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というわけで(昨日の続き)、DDJJ 1996年10月号の『非同期設計パターン』だが、.NET Frameworkではそれらしきものが採用されているものの、そんなに広く使われているわけでもなさそうだ。
IOUパターンは、非同期IOを同期IOモデルのように、オブジェクトの利用者に見せかけるためのパターンで、非同期IOの結果をまるで同期IOのように、呼び出し側に返す。しかし、同期IOではなく、すぐに返す。
そのため、呼び出し側はお話にならないエラーはすぐに検出できる(これは同期IOでも同様。たとえばクローズ済みIOに対してメソッドを呼んだ場合)。
そうではない、たぶん、実行されるであろうIOについても、すぐに戻る。ただし、結果として返されるオブジェクトは、同期IOの場合と異なり、IOUオブジェクトだ。このオブジェクトは、筆者のAllan Vermeulenによって以下のように定義されている。訳は上林靖氏。
IOUとは、サプライヤ(呼び出された関数)からのアグリーメントであり、約束したオブジェクトを提供することによって最終的に閉じられる。いったんIOUが閉じられてしまえば、サプライヤが提供したオブジェクトでIOUを償還すればよいのである。それまでの間プログラムコードは、他の有用な作業を続けることができるのだ。
IOUの概念は、2つの理由により有効である。まず単純であること。IOUをリターンする関数の呼び出しは、そうでない関数の呼びだしと全く同じに書くことができる。第2にIOUは、サプライヤが使用する非同期機構(もしあればだが)から完全に独立していることである。
2番目の有効性については、IAsyncResultがまあ証明していると言える。
以下に、Rubyで実装したIOUの例を示す。ここではIOUはHTTP 1.1の送信と受信をカプセル化する。チャンクの処理はいい加減だがやっつけ仕事の意味のハックなのでしょうがない。
#!/usr/local/bin/ruby -Ku # coding: utf-8 require 'socket' class AsyncSocket < TCPSocket class IOU def initialize(socket, queue, data = nil) @socket = socket @queue = queue @trns = data @complete = nil @callback = nil queue << self do_io end ## # true if this IOU was closed # def close? @complete ? true : false end ## # wait until redeem is ready (IOU was closed) # def stand_by Thread.pass until @complete end ## # return the data or waiting it # def redeem stand_by @complete end ## # register user method called after closing this IOU # def add_callback(&f) p "add_callback(#{f})" if $DEBUG if @complete f.call(@complete) else @callback = f end end def inspect "#<IOU:#{hash}, @complete=#{@complete}, @callback=#{@callback}>" end protected def do_io return unless @queue.empty? || @queue[0] == self Thread.start do p "start thread by #{self}" if $DEBUG begin if @trns @complete = @socket.write(@trns) else r = '' begin r << @socket.read(1) end until r[-4..-1] == "\r\n\r\n" m = r.match(/^content-length\s*:\s*(\d+)\s*$/i) if m r << @socket.read(m[1].strip.to_i) else r << read_chunk end @complete = r end rescue @complete = $! end @queue.shift if @queue.length > 0 @queue[0].do_io end @callback.call(@complete) if @callback p "exit thread by #{self}, current queue = #{@queue}" if $DEBUG end end def read_chunk r = '' loop do sz = '' begin sz << @socket.read(1) end until sz[-2..-1] == "\r\n" p "chunk #{sz}" if $DEBUG r << sz len = sz[0..-3].to_i(16) break if len == 0 r << @socket.read(len) begin r << @socket.read(1) end until r[-2..-1] == "\r\n" end r end end def initialize(host, service) super(host, service) @queue = [] end def async_read IOU.new(self, @queue) end def async_write(s) IOU.new(self, @queue, s) end end if $0 == __FILE__ sock = AsyncSocket.new("www.google.com", 80) ious = [] ['iou', 'java', 'async'].each do |word| puts "search #{word}" iou = sock.async_write("GET /search?q=#{word} HTTP/1.1\r\nHost: www.google.com\r\n\r\n") iou.add_callback do |result| puts "wrote #{result} bytes" end ious << iou iou = sock.async_read iou.add_callback do |result| printf "%.80s\n", result end ious << iou end =begin すべてのIOUの完了を待つ場合 loop do break if ious.map {|iou| iou.close? }.uniq == [true] Thread.pass end =end 最後のIOUの完了を待つ。この例では設定したasync_callbackも実行される printf "%.80s\n", ious.last.redeem sock.shutdown end
ここでは、見掛け上は同時に複数のクェリーをGoogleに対して実行する。ただし、実際には1つのコネクションを利用して、一問一答形式で行われる。
実行例を示す。
C:\home\test>ruby ..\doc\books\rbasic\samples\3\iou.rb search iou search java search async wrote 52 bytes HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private, max-age=0 Date: Sat, 28 Feb 2009 15:41 wrote 53 bytes HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private, max-age=0 Date: Sat, 28 Feb 2009 15: wrote 54 bytes HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private, max-age=0 Date: Sat, 28 Feb 2009 15: HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private, max-age=0 Date: Sat, 28 Feb 2009 15:
4回結果を表示しているのは、最後のIOUに対してredeemメソッドの呼び出しとasync_callbackの呼び出しが行われているからだ。通常はどちらか一方を利用することになる。
このプログラムは1.8.7、1.9.1の両方で実行できるが、1.9.1では標準出力をスレッド間でシェアしているためか、改行が他のスレッドの出力に食われて正しく処理されなかったりするようだが、そういうものなのだろう。
