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赤坂サカスに『FACTORY GIRLS ~私が描く物語~』を観に行く。
これは素晴らしくおもしろかった。
1830年代のマサチューセッツはローウェルの紡績工のうち女工の労働争議を、そこで働いていた若い女工が数10年後に作家として名をなした後の講演会で振り返り、影響を受けた二人の女性、サラとハリエットについて語るという大きな額縁の物語。
エマ・ゴールドマンか誰が言ったか忘れたが(アナルコサンジカリストだと思うのだが、意外とレーニンかも知れない)、「工場は労働者の学校」という言葉を地でいく話(実話ベースなのかな)で、えらくおもしろかった。
歌、踊り、曲といったミュージカルの最重要要素がちゃんとしているうえに、物語が興味深いのだから、つまらないわけがない。
楽曲としては、太っちょの女工のグレイディーズが2幕で歌う曲が、歌手の力と相まってとてつもなく良いでき(歌詞に共感するかどうかは別の話)で感銘を受ける。
1幕75分、2幕85分があっという間だ。
1830年代というのはとても昔なので
・女性参政権は無い
・電気はない(機械は水力駆動(水嵩が増して警報のサイレンが鳴ると機械の稼働効率が上がるのだが、このサイレン、回転数が上がる、という組み合わせが劇的な効果をもたらすとは思わなかった)、ランプは鯨油(安価で大量配備には)
・労働諸条件の整備が無い(同一賃金で、稼働時間は恣意的に延長される。稼働時間延長のための資本家側の武器として鯨油ランプが重要な役割を果たす)。最終的に主人公たちが働く工場では1日13時間労働まで延長される
と、現在とはえらい違いなのだが、なぜえらい違いになったのかというと、ここで語られる人々の闘争があったからだ、ということではある。
一方、まったく構造が変わらないこともあって、同一労働であっても賃金は男性>女性>移民(海外労働者)で、話の中で移民労働者の運動家(ヴォイス・オブ・インダストリーという労働者新聞を発行している)が、資本家から「ストを打った女性たちを馘首すれば君たちの席が空くのだからむしろそのほうが良いだろう?」 と言われて返答できずに狼狽するところが描かれたりもしている。当然のように男性労働者は意味もわからずに資本家の味方をする(階級意識がゼロだから、男性対女性という愚かな視点に留まっているわけだ)。
主人公のサラ・バグリーは1840年代に協会を設立したとあるから、1838年に工場に勤め始めて、数年して運動に目覚めたようだ。
といった積み重ねがあって、エマ・ゴールドマンがいて、伊藤野枝まで続くわけなんだな。
一方で、ハリエットのように体制内に取り込まれて宮廷革命を目指すが適当に使い捨てられる側も描かれているのが興味深い(2つの方法論のいずれもその時点では敗北するうえに、10時間労働を形式的に勝ち取って、すぐさまそれを自由意志で放棄させられるという皮肉な結末になるわけだが、最終的には世論が動き、それを政治家が無視できなくなり、という経緯をたどるのが歴史だから、体制側が一所懸命に自称保守を育成しようとするのも当然のことなのだった)
それにしても、アメリカ人が鯨油のためにクジラを殺しまくって今や絶滅寸前なわけだが、まさか工場労働の稼働率アップのためとは思わなかった。そのくらい安価に大量に手に入る熱源ということだったのだな。
# 日米合作の世界初演という話だったが、200年たって新自由主義の台頭が逆に逸失した歴史の再評価による物語の復権というかたちになっているのかと思うとそこも実におもしろい。
# 無数のサラ・バグリーたち(上のリンクで語られている無数の小さな闘争の積み重ねが大きな労働改革の歴史となるという物語におけるアメリカの個々)の闘争について書かれた本はこれらしい。
There Is Power in a Union: The Epic Story of Labor in America(Dray, Philip)
