著作一覧 |
妻が結局我慢しきれずに購入したので読んだ。意外に読み応えがある(トートバッグ抜きでどうよと聞かれると答えにくいが)。
MOOMIN公式ファンブック SPECIAL BOX LOVE! リトルミィ (e-MOOK 宝島社ブランドムック)(-)
何と言っても『リトルミイは人を変えようとは思わない』。
というようなミイの7つの特徴を紹介した見開きがあってうまくまとまっているのだが(大伴昌二のマガジン記事の後継のようだ)、『リトルミイは体は小さくても心はタフ』の項では、漂流しているところをスナフキンに拾われたような記述があって、はて実の妹じゃなかったのか? と不思議に思う(人物の相関図があるので謎は解ける)。
小さなミイを見て、ミルクしか飲まないのでは? というスナフキンの問いに、バカにしたように笑ってすぐさま目の前でコーヒーをスプーン2杯飲み、豆を4粒食べてみせます。
いずれにしてもミイは好きだ。
アスキーの鈴木さんから緑の本をたくさん頂く。
で、薄さと題にひかれて『自律走行ロボットカーを作る』を読み始める。
微妙なのはLabVIEWというシステムが必要な点で、7日は無料で延長もある程度できるのだが、ここはハードルかも。で、取り敢えず、あるつもりで読み進める。
Squeakみたいなものだなと読み進めると(もちろん、普通にテキストベースのプログラミング言語のほうが楽だな、と考えるわけだ)、突如、並行実行を記述するのにはレーンがあるから、これもありだなと気づく(逆にシーケンスの導入の箇所でだが)。でも面倒臭そうだ。
2章にはいるとセンサーからのデータ取り込みについてとなる。LabVIEWもそうだが、ナショナルインスツルメンツという会社の製品の公式プログラミングガイドのような位置づけの本なのかな。
3章。リアルタイム。RTモジュール上での実行方法で始まるが、スレッドのプライオリティについてといった解説が入る、タイミングループ。確定性。
4章。FPGAプログラミング。ターゲットはNI sbRIO-9626。
5章。ロボットカーの前編。モーター制御とロボティクスモジュールの説明。
6章。ロボットカーの後編。おもしろい。センサーを使って障害物を検出し、ギャップへ進路を変える。
読了した。
おもしろい。知らないから興味深く、理解可能だから試したい。
そこが問題だ。今ここにないハードウェアが必要な点と、かったるそうなプログラミング言語だ。
そこをうまく解決できると、webアプリケーションなんかと違ってUIをほとんど無視できるから作るの簡単だし楽しそうだ。
自律走行ロボットカーを作る グラフィカル言語でFPGAプログラミング(長野達朗)
(ちょっといろいろ考え中)
子供が多分、NHKの新春オペラでランスへの旅の多重唱を見て気に入ったのか、オリー伯爵が観たいと言い出し、おれもちょっと興味を惹かれたので購入したDVDを観た。
Rossini : Le Comte Ory [DVD] [Import](Didonato)
ロッシーニ版ドンジョヴァンニということなのだが、ジャケットの修道女に変装したフローレスがあまりに奇妙だし、共演がディドナートやダムラウと、無駄に豪華だし、さてどんなオペラなのか。
観てびっくりだ。くだらねぇぇぇ。こんなくだらねぇ作品にフローレス、ダムラウ、ディドナートって、どれだけメトは贅沢なんだ。
ロッシーニっぽい、どうでも良い歌詞を無駄に軽快な曲想にのせてえんえんと繰り返すし、それをまたフローレスが驚くほど美声で歌うし、特にコロラットゥーラが必要でもないのにダムラウがなんというか落ち着きがある高声で歌うし、しかも脚本のばかばかしさはあきれ返る。
オリー伯爵と25人の騎士が、主が十字軍遠征で不在なため男性立ち入り禁止となった城の女伯爵目当てで修道女に変装して乗り込む。
侍女の大将が見回りにくると、みんなで神妙な顔をしてお祈りしているのが、いなくなるやいなや酒蔵から盗み出したワインを開けてドンチャン騒ぎ、そこへ侍女の大将がやって来るのであわてて神妙な顔つきでお祈り、いなくなるとワインを開けてドンチャン騒ぎ。をえんえんと繰り返す。
子供が、こいつら修学旅行気分だろ、と指摘する。
ふむ、オリー伯爵のページがディドナートでメゾということは声変わり前なので11歳。すると、オリー伯爵は17歳くらいで、騎士団は基本同年輩なので、やはり17歳。
そりゃ、修学旅行になるよな。
