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朝わりと早くに前を通ったら、煎ったお茶の香りがした。
フリージア 第9集 (IKKI COMICS)(松本 次郎)
頭に変なのがついていたり、ご存知じゃなかったり、愛していたり、伏線とか張って書いているんだか、思いつきだけでたまたまそうなってるだけなのか、ますます手馴れてきた感じだけど、溝口編なだけに気分はまったく良くない。
なんか、すごくわかりやすいRuby 1.9.1の紹介。やっと読めた。
データ構造の改善によるメモリ効率というのを見ると、NTFSでは小さいファイルはMFTに入れてしまい、データ領域を利用しないのでフラグメントが発生しなくて早くて安い、といった話を思い出す。
昨日寝てたら、どこからかピアフが聴こえてきたが、あれは夢だったのたろうか?
うーむ、batやcmd内のディレクトリ名をインストールディレクトリ名で置き換えるpost-installationスクリプトが、VistaのUACに引っかかる。インストーラと同じ権限でなぜ動かしてくれないんだ?
そこで、インストーラとsetup.exeの組み合わせにして管理者権限で実行すると、こんだ、gemの実行に失敗する。というか、あたりまえか。
どうせ、Unixでもsudo gem するか、Wheelグループに所属しとくかどっちかなんだから。
でも、インストールに管理者権限が必要なのは厄介だ。MSIの単独配布ができずに、setup.exeとペアにしなければならなくなるからだ。
どうしようかな?
#post-install.rbの中でdl経由で昇格要求のAPIを呼べば良いのだろうか。なんかしぬほどめんどうな予感。VS2005のインストーラプロジェクトでよろしくやってくんないかな。というか設定はなさそうなんだが。
Transcend 8GB JetFlash V10 USBメモリが、8980円って、今の相場はそういうものなんだろうか? おれにはむちゃくちゃ安く感じられるもので、つい買ってしまった(あ、Vistaのあれには使えないワナとか。まあ、それは良いけど。バックアップ用のつもりだから。というかでか過ぎな気も)。
買おうかなぁ、どうしようかなぁ。
じゃじゃおいけんでじゃじゃめん食ってたら、妙に惹かれる曲がiPodからかかってて、のぞいてみると、Tears for Fearsだった。といっても、Changeと、みんなが世界を支配したがってるくらいしか知らないので、これ買おうと思ったのだが、題を忘れて、かつiTunes Storeではどれだかわからない。
で、題もよければ、出だしも良いのでこれが気に入った。アルバムで買うとお得かな?
マーケットプレイスで買うとすげぇ安いが。
で、結局、
の中のシーソングだけ買ったりして。
#ううむ、ロバート・ワイアットのオリジナルのほうがおれは好きだな。というか、こないだもイマイチならぬイマハチくらいのSkyway7とかのをiTunesで買っちまったのに懲りないな。
というわけでむかついたので、シーズ・オブ・ラブをアルバム買い。
シーズといえば、ニーズだが、ニーズ・オブ・ラブってのは世の中には無いものだろうか? そこらじゅうにありそうだが。
ラブ、ラブ、ラブ、ラブ イズ オール ユー ニード。ビートルズにあるな。
アース・ウィンドウ&ファイアーに、The Needs of Loveってそのものずばりのアルバムがあるなぁ。知らんけど。The Nerds of Loveというと別の世界がありそうだ。The Neets of Loveというのはそれなりにおもしろいかも。
追記:なんとなく、ウが極意のようだから直さないが(このてのは技術文書と違って中身が内容そのものの本当の日記だから、書き間違ったという事実も、その日の記録の一部)、そりゃそうですね。一般的というか、間違ってるとしか。でも、ウィドウと間違えるほどひどくは無いとは思う。それがウィンウィンリレーションシップ。
私の好きなADGの表現に「靴下を煮〆た色のコーヒー」という言葉がある(靴下を煮〆た味の珈琲かも)。
味わい深い。まさに。
と、ビジネスが泥臭くったってソースが泥臭い言い訳にはならんと、しかし今日淹れたコーヒーは不味いの併せ技から思い出した。
病める巨犬たちの夜 (1979年) (世界ミステリシリーズ)(A.D.G)
ははは、たかが、地方右翼が書いたアナルシなセリノワールが11,000円か。なんかおかしいね。と、マーケットプレイスの価格を見て思う。が、最高値は76,000円だ。
だから、誰も買えないだろう。だから、30年も前の一期一会の記憶を頼りにでたらめざんまいに再構成した病める巨犬(おおいぬと読むのだよ)の夜を騙ってもばれることはないだろう。
主人公は、売れないハードボイルド作家だ。しかし、ニューヨールならいざ知らず、おふらんすの地方都市でハードボイルド作家と自称しても、なにそれですか、となるに決まっている。だいたい、村の連中はハードボイルドと発音できない田舎者ばかりで、全員が全員、鼻にかけた声でアールボイルドとぬかしやがるくそったれ、というような全編が罵りと呪詛に満ち溢れた一人称で語られる地方政治家のスキャンダルに巻き込まれた三文作家の命が危ない冒険の物語。
おふらんすの文学の香りがその下劣極まりなさの極みを極めた文体と口調と造語、新語、卑語、俗語のオンパレードで逆にかもされている。かもすぞおりぜ。日影丈吉の訳は見事だ。読んでいて違和感がない。
今日もまたくそったれでしみったれな新聞野郎のところで、はなくそよりも臭い鼻毛ほどの重みもない、うめくさ記事を書いてやって、石より固い3日前の売れ残りのバゲットが4分の1本も、かろうじて売ってやるからありがたく思えといわんばかりの、くそぱんパン屋の親父から、やっとのことで恵んでもらえる程度の原稿料で書いてやって、日が暮れて、家に戻ればいつものばばあが、くそよりまずいソーセージを煮てやがる。おい、ソーセージなんていうドイツのナチ公のくいもんはオレは食わないとてめえには何度言ったらわかるんだと怒鳴りつけてやったら、おれの稼ぎが悪いとかなんとかぐだぐだぬかしやがるもんで、ああ、そうそう、悪いのはどうせこのおれさまだ、と軽い頭を下げられるだけ下げてやったりして、まあ、そんな按配で、とりあえず、スプリングが突き抜けたソファに座ってオカマを針金で掘られながら、おいばばあ、さっさと、靴下の煮〆を出しやがれ、おれは疲れてるんだと、とりあえず、売れるあてもない本物のハードボイルドをふにゃちんふらんす野郎、まあ、おれもそうなわけだが、のためにタイプライターへ向かっているところにだ。
窓の外からこっちを睨んでいるいやみな野郎と眼が合った。おい、そこのひょうろくやろう、おれの顔見ておもしれぇか、これならどうだ、とべっかんこをしてやったら、野郎、顔をそむけて逃げ出しやがった。でも待てよ? ありゃ、どこかで見た覚えがある。そうだ、若きマルクス主義者の党の事務所に取材に行って、くだらねぇ御託を聴いてやったときのことじゃないか……
というような感じで、物語は進む。
いらねぇなぁとか思ってたが、やはり欲しいは欲しいので、買うことにした。
で、こないだアマゾンで買おうと思ったら売ってなかったけど、今見たら4〜6週間とかになってたから、クリックした。
Apple iPod touch 16GB MA627J/A(-)
でも、それなりの値段だから、踏んで買うかと適当に探したらやはりあるべきところにあるので、あらためてそっちを踏んでカートに入れて確定してから、ふと気付くと、
Apple iPod touch 8GB MA623J/A(-)
こっちだった。8GB損したと考えるか1万円得したと考えるべきか。
Java5で突然enumが入ったわけだが、突然というのは、JVMの修正を伴わない変更によって、ということ。ということは、1.4のころと生成されるバイトコードは別段変わらなくて、単にjavacが解釈できる言語仕様が豊かになったというだけのことだ。
これは、Rjbを通してみるとわかることでもある。
こういう問い合わせがきた。
public class Foo { public enum Bar { ONE, TOW, THREE }; ... }
に対して、Bar = Rjb::import('Foo.Bar')
がエラーになる。Rjbはenumに対応しているか?