ここで示したIOUの実装例では、実際のIOはスレッドを利用して同期的に行っている。しかし、仮に非同期IOを利用するように変えたとしても、それは呼びだし側にとってはIOUによって隠されているため、呼び出し側のコードには影響しない。
さて、これでこのDDJJを捨てられる。(他にはそれほど興味深い記事はなくもないけど、まあないとする)
m対nとか(と書いた先からお門違いな間違いをしているような気がしてきたが)お話の上でのスレッドは知っているが、実際のところpthreadを使ったプログラムを書いたことはない。Win32スレッドならいやというほど書いたが。
しかし、pthreadを使ったプログラムをもしかしたら書く必要がありそうだ。
ここは一発、何か本を買って読んどくかなぁとアマゾンを探す。
Pthreadsプログラミング(Bradford Nichols)
というのがすぐに見つかるが、なぜ芋虫なのかと考えてから、ああ、蚕か、そりゃ絹だ、と。
で、この商品を買った人はの中に、
マルチスレッドプログラミング入門 (サンソフトプレスシリーズ)(ルイス,ビル)
というのがあって、こっちのほうが良いかなと一瞬思ったが、POSIXはPOSIXだろうし、しかし、構造云々とか書いてあるのを読むと、上で聞きかじったm対nとかの過去の捨てられた話が延々と書いてある可能性もあり、それはあまり嬉しくもなく、結局どうしようかと、とりあえずthread_pthread.cを眺めて、thread_win32.cのnative_thead_createとのコード量の差にうんざりしてしまった。
うんざりはしたが、thread_win32.cとthread_pthread.cを見比べれば、どうにでもなりそうな気がしてきた。っていうか、POSIXだろうがWin32だろうがスレッドはスレッドで、APIが違うだけだろう(意味がまったく異なるってこた、たとえば.NETの属性とRubyの属性みたく、は、ないだろう)から、この2つを見比べればどうにかなるだろう。
で、結局、買うのは見送り。
土曜には(もう一昨日のことだ)、文化村という名の村に、バレエが来るというので、観に行った。
熊川哲也のカンパニーのピーターラビットがお目当てである。作ったのはアシュトンで、アシュトンは真夏の夜の夢があまりにおもしろすぎるので、僕は好きだ。
それと、もう1つ、熊川哲也が自ら放蕩息子になって飛ぶというので、それも楽しみではあった。
楽しみではあったが、不安もある。プロコフィエフだ。もう、頭の中で弦楽四重奏でチャンチャーカチャラララチャラララチャラララフーギョフーギョピーポーと、ピーターの主題とか(しかも、必ずドニラバンの顔が浮かぶ)、ブッフォーッフォフォーフォフォフォフォフォとかファゴットのお爺さんとか鳴り響くのは条件反射でしょうがないのだが、この人の作品には感心した試しがない。モーツァルトのような天才タイプの人なんだろうなぁとは思うが、逆にいえば、そのくらい好きではないということだ。
プロコフィエフ:交響曲第5番&ピーターと狼(オーマンディ(ユージン),フィラデルフィア管弦楽団)
(昔から気になっているが聴いたことはない。オーマンディは色彩表現が良いからきっと良いだろうし、ボウイが語っているんだからそれはおもしろい可能性が高いわけだ。というか、おれが子供のころ聴いていたのは誰のバージョンなんだろうか)
案の定だ。寝ちまった。最初の出発まではいいんだけど。
知らずに、なんかルオーみたいだなぁとか観ていて、あとでプログラムを読んで、本当にルオーが舞台美術を一晩ででっちあげたと知るのだが、これは悪くない。なんか真ん中がそびえたつ背景。
水色の服を着て、放蕩息子がぴょんぴょんとび跳ねる。
で、友人たちが待つところへ行くと、9人の壁から手が伸びて、さらに誘惑者が出て来て、放蕩息子が意識をなくすころに、おれの意識もなくなって、気づくと身ぐるみはがされて這いながら帰路に着くところだった。
最後、親父の歓迎のところの音楽は、それは美しい。プロコフィエフの才能はまぎれもない。
プロコフィエフ:交響曲第4番(改訂版)/バレエ音楽「放蕩息子」(クチャル)
好きではないので、戦争ソナタ(グールドのスクリアビンの3番の裏に入っている)と、チャンチャンチャララのピアノ協奏曲とピーターしか聴いたことはないので(追記:良く考えたらイワン雷帝のチャンチャチャチャカチャカチャー・チャチャチャチャチャチャチャチャチャーは大好きなので、これを一番なんども聴いているのだった)、耳学問で知っているだけの、良く聴く言説、パリで調子に乗って鋼鉄の音楽とか作ったころは、ただのバカだが、ロシアに帰還してから素晴らしいというのを、おれも素直に納得してしまった。放蕩息子が帰還したころプロコフィエフもソ連に帰るつもりになってたそうだし。
鋼鉄の音楽か。
無限大の幻覚~メタル・マシーン・ミュージック(紙ジャケット仕様)(ルー・リード)
(実は、わりと好きだったり。灰野敬二とかも)
で、気を取り直してピーターラビットだ。
ピーターラビットの絵本 全24巻 贈り物セット(ビアトリクス・ポター)
薄い幕の向こうにセメントっぽい階段(とわかるのは右手に買い物籠が置いてあるからだ)の最下段にネズミの夫婦(名前は忘れた)が腰かけているところから始まる。
もう、その瞬間から、心が高揚する。こうじゃなくちゃな。
はりねずみおばさんは、ハンカチを忘れる子がいないから(人間は登場しない)単にそこらじゅうで洗濯物を集めるだけだったりするし、あひるおばさんとキツネのエピソードでは犬は鳴き声だけだけど、ネズミの夫婦が人形の家で大暴れするところで、ロウ細工の料理と格闘するところはマンクスのドンキホーテの最初のサンチョパンサの追っかけっこの音楽で(アシュトンが選んだんだろうが、うまい)、その後2階で布団を盗んで階段をすべり降りたり、で、シルエットで猫が大写しになって、ナトキンはフクロウのばかでっかな張りぼてに追っかけられて左に引っ込み、しっぽが舞台に飛んで来て、フィッシャーどんは見えないでっかな魚と格闘した末に右手の奥にぽちゃんと飛び込み(水しぶきの表現がきれいだった)、ピーターは何しろ人間が出てこないと大して役に立たないので単にキャベツを拾ってうろうろするだけだが、(踊りを踊りまくるのはフィッシャーどんと、アヒル奥さんと、ピグリンと名前忘れたけど閉じ込められていたメスブタと、ナトキン)、というか、ピグリンのお母さんのばかでっかな顔のかぶりものが見事な造形で、これだけ楽しいバレエってのは、なかなかお目にはかかれないんじゃなかろうか。というか、ダンサーは大変だろうな。
これはもう着ぐるみの饗宴。饗宴も饗宴、アルカンのイソップの饗宴なんか目じゃないくらいの大饗宴。
実に楽しかった。また観たいもんだ。
ピーターラビットと仲間たち【ユニバーサル・セレクション1500円キャンペーン/2009年第4弾:初回生産限定】 [DVD](ブレンダ・ラスト)
イギリス人が愉快なのは、この天下にまぎれもない、ばかみたいに読まれている子供向けの絵本が、情けも容赦もなく、現実的だということから、想像できる。
たとえば、ピーターラビットには父親は、いない。いとこのベンジャミンにはいるんだけどな。ベンジャミンの父親は孫をどっさり連れて、マクレガーさんの家のゴミ捨て場にキャベツをあさりに行って、昼寝してしまう。で、子供たちはシチューにされそうになる。
で、ベンジャミンと奥さんが助けに来るんだけど、子供が多すぎて全員助かったかどうか、確認できない。
ではピーターのおやじはというと、とっくの昔に、マクレガーさんにシチューにされて食われたという設定で、「終わり良ければすべてよし」というのが口癖だっということだけが、繰り返し繰り返し語られる。
ピグリン(豚だ)の家では子供が増え過ぎて生活に困る。
ピグリンのお母さんは、ピグリンと弟に伝える。
「明日から市場に雇われに行くんだよ」
かくしてピグリンは、市場に就職するつもりになって、出かける。でも、普通に読めば、それが食肉市場に、豚肉として雇われる運命なのは明らかだ。
「本当は、ぼくは、市場には行きたくはないんだ」
とか泣きごとをたれるが、しょせんブタだから、食われるとは思っていないようだがな。
でも、鶏小屋へ行くと鶏たちが、「ソーセージ!」とか叫んだり。
とにかく、情け容赦なく、登場人物たちが、ただの食いものだということを、これでもか、これでもか、と書きまくる。
ちゅーちゅー奥さんの家にハチが巣をつくってやっかいなことになる。奥さんは追い出そうと頑張るけど失敗する。そこに勝手にカエルのおっさん(フィッシャーどんとは違う人)がやってきて、はちみつを探してうろうろする。
そこにちゅーちゅー奥さんが帰って来て、怒る。
そこにハチがやってくる。
いただきまーす、とカエルは舌を延ばしてハチを食べる。ヤメテーとちゅーちゅー奥さんは失神しそうになる(何しろ、さっきまで、人として、「お願いだから家から出て行ってちょうだい」と交渉していたわけで、奥さんにとって、ハチは食べ物ではなく、同類だ)。
おれは、これは正しい子供の本だと思うんだ。
実際、世界中で(日本でも)子供の本として受け入れまくられてんだし。
食う、食われるってのは、やはりきちんと押さえておきたい、子供のための初等概念だ。
というわけで、かちかち山だって、タヌキを食おうとしたら、逆襲されておばあさんが食われたっていいと思うんだけどね。
買ったまま放置していて10年以上たって、なにやら茶渋色にくすぶってた長谷川伸の股旅新八景を読み始めた。おいら、めっぽう、このてのはなしは好きなのだ。