で、下品に堕さない見事な演出で、ベッドの上でのオリー伯爵と女伯爵とページの3Pが繰り広げられる。しかもそんな異様な状況でフローレスとダムラウとディドナートが美しい歌を歌いまくるわけで、これほど贅沢な演目はそうはない。
いやー良かった。
(時事解説)
shiroさんが召喚されたという点が、今回の発端となった(と僕は読んだけど)『変数に型がないということの利点について考える』の一番の成果だったのではないだろうか。
最初にshiroさんは、変更に対する強さというものを、平衡状態の長短として考えることを提案する(『型付けと変更の時定数』)。強い型付けであれば、非平衡状態は比較的すぐに解消する(ただし非平衡状態では実行できない)。弱い型付けであれば、非平衡状態でもそれなりに実行できる。
読んで考えた。これは実体験としてわかる。
それまでchar buff[]
だったものをstd::string buff
に修正する必要が仮にあったとすれば、とにかく宣言を先に変えてしまう。そしてmake cleanしてmakeし直せば、少なくとも修正しなければならない箇所はその時点ですべて網羅できる(もっとも、表面的にしか直せない場合も結構あって、おそらくそういう場合があるということは、うまいこと言語の特徴を生かしてコードを書いていないということなのだろう)。
逆にいうと、修正している時点では、その修正中のソフトウェアを実行することもできない(何しろmakeできないから)。
それに対して、すぐさまソフトウェアの出力(成果物)がぼちぼちでも必要な場合、トライ&エラーしながら成果物を作りつつ、ソフトウェア自身の拡張や修正をしていくことになる。こういう作業をしているときに、スクリプト言語は実にありがたい。だが、1か所でもテストで通っていなかったコードにタイポがあると、そこでクラッシュする(クラッシュすれば良いがnullとか空文字列とか0とかを勝手に想定してよろしくやってくれると、それはそれで異様に困るのがJavaScriptだったりPHPだったりするわけだが)。
同じくプロトタイピングと実稼働がほぼ等しい場合にHTML+JavaScriptは実にうまく運用できる(そういうプロジェクトをやった時につくづく実感した)。
次の日になると、shiroさんは具体例を出してきた。
Javaなプロジェクトであれば、デザインパターン(ファクトリメソッドパターンはいつでも有用だ)を適用しておけとあれほど言ったのに、な例である(もしかすると、HashMapをそのために利用しているプロジェクトもあるかも知れないが、それは別の問題を引き起こすというか、何を悪いとこどりしているのかと思うけど)。(確か以前kwatchさん(だと記憶している)が、デザインパターンが必要な言語は結局のところ欠陥言語じゃないか? というようなことを書かれていて、そりゃそうだよなぁと同感したのを思い出すけど、それが非平衡状態が本来短い対象に向いているものの適用の失敗に対応させるための方策として考えると、確かにそれは先人の知恵として学ぶべき価値があるものだとも言える)
現在のところ、最後のエントリーが『型論争』で、なぜ、不安定な期間の許容に関する問題として提起したのかが説明されている。
jmukさんの『時定数の話をつらつらと考えていた』も併せて読みたい。
#作って検証して納めて数年変更しないシステムを、バカの1つ覚えでJavaで作るのは、平衡状態という切り口からも説明できそうだし、永遠のベータ版のサービス群がRubyやPerl(PHPも含めて良いのかな)なのも、そこから説明できるかも知れない。でも、メッセージングの部分だけはScalaを使うみたいなのも含めて。
(ご存じない方のための補足)shiroさんは、Gaucheの作者。
Shceme処理系の作者だからかどうかはわからないけど、LISP系言語の翻訳もある。
プログラミングClojure(Stuart Halloway)
Land of Lisp(M.D. ConradBarski)
でも、一番有名なのは、ポールグレアムの翻訳かな。
ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち(ポール グレアム)
追記(3/11):時定数が大きく、型と直交する意味がある困難な例「古くて新しいGUI座標系の型の話」
_ jmuk [理論的にはそうですが、現実には implicit な変換でコンパイル時には捕捉できず、違うところが壊れるということも..]