新国立劇場でエウゲニ・オネーギン。とてつもなく素晴らしい舞台だった。
圧倒的に音楽がすごい(曲は相当に退屈なのだが)。
たとえば3幕1場のペテルスブルグの舞踏会ではもっぱら大きな曲を歌うのは(ここでしか登場しない)公爵で、しかもこの曲が退屈極まりないわけだが、まったく退屈するどころの話ではない。
歌手のアレクセイ・ティホミーロフが圧倒的なのだ。最初から最後まで1音の残さず聞き落したらもったいないので耳が休まる閑すらない。びっくりだ。
そんな端役ですらそうなんだから、オネーギンのワシリー・ラデュークも、タチヤーナのエフゲニア・ムラーヴェワもすごいのなんのって唖然とした。とはいえ、さすがに手紙は長すぎて途中で意識を失いかけたが、窓がバン!と音を立てて開き風が吹き込む強烈な演出で完全に目が覚めた。演出もとてつもなくすごいものだった。
(それにしても曲の退屈さはとんでもないのだが、要はプーシキンの詩の持つ韻と言葉の美しさがさっぱりわからないこちらが悪いのだろうとは想像がつく。チャイコフスキーの腕は確かで各幕、各場の前には相当長い管弦楽部があるのだが、いずれも美しい。管から管へ、管から弦へ、弦から弦へと音色と音域を変えながら下降し、高い天上で管が鳴る、悲愴などで見かける管弦楽スタイルは冴えまくっているし、弦の小刻みな動きの上で管が踊る美しさもそうだ。
指揮のアンドリー・ユルケヴィチと東京フィルハーモニー交響楽団も見事なものだ。
舞台美術で目を引いたのは2幕1場のラーリン家の舞踏会場面の左側にドーンと置いてある謎の巨大な円筒形の物体(鉄人28号みたいな感じ)で、上と下に口があるので、おそらくストーブだと思うのだが、なんなんだ? 金属製ではないようだけど、仮にストーブだとしたら、むき出しのダルマストーブみたいなものだから危険極まりなさそうだし……
(と不思議だったのだが、バックステージツアーに参加していたら、舞台監督が、これがペチカで、歌では知っていたけど実物(張りぼてだけど)は初めてで、演出家の強い要請で置くことになったと説明してくれたので、おー、これが雪の降る夜の楽しいやつか、と感慨深い。それにしても触っても熱くないということだが、どういう仕組みの暖房機なんだろう? 薪を焚くのは間違いないと思うのだが)
舞台監督のお話で他におもしろかったのは、気づかなかったがラーリン家の舞踏会の食卓の中央にあるのはピローグというピロシキの親分のような存在らしい(周りにはピロシキをちりばめてあるということだが、こちらもまったく気づかなかった。それでも左に置いてあるサモワールは知っているだけにわかったけど)。
で、ピローグも演出家が、ピローグ抜きに田舎の舞踏会なんてあり得ないということで、用意したらしい。休憩になるとロシアの歌手がピローグピローグと大喜びで食べまくるので、なるほど、ピローグとはロシアのソウルフードなのですなと得心したとか語っていておもしろかった。
(というようなピローグが置いてある舞踏会だから、オネーギンはド田舎者たちのくだらない集会みたいな態度でいるのだろう。3幕の極度に機械的なペテルスブルグの舞踏会との対比がうまい演出だ)
演出は、とにかく演劇的で、どう見ても演劇の身振り、演劇の空間なのだが、これがめっぽう良い。たとえば1幕3場でベンチに二人で腰かけると、タチアーナが徐々にオネーギンのほうへ進み肩へ頭をもたせかける構図が、3幕2場で今度はオネーギンがタチアーナの肩へ頭をもたせかける対称であるとか、タチアーナが乳母へ手紙を渡すところで、両脇の窓でおそらく母親と妹が覗いているであるとか、3幕1場での群衆の踊りであるとかだ。