え、enumに対応したっけな? と一瞬だまされて、試すと、確かにエラーになる。
しかし、そこで落ち着いて、とりあえずコンパイルしたファイルを見ると、Foo$Bar.classがあるじゃん。ああ、そういうことか。
おおざっぱには、javacがenumというキーワードを見かけると、以下のようなものにソースを変形させる(もちろん、実際にはソースを変形させるわけではないので、下のリストはあくまでも、のようなもの)。
public class Foo { public final class Bar extends Enum { String nm; int ord; private Bar(String n, int o) { nm = n, ord = o; } public static Bar[] values() { return new Bar[] { ONE, TWO, THREE }; } public static final Bar ONE = new Bar("ONE", 0); // 失敗。ZEROにすれば良かった public static final Bar TWO = new Bar("TWO", 1); public static final Bar THREE = new Bar("THREE", 2); public int ordinal() { return ord; } public String name() { return nm; } public String toString() { return nm; } public boolean equals(Object o) { return o == this; } // 以下はJavaではない。 public int (int){ return ordinal; } // C++のキャスト演算子オーバーライドの書き方忘れた。こんなんだっけ? } …… }
したがって、最初の問い合わせの回答は、ネステッドクラス表記をすれば良い。つまり
やりつそらいって、とてもいかした名前だと思うのだが、もしかしておぎゅうそらいって、やりつそらいから名前を取ったのかな?
と思ったら、やりつそざいだった。惜しいなぁ。そらいだったらよかったのに。
そういえば、と、Wikipediaを読みつつ思い出したが、やりつそざいの功績の1つがモンゴル人による中国人に対する大虐殺を中止させたことだ。
華北の大平原を無人にすれば遊牧に適した土地になるから捕虜とした中国人を皆殺しにしようと進言したのを押しとめ、……新税制の導入によりモンゴル帝国は定住民からの安定して高い税収を得ることができるようになり、オゴデイはこれに感嘆して楚材を賞賛したという。
命がけのビジネスモデルと言える。
楚材自身がそのような虚栄を好む小人物であったからだと結論し、楚材の人格も否定的に論評している。
ふむ。記録は重要だなぁ。
はるかでもないけど一昔前、テレビ見てたら変な髪形のおっさんと、目つきが悪い小僧くんで、何やらいかした音楽をやってて、へーと思ったり。
で、しばらくして、リモザンの新作が来た。
武田真治が、ちょうどフリージアの叶ヒロシに良く似たそこにいるだけでどこかが異常な男の役で、ふにゃふにゃ歩いている。
どのくらいふにゃふにゃかというと、参宮橋の交差点を曲がると、品川のくじら塚がある川沿いを歩いているというくらい(これは映画も終わりのあたりだ)。
電車の中でもふにゃふにゃしているもんで、あまりの奇怪さに、つい吉川ひなのが跡を付回し始める。狭い路地をくにゃくにゃしながらあっち行ったりこっち行ったり、ふと見失うと、後ろから吉川ひなのに声をかけるんだか、撃ち殺そうとするんだか、ちょっと忘れた。いきなり振り向くんだったかも。というボーイミーツガール映画だったが、いかしてた。
で、家が下北沢で、ひとりでだらだらしていると、無精ひげはやしたキツネ憑きみたいな小僧がのこのこ上がりこんできて、いきなりレコードをかけてスクラッチを始めて、延々5分くらい、それを二人で聴いていたり。
おかげで、テクノを知ることができた。で、来るのも突然なら、終わりも突然で、いきなり立ち上がって部屋を出る。その背中に向かって武田真治が、ありがとう、と声をかけるんだが、まともに挨拶できるんじゃん、とちょっとびっくりするところでもある。
で、良くピストルをコメカミにあてては引き金を引くんだが、銃身が捻じ曲がっているから絶対に自分には当たらない。でも、それは伏線にもなってるわけだが。
とまあ、武田真治は変だし、吉川ひなのはかわいいんだが、最後の10分くらいにいきなり怒涛のように北野武が乱入してきて、さんざんわめいて暴れてくだを巻いて、あまりの恐ろしさに観客が呆然となったまま、つんのめるようにアップテンポでクライマックスを迎える。
ボイストリロジーだろ。どちらかというと低めで不安定な武田真治のぼそぼそ声、やたらとカワイイ質の吉川ひなののおちゃべり声、で、そこにまったく異質きわまりない北野武の罵声。
もう一度見たいが、これまた高いな。買っておけば良かった。
子供がなぜか観たがるので、観てきた。
ファンタスティック・フォー:銀河の危機 (特別編/初回生産分限定特典ディスク付・2枚組) [DVD](ジェシカ・アルバ)
なんと言っても映画館が、がらがらでびっくり。こりゃ打ち切り早そう。
それはそれとして、ファンタスティックフォーは、子供ころテレビアニメで良く見てたが、これが全然違う。確かゴム男のリードがゴードン(多分)で、ヒューマントーチがファイアーボーイで、インビジブルは全然記憶になくて、シングがガンロックという具合に名前からして違う。トーチなんてカタカナ誰も知らんだろうとファイアーボーイなのは良いとしても、ガンロックって岩(日本語+英語)だよな。しかも、ムッシュメラメラムッシュメラメラとか言いながら暴れてたはず。小学校ではみんなでムッシュメラメラムッシュメラメラとか唱えていたような記憶がある。早い話がファイアーボーイとガンロックの記憶しかない。
が、映画で観るとこれが全然違う。もちろん、陽気なバットマンが、暗黒大魔王のバットマンになるご時世だから(スパイダーマンだけは最初から悩んでいたけど)、ヒューマントーチは彼女を燃やしそうなもんですさまじく孤独だし、シングはすごく苦しそうだ。ヒューマントーチが冗談めかして彼女とのつきあいかたを相談すると(シングには彼女がいる)、シングは暴れだしてしまうとか。
しかし何より、この作品って、ゴム男のリードとインビジブルのスーの2人が科学者だという点がミソらしくて、そのてのナードをネタにした冗談が多い。
たとえば結婚式の前夜に、リードはヒューマントーチに誘われてクラブへ行くわけだが、そこで美女に囲まれる。まあ有名人だし。で、両側に美女を連れて何をするかというと、ビッグバンについて解説してたりして。