映画は特殊な表現作品で、書籍と異なり論理の組み立ては難しく、絵画と異なり時間の流れを持つため直観へ訴えることは難しく、純粋音楽と異なり抽象的な空間を表現することもできない。
そのため、受け手側の記憶による連想を利用して語られる物語に対して表現の上積みができるかが重要となる。
結果として、優れた映画作品は過去の映画のパターンを踏襲し、引用し、他の表現作品を援用する。(「映画的」という言葉が映画に対して褒め言葉となるのは、それが理由だ)。つまり、優れた映画は常に映画を含んだ映画として構成され、それは結果としてメタシネマとなる。あんなに愛し合ったのにや、ニューシネマパラダイスやニッケルオデオンが、実際にはそれほど優れた作品というわけでもないのに、にも関わらず実に秀でた作品となるのは、作品の仕掛けが他の映画を否応なく内包するからだ。
ということを前提として、愛と誠を観ると、なんと微妙な作品なことか。
舞台は1970年代ということが語られるが、作家の記憶から外れているためか、奇妙にねじまがって再構成され、しかも部分的に挟まるミュージカルが少しもミュージカルではなく、後半、バイオレンス映画に様変わりしてから急にいきいきとしてきて、クライマックスのACBくさいクラブから屋上の決闘までは息もつかせぬおもしろさとなる。特に、高原が投げた手裏剣が誠に降り注ぐ瞬間に愛が両手を広げてハリネズミになる一連のシーケンスは抜群だ。
最初は子供の画から始まり、ながやす巧をもっと子供向けアニメに変えたようなゲレンデのシーンがアニメで流れる。
新左翼文字の立て看文字で装飾された奇妙な街でたった一人の誠に対して向うから不良軍団がやって来て(この一群の人間が行進してやってくるとことろは、ウェストサイドストーリーやさかのぼることミッキールーニーが子役の頃のネイバーフッドものまでの映画っぽさがあり、見ているだけで楽しいのだが、作家自身が奇妙さを楽しみ過ぎているのか、あまりにもしつこく繰り返されるのでうんざりしてくる)乱闘が始まる。それを店の中から見つめる愛。止めに入る。
警官が乱入して来て町が炎上する。そこに巨大な目が現れることで、そこが西口で、新宿騒乱の再構成であることに気づく。しかし、気づいても何にもないところが空虚で、その空虚さが全体の基調となる。
(西口の騒擾というとどうしても忘れられないのは共犯幻想だが、この題が吉本の援用だということすら過去のエピソードだ)
かくして、舞台は青葉台学園に移動する。ポケットから手を出すエピソードは記憶にある。傷も含め、原作を利用している。
特定のキーワードに反応する人々の物語でもある。月光仮面がスイッチの誠、メガネがスイッチ(ただしギャグ)の岩清水(「メガネは顔の一部です」)、悲しい女がスィッチの高原、おっさん(いや、これは原作とは違うと思うが、本当におっさんを使うばかばかしさは嫌いではない)がスィッチの権太(ゴンタを、ケンタと読み替えて、オオカミ少年ケンの主題歌で登場するが、高原に説明させるところではちゃんとゴンタと読んでいる)。(ポケットからの手のエピソード同様、ガム子を干し柿だか吊るし柿だかするのも記憶にあった。そういえば、一瞬、誠が鑑別所へ入れられるのだが、そこで入所者たちが雑巾を絞りながら大群で迫ってくるのは、同じ原作者の明日のジョーのエピソードの奇妙な引用だろう。そういった奇妙な引用はすさまじく多く、たぶん、全体の1/3程度くらいしかわからなかったと思うが、この作品が過去の作品の誤読による再構成(唐十郎方式)という手法で作られたのだろうと推測できるし、唐十郎方式という点からして1970年代っぽさであり、また唐十郎は花園神社での伝説的な紅テント公演だったり、西口(ただし地下広場ではなく公園)公演だったりすることから、引用の一部として組み込まれていると見て良いだろう)
予告編がミュージカル以外の何物でもないのでミュージカルだと思い込んでみていると、そういった事情でこれっぽっちもミュージカルではなく最初は驚いた。歌の最初の部分では口パクをするのに、そのあとは歌う様子すらなかったり口をぱくぱくさせる様子さえなくなるからだ。が、ガム子がふつうの女の子に戻る(が、歌はキャンディーズではない)歌ではちゃんとミュージカルになっていて、どういう演出かわからなくなる(が、おそらく、何も考えてなくて、こうすればおもしろいだろうとその場その場を決めているのだろう)。
ただ、作家の映画手法そのものは実に確かで、たとえば花園実業に転校したことを示す一連のシーケンス、あるいは廊下の向うからスケ番軍団が近づいてきてカメラは引きながらそれを映し、軍団が右手の教室に入り、しかしカメラはあいかわらず廊下を引くと、壁が崩れているため、教室の中を進む軍団を捕えるといった、空間移動を映画として実にきれいに切り取ったシーンは感動的だ。
突然、花園実業が新宿にあることがわかり、そのため花園というのが神社の名前で、すると学校の位置がおのずと決まり、そこがどういう場所か明示される(というのは、マンガを読んでいた小学生のころにはわからなかったので、ちょっとした発見だった)。そうそう、ソープは1970年代にはトルコだったのだな。