(持ってるのは、大衆文学館のやつだけど)
で、電車の中で科白のすべて、描写のすべてを堪能しつつ最初の八丁浜太郎を読み、幸福感に包まれる。
「待った半塚の妙太さん」
「さんだと。さんづけに呼ばれるような貫禄不足じゃねえ」
「どうでもいいやな、そんなことは枝葉だろう。おいらが言おうというのは妙太さん」
「部長とつけやがれッ」
というを耳にもいれず、風に波立つ麦の穂をへだてにして、浜太郎は長脇差の鯉口をプッツリと切った。
「正賽勝負は運を賭けるが、仕様は手品仕かけで底がある。欲と娯み両股かけた盆の上の勝負でも、変更は渡世で忌みものだ。おいらは吹けばとぶような旅渡りの三下奴だが、酔ッぺえ沢庵と間男と、仕様変更のお働きは大嫌えだ」
「そういうてめえが、下手のバグをつかやがって、たったひとテストで見破られたろうが」
「いかにもバグった、おまけに拙い」
「そうれみろ、他人のことがいえるか野郎ッ」
なんで、こういう美しい日本語が失われてしまったのかなぁ。残念無念の川ッぷち。
こういう型が欲しいな。DBにもプログラミング言語(のライブラリでいいけど)。……ライブラリなら作ればいいか。となると、DBにだな。
どういう型か。こういう型だ。
BusinessDateTime bdt = new BusinessDateTime(); // -> 2009-2-1 00:01 bdt.round(); // -> 2009-1-31 24:01 System.out.println(bdt.toString()); // -> 2009-1-31 24:01 System.out.println(bdt.normalize()); // -> 2009-2-1 00:01 ps.setBusinessDateTime(2, bdt); // -> 2009-1-31 24:01 ... ps.executeUpdate(); // -> DBに入った。 ... ps.setTimestamp(2, new Timestamp("2009-2-1 00:00")); // というコンストラクタがあるとして ... ps.executeUpdate(); // -> DBに入った。 ... ps = conn.prepareStatement("select * from ... order by col2"); ... ResultSet rs = ps.executeQuery(); rs.next(); // 最初に2009-1-31 24:01 次が2009-2-1 00:00
これができないから、いつまでたっても、Date型とか使わずにcharやnumberな日付時刻カラムがなくならないんだよな。
ないものはしょうがないし、char型やnumber型の日付時刻なんていやなこった。日付計算できないじゃん。では、どうシステム的に解決するかだ。
昨日扱いフラグカラムをtrueってのは、number型日付時刻より、さらにいやだし。っていうか、ソートできないじゃん。
2009-2-1は、0:03から始まるようにして、2009-1-31 23:59は実際には3分間あるもとして扱えば、どうか? ソートの問題は多少出るが、その3分が1分の時間だけの問題で済むはずだ。日付計算はできる。
正確な時間がわからない。それは、Businessがつかない日付を別に用意しておけばいいかも。
というか、別に、2/1は0:04から始まると決めておけばいいだけかも。
結局、どうにも聴きたくなって、廉価版になっているので買ってしまったのが、オーマンディとボウイのピーターとオオカミだ。
プロコフィエフ:交響曲第5番&ピーターと狼(オーマンディ(ユージン),フィラデルフィア管弦楽団)
おれは英語の聞き取りはできないのだが、驚いたことに、ここでのボウイの語りは大体わかる。
あらためて聴いて(ドニラバンの口笛を除けば、ピーターと狼を聴くのは数十年ぶりってことになる)、ほとんど覚えていなくても思い出すのには驚いた。
たとえばピーターとおじいさんは覚えていたが、小鳥(would be played by the fluteと言っているのだと思うというか音はフルートだ)は忘れていたし、ダックのはオーボイみたいに聞こえるのでオーボエで、猫(by the clarinet……クラリネットがダックだと思っていた)も忘れていた。特に、狼や狩人は存在自体忘れていたというか、狼がいないはずはありえないのに。
で、狼の音があまりにきれいなのでちょっと驚いた。ワグナー風というか、ちょっと、映画のネバーエンディングストーリーを想起する。ピーターが小鳥と話すところではジークフリートを想起する。もちろんメロディは違うが。さらに登場人物が増えていくとソロがオーケストレーションになっていくし、さらにテンポの変化も生まれる。
……ちょっと、「おれは11:45のあたりが好きだ」みたいな音楽のような気もするが、逆手をとって、まさにそういう音楽にしたわけだ。こういうある意味、ばかみたいな音楽を、プロコフィエフがどういうつもりで書いたのかはわからないが、仮に適当に書いたのだとしても、すべての音が有機的にお話を構成していて、実に巧妙だ。というか、極端流ライトモティーフクラスターな音楽だな。
あらためて聴くと、ピーターと狼は、オーケストラの、というかロマン派音楽の語法というものに忠実な、とてもうまく組まれた音楽だということがわかる。これはいいなぁ。子供のころさんざん聴いたのが、知らないうちに血肉になっていたんだな。これが耳に組み込まれているということが、音楽を楽しむのにどれだけ役に立っていることか、初めて知った。で、こんなところで親に感謝してみた。
日本語圏では、どれが子供に良いのだろうか? とちょっと気になる。
画が100万回生きたクラリネットで、語りが幸せってなんだろう、音がメータ。とんでもないプレミア価格。でも、これは良さそうだ。
現役盤だと中山千夏しかないみたいだ。
ふーむ。
と思ったらアマゾンの書き方ではまったくわからないが、
は、小澤征爾が自分で語っているのであった。ということは、順当にはこっちだろうな。
2巡目の東京リングを観に新国立劇場。
今日はラインの黄金(今日はいっても、第1夜は来月だけど)。
今回はN響じゃなくて東京フィル(だと思う)。時々管が甘い感じなところがあるけど、気にならない。
左下のハリーポッターの就学前の部屋みたいなところから出てきたエルダがやたらとうまい。歌の部分ではここが一番の見所だと思った。
ファーゾルトがいい味だなと思ったら、1巡目でハーゲンをやった人だった。
ヴォータンは子供に言わせるとリチャードに似ている。
演出上の点で気づいたのは
脚本に最初から描かれている神様のくされっぷりを極度に強調した演出だと思うが(天上の人々の服装やニーベルングとの対比はシェローやレーンホフの系列という印象を受けた)この後、どうなるんだろうと期待を持たせる(1巡目は神々の黄昏しか観ていないのでわからないのであった)。字幕の強調点。
まちゅさんが書いたGLOBALの記事がおもしろかったので、試してみた。
(htags -aI の結果)
UbuntuのSynaptic経由で入手できるGlobalには、iconやcgiのおまけは入っていない(と思うのだが、少なくともコマンドと同期は取れていない)ので、アイコンは本家tarball(ftp.gnu.org/gnu/global)から/usr/share/gtags/iconsへインストール。
(2013/7/6)
こういう本も出ているようです。
ピーターラビットの本が欲しいと子供にねだられた。
まあ、スタンダードだから(10年遅い気もするが)いいかなぁと思いながら、いったい、日本語と英語どっちが欲しいんだ? と訊くと、両方とか答えやがる。
で、ふとUKアマゾンが安いと(もうずいぶん遅れたからそうでもないことになっているみたいだが)思い出したので、ちょっと探してみる。が、まずは、あわてず日本のアマゾンで見ておく。
The World of Peter Rabbit Gift Box 1-12(Potter, Beatrix)
$84が7354円か……というか、これは米ドルで書いてあるが、日本で買ったほうが送料かからない分、安いかも。
と思って良く見ると、ボックスが小さい。で下に、13巻以降のもあった。
こっちは、60ポンドで7890円だから、1ポンドあたり130円くらいで、これもむしろ安い。
では、これをアマゾンで買うかと思って、でもどうせなら2つに分かれていないのはないか、とか見ていくと、なんか丸いのが付いたのを見つけた。
World Of Peter Rabbit Luxury 1 To 23 Original Tales Plus 6 Cds(Potter, Beatrix)
173ポンドで22041円だから、これは1ポンド127円で、もっと安い。で、下の丸いのはなんなんだろう。CDみたいだが、よくわからないので、本当にUKのほうを見てみた。
The World of Peter Rabbit: Tales 1-23 (Hardcover)
と、おれの聞き取りコンプレックスを刺激する広告文が目に入る。
The complete and unabridged 23 tales are collected together on six CDs. Each story features the voice of a well-respected actor.
