき少女を買った(のは結構前だけど)、読んだ。
が、えらくおもしろそうだとは思うのだが、
ただ、残念なことに、その肝心の世界観が非常に分かりにくい。(poppen)とか、
訳はかなりつらい(jmuk)と、微妙な表現も目につく。 ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)(パオロ・バチガルピ)
で、読み始めると、最初の100ページくらいは、なんじゃこりゃというところが確かにあるし、東南アジア(タイ)が舞台なだけに覚えにくいことこのうえない名前がどんどこ出てくるし、訳語の出し方があまり良くなかったりする。たとえば最初は漢字にルビで出す。まあ、人によるだろうけど、ルビをいちいち見ないよ(特におれはコンタクトをしていると肉体的にルビを読めない。しかしコンタクトをしないと会社員生活に支障を来すくらいには眼が悪いので普段はコンタクトをしている(休日はメガネなので読書に関する問題は皆無なのだが)。したがって、通勤電車で読むとルビは読めないということになる。で、次からはそれがカタカナのほうを使って表記されると一体なんのことだ? となってしまうわけだ。ハヤカワ文庫のトールサイズ活字は老眼+コンタクトのおれにとっては無茶苦茶ありがたいのだが、残念、ルビ→用語化という方法論はおれには今ひとつな方法なようだ)。
ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)(パオロ・バチガルピ)というわけで、この作品は、すさまじくおもしろいのだが、どう考えても損をしていると思う。手元にあるのが9月で4刷、初刷が5月だから結構売れていると思うし、実際、各種SFの賞を総ナメしているので、とりあえず買った人も多いのだろう。が、実際には最初の100ページくらいで投げてしまった人も多いのではなかろうか。
で、とんちんかんなやつが幅をきかせるアマゾン書評を読んでもなんか誤読している人がいるように思う。一番、きちんと読み込んでいる人ですら、
最後に、出版元のハヤカワに対して言いたいのは、この小説は、特殊な専門用語も多く、キャラクターの名前も憶えにくい。海外の小説を読み慣れていて横文字アレルギーはほとんどない筆者でも、メインキャラはともかくその他の周辺キャラクターは、誰が誰だか判らなくなって一瞬混乱する事が多かった。 ハヤカワが出版していた小説は必ず巻頭に「登場人物紹介表」が記載されていたと思うのだが、いつからそういう事をやめてしまったのだろうか?と苦言を呈しているくらいだ、というか、お前はおれか状態(なんど、表紙裏をめくって登場人物一覧が無いか確認したことか)。
なければ、作る。というわけで、おれさまが作った。いわゆるネタバレに近いものがあるかも知れないので、そういうのが嫌なら以下は読まないように。ただし、決定的なことは書いていないと思う(し、どんな登場人物だって最後は死ぬか壊れるかするんだから、そんなくだらないことを気にするのは無意味だと思う、という信念の持ち主だから、そもそもネタバレという言葉が具体的に何をさすのか良くわかっていないということはある)。
あと、作ったとか上で書いたが、実際は思いついたものを並べて書いているだけなので必要に応じてソートすると良い。
裏庭へ移動した。「ねじまき少女の用語/登場人物」この小説は、SFだけど、まったくハードSFではない(作者が悪いのか訳者が悪いのかわからないが、タイトルロールのねじまき少女の設計に関する設定そのものが出現時点とその後でぶれているくらいだ)。
むしろ僕は、~世界の頃や、クラッシュやハイライズの頃のバラードに近いという印象を受けた。つまり、わけのわからない状況に世界が変わってしまっているので、とにかく生存するためにある人間が自分の能力の及ぶ範囲でもがく姿を観察する、という小説だ。