そういった背景の小物で、おおと思ったのは、酔っ払って道路にしゃがみこんでいるのを困ってみている子供の誠(1960年代ということになるだろう)のシーンで、住み込み女中の時給が90円と書いてあることで、すぐにそこまで安くはないだろうと思ったのだが、調べると実際にそんなもので、すると1960年代から1980年代で所得は倍増どころか10倍増(もちろん物価も上昇しているのだが、それと同時に物品は多様化するので、相対的に変化しないわけではなく、結局は10倍豊かになったと言えるので、そこから1990年代から2010年代に何も変わらないというのが、いかに恐ろしいことかと実感したりした)したという恐ろしさ。何が恐ろしいかというと、誠の家のように、その成長から取り残された場合の没落っぷりだ。(子供の頃(1960年代末)、ソーダアイスは10円しなかった。今、ガリガリ君ソーダ味はだいたい100円だ。同様に、1960年代末に時給が90円が同じ割合で上昇したとすると10倍で900円。田舎町の女中の時給とマックの最低の時給が同じ労働価値とすれば、時給90円は間違いではない。びっくりだよ)
特筆すべきは、主役の妻夫木聡で、このばかげた役を実にまじめに余裕たっぷりに説得力ありありで演じていることで、これは本当の役者だ。あまり映画を観て役者に感心することはないのだが、妻夫木聡には惚れた。
愛と誠 コレクターズ・エディション(2枚組) [DVD](妻夫木聡)
(前半は最初興味しんしん星4つ、1/3観た時点でうんざり星2つ、花園実業に転校してから星4つに戻り、権太登場以降星5つで突っ走るという感じかな。とはいえ最後の最後、母親を許す(というか、脚本的には岩清水が愛の愛を評して母親の愛といったことからの怒涛の流れなのだろうけど)件以降はどうでも良くなって星3つで終わる)
こういう中途半端なミュージカルを見ると、黒沢清の(同じく中途半端なミュージカルの)ドレミファ娘の血は騒ぐは見ている最中は相当退屈したにも関わらず、実は傑作だったのだなとか、
鈴木清順っておもしろい映画を作れる稀有な人なのだなとか
オペレッタ狸御殿 プレミアム・エディション [DVD](チャン・ツィイー)
(本物のミュージカル)
いろいろ他の映画の記憶が蘇り、結果的にメタシネマとなるのであった。
先週から通勤中に読んでたミレニアムの1巻目を読了。えらくおもしろかった。
紙で400ページが1cmに満たないデバイスで読めるのはありがたい。
罠にはまって名誉毀損で有罪になった独立系雑誌の経済記者が、政治的な休暇中に引き受けることになった財閥の過去の事件の調査をするうちに明らかになるスウェーデンという国に残るナチズム(国家社会主義のほうではなく、優生主義のほう)や、弱者に対する性暴力のありようと、その事件にかかわってくることになる(主人公の観察によると)アスペルガー症候群らしき女性ハッカー(が、タイトルロールのドラゴンタトゥーの女)の社会との困難な格闘が書かれている。物語の基調となる主人公は経済記者のほうだが、人間的な魅力はハッカーのほうにあるし、タイトルロールなんだから(ただし翻訳用みたいだ)本来はそっちが主人公なのだろうが、意味がないと口をきかないので作家としては物語を語りにくいので副主人公っぽい位置においたのかもしれない。
ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女(上・下合本版) (ハヤカワ・ミステリ文庫)(スティーグ・ラーソン)
最後はまったく感が漂ってしょうがないけど、しょうがない。せっかく掃除したのになぁ。
本編の演出の素晴らしさが特筆ものなのだが、一番、観ていて印象に残ったのは、衣装と舞台のデザイナーコンビに対する幕間のインタビュー(ルネフレミングによる)。
2人とも女性らしいのだが、ハンプティとダンプティのように仲良く手をつないで肩をさわったりしながら、まるで二人の共通の秘密を分け合うがごとくインタビューに答えるので妙に印象的だったのだ。
アスキーの鈴木さんから頂いた本の中にSoftware in 30 Daysというスクラムのマネージャ向けの本がある。
マネージャ向けというのは僕の印象論ではなく、著者の言葉だ。『本書は、生き残りと競争力をソフトウェアに依存している組織のリーダーたちに向けて書いたものだ』。でもプレイングマネージャっているし、という前にもっと明確に『ソフトウェア開発を「しない」人に向けて書いたのは、本書がはじめてである』と書いている。さらに定義として『優れたソフトウェアを短期間・低コスト・高い予測可能性・低リスクで届けたい組織のCEO・経営者・シニアマネージャに向けて書いたものだ』としている。
まず、薄い本だ。全部で208ページだが、P.140以降は用語集とスクラムガイド、プレイブック、そして索引なので実質150ページ程度で、なるほど、この読解高速性というか即席性からしてすでに開発しない人のための本となっている。薄さにあわせて価格も抑え気味だ。
ところで、プレイブックってなんだろう? スクラムをプレイするための心構えや方法が書いてあるのだけど。シナリオっぽくもあるし、辞書をひくと脚本、計画、戦略と書いてあるから、読んで掴んだイメージ通りのものらしい。追記:アメフトらしい。
