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あわや勘違いしたまま表参道でブルーノートへ行くところをあやうく六本木に行けた。
場所はえらくはずれで、以前ブンガワンソロがあったあたりというか、小さいルの字ってUnicodeには無いのかな?(本当はソとロの間に小さいルが入らないと気持ち悪い)
最初はウォーリアーで、この曲がこんなに定番になるとは考えもしていなかったが、良い曲だ。
音が良いのに驚く。無茶苦茶音が良い。しかも声がちゃんと聞こえる(のはライドンの歌唱力が抜群だからだろうけど、それにしても音が良い)。
不思議なのはフラワーズオブロマンスみたいな曲ですら、最初の3音くらいでどの曲かわかることだ。
ライズは定番。this is not a love songはちょっと退屈した。
9とその次あたりの曲がおもしろい。
public imageは今聞くと本当に古臭く感じる。
デスディスコは古い曲だというMCから始まったけど、PILとして古いという意味かチャイコフスキーだから古いのかわからなかった。
最後の曲は、ファッキンボロックスと罵りまくる歌で、これは挑発しているのか、なんだろう? と不思議になる。が、ネバーマインドというくらいだから、ふつうの呼びかけなのかなぁ。
大体60分ちょっとくらいでおしまい。
それにしても、こんなにエンターテインメントとして楽しい舞台を作るようになるとはおもしろい。60歳くらいの爺さんバンドというのは良いものだな。
ヒトラーみたいな片側に寄せた髪型(白いのか薄い金色なのかよくわからない)に、白シャツチョッキでひげがないヒトラーかトロツキー(白髪にチョッキの写真が印象にあるからだな)かコービンかという感じでセンスが良くわからんが、これも良かった。少なくとも以前のせむしのリチャード3世みたいな動きではなくて、もう少しふんぞり返って歌いまくる(せむしからふんぞり返りへの転機ってなんだろう)。
終わったあと、イラン料理屋でシャシリクなどを食べて解散。
友人に誘われて正しい日 間違えた日を観にヒューマントラストシネマ有楽町。
誘いのメールには「ホン・サンスを観よう」としか書いてなかったから、ボン・サンスというフランス人作家の書き間違いじゃないかと思ったら、韓国の作家だった。韓国の作家をバイネームで観るのはイ・チャンポ以来だからどえらく久しぶりだ。
なんか3本同時にやっていて、一体どれに誘われたかわからなくて閉口したが、時間が指定されていたので、無事、正しい日 間違えた日のチケットを買えた。それにしても、TOHOシネマに比べると、あらゆる点で劣った購入システムで閉口した(確認メールが来ない、秘密キーとして暗証番号を利用するのだが、強調しないのであわや忘れるところだった。チケットの価格や有効期日の短さを考慮すればもう少し賢く作れないのか? あと、発券端末が専用ペンのタッチというのも使いにくい)。
と、いくつかの関門をたどって、会ったので、一体何者か? と聞くと、日本とフランスでだけ人気があって、フランスでは特に韓国のロメールと呼ばれているが、そこまでは大したことはない作家、と教えられる。
わけわからん。本国よりも日本で、というのは、単純な人口比ではなかろうか。タイプの客が日本に1000人(いちおうは、単館上映可能な人数)いるとしたら、韓国だと400人となり、そりゃ本国よりも日本のほうが人気ということになるだろうけどなぁ。
で、観たら抜群におもしろいではないか。
ロメール(おそらく、無用なBGMがなく、会話主体で少し奇妙だが、日常の切り取りがうまく、そこに物語が存在する)と言えなくもないが、おれには、むしろキアロスタミの韓国版というか、キアロスタミは死んだのだから後継者と言ったほうが正確に思えた。
会話主体で少し奇妙だが、画の切り取り方にねじれがあり、主人公に映画作家を据えることでメタシネマを匂わせながら、まったくの虚構で作りに作った、しかしロメールのように巧妙に脚本を練るよりは即興に見える会話で物語を生み出す、というタイプだ。