あるいはちょっとしくじったせいで、将軍と衝突するわけだが、そこで将軍に「おれは高校時代にはフットボール部でクォーターバックだったが、おまえは何をやってたんだ、アハン?」とか小ばかにされるとか。それに対して、顔を真っ赤して「おれは高校時代は勉強しまくってたが、おかげで今では21世紀最大の科学者で、元クォーターバックに助けを請われてるが何か?」とか言い返して肩をすくめられたり。もちろんこの将軍は愚かな行動の結果、黒こげになるわけだが。
というよりも、衛星間分散センサーシステムの構築とデバッグが楽しくてしょうがないもんで結婚式に遅刻しそうになるとか、変なガジェットをすごい勢いで叩いてたり(指がゴムなので驚異的な速度でタイプできる)なかなか好感が持てるキャラクターだったりするのだが、やたらとゆるい映画だった。
最初のやつは観てないが、ちょっとは観たい気もしないでもない。
ファンタスティック・フォー[超能力ユニット] <新生アルティメット・エディション> [DVD](ジェシカ・アルバ)
#ファイアーボーイに引きずられてだと思うが、ヒューマントーチをファイアートーチとかとぼけたこと書いてたので直したが、人間松明っていうと、長崎あたりのキリシタンへの拷問みたいで、ちょっとイヤかも。
つい、買ってしまったのだが、タイトルだけでおなかいっぱいだな。
カートラッセル、リーバンクリーフ、アーネストボーグナイン、ハリーディーンスタントン。他にもたくさんたくさん。
追記:おお、すばらしい。ほとんどがひいて撮っているせいで、闇が闇で、そこに人がちゃんといる。映画らしい映画だった。というか、最初と最後の音楽がちゃちくて、それがまた映画が始まるよ/終わったよ感で抜群。
#どうも、見ている間、ある感覚におそわれていて、それが割と最近感じたものだったんだけど、思い出した。カイルベルトのブラームスだ。
やっと予約してたパンタのクリスタルナハトが届いた。聴きまくりまくりにまくる。頭は鉄板。
おれは、プラハからの手紙が好きで、良くワルシャワからクルクフへ向かう車の中で聴いているのだが、ある日、妻がぽつりと言った。
ようするに、団塊の世代の唄よね。くず。
ぐわーん、そういうなよ。
確かに、全共闘のアイドルだったわけだし、銃を取れだし、ほんのわずかな支配者のために消されていくのはやり切れないけど、しかもこないだイラクへ人間の盾になりに出かけてたりしたみたいだし。
でも、おれは、こいつの歌には、そういういんちきくさい団体行動主義というか共同体無責任体制的な思想性はかけらも感じないのだ。そういう意味じゃ、四畳半フォークなんかのほうが、よほどその腐れた共同体意識のせいかも知れないけど、おれには政治的に聴こえるし、不愉快だ。神田川とか神田川とか結婚しようよとか岬めぐりとか。
確かにパンタの節回しは、ちょっとくさいところがあるし、言葉が時々直截的に過ぎるときもある(R・E・Dとかスラムの小鳩がSOSだぜ)。
でも、詩に描かれているのは、いつでも心象風景だし、それはもうひとつ別の70年代、内的宇宙への旅(インドじゃないぜ。もちろんメディテーションじゃない。テクノロジーと人間の間に生まれる微妙な隙間から覗ける、あの世界だ)だ。オートバイ、オートバイ。おれの鋼鉄の夢。このくらい、個的な世界に閉じこもった詩を歌っていた音楽家はあまりいないんじゃなかろうか。言葉が、言葉としてきちんと自律して音の間をゆたっているのが感動的だ。
(でも、こぶし回しの人間っぽさのせいで、20代のころは、敬遠してたので、クリスタルナハトは聴けなかったのだ)
ふと、自意識の殻が蛇のようにするっと落ちて、気にせずに聴けるようになった時はもう遅くて、ほとんど廃盤になっていた。
それにしても、プラハからの手紙が、あの大巨編のテクノ調に比べてクリスタルナハト版は妙にボーカルを強調してるし、リズムの縦刻みがきれいだ。おれはクリスタルナハト版のほうが好きだな。
#夜と霧の中では、日清パワーステーションライブ版のほうが好きかな。ドラムの金属音がいまひとつかも。歌い方が伸びやか過ぎるのかも。あるいは、日清パワーステーション版を聴きすぎたから慣れの問題かも。
パンタの続き。
おれが、この詩人の詩が好きな理由は、とんでもなく紋切り型や直截過ぎがある反面、あるフレーズがすさまじく印象的なときがあるからだ。それは、本当になにか鋭利なもので脳みそに残像を削り込むような感じだ。そういう場合、そこにあるメロディーが実に正しく聴こえる。
波に浮かぶ難民船。赤道直下。ノブのない扉。たとえ石になっても見届けたい。夜は星の王冠をかざし。君が狂わした鳩が飛び立っていく。飛び越せアスファルト。君の翼とペガサス。街の光が突き抜ける。破れかぶれが似合いのお前。退屈の次に嫌いな鏡。
つまり、マーラーズパーラー。
そろそろ売ってるかな、と本屋に寄ったが、見当たらなかった。まだなのかな?
#で、調べたら見つからないと思ったら、たんぽぽ娘だった。でもやっぱりないや。
解放 (Little Selectionsあなたのための小さな物語)(泉, 川原)
ピネロピへの贈りものってのは入ってるけど。
ほとんどお知らせのように誰かがアフィリエイト経由で買った本。寄生虫っておもしろいからなぁ。
これの最初のバージョンは持ってたり。
寄生虫館物語―可愛く奇妙な虫たちの暮らし (文春文庫PLUS)(亀谷 了)
80年代には、ちょっとしたブームがあって、ピンクハウスを着たふしぎちゃんたちが大挙して寄生虫館に押し寄せたりしてたわけで、まあ僕も何度か足を運んでみたりしたわけだ。
でも小学生のころ、これを読んだこともあって
心の奥底では、このての虫達に対する大いなる恐怖で満たされているのであった。虫怖い。
ちゃんと「生産性がアップアップなの」って書いてある。
しかし、そんな感じでヨタを並べるのなら簡単そうだと思ってちょっと考えてみたが、夾雑物が巻き込まれてDLLヘルシーになることがわかった(実際紛れ込んでいるわけだし)。結構技術的には高度なライティング手法だ。
たまたま、買ってきて読んでた
錯視完全図解―脳はなぜだまされるのか? (Newton別冊)(北岡 明佳)
に、右脳/左脳の回転する絵の仕組みが出てた。
のはいいが、一瞬を除くと、おれには時計回りにしか見えないのであった。
#最終的には自由でもないけど交換できるようになった。
先週から久々にXML使いまくるJavaのプログラムをメンテしてたんだが、やっぱりえらく使いやすい。
SAX使ってちょろちょろ読み込んで(javaxのインターフェイスシリーズだから、ストリームを用意するところだけがちょっと面倒だとは思うが)、あとはContentHandlerをとっかえひっかえするだけでオブジェクトモデルが生成できるんだから、こんな便利なもんはないと思うんだけどなぁ。で、だいたい、そういうオブジェクトはそのままストラテジとして使えるから、読み終わるころには、評価器が完成しているわけだし。(ここでは、XMLで記述されたパラメータということなので、実行時に処理すべきデータに対して、パラメータを適用するのにストラテジパターンが適用できるということ)
というところからさらに考えてみると、XMLを嫌う人ってどういう人なんだろうか?