であれば、実は、この実質30ページ弱の付録C『エンタープライズアジリティを獲得するためのプレイブック』だけ読んで済ませても良いように思う。
そうではなく、まず説得されて納得したければ、本文を読めば良い。
すると、Software in 30 Daysというのは、30日で開発するのではなく、適切な区切りで(全然別の言い方をすれば)PDCAを回すと、ソフトウェアだと最大でも4週間程度が区切りとして良いという意味だということがわかる。
根拠はわからないが、30日のコストに対して2週間だと1.5倍のコストがかかり、1週間だと3倍にコストが膨らみ、30日を超えると情報が処理しきれなくなったりだれてしまうから問題外ということらしい。
根拠はわからないと書いたが、最初のほうでソフトウェア開発では経験主義が正しいとしているので、経験的にそうなるということだろう。
というわけで、本文はスクラムの概要を盛り込みながら、なぜ経験主義が正しく、そして経験に基づけばスクラムがソフトウェア開発には最適であるということが説明され、付録で用語を示し、ガイドでルールを覚え、プレイブックを参照してプランするという構成となっている。
妙に簡潔にまとまっていること、内容がこなれていることから、アジャイル15年の歴史で、ここまで洗練されたのだな、と考える。
というわけで、チームの進め方がまだアジャイルになっていなければ、とりあえずスクラム、手元にこの本、でやってみるのが良いのだろう。
Software in 30 Days スクラムによるアジャイルな組織変革"成功"ガイド(Ken Schwaber)
判型は技術書の定番のサイズより一回り小ぶりで、ページ数と価格も手ごろなので、読みやすい。
イメージフォーラムでベルトルッチの分身。とりあえずメモ。
ザ・ネクスト・デイ デラックス・エディション(完全生産限定盤)(デヴィッド・ボウイ)
まあ、買ってしまうことになるけど、ジャケットのセンスは最悪だよな(鋤田氏に金払いたくないとかそういう話だとまでは思わないけど、スティーブレイボーンへの金払いが悪くてツアーから逃げられたというような話を思い出したりもしないでもない)。
それにしても、『スパコンで力任せに数独の難しい問題を作る』の追記には含蓄がある。
ただ、せっかくの含蓄あるお言葉なのに、エントリーの末尾ではなく最初に置いてあるので、ちょっとがっかり感もある。
二流小説家はとてもおもしろいメタ小説なのだが、読んでいて、どうも既視感にとらわれてしょうがなかった。
題名から想起されるイメージはバラードなのだが、まったく違う。
(どうでも良いがこのての小栗虫太郎リスペクトな名前はなんなんだろう? いろいろなバリエーションを見かけるが実は同一人物なのかなぁ)
既視感があるのは、人体をばらばらに分解して再構成してオーナメントを構築するところの描写方法にある。レクター博士ではないし、もしかするとステロタイプなだけなのかも知れないけど、おれは粘液と血液がしたたるような気持ち悪いのは嫌いだから積極的にはそういう作品って読まないだけに不思議だ(つまり記憶にない)。
が、唐突に読んでいるさなかに頭の中でBGMが鳴り響いた。2人目の犠牲者がベッドの上に飾ってあるところかな? (ちょっと記憶はあいまいだ)
退屈なディストーションサウンドで、それに比べればルーリードのメタルマシーンミュージックのほうが一億倍魅力的だ。スロッピングリッスルかなぁ? でもそれにしては機材がリッチな音なのが不思議だ。
で、メロディーラインがほとんどないので特定するための手がかりがなくて、どうにも気持ちが悪かったのだが、何度か頭の中で再生しているうちにボーカルパート(というか語りだが)が入ってきて、ちょっとしゃがれた声でボウイの最もおれの好みではないアウトサイドだと気づいた。
確かに、アウトサイドの中には、美術館の入り口に死体を分解して再構成した美術品を展示するというような詩があった。
趣味の悪い作品だったうえに、音楽もつまらないから、まったく忘れていたのだった。
が、記憶の引き出しというのはおもしろいなぁと思った。
というのを、ネクストデイを見て思い出した。
先月末から、やたらと継続買いしているマンガの新刊が出てきて、どうしてこうも時期が固まるのか不思議だ。
まず、へうげものを先月末に見つけてから、すぐに
軍鶏だ。新展開でどうも元の原作者の物語の影響を脱したらしく、軽口たたきながら、良い感じ。
で、さらに気づくと
大正ガールズ エクスプレス(5) (KC KISS)(日下 直子)
大正ガールズエクスプレスが出ていて、吹き出しの形状や引き込み線といったマンガ技法の発見をしつつ、ついに卒業を目前に社会とどう折り合いをつけるかに話が移り(そこで大正の同人誌ブームが重なるのだが、この仮想的な大正史の中で電子出版まで話が進められたらすごいけど、さすがにそれは無理だろうな)、
一体、どう話をつけるつもりか、手作りの冊子に込めた思いとデジタル化可能なテキストが干渉しあったりしているうちに、堂々たる物語の真打が2つも待ち構えていた。
さらに、別の味わいの楽しみも待っている。
と、突然の出版ラッシュなのだった。
(追記:で、もやしもんが4月の頭か)
もやしもん(12)限定版 (プレミアムKC イブニング)(石川 雅之)
(何がつくんだろう?)