結晶世界 (創元SF文庫)(J・G・バラード)舞台は、22世紀あたりのタイはバンコク。世界は遺伝子操作された害虫とウィルスによって植物危機に陥っている。石油はとっくに枯渇していて、しかし代替エネルギーの転換に失敗したため(少なくともタイでは)配給制のメタンガスとゼンマイに頼っている。
植物危機に対抗できるのは、膨大な研究資源を持つ一部の種子メーカー(カロリー企業)だけで、彼らが作る米や小麦の種子を利用しない限り食糧を得ることはできない。ただし、タイは独自の遺伝子技術と種子バンクを持つため、カロリー企業に頼らず農業は自給自足している。しかし、農業を守るためほとんど鎖国しているため、ハイテク分野では遅れている。この路線を堅持すべきか、種子バンクを解放してカロリーメーカーのグローバル戦略に市場を開放するかで、世論は2分していつ内戦が勃発してもおかしくない状況にある。環境省は鎖国路線堅持派の巣窟で、主人公のうち2人(1組)は、環境省の実働部隊の隊長と副隊長だ。今日も違法輸入品の取り締まり(廃棄、焼却処分)に余念がない。
その一方で、行き過ぎた文明によって荒廃がもたらされたという思想が全世界を覆っているため、過激な宗教による暴動などが各地(タイは除く)で勃発している。アメリカではキリスト教原理主義+ラッダイトのような宗派によるカロリー企業に対する焼き討ちが、マレーシアではマレー系イスラム教徒による華僑に対する民族浄化が起きたりした。華僑の一部はタイに逃げ込み難民スラムを作っている。主人公の一人は、マレーシアの民族浄化運動で一族を皆殺しにされた男だ。
一方、日本では若年人口が異様に低下したため、バイオ技術を駆使して若年労働者の代わりとなるバイオロイドを製造している。ねじまきと呼ばれるこれらのバイオロイドは、人間と区別できるように、ぎくしゃくした動きと犬のような忠実さを遺伝子操作と教育による条件反射付けによって適用して利用している。企業活動には欠かせない存在だ。したがって、タイへ進出した企業もねじまきを持ち込む必要がある。しかし、タイでは遺伝子汚染を防ぐため、自国製以外の遺伝子操作製品の持ち込みを禁止している。そのため日本企業には特例を設けているのだが、そのうち一体が闇市場に流れて、タイ市内で働いている。
何しろ、前提が複合的なので、ここまでで、主要登場人物のコンテキストのうち、ジェイディー&カニヤ、ホク・センとエミコの分しか説明できていない。というわけで、作品を読んだ方が早い。
この作品の仕掛けは、主人公を次のように4つに分離している点にある。
人物 | 民族(国籍) | 職業 | 目的 | 制約 | 武器 |
---|---|---|---|---|---|
ジェイディーとカニヤ | タイ | 環境省の実働部隊長と副長 | 国家保安 | 通産省による敵対、環境省内部での圧力 | 民衆の支持と政治的正論 |
ホク・セン | 漢(マレーシア難民) | 工場の経理をはじめとした経営実務 | 一族再興 | イエローカード就労者は非合法 | ビジネスノウハウと人生経験 |
アンダースン・レイク | 白人(北アメリカ) | 工場経営/カロリーマン | タイが持つ植物の遺伝子サンプル獲得、アグリジェン社のタイ市場進出(独占) | カロリーマンは非合法 | アグリジェン社 |
エミコ | 新人類(日本) | 娼婦 | ご主人様への奉仕/人類からの解放 | ねじまき少女は非合法、オーバーヒート、命令に対する反射的服従 | 丈夫で素早い |
このうち、見るからに異質なのはエミコで、他の3組は目的が極めてはっきりしていて、そのために知恵も使えば肉体も使って死にもの狂いで生きているのだが、ねじまき少女特有の制限がいっぱい加えられているため、最終的な目的である人類から解放を夢見てはいるのだが、目先のご主人様への奉仕という反射作用によってそれが単なる夢物語にしかならないというアンビバレンツを抱えている。