・書く人
XML単に書くだけでもバリデータとか使えるし、構文エディター使えば楽だとは思うが、メモ帳とかで書くんだろうか? だと単なるリソースバンドルよりは閉じタグの分だけ記述量が多くてうんざりというのはわからないでもない。
記述量の問題は別問題で、それはそういうスキーマが悪いだけだろう。
・読み込む人
DOMしか使わないとか? XPath使うからとか?
正規表現で引っかける(時々そういうのも書くけど)とか、SAX使うとかするとえらく楽なんだが、違うんだろうか。
どう考えても、自分でスキーマもきらなければ、パーシングもしない人がXMLを嫌っているとしか思えないんだよな。
ちゃんとスキーマをきれば、テキストエディターで編集可能な形式で永続化されたオブジェクトを作れるし、SAXを使えば構造的な読み込みができる=構文木を作るのがえらく簡単。
もちろん、JavaScriptのシステムならJSONが良いとか、.NETならCodeDOMで処理できるテキストが良い(ってことは、プログラムのソースってことだが)とか、RubyならオレDSLのほうが、とかいうような比較の問題として、XMLはタコと言っているのなら理解できなくもない。でも、どっちにしたって、ホモなプログラミング言語環境だけを考えている時点で、XMLを選択しているのが間違いなわけだし(JSONは十分にヘテロで通用すると思うけど)。YAMLは、javaxにインターフェイスが入ってJakartaがパーサ実装を提供したら使うかも、程度。積極的にXMLから乗り換えるほど素晴らしいとは思わない。Rubyでなら話は別だが。
というわけで、もっと大きな疑問として、Javaで、Java6(Java5とは言わない)でシステム作っていて、かつXMLがいやなら、上から、JSON(Rynoが標準だから)またはGroovyまたはJRubyなDSLを使うというのは、まあ確かにXMLより良い選択肢だと思うわけだが、本当に、そういう利用方法しているんだろうか? というのもある。
#もちろん、実際には実行時に可変な部分がまったくないのに、なぜかパラメータ化されていて、かつそれがXMLだとしたら、こもんたれぶーたれぶーなのもわかるけど、本当にそんなのあるんだろうか? 専用ですむところに汎用を適用してるだけじゃないかとか。専用で済むというか、専用化する=規定通りにものごとを動かす=CoCということで、それはなんというか、当たり前のことではあったのだ。オレ専でいくか、アレ専(ありものを使う場合)でいくかの違いだよね。
#XML使いまくる車輪を後生大事に使ってるだけなのかも。だったら、車輪を自分で作ればいいじゃん。お菓子がなきゃパンを食えば良いのに、その肝心なところで天動説な人たちはいるからな。
ああ、元ネタのITProのやつを読んだら、なんとなくわかった。今や、SAXが機械語、DOMがCになっていて、しかしみなさん、高級言語しか知らないと、そういう話なのか。どうでも良いことだな(それは間違いだから。パーサ書いたことがないんだろう)。というか、WS-Securityは(ある意味予想通りに)あまり使われていないんだろうか。
面白い。
消えるべきときに消えそこなったら逆に生き残り続けられる。という教訓ってことではなさそうだ。
むしろ、作り手のバージョンアップの魔の手からうまく離れられた例として考えると興味深い。
追記:あらためて読むと、
この頃になると、そもそもに対戦相手が居なかった。
しびれるなぁ。
La Ligue Du NoirかLa Ligue Noireのどっちかだと思うけど、仔でも子でも良いけど(というか正反対だけど)師はいやだな。というわけで子曰く、
パーティ会場で始まり、車に乗ってドライブ。その車は海に捨ててしまい、最後は自爆する、あろんじあろんぞ。
やだもんわるもの (あらんじあろんぞこどもえほん)(アランジ アロンゾ)
ごーごー!かぱちゃん (あらんじあろんぞこどもえほん)(アランジ アロンゾ)
かわいいうさうさ (あらんじあろんぞこどもえほん)(アランジアロンゾ)
(なかむらさんのお子さんにプレゼントしたい「かわいいうさうさ」)
たぶん、誰に訊いてもゴダールの代表作といえば、これになるだろう(例:大森一樹のヒポクラテスたちにはポスターが引用されているとか、たくさん)。今となっては正しい訓読みがされないんだかできないんだか、変な読まれ方をすることが多い。以前、YMOの曲名に微妙にずらしたのがあるのをいいことに影響を受けた映画として、例の3人組がラジオで題名を(正しい読み方で)連呼してたのが話題になったりもした映画である(っていうか、そのとき、childish!という言葉を吐き捨てるのはこういう時なんだろうな、と子供心に思ったものだ。子供じゃなかったけど。思い出したけど、おれ、このラジオ番組聴いてたんだよな。で、あまりのはしゃぎっぷりにあきれてそれから聴かなくなりつつあったような記憶が蘇ってきた)。
イエロー・マジック・オーケストラ(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)
(でも、これは高橋葉介だよな。英語にしたら、ピエロ・ザ・フールじゃなきゃかっこがつかない)
この映画の魅力は色彩にあるのだと思う。もっとも、色彩に関してはウィークエンドのほうがもっと好きだし、クレージュの淡い色彩のロシュフォールの恋人たち(これはドゥミー)のほうがさらに好きだ。
もうひとつはアンナカリーナの魅力。でも、それならぼくははなればなれにのほうがもっと好きだ。あるいは修道女(これはリべット)。
(というか、おれはこれがいちばんすきかもしれない)
ジャンポールベルモンドのいかれっぷり。でもいかれぽんちっぷりなら勝手にしやがれ、おろおろっぷりなら暗くなるまでこの恋を(これはトリュフォー)、キメかたならラスクムーン(これはジョゼジョバンニ)のほうがもっと好きだ。
言葉を語る人たちの姿、たとえばサミュエルフラーとか、であれば中国女のフランシス・ジャンソンの語りのほうがより美しいというか、モード家の一夜(これはロメール)。
この映画の真の魅力は探しても追いつかない引用のばらまきにある。そこら中が引用。いや、それなら僕は新ドイツ零年のほうがもっと好きだ。
つまり、個々の構成要素をとってみればもっと好きだったりもっと魅力的なものは他にいくらでもあるが、すべてが揃って奇跡のように溶け合っているのが、気狂いピエロの魅力なのだろう。実際、これは奇跡なのだと思う。
ゴールデン・セクション(紙ジャケット仕様)(ジョン・フォックス)
standing there, standing there, standing there like a miracle(そこにおっ立ってるよ、そこにおっ立ってるよ、こいつが奇跡じゃなけりゃなんなんだい)
――Like A Miracle (John Foxx)
さて、ジョゼジョバンニに同名の題に翻訳された作品がある。
気ちがいピエロ (ハヤカワ・ミステリ 1114)(ジョゼ・ジョバンニ)
でも、これは関係ない。英語に題を翻訳すれば、history of foolで、確かにフーつながりではあるけれど(ゴダールのはピエロ・ル・フで、ジョバンニ(カンパネッルラー)のはイストワール・ド・フで、かたっぽはインテリ(かな)が激情にかられて狂気の愛へ突き進むものがたりで、後者は悪魔のキューピーのほうの凶器じゃなかった狂気。
広島ヤクザ伝―「悪魔のキューピー」大西政寛と「殺人鬼」山上光治の生涯 (幻冬舎アウトロー文庫)(本堂 淳一郎)
商売商売。
本当の原作者は、この人、ライオネル・ホワイトの『妄執』。ホワイトデイにはリッチーで(コーヒーの)ブラックなキャンディーキャンディー。
逃走と死と (1961年) (世界ミステリシリーズ)(ライオネル・ホワイト)
(この作品は関係ないけど、この作品しか目録に残ってない)
が、それは全然関係ないはず。たぶん、最初にプロデューサからお金を引っ張るときに、ライオネルホワイトの「妄執」を原作にしたギャング映画を作るからお金をちょうだいという企画書を出したというだけなんじゃないかなぁと思う。
本当の原作は、プレヴェールのパロールパロールパロール。
やさしくていじわる、地に足がついててふわふわ浮かんでて、おっかなくておっかしくて、夜だったり昼だったり、ジミーでトッピー、すっごくきれい(オレ訳)
という言葉(全然、そこにはものがたり(語りうるものとしての言葉、えっとパロールに対してロゴスでいいのかな?)はないけど、ものがたりは、男と女が出会う。惚れる。でも女は悪人のつかいっぱーで、男の持ってるリソースをいただきます。うむ、だまされた。悔しいから殺してやるぜ。よし、すべてを失ったからグッバイだ。というどこにでもある話(ロゴスじゃなくてミュトスな気もしてきたが、パロールとの対比だとやっぱりロゴスで良いような)をもってくればおけ。こないだカウリスマキもこのものがたりで映画を作ってた)、
永遠の発見。毎日。そういえば、3番目のカリブの海賊たちは、緑の光線(これはロメール)と、この永遠を利用してたな。
緑の光線 (エリック・ロメール コレクション) [DVD](マリー・リヴィエール)
で、通奏低音にセリーヌが流れる。
セリーヌの作品〈第4巻〉ギニョルズ・バンド(セリーヌ, L.F.)