久々に技術ネタとエモネタのバランスが取れた良い会議だった。
イギリスでの労働ビザの話とか興味深い話題を盛り込んだ海外在留邦人のRubyライフを語る@makoto_inoueに始まり、@mrknの1.8から1.9への移行話の、ブロック変数にインスタンス変数を指定するやつとか、モンキーパッチをバージョン別に保持して初期化時に当てまくるやつでぐぐっと引っ張って、@nari3の根源的衝動の探求話で締める構成も見事だ。(asakusa.rb ninjaの構成がバランスしているのかも)
@takeshinodaのタクシーの呼び出しシステムの話は松江のトークが良かったとかで@kakutani肝入りの招待講演だったらしいけど、本質的な点を突いていて、なるほどこれは肝も入るなという講演。
少し考えれば、というよりも考えなくてもプログラムを作ればすぐわかるが、プログラムにバグがあるのは当たり前のことだ。ところが、なぜかそんな当たり前のことが理解できないプログラマが確かにいる。見かける。
WIN32サブシステムだろうがVBVMだろうがJDKだろうがLIBCだろうがLinux Kernelだろうがプログラムだ。したがって、これらにはバグがある。ところが、なぜかそれが見えなくなってしまうらしい。
そういう不思議な状態の人たちが、Ruby on Railsでアプリケーションを構築していくうちに、その当たり前のことに気付くようになり、当然のように直すようになるというのが要点だった。(オープンだからソースを直せるというのも重要なのだが、仮にクローズでソースが見られなくても回避するために頭を使うことはできるのだから、その切り替えができるようになったという点が要点だろう)
これに@kakutaniが反応したというのが興味深い。お客様-システム提供者の壁という構図は、プログラマとライブラリ(OS、ミドルウェア)の壁という構図と同一だからだ。すると両側に壁を作っている人たちというのが本当の構図なのだなぁ。で、@kakutaniは壁を壊す人だから、なるほど反応したのも当然だなぁと理解した。そこまで(両側の壁が目に入るまで)引いて考えたことはなかった。
@nari3の講演は印象的。まず、観たことある人? に対して、やたらと挙手が少ない(というか、おれも知らない)。ところが、(後で聞いたらもっと多いと思っていたらしいので、その想定で作ったらしいけど)ストーリーを換骨奪胎して位相をずらしたパロディ版のスライドに説得力があるので、観ていなくても問題なく何が論点かわかるように作られていた。
(@kakutaniも絶賛していたので映画らしい映画らしい)(今気づいたが「らしい」は確実性(前者)と憶測(後者)の相反する意味の2つの異なる言葉なのだな)
#この会議の基調には、GC.disableがつきまとっているらしい。1.8、1.9、2.0のベンチマーク(@mrkn)は@_ko1の推測と異なりGCの速度向上はまったく関係ない(GC.disableしている区間の計測)に始まって、GC.diableして動かすPerfumeで終わった(MP吸い取られる踊りの奇妙な動きの秘密を後で@nari3に教えてもらえたが、当然話の流れからGCによって引きつるのかと思ったら、まったく関係ない=GC.disableしている、とのことだった)。で、それが基調にあるだけに、JKがキャッキャッしながら、GC.disable、GC.disable_lazy_sweepと放言するのにうけまくる。
あと、おもしろかったのは、全体的にアジャイルが否定すべき古臭いもの(とまでは言わないものの、フローチャート(笑)くらいのイメージに近づきつつあるような)扱われ方で、なるほどアジャイル宣言から12年(日本の数え方で1回り)たったんだなぁということとか。
あと、懇親会の会場が、庶民のための迎賓館というかベルサイユというか、シャンデリア、長い会食用机、亀の甲羅とばっちり揃った会場で、最初、会議場からやたらと歩かされて何考えてんだとネガティブだったのが吹っ飛ぶおもしろさ。これは良い。
と、実に良い日を過ごせた。みなさんお疲れ様でした。
追記:@ogijunからシェフの話の解説を聞けた。なるほど、おもしろいと思った。
1行の複数のデータを縦1列の複数行に設定。
a = [1,2,3,4,5] sheet.Range(sheet.Cells(row, 1), sheet.Cells(row + 4, 1)).Value = a.zip
複数行の複数のデータの行列をひっくり返して設定。
a = [[1,2,3,4,5], [10,20,30,40,50]] sheet.Range(sheet.Cells(row, 1), sheet.Cells(row + 4, 2)).Value = a.transpose
新規のシート
a = WIN32OLE.new('excel.application') newbook = a.WorkBooks.Add sheet = newbook.WorkSheets.Itm(1) sheet.Name = 'Tab Name'
irb(main):001:0> puts <<xx + <<yy irb(main):002:0" abcdefg irb(main):003:0" xx irb(main):004:0" hello irb(main):005:0" world irb(main):006:0" !! irb(main):007:0" yy abcdefg hello world !! => nil