つまり、抜群におもしろい。
1つの時間軸に対して微妙な会話の差異から2つの異なる物語を作るという奇妙な映画だった。
地方の映画祭に呼ばれた芸術系映画作家だが、手違いから1日早くつく。この男は女好きで、観光名所でナンパした女性(画家の卵)をどうにかしてものにしたい。しかし何も起こすことはならず、翌日、映画祭が終わってソウルへ帰る。
この筋書きから2通りの物語、「あのときは正しく、今は間違い」と「あのときは間違い、今は正しい」が順番に映写される。
最初、名所の寺院に画家の卵が入っていくところを、名所の入り口に立っている作家が眺めるところから始まる(とは言え、初回ではそこは重要と思わなかったので見逃しているし、もしかするとそもそも映していないかも)。初回は、ホテルの窓から眺める。小柄な女性。背は低いがかわいいが危ない危ないというモノローグ、彼女は映画祭のアシスタントらしいがすでに映画産業に関わっているようにも見える。橇場(日本にはなさそうな気がするが、アイスリンクで橇を走らせるもので、屋外にアイスリンクがあるのだから、無茶苦茶寒そうな場所だし、寒い場所というのは2回目では強調されることになる)で二人で遊ぶ。別れたあと、時間を大切に、と名所に入る。勉強堂のようなところで休み、戻ると、きれいな女性がミルクを飲んでいるのに気づく。ぎこちない会話のあと、コーピーコーピー言いながら寺院の前の喫茶店に入る。喫茶店の存在は、最初のシーンで言及されている。彼女のほうは棗の茶を飲む。オーガニック好き。モデルの仕事をやめて画家になろうとしていて、毎日絵を書く訓練を自分に課していると語る。
彼女の絵を見ることになる。
キュービズムから具象を排した絵。構図は悪くない。に、茶色か橙のつまり暖色の帯を描き込む。
批評を求められて、デリケートなあり方について述べる。
2回目は、窓の外を眺めるのではなく、窓の外から作家を移す。小柄な女性は出てこない。
喫茶店で、画家は、禁煙し、禁酒し、コーヒーも飲まないことを告げる。
画は見せない。筆にパレットからペパーミントグリーンか、寒色を付ける。
批評を求められて、欠損について指摘する。しつこく言い方を変えながら、つまらない作品だと指摘する。
彼女落ち込みまくる。
重要なタイミングとしては、画の批評と、寿司屋で彼女が友人がいないと言い出すところかな。しかし、特にどの1点ということはなさそうだ。どこからどこまでが、片方にだけ台詞を指定して片方にアドリブさせているのか、それとも実はガチガチに台詞が決まっていてタイミングも指示しているのか、まったくわからない。観客は与えられた世界を眺めるだけなのだから、それで良いのだ。でも、裸踊りが始まるところは、役者のアドリブのような気がする。
というように、微妙に変えて気分の悪い終わり方と、それほど気分が悪くない終わり方に分かれる。
画面から目を離す隙がないので、退屈一切なしの映画を味わえた。
あと2本、どうしようかな?(友人はこの作品以外はすべて観ているのでもう誘ってはくれない) 今観ないと一生観られない気もするが。
飯守監督最後の作品。
指揮者のロレンツォ・ヴィオッティがすごく立体的な音を作って、出だしから良いのなんのって。テンポは速い。
カラヴァドッシのホルヘ・デ・レオンとトスカのキャサリン・ネーグルスタッドは、立ち居振る舞いは良いのだけど、なんか音が重たい感じでちょっと違う感がある。ただ、そうはいっても舞台そのものは良いので、微妙な残念感がないわけではない。立ち居振る舞いの良さといえば、飛び降りが実にきれいだった。
スカルピアのクラウディオ・スグーラはやたらと背が高くマントが似合って、なんかメフィストフェレのようだ。カーテンコールで指揮者と並ぶとなんか兄弟みたいな雰囲気でちょっとおもしろい。ただ、あまり印象がない。
先日、友人の家で観たザルツブルクのスカルピアが死にきれずにサンタンジェロまでやってきて、トスカを射殺する演出(ということは、トスカは地獄でスカルピアには会わないんじゃないかな。殺してもいないし、自殺もしていないから、救済されるハッピーエンドのように思う)のような脚本外の演出は一切ない(と思う)いつもの新国立劇場のだが、悪くない。
