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あまりにも、トルコのもう一つの顔がおもしろかったので、続けざまに、「漂流するトルコ」を読んだ。
だいたい、僕は「母言語(ここ間違えると意味通じないですね)」という言葉が大嫌いで、その字面を見ただけで書いた人の教養(というか、日本語のセンス)を疑ってしまうわけだが、小島剛一は、「母言語」と表記するから、それだけで安心して読んでいられる。他にも、判官贔屓に「ほうがんびいき」とルビを振る(これは本書)とかもそうだ(これは僕が慣れ親しんでいる日本語と同じなのでなんか気持ちよいというだけで特に主張はないけど)。合州国(これは前著。もっとも烏合の衆……まあいいや)や回教(これは理由を本書で力説しているが、おもしろい)もそうだ。要するに、言葉をちゃんと使っているということ。
それにしても、langueとlangageの違いというのは日本語では微妙だ。(langueが英語でtongueになると、途端に「言」わなくなるのはおもしろいが、もちろん口に出すからまさに「言」だ)
・中公新書のほうでは、抑制しまくって書いたということが本書を読むとわかる、というか、序文を読み出して、あれ、こんなに攻撃的な人なのか? と不思議に思って先へ進むと、「トルコのもう一つの顔」は編集者などに言われて、書き方を抑制する方向で書き直したとあって、あーなるほど、戦う言語学者が本当の姿なのか、と納得する。(戦わざるを得なくなったと言うべきだな)
というわけで、漂流するトルコのほうは、一般読み物2冊目かつ旅行関係の専門出版社ということが理由だろうけど、まさにアンチェイン状態で、理不尽や非科学的態度(言語学も、実に緻密な学問なのだなぁと本書ではいろいろな個所で教えられる。特にこの先生の場合、政治的な理由でレジュメやレポートを改竄されまくったりもするので(してもいない政治主張のネタにされたりというのもある)、特に敏感なのかも知れないと書いてみたが、学者の矜持があれば当然のことだった)は徹底的に糾弾しまくる。
そういう厳然たる顔と同時に、ひょこひょこどこまでも自分の脚で歩いて行って、脚を止めたところにいるそのへんの人たちと楽しそうに土地の話を聞くし、理不尽に直面して困惑している人には細やかに接し、苦しんでいる人には一緒に困ってあげるというような顔が1つの本の中で共存しているのが、この人の本の魅力なのだと思う。
本書の中で徹底的に赤字を入れられている改竄版のラズ語文法をちゃんと奥付の著作のところに載せている(し、本書を読むと世話になった話者へ配りに行っている(が、その旅はまたも途中で止まることになる))のに、最初、なんでだ? と不思議に思ったが、自分の名前が出てしまった以上は引き受けざるを得ないという考えなんだろうなと納得したり。
・もう一つの顔は、危機一髪、次号を待て! 状態で終わるのだが、ちゃんとどうなったか本書に結末が書いてある。(最初から続編を書くつもりだったんだなと思うんだけど、さて本当のところどうなんだろうか)
・あなたは何ヵ国語を話せるんですか? と訊いてはならない。アイヌ語とウチナー口と標準語と薩摩弁を喋れる人は1ヵ国語を話せるのだとしたら、「ヵ国語」にどれだけの意味があるのか?
それにしてもおもしろい。
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ご批評ありがとうございます。「母言」というのは初耳ですが、もしかして「母語」の間違いでしょうか。
やってしまいました。ご指摘の通り『母語』の書き間違いです。
何気なく流してしまったけど、実におもしろく、しかも興味深い本をありがとうございます。
『再構築した日本語文法』には詳しく書きませんでしたが、私が40年以上主にフランス人に日本語を教えている所は、曲がりなりにも校舎のある法人です。「外国人向けの日本語家庭教師の経験」は無いのです。
ごめんなさい。それは誤読していました。(http://www.byflow.com/item/asin/4894766019 に対するコメントですよね? 直しておきます)
最近始めた「F爺・小島剛一のブログ(http://fjii.blog.fc2.com/)」の「母言語と異言語」というページでこの記事を勝手に紹介しました。Artonさんのブログにトラック・バックは出来ないようですから、コメントでお知らせします。
ブログ始められたのですね。先生の文章を読める機会が増えたので嬉しいです。