irb(main):008:0> def a(n); puts <<yy; end irb(main):009:1" hello #{n} !! irb(main):010:1" bye !! irb(main):011:1" yy => nil irb(main):012:0> a(:world) hello world !! bye !! => nil
先日、よく昼飯を食う小料理屋で味噌汁を呑んで、おやと思った。
何か白くて平たくて、適度に歯ごたえがあって、妙においしいものが具になっていたからだ。
はて、これ昔は良く食った覚えがあるような、ないような、少なくともここ10年以上食ったことないような。
で、考えているうちに、かんぴょうという言葉が出てきた。
でも、記憶のかんぴょうは、茶色くて海苔巻に入っていた。だがさらに思い出すと、スーパーとかで白い紐状で売っているパッケージを見た覚えが出てきた。
(今でも現役の食材らしい。味噌汁の具としては長ネギ、油揚げ、なめこに次ぐうまさ。)
そういえば、子供のころ、つまり1960年代には、寿司というのは、
・かんぴょうの海苔巻
・鉄火巻き(少し)
・かっぱ巻き
・こはだ(酢締め)
・青柳
・まぐろの赤味
・たこ(ゆでたやつ)
・えび(ゆでたやつ)
・卵焼き
が普通だった。
今は相当違うはずで、こはだ、青柳はなく(うまいんだけど)、たこもえびも生で、まぐろはトロだったりする。何よりもかんぴょうが無い。なんでかんぴょうはなくなったのかなぁ。たぶん、もっとうまいものを入れられるようになったからだろうなぁ(あるいはもっとうまくはなくても、コストがかからないものを入れられるようになったからかも)
と考えているうちに、つくづくと、東名高速の開通によって(1968年以降漸次)トラックによる運輸革命が起きたこと(によって、静岡から新鮮な魚が大量に入るようになり、酢でしめたり、茹でたりしなくても、生の魚が食えるようになった)、一方、公害と埋め立てによって東京湾の三浦半島より東京寄りが死滅したこと(青柳なんて普通に浦安あたりで採れていたはずが、そもそも浜辺がなくなってしまった。で、思い出したが小学低学年の夏の遠足は船橋に潮干狩りだった。全員、浅利を山盛りにとってきたのだが、N君というやつだけがなぜかハマグリを掘り当ててえらくうらやましかった)によって、食い物が変わったなぁと感慨にふける。
そういえば、以前トロをうめぇなぁとか気分よく食ってたら、妻が、「けっ、粋じゃねぇおやじだな。江戸っ子はトロとか畑の肥やしにしてたんだぜ」とかくだらないことを言ってくさしてきたことがあった。
ふむ、とちょっと考えてみて、それがばかげた言いぐさだということにすぐに気づいた。
まず、江戸時代だといっても、マグロは江戸前では採れない。お江戸に一番近いあたりでも、銚子あたりの外房になるはずだ。
であれば、銚子からお江戸に運んでくるあいだに、トロのように油の多い部位は間違いなく腐る(冷凍技術もなければ、冷蔵技術もなく、物流の主役は船か荷車(人力)で、外房からお江戸には速くても半日以上かかる)。そりゃ、粋もへったくれもなく、肥料にしかなるはずがない。
っていうか、ああいうでっかな魚を江戸まで運ぶとしたら、せいぜい赤味の醤油漬けが良いところだろう。
もし、江戸っ子がトロを食わないという記録があったとしたら、それは粋がどうしたとかいう問題ではなく、食い物として流通できなかったからだ。トロを肥料にしたという記録が仮に存在したとして、まったく当時の技術水準を想像できない愚かものが、テレビか何かで知ったかこいたのを、お前さんは額面通り受け取っただけだろ、くだらん、と返したが、そういえばサバの生きぐされというのも過去の言葉になったなぁ。
だいたい、ウナギのかば焼きをもりもり食って、サンマの油がのりまくっているのを食えない殿様をネタに目黒のサンマなんていう話を作り出す江戸の人たちがトロのうまさを理解できないはずがありえない。やつらに、食わせてやりたかったぜ。
かんぴょうって、おれの知識では夕顔か何かのつるなのだが、どうも完璧に間違っているようだ。
アマゾンでかんぴょうを検索したら、削り器が出てきた。
遠藤商事 皮むき器 かんぴょう鉋(カンナ) BKV7901(-)
最初からつる状だったら、削り器があるはずがない。ということは、へちまみたいなものなのかな? まったくわからん。
(で、さらに検索する)
びっくりした。ヒョウタンの一種なのか!
……夕顔まではあっていて、それがつる草なのもあっているが、その時点で=つるを食うと短絡してしまったようだ(きっと、夏休みの朝顔観察でつるが伸びるのを見ていて、夕顔が朝顔みたいな植物だということを知っていたので納得してしまったのだろう)。びっくりだよ。
イルトロヴァトーレが好きで、ホセクーラとホヴォロフストスキーのやつを良く見るのだが、それにしても、ひどい話だ。
ヴェルディ:歌劇《イル・トロヴァトーレ》英国ロイヤル・オペラ2002 [DVD](カルロ・リッツィ指揮)
特に3幕の最後、ルーナ伯爵に誘拐された母親を救出に行こうと、マンリーコが「見よ、恐ろしい炎を」を高らかに歌い上げ、反乱軍が一斉に立ち上がる実にかっこいいシーンで幕が下りる。
そして4幕が開くと、薄暗い場所でなぜかレオノーラと反乱軍の将校(まあ山賊みたいなものだから、マンリーコが関羽なら周倉というところ)がうろうろしている。ん? と見ていると周倉が歌い始める。ここは地下牢、俺たちは囚われの身となったマンリーコを助けるためにここに来たのだ。それ、説明じゃんというか、あのさっきの勇ましい「見よ、恐ろしい炎を」は一体なんだったのか?