子供が1幕が終わった後、なんでアンドレ十字なんだろう? と言っていたが、これで観るのは3度目なのに、まったく気づかなかった。
で、2幕で、聖アンドレア教会というセリフが出て来て、なんと芸が細かい演出なんだと驚いたが、何しろおれ自身は気づいていないのだからしょうがないな。
で、固有名詞に気を取られるとファルネーゼ宮ってどっかで聞いたことがある名前だが、とか余分なことを考えて、ああ、ベルセルクに出てくる女性かと思い出したのだが、そのあと、古本で買ったデビルマンGを読んでいたら、シレーヌが召喚されるシーンがまるで蝕のようで、いろいろシンクロニシティするなぁと思ったりとか。
デビルマンG(グリモワール) コミック 1-5巻セット (チャンピオンREDコミックス)(永井 豪)
なんか最近、高遠るいを読みまくっているのだが、この作品が今のところ一番気に入っている。換骨奪胎と構成と絵柄と、どれをとっても好きなマンガだ。
何か月か前に学芸大学前に飯食いに行ったとき、道に迷って入り込んだ小路にやたらと品が良い古本屋があったので、つい立ち寄って、なんとなくダニエル・ジェルールドのギロチン(死と革命のフォークロア)を買った。
ちょうどサンソンの本を読んだり、1789を観た頃で、ギロチンに運命付けられていたのだ。
死刑執行人サンソン――国王ルイ十六世の首を刎ねた男 (集英社新書)(安達正勝)
(えらくおもしろいが、ギロチンではサンソンの歴代記はあまり信用できないもの扱いとなっている)
で、晩飯を食べながらちびちび楽しんでいたのだが、残念、ついに読了してしまった。
著者は、全然知らないが、おそらく英国人なんじゃないかと思ったが、後書きには、ニューヨークの演劇人のようなことが書いてあったので、少なくともアングロサクソンっぽくはある。
なぜ、そう考えたかといえば、この著者は不愉快なことに徹頭徹尾、フランスの第1革命を憎んでいるとしか考えられないからだ。バイロンやディケンズはじめとしたイギリス人の描くギロチンにたいして賞賛が多く、幻想には讃嘆、革命の現実には鉄槌を下しまくり、フランスでのより苦痛を少なくするための工夫には冷笑、王政復古期の虐殺はスルーなど、えらく偏見に満ちている。
ダントンが出てくれば、必ず枕詞に「好色」がつくし(多分ビュヒナーの影響だろう)、ロベスピエールが出てくれば必ず枕詞に「冷酷」がつく。
というような、妙な偏見と、王様やイギリスへの偏愛が目立つが、政治書でも思想書でもないから、そこにさえ目をつむれば、おもしろい。
本書はとても奇妙な本で、ギヨチン博士によるフランス革命直前のギロチンの発明(徹頭徹尾ルイ16世の介在を否定しているし、どういうスタンスで書いているのかえらく不思議な点はある)からフランスでの死刑廃止による滅亡までを、文学や美術におけるギロチンの取り扱いと、当時の死刑を報じるニュースから構成して、どのようにギロチンが人間の死と生に影響したかを記述したものだ。アカデミックではない考現学と言える。
幅広さは圧倒的で、日野日出志の作品が取り上げられているのには驚いた。
でも、日本でギロチンと言えば、絶対、男の星座の太宰治がギロチンギロチンシュラシュシュシュと歌いまくる場面だとは思うが、著者はそれほど日本のマンガに詳しいわけではないようだ(というか、知っていたらある意味妙だ)。
(主人公太一の父親の思い出話として、太宰治が宴席でギロチンギロチンと楽しく歌いまくるシーンが出てくる)
取り上げられた作品で、実際に読んだことがあるのは数編、知っているもので10前後、60%以上はまったく知らないものばかりだ(とはいえ、カスクドールのように知っているとも知らないとも言える微妙なものも多い。それにしても、カスクドールが実在の女性とは知っていたが、乳房丸出しの写真を販売していたとは知らなかった)。
(本物のカスクドールの写真を見たあとだと、シモーヌシニョレの美しさは本当に特別だと痛感する)