それを別にしても、見事にいろいろな角度を揃えたものだ。特に国籍を変えたのはうまい方法だと思う。仮に作家の力量がうまく書き分けができなかったとしても、読者が自分の知識でコンテキストをそれぞれに応じて補えるからだ。かくして、それなりに知的に状況を分析できる能力を持つ異なる立場の主役群によって、食糧とエネルギー(食糧は人類のエネルギー源だから、結局はすべてがエネルギーだけど)危機に陥った未来での生き延び方(ハウツーではなく、人間としての在り方についてだ)が示される。
しかし、それよりも、この作品が小説として成功している重要な点は、最初の3組の主人公が、すべて、成功するか失敗するかは別として、本来の目的を捻じ曲げたりあるいは放棄したりしてでも、いわゆる人間的な選択を最終的に下している(肉体的に不可能なため口先だけのものも含めて)点だ(かつ、実のところエミコを含め合目的だ)。ということは、この小説は実際には成長物語なのだ。これによって、それまでのすべての積み重ねがきれいに昇華されて、読後感が非常に良いものとなる。全然、SFじゃないと言えばそれまでだが、どんなシチュエーションにおいても成長した人間は良きものなのだという主張ならそれはそれで結構なことだ。
というわけで、満足度は相当に高い小説だった。
ねじまき少女 下 (ハヤカワ文庫SF)(パオロ・バチガルピ) ねじまき少女 上 (ハヤカワ文庫SF)(パオロ・バチガルピ)北区がやっている音楽祭みたいなやつのコジファントゥッティを観に行った(11/13)。
コジファントゥッティは、たとえばフィガロの結婚みたいにもう飛ぶまいぞこの蝶々のような誰でも知っているアリアとかない(ような気がする)し、個々の音楽はうまくできているとは思うのだが、僕にはどうもぱっとしない印象がある。
ぱっとしない印象があるし、時々死ぬよりも退屈するのだが、でもところどころ素晴らしく楽しい。
話はモーツァルトのオペラの中でもとびきりにくだらない。
哲学者ドンアルフォンゾは女性は浮気をするのが使命と考えている。そこに若い軍人2人が僕の婚約者は貞節なんだぜ、とか言いあっているのを聞いて、ちょっかいを出す。そんなばかげた話はあるもんか。もしそれが本当なら、おれさまは目の前で2人分もの奇跡を見たことになる。
そこで3人は賭をする。2人の婚約者が他の男になびいたらドンアルフォンゾの勝ち、そうでなければ軍人2人の勝ち。
2人は婚約者に戦地に赴くと嘘をつき、ドンアルフォンゾに言われた通りに妙な格好の外人に扮して婚約者の前に姿をあらわし、徹底的に口説く。ついに婚約者は陥落する。
おれの勝ちだなと軍人に言うドンアルフォンゾ。あの女ぶっ殺すと憤る軍人2人組み。いや、それはだめだよ、結婚しなよとドンアルフォンゾ。そんなこと言ってたら君たち結婚できないよ。だって女性はこういうもんだから。かくして結婚してめでたしめでたし。
あまりにもくだらないので、プログラムとかを読むと、バカの1つ覚えよろしく、「実際はモーツァルトほど女性を尊重していた人はいないのですが、」といった愚にもつかない前置きをしてから物語を解説することになる。
そんなもの単に「モーツァルトの時代の上流社会ではこういうもんでした」と書けば良いだけの話だ。むしろ貞節を守って誘拐されて頓死してしまうのがバルザックのランジェ公爵夫人だった。女性のほうが立場が弱いのだから、男の想いを受け入れなければ殺される危険性すらある。ならば、誘惑に負けるほうが賢明だ。
だいたい300年前の人間の道徳観を現代の基準でどうこうするほうがおかしいのだからスルーしておけば良いのだがなぁとつまらないプログラムは読むのをやめるわけだが、音楽は楽しかった。
単に森麻季がフィオルディリージという程度の理由で観に行ったのだが(あと安かったというのも大きいかも)、観客で満杯。府中の森もそうだが(ティアラ江東もそうだ)、地方都市のクラシック環境って都会より進んでいるみたいでちょっとうらやましくもある。