unabridgedというのは省略されていないという意味なのか(と辞書をひく)。well-respected actorって誰だ? とは思うし、UK発音だろうしなぁとか思いながら、こっちに惹かれる。22041円か……と、思いながら見てみると、174.7ポンドに線がひいてあって113.75ポンドとかになっている。未来のレートはわからないから、150まで円が下がったとしても17000円だから定価のアマゾンより安い。というか運賃はいくらなんだろう? と思ってもよくわからない。で、面倒になってUKアマゾンで注文してしまった。
で、Orderシートを読むと、Postage&Packingは7.98ポンドだった。1冊の2.99ポンドに、1配送の4.99ポンドを加えた値のようだが、本当に1冊分でいいのかえらい疑問だけど、まあ、知ったことではないので良しとしよう。
牧阿佐美のラフィーユマルギャルデを観に五反田。
主役のリーズはえらくかわいい人で、踊りもかわいい。ちょっとメリハリがとか、ピンとして欲しいなぁとかあるけど、いい感じ。軽そうで、実際にコーラに飛ばされながら右から左へ移動するとことか。とくにちょこちょこ動くとか、細かい動き。最初のいきなりのトコトコとか。妊娠して子供は2人じゃなくて3人で……とかのマイムとかも。
コーラ(スが付くとは思えないが、コーラスと書いてある)は、ウクライナあたりの人。もうれつに良く飛ぶ。昨日のローゲじゃないが、麦づとを跳ね飛ばして登場とか。テーブルの下に隠れようとして、引き出しの中に隠れようとしてつま先入れて、最後は暖炉に隠れようとして熱いとか。
ルイーズは強烈。木靴のダンスとか、えらく楽しい。バレエでタップダンスという感じなのか。
パラソル君もいい感じで楽しい。もっとも、ドンキホーテもそうだが、金持ちの求婚者がオツムが弱くて村の農民たちにさんざんにもてあそばれるというのは、見ていて気分が悪い。気分は悪いが、まあそういう記号なんだろう。でも、そのうちこういうのもポリティカルコレクトネス規制の対象になったりして、もっと気分が悪くなったり。
しかし、それにしても妙なバレエだ。えらく軽くて、中身からっぽで、テンポがやたら良くて、しかも楽しい。音楽はまったく残らない。しかも、雄鶏と雌鶏6羽の着ぐるみが最初に踊りまくる。脚の動きがこないだのピーターラビットのアヒル(ガチョウかも)おばさんみたいだ。
休憩時間にプログラムを観ると、アシュトンだった。そうか。おれは本当にアシュトンが好きなようだ。
しかし、mal gardee(右から2番目のウーにはアクセンテギュなのでmalにgarderされたという意味だ)で、しつけが行きとどいていない、とか、お転婆、みたいな意味だと思っていたら、プログラムには、箱入り娘とかしっかり監督されている、みたく書いてある。子供が持っているバレエ事典みたいなのには、監督不行き届きと書いてあるから、おれの解釈に近いが、どっちが正しいんだろうか。というか、一連の単語というよりは、最後の幕のエピソードをさして、娘をしっかり見張っていなかったというような感じかも。英語だとthe girl badly watchedだと思うが意味がわからない。
hfuさんのエントリー(RESTful 派は欧よりも米で勢力を得ている?日本ではどうか?)とそのリンク先がおもしろい。
印象としては、まだ決着が付いていない(というか、実はどっちでもいいんじゃないかとも思うけど。SOAPだからスケールしないということはないと思うんだけど、たとえば、SOAPのメソッドとしてPOST、PUT、DELETE、GETを実装した場合って、サーバ負荷にRESTとの顕著な差が出ることは、無いように思う)のかという感じではある。
ただ、RESTに比べてSOAPのほうが実装が面倒(あるいは手作りはできない)とは言えると思うけど。
(どうも重要な点を僕が見落としている、あるいは忘れている、または全然考慮していないという可能性はあるな、とリンク先の耐えられない軽さを読んで思ったがわからない)
同僚が作ったシートをお客さんに投げようとしたら、手直しが必要とわかった。
あるカラムにドロップダウンリストが仕込まれているのだが、要素の変更が必要だ。
で、30分経過後(エクセレントたちはいなかったのだ)、困ったときのイルカだ。
が、何やらむにゃむにゃ言ってるが、全く役に立たない。珍しいが、そのくらいふつうの機能なんだろうか。
で、さらに30分経過後、「データ」「入力規則」だとわかった。
オーマンディ・シリーズでショスタコーヴィッチの死者の歌を聴く。
ショスタコーヴィチ:交響曲第14番「死者の歌」 / ブリテン:「ピーター・グライムズ」〜4つの海の間奏曲、パッサカリア(オーマンディ(ユージン))
ブービー交響曲(なんていう言葉はないが、最後から2つ目。もっともアダージオは素晴らしいけどそれは別の話)に、変則的な歌曲を持ち込み、それが女声と男声、死を身も蓋もなく全面に出してしまった詩(生も暗く死も暗いとか、詩人は死んだとか)、最後の交響曲作家(の一人)と、どう考えてもマーラーを意識したとしか思えない作品。ただしテノールではなくバス、アルトではなくソプラノにしているところが違うね。この逆転は、特に男声で効いている。アポリネールのラサンテ監獄にてや、キュヘルベケルのおおデルヴィーク。
オーマンディは、ベストといえばレスピーギ、ストコフスキーほどではないけれど、大衆迎合な無能だけど堅実が取り柄の指揮者という評価(だったよ、少なくとも、僕がクラシックを聴き始めたころは)。でも、その一方で、こういう作品のアメリカ初演をしているということは、単なるお人よしの太っちょではない。まあ、斬新無比な解釈とかがあるわけではないが、安定した技術の上できちんとした音を作っているのだから、悪いわけではない。第一楽章の弱音は美しい。
ただ、この作品を単なる死にそうな病気になったショスタコーヴィッチの諦念がどうのというように捉えるのは、たぶん、異なる。
というのは、それが嘘か本当か、まるでアンネの日記のようなものだが、すでに証言があるからだ(読んでないけど)。
ショスタコーヴィチの証言 (中公文庫)(ソロモン ヴォルコフ)
証言がどういうものかは読まなくともわかる(というのは、証言にインスパイアされた柴田南雄の革命(第5交響曲)解題は熟読したからだ)。
それで考えれば、死者の歌はこう読める。
ロルカの詩は、ロシア革命と読もう。深いところから、革命家たちは死を恐れることなく、マラゲーニャで革命は成就する。
しかしローレライの誘惑が待っている。革命は自殺する。心して(ほら、ジダーノフとその同伴者が)。マダム、御覧なさい(とこちらを見る)、これがロシアだ。
同じアポリネールで、ラ・サンテ監獄にてが続く。解放されたはずが逆に檻の中。
同じアポリネールで、しかしバラバより100倍は悪いスルタンより100倍悪い皇帝(それはスターリン)にコサックたちは悪口を尽くす。
そして、デルヴィークで、圧制者の鞭にも関わらず、芸術は不滅だ、と続く。
で、詩人は沈黙のうちに死んだのか? いや、違う。すべてのものに死があり、死によりすべてが明らかになる。
大変な時代、大変な政治状況下で活動を続けた作家の反抗精神のたまものだろう。しかも、すばらしい作品だ。
日付として2009/3/11 24:05と2009/3/12 0:03を持つ2つのレコードがあった場合、該当カラムを指定してorder byすると24:05が過去(小さい日付)となり、しかも表示すると24:05となるような仕組みが欲しいな、と書いたところ、ronさんが、PostgreSQLでの解決方法を教えてくれていた。どうもありがとうございます。
なるほど、interval型は時間間隔だから24時間5分として、日付と同時に管理するということなのか。
Oracleにもあるなぁ。少なくとも、numberやcharで無理やり日付時刻を表現するよりも、このほうが良さそうだ。
なかなかartonが空かないので、一部のメールアドレスで使っているextendedなほうでドメインをとりました。
というわけで、arton.no-ip.infoは生きているし、svn.arton.no-ip.infoも使えますが、www.artonx.orgを主に使うようにします。
本棚整理シリーズで、股旅の次は捕り物帳。
どえらくおもしろかったが、こういうのがたとえばコナンとか金田一少年になったと考えれば、別段、なくなったからといっても大した話ではないな。
それはそれとして角田喜久雄の才能は図抜けていると思った。とくにいろはの左近シリーズの語りのうまさは飛びぬけている。
怪異雛人形は、途中で犯人がわかるけど、それを含めて巧妙な語り口。それよりも、鬼面三人組での人々の立場とそれによるところの行動やしゃべる内容の組み合わせの妙とか。推理ものの場合、当然、後で探偵が*という*から*が怪しいとにらんで、*によって確証と変わったってような能書きが最後に入るのだが、それを後から読み返してみた場合の描写力ってのがあるとして、いろはの左近の場合、種明かしと無関係にごく自然に描かれているのが妙味となっている。というか、左近という同心の作り方が魅力的というのがでかいのかも知れない。女形同心も良かった。もっとも、極初期作品という東照宮の鐘の陰惨な話はさすがに辛い(筋優先で遊びがなさすぎ)。
khoomiiのことで、沖縄のことは知らないけど、
こんなの。
(ここにyoutubeで探したkhoomiiする人が埋め込んであった)
というか、この人は誰だ?