というわけで、残虐な刑の追放というかたちで始まったギロチンが、サンキュロットのルサンチマン発露の場として大量虐殺装置に転化し、死の持つ崇高さや恐怖や畏敬が、単なる機械的な作業に置き換わった結果、死刑に道徳的価値がなくなり、大衆娯楽に転化する。その結果、英雄的に死ぬという晴れ舞台化する(ラスネールがここでの主役)。(その一方で、ふくろう党などの反動勢力を持ち上げる英文学をやたらと評価しまくっていて、気味悪い)カリブ海ではヴィクトルユーグが革命→奴隷解放→悪徳商人や農場経営者に対するギロチン→王制復古→解放奴隷の再奴隷化→逃亡奴隷に対するギロチンという180度転換しながらギロチンの刃を落としまくる(カルペンティエール)。
光の世紀 (叢書 アンデスの風)(アレホ カルペンティエル)
(この作家は本書を読むまで知らなかった。無茶苦茶おもしろそうではないか)
かくして死刑がほとんど笑劇と化したことで逆に首にまつわるエロティックなファンタジーが作られていく(19世紀前半)。さらに大衆化することで、メロドラマと凶悪犯罪による死刑の大衆化が進む。ギロチンはすべてをやり直すための救済装置となる。
19世紀末期になりアナキストによるテロルが本格化するとともに、ギロチンは新たな見せ場となりつつ、表舞台から裏舞台へ移る。
ヴィシー政権はがんがん殺しまくる。
しかし、既にギロチンは見世物にもならず、恐怖でもなく、何の役にも立たない。単に、死刑囚をびびらせるだけのうんざりする、しかし厄介な存在となっているのだ。
当然、ギロチンはお役御免となり、フランスは死刑を廃止する。
同僚がえらくうまいラーメン屋があるというので、昼に食べに行った。
と、場所の説明を聞いても良くわからなかったのだが、結構食べに行ったことがあるトンカツ屋の隣の角にあるえらく小汚い、ぱっと見だとナルトが浮かんだラーメンを出しそうな典型的なやる気がないラーメン屋で、え、この店なのか? と同僚の舌を疑ったことは言うまでもない。
そもそもそれほどラーメンにはあまり興味がなく、どちらかといえば豚骨味とかスープの味付けが濃厚なやつにしか食指が動いたためしがないので、まったく魅力を感じない(少なくともフリでは絶対に足を入れることはない)タイプだ。
で、店内に入ってメニューを見ると、なんか薄い色したスープのラーメンしかないし、でもまあ、食ってみなければわからないので頼んだ(何頼んだか忘れたが、一番標準っぽいやつ)。
そしたらびっくり。
抜群にうまい。
チャーシューは平べったいチャーシューではなく、炙った豚肉の固まりを削ぎ切りにしたようなダイナミックなやつで、まずこれがうまい。
しかもスープが抜群にうまい。なんだこれ? 醤油味にしては色が澄んでいるが塩ラーメンにしては味がしっかりしているし、無茶苦茶おいしいではないか。魚の出しとか入れているのかな? とにかく、家庭でもインスタントの粉末でも作れない味だ。すげぇ幸福感。
麺は適度に細く(好みではない)縮れたやつでしかしこれまた味が良い(かんすいの味なのか? よくわからない)し、歯ごたえが適度(アルデンテに近いラーメンの茹で方があるのだろうか)で実においしい。
というわけで、見た目と、現時点の好みだけで世の中を舐めてはだめということを痛感したのだった。というか、好みのラーメン観に痛烈なパラダイムシフトだ。
アスキーの鈴木さんからアンクル・ボブのクリーンアーキテクチャをもらったので、読んだ。
おもしろかった。内容にもほぼ同意できるし、良いことがたくさん書いてある。
ただ、読みやすくない(正確ではない。350ページの本に対して付録などを除外しても本文34章に分割しているので、読むのはたやすい。ただし、内容が相当前後するし、依存関係が逆転している章もある。全体像を示してから細部へ進むと言えなくもないのだが、全体像を説明するための用語は細部で説明されるため、逆に全体像を理解するのが難しくなっている(とおれは感じた)ところもある。また、おまけが唐突に最後に来るので、なに昔話してるんだ爺さん、みたいな印象も受けることをもって、読みやすくないとここでは表現した)。