オーケストラは復元古楽器を使って、ボワンボワンと良い感じ(妙にくるくる巻かれたホルンとか、左の多分トランペだろうなぁというような妙に長いラッパとかが目についた)。気のせいかも知れないが、弦の音に妙にうまいぐあいに管楽器がからむような気がした。
物語的(登場人物の人間性)にも音楽的にもデスピーナという姉妹の小間使いが一番好きなのだが、この舞台でもとても良い感じだった。特に1幕の途中で妙に軽快な歌を歌うのだが、それが実にご機嫌な調子でこの歌手のことも気に入ったが名前を忘れた。物語上、デスピーナは常に成功するわけではない陰謀をいろいろ巡らすという点ではフィガロのようだし、貴族的なくだらない上っ面を嫌って言いたい放題という点ではパパゲーノのようだし、モーツァルトの筆も冴える道理かも知れない。
舞台は演奏会形式なのだが、適度に振り付けがあってそれなりに退屈させないようにやっていて、楽しかった。こういう軽い舞台も良いものだな、というわけで実に良い日曜の午後を過ごしたのであった。
byflowで、「言語の天才がトルコの知られざる側面を冒険するわくわくする本」みたいに書評されていたので、手に取った。
確かに、その通りだった。いやー、こんなにおもしろい本はなかなかない。筆者はすごいやつだ。ゴム草履を履いてどこにでも歩いて行って、そこの集落の人といつのまにか、その人たちの言葉で会話をして(自分からのお土産として)世界について教えてあげたり、(その集落の人たちからのお土産として)その集落の人たちが住む世界のことを教わったり。
で、なぜ突然、20年前に上梓された本を手に取ったかと言えば、今になって存在を知ったからだというのはあるけれど、元々トルコについては偏った知識しか持っていない(くせに|ゆえに)、興味だけはあったからだ。
・オスマントルコという強大な帝国を作っていた(お鍋軍団のころとか)
・月と星
・インスタンブール
・日露戦争だの紀州沖での船の遭難とかのおかげで親日らしい
その一方で、突然、ギュネイの映画が来てクルド民族問題というのを知らされたり。
映画チラシ 「路」監督 ユルマズ・ギュネイ 出演 タルック・アカン、シェリフ・セゼル(-)
(映画そのものは商品としては存在しないみたいだな)
路は、あまり記憶にないのだが(列車の中でいろいろあったことはかろうじて覚えているが)、淡々と少数民族であることが人生を辛くしているみたいな静かに訴えるタイプの映画だった。で、まあそういう問題があるのだなということは知っていて、それが湾岸戦争のころはイラクのクルド民族問題みたいな取り上げ方をされていて、はてトルコの間違いじゃないのかとか不思議に思ったりしたりした。
・監獄事情はひどいもののようだと、ミッドナイトエクスプレスを観て思ったり(足の裏を棍棒で殴りつける拷問とか生々しくて未だに忘れられない)
ミッドナイト・エクスプレス [DVD](ブラッド・デイビス)
(この映画は、しかしひどいもので、自分が違法行為をしたせいでその国の囚人となったくせに、おれはこんなひどい目にあったと喚きたてているわけで、(思想犯とかならともかく、いくらたかだかハシシといったって麻薬といえば麻薬なわけだし(さらに空港が当時の世界情勢から厳戒態勢にあるのは明らかなのに、見るからに疑われてもしょうがない間抜けな運搬方法を取ろうとするなど、無知もはなはだしい)、しかも最後までおれは悪くないと尊大な態度を取り続けている――逆に言えば、ハシシあたりはヘロインなんかと比べて欧米ではまったく普通の嗜好品程度の感覚なんだなというのが良くわかるけど)、いずれにしてもコンテキストが気分が良いものではないのであまり同調的な観方はできない)
と、あまりにも断片的なわけだ。
で、そのあたりの事情があーなるほど、やっぱりそうなのかと(特にギュネイの映画から仕入れた知識や、ミッドナイトエクスプレスから仕入れた監獄事情と照らし合わせて)納得したりするのだが、実はそんなことは本書を読んで得られるもののごく一部でしかない。