それにしても、何をもって、演劇的とおれは認識しているのだろう? と不思議に思ったわけだが、これも舞台監督による説明で、ああ、そういうことなのか、と一応は腑に落ちた。
なんか不思議な先端がイオニア式の柱が4本が常に立っているのだが、これがスタニスラフスキーの私的劇場のファサードの象徴になっているらしい(しかも、それはロシア人なら常識的に、おおスタニスラフスキーとわかる仕組みらしい。紅いテントを観ると唐十郎、黒いやつだと佐藤信、みたいなものなのかな?)。当然、演出家もそれを非常に意識していたとか。
そりゃ、おれ自身は演劇人ではないが、スタニスラフスキーシステムのポスト、アンチを含む影響下にある演劇はそれなりに観ているわけだから、演劇と認識するわけだ。
それにしてもすごかった。圧倒的だ。
なんかアマゾンがお勧めしてくるし、絵が妙なので気になっていたらshiroさんが以前Webマンガで読んでおもしろかったとか教えてくれたので、買って読んだ、全3巻。
現代(平成末)における忍者の選抜試験が1~2巻、初任務が3巻なのだが、最初の数ページはあまりに画がぶっ飛んでいるので読みにくいかなと思ったら、すぐにそれには慣れた。
1~2巻は敵の裏をかくゲームなので普通におもしろいのだが、圧倒的なのは3巻の後半で、信じられないスピードで物語が展開していく(冷静に考えればそりゃそうなるよな、という展開ではあるのだが(とはいえ、最後の仕掛けのかっこよさは凄すぎる)、とにかく絵柄と相まって尋常ではない)。物語の都合でリレー式に主役は交代してしまうのだが、そんなことはまったく関係なく、このスピード感がとてつもなくて読後に震えが来た。こんなの初めてだ。
おそるべき傑作だった。
子供が博品館劇場でアンクル・トムという小じんまりとしたミュージカルを観て来て、おもしろいし多分席も余っているし千秋楽だから行こうというので行った。
役者4人で1時間半というから、ミュージカルとしてはやたらと短いし、時間も空いているから行くことにした。
博品館の結構辛いビリアニの店で(朝食が遅かったので)軽くカレー3品とナンを頼んで食ってたら、よほどビリアニが辛いのか子供がナンをわけてくれというのでわけてやって代わりにビリアニを食うと確かに辛い。複雑な味で美味しいのだが、確かに辛いなぁとナンの甘さで和らげながら食った。というかヨーグルトをかけて食べればそんなに問題ないじゃん。
とかやってから、8階の博品館劇場へ。この劇場は初めてだが、横20人×20列あるかないかだから300人劇場の一種だな。
さすがに銀座だからか車の通行音が聞こえるなぁと思っているとそれが効果音で暗転して舞台が始まる。
粗筋は子供から聞かされていたが、真実は常に1つの原則から言えば、何が起きたかは舞台の上で演じられる台詞と歌からだけではわからない。
ラジオでサッカーのチャンピオンシップとそれに伴って連続殺人事件が語られることで4年の歳月が前後する。
ある作家、間違いなく国内最高のミステリー作家が失踪したため、ブランクが生じていることを嘆く編集長が、代わりになる新人を探すために賞の応募作品を募ることを説明する。
物語が始まる。
始まりは、借金取りに追われるケヴィンが締め切り間際の小説賞の応募作品を仕上げられず自殺でもするかとアパートの屋上に立つところから始まる。アプサン片手に初老の紳士トムが背後から止める。二人はトムの部屋で会話し、トムも応募作品を書いていることをケヴィンは知る。読むと引き付けられる。
路上ではレイモンド・チャンドラーというふざけた名前の花屋が花を売っている。彼はケヴィンの友人で、最後まで書きあげることができれば彼は才能ある作家なのだと、意味深なことを家主のおばさんに話す。