本書が最も重視して、そのためにおそらく書籍の作り方にまで影響しているのは、徹底して、実装(詳細)と仕様(方針)を切り離して、後者だけにフォーカスするという方針だと思える。本気で原理原則だけを説明しきろうとしているのだ。
そのために、アーキテクチャといった場合に(少なくともおれにはそう受け取れる)システムが実現すべき機能を現実のソフトェアとするために考慮すべき制約に基づいた抽象から具象へのマッピングという意味でのアーキテクチャを説明したものではない。
そうではなく、複雑なシステム全体をどう構築するかの設計指針としてのアーキテクチャについて説明したもので、徹底的に抽象化されている。したがって、現実の技術として想定されているのは少なくともオブジェクト指向プログラミングが可能なプログラミング言語であることくらいだ(それすら重要ではないかも知れない)。
言いたいことはSOLIDの5文字からなる頭語で示されている。
Sが単一責任の原則(コンウェイ)
Oがオープン・クローズド原則(メイヤー)
Lがリスコフの置換原則(リスコフ)
Iがインターフェイス分離原則
Dが依存関係逆転の法則(DIPと称している)
2004年頃にマーティンファウラーなどとの議論で出てきた原則らしいので、目新しいものではない。その意味では、本書は2017年に上梓されたようだが、21世紀初頭のアイディアを実際のプロジェクトに適用して確信した後に書籍としてまとめたものだ。
あと、ヤコブソンのユースケース、エンティティ―コントロール―バウンダリー、つまりロバストネス分析に強い影響を受けているのが特徴だ。
SOLIDのうち、SOLは言うまでもないことで明々白々だから良いとして、IとDは()内に人名がないようにアンクルボブ(という名前の由来は付録に出てくる)たちの議論から生まれたもののようだ。
Iは分離と訳されているが、使わないモジュールを参照するな(ビルド時に依存するモジュールは、実際に依存するモジュールのみに限定せよ)、ということに尽きる。10章で詳細が書いてあるが、例がばかげているので意味が通りにくい(全体的に、コードを可能な限り使わずに説明しようとしている(このこと自体が、詳細に依存しないアーキテクチャを説明するための方便のようにすら感じる)のだが、逆に例が誰でも理解できることを意識し過ぎたのかどうにも説得力に欠けてしまっている側面があるとおれには思える。ちなみに、Iの例は、あるモジュールXを呼び出すA、B、Cの3つのモジュールがあるときに、モジュールXのうち、Bのみが依存しているメソッドを修正して(AやCの呼出しには仮に一切影響しないとしても)Xが再ビルドされたら、AやCも再ビルドが必要になるから、XとABCの間にインターフェイスをかませるべきというものだ(makeでタイムスタンプを判断してビルドする系の言語の場合は。だから動的言語のほうがこの面では良いと書いてあったりする)。くだらん(単一責任だけで十分っぽい)が、Javaを使ったシステムだと無いわけではないし、再ビルドしたら変更があるはずだということになるので、そのためにはQAプロセスをAやCに対しても行う必要がでてきて……みたいなことを想定しているのかも知れない。
というわけで、Iについては変更の影響範囲を明確化するために利用しているモジュールと利用されているモジュール、利用されているモジュール内での変更可能性に応じたインターフェイスを用意するべき、ということになるのだろう。いずれにしても、実装に利用する言語などに依存した詳細のように思える。
(追記-20180803 いや、重要だった。内容はくだらないという印象は変わらないのだが、次のDを実現するためには、Iがちゃんと設計できていることが大前提になるからだ。その意味でDと密接不可分の関係であり、実装時のビルドの話などとは切り離して、モジュールの依存関係を明示せよ、という原則として考える必要がある)