とにかく、日本の名著100選には必ず上位に入るレベル。こういう日本人が存在するということを知っただけで、なんとなくハッピーになれるレベルの本だ。
それにしても、ルワンダ中央銀行総裁日記を読んだときも感じたが、中公新書は実に良い仕事をしている。この出版社と書籍群を救済したのがナベツネなんだなと考えると、いろいろ複雑な思いとなるなぁ。
手元で作っただけでリリースしていなかったので、ruby-1.9.3-p0のインストーラパッケージをリリースします。
Ruby MSI Installerからどうぞ。
・VC++10 (x86)で、MSVCR100を使ったパッケージです。
・IO高速化パッチと、テキストモードの\r抜け修正パッチは適用済みです。
_ ムムリク [ありがとうございます。]
三銃士を観に行った。テンポがやたら良すぎることを除けば、娯楽作品としては相当な出来映えで、実におもしろい。だいたい、スティームパンクよりさらに200年以上さかのぼったホットエアパンクというか、やたらとごてごてした軍艦の熱気球が空を飛ぶだけで観ていて気分が良いのだから、そうそうつまらなくなるわけがない。もっとも始まっていきなりナレーションが英語なのでえらくとまどった。考えてみれば当然だが、一体何語を話しているのかとわからなくなった。でも、それなりにパノラマを使って歴史背景をぱぱぱと説明して三銃士のコンテキストを説明する序盤からいきなり快調でこれは良い。
ただ、何しろ出てくる人物が小僧のダルタニャンを除けば全員が髭なので、これが引っかかる。引っかかるといっても作品上は人物の性格付けと立ち位置、衣装、すべて実に巧妙なので、三銃士(知謀と陰の男アトス、イケメン神父のアトラス(追記:なぜか最後までアトラスと書いているが、頭の中ではアラミスと書いている。候補がでた時点で確認せずに確定してたってことだな)、マッチョトポス)、ルイ13世(もちろん王様だが、これも小僧なのでいろいろある)、リシュリー卿(もちろん大人物だが、物語上は悪役。何しろ誰よりも高みにいるので、チェスも1人で二人分をやっているくらいだし、実は剣の腕も立つらしい(練習している))、バッキンガム卿(フランス人にとっては悪いイギリス人だが、イギリス人にとっては当然良い人)、まあ片眼(海賊船の船長っぽさを出すためにそうしたわけじゃなかろうが)と太っちょは別として、全員、ちゃんと区別がつくのだが、似たような顔をどうしても連想してしまう。すると、アトスはホームズだし、アトラスはオーランブルームだし、でもバッキンガム卿もオーランブルームだし、ポトスは(これが思い出せないのだが、どこかで見た顔にえらく似ている)、で、とどめがルイ13世でどうにもmput氏に見えてしょうがない(髭のせいで別に顔が似ているわけではないと思う)。
後は、ホームズでも妙な違和感を覚えたのだが、チャンバラとかの最中に急にスローモーションにして動きを見せる演出って、おもしろいのだが、そろそろ飽きが来たような感じだ。もっとうまい見せ方ってないのだろうか、とかが、引っかかったところかな。
で、おもしろかったのだが、その一方で、どうにも退屈する面があって、それが不思議でいろいろ考えたのだが、結局、作家の映画ではないという点に尽きるようだ。
物語はそれなりにおもしろく、演出のテンポは良く、殺陣は魅せる、セットは豪華で、仕掛けも良い、役者は達者でスタントは素晴らしい、が、なんというかタメが無いのだ。え、もうこれで次のシーンへ行くのかという妙な中途半端感があって、それが退屈さにつながるようだ。
で、そのタメのなさってのは、twitter140文字的な時代の特徴かなぁとか最初思ったのだが、おそらく違うのだろうと気付いた。
属人性の排除もここに極まれりというやつなのだ。もう、監督は作家ではなく、単に監督しているだけなのだ。したがって、脚本に書かれた物語が順にタイムラインに沿って流れる。タメといった作風、芸風、まさに属人的にしか表現されないものを排除しているということだ。