1幕もそうで、ルーナ伯爵とマンリーコがえらくかっこいいチャンバラしながら歌いまくるのだが、次の幕ではマンリーコは瀕死の重傷で死にかけている。勇ましく幕を引いては幕間にボロカスにのされてしまうのだった。
2001-2012総集編をゲットした(寄稿していて再録されたから受領したわけなので献本というのとは違う気がするけど、語義としてはこういうのも献本なのかな?)。
で、紙の部分には何が載っているのかなと読むと、Linuxの歴史やディストロ紹介で、おおなんか昔っぽい特集で懐かしい雰囲気と読み始めたのは良いが疑問も湧いてくる。
Software Design 総集編 【2001~2012】(SoftwareDesign 編集部)
P.55「UNIXのカーネルは……さまざまな機能を1つに詰め込んだ複雑なソフトウェアです。そのためバグも忍び込みやすく、一部の機能に問題がおきただけでも全体が止まってしまいます。」という問題への解決策としてマイクロカーネル(手元のMINIXオペレーティングシステムではこの用語は出ていないのが興味深いけど、OSタイプ4(クライアント/サーバー)として(MINIXがそうなので)当然記述はされている)が示されている。
P.56「彼はもっともシンプルな設計で80386CPU用のUNIX互換カーネルであるLinuxを開発したのです」
あれ、複雑なんじゃないの? とここで気づく。
P.58「マイクロカーネルはモノリシックカーネルに比べて複雑で、(Hurdの)開発作業はなかなか進まず、あとから開発が始まったLinuxに先を越されてしまいました」
はて、最初の前提はどこへ行ったのか?
回答に近いものはP.55にあって、マイクロカーネルは「移植性や信頼性」に優れているから、ということになる。既に指摘されているように、「複雑さ」はポンチ画上はマイクロカーネルのほうが低く、実装上はマイクロカーネルのほうが高い。
そこから、初期実装の複雑度と(移植性、信頼性、保守性(を追加する))の複雑度は反比例するのではないか(直交ではないと感じる)という考えが浮かび、そしてその考えはおれの経験上では正しい。
というわけで、使い捨てプログラム(実装効率が高いほうが良い)と長期稼働プログラム(信頼性と保守性が高いほうが良い)は、まったく異なる、むしろ正反対の実装方法が必要ということになる。
どちらか片方しか知らないと偏った考えになるのもむべなるかな。
ゼッフィレッリの演出。
アイーダのラトニアムーアという歌手(代役らしい)が、素晴らしい。1人で歌っているときはそれほどどうってことはないと思ったのだが、1幕の3重唱(ラダメスと王女と一緒のやつ)で、とにかく声が浮かび上がって来る。こういうのは不思議なのだが、倍音を豊かに含んでいるということなのじゃないかな。で、あっという間に好きになる。
席が3階の右(ただし高さ的には2階相当)で、オーケストラの音が直接入って来るので、ラダメスも王女も金管や場合によっては弦に負けることがあるのだが、そういうのがまったくない。したがって、とても美しい。
(それに対して、バスが弱い。ここまで弱かったかなぁ? と思うくらいに弱い)
2幕の凱旋行進はやはり圧倒的で、いくら払ったのかは知らないが、ゼッフィレッリを起用した甲斐は正しくあったと思う。ラダメスがなかなか馬から降りられなくてはらはらさせる。黒い人たちのバレエも楽しめた。
2幕の最初、子供ばばらばら入ってきてわいわい騒いで(新国立劇場のアイーダは2度目なのだがここは覚えてなかった)それまでと思ったら、見事に揃った踊りが入って、子供侮りがたしと感心する。
ただ、作品として3幕のうっとおしさはやはりうっとおしい。そんなに大した作品ではないよなぁ。
ただ、物語の破綻のなさやケリのきれいな付け方(いきなり爺さんがおいでおいでしたり、母親が勝利宣言したりするのとは違う)から、代表作とされるのはわかる。
4幕最初の王女のモノローグは、リゴレットの2幕最初のマントヴァ公のモノローグに通じた設計なのだなと気づく。そしてどちらも同じく外圧に流される(いや、王女は流されずに抵抗するのでちょっと違うか)。
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_ ムムリク [こんなものが出ていたのですね!スナフキンとミイは欲しいような。]
_ arton [ムムリクさんだけに気になるところですねぇ。]