この世は旅だ、冬の旅、夜の旅のうち、からくりさーかす団の道行き。
という感じ。もっともっと引用はあって、当然、すべては知らないし、知る必要もない。
たかが演劇の白夜にあって、個別的な日常を負った観客群に「すべてを見せる」「すべてを聞かせる」などということができるわけないのだ。――寺山修司
まして、観客の側においておや。
あわせて解体。
Le FouとLa Folieは同じ青からでて違う色。本当は、ばかっちょピエロとか、ばかっぱちピエロとか、ピエロばかな子、というような題に訳すべきだったのだと思う(もっとも現在とはニュアンスが違うんだよな。今で言うところのキレルに相当する用語だったんだ)。かっこつけ過ぎて正しく読めなくなるなんてなんてかっこわるいんだろう。これを称して早川義夫の罠と呼ぶ。
今になって振り返ると、執筆した時期が2005年12月かその前あたりという制約を別にしても、ちょっとそれは違うというような点(関数型に対する見通しとか)も個人的にはないわけでもないけれど、昨日理由があって読み返したら、結構おもしろかったので、公開することにします。
(編集を使って、そこらじゅうにリンクを入れまくっていただけるとおもしろいかな)
なんでおもしろいのかな、とHiki用に編集していて考えた。
それは自分が歴史の流れの中にいるということを感じることができるからのようだ。
目の前で少しずつ世の中が動いていくことを、年代とその時生起した事実を組み合わせることで、客観的に強く意識することができ、それとその時の自分のありようを重ねあわせることで(レトロスペクティブ)、それがどんなに小さいことであっても、歴史へのかかわりを意識する。
思うに、この歴史へ参加しているという当事者感覚と、世の中はそれがなんであれ、それがどのていどの量であれ、変化し続けいているという意識を、おれは普遍的な人間感覚なのではないかと考える。
それが普遍的な感覚だから、人類は歴史を記録し、変化を確認し、仮説を立て、原因を追求し、予測もする。
思うに、この感覚があるからこそ、進化論のような考えに思い至ることになるのではないだろうか。そして、そのような変化に対する鈍感さや、歴史に対する個人の関わりへの実感の喪失(あるいは欠如)が、平たい地球や反進化論や歴史否認主義に結びつくんじゃないかな?
ジャックロンドンは名作を書いた男だ
たとえばこんな話も
とても嘘つきのインディアンの話だ
嘘にあきれた村人たちが彼に云った
"嘘をやめるまで戻ってくるな”
男は丸木舟で旅立ち 2年後――
村に戻ってきた
村人たちは訊いた
"外の世界はどうだ”
”すごいぞ 大きな機械が……”
(フランツ手を交互にうごかす、シュッシュッシュッシュッシュッシュッ)
"空を飛んで……"
(フランツ、飛行機が飛ぶところを手でやる。ブイーンイーンイーン)
"こんなバカでかい家もある"
(フランツ、摩天楼を手で描く)
"まだ懲りずに嘘をつくか"と村人は――
"2度と戻るな"と男を丸木舟で追い出した
このお話がおもしろいのは、まずそれが本当にジャックロンドンが書いたかどうかわからないということと、なぜ、この話をすることになったかのきっかけにある。
フランツは強盗計画を実行に移すことを渋るオディールに、計画が終わったら海外へ行くことを提案する。だから大丈夫だ。
オディールは訊き返す。「南米?」
「いや、」とフランツは答える。「ジャックロンドンの国へ行くんだ」
で、引用したモノローグが始まる。
フランツが語り終えると、オディールはにっこりと微笑み幸福そうにする。
その後に、ゴダール自身の情景に対するモノローグが入り、フランツは喋り続け(声は出ない)、オディールはそれをほとんどうっとりと見つめる。
で、やっと音声がシーンに戻る。
「で、どこへ逃げるの?」
「君が一緒なら南米にする」
語られた言葉は語られず、語られない言葉が語られる。
会話は現実の会話のようにもつれて、一貫せず、調和しない。
それがものがたりだ。
鏡地獄―江戸川乱歩怪奇幻想傑作選 (角川ホラー文庫)(江戸川 乱歩)
江戸川乱歩の鏡地獄はとても魅力的な小説だ。読んだのは中学生のころだから猛烈うろ覚えだけど、大金持ちの子弟なのを良いことに、金にあかせていろんな趣味人生活を送りに送るうちに、鏡に興味を持つ。ついには直径1メートルくらいの球の内側を鏡にしてその中に入る。
そこで連絡が途切れたもので友人が心配して見に行くとでっかな球の中から哄笑が聴こえてくる。こりゃおかしいと扉を開けると(確か、何かのはずみで扉のノブが取れてしまって内側から開けられなくなったとかじゃなかったかな)髪の毛がまっしろけになった男が出てくる。一体中で何を見たのか、それは誰もわからない(助けるために割ったのかも)。
という乱歩の話には一切言及せずに、(もちろん、無関係に発想しても良いわけだし)、そんな鏡ボールを作って、あらしの中の人が入って目線カメラで中継するっていう番組を見た(というか、子供が見てたのを途中参加で見たのでなんていう番組かわからない。日曜か土曜の夜のどっちか)。どきどき。
鏡は難しいので、アクリルか何かで球を作って外側から反射する塗料か何かを吹き付けて作ったような。
で、カメラではわからないのだが(目が二つあるのがミソなのかな?)、あるポジションに来ると、目の前にこちらを向いている自分の像が立体的に立ち現れて、目前の鏡面にその立体像の後頭部が移るとか、なんか、えらく奇妙なものが見えたらしい。
(たまたま選んだ)前面に近づくと凹面で広がった正面像が映り、もっとも後ろまで行くと、逆転した正面像が映り、真ん中あたりでは主に2つ(背面に映った像の反射と前面に映った像)が奇妙に重なるのは、カメラで見えて、それも結構おもしろかったのだが(視野がカメラより目のほうが広いってのもあるから、上面や底への反射も見えるんだろう)、やはり目で見ないとわからないものなのか。
「しょげん」で変換できない。
さすがに最近は自分も疑って見るので、手元の辞書をひいてみる。
出てない……
ちょげんってこたないよな、と思いながらひいてみる。やはりない。
どうも何かの勘違いらしいと思いながら、諦めきれずにgooをひくと、出てきた。
新語なのか。
子供と話してたら火は何度まで行けるのか?と訊かれて困った。
確か太陽が6000度だからそれより上だろうけどとか答えながら調べるとコロナが桁外れだったり。