で、それは退屈さにつながるつまらなさなわけだが、その一方で娯楽作品には不要であるとする考え方もわからないでもない。映画は産業だと考えれば、作家の属人性はないほうが好ましい(が、リチャードフライシャーのような職人監督であっても作家性と無縁ではないわけで、ある意味、ここまで単に物語だけが進んでいく映画も珍しい。へたなタメ(作家性)ならない方が良いわけで、その意味では良いのだが(しかもうまいわけだが)、なんとも割り切れない感じが残る)。
と、あまり意味を持てない不満はあるわけだが、実におもしろかった。
最後にバッキンガム卿の服の色が赤だったか、それ以外だったかをちゃんと見なかったのだけが心残りだ。
あまりにも、トルコのもう一つの顔がおもしろかったので、続けざまに、「漂流するトルコ」を読んだ。
だいたい、僕は「母言語(ここ間違えると意味通じないですね)」という言葉が大嫌いで、その字面を見ただけで書いた人の教養(というか、日本語のセンス)を疑ってしまうわけだが、小島剛一は、「母言語」と表記するから、それだけで安心して読んでいられる。他にも、判官贔屓に「ほうがんびいき」とルビを振る(これは本書)とかもそうだ(これは僕が慣れ親しんでいる日本語と同じなのでなんか気持ちよいというだけで特に主張はないけど)。合州国(これは前著。もっとも烏合の衆……まあいいや)や回教(これは理由を本書で力説しているが、おもしろい)もそうだ。要するに、言葉をちゃんと使っているということ。
それにしても、langueとlangageの違いというのは日本語では微妙だ。(langueが英語でtongueになると、途端に「言」わなくなるのはおもしろいが、もちろん口に出すからまさに「言」だ)
・中公新書のほうでは、抑制しまくって書いたということが本書を読むとわかる、というか、序文を読み出して、あれ、こんなに攻撃的な人なのか? と不思議に思って先へ進むと、「トルコのもう一つの顔」は編集者などに言われて、書き方を抑制する方向で書き直したとあって、あーなるほど、戦う言語学者が本当の姿なのか、と納得する。(戦わざるを得なくなったと言うべきだな)
というわけで、漂流するトルコのほうは、一般読み物2冊目かつ旅行関係の専門出版社ということが理由だろうけど、まさにアンチェイン状態で、理不尽や非科学的態度(言語学も、実に緻密な学問なのだなぁと本書ではいろいろな個所で教えられる。特にこの先生の場合、政治的な理由でレジュメやレポートを改竄されまくったりもするので(してもいない政治主張のネタにされたりというのもある)、特に敏感なのかも知れないと書いてみたが、学者の矜持があれば当然のことだった)は徹底的に糾弾しまくる。
そういう厳然たる顔と同時に、ひょこひょこどこまでも自分の脚で歩いて行って、脚を止めたところにいるそのへんの人たちと楽しそうに土地の話を聞くし、理不尽に直面して困惑している人には細やかに接し、苦しんでいる人には一緒に困ってあげるというような顔が1つの本の中で共存しているのが、この人の本の魅力なのだと思う。
本書の中で徹底的に赤字を入れられている改竄版のラズ語文法をちゃんと奥付の著作のところに載せている(し、本書を読むと世話になった話者へ配りに行っている(が、その旅はまたも途中で止まることになる))のに、最初、なんでだ? と不思議に思ったが、自分の名前が出てしまった以上は引き受けざるを得ないという考えなんだろうなと納得したり。
・もう一つの顔は、危機一髪、次号を待て! 状態で終わるのだが、ちゃんとどうなったか本書に結末が書いてある。(最初から続編を書くつもりだったんだなと思うんだけど、さて本当のところどうなんだろうか)
・あなたは何ヵ国語を話せるんですか? と訊いてはならない。アイヌ語とウチナー口と標準語と薩摩弁を喋れる人は1ヵ国語を話せるのだとしたら、「ヵ国語」にどれだけの意味があるのか?