ケヴィンが書きあげられずに才能の無さを悲観していると、レイモンドからトムが倒れて救急車で搬送されたことが告げられる。家主によれば長くはもたないそうだ。
ケヴィンは葛藤したすえ、トムの作品を自作として賞へ応募する。当然のように作品は大賞を射止め、彼は一躍国内最高の作家の栄冠を得る。
4年がたつ。
専属作家の地位はあと3日で、それまでに次の作品を書きあげない限り契約は終わりだと編集長がケヴィンの家を訪ね通告する。
ケヴィンは書くことができない。
ふと気づくとトムの残したペンのイニシャルが失踪した作家のものと同じことに気付く。
そこにトムが現れる。家主の勘違いで単なる胃潰瘍だったのだ。
トムはケヴィンに作品を世に出してくれたことの礼を言い、3日間泊めてくれと頼む。
ケヴィンが気づくとトムは原稿を書いている。もうすぐ仕上がるという。君の名で発表しても良い。ただし条件がある。
ケヴィンが原稿を読むと、作品の主人公はまぎれもなくケヴィン自身だ。彼は友人の花屋が連続殺人事件の犯人と知り葛藤し、4本目のナイフで殺人を犯すところを犯人自身を殺すことで止める。殺人を犯したもののケヴィンは英雄視される。
トムが出した条件は、作品の通りに行動し、レイモンドを殺すことだ。それによって、現実を元にしたノンフィクションノベルとは次元が異なる、フィクションを元した現実というノベルが実現する。これこそが完全に新しい小説なのだ。それを君の次の作品とすればケヴィンという名は永遠となる。
ケヴィンは人気作家という地位を守るためにトムに従うという。
帰還したケヴィンは、この作品の欠陥は、ケヴィンという人物を正しく描写していないことだとトムに告げる。ケヴィンの母親は酔っぱらって夫(つまりケヴィンの父)を殺したのだ。おれはその母親の子供であり、人を殺すことに躊躇はないのだ。そしてトムを殺す。
4年前に戻る。
連続殺人のニュースが流れる。レイモンドの2本目のナイフは鞘しかない。
屋上でケヴィンは原稿が完成した気分の良さに風に吹かれる。背後から初老の男が近づく。彼は失踪した作家だと名乗る。
レイモンドは被害者だった女性の家へ花を運びに行く。
子供の解釈は、トムの部屋でケヴィンが酒を勧められて飲んだために見た夢だというものだ。ただ、その場合、2回目の4年前ではトムはトムではなく、失踪した作家自身として名乗ることと辻褄が合わない(もちろん、真実は2回目の4年前で、その後作家の部屋へ行き、そこで見た夢では作家ではなくトムだという解釈はできる)。
レイモンドの2回目がすべてと考えることもできる。この連続殺人者は、誰かに止めてもらいたい。自分を止める存在としてケヴィンを想定し、どうすればケヴィンが自分を救ってくれるのかを考えたストーリーが最初の4年間だ。
きわめて素直に考えれば、2回目の4年前は最初の4年後のケヴィンがトムを殺した後に考える、こうであれば良いという4年前だ。レイモンドは気のいい友人の花屋ではなく、陰惨な連続殺人者だ。トムは最初から自分を使ってレイモンドを殺すためのシナリオを持って近づく。しかし自分は既に自分の作品を書きあげ、それで応募するのだ。だからレイモンドは殺人を続け、自分とは友人のままで済む。レイモンドを殺したければトムが自分でやれば良い。
もっとあり得るのは、ケヴィンが飛び降りて死ぬ前に見たあったかも知れない未来だ。
なかなかおもしろかった。ただ、歌の印象はあまり無い。物語が語られる過ぎているのかも知れない。良い歌があったような気はするのだが。
演出も演技も落ち着いたもので、それはすごく良かった。これでやたらと激高して喚くような芝居だったらがっかりだが、そういうものではなかった。
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