で、確か、最初にホーミーを見たのって、ガロで松沢呉一が書いていたのだと思うのだが、相手の口蓋に息を吹き込む2人1組で演奏するので、ニラレバとか焼肉食ったやつとはやりたくないとか読んだ覚えがある。
が、今になって調べるとどれ見ても一人でやることになってるなぁ。
ちなみに、この「東洋の神秘」をネタに武器として西洋人が描いた誤解のたまものが以下の書物。
デューン砂の惑星 (1) (ハヤカワ文庫 SF (76))(フランク・ハーバート)
もちろん根拠はない。
というか、ホーミーってのは人体ハックだな。草原で羊を見はっている間は身動きとれないから、喉から口の間だけつかっていろいろハックしてみつけたんじゃないかな。いっぽうギリシャでは星を数えた。
Juggernautの@maccmanが愚痴っているので見てみた。
/*
* call-seq:
* IO.select(read_array
* [, write_array
* [, error_array
* [, timeout]]] ) => array or nil
*
* See
Kernel#select
.*/
確かに、ひどいかも。というか、Kernel#selectを見よって、それなんて自己言及?
#でもなぁ、selectはselectだしなぁ。
で、角田喜久雄を読み終わって、柴田錬三郎。
最初は虎徹を打った名匠の話。というか、虎徹が号なのかな。
もおもしろいが、三浦じゅりあんの数奇な生涯(っていうか、生涯たった2回で天国と地獄の両方を知るという発想がおもしろい)がなかなかの印象。
特に、最後のほうにおさめられている刀工から彫刻家経由で暴れまくる男の一生が文句抜きにおもしろい。
どうでもよいが、マゲものを読みまくっていると、そのうちドンキホーテのような精神状態になってくるので、そろそろ現代ものへ移行すべきか。
今は亡きWindows2000magazineに寄稿したActiveScriptRubyでHTAを使う記事(たぶん校正/編集前)を復元してみた。
HTA(消えている)
Windows Management Instrumentation
いま読み返すと古色蒼然たるおもむきがあるような。
(Rubyのプログラミングについても書いているので、String#[]の説明とかも入っている)
邪道編の続きといえなくもない内容だなぁ。
さらに、発掘していたら、Rubyを256倍使うための本の書評(というかアスキーの雑誌なのでパブリシティと言えなくもない)も出てきた。
これはこっちに復元する。
ASCIIのRubyを256倍使うための本の第2弾、第3弾が続けて出版されたので両方まとめて紹介しよう。
第2弾は、「Rubyを256倍使うための本 極道編 助田雅紀著 株式会社ASCII ISBN 4-7561-3687-7 1200円+税」。第1弾となった「Rubyを256倍使うための本邪道編」が、Ruby+Windows(COM)という意表を突いた組み合わせだったように、本書も、Ruby+XPという非常にオイシイ組み合わせの内容の本となっている。
XPと言うのは1999年にケント・ベックが上梓したいわゆる「変化を抱擁せよ」本(邦訳は「XPエクストリーム・プログラミング入門 ―ソフトウェア開発の究極の手法」ピアソン・エデュケーション ISBN: 4ー8947ー1275ーX)で示されたソフトウェア開発プロセスの方法論で、一言で書けば「ソフトウェアの開発に変更はつきものだから、どうすれば柔軟に(=ローコストに)変更に対応することが可能な開発を行うことができるか」にフォーカスしたものだ。XPについて興味があるかたは、http://member.nifty.ne.jp/masarl/article/xp-tutorial.html(助田さんの友人の石井勝さんによるXPとRubyUnitの解説)を参照してみると良いだろう。(2009年注:初出原稿のままとします)
XPエクストリーム・プログラミング入門―変化を受け入れる(ケント ベック)
本書は、そのXPで重視される項目のうち、「ユニットテスト」に焦点を絞ったものだ(もうひとつの重要な要素「リファクタリング」もカバーしている)。XPにはテスト中心主義的な側面があるため、テスト自体をフレームワーク化したツールを使用するのだが、筆者の助田さんは、Ruby用のテスティングフレームワークであるRubyUnitの作者だ(本誌の読者にはWin32OLEやRubyWinの作者としておなじみかも知れない)。
この本の良さは、Rubyという可読性の高いプログラミング言語を使用して(だから、仮にRuby自体に直接興味がなかったり、 Rubyそのものでプログラムをするつもりがなくても、多少のプログラミングの知識があれば読み通すことが可能だ)、きわめて具体的に、テスティングフレームワークを使用したソフトウェアの開発方法というものを見せてくれるところにある。
こういった本は、非常に珍しい。
言ってみれば、すごくモノがわかった先輩にマンツーマンで(XPではペアでプログラミングを行う原則だ)、プログラムの書き方、テストの仕方、どうすればテストを行いやすいプログラムが書けるか(=それは結局、バグが入りにくいという意味であり、他人に読みやすいという意味でもある)、プログラムのどういう部分にバグが入りやすいか、それをなくすにはどうしたら良いか、といったことをOJTしてもらう雰囲気と言えば、理解していただけるだろうか。だからと言って、別に新人向きというわけではない。XPという方法論そのものが公開されて2年に満たないわけだから、誰にとっても新鮮なのだ。
この内容が、256倍シリーズならではの噛み砕いた感じの読みやすさで1200円なのだから、衝撃的だ。ソフトウェア開発に関係する人間ならば、文句なく「買い」の一冊だ。
一方、第3弾は、「Rubyを256倍使うための本 無道編 青木峰郎著 株式会社ASCII ISBN 4-7561-3709-1 1200円+税」。
これが、また実に衝撃的な本だ。
筆者の青木さんは、Rubyのコミッターの1人で、netライブラリの作成などを手がけているが、ここで取り上げられているのは、青木さんが開発したRaccというRubyで作ったパーサジェネレータだ。パーサというのは、コンパイラ理論(このへんで逃げ出したくなるとは思うが、ちょっと待っていただきたい)の本で最初に字句解析、次に構文解析と来る、その構文解析を行うプログラムだ。つまり、この本はパーサを作るRaccというソフトウェアとRubyの組み合わせだ。
常識で考えれば、教科書以外で読む必要はないような内容だし、どう転んでも読み物的な要素が入る隙はなさそうだ。筆者も、正直なところそう思っていた。
ところがこれが、滅法おもしろいから驚きだ。主題がパーサジェネレータ、内容がパーサの作成、いやぁ、固い固い。ところが純粋に読み物として、圧倒的におもしろいのだ。この読んでいて目がくらくらするような不思議な感覚を、是非とも体験していただきたい。極道編が開発方法論の Ruby256XPなら、無道編はWindowsXPやOfficeXPの意味でのRuby256XPだ。
こういったジャンルで、こういった本が出てくるというその1点で、Rubyが標榜する「プログラミングを楽しくするプログラミング言語」というのが真実なんだな、と誰もが納得すること間違いなしだ。
2009年注:しかしアマゾンリンクまで貼ったこともあって、書き方といい、あまりに宣伝臭すぎて辟易するものがあるが、8年という歳月の長さというものがあるなぁ、と感慨もある。