それにしてもおもしろい。
アントニン・ドヴォ(ル)ジャークというように記述するのが正しいらしいが(ル)というのは省略可能を意味するのか、()に入れて書くのが正しいのかわからんな。
そんなドヴォルザークのルサルカを観に新国立劇場。当然のように初見。ほとんど満席状態。
で、これがなんとも微妙なオペラだった。
まず、音楽はそれは美しい。1幕の月にルサルカが人間になりたいわーと祈る歌の美しさときたら、あらゆるオペラでもトップクラスの歌じゃなかろうか。聴いている最中はしびれまくる。でも、全然記憶に残っていない。
そもそもの前奏曲にライトモティーフがいくつか出ていたらしいのだが、ライトモティーフをそれと認識できなかったし。
森の精3人組が水の精をからかう箇所は、まるでラインの乙女がアルベリヒをからかうところのように楽しげで美しい(水の精はアルベリヒとは相当違って、多分、トトロのように心優しいやつっぽいけど)。が、ここも音楽はなんかラインの乙女のようだったが……というような記憶しかない。
3幕、王子が死の接吻を望む箇所もやはり美しいのだが、これまた終わった瞬間にきれいさっぱり忘れてしまった。
覚えているのは、美しい(長調の)メロディーを歌う。終わった瞬間に短7度(9度かも)の全奏で叩っ斬って気分を変えるパターンが頻出すること。
おれの聴き方が良くなかっただけかも知れないが、交響曲のような絶対音楽と違ってオペラについては娯楽前提で刹那的な作り方をしたんじゃないか、という印象を受ける。演劇的な作りについても、なんかしんねりむっつりし過ぎている1幕(魔女の~ババが魔法の薬を作るところはおもしろそうなのだが、相当退屈した)、快調な料理人のかけあいから入るのは良いが、あっというまにドロドロしてしまいあとはずっとうっとおしく続く2幕あたりは、なんじゃこりゃという感じがある(2幕の最後の「一人で地獄へ行きな」は良い。最初の「二人とも不幸にしてやるわ」もおもしろい、つまり公女の悪者っぷりは良い感じだ)。3幕になると、森の妖精と水の妖精のたわむれっぽいやつと、ルサルカの悲嘆、ババのおどろおどろしさ、料理人のかけあい漫才、王子の独白、二重唱と変化に富むので十分におもしろいのだが。
ただ、とにかくもメロディーの美しさや、音色の美しさ、特に3幕の始めのあたり(―中間かも)で、弦に木管を重ねてしばらく(全然思い出せない楽想)が続くあたり、は見事なものだ。もしかすると、何度も観れば異なる印象を得られるかも知れない。が、それほどまでして観るほどの作品ではないという気のほうがする。
ルサルカは蝶々夫人の人、きれいな声。料理人はこういうオペラだけに得な役だけど、それにしてもテンポも動きも良かった。オーケストラは2幕の最初が、聴いていて引っかかったが(金管が長く吹きすぎているような箇所があったが、そういう曲なのかも知れない)悪くはない。特に3幕は良かったな。
演出は女の子の夢という額縁を用意したもの。(それが本来の演出なのかも知れないけど) 最後、バレエ人形を床へ捨てて、兵隊の人形を窓枠へ飾る。ルサルカは水底へ、王子は天上へということかなぁと子供が言う。たぶん、そうなんだろう。
まあ、観られて良かったとは思うが、もっと観たいものがあるというところだ。
DVDはルネフレミングのが出ているが、はて。
ドヴォルザーク:歌劇《ルサルカ》パリ・オペラ座2002年 [DVD](ジェイムズ・コンロン指揮、ルネ・フレミング、セルゲイ・ラリン)
ルネフレミングって肉感おばさんという感じで、公女には向いていそうだけど、口もきかずにぼけーと歩いているだの夢遊病の女だのと城の人に陰口たたかれているルサルカという感じはしないけどなぁ。シェーファーとかだと良いかも。