それに対してDはえらく重要で、本書の中では繰り返し言及される。というよりも、本書は、ほぼすべてがDの説明といっても良い。また、その重要性は理解できる。
最初、この箇所を依存対象のオブジェクトを注入する(ようするにDI)の意味だと受け取ってあとから混乱したが、もちろん本書はそういった詳細についての本ではなく設計の本だから、意味が異なった。
モジュール間の依存性を正しく整理するためには、必然的に依存関係を逆転させる必要があるという意味だ(確かにそう書いてある額面通りだったということだ)。
ここでの依存には、UMLでのuse(普通の矢印。とがったほうが依存している対象のモジュール)とinherited(白抜き△の矢印。△のほうが依存している対象のクラス)の両方の意味があるのがミソとなっている。
つまり画としては当然のことを書いているのだった。
AがBをuseする。CはBを継承する。このとき、矢印はBを中心にしていて、制御の向き(AがCを利用する)に対してCからBについては反転しているということに過ぎない。
ただし、DIPで解決すべき問題が2種類あるにも関わらず、説明が出現箇所によって1種類しか行わないために、おれにはすごくわかりにくかった。
まず1点は、循環参照に関する問題で、オブジェクトは相互作用するので、CからAへの呼出しもあり得るという点だ。したがって、AがCを呼び出すときに、c->func(this)と書くとそれはC側のメソッドシグネチャはfunc(A* aself)となっていることを意味し、つまり循環参照となり破綻するという問題をどう解決するか(ここまで還元してしまうと全体としては正しくないのだが、SOLIDのDの説明としては一番正しいと思う)ということだ。
ところが、11章でDIPについて詳細の説明っぽいものがあるのだが、この例がわかりにくい。依存関係にある下位モジュールは外部のものであるはずなのに、依存している(useする)モジュール側にファクトリやインターフェイスを置いているからだ。もちろん11章に出てくる図はこの図で正しいために、DIPで実際に実現したいことがぼやけているように思える。
つまり、DIPで解決する2点目として、外部モジュールを交換可能とすることが出てくる。このためには、本来直接useすべき(→が外部モジュールへ向く)依存関係を、内部のインターフェイスに向け、内部のインターフェイスというかプロクシを利用することで(プロクシは直接の外部モジュールと内部モジュールの中間に配置する)依存関係としては外部モジュールが内部のインターフェイスに依存しているように扱うようにする。
中間層はオーバーヘッドなので、薄ければ薄いほどよく、ここで外部モジュールといったものがシステムの一部であれば、呼出し元のインターフェイスに依存させる(というのが11章の図)、ということだった(19章では明確になっているが、ここのコード例もひどい。なおRubyのmixin可能なモジュールをプラギンとして扱えば、19章の悪いコード例そのもので正しく設計しているということもあり得る)。
しかし、ここでぐちゃぐちゃ書いていることの重要性についての認識はアンクルボブとおれとで全く疑問の余地もなく同じだとは思う。DIPを設計に組み込んでおくことで、外部コンポーネントのプラグイン化が実現できるからだ。通常、プラグインは、メインとなるモジュールが公開するインターフェイスに合わせて後刺しするモジュールを後から開発する。そうではなく、既存のモジュールをプラギンとして少ない労力で交換可能とすることで、すべての外部にあるモジュール(フレームワークであったりミドルウェアであったり)を交換可能とする。ここでも依存関係が逆転できているのがミソとなる。これによって、すべての外部に存在するインフラストラクチャをプラギン化できるように考慮する=すべてを詳細として設計本体から切断可能とする、という画だ。