子供と本屋に行って、自分のためにシグルイを手にしてレジへ向かい、しかし、ふと、自分ばかり買うのも気がとがめなくもなく、何か欲しいのあるか聞いてみた。
シグルイ 12 (チャンピオンREDコミックス)(山口 貴由)
すると、きみとぼくとか言い出した。知らねぇなぁ。
絵柄が気に行っているだの、おれも読めば気に入るだろうだの、まあ買ってくれなくても友達から借りてもいいんだけど、と、どうもおれにも読ませたいようなどうでもよいような。
でも、知らなければ知りたくなるものだ。世界は知であふれている。なんであれそこには参加はしてみたい。
で、いっしょに探してやるんだが、なんか以前このへんで見たとかいう平台はアダルティーなほうなんで、でも、双葉社ってことはないだろうから、スクエアエニックスとかだろうとあたりをつけて探しても見つからん。
変だなぁと、子供コーナーのほうも一応見てみると、サンデーコミックだのチャンピオンコミックだのの間に挟まっていた。手に取るとやっぱスクエアエニックスじゃんと思ったけど、ガンガンコミックとかなっているから、子供向け(といっても境があるんだかないんだか)なのか、と思ったが、確かに軽い絵柄で、表紙もきれいだから買ってみた。というか買ってやった。
君と僕。 (1) (ガンガンコミックス (0602))(堀田 きいち)
うーん、おれはそんなに好きじゃないっていうか、あまりおもしろくない(追記:巻を追うごとに慣れてきたのか結構気に入ってしまったわけだが)。
きれいな顔をした双子がいて、そのうち一人がバリアを張った態度をとっているもんで、幼馴染のメガネをかけた世話焼小僧(思わずきれいな府中野君とか言おうとして調布野君とか言ったら、すかさず、それはフッチーのことかとツッコミを受けたんで、同じような印象を持ってたようだ)がおせっかいにも部活でもやらそうといろいろな部を回ってと、だらだら話が進む。悪くはねぇけど、おれはシグルイのほうが好きだなぁ。
顔は同じ年頃だが背だけは高い先生が、「持ってる力とやりたいことは別だから」とかアドバイスしてくれたり。
で、無事、漫研に入る……なんじゃこりゃ。
っていうか、いつのまにやら、こういうのを楽しむようになったんだなぁと、そっちが興味深かったり。
ディスクが(予兆なしに)完全に停止するというあまり聞かない障害に見舞われた。
設定ファイルの類をバックアップしていなかったのは辛いものがあるが、ほとんどのコンテンツはそれなりにバックアップしていたので、ぼちぼち復旧させる予定。にしても、ディスクが予兆なしに停止(だましながら動かすことさえできない)するとは考えていなかったなぁ。
(livedoorReaderから復活させたけど、毎日、CD-RとかUSBメモリとかに上げるほうが良さそうだ)
入門書としては、ヒリスをまず読んで、パラダイムを頭の中に作ってから始めたらどうだろうか。問題の抽象化が見事だからだ。
思考する機械コンピュータ (サイエンス・マスターズ)(ダニエル ヒリス)
読んでから1年以上たったようだ。
君と僕。をだらだら6巻まで読んだ。
まったくいい時代だなぁ、というのが正直なところだ。
なんでも知っているが絵はへたなメガネ君と、自分も周りもハッピーにする子、シニカルだがそれなりに気を回す双子の兄とまったく気を回さない双子の弟の4人の高校2年生がだらだらとくだらないおしゃべりをしながら日常をすり減らしていくだけのマンガだが、笑わせてくれるところではばかみたく笑わせてくれるし(みんなでリレーマンガを書く回とか、英語の勉強するケアレスミスのエピソードとか)、ささやかな気分の移ろいを巧みに表現していたりするし。
途中で、チビっ子を登場させるが、初期設定の4人では話がうまく回せなかったのか、おばかですけべなドイツ人を5人目に登場させて、これがうまく噛み合っていたり。だいたい男の高校生なんていうのはおばかですけべか、なんでも知ったつもりになっているか、何も考えていないかのどれかだから、これで全部そろったことになる。
思うに、おれが読んできた範囲では、これが少年マンガだってのは、相当に、画期的な感じだ。
子供のころの学生ものと言えば、スポーツをしている何か異常な人たちがほとんどだった。その後巨人軍の星になる星くんとか。そもそもただの高校生なんてのが主人公ってこたないね(佐々木守の(高校生の)学生運動ものをサンデーで読んだ覚えはあるけど)。
で、そういう時代のあとに来るのが、愛と誠だ。確かにある種普通のスポーツをしない高校生だが、そりゃ違うだろう。
骨太の物語の時代である。というわけで「骨太」とか言い出すカスは信じないことにしている。
(と、考えると、実は750ライダーというくだらないマンガを早く終わらないかなぁと待ちわびながらチャンピオンを読んでいたのだが、あのマンガは実に画期的だったと、今になると理解できる。ありゃすげぇや)
で、80年代に入ると、女の子マンガには、軽やかな世界が生まれる(もちろん、それ以前にもセブンティーンに連載されていた西村祥子の学園ものとか、さらにさかのぼれば鈴木なんちゃらの青い山脈あたりを原案にしたやつとかあったかも知れないけど、で、そういうのは読んでいたりしたのだが、こういうのも物語があるので、ちょっと違うと思う……でも西村祥子の高校生ものとかって、わりといいせんを突いていたような気がする。とうに大ベテランの世代になって、高校生がトーキングヘッズのLPを貸し借りするようなセリフを吐くマンガを書いていたわけだから)。ただし発表の場は3流エロ劇画だけどな。たとえば岡崎京子とか桜沢エリカとか。ただ、岡崎京子は、そのうち、虚構の世界の作り方を知ったらしく、やたらとうまい世界に入って行ったわけだが(ときどき、軽いのも書いていたが)。桜沢エリカのほうは興味ないのでそれっきりだ。
(なんだこれはという衝撃のデビューの頃の作品。コミックセルフか何かに書いてたような記憶がある)
確か、それに対して、せこせこしたくだらない世界をこさえてどうしたとか、ミッキー森脇が劇画アリスでかみついていたような記憶もあるが、それでも、少年マンガが、読んでいて不快になってくるラブコメかさもなきゃ喧嘩上等の2極分化に比べれば、遥かにリアルだった。
もちろん、例外はあって、ガロだ。と言ってもリアルな高校生のマンガなんて杉作J太郎のワイルドターキーメン(卒業とかいう題の本を持っている)だけだったけど。
L.L.COOL J太郎―帰ってきたワイルドターキーメン (レジェンドコミックシリーズ (2))(杉作 J太郎)
ワイルドターキーメンには、ばかな高校生が出て来て、うだうだ馬鹿話をしているだけの日常が書かれていて、それはえらくおもしろかった。
マンガには物語が必要だと誰もが思っていたのだろう。
文学はちょっと違う。
おそらく最初に、うだうだした日常を、私小説の伝統(私小説は、たいてい、ものがわかった人間が眺めた風景を描くものがほとんどだ)から切り離して、表現したのは、庄司薫じゃないだろうか。
中学生くらいのころ、赤ずきんちゃんを読んでびっくりした。なんじゃこれは、というくらいの衝撃である。ブルーライトヨコハマを口ずさみながらだらだらと過ごしているだけなんだもん。これの何が小説なんだ? いや、これも小説なんだろう。物語や批評が表現には不要なことを初めて知ったのであった。もっとも主人公は、高校生じゃないね。
で、それをもう少しエンターテインメント分野で展開したのが小峰元だろう。もちろん、推理小説になっているから物語はあるわけだが。
これは正しく高校生の日常に展開する物語だったと思う。たぶん和田誠だと思うがやたらと軽い表紙のソフトカバーで図書館で次々と借りて読みまくった覚えがある。