で、更に調べて、とりあえずの結論としては、限界はなさそうだけど、歴史上一番の高温はビッグバン直前の今の宇宙が一点に収縮してた時で(この理屈はわかる)10の30乗ケルビン(摂氏でいっても誤差にもならない)みたいだ、と落ち着いたが30乗とか求めた人も知りたかったんだろうな。
(どこで見た数字かわからなくなった)
木村さん、結城さん、向井さん、ご教示ありがとうございます。
確かに、子供と、太陽は6000度で……とか話していて、酸素の話にはなりましたね。そこで、太陽はたしか水素とヘリウムの塊なんじゃなかったっけとか、ごにょごにょ(正確な知識がないので)しだして、えーとロウソクが燃えるのは蝋が溶けてさらに熱せられて蒸発したガスと酸素が結びつくんだから(うろ覚えのファラデーだな)燃焼(確かに、このあたりで火から炎に話が変わって、さらに燃えることに変わったようですね)に酸素は必要だよなぁとか言っているうちに、子供のほうが同じような現象が起きるんなら別に酸素じゃなくても良いんじゃないかとか言い出したんで、結局、最高温度ってあるんだろうかという話に変わったのでした。
それにしても、(Wikipediaかと思ったら違ったけど、どこで見たんだろう?)10の30乗ケルビンって、数桁違うけど、それなりの妥当性があるのかな。(なんで、ビッグバン直前の温度が歴史上の最高温度というのが正しそうだなと思ったかと言うと、圧縮していくと熱くなるから、それが極限まで行けばそりゃ熱いだろうと思ったという程度の理由なんだけど)
#結城さんと向井さんで、同じいろもの物理学者さんのところに到達しているところが、インターネットは広いようで、実際のところは信頼できそうな情報の発信はそれほど多くはないということの証左なのかなぁ(ジャンルによるのだ、とも思うけど)。とか、他にもいろいろ思うこともあるけど、それにしてもやはり僕は数式が読めなくて困る。
page[:foo].set_setyle :background_color => 'red'みたくRJSで書いてみたけど、背景色はまったく変わらない。
$('foo').set_style({'background-color': 'red'});やっぱりだめだ(追記:というか、ここで「set_style」とか書いてエラーになったのに気付いていないのが道を外れる原因になっている。ここでsetStyleと書いていればもう少し早く解決したかも)。
page[:foo][:style].backgroundColor = 'red';とやってみたらうまくいった。
$('foo').style.backgroundColor = 'red';と同じはずだけど、なぜ最初の方法はだめで、こっちはOKなんだろう?
しばらくして、上のを眺めて、あれ? と気付く。
page[:foo][:style].backgroundColor = 'red';
これ変じゃないか?
というわけで、何かの間違いだろうと、
page[:foo][:style].background_color = 'red';
と変えてためす。むむ。何も起きない。
そこで
page[:foo].set_style :backgroundColor => 'red'
……動く。というか、これで良いのか?
追記:RJS内では_から-の置き換えをしてないため、prototypeのcamelizeでは-がヒットせずにそのままDOMに渡されるため無視されるということのようだ。
ということは、RJSっぽく書きたければシンボルじゃなくて文字列を使えば良い。というか、どちらにしてもメソッドではないから_から-への変換はしないということか。
page[:foo].set_setyle 'background-color' => 'red' #キャメルケース嫌いな人は文字列
高井さんのJRuby話を聞きに霞ヶ関まで行ってきた。
で、JITの話がおもしろかった。
JRubyのJITというのは、ASTからbytecodeへの変換を意味して、さらにJVMのJITがbytecodeからネイティブコードに変換するという2重構造のあたり。やっと腑に落ちた。
Ruby.NETが最初からCILを吐き出すのとは考え方が違うなぁとか。YARVも最初からbytecodeを吐くんだよな、とか。
ズームしないと読めない。どうしろと?
ああタップ二回か。
いや、バカ往くはズームインしないぞ?
でストールマン。
いろいろ調べて指開きを知ったとこまで。まだ試してない。
追記:おお、すばらしいのは良いけれど、書き込み時に仮名漢字変換はしないのか? とか、まだいろいろ調べなきゃならないみたいだが、\がUnicodeなんで入力できないとかは、どうにもならないのかな(Macだとoptと一緒に押すとか方法があったけど)。
ああ、オブジェクト指向野郎のことじゃないぜ。
大正アウトロー奇譚―わが夢はリバータリアン (玉川信明セレクション 日本アウトロー列傳)(玉川 信明)
大正ってのは変な時代で、自由というものをみんなが考えて権力闘争を行っていたと考えたい(権力闘争の敗者の中の敗者というとあの方だということになるんだろうか)。で、天災を味方につけた憲兵は強しということになるんだが。
合わせて読みたい
自分が動いて喋るのを見るのは拷問だ。
Midnight to Midnight(Psychedelic Furs)
サイケデリックファーズのミッドナイト・トゥ・ミッドナイトは、えらくヒットしたけど、今となってもまだ語る人たちの間じゃえらく評判が悪いアルバムで、聴くとなんとなく理由がわかる。キャッチーでいかした曲が多い分だけ、サイケデリックでも毛皮でもないからだ。
で、おれはこの連中のアルバムの中では一番好きかな。特にShadow in My Heartとか。トーチャーはでもトーチャー。
#しかし、名前から言ったって毛皮なわけだし、デビューLPのジャケットはリキテンシュタインの模倣のドットなわけだし、そのあたりの悪いほう駄目なほうへのずらし具合といい、まさに3流未満のベルベットアンダーグラウンドだったわけだが、そのだめなところが逆にポップで良いバンドだったと思う。ポップだよなぁ。
ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ(紙ジャケット仕様)(ヴェルヴェット・アンダー・グラウンド&ニコ)
(あまりに一流なものでポップじゃない)
なんだそれ?