ふと、iTunesをdvorakで検索したら、上で最高に美しい曲の1つとか書いている月に祈る歌は手元にあった(昨日までは再生回数0だったけどな)。
40 Most Beautiful Arias(40 Most Beautiful Arias)
6分以上ある長い曲だが、舞台ではあっという間だった。それにしてもこれは美しい(が、記憶に残っていないのもわかる)。
このアンソロジー、ちょっとバカにしていたが、most beautifulに嘘は無さそうだと感心した。しかも安いから、最初に手を出すオペラのCD(BGMとして利用してもOK)としてはいい線をついているなぁ。
ドヴォルザークは、ブラームスによれば、なんか美しいメロディーが欲しいなぁと誰かが言えば、お安いご用だといってさっとポケットから取り出してみせることができる男らしい。書斎のゴミ箱をあされば普通の作曲家が一生食いっぱぐれないだけの楽想があふれかえっている。
まるで、関羽みたいだ。顔良の首を取れる男はいるか? と訊けば、ほいどうぞとポケットから取り出す。華雄を討てる男はいるか? と訊けば、ほいどうぞとポケットから取り出す。
そういう男の致命的な欠点は、次々と湧き出す楽想を全然大事にしないことだ。だから次々と楽想が湧いては消えていき、二度と出てこない。そのせいで、なんかきれいな曲なのに、まったく印象に残らない。その場限りで流れて消えていくからだ。つまるところgistに山ほどコード片が登録されていくようなものだ。交響曲のようにフレームワーク(たとえばソナタ形式)があれば良いのだが、劇音楽だとそれがあまりに緩すぎるので欠点となる。
たった4個のタタタターンで30分の曲を作る男との違いだ(こっちはこっちで構成の大天才なわけだが)。こちらはgithubにきちんと構成されて残るし、共通で使えるものがモジュールとして残り再利用できる。そのためフォークもするしプルリクエストもできる。
_ kdmsnr [gist/githubのたとえはいいですねえ。]
日曜日はささださんの研究室で、1.9.3リリース祝い。
で、それがなぜか2.0.0に何が入るかの予想大会となった。
エントリーしたのはebanさん、中田さん、akrさん(確か)、ささださん、なるせさん。
で、ほぼ一致していたのは、キーワード引数が入るってのと、実行中のコードが取れるってのくらいだった。(間違ってたらプルリクエスト。
で、それ以外は、例えば標準ライブラリのgemへの追い出しとか、無引数で起動したらirbになる代わりにirbという名前を葬るとか、gitへ移行とか(これは僕は強く反対)、dlとsyckをffiとpsycでリプレースとか、ブロックの分散実行とか、スマートrequire(圧縮、コンパイル済み、複数パックなんでも来いというやつ)、スコープ独立Procとか、そういったもろもろは次以降にお預けだろうとなった。
あくまでも予想だということだが、それぞれにやりたい、やりたくない、やらせたくないとかいろいろお笑いネタ満載で、実に面白かった。
というわけで、あらためてリリースお疲れさまでした。
ジェズイットを見習え |
Before...
_ naruse [trunkでは動きますか?いくつか1.9.3の後で試行錯誤的なコミットがあったと思うんですが]
_ arton [試してみました。結果は0F0E46Sで問題ないですね。というわけで、その試行錯誤コミットの何かをバックポートする必要..]
_ arton [というわけで、私のOSX用Rubyは早くも2.0になってしまったのであった。]