マンガでもそういう日常というのが完全にないわけではなく、たとえばフジケンっていうマンガは喧嘩上等マンガではあるけれど、相当、現代的なマンガだった。
フジケン 1 (少年チャンピオン・コミックス)(小沢 としお)
(このアマゾン評がおもしろい。ベタボメの星1つというのは何かの勘違いか、喧嘩うっているのか、どっちなんだろう)
こういう、変なマンガが載るところがチャンピオンの良いところだ。
問題は、ばっちいことだ。絵柄が。
で、それからさらに時は過ぎ、今では君と僕。(っていうか、。がついているところからして高校生マンガっぽい)みたいなマンガがそれなりに売れているようで、良かったね、と続く。
でもそれって、読者層が広がったというよりも、それまでのマンガのコア(喧嘩上等ものとか)の読者層が、マンガから離れたということかも知れないわけで、マスから本来こぼれ落ちている層からも手堅く金を吸い上げる仕組みといえばそれまでのような(というか、そもそも発表誌が3大メジャー+1誌じゃないし)。
たまに間違ってLinuxでdocxとかpptxみたいなファイルを開くと、結構、うまくOpenOfficeが処理してくれてびっくりする。
こうなると、Office Xはあまり必要ない気がしてくるな(MSDNにも入ってないし)。
おーひげがながいのね、そーよ、かーさんも、ながいのよー。
さて、古い本整理シリーズも残り時間が短くなったのに、読むのに4日かかったのが、柴田錬三郎の赤い影法師だ。
途中、なぜおれはこんなもんを読んでいるのかという疑念に苛まされたりもしたが、まあ、確かに傑作伝奇小説の名に恥じぬ傑作ではあった。
冒頭がいかしている。
――お?
檜の密林の中を、一上一下する杣道を辿って来て、急に明るい陽ざしの中へ出た服部半蔵は、不審の眼眸を、あたりに配った。
まず、密林が檜だという点。次に杣道(そまみち)を辿る(たどる)の山重ね、眼眸という言葉の美しさ。どうでもよいがIMEの辞書にはないけど、がんぼうと読む。ふしんのがんぼうで、脚韻となす。一上一下もIMEの辞書にはないがいちじょういちげ、杣道は登録されているけど。
というぐあいに、服部半蔵の木曾の山中への旅に始まる。目指すは影の一族が潜む隠れ里だ。先年、服部半蔵は主君石田三成の首を盗んで捕まった忍者「影」を救ったことで、その助力を願える立場となった。かくして、夏の陣を控えたここ一番の大勝負にその秘術の助けを乞うために木曾までやってきたのであった。ところが、影はすでにして老境に入り、立ち居すらままならぬありさま。しかし、影には殺生関白比叡入りの夜、奪いし白拍子との間に秘蔵の子供あり。
半蔵の、影の子供との共闘と別離、江戸幕府の成立、寛永の御前試合と話は進み、家光の前で繰り広げられる兵法家同志の死闘とその裏で暗躍する影とその子(三成の家来の影の孫にして、服部半蔵の息子)、孤高の戦いを強いられる老境にさしかかった服部半蔵、一流を守るにきゅうきゅうたる柳生宗矩、その座を襲わんとする小野一刀流の忠常、幕府公認のもと武蔵野に5万石の隠居を構える真田幸村、その従者猿飛、悲運の武将荒木村重(秀吉の罠にはまって信長に攻められることになり滅亡)の孫娘と生き残った枯淡の境地の老剣士鴨甚三郎、いろいろ便利な役回りで大活躍の春日局、薩摩に潜む豊臣秀頼、突如出てくる由比正雪、と登場人物は多士済済、あちらで血煙、こちらで血しぶき、男は斬られ、女は犯られ、最後は井の頭の森の中で、公儀1000人対真田150人の大血戦の火蓋が切られる物語。
出てくる人物は、柴田錬三郎らしく、どれもこれも血も涙もない人非人ばかり。唯一、服部半蔵がわが子を想う突然のおやじ心が痛々しい(鴨甚三郎もすごくいい味を出しているが、どうも、老人がやたらと良い役を与えられているのはおもしろい)上に、最後は突如の無理心中いかばかりか。
でも、おれが一番好きなのは、宮本武蔵に鍛えられたおかげで人格を喪失してしまい、ただただ前進しては荒木又衛門に斬られる喪神の美剣士(しかしまったく魅力というものが欠如した)宮本伊織の恐るべき戦いっぷりだけど。
言葉は精緻、文章は練達、物語は無碍、でもまあ過去の遺物ではあるな。
書影を張るためアマゾンを見たら続編もあるなぁ。
過去の遺物とは言え、本物は良い物だし、たぶん、そのうち読む。
Excel2003をインストールしてあるマシンは画面が小さいので、Excel2007が入っている開発機で、xls用(2003互換ということ)のマクロを作り、さて配ったら、いきなり動かないという声が。
はて? とExcel2003で試すと確かにエラーになる。このメソッドはWordなんとか用ですとか出てくる。
具体的には、シート上に図形がたくさん張り付けてあって、個々の図形(主にRectangleだが)には小さなRectangleとTextBoxと複数のLineが接続されていてそれがグループ化されている。で、おれがやりたいのは、各グループのTextBox内のテキストの更新だった。
For Each s in ActiveSheet.Shapes If InStr(s.Name, "Group") > 0 Then s.textEffect.Text = Left(s.TextEffect.Text, 4) ' とかなんとか End If Next
というような感じで、Excel2007では100個近くの四角の中のテキストが変更できる。
が、どうやら、TextEffectを持つTextBoxにGroupのShapeがデリゲートするような気の利いたオブジェクトモデルはExcel2007からの提供らしい。
しばし、MSDNを眺めて、次のように書き換えた。
For Each s in ActiveSheet.Shapes If InStr(s.Name, "Group") > 0 Then s.TextFrame.Characters.Text = Left(s.TextFrame.Characters., 4) ' とかなんとか End If Next
が、あえなく撃沈。上のコードではsは、Groupだが、GroupはとにかくText Boxではないということが良くわかった。わかったが、ではどうしろと。
たぶん、Shape#GroupItemsから列挙してTextBoxを探してやれば良いのだろうとは思ったが、面倒になったので、Excel2007専用にした。
で、動的にメソッドを追加できるオブジェクトモデルであれば、コンポジションの内側に勝手にデリゲートしてやるように作るべきだよなぁとつくづく思った。
というわけで、Excel2007はうまくできていると結論。
kanegonさんが報告してくれたバグ対応なんだけど、GRScriptもソースが同じため、実は同じバグを持っていた(けど、機能的な変更がなかったからリリースしなかったのでOKだった)ので、一緒に更新。
それにしても、いきなり死ぬので皆目見当がつかなかった。ソースレベルデバッガの威力は絶大ですなぁとつくづく感じたりして。
「煙草をお吸いの方は受付へお申し出ください」と書いてあったので、受付へいった。
そうしたら、身の丈2メートルはありそうな、坊主あたまのスカーフェイスが、指の関節をポキポキ鳴らしながら出てきた。
なんというステロタイプ。
「煙草が吸いたいって口はこの口か?」
それからしばらくして、受付へ向かった男は、煙草を吸う必要がなくなっていた。良かったね。
イーストウッドのチェンジリングを観に歌舞伎町。