この考えが正しいのは、ビジネスは永く、ソフトウェアの流行は短いからだ。そしてゼロから作り直すのは常に危険だということでもある。その観点から、もっとも必要な抽象エンティティというのは、実はドキュメント(自然言語で記述された)ではないかということになって、おそらくそれは正しいのだがさすがにそれを言うとある意味おしまい的なところがあるのか、そうは書いていない。だが、そういうことだ。
以下その他気づいた点のメモ。
P.136 図14-9はあえてそうしているのかも知れないが、StableにI=1の記述が抜けているので、それまで説明したIという変数の意味が不明になると思う。StableのIが1となるため、instableからのI=1の矢印に対してIの値が等しいので違反、と示す必要があるのではなかろうか。
P.187 上でも書いているが、悪いコード例がくそだ。
P.192 エンティティとはビジネスルール(という抽象)で、ユースケースはアプリケーション(という具象)。なんのメモだ(すでに忘れた)? 用語かな。後半以降エンティティという言葉ががんがん出てくるのだが、ECB(エンティティ、コントローラ、バウンダリー)のEなので、本書の他のパート同様抽象のように扱われているのだが、実際にはコンポーネントだったり実装だったりもするので明確ではないが、この箇所でエンティティを独立したコンポーネントまたは抽象としているように読めたということらしい。
P.234 正しい。
P.262 正しいというかおもしろい。
P.270 フレームワーク作者の自尊心よりも、設計を重視しろというのがおもしろい。(フレームワークは詳細なので身も心も依存するのはだめ、ということが主張しまくられていて、おれにはまったく同意なのだが、ここまできつく言わないとわからない連中がいるんだろうなぁ、と21世紀始まってすぐの頃のStruts以外の方法でWebアプリケーション作るのはばかと言わんばかりの論調やそれをまじめな顔でぬかしている人たちのことを思い出したのだった)
P.276 またいい加減な図。ViewModelを忘れたようだ(とメモしているが、ViewModelも詳細なのでどうでも良い話だった)。
P.283 ドメイン(とここでは記述しているが、P.192あたりでのエンティティ群のこと)を別コンポーネントとしてフレームワーク(=インフラストラクチャ)から分離している画が出てきているので、おれの読み方と考え方と合致していることが確認できた。
P.285 第34章はサイモン・ブラウンという人がアンクルボブのクリーンアーキテクチャを元に、自分の世界と擦り合わせて改変することを説明している。これはとても良い本だなというのが、この箇所で完璧に明らかになる。教条主義ほどくだらないものはないからね。
P.290 publicの用語としての使用方法が気に食わない。
本書を読む場合は、最初に付録Aの思い出話を流し読みするのが良いと思う。延々と古臭いことを書いているが、重要なのは、その時代のシステム制約とソフトウェア、そこで発生した開発上の問題と現実(運用上)の問題、あるとすれば解決の発見、ないとすれば次の時代へ持ち越された問題の本質、そういったことから、どういうモチベーションで本書が書かれているかと、ソフトウェア開発はハードウェアとコンピュータサイエンスの発展によって助けられながらもどうも同じことを繰り返しているようだ(当然、問題も持ち越されているようだ)ということを念頭に入れたり、自分のケースに引き寄せたりすることで、本文が読みやすくなると思う。
Clean Architecture 達人に学ぶソフトウェアの構造と設計(Robert C.Martin)
抽象度合いが高いので、そう簡単には古びない良い本だと思う。(古びさせないために、あえて極端に古い例を出しているのか?と疑問に思うところもある(12章)が、温故知新を肝に銘じているのかも知れない)
特に、無敵にプログラミングしている(というかプログラミングできる)20代とかのうちに読むと良いのではないかと思った。が、開発している間は読む価値大いにある。
電子書籍で買うなら達人出版会が良いと思う。PDF(EPUBもある)だし。
ジェズイットを見習え |