子供が観たいと言うので、正直、あまり興味はなかったが、東京バレエ団の公演に行った。
いや、びっくり、こんなおもしろいとは。
もちろんメンデルスゾーンの音楽がすばらしいのはわかっているが(好みかどうかは別として)。
メンデルスゾーン : 劇音楽「真夏の夜の夢」 (抜粋) / 交響曲第4番イ長調「イタリア」(マクネアー(シルヴィア))
(これ、アバードが指揮してるんだから、そう書けよ)
あるいは、ドイツのちょっと頭がおかしいらしいけどあのインテンポな固さからは想像し難い人とイギリスのオーケストラの組み合わせとか
メンデルスゾーン:劇付随音楽「真夏の夜の夢」(クレンペラー(オットー))
まあ、いいんだけど、それとバレエとは別の話だ。
が、舞台良ければ衣装良し、踊りよければすべて良し、だった。
特にタイタニアを踊ったロンドンの人(コジョカル)がびっくりするくらい軽い動きで(宙で1回パウゼが入るんだけど、バレエのあの固有の動作はなんていうんだろう?)代役のオベロン(マックレーという人)ともども、本当に妖精みたいで、おおバレエですなぁという観ていて感じる幸福感。村の4人組も良い感じで、パックは洒脱、舞台も良かったが、メタな部分でも1時間という時間といい、音楽のつなげかたといい、作品としても非常に巧妙なものだ。
そういえば、以前、シネマライズでリンゼイケンプの映画のやつを観たが、あれは退屈だったな、とか思い出したけど。
ところで、ロバとタイタニアは一緒に寝室に入っていくわけだが、あれはやはりそういうもんなのだろうか? 時々、寝室の窓から助けを求めるロバの首が浮かび上がるんだけど、一体いかなる秘儀があの中で行われているんだろうか? という読み方をするものなのかな?
というのも含めて、舞台から読み取れる物語としてはパックは単なる粗忽もので、4人の恋の仲立ちを司るのは最初からオベロンなわけだが(そもそもタイタニアと喧嘩する理由はなんなんだろう? 観てる限りでは、オベロンが取替えっ子なんて野蛮なことせずに家に返せと主張するのに対して、妖精軍団とタイタニアがいやなこったをしてる図式に見えたけど)、妙にオベロンが高みに独りでいるようでそういうお話なのかとか疑問に感じた。なんか、パックが(あたかもハックルベリイフィンの最後のあたりでトムソーヤが爆発するとこみたいに)ひとりで舞台を回転させて大暴れするようなイメージがあったんだが、全然違うなぁ。で、おれはそういうのは嫌いなので、まったく良かったのだが。
という具合に作品としても気に入ったので、こいつを買おうかな?
The Dream 真夏の夜の夢 [DVD](アメリカン・バレエ・シアター)
いや、その前に、元ネタをきちんと読みたい気もする(読んだはずだが、ヘンリー4世、リチャード3世とかと違ってまったく覚えてない)。
夏の夜の夢 (白水Uブックス (12))(ウィリアム・シェイクスピア)
(おれは小田島が好み)
それにしても、夏至の夜の夢と改題するならともかく、単なる夏の夜の夢とする勤勉で厳格な人たちにはうんざりする。真夏の真がもっとも日が長い、真ん中の真だと想像/想定するほうが、よほど良い。真を取ったらますます8月あたりの暑い夜の意味になってしまうじゃないか。
マイクロソフトの関連本には、以前はインサイドものってのもあったけど(で、それを一蹴したのが、Windowsプログラミングの極意なのかも知れないけど)、それとは別にエッセンシャルものってのがある。別名、ドンボックスと愉快な仲間たちシリーズと言っても良いかも。エフェクティブってのもあるから、嘘かも。
というようなことを思い出したのは、エッシェンシャルWFの序文をドンボックスが、また随分アオリ気味(ワイドにフロシキを広げたってこと)に書いているからだ。
何か大きなことが今まさに起きようとしているのです。
まあ、それについては後で。
というわけで、エッセンシャルWFを(アスキーのドットネットの本とか共著してる)新丈径さんからいただいたわけだが、難しい位置づけの本だなぁ。
エッセンシャルWF : Windows Workflow Foundation (Programmer’s SELECTION)(Dharma Shukla)
もし、これが.NETではなく、Javaのフレームワークからみだったらもっと遥かに注目を集めてそこら中でコンファレンスやセミナーなんかでネタにされただろうけど(というと多分正しくなくて、IBMとかBEAとかが笛吹き鳴らして太鼓を叩けば、というのが付くのだろう。だって、Javaのフレームワークにだってあるじゃん。でもWFとアプローチが同じかどうかはわからないのでそれ以上は何も言えないけど)、あいにくマイクロソフトテクノロジーだ。だから、大きなことが起きても誰も知らないうちに終わってしまいかねないね。
マイクロソフトテクノロジーには2つの問題がある。1つはマイクロソフトそのものに起因して、もう1つは開発者側に起因する。
前者は彼ら固有の大げさな再発見にある。あの連中は、wordを再発見してWordにしたり、window systemを再発見してWindowsにしたり、transactionを再発見してTransaction Serverにしたり、SQLを再発見してSQL Serverにしたり、componentとobjectとmodelを再発見してCOMにしたり(いや、多分、componentは彼らも別ルートから発見したといっても良い気もするけど)、BASICを再発見してVisual Basicにしたりとか、そんなのばかりだ(だから、Excel(外様のMacチーム由来)とかPowerPoint(買収した会社の製品)とかの再発見が名前に含まれない製品のほうが、ソフトウェア価値と用途がすんなり理解されて誰からでも人気がある)。歴史が浅い会社だからということなんだろうなぁとMTSの時は思いながら眺めてたわけだが、どうもそうじゃなくて、そのコアになるテクノロジーをマイクロソフトの製品として融合することそのものが、大発見ということになるようだ。
でも、それだけじゃない。MTSの時(これはおれにとっては、TPモニタの知識をベースにして眺めていたので印象深い)思ったのは、開発者がマイクロソフトと同じくらいに若いから(それに、彼らはPC革命――って言っても過言じゃないよ――の前線に立った同志だから)同じくそれが再発見だと考えてもみなかったってことじゃないかな。もちろん、新しい皮袋に入れれば、酒も一緒に新しくなるんだが、トランザクションのように本当にコアなテクノロジーの根本の部分は変わるはずもなければ変えようもないのであった(ということはもちろんないはずで、もっと革命的な何かがが起きても良いはずなんだけど、少なくてもマイクロソフトがそこまでの革命を起こしたことは、おれの知識の範囲ではない。PC革命というのは間違いなくあるにしても)。つまりトランザクションにどういうテクノロジーを追加しようが新たな概念を付け加えようがACIDはACIDだ。それはWindowsがwindow systemだったりWordがwordの集合を扱うのと同じことだ。それをあたかも、それまでの歴史にはそんなものがなかったかのように振舞うので、相手にされないような印象を与えるのであった(それまでの歴史=DOSからの歴史なんだから、確かにそんなものはなかったは一面の真実ではあるところが、PCの王様ならではの立ち位置の取り方が難しいところだ)。そのマイクロソフト自身とその仲間の開発者たちの歴史の浅さをすばやく埋めるために、いろいろな仕掛け、特に重要なのがつまりこないだJavaが再発見してたEoDというやつを上に乗っけるせいで、一番コアなところが見えにくくなる(っていうのは、そこはマイクロソフト固有テクノロジーじゃないからウリにならないからだろうけど)。で、そのまま良からぬ方向へ突っ走ってしまうというのが、良く見られた風景だった。