最近、イーストウッドはまったく観ていなかった(最後はスペースカウボーイか、ヨットの大将のかどっちかだ)のだが、観れば相変わらず良い作家で、いろいろ見逃してきたのが悔やまれる。
すげぇ作品だった。もっともイーストウッドの映画はどれもすげぇが。
最初、ゆるいジャージーな音楽、あああああ映画が始まる映画だよ、と思わずどきどきするようなクレーン撮影(もっともCGかも知れないが、少なくとも、その文体はクレーン撮影)で町の風景が映る。
ときどき妙な歪みがあって、バスから子供を学校へ送り出し、それから戻って来ることろでは、椅子のところのカメラがバスの出口まで付いていって、そこまで主人公を追っているのだが、そこから一足先に席へ戻り、学校の門へ向かう子供たちだけを(ディープフォーカスではなく)バスの窓ガラス越しにロングで撮り続け、そこへ主人公が戻り、席へ着く。したがって、学校へ吸い込まれるところ(しかしディープフォーカスではないため、主人公の子供がどれかはわからない)だけが妙に強調される。だから、ある程度筋を知っているおれは、ここでそれが子供を見た最後になるのかと思った。だが違った。
この印象的な学校は、最後の数シーン前に再度登場する。
連れてこられた子供の薄気味悪い笑顔。これは一体なんなのかという恐怖感(というよりも単なる違和感の表現なんだろうけど)。この表情による文体は、警部の描き方にも共通している。
農場で共犯者の子供を捕まえるまでの表現。すべての刃物を(ほとんどモノクロで)確実にフレームに収め、突然の鶏による物音、扉を開けるたびに何かが起きそうな緊迫感の強調。典型的なホラー映画の撮り方。実におっかない。
精神病院の描写。最初のショック病棟のようないろいろな患者の(割とステロタイプな)描写(声)。同室の女性の繰り返す言葉。主人公がどんどんやつれていく描写とか。
共犯の子供が、他の子供が振り回す物差しが立てる物音によってフラッシュバックするのは、イーストウッドの得意な文体。ゴーストライダーとかペイルライダーとか。何かよからぬことが起きたのだが、そのものずばりは描かない。バードのシンバルのフラッシュバックというのもあったな。
最後は、ほのかな救いで終わる。まったく救いはないのに何か救われたような気分にさせるラストというのはイーストウッドの傑作に共通する作劇手法(たとえばペイルライダーの最後や、結局単に死んだだけなのだがそれが救いでもあるライプスタッフとか)。
音楽はイーストウッド自身。
もう、安定した技術を自由に組み合わせてすごい作品を作れる大作家になったということだな。
映画的な肝は、取り換えっ子が実に不気味で似ても似つかないことにあるようだ。
実際には、歯医者や教師の証言なしには成立できないほど、似ていることが暗示されている。主人公でさえ違和感を覚えながら、風呂に入れるまでは半信半疑だったし、ご近所さんはすっかり息子そのものだと認識しているようだ。
したがって、もし、イーストウッドが息子と取り換えっ子を1人2役で撮っていたら、別のホラーにもできたわけだ。誘拐のショックで異常を来し、やっと戻ってきた我が子を認識できなくなったとしか考えられない行動を取る女性、というロサンジェルス警察のストーリーに沿った展開だ。
その場合、2種類の撮り方を組み合わせて、異常なのは女性(と後ろに控える長老派)なのか子供(と後ろに控える警察)なのか。
でも、あえて、不気味でこれっぽちも似ていない子供を使っているということは、イーストウッドの狙いはカフカの審判のような、異常な官僚組織(警察だってそうだ)に翻弄される個人の戦いという構図のほうなのだろう。そこが本当のホラーということになるコード12。
日本ではキリシタンと戦前の共産主義者くらいしか、面従腹背せずに主張を固く守って死ぬまで頑張るというのはあまり知らない。仁義礼智忠信孝悌の順なのだから、個人の信条より仁とか義のほうが重要で、したがって、この女性の立場であれば、すでにして仁にも義にも反している法を守る必要はなく、さっさと誓約書にサインして出て来てから、文句を垂れてもまったくOKだ(中国もそうだったのだろう。王であっても仁や義にもとる行為があれば、弑君も許されないわけではなく)。でも、誓約が重ければ、それはできない。もっとも、ルネサンスのイタリアでは、ガリレオはわたしは間違ってました、とさっさと頭を下げて、それでも地球は回っていたというのはあるわけだし、それが通用していたようだ(半拘束状態にされたとはいえ)。どのあたりから、サインの重みがああまで強くなったんだろうか。
私を月へ連れてってが流れれば、スペースカウボーイか竹宮恵子をいやでも想起するし、カウボーイと出てくればビーバップだし、竹宮恵子なら地球へだなぁ。
なんか、すごくできが良い映画のようだ。
いきなりグランドキャニオンみたいなところをオープンカーが断崖めざして速度を上げて、おや、50年代の映画でもないのに、なんでたったひとりのチキンレースと思って観ていると、車を急停止しても止まり切らないもんで、運転手は外へ飛び出すが、加速度がついているため、そのまま前方に転がって崖から落ちるが、かろうじて端に手をかける。っていうか子供。
そこに警官らしきやつがやってきて救いの手を差し伸べる。で、その手の持ち主の全身をカメラが振り返って映すと何やら金属製のロボットのような、と、突然SFになり、救われた子供が名前を訊かれて「ジェームズ・カーク」と答える。
カーク?
WHERE'S CAPTAIN KIRK ~ THE VERY BEST OF(SPIZZ)
というわけで、その名前を知らなければまったくなんの映画か見当もつかない始まりをする予告編(もっとも、その後、えらくきれいなロケットが飛び交うシーンが入って、スタートレックとクレジットが入る)。
確かにファイナルフロンティアを旅する船の船長っぽい少年時代かも知れないなぁとは思った。
というか、おれがまた聴きたいのはモノクロームセットのWhere's Captain Kirk ? なんだが、ラフトレード時代のシングルも収録していると書いているのに、カーク船長はどこ? が入ってないのが気に食わないから買わないけど、なんで入ってないんだ?
The Independent Singles Collection(Monochrome Set)
と思ったら、どうも声が違うように感じてはいたけど(ラフトレードからヴァージンになったときに歌い方を変えたんだと思ってた)、おれはモノクロームセットとばかり思っていたら、スピッツの歌だったのか。はじめて知った。The monochrome set
そこらかしこで次の本の書影を見る。
よく見ると、Hot, Flat, and Crowdedと書いてあるから、本当は副題になっている『温暖化、フラット化、人口過密化する世界』が題なのかも知れないけれど。
でも、グリーンと革命という言葉から想起するのは、アメリカではなく、砂漠とオアシスだし、直接民主主義なのだ。もう、元の言葉の印象は砂漠を吹き抜ける風の前に散って消えてしまったんだろうか。砂漠はすべてを浄化するというし。
まあ、紳士のたしなみとして。
HELLSING 10 (ヤングキングコミックス)(平野 耕太)
今回、はじめて本当の表紙に爆笑したのは元ネタがストレートにわかるからだろうというか、笑いながら少し寂しくなるものもあったのであった。
ジェズイットを見習え |
_ yojik [Doug LeaのFutureパターンと動機と実装がほぼ同じ感じですね。]
_ arton [詳細を隠す(IOUの第2の目的)という意味では似ている(実装含め)と思いますが、IOUの第1の目的は、非同期IOを同..]