つまり、TechEDで、「こんなすごいのが簡単楽勝」と吹かしまくる。それを見たテクノロジー採用者が、「ほうすごいですね。ではそれで一丁よろしく」、でその仕事を請けた開発者が「良くわからんけど、こうやってこうやって、おや簡単にできますた」、という図式である。コモンセンスはどこで学ぶんだ? そうやってデッドロックやリソースリークやその他もろもろのライトスタッフがコンピュータに搭載されれば、そりゃ月へ向かって飛んでくだろう。
で、WFにも同じ香りがぷんぷんしてるのだ。でも、大丈夫。WFを必要とする人は、適用から導かれるコアにあるテクノロジーを知っているに違いない。なぜなら、ワークフローだけに断絶があるからだ。
で、エッセンシャルが題につく本は、そのコアの部分をきちんと説明するから重要なわけで、この本もエッセンシャルクォリティーなのであった。その代わりリファレンス性はほとんどない(サンプルコードはたくさんあるけど、サンプルクォリティーなコンセプトコードだし)。
だから、この本は、ワークフローを知り抜いた人にはあまり意味がない(WFを知るのには役に立つけど)。そうではなく、たとえば、行ったきり返ってくるまでにタイムアウトしてしまうようなアプリケーションを設計したり作ったりしたことがあったり、大きな単位での複雑な処理をどうシステム化するかについて学びたかったり、あるいは純然たる知的好奇心からワークフローってなんだ? と疑問を持ってる人のための本だ。
一言でいうと、ワークフローの根底にあるのは、システムワイドな継続という考え方、とまとめて良いかな(とちょっと自信なさげなのは継続をちゃんと理解してないからだ)。
ある特定時点での処理が、それ以上その時点では先に進めなくなったら、の状態をそのまま固めて永続化する。システムの状態が他の処理の実行によって変化することで、その固めた処理が実行を再開できるようになる。そこで、その固めた処理をほぐして続きから処理を再開する。これをまずは「再開可能なプログラムステートメント」と呼ぼう(この言葉はわかりやすい。その後、本題が始まる時点で、WFではこれを「アクティビティ」と呼ぶ、と用語化するんだけど、おれにはうまいやり方に思える)。この再開可能なプログラムステートメントを組み合わせてプログラムを作れば、実行に時間がかかったり、再開時に追加された条件から異なるプログラムステートメントへ分岐したりしても、混乱することなく処理を記述できるはずだ。
言ってしまえば、それだけのことだ。でも、これを実現するのはそんなに簡単ではない。ということを最初に説明するところから、エッセンシャルWFは始まる。
ruby -e 'printf "#{a=gets.strip} * #{b=gets.strip} = #{a.to_i * b.to_i}\n"
は、一筆で書ける(ここではワンライナーで書きたかったからRubyを出しただけで、当然、本書はC#で書いてある)。
というのは、1つのプロセスで閉じてgetsが呼べるからだ。では、getsで停めずにプロセスを回すにはどうするか? イベントドリブンという方法がある。でも、そうすると中央のポンプとそのディストリビューションのせいで処理がばらけてしまって、プロシージャの連続性がプログラムからは読めなくなる。難しいプログラムのできあがりだ。
これを避けるには、ブロックIOはそのまま使って、スレッドを複数作れば良いね。そうすれば、個々のスレッドは元のプロシージャを実行すれば良い。でも、それってスケーラビリティとかどうなの? いくら待機状態にあったって、スレッドってヘビーなリソースで、そいつを占有するのってばかだよね。
ということは非同期IOの出番だ。つまり非同期IOを使えば次の処理を次のメソッドというように並べると、プロシージャの連続性はそれほどは失われない(というようなことが書いてあるんだけど、おれはこれにはちょっと疑問を感じた。誤読かな? でも、イベントドリブンの非連続性が読めない人に、非同期IOを利用した非連続なプロウグラムが読みやすいとは思えないんだけど)
もし、ここで非同期IOの呼び出しをシステム側がうまく裏側に隠すことに成功したら、個々の処理を宣言的に並べるだけで済むじゃん。つまりそういうプログラミングモデルをシステムのレベルでサポートするのがワークフローエンジン(ここではWFランタイム)だ。
という具合に、この本は断続性があるプログラムから始めて、大きな処理をどのように可視状態を保ったままでシステム化するか、というワークフローの考え方とプログラミングモデル、WFというマイクロソフトテクノロジーでの実現方法を解説する。
ソースプログラムを使って解説するスタイルなので読みやすいし、ワークフロー一般について始めるにも良い出発点なんじゃないかな。
Essential COM (ASCII Addison Wesley Programming Series)(ドン ボックス)
インターネットのおかげで、それまでは「これ、おれの知識が不足してるんだろうなぁ」とか、「もっと勉強しなきゃなぁ」とか猛省と奮起のネタになってしかるべきものが、「わかりにくい。星1つ」で済むようになってよかったね。(なんか皮肉に取られるかも知れないが、そうじゃなく、これはこれで読者のレベルに対する的確な評なわけなんだろうから、価値があるわけだ。つまり、難しい本だから、おれのような素人は手を出すなという評にはそれなりの意義ある。それまでは猛省と……だったものを、価値ある情報として堂々と放言できるんだから、良かったね、ということ)
なんとなくだが、最近月がきれいだったり、台風がきたり、夏の終わりの雰囲気。
これは正しいと思う。
ジャンルを変えたらもっとわかりやすそうだ。というか、同じジャンルでもわからない人はわからないところがなかなかにわからないところなんだけど。
筆がノリにノッた状態の小説家が書く速度には、テクニカルな文書を書く速度はどうやったって追いつかないはずだ。小説家であれば、誤用も誤字も誤変換も表現のうち。しかしテクニカルな文書ではそうは行かない。その時点で勝負がついてる。
ではつまらないかというとそうではなくて、そこにはそこのおもしろさがある。
で、至るためにどうするかをやってる人達がいるわけで(工学的にやっているのか、技術的にやっているのかの違いもあるだろうけど)、そこは押さえておかないと間違えることになる。つまり、至らないと言うか、無理と言うか、ということだけど。
良く考えたら、というか素直に考えたら、何もprogram filesの下にインストールさせる必要なんて何もないんだった。Unixで使う場合だって、必ずしも/usr/localの下にインストールしなくても、$HOMEの下にインストールするってのもありなわけだし。
と思い当たったところで、リンクはるために見直したら、Crafさんから情報が。ありがたし。週末にちょっと試してみます。
mixiのKusakabeコミュニティには、立派な墓標が立っている。
ジェズイットを見習え |
_ むらまさ [ASR-1.8.6.6は、まだinfoseekへ移動されてませんか?]
_ arton [そうです。理由は、まず101が出たからそれにしたいってことなんですが、それだけだったらさっさと作れば良いだけで別にイ..]
_ Craf [http://www.atmarkit.co.jp/bbs/phpBB/viewtopic.php?topic=41..]